お風呂知らずのゲイザーちゃん
さてと。状況を整理しよう。
椅子に座ってぼんやり前を見る。白くぼやけた銀色の何か――あいつは鏡と言っていた――には、むっつり顔のゲイザーが映っていた。への字に曲がった口に、眉間に寄った皺。まったく。いつ見ても変な顔で、嫌そうな顔だ。そう思うと鏡の中のアタシはますます歪んで見えた。
俯いて視線を下に逸らす。鏡の下には台があり、幾つかの容器が並べられていた。緑色の容器、白色の容器、もう一つ白色の容器。そして一つだけ違う形、箱型の容器の上には白い塊が転がっている。
「……どれがどれだよ」
持ち上げた触手に貼りついた目で真横に注意を向ける。隣には大きな池――浴槽――があった。人一人ゆったりくつろげる大きさの浴槽になみなみと水が張られている。ほこほこと穏やかな熱気を放つそれは、狭い空間をほどよく温め、そしてアタシの視界を僅かに塞いだ。
「やっば」
水面ギリギリまで引き込まれていた触手を慌てて戻す。今までの、ほんの少し前までの水浴びとは違うのだ。これは戦いだ。アタシにとっての強大な敵なのだ。自分一人で乗り越えなければならない壁なのだ。もうこれ以上、あんな無様を晒すことは出来ない。
「よし、入るぞ――お風呂」
§
数日前のこと。
「……んぁ?」
目覚めた時にはすでに何もかもが変わっていた。寝床にしていたいつもの洞窟は影も形もなく、アタシは地べたに寝そべっていた。寝ぼけ眼をこすり、立ち上がって伸びをする。そして周囲を見渡した。
「どこだ、ここ」
見慣れぬ木。知らない草花。そして降り注ぐ木漏れ日。何もかもがアタシの居たところと違う世界。
「……夢か?」
しかし感覚ははっきりしている。時折聴こえる鳥の声も、鼻に届く土と草の匂いも、太陽の温かさと目を射す光も、そのどれもが嘘をついていなかった。
「はぁ」
どうしてこんな状況になったのか、きっとどこかで色々な事があったんだと思う。けどそんなことアタシには知ったこっちゃない。重要なのはこれからだ。飯、寝床。とりあえずそれを確保しなければならない。ついでにここが何処なのかもだ。
「でも、何とかなりそうだな」
カサカサと草同士が擦れる音がした方向に意識を集める。間違いない、やってくるのは人間だ。見慣れない服を着ている若い男が一人きり。背負っているのは大きな籠のようだ。山菜でも採りに来たのだろうか。こいつなら都合がいいだろう。
「ヒヒッ、悪く思うなよ」
……この時のアタシは、全てが上手くいくと考えていた。きっと気の利いた誰かがアタシのために何もかも用意してくれたに違いないと思っていた。
§
「……はぁ、クソが」
迂闊な過去の自分に毒づく。何もかも上手くいくはずがないのだと、過去に戻れるのならそう警告したいくらいだった。だがいくらアタシでも時間までは操れない。無理なものは無理だ。
「仕方ねぇ……やるか」
仕方なしに立ち上がり、手を伸ばす。そして穴が幾つか開いたよく分からん物体――あいつはシャワーって言ってたはずだ――を手に取った。バルブって奴を捻れば水が出るらしい。水の強さはバルブをどれだけ捻るかで変わることは三日前に知った。適当に全力で捻った結果、大量の流水が直撃して悲鳴を上げたからよく覚えている。
「しかしどういう仕組みになってんだコレ、川にでも繋がってんのか?」
無論そんなはずはないだろう。バルブにもお湯が流れる奴と冷たい水が流れる奴があるそうだ。川にお湯が流れている訳がない。
「ま、いっか」
バルブを開けて水を流す。水が温かくなるまで時間がかかるそうなので、流水を直接体に当てることはしなかった。水を手にかけながらバルブをいじり、丁度いい温かさになってから体にかけるようにしている。二日前、熱湯をモロにかぶって喚き散らしたのは苦い記憶だ。
「このくらいでいっか」
ぬるま湯になったことを確認し、壁のひっかかりにシャワーをかける。わしゃわしゃとかき混ぜるように髪の毛と触手を軽く流した。冷たい雨と違って気持ちいい。人間はこんな便利なものを使っていたのかと恨めしくさえ思う。これを知ってさえいれば、冷たい川に入って汚れを落とすなんて拷問はしなくて済んだのに。
「いや、これからが拷問か」
パラパラと降りかかる飛沫の中、台に置かれた三つのボトルに目を落とす。隣に転がっている白い塊は無視する。石鹸って言うらしいが今は使ってないそうだ。だったらいつまでも置いとくなよな。
「どれがどれだか、まだ分かんねぇんだから」
シャンプー。コンディショナー。ボディソープ。あいつはそう言っていたが、正直違いがよく分からない。全部泡が出るから同じだろうに。そう反論したらコンディショナーは泡立たないとか抜かしやがった。知るかそんなの。
「汚れ落とすのになんでこんなの使うのかねぇ……」
人間はシャワーで汚れを落とすだけで足りないらしい。シャワーだけだと汚れを完全に落とせないそうだ。アタシはそんなの気にしたことはない。汚れがつくとアタシの体から黒い魔力の塊が生まれて、汚れと一緒に落ちていくからだ。川で水浴びをするのはよほど汚れた時くらい、そしてすぐに汚れを落としたい時に限られる。後はきつい臭いのするものを踏んだ時とかか。
「匂いでバレるもんなのか……いや、バレてるか」
面倒くさいとすっぽかしてお湯に浸かり、ああいい風呂だったと上がったのは昨日のことだ。出てくるのが速過ぎると呼び止められて、至近距離で髪の毛の匂いを嗅がれた。結局、シャンプーの匂いがしないとのことでそのまま風呂場へ逆戻りする羽目になったことは言うまでもない。おまけにあいつもついてきて、全身くまなく洗われてしまった。もっとも、それ自体は今までも同じことだったのだが。
「ヤなんだよな、頭洗うの」
泡が入るといけないから目をつぶっていてね、と言われても何をされているのか気になってしまう。ちょっとだけ、一か所だけならいいだろうと踏んで、こっそり一つの目を開けた。その瞬間、泡の塊がごっそり落ちてきたのだ。当然、直撃である。
「まったく、目に入ったら危ない奴使って平気なのか?」
あいつはすぐに洗い流してくれたのだが、それでも少しの間、直撃を受けた瞳の奥はひりひりと軽く痛んだ。あんな体験はもうこりごりだとも思っている。
けどなあ、と自分に反論する。お湯を浴びるのも、その後にお湯に浸かるのも決して悪いものではない。もこもこの泡自体も嫌いではない。体を洗う分には目に入ることはないので、むしろ面白ささえ感じるくらいだ。
「それでも、あいつに洗われるのはちょっと不安だからな……」
自分の体くらい自分で洗えるのだ。あいつに、他人に洗われるのはどうも落ち着かない。それに、無防備な状態で背中を晒すのはあまりに危険だ。
「もしあいつが変な気起こして悪戯したらと思うと……うぅっ」
ぶる、と体が震える。泡で埋もれてしまえば目が開けず、当然暗示は使えない。アタシに危害を加えないよう暗示はかけたつもりだが、万が一のことがあるかもしれない。気になる子に悪戯をしたいなんて思想を持っていた日には、アタシは風呂場でガタガタ震える子犬へ大変身だ。こんな屈辱ありはしない。
「けどなぁ……」
白色の容器――多分こっちがシャンプーだったと思う――と手に取り、中身を掌に出す。掌同士を擦り合わせると、たちまちきめ細かい泡がもこもこ湧きたった。
「これ全部洗うのすっげぇめんどくせえんだよなぁ……」
アタシの髪の毛は長い。めっちゃ長い。肩や背中どころか腰にまで届く勢いだ。その上アタシの体には触手もついている。髪の毛はわしゃわしゃ洗えばいいとしても、触手はそれなりの太さを持っていて一本ずつ洗っていかなければならない。単眼や触手を疎ましく思ったことは幾度かあるが、触手の入り組んだ皺や節くれがこんなに憎いと思ったのは初めてだ。
「あいつ、よくもまあ洗ったもんだよな」
動かないでと声をかけて、触手の一本一本を手に取ってゆっくり洗っていくあいつの姿を思い出す。傷がついたらいけないと、持ってきたスポンジを使わずにボディソープとやらを泡立てた手で優しく洗ってくれたのだ。
「めんどくさいと思うんだけどな」
もちろん結構な時間がかかったのだが、あいつは不平一つ言わなかった。それどころか、アタシの触手に対して話しかけてきたのだ。
「お客様〜かゆいところはありませんか〜、なんつってな」
別にかゆいところはなかったし、そこまでしてくれるのは素直にありがたかった。アタシが命令した訳じゃない。行動は暗示である程度操作できるとはいえ、普段の日常の行動はそいつ自身の性格が浮かびあがってくる。がさつな奴はアタシが何をやっても、結局がさつなままなのだ。
となるとだ。今思い返してみれば、あいつはそうではなかった。むしろ行動を鑑みれば世話焼きな部類に入るだろう。アタシがした心配はまったくの杞憂だったことになる。
……あいつに任せちゃったほうがいいかな。
「……けど、それはそれだ。これはアタシの問題だ」
暗示を使ってる罪悪感か、弱みを見せたくない意地か。兎に角、今のアタシはこんなことであいつを頼りたくなかった。ひょっとしたら、自分一人で洗えるようになったことを自慢したかったのかもしれない。
「くっだらね」
たかだか数日会った奴に何を意識してるんだか。
もやもやと一緒に吐き捨て、アタシは泡立った手をつむじまで持っていくと、わしゃわしゃと洗い始めた。
§
目をつぶりながら洗い続けて十数分。髪の毛と触手全体まで泡が行き渡った頃。
「終わんねぇ……」
とりあえず全体に泡をまぶそうとしたのがまずかった。ここは手をつけたのか、あっちはまだ洗ってないのか、適当に洗っているうちに訳が分からなくなってしまった。頼みの触手にはもっさり泡が積もっている。瞼を開けばたちまち入ってくるだろう。
「とりあえず泡を落とさなきゃ……あ゛」
間の悪いことに、アタシはさらに致命的なミスをしていた。泡を洗い流すお湯を手元に置き忘れていたのだ。さらにシャワーは壁にひっかかったままだ。当然、おおよその位置すら判明していない。
「くっそー……どこだ、ここか……?」
椅子に座ったまま闇雲に手を伸ばすと、壁のようなものに手が触れた。そこから左右に手を振り、ホースとバルブの位置を確認する。置いてあったボトルが倒れる音がしたが、今は気にしている場合ではない。
「あ、あった!」
腰が浮くギリギリの位置で、ようやくそれらしき感触を掴みとる。あとはこれを辿っていけば大丈夫だ。後はシャワーヘッドを手繰り寄せてしまえば問題ないだろう。バルブは後でまた手探りで探せばいい。
「んっ、と……確か、もうちょいだった、は、ず……」
ここでアタシはさらに大きなミスを犯した。
倒したボトルを拾おうとしなかったこと。出来るだけ楽をしようと大股で一歩を踏み出したこと。
そして、倒れたのがボトルだけではなかったこと。
「これで届――うわぁっ!!?」
足裏にぬるりとした感触が生まれたと思うのもつかの間、アタシの体はぐらりと大きく傾いた。それがせっけんだと理解した瞬間、アタシの体は宙に浮かびあがった。
「(ああ、やっぱ明日からあいつに手伝ってもらおう……)」
悔恨の念とせめて床に落ちないよう祈りを抱いて。
アタシは泡を撒き散らしながら、人一人すっぽり入る浴槽へと落下した。
§
浴室から聞こえてくる騒音を聞いて、男はすぐに駆けつけた。
泡とお湯が撒き散らされた浴槽を見て、男が何を思ったか、ゲイザーがどう弁解したかはここでは語らないでおく。
ただ翌日からは、ゲイザーから男を風呂に誘い、男もそれに応えるのだった。
§
「なんで勃起させてんだよこの変態!」
「ゲイザーちゃんの背中に隠れてたから見つからなかったけど今までずっと勃起させてました、ごめん、もう我慢出来ない」
「ひ……く、来るな……見せつけんなー!!」
椅子に座ってぼんやり前を見る。白くぼやけた銀色の何か――あいつは鏡と言っていた――には、むっつり顔のゲイザーが映っていた。への字に曲がった口に、眉間に寄った皺。まったく。いつ見ても変な顔で、嫌そうな顔だ。そう思うと鏡の中のアタシはますます歪んで見えた。
俯いて視線を下に逸らす。鏡の下には台があり、幾つかの容器が並べられていた。緑色の容器、白色の容器、もう一つ白色の容器。そして一つだけ違う形、箱型の容器の上には白い塊が転がっている。
「……どれがどれだよ」
持ち上げた触手に貼りついた目で真横に注意を向ける。隣には大きな池――浴槽――があった。人一人ゆったりくつろげる大きさの浴槽になみなみと水が張られている。ほこほこと穏やかな熱気を放つそれは、狭い空間をほどよく温め、そしてアタシの視界を僅かに塞いだ。
「やっば」
水面ギリギリまで引き込まれていた触手を慌てて戻す。今までの、ほんの少し前までの水浴びとは違うのだ。これは戦いだ。アタシにとっての強大な敵なのだ。自分一人で乗り越えなければならない壁なのだ。もうこれ以上、あんな無様を晒すことは出来ない。
「よし、入るぞ――お風呂」
§
数日前のこと。
「……んぁ?」
目覚めた時にはすでに何もかもが変わっていた。寝床にしていたいつもの洞窟は影も形もなく、アタシは地べたに寝そべっていた。寝ぼけ眼をこすり、立ち上がって伸びをする。そして周囲を見渡した。
「どこだ、ここ」
見慣れぬ木。知らない草花。そして降り注ぐ木漏れ日。何もかもがアタシの居たところと違う世界。
「……夢か?」
しかし感覚ははっきりしている。時折聴こえる鳥の声も、鼻に届く土と草の匂いも、太陽の温かさと目を射す光も、そのどれもが嘘をついていなかった。
「はぁ」
どうしてこんな状況になったのか、きっとどこかで色々な事があったんだと思う。けどそんなことアタシには知ったこっちゃない。重要なのはこれからだ。飯、寝床。とりあえずそれを確保しなければならない。ついでにここが何処なのかもだ。
「でも、何とかなりそうだな」
カサカサと草同士が擦れる音がした方向に意識を集める。間違いない、やってくるのは人間だ。見慣れない服を着ている若い男が一人きり。背負っているのは大きな籠のようだ。山菜でも採りに来たのだろうか。こいつなら都合がいいだろう。
「ヒヒッ、悪く思うなよ」
……この時のアタシは、全てが上手くいくと考えていた。きっと気の利いた誰かがアタシのために何もかも用意してくれたに違いないと思っていた。
§
「……はぁ、クソが」
迂闊な過去の自分に毒づく。何もかも上手くいくはずがないのだと、過去に戻れるのならそう警告したいくらいだった。だがいくらアタシでも時間までは操れない。無理なものは無理だ。
「仕方ねぇ……やるか」
仕方なしに立ち上がり、手を伸ばす。そして穴が幾つか開いたよく分からん物体――あいつはシャワーって言ってたはずだ――を手に取った。バルブって奴を捻れば水が出るらしい。水の強さはバルブをどれだけ捻るかで変わることは三日前に知った。適当に全力で捻った結果、大量の流水が直撃して悲鳴を上げたからよく覚えている。
「しかしどういう仕組みになってんだコレ、川にでも繋がってんのか?」
無論そんなはずはないだろう。バルブにもお湯が流れる奴と冷たい水が流れる奴があるそうだ。川にお湯が流れている訳がない。
「ま、いっか」
バルブを開けて水を流す。水が温かくなるまで時間がかかるそうなので、流水を直接体に当てることはしなかった。水を手にかけながらバルブをいじり、丁度いい温かさになってから体にかけるようにしている。二日前、熱湯をモロにかぶって喚き散らしたのは苦い記憶だ。
「このくらいでいっか」
ぬるま湯になったことを確認し、壁のひっかかりにシャワーをかける。わしゃわしゃとかき混ぜるように髪の毛と触手を軽く流した。冷たい雨と違って気持ちいい。人間はこんな便利なものを使っていたのかと恨めしくさえ思う。これを知ってさえいれば、冷たい川に入って汚れを落とすなんて拷問はしなくて済んだのに。
「いや、これからが拷問か」
パラパラと降りかかる飛沫の中、台に置かれた三つのボトルに目を落とす。隣に転がっている白い塊は無視する。石鹸って言うらしいが今は使ってないそうだ。だったらいつまでも置いとくなよな。
「どれがどれだか、まだ分かんねぇんだから」
シャンプー。コンディショナー。ボディソープ。あいつはそう言っていたが、正直違いがよく分からない。全部泡が出るから同じだろうに。そう反論したらコンディショナーは泡立たないとか抜かしやがった。知るかそんなの。
「汚れ落とすのになんでこんなの使うのかねぇ……」
人間はシャワーで汚れを落とすだけで足りないらしい。シャワーだけだと汚れを完全に落とせないそうだ。アタシはそんなの気にしたことはない。汚れがつくとアタシの体から黒い魔力の塊が生まれて、汚れと一緒に落ちていくからだ。川で水浴びをするのはよほど汚れた時くらい、そしてすぐに汚れを落としたい時に限られる。後はきつい臭いのするものを踏んだ時とかか。
「匂いでバレるもんなのか……いや、バレてるか」
面倒くさいとすっぽかしてお湯に浸かり、ああいい風呂だったと上がったのは昨日のことだ。出てくるのが速過ぎると呼び止められて、至近距離で髪の毛の匂いを嗅がれた。結局、シャンプーの匂いがしないとのことでそのまま風呂場へ逆戻りする羽目になったことは言うまでもない。おまけにあいつもついてきて、全身くまなく洗われてしまった。もっとも、それ自体は今までも同じことだったのだが。
「ヤなんだよな、頭洗うの」
泡が入るといけないから目をつぶっていてね、と言われても何をされているのか気になってしまう。ちょっとだけ、一か所だけならいいだろうと踏んで、こっそり一つの目を開けた。その瞬間、泡の塊がごっそり落ちてきたのだ。当然、直撃である。
「まったく、目に入ったら危ない奴使って平気なのか?」
あいつはすぐに洗い流してくれたのだが、それでも少しの間、直撃を受けた瞳の奥はひりひりと軽く痛んだ。あんな体験はもうこりごりだとも思っている。
けどなあ、と自分に反論する。お湯を浴びるのも、その後にお湯に浸かるのも決して悪いものではない。もこもこの泡自体も嫌いではない。体を洗う分には目に入ることはないので、むしろ面白ささえ感じるくらいだ。
「それでも、あいつに洗われるのはちょっと不安だからな……」
自分の体くらい自分で洗えるのだ。あいつに、他人に洗われるのはどうも落ち着かない。それに、無防備な状態で背中を晒すのはあまりに危険だ。
「もしあいつが変な気起こして悪戯したらと思うと……うぅっ」
ぶる、と体が震える。泡で埋もれてしまえば目が開けず、当然暗示は使えない。アタシに危害を加えないよう暗示はかけたつもりだが、万が一のことがあるかもしれない。気になる子に悪戯をしたいなんて思想を持っていた日には、アタシは風呂場でガタガタ震える子犬へ大変身だ。こんな屈辱ありはしない。
「けどなぁ……」
白色の容器――多分こっちがシャンプーだったと思う――と手に取り、中身を掌に出す。掌同士を擦り合わせると、たちまちきめ細かい泡がもこもこ湧きたった。
「これ全部洗うのすっげぇめんどくせえんだよなぁ……」
アタシの髪の毛は長い。めっちゃ長い。肩や背中どころか腰にまで届く勢いだ。その上アタシの体には触手もついている。髪の毛はわしゃわしゃ洗えばいいとしても、触手はそれなりの太さを持っていて一本ずつ洗っていかなければならない。単眼や触手を疎ましく思ったことは幾度かあるが、触手の入り組んだ皺や節くれがこんなに憎いと思ったのは初めてだ。
「あいつ、よくもまあ洗ったもんだよな」
動かないでと声をかけて、触手の一本一本を手に取ってゆっくり洗っていくあいつの姿を思い出す。傷がついたらいけないと、持ってきたスポンジを使わずにボディソープとやらを泡立てた手で優しく洗ってくれたのだ。
「めんどくさいと思うんだけどな」
もちろん結構な時間がかかったのだが、あいつは不平一つ言わなかった。それどころか、アタシの触手に対して話しかけてきたのだ。
「お客様〜かゆいところはありませんか〜、なんつってな」
別にかゆいところはなかったし、そこまでしてくれるのは素直にありがたかった。アタシが命令した訳じゃない。行動は暗示である程度操作できるとはいえ、普段の日常の行動はそいつ自身の性格が浮かびあがってくる。がさつな奴はアタシが何をやっても、結局がさつなままなのだ。
となるとだ。今思い返してみれば、あいつはそうではなかった。むしろ行動を鑑みれば世話焼きな部類に入るだろう。アタシがした心配はまったくの杞憂だったことになる。
……あいつに任せちゃったほうがいいかな。
「……けど、それはそれだ。これはアタシの問題だ」
暗示を使ってる罪悪感か、弱みを見せたくない意地か。兎に角、今のアタシはこんなことであいつを頼りたくなかった。ひょっとしたら、自分一人で洗えるようになったことを自慢したかったのかもしれない。
「くっだらね」
たかだか数日会った奴に何を意識してるんだか。
もやもやと一緒に吐き捨て、アタシは泡立った手をつむじまで持っていくと、わしゃわしゃと洗い始めた。
§
目をつぶりながら洗い続けて十数分。髪の毛と触手全体まで泡が行き渡った頃。
「終わんねぇ……」
とりあえず全体に泡をまぶそうとしたのがまずかった。ここは手をつけたのか、あっちはまだ洗ってないのか、適当に洗っているうちに訳が分からなくなってしまった。頼みの触手にはもっさり泡が積もっている。瞼を開けばたちまち入ってくるだろう。
「とりあえず泡を落とさなきゃ……あ゛」
間の悪いことに、アタシはさらに致命的なミスをしていた。泡を洗い流すお湯を手元に置き忘れていたのだ。さらにシャワーは壁にひっかかったままだ。当然、おおよその位置すら判明していない。
「くっそー……どこだ、ここか……?」
椅子に座ったまま闇雲に手を伸ばすと、壁のようなものに手が触れた。そこから左右に手を振り、ホースとバルブの位置を確認する。置いてあったボトルが倒れる音がしたが、今は気にしている場合ではない。
「あ、あった!」
腰が浮くギリギリの位置で、ようやくそれらしき感触を掴みとる。あとはこれを辿っていけば大丈夫だ。後はシャワーヘッドを手繰り寄せてしまえば問題ないだろう。バルブは後でまた手探りで探せばいい。
「んっ、と……確か、もうちょいだった、は、ず……」
ここでアタシはさらに大きなミスを犯した。
倒したボトルを拾おうとしなかったこと。出来るだけ楽をしようと大股で一歩を踏み出したこと。
そして、倒れたのがボトルだけではなかったこと。
「これで届――うわぁっ!!?」
足裏にぬるりとした感触が生まれたと思うのもつかの間、アタシの体はぐらりと大きく傾いた。それがせっけんだと理解した瞬間、アタシの体は宙に浮かびあがった。
「(ああ、やっぱ明日からあいつに手伝ってもらおう……)」
悔恨の念とせめて床に落ちないよう祈りを抱いて。
アタシは泡を撒き散らしながら、人一人すっぽり入る浴槽へと落下した。
§
浴室から聞こえてくる騒音を聞いて、男はすぐに駆けつけた。
泡とお湯が撒き散らされた浴槽を見て、男が何を思ったか、ゲイザーがどう弁解したかはここでは語らないでおく。
ただ翌日からは、ゲイザーから男を風呂に誘い、男もそれに応えるのだった。
§
「なんで勃起させてんだよこの変態!」
「ゲイザーちゃんの背中に隠れてたから見つからなかったけど今までずっと勃起させてました、ごめん、もう我慢出来ない」
「ひ……く、来るな……見せつけんなー!!」
19/09/08 18:51更新 / ナナシ