読切小説
[TOP]
幸福の感触
 森の中を歩く。
 さくさく、と枯れ葉を踏む音が小気味よく響く。木々の間から差す陽光は、金と橙が混ざったような色で辺りを染めていた。

 この分ならじきに夜が来るだろうか。

 森の中をさらに歩く。
 もうすぐ夜になるのなら、引き返すなり野営の準備なりをするべき時間だ。にも関わらず足は森の奥へ奥へと進んでいく。

 そして、とある木の前に差し掛かったころ。
 木の上から、カサカサと何かが擦れるような音がして

「パパ、おかえりなの〜〜!」

 声と共に空から何かが降ってきた。
 上を見上げると、それはパタパタと羽を羽ばたかせてこちら目がけて翼を広げて突っ込んで――

「とおーっ、なのっ!」
「わっ、ばっ――あっぶなっ!」

 慌てて突き出した両腕の上に、ばんざいをしながら着地した。

「やったぁ、ちゃくちせいこうなのー!」
「お前な……」

 肩を落として呆れながら、腕の上の襲撃者――オウルメイジの娘――を抱き寄せる。ふかふかとした羽の手触りが気持ちいい。羽毛の下には、子供らしいぷにぷにとした肌の感触があった。
 小さな体を片腕で抱えて、空いた手でわしわしと頭を撫でてやる。娘はにこにこと目を細めると、頭を撫でる動きにされるがままになった。

「はい、おしまい」

 娘を撫でる手を止めると、細めていた目がパッと開いた。彼女の眉間には皺が寄り、頬は不満そうに膨れている。

「だーめ。勝手にお家を飛び出すような悪い子には、もうなでなでしてあげません」
「とびだしてないの。パパをむかえにきたのー」
「はいはい、ママが心配するからもうしちゃダメだよ。それと――」

 娘を地面に下ろすと膝を折って目線を合わせる。勢いよく飛び降りてきたせいか、もふもふした羽毛は所々がくしゃくしゃに丸まっていた。手櫛で整えてやろうとしても、すぐにくるんと跳ねあがってしまいどうにもならない。

「自分の羽毛なんだから、ちゃんとお手入れしてあげないと」
「うー、おていれよくわかんないの……」
「ちゃんとママに教わればすぐに覚えるよ……っと、はい、少しは綺麗になったよ」

 毛先から撫で梳くことで、どうにか彼女の癖っ毛を宥めすかすことができた。……端っこの方がぴこぴこ動いているような気がするが気にしないでおこう。
 ……いや、やっぱ気になるな。
 
「えへへぇ……なでなで、きもちいいの♡」
「――ハッ!?」

 おっといけない。ついなでなでしてしまった。
 我に返って娘を見ると、てれてれととろけただらしない顔になっていた。琥珀色の瞳の中に映る自分の姿は、彼女の心中を表すかのようにきらきらと光り輝いている。

「コホン。――ただいま」
「うん、パパ、おかえりなの!」

 咳ばらいをすると、彼女を受け止めるために大きく両の腕を広げる。そして、勢いよく飛びついてきた大切な我が子を抱きとめるのだった。

§

「よっ、と」

 木の幹によじ登り、体を持ち上げる。木登りを楽しむ年でもないが、家は木の上にあるのだから仕方ない。ここまで来て野宿はごめんだし、夫婦別居は娘の教育上よろしくない。
 しかし、全身を使う運動は体に結構な負担がかかるものだ。

「えへへ、パパのせなかあったかいの〜」

 おまけに我が娘も背中に乗っかっているのだ。まだ小さい子供とはいえ、それなりの重労働である。こちらの苦労はいざ知らず、娘はきゃっきゃと背中ではしゃいでいる。ぺたぺたと体を触ってくるので羽毛が擦れてくすぐったい。
 幸せとはかくも重いものか、さりとて手放すこともできない、ああ悩ましい。

「お〜、パパのうでってカチカチなの」
「そりゃまあ、鍛えてるからね……って、危ないからじっとしてなさい」
「大きくなったら、わたしもカチカチになれたりするの?」
「いや、カチカチはちょっとなあ……」

 カチカチに筋肉が付いた娘の姿を思い浮かべてしまい、思わず顔を引きつらせる。空を飛ぶという一点においては相応しいのかもしれないが、そうなって欲しくないのは勝手な願いだろうか。

「パパ、カチカチなのはイヤなの?」
「イヤって言うか、なんというか……ふかふかの方が好きだなあ」
「ふかふか?」
「そう、ふかふか。ママみたいなふかふか」

 妻の毛並みを想像して表情を元に戻す。娘のふかふかも悪くないが、やはり番いになった相手とのそれは格別である。カチカチな筋肉とは比べるべくもない。

「パパ、わたしもふかふか?」
「うん、ふかふか」
「てへへ♡」

 さわさわと背中をくすぐる感触。お腹を覆う羽毛のそれを受け、思わず顔を綻ばせてしまう。木の幹を正面にしているためにやけ顔が見られてしまわないことと、まだ子供なので胸が育っていないことがせめてもの幸いだろうか。もしこんな――娘にでれでれしている情けない――姿を妻に見られてしまうと大変なことになるのは目に見えている。

「……おかえりなさい」
「あっ」

 声が聞こえた方を見上げると、そこにはもう一人のオウルメイジが立っていた。ジト目なのと口元が隠れているせいで表情が分かりにくいが、大分ご機嫌斜めのようだ。蜂蜜を垂らしたような金色の瞳からはハイライトが失われ、眉間に皺が寄っている……気がする。
 あっ、今眉がピクピクって動いた。やっぱり怒ってるんじゃないのか、アレ。

「ママ〜、ただいまなの〜」

 娘よ、そんな暢気にしてる場合じゃないぞ。ピンチだピンチ。こうなんていうか、朝帰りを見つかったみたいな危険を感じる。実際のところ、夜行性のオウルメイジからすれば朝帰りそのものなのだが、その辺は突っ込まないでおこう。
 妻よ、違うんだ。相手は年端も行かない娘だぞ。まだ空も飛べないんだぞ。

「起きて、たんだ」
「子供がいなくなってたから、心配になって探しに行こうとしたら」
「……いつから見てました?」
「抱っこしてるあたりからなの」

 最初から見てたんじゃないか、んもう。

「??? ママ、どうしてパパをにらんでるの? ねえねえ、ママったら」

 背中からぺしぺしと羽で叩く娘にはこの微妙な空気が分からないのだろうか。いや、この年で理解されても困るのだが。

「ママね、ちょっとパパにお話があるの」
「……今度じゃだめ?」

 思いっきりジト目で睨まれて何も言えなくなった。射すような冷たい視線に耐え切れずに目を横に逸らすも、見られているという圧迫感までは逸らせなかった。

「おはなし? ママ、わたしもききたいのー」

 ぴょんと背中から飛び降りた娘は、とてとてと母親の下へ歩きながらそんなことを宣うのだった。

 おいっ、お願いだからあんまり刺激するんじゃないぞっ。

「だめ。それにお話はパパだけじゃないの。勝手にお家から出てった悪い子のお説教もするの」
「えー」
「えーじゃないの」

 娘もまたジト目で睨まれて何も言えなくなったようで、助けを求めるかのようにこちらへ顔を向けた。口元を手羽で隠しつつ、自分の母親に聞こえないように口を動かす。

(ママ、なんだかこわいの)
(そうだね、怖いね)

 決して誰のせいだとは口に出さなかった。

(そのうちつのがはえてきそうなの)
(生えてこないといいけどね)
(はえたらもっとこわくなりそうなの!)
「……もっと怖くなってもいいならそうするの」
「ごめんなさい」「ごめんなさいなの」

 ひそひそ話がばれてしまい、二人で深々と頭を下げる。この分では、お説教は長くなりそうだ。

§

「だから、ちゃんとお家で待ってなきゃだめなの、いい?」
「……ごめんなさいなの」

 娘へのお説教はそれなりに長く続いた。辺りはまだ完全に暗くなってはいないもののすっかり夜の景色になっていた。
 自業自得とはいえ、たっぷりと叱られた娘はすっかりしょげた様子だ。うなだれた顔から僅かに覗く表情はどこか虚ろで、先程までの子供らしいきらきらとした瞳は影も形もない。
 可哀想な気もするが気遣ってやる余裕はない。何せ、次は俺にお鉢が回ってくるのだから。

「分かってくれたらそれでいいの。さ、こっちおいで」
「ママ、もうおこってないの?」
「怒ってないの、これから仲直りの抱っこをするの、それでお終いなの」

 妻がおいでとばかりに広げた羽根の中に、娘は弾かれたように飛びついた。頭だけでなく体全体を押し付けるように擦り付けている。妻はそんな娘を大きな羽根で包みこむように抱きしめた。すっぽりと上半身が隠れる。

「よしよし、いい子いい子」

 そう言って娘をあやす妻の目は慈愛に満ち溢れていた。
 きっとこれが母性というものなのだろう、是非ともあやかりたいものだ。

「つぎはパパのばんなの?」
「うん、そうなの――そうだったの」

 言葉と共に四つの目が俺を捉えた。背筋に冷たいものが走ると同時に体が硬直して動かなくなる。身動きがとれなくなったところにじりじりと近寄ってくるその様は、獲物をいたぶる獣を連想させるものだった。

「すっかり忘れてたの、こっちが本番なの――とりあえず正座するの」

 あの、ここ木の上なんですけど。正座できるスペースなんてないんですけど。

「そんな目で見てもだめなの」
「だめなのー!」

 こらっ。自分の番が終わったからって俺を弄ろうとするんじゃあないっ。










 それで、だ。
 どうにかこうにか正座は勘弁してもらえたのだが。

「パパー! わらってないでちゃんときくのー!」
「はいはい、聞いてますよ」
「へんじはいっかい!」
「はーい」

 なんで俺は娘に説教されているんだろうか。
 なんで妻はその後ろで翼組んでしたり顔で頷いているんだろうか。

「もー、もっかいいうの! パパにはママがいるんだから、わたしに『いろめ』つかっちゃだめなのー!」

 冷静に考えると娘が使っていい言葉じゃないぞ、それ。

「自分の子供相手に色目なんか使わないって」
「うそつきなのー! でれでれしてたの!」
「そもそもだけどさ、背中におぶさってたのにどうやって見たの?」
「いいわけしないのー! めっ!」

 びしっ、と音を立てそうな勢いでこちらの鼻先に羽根先を突きつけてくる。一応怒ってはいるようでしかめっ面をしているが、ほっぺが膨らんでいるせいでどこか愛らしく見える。思わず頬が緩みそうになって、

「……じー」

 娘の背後にそびえる妻の視線を受けて、表情を引き締めなおした。

「これからはママのもふもふでがまんするの! わかったらはいっていうのー!」
「はーい」
「のばさないのー!」
「はいはい」
「いっかいー!」
「……はい」

 ここまであからさまに様子がおかしいと、妻が何をしたのか察しがつく。おそらく娘に暗示をかけたのだろう。
 理由は簡単。妻自身がお説教をするよりも効果的だからだ。大切な、それこそ珠のように可愛がっている我が子からのお説教は非常に耳が痛い。背後に控える妻の眼光で抑止力も完璧だ。あえて直接暗示をかけないでおくことで、暗示がかかっているからという理由の現実逃避さえも許さない。

「……ぷくく、やっぱ無理……」
「もー! パパったらまたわらった! しんけんにきいてないのー! もっかいいうからこんどこそちゃんときいてほしいのー!」

 妻にとって、そして俺にとっても想定外だったのは、ぷりぷり怒る娘の姿が予想以上に可愛かったことだ。身振り手振りがいちいち大げさなせいなのと、表情がころころ変わることが原因で、彼女のお叱りはただのパントマイムにしか見えない。彼女の瞳がきらきらと元の輝きを取り戻していることもあってお叱りムードは何処へやら、すっかり和やかな空気になってしまっていた。

「むー! これがさいごなの! だからしっかりきいて――」
「もういいの」

 何度目かの注意を告げようとした娘を、背後に居た妻が押しとどめた。

「ママ! でも、パパが――」
「いいの、もうパパも分かってくれたと思うの」

 そう言ってはいるものの、その真意は別にあることに俺は気づいていた。何せ妻はずっと見ていたのだ――ふりふりと体を揺らしながらお説教(笑)をする娘の姿と、こちらのにやけ顔(未遂)を。これ以上はいくら続けても無駄だと理解したのだろう。
 それにしては随分と時間をかけたものだとは思うが、彼女もまた娘のパントマイムを楽しんでいたのだろう。時々目尻を下げてほっこりしていたし。

「お説教はもうお終いにするの、ありがとうなの」

 そう言った妻は娘の頭を撫でようとして、

「うぅん、まだおしまいじゃないのー」

 伸ばした羽根が空中で固まった。

「まだパパにお説教するの?」
「ちがうの! おせっきょーのあとはなかなおりなのー!」
「仲直りって、どうすればいいのかな?」
「ママはわたしにおせっきょーしたあと、だっこしてよしよししてくれたの。パパもわたしとおんなじで、ママとなかなおりのだっこをするのー!」
「「……えっ」」

 いやちょっと待て。何で暗示かけたお前が戸惑ってるんだよ。

§

「そう、そうやってむかいあうのー!」
「なんでこんなことに……」
「私が知りたいの……」

 娘の采配の下、俺は妻と向かい合っていた。これまでは自然なムードで抱き合えたはずなのに、見られているせいか妙な気分になってしまう。言うなれば、二人の営みを誰かに見せつけているという優越感だろうか。自分しか知らない妻の一面を自慢しているようで、これはこれで悪くない。悪くないのだが――

(これは娘に暗示かけてまですることじゃないだろ)
(……暗示なんて使ってないの)

 聞こえないように小声で追及すると、僅かに視線を逸らしながらそう返された。

(目を見て答えなさい)
(使ってないの)
(ふーん、別に抱っこくらい言ってくれればいつでもしてあげるのに)
(だから使ってないの)

 むぅ、中々手強い。
 とはいえ後ろめたいことはあるようで、決してこちらを直視しない眼差しはどこか遠くを見据えていた。金色の瞳からはいつもの輝きを失われ、鈍い光だけが宿っている。

(そっか。ところで後ろから見た娘の姿はどうだった?)
(お尻がふりふりしてて可愛かったの)
(そうだねえ、お説教は嫌だけど可愛い姿が見れたのは僥倖だったな)
(我ながら上手く暗示をかけたと思うの、もっと褒めてほしいの)
(こらっ、やっぱ暗示かけてたんじゃないか)

 全力でそっぽを向かれた。妻の首が180度回転し、背後の娘の方を向こうとして

「こらー! ママ、こっちじゃなくてパパのほうみるのー!」

 すぐさま叱られ、すくめた首がこっちに戻ってきた。呆れているのだろうか、半分だけ開かれた目からは感情の色が消え失せている。
 死んだ魚でももうちょっとマシな目をしてるんじゃないのか。

「……さ。あの子もああ言ってるから、さっさと済ませるの」
「の割には結構乗り気なんじゃん」
「そっちも満更でもなさそうなの」

 確かにその通りだ。妻曰く、娘に見せるには良くない、恥ずかしいとのことで、こうして抱き合う機会も減っていたところだ。彼女が妙に積極的な理由も、案外欲求不満だったからかもしれない。
 もっとも、欲求不満なのはこちらも同じなのだろう。妙な高揚感が胸の中でどんどん膨らみ始めているのだ。目の前のもふもふを思う存分愛でたいという思考が頭の中を満たしていく。

「それじゃあ、いい?」
「うん。――おいで、なの」

 照れ臭そうに眼をしぱしぱさせながら、呟くように放たれた言葉。それを受けて、俺は体を柔らかな羽毛へと近づけていった。

 妻は抵抗せず、されるがままに受け入れてくれた。
 
 妻の体から僅かに離れた位置で体を止め、両手を背中に回す。ふんわりとした背中の羽毛を撫でると、艶やかな感触が心地良かった。それは彼女にとっても同じようで、気持ちよさそうに瞳を細めて首を傾げている。

「流石だな、寝起きでもちゃんとつやつやしてる」
「もっと褒めてもいいの」

 毛並みに沿って指を通すと、指の間に柔らかな毛の感触を感じた。濃淡に彩られた褐色の毛は、指の動きを阻害することなく滑らかな感触を返してくれる。そのまま梳くように指を動かしたが、こちらの指に絡み、抜け落ちる毛は一本もなかった。
 
「それじゃあ、次は……」

 指の動作を、毛並みを伝うような動きからあえて逆らうような動きに変える。逆立った毛が指や掌に留まり、幾つかの束を形成していく。手の中のそれを軽く揉みしだくと、くしゃくしゃに形を変えながらこちらに纏わりついてきた。
 これは一体どう形容すべきなのだろうか。毛布と例えるには厚みがあり、ぬいぐるみというには温かみがある。他に考えられそうなのは――

「こらっ、そこまでなの」

 ぺし。

 彼女をどう褒めるか例える言葉を脳裏に巡らせていると、不意に頭をはたかれた。自然に吊り上がっていた口角を戻して視線を合わせると、そこには相変わらずのジト目の彼女がいた。
 いや、きっと怒っているのだろう。いつものジト目がどこか険しくなっている……ような気がする。

「せっかく綺麗になってるんだから、あんまり乱さないでほしいの。それに」
「それに?」

 ちら、と彼女の視線が下に移ったかと思うと、すぐさまこちらに向けられた。相変わらずのジト目だが、険がとれてどこか穏やかになっている。

「変に考えないでいいの。思ったままの言葉が一番嬉しいの」

 その言葉に驚き、何も言えなくなってしまう。
 こちらは彼女の表情を見抜くのに苦労しているのに、彼女にはあっさりばれてしまう。俺の表情が分かりやすいせいなのだろうが、それならポーカーフェイスを保っていられる彼女はちょっとずるい気がする。

「さ、早く言うの」

 こちらの内心を知ってか知らずか――いや、おそらく分かった上でこうしているのだろう――褒めるように急かしてくる。
 こうなったら正直な気持ちを伝える他ないだろう。

「一番だよ、ずっとこうしていたいくらいだ」
「それでいいの」

 精一杯に伝えた想いは容易く相槌で躱されてしまった。あまりにもあっさりとした対応に思わず顔を顰めてしまう。何か苦言の一つでも返そうと口を開こうとして、

「……嬉しいの」

 温かいものに包みこまれた。

「私はあなたにとって一番なの」

 耳元でそう囁かれる。
 自分が抱きしめられていると理解するまで、少々時間がかかった。
 
「それだけは誰にも譲らないの」

 自分の体が彼女の体温で暖められていくのを感じる。彼女の体の大部分を構成している羽毛は、木漏れ日で温まった体温を逃がすことなく内に留めていたのだ。漂ってくるお日様の匂いと女性の香りが入り混じった匂いは、昂った神経を鎮め安らぎを与えてくれた。

「だから、今だけは私を見てほしいの」

 腕の中で彼女がもぞもぞと動き出した。抱き合うような体勢から、こちらに縋りつくような体勢に移行する。その間も彼女はじっとこちらを見つめ続けていた。真っ直ぐ射るような視線が、上目遣いのものへと変わっていく。
 母親のものではない、一人の女性のものに。

「今日は随分積極的だね」
「不思議なの。でも、ずっと前からこうしたかったのかもしれないの」
「我慢してた?」
「……かもなの」

 頬を染めて答える彼女は、どこか初々しかった。

「だから今日はいっぱい甘えるの」

 ぶっきらぼうに言うその様は、とても愛おしかった。

「文句はなしなの」
「分かってるさ」
「……それでいいの」

 それきり、彼女は何も言わなくなった。ただ黙ってこちらをじっと見つめていた。
 たったそれだけのことでもまた一つ彼女のことが分かったような気がして、潤んでいる黄金色の目をじっと見続けた。

 この時間が、いつまでも続くことを願って。

§

「……?」

 ふと、懐の中で何かがもぞもぞと動く感触がした。いや、動くというよりは割り込んでくるという感覚だろうか。その違和感の正体を確かめようと彼女から視線を切ろうとして――

「ふかふかー、いいにおーい」
「ぴゃっ!?」

 妻の胸の間から、ひょっこり飛び出してきた娘に仰天した。それは妻も同じようで、彼女らしくもない驚いた声を上げて身を離した。
 驚きで何もできない二人を余所に、娘は空いた隙間に体をこじ入れてきた。両親に挟まれているような格好をとると、すりすりとこちらの胸元に顔を摺り寄せてくる。子供らしいぷにぷにとしたほっぺが面白いように形を変えていた。

「お前っ、どうして……」
「あれ? もうとけちゃったの、はじめてだからしょうがないの」

 我に返ってそれだけをこぼすと、娘はあっさりとそう答えた。

 解けた? 初めて? ……まさか、ひょっとして。

「……いつから、かけてたの?」

 こちらの思考を代弁するように妻が問いかける。怒ってこそいないもののその表情は険しく、太い眉が顰められていた。

「てへへ、おせっきょーのときにこっそりかけたの。パパもママもおんなじだいすきでよかったの」

 対して娘はあっけらかんとそう答えた。悪いことをしたという思いはこれっぽっちもないらしく、きらきらと金色に輝く瞳は褒めてもらえることを待ち望んでいるようにも見えた。

 なんのことはない。 
 暗示をかけたのは妻だけではなかったのだ。

「……はぁ。そんなことしちゃだめなの」
「ぶー。ママだってつかってたくせにー」
「ママはいいの」

 いやいや、ママもだめだろ。
 自分のことは棚に上げて娘を叱る妻と、それに反抗する娘。突っ込むこともできたのだが、あまり話をややこしくしない方がいいだろう。それにこちらとしては気になることがあったのだから。

「それより、どうしてこんなことを?」
「そうなの、ママも気になるの。教えてほしいの」

 話に割り込んで本題を通すと、妻も気になったようで追従してくれた。
 娘はこちらと妻をきょろきょろと見上げていたが、やがて観念したようで、身を縮こまらせながら口を開いた。

「えっとね、パパ、ママ、おこったりしないの?」
「うん」
「事の次第によってはものすごく怒るの」

 余計なことを言った妻を白い目で睨みつける。

「……仕方ないの。怒ったりしないから、ちゃんと話してほしいの」

 若干呆れながらも頷いた妻に安堵したのか、娘はおずおずと話し始めた。

「えっとね、わたしね、パパもママもだいすきなの。でもね、パパもママもあんまりなかよくしてなかったみたいだから、ちょっとこわかったの」

 そんなことはない。娘の前では落ち着いて振る舞おうとしているだけで、お互いのことが嫌いではないのだ。
 しかし娘の様子を見ると、その振る舞いはむしろ逆効果だったようだ。

「だから、ママがしてるみたいにパパとママをちょっぴりしょうじきにしてあげたの。そうしたらパパもママもとってもなかよしになったの」

 オウルメイジが持つ『魔眼』は、瞳を合わせることで効力を発揮する。娘もオウルメイジである以上力を行使することは可能なのだが、まさか両親に向けて使うとは思っていなかったのだ。
 ……この際、妻が娘にしつけと称して日常的に『魔眼』を使っていたことからは目を逸らそう。

「パパ、ママ、がまんはよくないの。わたしもいっぱいあまえるから、パパもママもいっぱいあまえていいの」
「我慢してた訳じゃないの、二人きりのときはちゃんとえっち――」
「おいこら娘の前で何を言うつもりだ」

 いらんことを言おうとした妻の頭に手刀を落とす。肝心の妻は目を白黒させていて、どうして怒られたのか分からない様子だ。どうやら魔眼の効果で随分と正直になっているようだが、困ったことに当人は気づいていないようだ。仕方ないのでガンを飛ばして黙らせた後、娘に向けてフォローの言葉をかけることにする。

「大丈夫だよ、パパはちゃんとママも好きだから。でも娘の前でえっち――」
「それ以上はだめなの」

 思いっきり翼で頭を叩かれてしまった。
 何もまずいことを言っていないはずなのにどうして怒られたのだろうか。頭を捻って考えても特に思い当たることがなく、答えを求めて妻の様子を窺ったら思いっきりガンを飛ばされた。何なんだ、一体。

「くすくす、パパもママもそっくりさんなの」
「? よく分からないけどパパとママは仲良しだぞ」
「そうなの、だから安心していいの」

 楽しそうに笑う娘と、愛しい妻を抱き寄せる。視線を合わさなくてもこうして二人の存在を感じられることが、何にも代えがたい幸福だった。

「パパのにおいとママのふかふかでしあわせがいっぱいなの。パパ、わたしもママみたいになれるの?」
「大きくなったらママみたいにふかふかになるさ」
「その前に毛づくろいを覚えなきゃいけないの、大変なの」
「ママ、わたしがんばるの。いっぱいいっぱいがんばって、それでパパにいっぱいいっぱいほめてもらうの」
「楽しみだなぁ」
「ママも楽しみなの。……でもパパはママのだからだめなの」
「えー、ママったらケチなのー」
「ははは」

 俺が笑うと、つられて二人とも笑いだした。慎ましくくすくすと笑う妻と、あははと大きな声で明るく笑う娘。そんな二人を見ているとどうしようもなく微笑ましい気持ちになって、俺もまた笑みを見せるのだった。

 静かな夜の森の中を、三人の笑い声が通り過ぎていった。
 柔らかな月明りは、三人を見守るかのようにいつまでも照らしていた。
18/10/03 00:28更新 / ナナシ

■作者メッセージ
オウルメイジさん流行るといいなあ、と思いました。

感想は遅くなるかもしれませんのでご了承ください。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33