第十九話 妖しき月が輝く場にて/少年兵のターン
廃坑を出てから数刻が経過していた。窓の向こうは既に静まり返っていて、不気味なくらいに何の音もしない。
月明かりだけが部屋を照らす中、俺は詰め所の自分の部屋で、明かりも付けずにベッドに転がっていた。
ハミルを見捨てた。アニーは殺された。
隊長とエミリアは取り押さえられ、牢屋にブチ込まれてしまった。
そして、シャーランは、姐さんは、何処かに連れて行かれてしまった。
「――だってのに、俺だけ釈放かよ……」
全員が発言を許されない馬車の中で、俺の身体を検査していた魔法使いはこう言っていた。
「どうやら、君は本物のようだな。隊員の証明書もあるし、魔力も感じない」
俺がみんな本物だ、と声高に叫んでも、連中は生ぬるい同情の目で俺の事を見て、
「君は騙されていたんだ。本物がここに居る訳がないんだよ」
一切俺の話を信じようとも確かめようともしない。
しまいには興奮による錯乱状態と診断されて睡眠系の魔法を掛けられ、意識が戻った時には一枚の書類と一緒にこの詰所で眠っていた。
『三日以内に他の部隊へ転属命令が下される。それまで待機しているように』
なんて書かれた書類を引き千切り、俺はその場に拳を打ち付けずにはいられなかった。
ご丁寧に、外には兵士が立っていて容易に出られないようになっている。兵士側からすれば、魔物に惑わされた人間を、再び魔物の下に行かせない為の、いわば善意なんだろうが、クソも必要ないどころか迷惑でしかない。
――俺が姐さんだったら、アイツら蹴散らして隊長たちを助けに行くんだろうけどな。
試す勇気のない臆病な俺は、誰も居ない詰め所で大人しくしている事しかできなかった。
隊長は今、どんな気持ちだろうか。明らかに冤罪を掛けられ、呆然自失となっているのではないだろうか。
エミリアは俺の事を憎んでいないだろうか。一人だけ助かった事を、恨まれていないだろうか。
姐さんは、無事だろうか。
気持ちが沈んで眠れない。そう思っていたが、廃坑内での精神的疲労は予想を遥かに上回っていて、一度目を閉じただけで意識を夢の世界へ引きずり込んでいってしまった。
・・・
姐さんが、降り注ぐ竜の血液からエミリアを庇った時、俺はその様を目の当たりにしていた。
全身血まみれで、両手のあちこちから白い骨が皮を破って突き出していた。 おまけに、ドラゴンのありえないくらいに太い尾を蹴り上げた所為で足が千切れかけ、皮一枚で繋がっているっていう、重症通り越して死んでいなければおかしいような傷を負っていてなお、あの人はエミリアの所にまで跳んだ。
数時間前まで目も合わせなかったような二人が、どんな会話をして共に肩を並べて戦う仲間になったのか、それは折れには分からない。けれど、姐さんは確かに、仲間を守る為に己の身を犠牲にしたんだ。
その時の彼女の顔は、
――……笑っていた、よな。
アニーが見た、っていう凶暴な笑みではなく、俺が見た意地悪な笑みでもない。動く腕があれば、胸をなで下ろしていたであろう、安堵の笑みだった。
仲間の危険を救う事が出来たからだろうか。それとも、他に理由があったからだろうか。
だが、
――それで死んじまったら、意味ないじゃねぇかよ……。
俺の勝手な願いから言わせてもらえば、姐さんには死んで欲しくなかった。 この事を本人に言えば、勝手に殺すなと怒られるだろうが、この気持ちは嘘偽りない真実だった。
最初に会った時はあんなに、嫌な奴だと思っていたのに、今では彼女が近くに居ない事が酷く寂しく感じる。
暴力的で人の話を聞かなくて、でも俺を俺個人として、レイブン・ケスキトロとして扱ってくれる、カッコいい人。そんな彼女に、俺はこの三日間で魅せられてしまっていたんだ。
今、こうしている間にも彼女は苦しんでいるだろう。いや、もう死んでしまっているかもしれない。
――……っ。
助けに行きたい。けれど、行けない。行こうと足を前に踏み出せない。
まるで、数日前の、彼女と出会う前の臆病な自分に戻ってしまったようだった。
――姐さんが居ないと、何も出来ないのかよ……。
結局は彼女に導いてもらわなければ、進む事すらままならない。
誰も俺とは向き合ってくれない、って勝手に決めつけて、勝手に人と付き合う事が怖くなって、何を言われても聞こえない振りをしていた時から何も変わっていない。
自分から向き合おうとする努力もしていないのに、勝手にそう思い込んでいた時と、何も変わっちゃいない。
そんな自分を嘲笑し、続けてこう言った。
――姐さんは、俺なんか気にも留めてないってのによ……。
廃坑から脱出する際、エミリアが言っていた言葉を思い返す。
『約束したじゃないですか! 帰ったら、二人、貴女と私で、一緒に伝えに行くって!』
続けて彼女は、告白とか失恋とかって単語を並べていた。これはつまり、姐さんは誰かに恋心を抱いていた、という事になる。それも、告白しに行こうとするほど、想っていた。
アルカトラに来てまだ三日だというのに、と思う。しかし、この世の中には一目惚れと言う、都合のいい現象が起こるのだ。三日でそういう気持ちになるのはおかしな事ではない。
俺にとっての問題は、姐さんが誰に対して想いを抱えているか、という事だ。
まずヒントになるのは、あの生真面目で堅物で融通の利かないエミリアもその人物に好意を抱いているという事だ。でなければ二人で一緒に、なんて絶対に言わないだろう。つまり、エミリアの好きな人が分かればおのずと答えが出る。
――そんなの、考えるまでもねぇよな。
俺が配属された頃からずっと、何かと危なっかしいアイツを見守っていた男が居る。
エミリアも無意識下でそいつの事を好いていたのか、始終ベッタリくっついていた事を憶えている。
その男の名は、
――……エリアス・ニスカヴァーラ。
俺もよく知る、俺たちの隊長。
寡黙で責任感があって、精神力も身体も強い。
尖ってた頃の俺にもそれとなく接してくれて、お人よしな男だっていうのは知っていた。その頃の俺には、隊長の優しさを正面から受け取れなくて、ひたすらに拒絶していたが、冷静になった今ならわかる。
あの人なら、エミリアから好かれて当然だ。
そして、姐さんもまた同様。何て言ったって、普段は飄々として何を考えてるか分からない姐さんが、あの人に怒られてる時は大人しくなり、褒められると良い顔で喜ぶのだ。これで懐いていないなんて、ありえない。
隊長ならばきっとどちらを選んでも、どちらに対してもいい結果を出せるだろう。俺なんかと違って。
だから、悔しくなんかない。悔しくなんか、ない。
筈なのに。
・・・
湿った感触に目を覚ますと、枕が濡れている事に気が付いた。
「あ、あれ? 何だよ、これ」
涎かと思ったが、口元にその跡はない。その代わりに、触れた頬を伝う涙の存在に気付いた。
「俺、泣いてたのか?」
何故泣いていたのか、分からない。16にもなった男がどうして夢の内容で一人泣きしているのか。
――姐さんが隊長の事を好いてるのが気に入らねぇのか?
こちらの一方的な片思いなのに、何を情けない事を考えているのか。そうじゃないだろ、と自分に言い聞かせる。
現に、俺はその事を悔しがっていた訳じゃない。
ならば何故。
「――原因は、俺かよ」
泣いていたのは、情けなかったからだ。
勝手に好きになった相手に想いも告げられず、勝手に諦めて、勝手にその人を他人に任せる。
そんなの、腰抜けもいい所じゃないか。そんな惨めな自分を、俺は嗤った。
また、涙が溢れ出た。
――悲しんでどうすんだよ。俺にはどうしようもないだろう?
あの強い彼女と、肩を並べられないくらいに弱い。
あの優しい彼女と、釣り合わないくらいに身勝手。
あの美しい彼女を、手に入れられないくらいに臆病。
重なっていく自己嫌悪の前に、俺はついに崩れ落ちてしまった。
いつまでもウジウジ考えすぎて、好きな人のように、思っても思うだけで身体は動かない。
これだけ自分の事を嫌っているのに、まだ好きな人をこの手に抱きたいと思う自分が、本当に救いようがない。
「助けて、くれ」
いつしか、俺は誰に向けるのでもなく呟いていた。
「助けてくれよ。……姐さん」
「なーにー?」
すぐ側から、ある筈のない声が聞こえた。
・・・
「…………は?」
今、誰かの声が聞こえたような気がした。
慌てて周囲を見回し、部屋の中には誰も居ない事を確認した。
空耳か、と思い、顔を元の位置に戻すと、
「ちょっとー、無視はないでしょ、無視はさー。泣いちゃうよ? 泣きながら殴っちゃうよ?」
「!?」
確かに聞こえた。それも、聞き慣れた声が。
今度はしっかり確認しようと、身体を起こし、ベッドから跳ね起きた。
だが、部屋の中には変わらず誰も居ない。
「こっちよ、こっちー」
「は? ――な、な、な……っ!?」
声に導かれ振り返ると、そこには、
「あ、あ、あ、姐さんっ!?」
先ほどまで思い描いていた、意中の人が窓の淵に座り込んでいた。
「いやー、あっちじゃ寝れなくってさ。抜け出してきちゃった」
「な、何でここに!? アンタ重症だったはずだろ!?」
先ほども言ったが、彼女は窓ではなく死の淵に立っている筈なのだ。立って歩ける訳がない。そもそも意識があるかどうかすら怪しいのだ。
それなのに、身体のあちこちに包帯を巻いているだけで、彼女はピンピンしている。無理をしている様子もない。
「――はぁ。あのねー、ドラゴンと戦う前に言ったじゃないの」
肩をすくめて、馬鹿にしたような態度で、
「私はそう簡単に死にはしない、ってね。まあ、ちょっと危なかったけど、もうどーって事ないわー」
立ち上がり、身体を動かして見せている彼女を見て、唖然としていた。
一瞬、彼女の偽物がここにいるんじゃないか、と思った。しかし、この態度は間違いなく彼女の物だし、あの場に居なければこの言葉は言えないから偽物でもない。
つまり、本物だ。
「――本当に、姐さん、なのか?」
姐さんは、シャーランは、確かに目の前にいるのだ。
「はいはいアンタの姉ちゃんよー。って、何を泣いてんのよアンタ」
俺の知っている顔が、平気な顔をして俺の目の前にあった。その事が、今はただ嬉しい。
だけど、違う。
「……何で、何で! 俺のトコに来てるんだよ! アンタは、アンタは――」
「てりゃ」
「おごっ!?」
重く鋭い手刀が、俺の脳天に叩き込まれた。
「いきなりうるさいわねー。まずは落ち着きなさいよ」
「落ち着かせるのに殴るか普通!?」
「何よー。もう一発貰いたいの?」
手刀を構えたので、全力で首を横に振る。
「――落ち着いた? で、私が、何だって?」
顔を近づけられ、彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。俺にゴマを摺りに来たような、香水ばっかり付けている臭い女とは違って、石鹸の香りや料理の時に付いた香りなど、自然で嫌じゃない、包み込んで来るような匂い。
そして、この匂いが好きな人の物だ、と思うだけで、自然と胸の鼓動が早まっていくのが分かる。
でも、これは俺の物では、ない。
「こ」
「こ?」
「こ、こく、告白、す、するんじゃ、……なかった、のかよ」
問いを投げ掛けたはいいが、返答は予想できていた。
ここに来たのは、自分が生きていて、隊長たちを助けに行くのを手伝え、と言いに来ただけなのだろう。だから、この問いには何の意味もない。それでも聞かずにはいられなかったのは、俺がまだ自分という人間を理解しきれていなかったからだろうか。
「はぁ? 告白? 何言ってるのよアンタ」
「へ?」
驚く事に、返答は見当違いのものだった。
「だ、だってエミリアが言ってたじゃねぇか! 『二人で一緒に告白しに行く』って!」
「え? ……あー、私が気絶してる最中に言っちゃったのか、あの子」
もー、とここに居ないエミリアに対して頬を膨らませて、
「まあ、確かに一緒に告白はするよ? 前から気になってたし」
「――そう、だよな」
その答えに、みっともなく願っていた最後の希望が打ち砕かれた。
むしろ清々しい気分だ。今なら何も恐れる事はない。次にシャーランが隊長救出をする、と言いだしても喜んで着いていけそうだった。
だから俺は、彼女の言葉を待った。
だが、何やら様子が変で、
「こんな状況だしなー……。でもエミリア居ないし……。いや、牢屋でもう……」
腕組みをして、眉をひそめて何やら悩んでいる様子だった。
「姐さん? 悩まなくていいぜ、俺ならいつでも準備出来てる」
あら、と少し驚いてから、考えが纏まったらしく顔が上がった。
「まあ、しょうがないか。悠長に待ってられないよね」
なぜなら、
「私の告白する相手が、今にも目の前で首吊りそうなくらいにヤケクソになってるんだし」
・・・
そうだよな。せっかく告白するってのに、目の前で死なれちゃ困るよな。うん。
「……あれ?」
10秒たっぷり考えて、何かおかしい事に気が付いた。
「なあ姐さん」
「んー?」
「そいつって、今そんなにヤケクソになってるのか?」
「そうねー。私から見ればそんな感じよ?」
4秒ゆっくり考えて、明らかにおかしい事に気が付いた。
「それってつまり、エリアス隊長が鎖を引き千切って大暴――」
「とりゃ」
「れごっ!?」
さっきの手刀よりも強力な一撃が脳天に叩き付けられた。
「何でそこでタイチョーの名前が出てくるのよ。私は『今にも目の前で』って言ったわよ?」
不機嫌そうな、いや、事実不機嫌なのだろう。早く気づけ、と言いたげな顔をしている。
でも、それはある筈がなくて、期待しちゃいけない訳で、
「あー、もう。もうちょっと童貞っぽく思い込み激しくていいんじゃないの?」
「どどど、どっ!?」
彼女の口からそんな単語が出て来るなんて想像もしていなかった俺は、戸惑いを隠せず慌てふためいた。
――まあ、姐さんなら顔を真っ赤にして言うより一切恥じらいなく堂々と言い切りそうだよな。
そんな事を現実逃避代わりに考えていると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、顔を左右から抑え込まれ、
「――女に最後まで言わせるのは、ダメな男の証よ?」
吐息が掛かるほどの距離にまで、顔を近づけてきたのだ。
あんなに滅茶苦茶に戦っているにもかかわらず彼女の肌には触れて分かるような傷はなく、触れられている手には余計な筋肉が全く付いていない。思わず頬ずりしたくなるような、何時までも撫でられていたいような、優しく綺麗な手だった。
信じられなかった。
彼女は俺の事を、弟分程度にしか見ていないと思っていた。
そんな彼女が、今ここに居て、俺の目の前で、俺の言葉を待っている。
これは夢の続きだろうか。そう思わなければならないくらいに、心臓が人生で最も速く動いていた。
「――な、何で」
「ん?」
「何で、俺なんだ?」
故に、聞かずにはいられなかった。
下手な同情や情けなんかでこうなったとすれば、こちらがかえって惨めになるのだから、止めて欲しい。
もう既に隊長に告白した後で、撃沈して仕方なく俺の所に来たならば、その頬を張り倒す。失望した、という言葉を吐き捨ててやるつもりだった。
しかし、彼女の答えはどれでもなかった。
「そこん所私にも分かんないんだよねー」
「……はぁ!?」
「そ。何でアンタを好きになったかなんて、わかんない」
でもさ、
「好きになる事に、理由なんて必要?」
彼女の言う通り、必ずしも必要という訳ではない。世の中には理屈で語れない事があまりにも多すぎるのだから。
だが、俺は知りたかったんだ。彼女は俺の何処に惚れて、こうしてここに来てくれたのかを。
「私はアンタの事、好きだよ? 弟が出来たみたいで楽しいし。これが理由、かな?」
「――」
弟のような存在。そう、言った。
年の近い親戚は居るが、俺には血を分けた兄弟は一人も居ない。そして、もし居たとしても、全幅の信頼を置ける存在は今まで一人も居なかった。
だからこそ、俺はこの人のように、ひとりよがりの俺のケツを蹴り飛ばして、道を示してくれる存在に憧れたのだ。弟気分なのは俺だけかと思っていたが、どうやら、彼女もまたそう思っていてくれたらしい。昨日までの俺ならば、それだけで満足していた事だろう。
だが今は、それだけじゃない。
俺の中で何か、どす黒い感情が俺に囁いてくるのだ。
――つまり、俺はこの人の弟にしかなれないのか。
彼女が俺に好意を持ってくれているのは分かった。だけど、彼女が言った言葉は、いつまでも俺を下に見ているという事に他ならない。
――俺は、それでいいのか?
今はまだ足りなくても、いつかは認められたい。努力を重ねて、この女性と同じ立場に立ちたい。
姉と弟ではない。俺は姐さんと、いや、シャーランと、男と女の関係になりたい。
「――姐さん」
「何――、わっ!?」
もっともっと、強い関係になりたい。
――夫と妻?
いや、それでもまだ足りない。もっと先がある筈だ。
気が付けば俺は、彼女の手を取って、そのままベッドに押し倒していた。
突然の事で驚いているのか、力で跳ね飛ばす事も出来る筈の彼女は硬直し、動かなかった。
「ちょ、ちょっとー。いきなり押し倒すなんて勝手が過ぎるわよー? 弟の癖にー」
彼女にはそのつもりがなくても、俺にとってそれは挑発と取れる言葉だった。
頭に血が上った俺は、
「勝手はどっちだよ!? 勝手に俺に優しくして、勝手に振る舞って! しかも俺の事も考えずに勝手に姉面しやがって!」
シャーランの腕を押さえつける体勢になって、叫んでいた。
「確かにアンタの弟で居る事を望んだのは俺だよ! だけど、いつまでも弟のままってのも嫌なんだよ!」
彼女の強さに憧れたから、手に入れたくなった。対等な立場になって、恋人になって。
だけど、この胸に渦巻く欲望は、そんな程度では収まらなかった。
この腕の中に居る人を、奪いたい。心も身体も、全て俺色に染め上げてしまいたい。
「アンタは俺を俺として見てくれた! 腐ってた俺を、生意気なガキに戻らせてくれた! でも、どうしたらアンタは俺を男として見てくれるんだ!?」
だから言おう。この一言を。
「俺はアンタが好きなんだよ! 我慢できなくなって泣いちまうほど、アンタが欲しくて堪らないんだよ! アンタと一緒に、男と女になりたくて仕方ねぇんだよ!」
腹の底から吐き出すように、沈んでいた想いを全てぶちまけた。
俺の精一杯を、告白代わりにぶつけてやった。
「それでも俺を男として見られない、って言うんだったら、俺はアンタを――」
アンタを、どうするんだろうか。
その先の言葉が、思いつかなかった。
「アン、タを……」
ここまで来て、俺は何を迷っているのか。
――嫌われや、しねぇよな?
これだけ言って、今更何を恐れてるのか。
情けない。相手の気持ちが気になって、思った言葉を出し切れないなんて、幻滅されてもおかしくはない。
その時、眼下のシャーランがくすり、と笑った。
「アンタを、俺の物にする。かな?」
「――」
顔が真っ赤に染まるのが分かる。彼女が意地悪そうな笑みを浮かべているのを見て、さらに自分が恥ずかしくなる。
「まったくもう。最後の一言まで言えたら100点満点だったけど、まだまだヒヨッコねー」
「し、仕方ねぇだろ!? こんな気持ちになったの、初めてなんだからよ……」
そんな俺の態度に対し、明るく笑ってから、
「ゴメンゴメーン、気悪くしないでよー。初めてにしてはさ、その、――ドキッとしちゃうくらい、カッコよかったから」
頬を紅色に染めて、半目で目尻を下げた、蠱惑な笑みを浮かべた。
その表情は俺の心を直球で撃ち抜き、先ほどから限界を伝えてきていた心臓が、限界を通り越して爆発してしまいそうになってしまう。
「じゃーさ、挽回のチャンスをあげよっか。これで、これからのアンタへの扱い方を考えてあげる」
「え、――ちょっ!?」
言うが先か、彼女は足の指だけで俺の服の留め紐をほどき、一瞬にして半裸にしてしまった。
夜のひんやりした空気が股間の肉棒に触れ、ただでさえ興奮状態だというのに、余計にその欲望を大きくさせる。
「おおぅ、もう臨戦態勢じゃないの」
「あぐっ!?」
服を脱がされて気が逸れたからか、掴んでいたはずの右腕がそこにはなく、代わりに俺の滾った性欲を表す怒張に触れていた。先ほど俺の顔に触れた時から滑らかとは思っていたが、その手が、男を知らない女の指使いとは思えないくらいの技巧を持って蠢き、僅か数秒の間に何度も射精する寸前にまで追い込まれた。
「ま、待てよ! アンタ、初めてだよな!?」
先に聞くべきは、突然何をするんだ、という事なのに、あまりの上手さにその疑問は掻き消えていた。
「もちろんよ? 上手く感じるのは、アンタが早いってだけじゃないのー?」
ニヤニヤとした意地の悪い笑みを見せられ、それが琴線に触れた事を感じ取った。
「そ、そう簡単にイってたまるモンかよ!」
歯を食いしばって、ひたすらに耐える。
「童貞が何を言ってるのよー、まったく」
「あ、アンタだってしょ、しょ、しょ」
「処女って単語くらい言えるようになってから私に文句言いなさいよー」
ちょっとは恥じらいを持て、恥じらいってモンを。
何かやり返せないか、と考え、思いついた事を実行する。
「あ、ちょ、――あっ❤」
甘い声が上がり、彼女の顔が淫らに歪む。
乱れていた彼女の服の隙間から空いていた左手を差し込み、膨らみかけの乳房を揉み始める。正直、まだ俺には下に指を入れる度胸はなかった。ちょっと後悔。
だが、その後悔を粉々に打ち砕くような感触が乳房からは返ってきた。
――ふにってしてて、まるくて、や、やわらけぇっ!? や、ヤバイ! 触ってるだけでヤバイ!
中々に厳しい環境で育った事もあり、性に関してはかなり疎いという自覚がある。自慰を覚えたのも最近だ。
しかし、性的な経験値に関してはどちらも同じはずだ。こちらにだって勝ち目はある。そう思っていた。
だが、これはヤバイ。女は魔物だ、という言葉を聞いた事があるが、触れてみて分かる。男が女を屈服させるのは、並大抵の気合では足りない。触れている、という事実を容認するだけで睾丸が引き締まる。
そんな俺の様子を見て、いやらしく笑いながら、シャーランはこう囁いてきた。
「姉と弟としてじゃあなく、男女として私を犯したいというのなら――」
俺の股間から手を離し、自分の服を片手で引き千切って、自分の性器を露出させる。漂ってきた雌の匂いに、俺の理性の糸は、とても簡単に、音を立てて千切れ飛んだ。
その瞬間、月明かりで出来た彼女の影が、僅かだが不自然に蠢いたような気がしたが、もはやそんな事はどうでもよかった。勃起した俺の肉棒はもはや俺のコントロールが効かず、ただ一つの事だけを考えていた。
この女と、交わりたい、と。
「――私を、奪って見せなさい」
月明かりだけが部屋を照らす中、俺は詰め所の自分の部屋で、明かりも付けずにベッドに転がっていた。
ハミルを見捨てた。アニーは殺された。
隊長とエミリアは取り押さえられ、牢屋にブチ込まれてしまった。
そして、シャーランは、姐さんは、何処かに連れて行かれてしまった。
「――だってのに、俺だけ釈放かよ……」
全員が発言を許されない馬車の中で、俺の身体を検査していた魔法使いはこう言っていた。
「どうやら、君は本物のようだな。隊員の証明書もあるし、魔力も感じない」
俺がみんな本物だ、と声高に叫んでも、連中は生ぬるい同情の目で俺の事を見て、
「君は騙されていたんだ。本物がここに居る訳がないんだよ」
一切俺の話を信じようとも確かめようともしない。
しまいには興奮による錯乱状態と診断されて睡眠系の魔法を掛けられ、意識が戻った時には一枚の書類と一緒にこの詰所で眠っていた。
『三日以内に他の部隊へ転属命令が下される。それまで待機しているように』
なんて書かれた書類を引き千切り、俺はその場に拳を打ち付けずにはいられなかった。
ご丁寧に、外には兵士が立っていて容易に出られないようになっている。兵士側からすれば、魔物に惑わされた人間を、再び魔物の下に行かせない為の、いわば善意なんだろうが、クソも必要ないどころか迷惑でしかない。
――俺が姐さんだったら、アイツら蹴散らして隊長たちを助けに行くんだろうけどな。
試す勇気のない臆病な俺は、誰も居ない詰め所で大人しくしている事しかできなかった。
隊長は今、どんな気持ちだろうか。明らかに冤罪を掛けられ、呆然自失となっているのではないだろうか。
エミリアは俺の事を憎んでいないだろうか。一人だけ助かった事を、恨まれていないだろうか。
姐さんは、無事だろうか。
気持ちが沈んで眠れない。そう思っていたが、廃坑内での精神的疲労は予想を遥かに上回っていて、一度目を閉じただけで意識を夢の世界へ引きずり込んでいってしまった。
・・・
姐さんが、降り注ぐ竜の血液からエミリアを庇った時、俺はその様を目の当たりにしていた。
全身血まみれで、両手のあちこちから白い骨が皮を破って突き出していた。 おまけに、ドラゴンのありえないくらいに太い尾を蹴り上げた所為で足が千切れかけ、皮一枚で繋がっているっていう、重症通り越して死んでいなければおかしいような傷を負っていてなお、あの人はエミリアの所にまで跳んだ。
数時間前まで目も合わせなかったような二人が、どんな会話をして共に肩を並べて戦う仲間になったのか、それは折れには分からない。けれど、姐さんは確かに、仲間を守る為に己の身を犠牲にしたんだ。
その時の彼女の顔は、
――……笑っていた、よな。
アニーが見た、っていう凶暴な笑みではなく、俺が見た意地悪な笑みでもない。動く腕があれば、胸をなで下ろしていたであろう、安堵の笑みだった。
仲間の危険を救う事が出来たからだろうか。それとも、他に理由があったからだろうか。
だが、
――それで死んじまったら、意味ないじゃねぇかよ……。
俺の勝手な願いから言わせてもらえば、姐さんには死んで欲しくなかった。 この事を本人に言えば、勝手に殺すなと怒られるだろうが、この気持ちは嘘偽りない真実だった。
最初に会った時はあんなに、嫌な奴だと思っていたのに、今では彼女が近くに居ない事が酷く寂しく感じる。
暴力的で人の話を聞かなくて、でも俺を俺個人として、レイブン・ケスキトロとして扱ってくれる、カッコいい人。そんな彼女に、俺はこの三日間で魅せられてしまっていたんだ。
今、こうしている間にも彼女は苦しんでいるだろう。いや、もう死んでしまっているかもしれない。
――……っ。
助けに行きたい。けれど、行けない。行こうと足を前に踏み出せない。
まるで、数日前の、彼女と出会う前の臆病な自分に戻ってしまったようだった。
――姐さんが居ないと、何も出来ないのかよ……。
結局は彼女に導いてもらわなければ、進む事すらままならない。
誰も俺とは向き合ってくれない、って勝手に決めつけて、勝手に人と付き合う事が怖くなって、何を言われても聞こえない振りをしていた時から何も変わっていない。
自分から向き合おうとする努力もしていないのに、勝手にそう思い込んでいた時と、何も変わっちゃいない。
そんな自分を嘲笑し、続けてこう言った。
――姐さんは、俺なんか気にも留めてないってのによ……。
廃坑から脱出する際、エミリアが言っていた言葉を思い返す。
『約束したじゃないですか! 帰ったら、二人、貴女と私で、一緒に伝えに行くって!』
続けて彼女は、告白とか失恋とかって単語を並べていた。これはつまり、姐さんは誰かに恋心を抱いていた、という事になる。それも、告白しに行こうとするほど、想っていた。
アルカトラに来てまだ三日だというのに、と思う。しかし、この世の中には一目惚れと言う、都合のいい現象が起こるのだ。三日でそういう気持ちになるのはおかしな事ではない。
俺にとっての問題は、姐さんが誰に対して想いを抱えているか、という事だ。
まずヒントになるのは、あの生真面目で堅物で融通の利かないエミリアもその人物に好意を抱いているという事だ。でなければ二人で一緒に、なんて絶対に言わないだろう。つまり、エミリアの好きな人が分かればおのずと答えが出る。
――そんなの、考えるまでもねぇよな。
俺が配属された頃からずっと、何かと危なっかしいアイツを見守っていた男が居る。
エミリアも無意識下でそいつの事を好いていたのか、始終ベッタリくっついていた事を憶えている。
その男の名は、
――……エリアス・ニスカヴァーラ。
俺もよく知る、俺たちの隊長。
寡黙で責任感があって、精神力も身体も強い。
尖ってた頃の俺にもそれとなく接してくれて、お人よしな男だっていうのは知っていた。その頃の俺には、隊長の優しさを正面から受け取れなくて、ひたすらに拒絶していたが、冷静になった今ならわかる。
あの人なら、エミリアから好かれて当然だ。
そして、姐さんもまた同様。何て言ったって、普段は飄々として何を考えてるか分からない姐さんが、あの人に怒られてる時は大人しくなり、褒められると良い顔で喜ぶのだ。これで懐いていないなんて、ありえない。
隊長ならばきっとどちらを選んでも、どちらに対してもいい結果を出せるだろう。俺なんかと違って。
だから、悔しくなんかない。悔しくなんか、ない。
筈なのに。
・・・
湿った感触に目を覚ますと、枕が濡れている事に気が付いた。
「あ、あれ? 何だよ、これ」
涎かと思ったが、口元にその跡はない。その代わりに、触れた頬を伝う涙の存在に気付いた。
「俺、泣いてたのか?」
何故泣いていたのか、分からない。16にもなった男がどうして夢の内容で一人泣きしているのか。
――姐さんが隊長の事を好いてるのが気に入らねぇのか?
こちらの一方的な片思いなのに、何を情けない事を考えているのか。そうじゃないだろ、と自分に言い聞かせる。
現に、俺はその事を悔しがっていた訳じゃない。
ならば何故。
「――原因は、俺かよ」
泣いていたのは、情けなかったからだ。
勝手に好きになった相手に想いも告げられず、勝手に諦めて、勝手にその人を他人に任せる。
そんなの、腰抜けもいい所じゃないか。そんな惨めな自分を、俺は嗤った。
また、涙が溢れ出た。
――悲しんでどうすんだよ。俺にはどうしようもないだろう?
あの強い彼女と、肩を並べられないくらいに弱い。
あの優しい彼女と、釣り合わないくらいに身勝手。
あの美しい彼女を、手に入れられないくらいに臆病。
重なっていく自己嫌悪の前に、俺はついに崩れ落ちてしまった。
いつまでもウジウジ考えすぎて、好きな人のように、思っても思うだけで身体は動かない。
これだけ自分の事を嫌っているのに、まだ好きな人をこの手に抱きたいと思う自分が、本当に救いようがない。
「助けて、くれ」
いつしか、俺は誰に向けるのでもなく呟いていた。
「助けてくれよ。……姐さん」
「なーにー?」
すぐ側から、ある筈のない声が聞こえた。
・・・
「…………は?」
今、誰かの声が聞こえたような気がした。
慌てて周囲を見回し、部屋の中には誰も居ない事を確認した。
空耳か、と思い、顔を元の位置に戻すと、
「ちょっとー、無視はないでしょ、無視はさー。泣いちゃうよ? 泣きながら殴っちゃうよ?」
「!?」
確かに聞こえた。それも、聞き慣れた声が。
今度はしっかり確認しようと、身体を起こし、ベッドから跳ね起きた。
だが、部屋の中には変わらず誰も居ない。
「こっちよ、こっちー」
「は? ――な、な、な……っ!?」
声に導かれ振り返ると、そこには、
「あ、あ、あ、姐さんっ!?」
先ほどまで思い描いていた、意中の人が窓の淵に座り込んでいた。
「いやー、あっちじゃ寝れなくってさ。抜け出してきちゃった」
「な、何でここに!? アンタ重症だったはずだろ!?」
先ほども言ったが、彼女は窓ではなく死の淵に立っている筈なのだ。立って歩ける訳がない。そもそも意識があるかどうかすら怪しいのだ。
それなのに、身体のあちこちに包帯を巻いているだけで、彼女はピンピンしている。無理をしている様子もない。
「――はぁ。あのねー、ドラゴンと戦う前に言ったじゃないの」
肩をすくめて、馬鹿にしたような態度で、
「私はそう簡単に死にはしない、ってね。まあ、ちょっと危なかったけど、もうどーって事ないわー」
立ち上がり、身体を動かして見せている彼女を見て、唖然としていた。
一瞬、彼女の偽物がここにいるんじゃないか、と思った。しかし、この態度は間違いなく彼女の物だし、あの場に居なければこの言葉は言えないから偽物でもない。
つまり、本物だ。
「――本当に、姐さん、なのか?」
姐さんは、シャーランは、確かに目の前にいるのだ。
「はいはいアンタの姉ちゃんよー。って、何を泣いてんのよアンタ」
俺の知っている顔が、平気な顔をして俺の目の前にあった。その事が、今はただ嬉しい。
だけど、違う。
「……何で、何で! 俺のトコに来てるんだよ! アンタは、アンタは――」
「てりゃ」
「おごっ!?」
重く鋭い手刀が、俺の脳天に叩き込まれた。
「いきなりうるさいわねー。まずは落ち着きなさいよ」
「落ち着かせるのに殴るか普通!?」
「何よー。もう一発貰いたいの?」
手刀を構えたので、全力で首を横に振る。
「――落ち着いた? で、私が、何だって?」
顔を近づけられ、彼女の匂いが鼻腔をくすぐる。俺にゴマを摺りに来たような、香水ばっかり付けている臭い女とは違って、石鹸の香りや料理の時に付いた香りなど、自然で嫌じゃない、包み込んで来るような匂い。
そして、この匂いが好きな人の物だ、と思うだけで、自然と胸の鼓動が早まっていくのが分かる。
でも、これは俺の物では、ない。
「こ」
「こ?」
「こ、こく、告白、す、するんじゃ、……なかった、のかよ」
問いを投げ掛けたはいいが、返答は予想できていた。
ここに来たのは、自分が生きていて、隊長たちを助けに行くのを手伝え、と言いに来ただけなのだろう。だから、この問いには何の意味もない。それでも聞かずにはいられなかったのは、俺がまだ自分という人間を理解しきれていなかったからだろうか。
「はぁ? 告白? 何言ってるのよアンタ」
「へ?」
驚く事に、返答は見当違いのものだった。
「だ、だってエミリアが言ってたじゃねぇか! 『二人で一緒に告白しに行く』って!」
「え? ……あー、私が気絶してる最中に言っちゃったのか、あの子」
もー、とここに居ないエミリアに対して頬を膨らませて、
「まあ、確かに一緒に告白はするよ? 前から気になってたし」
「――そう、だよな」
その答えに、みっともなく願っていた最後の希望が打ち砕かれた。
むしろ清々しい気分だ。今なら何も恐れる事はない。次にシャーランが隊長救出をする、と言いだしても喜んで着いていけそうだった。
だから俺は、彼女の言葉を待った。
だが、何やら様子が変で、
「こんな状況だしなー……。でもエミリア居ないし……。いや、牢屋でもう……」
腕組みをして、眉をひそめて何やら悩んでいる様子だった。
「姐さん? 悩まなくていいぜ、俺ならいつでも準備出来てる」
あら、と少し驚いてから、考えが纏まったらしく顔が上がった。
「まあ、しょうがないか。悠長に待ってられないよね」
なぜなら、
「私の告白する相手が、今にも目の前で首吊りそうなくらいにヤケクソになってるんだし」
・・・
そうだよな。せっかく告白するってのに、目の前で死なれちゃ困るよな。うん。
「……あれ?」
10秒たっぷり考えて、何かおかしい事に気が付いた。
「なあ姐さん」
「んー?」
「そいつって、今そんなにヤケクソになってるのか?」
「そうねー。私から見ればそんな感じよ?」
4秒ゆっくり考えて、明らかにおかしい事に気が付いた。
「それってつまり、エリアス隊長が鎖を引き千切って大暴――」
「とりゃ」
「れごっ!?」
さっきの手刀よりも強力な一撃が脳天に叩き付けられた。
「何でそこでタイチョーの名前が出てくるのよ。私は『今にも目の前で』って言ったわよ?」
不機嫌そうな、いや、事実不機嫌なのだろう。早く気づけ、と言いたげな顔をしている。
でも、それはある筈がなくて、期待しちゃいけない訳で、
「あー、もう。もうちょっと童貞っぽく思い込み激しくていいんじゃないの?」
「どどど、どっ!?」
彼女の口からそんな単語が出て来るなんて想像もしていなかった俺は、戸惑いを隠せず慌てふためいた。
――まあ、姐さんなら顔を真っ赤にして言うより一切恥じらいなく堂々と言い切りそうだよな。
そんな事を現実逃避代わりに考えていると、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、顔を左右から抑え込まれ、
「――女に最後まで言わせるのは、ダメな男の証よ?」
吐息が掛かるほどの距離にまで、顔を近づけてきたのだ。
あんなに滅茶苦茶に戦っているにもかかわらず彼女の肌には触れて分かるような傷はなく、触れられている手には余計な筋肉が全く付いていない。思わず頬ずりしたくなるような、何時までも撫でられていたいような、優しく綺麗な手だった。
信じられなかった。
彼女は俺の事を、弟分程度にしか見ていないと思っていた。
そんな彼女が、今ここに居て、俺の目の前で、俺の言葉を待っている。
これは夢の続きだろうか。そう思わなければならないくらいに、心臓が人生で最も速く動いていた。
「――な、何で」
「ん?」
「何で、俺なんだ?」
故に、聞かずにはいられなかった。
下手な同情や情けなんかでこうなったとすれば、こちらがかえって惨めになるのだから、止めて欲しい。
もう既に隊長に告白した後で、撃沈して仕方なく俺の所に来たならば、その頬を張り倒す。失望した、という言葉を吐き捨ててやるつもりだった。
しかし、彼女の答えはどれでもなかった。
「そこん所私にも分かんないんだよねー」
「……はぁ!?」
「そ。何でアンタを好きになったかなんて、わかんない」
でもさ、
「好きになる事に、理由なんて必要?」
彼女の言う通り、必ずしも必要という訳ではない。世の中には理屈で語れない事があまりにも多すぎるのだから。
だが、俺は知りたかったんだ。彼女は俺の何処に惚れて、こうしてここに来てくれたのかを。
「私はアンタの事、好きだよ? 弟が出来たみたいで楽しいし。これが理由、かな?」
「――」
弟のような存在。そう、言った。
年の近い親戚は居るが、俺には血を分けた兄弟は一人も居ない。そして、もし居たとしても、全幅の信頼を置ける存在は今まで一人も居なかった。
だからこそ、俺はこの人のように、ひとりよがりの俺のケツを蹴り飛ばして、道を示してくれる存在に憧れたのだ。弟気分なのは俺だけかと思っていたが、どうやら、彼女もまたそう思っていてくれたらしい。昨日までの俺ならば、それだけで満足していた事だろう。
だが今は、それだけじゃない。
俺の中で何か、どす黒い感情が俺に囁いてくるのだ。
――つまり、俺はこの人の弟にしかなれないのか。
彼女が俺に好意を持ってくれているのは分かった。だけど、彼女が言った言葉は、いつまでも俺を下に見ているという事に他ならない。
――俺は、それでいいのか?
今はまだ足りなくても、いつかは認められたい。努力を重ねて、この女性と同じ立場に立ちたい。
姉と弟ではない。俺は姐さんと、いや、シャーランと、男と女の関係になりたい。
「――姐さん」
「何――、わっ!?」
もっともっと、強い関係になりたい。
――夫と妻?
いや、それでもまだ足りない。もっと先がある筈だ。
気が付けば俺は、彼女の手を取って、そのままベッドに押し倒していた。
突然の事で驚いているのか、力で跳ね飛ばす事も出来る筈の彼女は硬直し、動かなかった。
「ちょ、ちょっとー。いきなり押し倒すなんて勝手が過ぎるわよー? 弟の癖にー」
彼女にはそのつもりがなくても、俺にとってそれは挑発と取れる言葉だった。
頭に血が上った俺は、
「勝手はどっちだよ!? 勝手に俺に優しくして、勝手に振る舞って! しかも俺の事も考えずに勝手に姉面しやがって!」
シャーランの腕を押さえつける体勢になって、叫んでいた。
「確かにアンタの弟で居る事を望んだのは俺だよ! だけど、いつまでも弟のままってのも嫌なんだよ!」
彼女の強さに憧れたから、手に入れたくなった。対等な立場になって、恋人になって。
だけど、この胸に渦巻く欲望は、そんな程度では収まらなかった。
この腕の中に居る人を、奪いたい。心も身体も、全て俺色に染め上げてしまいたい。
「アンタは俺を俺として見てくれた! 腐ってた俺を、生意気なガキに戻らせてくれた! でも、どうしたらアンタは俺を男として見てくれるんだ!?」
だから言おう。この一言を。
「俺はアンタが好きなんだよ! 我慢できなくなって泣いちまうほど、アンタが欲しくて堪らないんだよ! アンタと一緒に、男と女になりたくて仕方ねぇんだよ!」
腹の底から吐き出すように、沈んでいた想いを全てぶちまけた。
俺の精一杯を、告白代わりにぶつけてやった。
「それでも俺を男として見られない、って言うんだったら、俺はアンタを――」
アンタを、どうするんだろうか。
その先の言葉が、思いつかなかった。
「アン、タを……」
ここまで来て、俺は何を迷っているのか。
――嫌われや、しねぇよな?
これだけ言って、今更何を恐れてるのか。
情けない。相手の気持ちが気になって、思った言葉を出し切れないなんて、幻滅されてもおかしくはない。
その時、眼下のシャーランがくすり、と笑った。
「アンタを、俺の物にする。かな?」
「――」
顔が真っ赤に染まるのが分かる。彼女が意地悪そうな笑みを浮かべているのを見て、さらに自分が恥ずかしくなる。
「まったくもう。最後の一言まで言えたら100点満点だったけど、まだまだヒヨッコねー」
「し、仕方ねぇだろ!? こんな気持ちになったの、初めてなんだからよ……」
そんな俺の態度に対し、明るく笑ってから、
「ゴメンゴメーン、気悪くしないでよー。初めてにしてはさ、その、――ドキッとしちゃうくらい、カッコよかったから」
頬を紅色に染めて、半目で目尻を下げた、蠱惑な笑みを浮かべた。
その表情は俺の心を直球で撃ち抜き、先ほどから限界を伝えてきていた心臓が、限界を通り越して爆発してしまいそうになってしまう。
「じゃーさ、挽回のチャンスをあげよっか。これで、これからのアンタへの扱い方を考えてあげる」
「え、――ちょっ!?」
言うが先か、彼女は足の指だけで俺の服の留め紐をほどき、一瞬にして半裸にしてしまった。
夜のひんやりした空気が股間の肉棒に触れ、ただでさえ興奮状態だというのに、余計にその欲望を大きくさせる。
「おおぅ、もう臨戦態勢じゃないの」
「あぐっ!?」
服を脱がされて気が逸れたからか、掴んでいたはずの右腕がそこにはなく、代わりに俺の滾った性欲を表す怒張に触れていた。先ほど俺の顔に触れた時から滑らかとは思っていたが、その手が、男を知らない女の指使いとは思えないくらいの技巧を持って蠢き、僅か数秒の間に何度も射精する寸前にまで追い込まれた。
「ま、待てよ! アンタ、初めてだよな!?」
先に聞くべきは、突然何をするんだ、という事なのに、あまりの上手さにその疑問は掻き消えていた。
「もちろんよ? 上手く感じるのは、アンタが早いってだけじゃないのー?」
ニヤニヤとした意地の悪い笑みを見せられ、それが琴線に触れた事を感じ取った。
「そ、そう簡単にイってたまるモンかよ!」
歯を食いしばって、ひたすらに耐える。
「童貞が何を言ってるのよー、まったく」
「あ、アンタだってしょ、しょ、しょ」
「処女って単語くらい言えるようになってから私に文句言いなさいよー」
ちょっとは恥じらいを持て、恥じらいってモンを。
何かやり返せないか、と考え、思いついた事を実行する。
「あ、ちょ、――あっ❤」
甘い声が上がり、彼女の顔が淫らに歪む。
乱れていた彼女の服の隙間から空いていた左手を差し込み、膨らみかけの乳房を揉み始める。正直、まだ俺には下に指を入れる度胸はなかった。ちょっと後悔。
だが、その後悔を粉々に打ち砕くような感触が乳房からは返ってきた。
――ふにってしてて、まるくて、や、やわらけぇっ!? や、ヤバイ! 触ってるだけでヤバイ!
中々に厳しい環境で育った事もあり、性に関してはかなり疎いという自覚がある。自慰を覚えたのも最近だ。
しかし、性的な経験値に関してはどちらも同じはずだ。こちらにだって勝ち目はある。そう思っていた。
だが、これはヤバイ。女は魔物だ、という言葉を聞いた事があるが、触れてみて分かる。男が女を屈服させるのは、並大抵の気合では足りない。触れている、という事実を容認するだけで睾丸が引き締まる。
そんな俺の様子を見て、いやらしく笑いながら、シャーランはこう囁いてきた。
「姉と弟としてじゃあなく、男女として私を犯したいというのなら――」
俺の股間から手を離し、自分の服を片手で引き千切って、自分の性器を露出させる。漂ってきた雌の匂いに、俺の理性の糸は、とても簡単に、音を立てて千切れ飛んだ。
その瞬間、月明かりで出来た彼女の影が、僅かだが不自然に蠢いたような気がしたが、もはやそんな事はどうでもよかった。勃起した俺の肉棒はもはや俺のコントロールが効かず、ただ一つの事だけを考えていた。
この女と、交わりたい、と。
「――私を、奪って見せなさい」
13/09/04 23:41更新 / イブシャケ
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