大晦日に君と
大晦日。
外はすっかり暗くなっていて、時計の針は十一時を回っている。あと一時間もしないうちに今年は終わりを告げて、新たな年がやってくるのだ。一年の終わりである今日くらい、共に暮らす幼妻のバフォメットと、去り行く日々に思いを馳せて過ごしたいと願っていたのだが。
「キャハハ、リモコンとったー!」
「あーっ! せっかく今いいところだったのにー!!」
残念なことに、目の前で飛び回る幼女共にはこの風情が理解できないようである。幼女共――バフォメットの部下である魔女とファミリアだ――はテレビのリモコンをめぐって目の前でキャットファイトを繰り広げていた。テレビの画面は歌番組とバラエティ番組の間で忙しなく移り変わっていて、ハリセンを持った刑部狸が芸人らしき人間の尻に一撃を叩きこんだかと思えば、セイレーン夫婦が身を絡ませ合いながらサビのパートを歌っていた。
「うーたーばーんーぐーみー!!」
「ばーらーえーてぃー!!」
喧しい二人をどう処置するかを決めあぐねていると、
「貴っ様らぁ……人様の家でいつまでもいい加減にせぬかー!!」
どこからともなく飛んできたミカンが二人の脳天に直撃し、その動きを止めたのであった。
※
「ごめんなさい……」
「はしゃぎすぎました……」
ミカンを投擲したバフォメットは騒いでいた二人を正座させると、その前に腕を組んで仁王立ちになった。鼻息は荒く、誰が見ても明らかに怒っていると言えよう。
「貴様らは儂を舐めておるのか? のう、舐めておるのか?」
組んだ腕を解き、獣の掌で頬をぺちぺちと叩く。物騒な発言を除けば、幼女同士の戯れに見えないこともないだろう。もっとも、額に青筋を立てて八重歯を剥き出しにしている彼女からは、とても幼女とは思えない威圧感が放たれていたが。
「遊びに来てもよいとは言ったがな、家主を押しのけて不遜な振る舞いをしてもよいなどとは言ってはおらぬぞ――ましてや、上司の目の届く所でな。そこのところ分かっておるのじゃな?」
「ひゃい……」
「ずみばぜん……」
外見に年齢の差は表れていないが、やはり積み重ねた年季は違うのだろう。魔女は舌足らずな返事をして震えだし、ファミリアに至っては涙目になっている。ううむ、恐るべし年の功。
「兄様、何か余計なことを考えておらぬじゃろうな」
「……とんでもございませぬ」
鋭い眼光が飛んできて思わず畏まった口調になってしまう。幼妻の前で年齢の話題は禁句――という訳でもないが、伴侶ができるまで揶揄の対象になっていたこともあって少なからず嫌悪感はあるのだろう。
「もしや、他所様の家で戯れていたこやつらに目を奪われたのではあるまいな」
幸いこちらの思考は読まれていなかったようで、我が幼妻はそんな見当違いのことを聞いてきた。どうも彼女は年齢のことよりも、自分の兄が盗られてしまわないかの方が重要度が高いらしい。
「そんなことないぞ」
「なら証拠を見せてほしいのじゃ、兄様よ……いや、見せつけてほしいのじゃ」
どこか期待の入り混じった視線を送るバフォメットの手を引き、胸の中へと抱き寄せる。正座している二人に妖艶な流し目を送るバフォメットにゆっくりと顔を近づけて、
「……んっ♡」
淡い桃色の唇を乱暴に奪った。
「……くふっ、ん、んうっ、ん……ちゅ、くちゅ……ちゅぱ……」
甘い吐息と唾液の絡み合う音がはじけて消える。唇同士が触れ合う軽い口づけでなく、口内に舌を捻じ込みかき回す乱暴なキス。肌に吹きかけられる吐息はたちまち熱を帯びたものへと変わり、互いの性器を湿らせた。
バフォメットが誘惑のために発した魔力で辺りが桃色に染まっていく。浴びた者に高揚感が与えられるそれは周囲の人物にも影響を及ぼして、正座した二人は顔をほんのり赤らめながら物足りなさそうにもじもじと股をくねらせていた。
「んじゅっ……ちゅ、じゅる……れろ……っく、ぷぁ……くふふ、見たか小娘共め。儂の兄様は貴様らなんぞの色気では満足できぬのじゃ、分かったか♡」
「は、はいぃ……♡」
「わかりましたぁ……♡」
唾液を交換して生まれた糸が切れるのを待ってから、バフォメットは勝利の笑みを浮かべて二人を見やった。少なくとも二人にはこちらを誘惑する意図はなかったと思うのだが、余計なことは心の内にしまっておくことにする。
「兄様は儂だけの兄様なのじゃ……さ、分かったらとっとと床に就くがよいわ。自分たちの兄様に出会える夢が見られるよう、祈っておくのじゃな」
バフォメットは意地の悪い笑みを浮かべつつ、虫を追い払うようにしっしっと手を振って二人を追い払う。二人は虚ろな瞳のままふらふらと立ち上がると、宛がわれている客間へと歩を進めるのだった。
「くふふ、あ奴らもまだまだじゃの。あの様ではお互いに交わっておるかもしれぬな♡」
とんだ上司である、と言いたいところだが代わりにお灸を据えてくれたことは事実なので黙っておく。それにこちらとしてはより重要な問題が発生していた。
「のう、儂らもベッドに向かわぬか? あ奴らをほんの少しからかうつもりじゃったのだが、熱が入ってしまったようでの……おさまらぬのじゃ」
無論おさまらないのはこちらも同じである。じんわりと湿り気を帯びた性器同士が擦れ、服の上からでも分かるほどにその存在を主張していた。
「くふふ、今夜はいい夢が見られそうじゃの、兄様♡」
答えの代わりに軽い口づけをすると華奢な体を抱きかかえる。潤んだ瞳でこちらを見上げながらしっかりと縋りついてくる姿に愛しさを感じつつ、誰にも邪魔されない二人きりの寝室へと向かうのだった。
§
「んみゅぅ……」
年明けを目覚めたままで迎えようとする素振りすら見せず、ドーマウスは寝室で眠りこけていた。ふかふかの毛布にくるまれているその姿は子供らしく愛らしい。鼻をつまんでも耳を引っ張っても容易に目を覚まさない様は、まるで童話の中の眠り姫のようだった。
「くー……すー……あみゅあみゅ……」
そんな眠り姫との出会いは色気の欠片もないものだった。いきなり家に転がり込んだそいつはずかずかと家に入り込んで布団を占領し、そのまま寝付いてしまって意思の疎通もままならない。布団ごと外に放り出す訳にもいかず、せめて起きて話を聞いてもらおうと思ったのだが。
「……やだぁ……ぬがせないでぇ……」
寝言と裏腹にはだけた寝間着姿を見た瞬間、欲情が抑えきれずについ襲ってしまったの。半ば犯罪紛いの行為をした後ろめたさもあって、それ以来一組しかない布団を占拠される日々を送っている。冬になって寒くなってからは毛布もセットだ。……安眠効果のある人肌の抱き枕がついてきたと思えば、そう悪い話ではないのだが。
「んー……もっと……あむあむ……」
……昔話はこれくらいにして本題に入ろう。最近の話だが、こうして眠っている彼女で遊ぶことが趣味になっている。彼女『で』遊ぶ、とは性行為をすることではない。その場合は彼女『と』遊ぶと表すべきだろう。では、彼女『で』遊ぶ、とはいうことはどういうことなのか。
「もぐもぐ……うまうま……」
「……今日はご飯の夢ってことかぁ」
それはドーマウス特有の寝言から、彼女がどんな夢を見ているか想像することである。それなりに生活を共にしているのもあって、魔物娘としての知識は疎くともおおよその習性は把握しているのだ。その気になれば寝言とも会話できる。
「はむはむ……しゃくしゃく……」
「随分歯ごたえのいい音だね……りんごとか?」
「……ぶぶー……しゃくしゃく……おいしくない……」
「……美味しくないのに食べてるの?」
一体夢の中で何を食べているのだろうか。いくら彼女でも自在に夢を操ることはできないようで、稀にだが怖い夢を見て怯えることも泣き出してしまうこともある。その時は優しく抱きしめてから幼い割れ目に指を――おっと、この辺にしておこう。いくら魔物娘とはいえ、こんな幼気な子供に手をだしたことは知られれば一騒ぎになりかねない。
「まずいー……あじしないの……もぐもぐ……すかすか……」
要は、彼女自身にとってよくない夢を見る機会はそうそう訪れないのだ。だからそんな夢を見る何らかの理由があるはずだと考えを巡らせて、
「――あれのせいか」
一つのことに思い当たった。小さな頭を乗せた枕の下に手を突っ込み、下に敷いておいた紙を取り出す。紙には大きな山――富士山――が描かれていた。雲一つない青空と、それと対照的な白く染められた峰が美しい。
『一富士二鷹三茄子』。所謂、初夢に見ると縁起がよいとされているものである。眠ってばっかりで季節感がまるでない彼女に、せめて夢の中だけでも行事を楽しんでほしいと思って仕込んでおいたのだが、どうやら逆効果だったようだ。彼女が寝る前にその言葉だけを教えていたからか、富士しか描かれていない絵にも関わらず言葉から連想して茄子の夢を見たのだろう。
「でも生のまま食べる夢ってのはどうかと思う」
余計なしがらみがなくなったおかげで安らかな寝息を立て始めた彼女に向けて、呆れたように愚痴る。耳や尻尾の形から鼠に近い生き物だということは想定していたのだが、何も食い意地が張っているところまで似なくてもいいだろうに。
「……だって……おやまとか……たかさんは……たべれない……から……」
「別に食べる夢じゃなくてもいいのよ」
「……でも……ちょこれーとの……おやまなら……いける……」
「お菓子の国にでも行かなきゃ無理です」
「……わたしの……おうちに……ある……よ……」
あるんかい。姿形だけでなく出身地も随分とファンシーなようだ。いつかは訪れてみたい気もするがどうやって行けばいいのだろうか。それこそ夢のような話だ。あるいはこの娘、本当に夢の国からやってきたお姫様なのかもしれない。
「君のお家って他にどんなものがあるの? 知りたいなあ」
「えっとね……ちいさくなるくっきーとね……おおきくなるけーきと……わんわんさんになるこうちゃとね……あとね……わたしがおふろがわりにしてるこうちゃのぽっととね……」
「ストップストップ」
予想以上のメルヘン(?)に混乱する頭を抱えて制止する。子供の頃に読んだ絵本の世界とはかけ離れた内容が聞こえてきて理解が追い付かない。
「さりげなく言ったけどお風呂代わりにしてるって何だよそれ」
「……みんなね……わたしを……よってたかって……ぽっとにおしこめるの……」
それっていじめじゃないのか。現代社会の闇はメルヘン世界をも蝕んでいたのかと思うと陰鬱な気持ちになる。
「うさぎさん……きのこさん……ねこさんにとりさん……たまごさんとかーどさん……みんなわたしのこうちゃがすきなんだよ……」
「後半はもう生物ですらない。そんな世界本当に――」
いや待て。子供の時に読んだ本の中で、そんな登場人物が繰り広げる物語があったことを思いだす。
「おはなし……してたら……なつかしくなってきちゃった……かえろうかな……」
「帰ろうって……そんな自由に帰れるものなの?」
「うん……いつでも……かえれる……おにいさんも……つれてく……」
「え」
不穏な言葉と共に、ひしと腕にしがみつかれる。すると突然、視界が霞みがかったかのように揺らぎだした。一体何が起こったのかと彼女に聞こうとして、
「えへへ……ひさしぶり……おにいさんみつけたから……じまんできる……」
これまで見たことのない笑顔と、しっかりと見開かれた双眸に息を呑んだ。寝ぼけ眼をした儚げな少女ではなく、にんまりと口を歪めたいやらしい女性――いや、女性というのもおこがましい好色に満ちた雌――の貌をしていたのだから。
「こうちゃに……みるくもいれてもらえる……わたしだけ……『こども』あつかいされないよ……♡」
言葉の端から滲みだす淫猥な気に気圧されるも、しがみつかれた腕をほどくこともできなかった。そしてそのまま、彼女の身体から発せられる魔力の霧に呑まれて、
「……おれいに……おにいさんに……いっぱい……いーっぱい……たのしいゆめを……みせてあげるからね……♡」
(確か、不思議の、国の――)
遠ざかる鐘の音を聞きながら、おそらく自分が連れていかれるであろう狂気的な世界の名を脳裏によぎらせつつ、ゆっくりと意識を手放すのだった。
§
ゴーン……ゴーン……。
鐘の音が厳かに、そして夜の静寂を乱さないように鳴り響く中を、ヴァルキリーと連れ立って歩いていた。吐く息は白く、切りつけるような寒さが肌身に染みる。繋いだ手の温もりが頼もしく感じるのは、彼女が武術を嗜んでいるからだろうか。
ゴーン……ゴーン……。
「おー、鳴ってる鳴ってる」
「む。これでは我らが辿り着く前に終わってしまうのではないか。急ぐぞ」
「ちょい待って」
いきなりこちらの肩と腰を抱えた上で前傾姿勢をとる彼女を言葉で制止する。
「ぬ。何だ、何か問題でもあるのか」
「問題しかないわい、まず下ろして」
とりあえず両足が無事に地面に着いたことを目で確認しつつ安堵して、こちらよりも背の高い彼女の顔へと視線を動かす。防寒具で覆い隠しているものの、高い背丈と長くしなやかな脚は見る者を惹きつける魅力を放っていた。きょとんと呆気に取られた表情からは、いつもの堅苦しさは見られない。
「そのね、折角のデートなんだしね、もっとこう風情というかなんというか」
「なんだ。私が抱えて走れば早く着くぞ?」
「……恥ずかしいじゃん」
そうか? と言いたげな様子で首を傾げる彼女は、男のプライドというものをまだよく理解できていないようだ。少し無理矢理気味に手を取ると、戸惑う彼女を強引に引っ張るようにして再び歩き始める。
「だが、除夜の鐘というものは百八回……煩悩の数だけ打たねばならないのだろう? その百八回に間に合わなかったら意味がないだろう。私は鐘とやらを鳴らして煩悩を取り去りたいのだ」
そう、これから二人で近所の寺院に除夜の鐘を鳴らしに行くところなのである。デートというにはあまりにちっぽけな外出なのだが物は言いよう、二人で出かけていればそれはデートなのである。
(まあ、向こうはそんなことを露ほども意識しちゃいないんだろうけどさ)
そもそも、出会いから今に至るまで不自然なことが多すぎたのだ。いきなり光と共に現れたかと思えば『お前が私の勇者か?』などと訳の分からないことを聞かれ、なし崩しにこうして生活を共にしているのだ。現代社会の常識に疎い彼女を支えつつ、隙あらば恋人みたいなことができないかと狙ってこそいるものの、その努力は実る気配すらない。
「いや、これから行くお寺はそこまで形式ばってなくてね、別に叩きたい人が叩いていいんだって」
「なんと、そんないい加減なものでいいのか!? そのような心掛けで行うとは、全く嘆かわしいものだ」
「ストップストップ。自分で鐘を叩いて厄を払うって考えてる人もいるんだから、皆を相手にしてたら百八回じゃ足りないんだよ。それだったら皆に叩いてもらおうってことになったみたいでさ。ま、臨機応変ってことでここは一つ」
「成程、確かに年に一度の機会なのだから仕方あるまい。それに、現に私も柄にもなくわくわくしているのだからな――何せ、日頃の鍛錬の成果を形にできるのやもしれんからな」
「……ちゃんと加減してよ。万一壊されても弁償とかできないからね」
分かっている分かっているとうんうん頷いているが、本当に分かっているかどうか些か不安である。それでもご機嫌な様子の彼女を見ているとこちらも嬉しくなってしまう。惚れた弱味とでもいうのだろうか。
「やはり楽しみになってきたな、少しくらい急いでもいいだろう?」
「全力疾走はだめだよ」
ちゃんと釘を刺しておくことも忘れないでおく。さもないと二人揃って息せき切らした状態で到着、なんてことになりかねない。師走だからと言ってむやみやたらに急く必要はないのである。
「ふふっ、楽しみだ」
そう言って軽やかにスキップしだす彼女に遅れないように、しっかりと繋いだ手を握るのだった。
※
十数分後、鐘を打ち終わった帰り道のこと。とぼとぼと肩を落として歩くヴァルキリーを慰める羽目に合っていた。
「もう気にしないの。ほら、顔上げて」
「……すまん、つい」
案の定である。
軽やかな気分で寺院に辿り着いたおかげですっかりウキウキ気分となっていた彼女は、加減なしで橦木を振りかぶると、鐘よ吹き飛べとばかりに思い切り叩きつけたのだ。
(まさか鐘を支えに入ったオーガさんが意識を飛ばすレベルだったとは……)
幸い怪我人も建物への被害もなく、件のオーガさんは豪快に笑い飛ばしてくれたのだが、当人はさぞかしばつの悪い思いをしただろう。
「……薄々分かっていたことだが、どうもこちらの世界では私の鍛錬はあまり意味をなさないようだな」
珍しくしょんぼりと落ち込むヴァルキリーに何と声をかけていいか分からず、ただ黙ってじっと彼女を見つめることしかできなかった。
「正直なところ、私は不安なのだ――この世界に来てから、自分というものが変わってしまっているのだから」
ポツリと呟いた言葉。そう、訪れたばかりの彼女はこの世界に馴染めずにいた。今では大人しくしているが、魔物娘を見るや否やいきなり斬りかかろうとしたことさえあったのだから無理もない。無闇に争うことはないと説得し、平穏の大切さを述べたところでようやく引いてくれたのだからその根は深そうだ。
「私は――私は、お前を正しく導けているのだろうか? お前の足かせになってはいないだろうか?」
やることなすことうまくいかずに、こうした問いかけをするのも一度や二度ではない。いつもは凛々しく振る舞ってはいるものの、知らない世界にいることに不安を抱いているようなのだ。
突如現れた理想の女性が、自分にだけ見せる弱味。それさえも彼女を作る一面なのだろうと思うと、ますます彼女が愛おしく感じた。
「大丈夫だよ。君といられて、毎日がとても楽しい」
だから、例え力及ばずともそんな彼女の支えになりたくて。
「これからも一緒にいてほしいな」
偽りのない本心を打ち明けた。
※
気がつくと、子供のように目の前の彼に縋りついていた。まるで初めからこうあるべきだったような、欠けていたものが満たされていく感覚。
遠ざかる鐘の音を聞きながら、私は振り払うことのできなかった煩悩に心地良さすら覚えてしまっていた。
(――我が主よ)
(おそらく私はすでに堕ちてしまっているのでしょう)
(魔物娘を排除する使命も、彼を勇者として育て上げることすらも投げ出して)
(ただ平穏な日々を送ることに、幸いを抱いてしまっているのですから)
それは全て彼のせい。
それは全て彼のおかげ。
心の内で苛む二つの相反する感情に押し潰されそうになることもある。そこから救いの手を差し伸べてくれるのは、私が仕えるべき神ではなく彼だったのは皮肉だろう。
それでも。
――これからも一緒にいてほしいな。
彼の言葉が偽りでないのであれば、私はいつまでも『私』でいられるからと。戦乙女に相応しくない、か細く、弱々しい祈りを捧げる。
(――どうか、許されるのであれば)
(このまま変わらない、彼との日々が永遠に続きますように――)
その問いかけに答える者はいない。
ただ静かに、鐘の鳴る音だけが鳴り響いていた。
§
コタツに入り、ずるずると音を立てて夕食の蕎麦を啜る。刻んだ葱と固ゆで卵が浮かんだだけの簡素な食事だ。せっかくこれから年を越すのだから、もう少し豪華にするべきだったかもしれない。
「なー、かき揚げとかないのか?」
「そんな暇ある訳ないでしょ」
そう思っているのは目の前に座るゲイザーも一緒だったようだ。半分に切られた卵を箸でつんつん突きながら、不満気に口を尖らせて愚痴をこぼす。背の触手が威嚇するようにこちらを取り囲んだ。数多の瞳がこちらを一斉に見つめてきてプレッシャーがヤバい……が、よく見ると幾つかは目が半開きだったり触手の粘液がカサついていたりと元気がない。そうか、侘しいご飯のせいか。
「けちー」
そんなことを言われてもこちらにも事情があるのだ。明日に備えておせち料理やお雑煮、さらにはそれに飽きさせないための小料理を作っていれば、夕食が質素になるのも当然の理と言えよう。ひいてはそれを要求したのは目の前でへたれる当の本人なのだ。自業自得である。
「エビ天ー」
「無理だって」
「かまぼこー」
「それは明日までのお楽しみ、どうせ嫌になるまで食べるんだし」
「とろろー」
「今から買いに行けと?」
「……うぁー」
ゲイザーは情けない声を上げると、丼を持ったまま器用に前に倒れ込んだ。目の前に差し出される形になった器の中に麺はない。ただ葱の切れ端と濃い目の汁が浮かぶばかりである。触手はしおしおと萎れ、すごすごと彼女の背へと戻っていった。
「ひもじいよぅ……蕎麦おかわり……」
「なんだかんだで結局食うんかい」
「器に埋まるくらいの具がほしいよぅ……」
「ゆで卵オンリーでそれやると共食いみたいでやんの――ほぶっ」
言葉が終わる前に視界の外から横殴りの一撃が飛んできた。的確にこちらの顎を打ちぬいたそれは、しゅるしゅると音を立てて彼女の背へと戻る。器用なことに、目玉の側面についている棘を的確に使って殴打したのだろう。
「地味に痛いなアレ……」
「いいからとっととよそってこい。大盛り」
痛む顎をさすりながら、しぶしぶコタツの温もりに別れを告げるのであった。
※
「はー、ごちそうさま♡ やっぱ蕎麦食ってると年越しって感じがするよなー」
空になったどんぶりをコタツの上に乗せ、ゲイザーはお腹をポンポン叩いて人心地ついていた。残っていたゆで卵を全部入れたらすっかりこの通りご満悦である。粘液もぷるぷるの潤いを取り戻し、触手の眼も満足気な様子だ。
「……蕎麦以外にも年越し要素はあるでしょうに」
対してこちらは仏頂面である。安い贅沢だな、卵ばっか食べて太るぞ、とか口を滑らせてしまい、顎と額に一発ずついいのをもらってしまった。加減してくれてはいるようだが、そんな気遣いがあるのなら最初から殴らないでほしい。
「例えば?」
「大掃除とか」
「ほこりかぶるからやだ」
「除夜の鐘とか」
「寒い中出歩くのやだ」
「は、初夢とか」
「今日くらいじゃん日付が変わるまで夜更かししても怒られないの」
それは年明けを迎えるためであって、決してゲームをするために許可した訳ではない。コタツに入ってゲームにかじりついて気づいたら寝落ちしていて年が明けていましたーとか、そんなのは嫌だぞ。
まあ言っても聞いてくれないし、ご飯のときとこうしておしゃべりしている時はゲームの手を止めているので、彼女なりに譲歩はしてるのだろう。
「じゃ、じゃあ年が明けてからだ――初日の出とか」
「さっき寒いからやだっていったじゃん」
「初詣」
「人混みキライ」
「……初売りのセールとか。ゲーム買ってもいいよ?」
「別に今すぐ欲しいものないし、それよりゲームの続きしてたい」
「…………。ゲイザーちゃん」
「何だ改まってちゃん付けなんかして」
「ゲイザーちゃんさ、正月のことをどう思ってる?」
「長い連休。あ、あとお年玉がもらえる日。よこせ」
あまりに無情である。ニタニタとギザギザ歯を光らせて心底楽しそうな目つきをしているのだから手に負えない。催眠を使わないだけ有情だと言う人もいるかもしれないがそれは大甘だ。このゲイザーは、一度決めたことはそれが例えどんなちゃらんぽらんな考えだろうとも、いつまでも我を通し続けるのでこちらが折れざるを得ないのである。いっそ素直に催眠使えこんにゃろう。
「けちけちすんなよ。どーせ他に使い道ないだろ?」
「頼むから無駄遣いはしないでよね、ソシャゲにドバドバ課金とかさ……」
「そんな親みたいな言い方すんなよ。いつからお前はアタシの親になったんだ」
「いっそ親子なら躾られるのになぁ……」
「なんだよ躾って――あ、ああ、あーあー、そういうことか、ふーん」
何を勘違いしたのか、このアンポンタンはしたり顔でにやにやと笑い始めた。
「ふーん、躾って何するつもりなんだろーなー、ふーん」
「何勘違いしてんだこのスカポンタン、ゲーム取り上げて初詣に連れてくだけだ」
「えー、つまんねーの」
「つまらなくていいの、正月くらい落ち着いた気分でいさせろい」
「落ち着いた気分ねぇ……」
突如声のトーンを落とされて、訝し気に彼女を見据える。次はどんなろくでもないことをするのかと、内心警戒しながら様子を窺って、
「アタシはお前の前でなら、いつでも落ち着いていられるけどな」
「――は?」
至って真面目な言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「何間抜けな声上げてんだよ」
しなる触手がぺちぺちとこちらの肩を叩き始めた。先の一撃とは違って不愉快さは感じない。むしろ犬猫がじゃれつく気安さがあって、拗ねているような、あるいは甘えてるような印象を受けた。
「お前がどう思ってるか知らないけどさ、これでも少しは感謝してるんだぜ? アタシのワガママを聞いてくれて、でもアタシの言いなりにはならなくて、ちゃんとお前自身の意見を言ってくれてさ」
べしべしと衝撃が強くなる。だんだん叩かれている肩に痛みが生まれてきたのだが、そのことに彼女は気づいていないようだった。
「だからアタシも素のアタシを出せるっていうか……なんて言うか、そう、アレだよアレ……変に気を遣わなくて楽っていうか……」
どうやら照れ臭いらしく、彼女は顔を明後日の方に向けながら、頬を掻きつつ顔を真っ赤にしていた。同時にこちらを襲う触手の数が増え、殴打される範囲が広がっていく。
「恋人とか夫婦って感じじゃなくて……でも友達っていうにはもうちょっと深い関係で……そう! 腐れ縁って奴だな! アタシとお前ってそんな感じの関係だと思うんだよ! だからな、そのな、これからも、アタシと――」
「悦に浸ってるとこ悪いけどちょいこっち向いて」
「あん? 何だよ人が真面目な話を――あ゛」
こちらを向いた瞬間、彼女はようやく理解した。照れ隠しに取った軽はずみな行動がどのような結末をもたらすのかを、言葉の合間に聞こえてきた陶器が欠ける音の意味を――コタツの上に乗っている、先程まで丼だった物体の成れの果てを。
「「…………」」
行動は迅速だった。寝室に逃げ出すべく無言で立ち上がったゲイザーの後ろ姿へ、情け容赦ない追跡の手を伸ばす。握りしめた拳の中にしっかりと触手の一本を捕らえると、逃げ出そうとした勢いのまま彼女は床にすっ転んだ。
「あ――」
逃げられないと悟った彼女は振り向いて赤い瞳を輝かせる。どうやら催眠をかけて誤魔化そうとしたらしく、怯えていた表情がしてやったりなものへと変わる。
「――え、なんで」
が、それはすぐさま再び絶望に染まった。
「ちゃんと暗示かけたのに、何で? 何でだよ!?」
「『ゲイザーちゃんのことが好きになって、何でも許してあげたくなる』って暗示かぁ――でもね、ゲイザーちゃんが思ってる以上にゲイザーちゃんのことが大好きなんだから効くはずないでしょ? それにね」
彼女がしていたように口の端に笑みを浮かべながら、残酷な言葉を告げる。
「ゲイザーちゃんがお仕置きされてどんなに泣き叫んで近所迷惑になっても許してあげるからね、安心してお仕置きされなさい♡」
己の置かれた立場を理解したのか、ゲイザーは懇願するようにこちらを見上げると体をぷるぷると震わせた。瞳が蓄えていた魔力はきれいさっぱり霧散し、今ではぱちぱちと瞬きを頻繁に繰り返すだけに留まっている。
「……わざとじゃないぞ、わざとじゃ。だから、勘弁な、な? ほら、もうすぐ新年だし水に流して――」
「――お正月は長い連休とか言ってたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「……むかしのことはわすれました」
「折檻。お尻向けて。叩く。思いっきり」
まさか今年最後の思い出が尻叩きの折檻になるとは思わなかった。
※
「クッソ、尻痛ぇ……アタシたち今年はきっと冴えねえな――いや、今年もって言うべきかな」
「それが腐れ縁って奴じゃないのか……ほらそこ、染みにならないうちにちゃんと拭き取る」
「へーへー」
「それが終わったらお布団入ってもう寝なさい。起きたら一緒に初日の出見て、ご飯食べて、それから初詣に行こうね――行こうね?」
「へーへー、付き合えばいいんだろ、分かりましたよって……」
新年最初の共同作業は散らばった破片の掃除と零れた汁の掃除だった。
今年こそ少しはまともになってほしいものである、まったく。
外はすっかり暗くなっていて、時計の針は十一時を回っている。あと一時間もしないうちに今年は終わりを告げて、新たな年がやってくるのだ。一年の終わりである今日くらい、共に暮らす幼妻のバフォメットと、去り行く日々に思いを馳せて過ごしたいと願っていたのだが。
「キャハハ、リモコンとったー!」
「あーっ! せっかく今いいところだったのにー!!」
残念なことに、目の前で飛び回る幼女共にはこの風情が理解できないようである。幼女共――バフォメットの部下である魔女とファミリアだ――はテレビのリモコンをめぐって目の前でキャットファイトを繰り広げていた。テレビの画面は歌番組とバラエティ番組の間で忙しなく移り変わっていて、ハリセンを持った刑部狸が芸人らしき人間の尻に一撃を叩きこんだかと思えば、セイレーン夫婦が身を絡ませ合いながらサビのパートを歌っていた。
「うーたーばーんーぐーみー!!」
「ばーらーえーてぃー!!」
喧しい二人をどう処置するかを決めあぐねていると、
「貴っ様らぁ……人様の家でいつまでもいい加減にせぬかー!!」
どこからともなく飛んできたミカンが二人の脳天に直撃し、その動きを止めたのであった。
※
「ごめんなさい……」
「はしゃぎすぎました……」
ミカンを投擲したバフォメットは騒いでいた二人を正座させると、その前に腕を組んで仁王立ちになった。鼻息は荒く、誰が見ても明らかに怒っていると言えよう。
「貴様らは儂を舐めておるのか? のう、舐めておるのか?」
組んだ腕を解き、獣の掌で頬をぺちぺちと叩く。物騒な発言を除けば、幼女同士の戯れに見えないこともないだろう。もっとも、額に青筋を立てて八重歯を剥き出しにしている彼女からは、とても幼女とは思えない威圧感が放たれていたが。
「遊びに来てもよいとは言ったがな、家主を押しのけて不遜な振る舞いをしてもよいなどとは言ってはおらぬぞ――ましてや、上司の目の届く所でな。そこのところ分かっておるのじゃな?」
「ひゃい……」
「ずみばぜん……」
外見に年齢の差は表れていないが、やはり積み重ねた年季は違うのだろう。魔女は舌足らずな返事をして震えだし、ファミリアに至っては涙目になっている。ううむ、恐るべし年の功。
「兄様、何か余計なことを考えておらぬじゃろうな」
「……とんでもございませぬ」
鋭い眼光が飛んできて思わず畏まった口調になってしまう。幼妻の前で年齢の話題は禁句――という訳でもないが、伴侶ができるまで揶揄の対象になっていたこともあって少なからず嫌悪感はあるのだろう。
「もしや、他所様の家で戯れていたこやつらに目を奪われたのではあるまいな」
幸いこちらの思考は読まれていなかったようで、我が幼妻はそんな見当違いのことを聞いてきた。どうも彼女は年齢のことよりも、自分の兄が盗られてしまわないかの方が重要度が高いらしい。
「そんなことないぞ」
「なら証拠を見せてほしいのじゃ、兄様よ……いや、見せつけてほしいのじゃ」
どこか期待の入り混じった視線を送るバフォメットの手を引き、胸の中へと抱き寄せる。正座している二人に妖艶な流し目を送るバフォメットにゆっくりと顔を近づけて、
「……んっ♡」
淡い桃色の唇を乱暴に奪った。
「……くふっ、ん、んうっ、ん……ちゅ、くちゅ……ちゅぱ……」
甘い吐息と唾液の絡み合う音がはじけて消える。唇同士が触れ合う軽い口づけでなく、口内に舌を捻じ込みかき回す乱暴なキス。肌に吹きかけられる吐息はたちまち熱を帯びたものへと変わり、互いの性器を湿らせた。
バフォメットが誘惑のために発した魔力で辺りが桃色に染まっていく。浴びた者に高揚感が与えられるそれは周囲の人物にも影響を及ぼして、正座した二人は顔をほんのり赤らめながら物足りなさそうにもじもじと股をくねらせていた。
「んじゅっ……ちゅ、じゅる……れろ……っく、ぷぁ……くふふ、見たか小娘共め。儂の兄様は貴様らなんぞの色気では満足できぬのじゃ、分かったか♡」
「は、はいぃ……♡」
「わかりましたぁ……♡」
唾液を交換して生まれた糸が切れるのを待ってから、バフォメットは勝利の笑みを浮かべて二人を見やった。少なくとも二人にはこちらを誘惑する意図はなかったと思うのだが、余計なことは心の内にしまっておくことにする。
「兄様は儂だけの兄様なのじゃ……さ、分かったらとっとと床に就くがよいわ。自分たちの兄様に出会える夢が見られるよう、祈っておくのじゃな」
バフォメットは意地の悪い笑みを浮かべつつ、虫を追い払うようにしっしっと手を振って二人を追い払う。二人は虚ろな瞳のままふらふらと立ち上がると、宛がわれている客間へと歩を進めるのだった。
「くふふ、あ奴らもまだまだじゃの。あの様ではお互いに交わっておるかもしれぬな♡」
とんだ上司である、と言いたいところだが代わりにお灸を据えてくれたことは事実なので黙っておく。それにこちらとしてはより重要な問題が発生していた。
「のう、儂らもベッドに向かわぬか? あ奴らをほんの少しからかうつもりじゃったのだが、熱が入ってしまったようでの……おさまらぬのじゃ」
無論おさまらないのはこちらも同じである。じんわりと湿り気を帯びた性器同士が擦れ、服の上からでも分かるほどにその存在を主張していた。
「くふふ、今夜はいい夢が見られそうじゃの、兄様♡」
答えの代わりに軽い口づけをすると華奢な体を抱きかかえる。潤んだ瞳でこちらを見上げながらしっかりと縋りついてくる姿に愛しさを感じつつ、誰にも邪魔されない二人きりの寝室へと向かうのだった。
§
「んみゅぅ……」
年明けを目覚めたままで迎えようとする素振りすら見せず、ドーマウスは寝室で眠りこけていた。ふかふかの毛布にくるまれているその姿は子供らしく愛らしい。鼻をつまんでも耳を引っ張っても容易に目を覚まさない様は、まるで童話の中の眠り姫のようだった。
「くー……すー……あみゅあみゅ……」
そんな眠り姫との出会いは色気の欠片もないものだった。いきなり家に転がり込んだそいつはずかずかと家に入り込んで布団を占領し、そのまま寝付いてしまって意思の疎通もままならない。布団ごと外に放り出す訳にもいかず、せめて起きて話を聞いてもらおうと思ったのだが。
「……やだぁ……ぬがせないでぇ……」
寝言と裏腹にはだけた寝間着姿を見た瞬間、欲情が抑えきれずについ襲ってしまったの。半ば犯罪紛いの行為をした後ろめたさもあって、それ以来一組しかない布団を占拠される日々を送っている。冬になって寒くなってからは毛布もセットだ。……安眠効果のある人肌の抱き枕がついてきたと思えば、そう悪い話ではないのだが。
「んー……もっと……あむあむ……」
……昔話はこれくらいにして本題に入ろう。最近の話だが、こうして眠っている彼女で遊ぶことが趣味になっている。彼女『で』遊ぶ、とは性行為をすることではない。その場合は彼女『と』遊ぶと表すべきだろう。では、彼女『で』遊ぶ、とはいうことはどういうことなのか。
「もぐもぐ……うまうま……」
「……今日はご飯の夢ってことかぁ」
それはドーマウス特有の寝言から、彼女がどんな夢を見ているか想像することである。それなりに生活を共にしているのもあって、魔物娘としての知識は疎くともおおよその習性は把握しているのだ。その気になれば寝言とも会話できる。
「はむはむ……しゃくしゃく……」
「随分歯ごたえのいい音だね……りんごとか?」
「……ぶぶー……しゃくしゃく……おいしくない……」
「……美味しくないのに食べてるの?」
一体夢の中で何を食べているのだろうか。いくら彼女でも自在に夢を操ることはできないようで、稀にだが怖い夢を見て怯えることも泣き出してしまうこともある。その時は優しく抱きしめてから幼い割れ目に指を――おっと、この辺にしておこう。いくら魔物娘とはいえ、こんな幼気な子供に手をだしたことは知られれば一騒ぎになりかねない。
「まずいー……あじしないの……もぐもぐ……すかすか……」
要は、彼女自身にとってよくない夢を見る機会はそうそう訪れないのだ。だからそんな夢を見る何らかの理由があるはずだと考えを巡らせて、
「――あれのせいか」
一つのことに思い当たった。小さな頭を乗せた枕の下に手を突っ込み、下に敷いておいた紙を取り出す。紙には大きな山――富士山――が描かれていた。雲一つない青空と、それと対照的な白く染められた峰が美しい。
『一富士二鷹三茄子』。所謂、初夢に見ると縁起がよいとされているものである。眠ってばっかりで季節感がまるでない彼女に、せめて夢の中だけでも行事を楽しんでほしいと思って仕込んでおいたのだが、どうやら逆効果だったようだ。彼女が寝る前にその言葉だけを教えていたからか、富士しか描かれていない絵にも関わらず言葉から連想して茄子の夢を見たのだろう。
「でも生のまま食べる夢ってのはどうかと思う」
余計なしがらみがなくなったおかげで安らかな寝息を立て始めた彼女に向けて、呆れたように愚痴る。耳や尻尾の形から鼠に近い生き物だということは想定していたのだが、何も食い意地が張っているところまで似なくてもいいだろうに。
「……だって……おやまとか……たかさんは……たべれない……から……」
「別に食べる夢じゃなくてもいいのよ」
「……でも……ちょこれーとの……おやまなら……いける……」
「お菓子の国にでも行かなきゃ無理です」
「……わたしの……おうちに……ある……よ……」
あるんかい。姿形だけでなく出身地も随分とファンシーなようだ。いつかは訪れてみたい気もするがどうやって行けばいいのだろうか。それこそ夢のような話だ。あるいはこの娘、本当に夢の国からやってきたお姫様なのかもしれない。
「君のお家って他にどんなものがあるの? 知りたいなあ」
「えっとね……ちいさくなるくっきーとね……おおきくなるけーきと……わんわんさんになるこうちゃとね……あとね……わたしがおふろがわりにしてるこうちゃのぽっととね……」
「ストップストップ」
予想以上のメルヘン(?)に混乱する頭を抱えて制止する。子供の頃に読んだ絵本の世界とはかけ離れた内容が聞こえてきて理解が追い付かない。
「さりげなく言ったけどお風呂代わりにしてるって何だよそれ」
「……みんなね……わたしを……よってたかって……ぽっとにおしこめるの……」
それっていじめじゃないのか。現代社会の闇はメルヘン世界をも蝕んでいたのかと思うと陰鬱な気持ちになる。
「うさぎさん……きのこさん……ねこさんにとりさん……たまごさんとかーどさん……みんなわたしのこうちゃがすきなんだよ……」
「後半はもう生物ですらない。そんな世界本当に――」
いや待て。子供の時に読んだ本の中で、そんな登場人物が繰り広げる物語があったことを思いだす。
「おはなし……してたら……なつかしくなってきちゃった……かえろうかな……」
「帰ろうって……そんな自由に帰れるものなの?」
「うん……いつでも……かえれる……おにいさんも……つれてく……」
「え」
不穏な言葉と共に、ひしと腕にしがみつかれる。すると突然、視界が霞みがかったかのように揺らぎだした。一体何が起こったのかと彼女に聞こうとして、
「えへへ……ひさしぶり……おにいさんみつけたから……じまんできる……」
これまで見たことのない笑顔と、しっかりと見開かれた双眸に息を呑んだ。寝ぼけ眼をした儚げな少女ではなく、にんまりと口を歪めたいやらしい女性――いや、女性というのもおこがましい好色に満ちた雌――の貌をしていたのだから。
「こうちゃに……みるくもいれてもらえる……わたしだけ……『こども』あつかいされないよ……♡」
言葉の端から滲みだす淫猥な気に気圧されるも、しがみつかれた腕をほどくこともできなかった。そしてそのまま、彼女の身体から発せられる魔力の霧に呑まれて、
「……おれいに……おにいさんに……いっぱい……いーっぱい……たのしいゆめを……みせてあげるからね……♡」
(確か、不思議の、国の――)
遠ざかる鐘の音を聞きながら、おそらく自分が連れていかれるであろう狂気的な世界の名を脳裏によぎらせつつ、ゆっくりと意識を手放すのだった。
§
ゴーン……ゴーン……。
鐘の音が厳かに、そして夜の静寂を乱さないように鳴り響く中を、ヴァルキリーと連れ立って歩いていた。吐く息は白く、切りつけるような寒さが肌身に染みる。繋いだ手の温もりが頼もしく感じるのは、彼女が武術を嗜んでいるからだろうか。
ゴーン……ゴーン……。
「おー、鳴ってる鳴ってる」
「む。これでは我らが辿り着く前に終わってしまうのではないか。急ぐぞ」
「ちょい待って」
いきなりこちらの肩と腰を抱えた上で前傾姿勢をとる彼女を言葉で制止する。
「ぬ。何だ、何か問題でもあるのか」
「問題しかないわい、まず下ろして」
とりあえず両足が無事に地面に着いたことを目で確認しつつ安堵して、こちらよりも背の高い彼女の顔へと視線を動かす。防寒具で覆い隠しているものの、高い背丈と長くしなやかな脚は見る者を惹きつける魅力を放っていた。きょとんと呆気に取られた表情からは、いつもの堅苦しさは見られない。
「そのね、折角のデートなんだしね、もっとこう風情というかなんというか」
「なんだ。私が抱えて走れば早く着くぞ?」
「……恥ずかしいじゃん」
そうか? と言いたげな様子で首を傾げる彼女は、男のプライドというものをまだよく理解できていないようだ。少し無理矢理気味に手を取ると、戸惑う彼女を強引に引っ張るようにして再び歩き始める。
「だが、除夜の鐘というものは百八回……煩悩の数だけ打たねばならないのだろう? その百八回に間に合わなかったら意味がないだろう。私は鐘とやらを鳴らして煩悩を取り去りたいのだ」
そう、これから二人で近所の寺院に除夜の鐘を鳴らしに行くところなのである。デートというにはあまりにちっぽけな外出なのだが物は言いよう、二人で出かけていればそれはデートなのである。
(まあ、向こうはそんなことを露ほども意識しちゃいないんだろうけどさ)
そもそも、出会いから今に至るまで不自然なことが多すぎたのだ。いきなり光と共に現れたかと思えば『お前が私の勇者か?』などと訳の分からないことを聞かれ、なし崩しにこうして生活を共にしているのだ。現代社会の常識に疎い彼女を支えつつ、隙あらば恋人みたいなことができないかと狙ってこそいるものの、その努力は実る気配すらない。
「いや、これから行くお寺はそこまで形式ばってなくてね、別に叩きたい人が叩いていいんだって」
「なんと、そんないい加減なものでいいのか!? そのような心掛けで行うとは、全く嘆かわしいものだ」
「ストップストップ。自分で鐘を叩いて厄を払うって考えてる人もいるんだから、皆を相手にしてたら百八回じゃ足りないんだよ。それだったら皆に叩いてもらおうってことになったみたいでさ。ま、臨機応変ってことでここは一つ」
「成程、確かに年に一度の機会なのだから仕方あるまい。それに、現に私も柄にもなくわくわくしているのだからな――何せ、日頃の鍛錬の成果を形にできるのやもしれんからな」
「……ちゃんと加減してよ。万一壊されても弁償とかできないからね」
分かっている分かっているとうんうん頷いているが、本当に分かっているかどうか些か不安である。それでもご機嫌な様子の彼女を見ているとこちらも嬉しくなってしまう。惚れた弱味とでもいうのだろうか。
「やはり楽しみになってきたな、少しくらい急いでもいいだろう?」
「全力疾走はだめだよ」
ちゃんと釘を刺しておくことも忘れないでおく。さもないと二人揃って息せき切らした状態で到着、なんてことになりかねない。師走だからと言ってむやみやたらに急く必要はないのである。
「ふふっ、楽しみだ」
そう言って軽やかにスキップしだす彼女に遅れないように、しっかりと繋いだ手を握るのだった。
※
十数分後、鐘を打ち終わった帰り道のこと。とぼとぼと肩を落として歩くヴァルキリーを慰める羽目に合っていた。
「もう気にしないの。ほら、顔上げて」
「……すまん、つい」
案の定である。
軽やかな気分で寺院に辿り着いたおかげですっかりウキウキ気分となっていた彼女は、加減なしで橦木を振りかぶると、鐘よ吹き飛べとばかりに思い切り叩きつけたのだ。
(まさか鐘を支えに入ったオーガさんが意識を飛ばすレベルだったとは……)
幸い怪我人も建物への被害もなく、件のオーガさんは豪快に笑い飛ばしてくれたのだが、当人はさぞかしばつの悪い思いをしただろう。
「……薄々分かっていたことだが、どうもこちらの世界では私の鍛錬はあまり意味をなさないようだな」
珍しくしょんぼりと落ち込むヴァルキリーに何と声をかけていいか分からず、ただ黙ってじっと彼女を見つめることしかできなかった。
「正直なところ、私は不安なのだ――この世界に来てから、自分というものが変わってしまっているのだから」
ポツリと呟いた言葉。そう、訪れたばかりの彼女はこの世界に馴染めずにいた。今では大人しくしているが、魔物娘を見るや否やいきなり斬りかかろうとしたことさえあったのだから無理もない。無闇に争うことはないと説得し、平穏の大切さを述べたところでようやく引いてくれたのだからその根は深そうだ。
「私は――私は、お前を正しく導けているのだろうか? お前の足かせになってはいないだろうか?」
やることなすことうまくいかずに、こうした問いかけをするのも一度や二度ではない。いつもは凛々しく振る舞ってはいるものの、知らない世界にいることに不安を抱いているようなのだ。
突如現れた理想の女性が、自分にだけ見せる弱味。それさえも彼女を作る一面なのだろうと思うと、ますます彼女が愛おしく感じた。
「大丈夫だよ。君といられて、毎日がとても楽しい」
だから、例え力及ばずともそんな彼女の支えになりたくて。
「これからも一緒にいてほしいな」
偽りのない本心を打ち明けた。
※
気がつくと、子供のように目の前の彼に縋りついていた。まるで初めからこうあるべきだったような、欠けていたものが満たされていく感覚。
遠ざかる鐘の音を聞きながら、私は振り払うことのできなかった煩悩に心地良さすら覚えてしまっていた。
(――我が主よ)
(おそらく私はすでに堕ちてしまっているのでしょう)
(魔物娘を排除する使命も、彼を勇者として育て上げることすらも投げ出して)
(ただ平穏な日々を送ることに、幸いを抱いてしまっているのですから)
それは全て彼のせい。
それは全て彼のおかげ。
心の内で苛む二つの相反する感情に押し潰されそうになることもある。そこから救いの手を差し伸べてくれるのは、私が仕えるべき神ではなく彼だったのは皮肉だろう。
それでも。
――これからも一緒にいてほしいな。
彼の言葉が偽りでないのであれば、私はいつまでも『私』でいられるからと。戦乙女に相応しくない、か細く、弱々しい祈りを捧げる。
(――どうか、許されるのであれば)
(このまま変わらない、彼との日々が永遠に続きますように――)
その問いかけに答える者はいない。
ただ静かに、鐘の鳴る音だけが鳴り響いていた。
§
コタツに入り、ずるずると音を立てて夕食の蕎麦を啜る。刻んだ葱と固ゆで卵が浮かんだだけの簡素な食事だ。せっかくこれから年を越すのだから、もう少し豪華にするべきだったかもしれない。
「なー、かき揚げとかないのか?」
「そんな暇ある訳ないでしょ」
そう思っているのは目の前に座るゲイザーも一緒だったようだ。半分に切られた卵を箸でつんつん突きながら、不満気に口を尖らせて愚痴をこぼす。背の触手が威嚇するようにこちらを取り囲んだ。数多の瞳がこちらを一斉に見つめてきてプレッシャーがヤバい……が、よく見ると幾つかは目が半開きだったり触手の粘液がカサついていたりと元気がない。そうか、侘しいご飯のせいか。
「けちー」
そんなことを言われてもこちらにも事情があるのだ。明日に備えておせち料理やお雑煮、さらにはそれに飽きさせないための小料理を作っていれば、夕食が質素になるのも当然の理と言えよう。ひいてはそれを要求したのは目の前でへたれる当の本人なのだ。自業自得である。
「エビ天ー」
「無理だって」
「かまぼこー」
「それは明日までのお楽しみ、どうせ嫌になるまで食べるんだし」
「とろろー」
「今から買いに行けと?」
「……うぁー」
ゲイザーは情けない声を上げると、丼を持ったまま器用に前に倒れ込んだ。目の前に差し出される形になった器の中に麺はない。ただ葱の切れ端と濃い目の汁が浮かぶばかりである。触手はしおしおと萎れ、すごすごと彼女の背へと戻っていった。
「ひもじいよぅ……蕎麦おかわり……」
「なんだかんだで結局食うんかい」
「器に埋まるくらいの具がほしいよぅ……」
「ゆで卵オンリーでそれやると共食いみたいでやんの――ほぶっ」
言葉が終わる前に視界の外から横殴りの一撃が飛んできた。的確にこちらの顎を打ちぬいたそれは、しゅるしゅると音を立てて彼女の背へと戻る。器用なことに、目玉の側面についている棘を的確に使って殴打したのだろう。
「地味に痛いなアレ……」
「いいからとっととよそってこい。大盛り」
痛む顎をさすりながら、しぶしぶコタツの温もりに別れを告げるのであった。
※
「はー、ごちそうさま♡ やっぱ蕎麦食ってると年越しって感じがするよなー」
空になったどんぶりをコタツの上に乗せ、ゲイザーはお腹をポンポン叩いて人心地ついていた。残っていたゆで卵を全部入れたらすっかりこの通りご満悦である。粘液もぷるぷるの潤いを取り戻し、触手の眼も満足気な様子だ。
「……蕎麦以外にも年越し要素はあるでしょうに」
対してこちらは仏頂面である。安い贅沢だな、卵ばっか食べて太るぞ、とか口を滑らせてしまい、顎と額に一発ずついいのをもらってしまった。加減してくれてはいるようだが、そんな気遣いがあるのなら最初から殴らないでほしい。
「例えば?」
「大掃除とか」
「ほこりかぶるからやだ」
「除夜の鐘とか」
「寒い中出歩くのやだ」
「は、初夢とか」
「今日くらいじゃん日付が変わるまで夜更かししても怒られないの」
それは年明けを迎えるためであって、決してゲームをするために許可した訳ではない。コタツに入ってゲームにかじりついて気づいたら寝落ちしていて年が明けていましたーとか、そんなのは嫌だぞ。
まあ言っても聞いてくれないし、ご飯のときとこうしておしゃべりしている時はゲームの手を止めているので、彼女なりに譲歩はしてるのだろう。
「じゃ、じゃあ年が明けてからだ――初日の出とか」
「さっき寒いからやだっていったじゃん」
「初詣」
「人混みキライ」
「……初売りのセールとか。ゲーム買ってもいいよ?」
「別に今すぐ欲しいものないし、それよりゲームの続きしてたい」
「…………。ゲイザーちゃん」
「何だ改まってちゃん付けなんかして」
「ゲイザーちゃんさ、正月のことをどう思ってる?」
「長い連休。あ、あとお年玉がもらえる日。よこせ」
あまりに無情である。ニタニタとギザギザ歯を光らせて心底楽しそうな目つきをしているのだから手に負えない。催眠を使わないだけ有情だと言う人もいるかもしれないがそれは大甘だ。このゲイザーは、一度決めたことはそれが例えどんなちゃらんぽらんな考えだろうとも、いつまでも我を通し続けるのでこちらが折れざるを得ないのである。いっそ素直に催眠使えこんにゃろう。
「けちけちすんなよ。どーせ他に使い道ないだろ?」
「頼むから無駄遣いはしないでよね、ソシャゲにドバドバ課金とかさ……」
「そんな親みたいな言い方すんなよ。いつからお前はアタシの親になったんだ」
「いっそ親子なら躾られるのになぁ……」
「なんだよ躾って――あ、ああ、あーあー、そういうことか、ふーん」
何を勘違いしたのか、このアンポンタンはしたり顔でにやにやと笑い始めた。
「ふーん、躾って何するつもりなんだろーなー、ふーん」
「何勘違いしてんだこのスカポンタン、ゲーム取り上げて初詣に連れてくだけだ」
「えー、つまんねーの」
「つまらなくていいの、正月くらい落ち着いた気分でいさせろい」
「落ち着いた気分ねぇ……」
突如声のトーンを落とされて、訝し気に彼女を見据える。次はどんなろくでもないことをするのかと、内心警戒しながら様子を窺って、
「アタシはお前の前でなら、いつでも落ち着いていられるけどな」
「――は?」
至って真面目な言葉に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「何間抜けな声上げてんだよ」
しなる触手がぺちぺちとこちらの肩を叩き始めた。先の一撃とは違って不愉快さは感じない。むしろ犬猫がじゃれつく気安さがあって、拗ねているような、あるいは甘えてるような印象を受けた。
「お前がどう思ってるか知らないけどさ、これでも少しは感謝してるんだぜ? アタシのワガママを聞いてくれて、でもアタシの言いなりにはならなくて、ちゃんとお前自身の意見を言ってくれてさ」
べしべしと衝撃が強くなる。だんだん叩かれている肩に痛みが生まれてきたのだが、そのことに彼女は気づいていないようだった。
「だからアタシも素のアタシを出せるっていうか……なんて言うか、そう、アレだよアレ……変に気を遣わなくて楽っていうか……」
どうやら照れ臭いらしく、彼女は顔を明後日の方に向けながら、頬を掻きつつ顔を真っ赤にしていた。同時にこちらを襲う触手の数が増え、殴打される範囲が広がっていく。
「恋人とか夫婦って感じじゃなくて……でも友達っていうにはもうちょっと深い関係で……そう! 腐れ縁って奴だな! アタシとお前ってそんな感じの関係だと思うんだよ! だからな、そのな、これからも、アタシと――」
「悦に浸ってるとこ悪いけどちょいこっち向いて」
「あん? 何だよ人が真面目な話を――あ゛」
こちらを向いた瞬間、彼女はようやく理解した。照れ隠しに取った軽はずみな行動がどのような結末をもたらすのかを、言葉の合間に聞こえてきた陶器が欠ける音の意味を――コタツの上に乗っている、先程まで丼だった物体の成れの果てを。
「「…………」」
行動は迅速だった。寝室に逃げ出すべく無言で立ち上がったゲイザーの後ろ姿へ、情け容赦ない追跡の手を伸ばす。握りしめた拳の中にしっかりと触手の一本を捕らえると、逃げ出そうとした勢いのまま彼女は床にすっ転んだ。
「あ――」
逃げられないと悟った彼女は振り向いて赤い瞳を輝かせる。どうやら催眠をかけて誤魔化そうとしたらしく、怯えていた表情がしてやったりなものへと変わる。
「――え、なんで」
が、それはすぐさま再び絶望に染まった。
「ちゃんと暗示かけたのに、何で? 何でだよ!?」
「『ゲイザーちゃんのことが好きになって、何でも許してあげたくなる』って暗示かぁ――でもね、ゲイザーちゃんが思ってる以上にゲイザーちゃんのことが大好きなんだから効くはずないでしょ? それにね」
彼女がしていたように口の端に笑みを浮かべながら、残酷な言葉を告げる。
「ゲイザーちゃんがお仕置きされてどんなに泣き叫んで近所迷惑になっても許してあげるからね、安心してお仕置きされなさい♡」
己の置かれた立場を理解したのか、ゲイザーは懇願するようにこちらを見上げると体をぷるぷると震わせた。瞳が蓄えていた魔力はきれいさっぱり霧散し、今ではぱちぱちと瞬きを頻繁に繰り返すだけに留まっている。
「……わざとじゃないぞ、わざとじゃ。だから、勘弁な、な? ほら、もうすぐ新年だし水に流して――」
「――お正月は長い連休とか言ってたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「……むかしのことはわすれました」
「折檻。お尻向けて。叩く。思いっきり」
まさか今年最後の思い出が尻叩きの折檻になるとは思わなかった。
※
「クッソ、尻痛ぇ……アタシたち今年はきっと冴えねえな――いや、今年もって言うべきかな」
「それが腐れ縁って奴じゃないのか……ほらそこ、染みにならないうちにちゃんと拭き取る」
「へーへー」
「それが終わったらお布団入ってもう寝なさい。起きたら一緒に初日の出見て、ご飯食べて、それから初詣に行こうね――行こうね?」
「へーへー、付き合えばいいんだろ、分かりましたよって……」
新年最初の共同作業は散らばった破片の掃除と零れた汁の掃除だった。
今年こそ少しはまともになってほしいものである、まったく。
18/12/30 08:35更新 / ナナシ