ボクはこどもじゃないよ!
「まーだかなー」
夜の繁華街は店の明かりや街灯で明るく照らされて、大通りはそれなりに人の行きかいがありました。荷を抱えた旅人らしき男の青年や、仕事を終えたおじさんたちの集団、そして彼らを呼び込む人間や魔物娘の女性たち。
活気があるのはいいけれど、どうもボクはこの空気はちょっぴり苦手みたい。まだ夜は始まったばかりの時間だから、この喧噪はしばらく続くんだろうなあ。
そして、マスターの用事も。
「まーだかなー」
酒場の入り口でふよふよ浮いているのが何を隠そうシルフのボク。子供は入っちゃいけません、と契約者であるマスターに言われてこんなところで待ってる訳です。
旅の途中で娯楽がないからって、ボクを置き去りにしてこんなことろに来るなんて、まったく。
え? ボクが繁華街に居るのはいいのかって? ……こっそり来てるからいいの! 透明化の魔法もかけたから他の人からは見えないし大丈夫! そんなことより、マスターが何かやらかさなきゃいいんだけど――
パァンッ!
突然、酒場の中から甲高い音が鳴りました。何があったのかと思って入り口に近づいて様子を見ようとしたら、
「失礼しちゃう! 誰があんたなんかと付き合うもんですか!」
肩を怒らせた人間の女の人が鼻息荒く出てきました。跳ね飛ばされないよう、慌ててボクは引っ込みます。カンカンになっている女の人を見て、酒場の中で何があったのか大体の想像はつきました。
そして十分後。
「また派手にやられたね、マスター」
「……ほっとけ」
左頬に真っ赤な紅葉を作り、頭からずぶ濡れになったマスターが酒場から出てきたのでした。
§
「今度こそ上手くいくと思ったんだがなぁ……」
「その言い訳何度目なのさ、マスター」
透明化の魔法を解いたボクはマスターの肩に乗って、情けない愚痴を聞いていました。宿まではそこそこの距離があるので、しばらく愚痴は続きそうです。
「いや聞いたんだよ、酒の力を借りれば会話が上手くいくって」
「女の人に飲ませたの?」
「俺も飲んだ」
「だからじゃないの」
マスターはお酒がダメで、飲むと醜態を晒す傾向があります。呂律が回らなくなるだけならまだいい方で、いきなり変なことを言い出したり泣き出したり抱きついたりします。きっとあの女の人もそんな目に合ったのでしょう。……お礼のビンタと水でマスターの酔いはすっかり醒めたみたいですが。
まったく、もう。何考えてんだろマスターは。
「お酒飲んでアホなことをして怒られて。訳分かんないよ。マスターは何がしたいのさ」
「そりゃあ、その、女口説いてすることなんて言えば、アレだよ」
「アレ?」
アレって、なんのことだろう。
「アレはアレだよ、その、アレだよ」
「分かんないよマスター」
マスターの顔が赤くなっているので、きっと恥ずかしいことだとは予想はつくのですが、アレとは何かボクには分かりませんでした。
「もっとはっきり言ってくれないと」
「子供は知らなくてもいいことなの」
むっ。また子供扱いした。
いつものことですが、マスターはこうやって何かあるとボクを子供扱いします。子供だから知らなくていいだの、子供にはまだ早いだの、そう言ってボクには何も教えてくれません。
きっとボクが小っちゃい体だからバカにしてるんだ。
「ボク、もう子供じゃないよ!」
「そうやってムキになるのが子供なんだ」
「何さ! じゃあマスターはどうなのさ、自分が大人だって言えるの?」
「お前をあしらえるのが大人なら、俺は立派に大人だよ」
ぬぐぐ。マスターはいつもそうだ。ボクのことなんか気にもしないで、いつまでも子供扱いして適当にあしらってればいいって考えてるんだ、きっとそうなんだ。
いつものボクならここで引き下がっていましたが、積もりに積もったものがあったのか、今日は何故か食い下がってやろうと思いました。
「じゃあボクも大人だって証拠を見せてあげるよ!」
「証拠? どんな証拠だよ、聞くだけ聞いてやるよ」
「ふっふーん、そう言ってられるのも今のうちだよー!」
ボクにだけ見せるその余裕めかした態度、今日こそ変えてやるんだ!
ボクはマスターの肩から下りると、マスターの目の前でひらひらと左右に揺れます。何をするのか、とマスターがボクを注視した瞬間でした。
今だっ!
ボクはマスターの顔の横すれすれを飛び抜けます。そして、すり抜け様に頬へとキスをしました。初めてのキスは温かくて、少しごつごつしていて、マスターの味とほんのりお酒の匂いがしました。
うー……お酒でくらくらするぅ……はっ、そうじゃなくて!
「さぁ、どうだ! マスター、これでボクが大人だって証明になったでしょ!」
マスターの正面に戻って自慢げに胸を張ったボクですが、期待していた反応は見られませんでした。マスターは魂を抜かれてしまったかのように、口を半開きにしてボク――じゃなくて、ボクの後ろのどこか遠くを見つめています。
「マスター? おーい、マスター?」
目の前で手を振っても反応はありません。
「ねえねえ、聞いてる? おーい、返事してよマスター」
マスターが動かないことをいいことに、髪の毛を引っ張ったりほっぺたをつまんでみたり顔に張り付いてみたりしてみますが、それでもマスターは何も反応しませんでした。
ひょっとしてボク、何かマズいことしたのかな?
不安になったボクと訝し気な通行人が見守る中、マスターはたっぷりと時間をかけて無事に再起動したのでした。
§
「大体な、キスができれば大人だって、その考えが子供なんだよ」
「その子供のキスで止まってたのはどこの誰だっけ?」
「……呆れてものも言えなくなっただけだ」
結局マスターはボクを大人とは認めてくれませんでした。それどころか軽々しくそんなことをするなとボクを叱ったのでした……通行人がいる中で。
ふーんだ。叱ってる間ずっと、顔真っ赤だったくせに。
「とにかく、次からはこんなことをしないこと。いいね?」
「えー、どうしよっかなー?」
「……そんなこと言うとご機嫌直しは無しにするぞ」
それでもボクをいつまでも子供扱いして蔑ろにしていたことはちゃんと謝ってくれました。珍しく、これから甘い物をご馳走してくれるそうです。
「はーい、分かりましたよーだ」
「なら良し。それじゃあ行くぞ、はぐれないように手を繋いでなさい」
「え? そんなことしなくても肩に乗ってればはぐれないよ?」
いつもそうしてるのに、マスターはどうしてそんなことを言ったんだろう?
首をかしげるボクの前に、マスターの大きな手が差し出されました。
「大人のレディの扱い方ってのはこうするの。ほら、手を取って」
言われるまま、マスターの大きな手にボクの小さな手を重ねます。肩に乗っている時は服越しだったので、直に手に触れたのは初めてかもしれません。マスターの温かさを感じます。
「えへへ、不思議な感じ」
「それでは参りましょうか、お嬢様」
「よきにはからえー、なんちって」
ボクのからかいにもマスターは穏やかに微笑みを返すだけでした。そんなマスターにボクはちょっぴり違和感を覚えましたが、すぐにこれから食べる甘い物へと思いを馳せるのでした。
§
――分かっているさ。
――お前が思うより、お前のことは分かっているつもりだ。
――お前が俺に持っている好意と、俺がお前に持っている好意が、違うことくらい。
――だから、諦めようとしているのにな。
――コイツは何も知らなくて、そのくせずけずけと人の心に入ってきて。
「マスター、早く行こうよー、待ちきれないよ!」
「そんなに騒ぐんじゃないよ、子供じゃないんだから」
「あー! また子供扱いしたー! 許さないんだからねー!」
「……好きなだけ食っていいぞ」
「ホント!? やったー! マスター大好き!」
「……全く、こいつは」
――何も知らずに傍で笑っていて。
――そんな光景を、俺の下卑た欲望で汚したくなくて。
――それでも、いつか。
――いつか、ちゃんとその時が来たら、想いを伝えたいから。
「それでは行きますよ、お嬢様」
――その日が来ることを願って。
――彼女の小さな手に、小さな小さな接吻を落とした。
夜の繁華街は店の明かりや街灯で明るく照らされて、大通りはそれなりに人の行きかいがありました。荷を抱えた旅人らしき男の青年や、仕事を終えたおじさんたちの集団、そして彼らを呼び込む人間や魔物娘の女性たち。
活気があるのはいいけれど、どうもボクはこの空気はちょっぴり苦手みたい。まだ夜は始まったばかりの時間だから、この喧噪はしばらく続くんだろうなあ。
そして、マスターの用事も。
「まーだかなー」
酒場の入り口でふよふよ浮いているのが何を隠そうシルフのボク。子供は入っちゃいけません、と契約者であるマスターに言われてこんなところで待ってる訳です。
旅の途中で娯楽がないからって、ボクを置き去りにしてこんなことろに来るなんて、まったく。
え? ボクが繁華街に居るのはいいのかって? ……こっそり来てるからいいの! 透明化の魔法もかけたから他の人からは見えないし大丈夫! そんなことより、マスターが何かやらかさなきゃいいんだけど――
パァンッ!
突然、酒場の中から甲高い音が鳴りました。何があったのかと思って入り口に近づいて様子を見ようとしたら、
「失礼しちゃう! 誰があんたなんかと付き合うもんですか!」
肩を怒らせた人間の女の人が鼻息荒く出てきました。跳ね飛ばされないよう、慌ててボクは引っ込みます。カンカンになっている女の人を見て、酒場の中で何があったのか大体の想像はつきました。
そして十分後。
「また派手にやられたね、マスター」
「……ほっとけ」
左頬に真っ赤な紅葉を作り、頭からずぶ濡れになったマスターが酒場から出てきたのでした。
§
「今度こそ上手くいくと思ったんだがなぁ……」
「その言い訳何度目なのさ、マスター」
透明化の魔法を解いたボクはマスターの肩に乗って、情けない愚痴を聞いていました。宿まではそこそこの距離があるので、しばらく愚痴は続きそうです。
「いや聞いたんだよ、酒の力を借りれば会話が上手くいくって」
「女の人に飲ませたの?」
「俺も飲んだ」
「だからじゃないの」
マスターはお酒がダメで、飲むと醜態を晒す傾向があります。呂律が回らなくなるだけならまだいい方で、いきなり変なことを言い出したり泣き出したり抱きついたりします。きっとあの女の人もそんな目に合ったのでしょう。……お礼のビンタと水でマスターの酔いはすっかり醒めたみたいですが。
まったく、もう。何考えてんだろマスターは。
「お酒飲んでアホなことをして怒られて。訳分かんないよ。マスターは何がしたいのさ」
「そりゃあ、その、女口説いてすることなんて言えば、アレだよ」
「アレ?」
アレって、なんのことだろう。
「アレはアレだよ、その、アレだよ」
「分かんないよマスター」
マスターの顔が赤くなっているので、きっと恥ずかしいことだとは予想はつくのですが、アレとは何かボクには分かりませんでした。
「もっとはっきり言ってくれないと」
「子供は知らなくてもいいことなの」
むっ。また子供扱いした。
いつものことですが、マスターはこうやって何かあるとボクを子供扱いします。子供だから知らなくていいだの、子供にはまだ早いだの、そう言ってボクには何も教えてくれません。
きっとボクが小っちゃい体だからバカにしてるんだ。
「ボク、もう子供じゃないよ!」
「そうやってムキになるのが子供なんだ」
「何さ! じゃあマスターはどうなのさ、自分が大人だって言えるの?」
「お前をあしらえるのが大人なら、俺は立派に大人だよ」
ぬぐぐ。マスターはいつもそうだ。ボクのことなんか気にもしないで、いつまでも子供扱いして適当にあしらってればいいって考えてるんだ、きっとそうなんだ。
いつものボクならここで引き下がっていましたが、積もりに積もったものがあったのか、今日は何故か食い下がってやろうと思いました。
「じゃあボクも大人だって証拠を見せてあげるよ!」
「証拠? どんな証拠だよ、聞くだけ聞いてやるよ」
「ふっふーん、そう言ってられるのも今のうちだよー!」
ボクにだけ見せるその余裕めかした態度、今日こそ変えてやるんだ!
ボクはマスターの肩から下りると、マスターの目の前でひらひらと左右に揺れます。何をするのか、とマスターがボクを注視した瞬間でした。
今だっ!
ボクはマスターの顔の横すれすれを飛び抜けます。そして、すり抜け様に頬へとキスをしました。初めてのキスは温かくて、少しごつごつしていて、マスターの味とほんのりお酒の匂いがしました。
うー……お酒でくらくらするぅ……はっ、そうじゃなくて!
「さぁ、どうだ! マスター、これでボクが大人だって証明になったでしょ!」
マスターの正面に戻って自慢げに胸を張ったボクですが、期待していた反応は見られませんでした。マスターは魂を抜かれてしまったかのように、口を半開きにしてボク――じゃなくて、ボクの後ろのどこか遠くを見つめています。
「マスター? おーい、マスター?」
目の前で手を振っても反応はありません。
「ねえねえ、聞いてる? おーい、返事してよマスター」
マスターが動かないことをいいことに、髪の毛を引っ張ったりほっぺたをつまんでみたり顔に張り付いてみたりしてみますが、それでもマスターは何も反応しませんでした。
ひょっとしてボク、何かマズいことしたのかな?
不安になったボクと訝し気な通行人が見守る中、マスターはたっぷりと時間をかけて無事に再起動したのでした。
§
「大体な、キスができれば大人だって、その考えが子供なんだよ」
「その子供のキスで止まってたのはどこの誰だっけ?」
「……呆れてものも言えなくなっただけだ」
結局マスターはボクを大人とは認めてくれませんでした。それどころか軽々しくそんなことをするなとボクを叱ったのでした……通行人がいる中で。
ふーんだ。叱ってる間ずっと、顔真っ赤だったくせに。
「とにかく、次からはこんなことをしないこと。いいね?」
「えー、どうしよっかなー?」
「……そんなこと言うとご機嫌直しは無しにするぞ」
それでもボクをいつまでも子供扱いして蔑ろにしていたことはちゃんと謝ってくれました。珍しく、これから甘い物をご馳走してくれるそうです。
「はーい、分かりましたよーだ」
「なら良し。それじゃあ行くぞ、はぐれないように手を繋いでなさい」
「え? そんなことしなくても肩に乗ってればはぐれないよ?」
いつもそうしてるのに、マスターはどうしてそんなことを言ったんだろう?
首をかしげるボクの前に、マスターの大きな手が差し出されました。
「大人のレディの扱い方ってのはこうするの。ほら、手を取って」
言われるまま、マスターの大きな手にボクの小さな手を重ねます。肩に乗っている時は服越しだったので、直に手に触れたのは初めてかもしれません。マスターの温かさを感じます。
「えへへ、不思議な感じ」
「それでは参りましょうか、お嬢様」
「よきにはからえー、なんちって」
ボクのからかいにもマスターは穏やかに微笑みを返すだけでした。そんなマスターにボクはちょっぴり違和感を覚えましたが、すぐにこれから食べる甘い物へと思いを馳せるのでした。
§
――分かっているさ。
――お前が思うより、お前のことは分かっているつもりだ。
――お前が俺に持っている好意と、俺がお前に持っている好意が、違うことくらい。
――だから、諦めようとしているのにな。
――コイツは何も知らなくて、そのくせずけずけと人の心に入ってきて。
「マスター、早く行こうよー、待ちきれないよ!」
「そんなに騒ぐんじゃないよ、子供じゃないんだから」
「あー! また子供扱いしたー! 許さないんだからねー!」
「……好きなだけ食っていいぞ」
「ホント!? やったー! マスター大好き!」
「……全く、こいつは」
――何も知らずに傍で笑っていて。
――そんな光景を、俺の下卑た欲望で汚したくなくて。
――それでも、いつか。
――いつか、ちゃんとその時が来たら、想いを伝えたいから。
「それでは行きますよ、お嬢様」
――その日が来ることを願って。
――彼女の小さな手に、小さな小さな接吻を落とした。
19/03/29 22:54更新 / ナナシ