読切小説
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かつて願ったこと
 夏の夕暮れ。
 太陽が一時の別離を名残惜しむかのようにゆっくりと沈んでいく空の下、俺たちは縁側に座っていた。
 陽射しは弱まり、流れてくる風には僅かながら涼が含まれている。
 蝉の鳴き声も薄れ、昼間の喧噪が嘘のように穏やかな世界を作り上げていた。

 どことなく寂寥感を覚えるその光景を見ながら、俺は手にしたポッキンアイスを口に含んだ。
 プラスチックの包装を噛み、中のアイスを口内へと流し込む。

 安っぽい、そして懐かしい味が口の中で広がる。
 幼い頃によく食べていたせいか、大人になった今でも夏が来ると買う癖がついてしまっていた。

 容器の中身が空になったことに気づき、口から離す。
 皿に置かれているはずの二つ目に手を伸ばしたところで、

「っと」

 アイスではない何かに触れ、そちらに視線を向けた。

 視線の先では少女が同じようにアイスに手を伸ばしていた。
 俺が触れたのはアイスを取ろうとした少女の手だったのだ。

「こら、はしたないことはやめなさい」

 行儀が悪いことに、少女は空になった容器を口に咥えたままだった。
 こちらの視線に気づくと、ぷく、空気を吹き込んでそれを膨らませる。

「言いたいことがあるなら、まずは口の中の物をなんとかしなさい」

 少女は空いている手で容器を皿へと返した。
 その間も掴んでいるアイスから手を離そうとはしなかった。

「兄様、これは儂が食べるつもりじゃったのじゃぞ」
「何言ってんだ、これは俺の分だ」

 少女は不機嫌な様子を隠そうともしなかった。
 それはこちらも同じだ。
 用意したアイスは四つ。残っているアイスは一つ。こちらはまだ一つ目を食べ終えたばかりなのだ。

「兄様は『れでぃーふぁーすと』という言葉を知らんのか。こういう時は、男が譲るのが義務というものじゃぞ」
「何がレディーだ。そういうのはな、レディーになってから言うもんだ」

 少女の頬がぷく、と膨らんだ。
 こちらの正論を前にしてもあくまで納得がいかない様子である。

「儂が食べたいのじゃ、兄様は大人じゃから我慢するのじゃ!」
「駄目だ。時には譲れないこともあるもんだ。食べ物の恨みは恐ろしいぞ?」

 駄々をこねる少女を無視し、その手からアイスを引きはがそうとする。
 自分でも大人げないとは分かっているが、こうでもしないといつまでも甘やかしてしまうのだ。

「うぅ〜〜っ、やめるのじゃぁ、兄様ぁ」

 泣き声を無視して、柔らかな指を一つずつアイスから外していく。
 溶けたアイスがついてべたつく指に触れながら、後で手を洗わせなければと考えるのだった。

「にいさまぁ」

 悲しそうな声が聞こえてきて、流石に指の動きを止める。
 隣に座る少女は目に涙をたたえながら、歪ませた唇をふるふると震わせていた。

「にいさまは、わしがきらいになったのか?」

 少女の瞳が揺れ、肩を一度大きく震わせる。

「わしのことがきらいになったから、こんないじわるをするのか?」

 零れ落ちた涙を拭おうともせず、小さな体を断続的に震わせながら言葉を続ける。
 まばたきの数が増え、その度に瞳が潤み揺れた。

「わしがわがままばかりいうから、わしのことがいやになったのか?」

 目尻から溢れ出した涙は頬を伝い、二筋の跡を残した。
 少女は顔を伏せると、自分の意思では止められないだろう涙を拭い始めた。

「ごめんなさい、なのじゃ、ひっく、もう、わがまま、いわない、から」
「ぁー、あぁ、悪かった、俺が悪かったよ」

 少女から手を離して慰めるように頭を撫でる。
 栗色の髪が揺れ、ふわりと甘い香りが漂った。

「大人げなかったよ、ごめん。でも、お前のことが嫌いになったんじゃあないんだ」
「えぐ、ぐすっ、ほ、ほんとうか?」
「本当だ、嘘じゃない」
「ぐしゅっ、わ、わしは、にいさまに、きらわれたら、もう、どうしたら、よいか、わからなくて、うぅっ」
「大丈夫、嫌いになんてならない。だから、ほら、顔を上げて」

 少女は顔を伏せたまま、手の甲でごしごしと顔を乱暴に拭うと、

「じゃあ、これは儂のものじゃな!」

 手に握られたアイスを幸せそうに頬張った。

「ふっふ〜ん、兄様は優しいのぅ」
 
 今度は取られないようにとばかり、わざわざ両手で挟み込むように持っている。
 その上でこちらに向けて自慢げに笑うのだから始末に負えない。

「なぁ、毎度思うんだが嘘泣きはずるくないか」
「ずるくないのじゃ、女の涙は最強の武器なのじゃ」

 さっきの泣き顔はどこへやら、少女はしてやったりといった顔でしゃくしゃくとアイスを食べるのだった。

「うむ、冷たくて甘くて、美味しいのう」
「はぁ」

 せめてもの反抗にと大仰に出した吐息もなんのその。
 アイスは少女によってその身を半分以上削られ、その生涯を終えようとしていた。

 もう一度アイスを奪ってやろうかという気持ちも芽生えたのだが、またあんな真似をされたらこちらに勝ち目はないことはよく分かっていた。
 俺は無駄な抵抗を諦めると、せめて消えていくアイスのことを考えないようにと意識を空へと移すのだった。

 視線の先には沈みゆく夕日があった。
 こちらに別れを告げるその姿は、どこか寂しいものだった。

 こうして橙色の光に包まれた光景を見ていると、昔のことを思い出してしまうのは何故だろうか。その理由は自分にはよく分からないし、きっと誰に分かるものでもないのだろう。

 だが、たまには、あのころは良かった、と戻れない時間に思いを馳せるのも悪くないかもしれない。少なくとも、この寂しさを紛らさせることは出来るだろう。

 俺は座ったままの姿勢でその場に倒れ込んだ。
 体から力を抜き、そのまま目を閉じる。

 脳裏に浮かんだのは隣に座る少女のことだった。
 遠い昔のことのような、あるいは昨日の出来事のような不思議な記憶。それは少女との出会いの思い出だった。





§





 地面の魔法陣が眩く光輝いていた。
 線に満ちた光はやがて空中へと浮かび、人の形へと集束していく。

 魔法陣の前で呆気にとられる俺をよそに、光は跡形もなく消え去ってその中身を露わにした。

 現れたのは一人の少女だった。
 だが、おおよそ人間の少女とは言い難い姿をしていた。

 山羊の角に獣の手足。
 局部だけを覆う露出の高い服装と漆黒のマント。
 人の手では持ち上げることすら困難であろう大きさの大鎌を携えている。
 いずれも少女の姿に似つかわしくないもののはずだが、そのどれもがまるで彼女のために誂えたかのように似合っていた。

 しかし、彼女を真に異質たらしめたのは衣装でも装飾品でもなかった。
 彼女は大鎌の柄に腰かけ、尊大な態度でこちらを見下ろしていたのだ。

 浮いている。
 その事実こそが、人の姿を持ちながら決して人間ではないのだということを如実に示していた。

「儂を呼んだのは貴様か?」

 静寂を断ち切ったのは威厳に満ちた、少女らしい透き通った声だった。
 決して大きな声ではないが、聞いた者を振り向かせるような不思議な力が秘められているようだった。

「答えよ、儂を呼んだのは貴様か?」
「あ、ああ」

 カラカラに乾いた口からはしゃがれた声しか出なかった。
 彼女の姿に魅入られてしまい、呼吸をすることすら忘れていたのだ。

「成程、成程、儂は貴様のような欲深い人間は大好きだ。……良かろう、貴様の望みを一つだけ、叶えてやろうではないか」

 告げられた言葉は想像通りのものだった。
 ならばきっと、払う代償も想像通りのものなのだろう。

「代わりに貴様の魂を貰うがな。……どうした、怖気づいたか?」

 そんなことはない。
 悪魔を呼び出す方法を知った時から覚悟はしていた。

 していた、はず、だった。

「怖気づいて、なんか、ない」
「ならば何を望む?」

 少女は妖しく、そして酷薄に口を歪めた。
 目の前の玩具がどのように面白おかしく踊ってくれるのか程度の興味で、こちらを見下しているようだった。

「尽きることのない富か? 愚か者共が揃ってひれ伏すような地位か? それとも、人の身には余るほどの快楽か?」

 これまでに幾人もの堕落を見てきたかのような口ぶりだった。いや、事実として彼女は見てきたのだろう。そしておそらくは、そうして破滅する人間の末路をあざ笑ってきたのだろう。

 自分もそうなってもいいと思っていた。
 例え哀れな末路を辿ろうとも叶えたい願いがあった。

「――――」

 こちらを蔑む目を真っ直ぐに見つめ返して、その言葉を告げた。





§





「のう、兄様」

 こちらを呼ぶ優し気な声で現実に引き戻される。
 目を開けると、少女がこちらを覗き込んでいる姿が映った。

「眠っておったのか?」
「いや、ちょっとな」

 少女がどいたのを見計らって体を起こす。
 空を見上げると、太陽は相変わらずそこに浮かんでいた。

「考え事でもしてたのか?」
「まぁ、そんなところだ」
「何を?」
「内緒だ」

 顔色を窺われていることに気づき、誤魔化すように夕日を見つめる。
 その行為自体に意味がある訳ではない、ただ思考を読まれるのが嫌なだけだった。

「ひょっとして、あの日のことを考えていたのか?」

 そしてその程度の小細工は通用しなかった。
 こちらの心の内を見抜いた上で的確に振る舞うその態度は、時に疎ましく感じることもある。少女のことが嫌いな訳ではなく、自分の器の小ささを実感させられることが嫌なのだ。

「ああそうだ」
「そうか」

 しぶしぶながらもそれを認めると、少女はこちらから視線を外した。
 言葉に出さなくても伝わるというものは厄介だと改めて感じる。
 何せ、伝わってほしくないことでさえ知られてしまうのだから。

「兄様、一ついいかの?」
「なんだ?」

 視線の端では、少女は空の容器を口に咥えていた。
 残った汁を啜るように吸い、肺から解き放った呼気で膨らませる。
 静かな空間に、容器が膨れ、そしてへこむ音が大きく響いた。

「あの日、兄様はどうしてあんな願いをしたのじゃ?」
「…………」

 その質問にすぐ答えることは出来なかった。
 より正確に表すならば、その質問に対する答えは明白なのだが、言葉で上手く伝えようとすると難しい質問だったのだ。

 少女を倣い、空の容器を咥える。
 かつて子供のころにそうしたように、息を吹き込んで膨らませる。
 僅かばかり残っていた生温い汁が流れ込み、舌に触れた。

「兄様、遊んでないで真面目に答えてくれぬか」
「遊んでないさ。ただちょっとだけ、昔のことを思い出しただけだ」

 少女の叱責を受けて向き直る。
 少女は口に何も咥えていなかった。
 姿勢を正し、真っ直ぐにこちらを見据えていた。

「そうだな、なんていうか、その……」

 咥えていた容器を皿に戻したところで一つのことに気づく。

「このアイスと似ているかもな」
「兄様」

 思わず口にしてしまった言葉を聞いて、少女の眼光が鋭くなった。

「それはなんじゃ、まさかアイスを食べる感覚であんな願いをしたのか?」
「いや、そうじゃなくてだな」
「まったく、では何が言いたいのじゃ、今の儂は気が短いぞ?」

 誤魔化すように頭を掻くも、少女の怒りは収まりそうになかった。

 少女が何を望んでいるか、そんなことはとっくに分かっている。
 ただ俺自身が口にすることを恥ずかしがっているだけだ。

 まったくもってたちが悪い。
 伝わってほしくないことばかり理解されて、伝えたい言葉が伝わらないのだから。

「欲しい、って思ったからだよ」

 覚悟を決めて、しかし彼女から目を逸らしてぶっきらぼうに続ける。

「昔から欲しかったものは我慢できない性質でね、その気持ちだけは嘘を吐けないんだ」
「そうか」

 返事と共に膝の上に重みが生まれる。
 目を向けた先には少女がいた。
 こちらの膝を枕にして、安らかな笑顔を浮かべていた。

「嬉しいぞ、兄様」
「そっか」

 頬を撫でてやると、少女は目を細めて笑った。
 心預けられる者の前でだけ見せられる、穏やかな笑顔だった。

「のう、もう一つよいか、兄様」
「今度はなんだ」

 少女はこちらへと手を伸ばした。
 頬を撫でる柔らかな毛が、感じられる体温が、温かく心地良かった。

「もう一度、あの時の言葉を言ってくれぬか」





§





「お前が欲しい」
「……何?」
「お前が欲しい、と言ったんだ」

 そのはず、だった。
 しかし口から出てきたのは全く違う言葉だった。

 願いを告げる前から魂は奪われていたのだ。
 叶えてほしかったはずの願いはどこかへ消え去り、目の前の少女に惹かれる想いしか残されていなかったのだ。

「……クク、とんだ愚か者がいたものだ」
「可笑しなことか?」
「ああ、可笑しなものだ。まさか、そこまで強欲だとは思わなかったぞ」
「強欲じゃない、富も地位も快楽も要らない。お前が、お前だけが欲しいと思ったからそう言ったまでだ」

 目の前の少女は大きく口を開けて、さも愉快そうに笑った。

「成程、成程! そこまで愚かだったとはな! ……いいだろう、貴様の望みを叶えてやろうではないか」

 少女はふわりと地面に降り立つとこちらに歩いてきた。
 俺の目の前で立ち止まると、こちらに手を差し伸べてくる。

「だが契約は絶対だ。願いの代わりにその魂を頂くぞ、よいのだな?」
「構わない、持っていけるのなら持っていけ」

 恐れることなく差し出された手をしっかりと掴む。
 すると彼女の手から、二人を包み込むように白い光が溢れ始めた。
 光は景色を、俺を、そして少女すらも飲み込むかのように広がっていった。

「契約は果たされた。この契り、違えた時が貴様の最期だと覚えておくがよい」

 言葉が終わると共に体内に違和感が生まれる。
 何かが刻まれたような、それでいて不思議と不快ではない、奇妙な感覚だった。
 その違和感も辺りに満ちた光も一瞬のうちに消え失せてしまった。

 元の景色を取り戻した空間、当たり前のように少女はそこに居た。

「これよりお主は儂の兄じゃ。さあ、我が手を取るがよい、兄様」

 尊大な態度はそのままに、こちらを見る瞳には純粋な光が宿っている。
 まるで彼女の言葉通り、こちらを兄と思っているかのように。

 伸ばされた手をもう一度受け取る。
 今度は優しく握りしめ、そのまま彼女を抱き寄せた。

「さあ告げるのじゃ、兄様。お主だけの言葉で儂に誓うのじゃ」

 腕の中で囁く言葉が聞こえる。
 抱き寄せた体を少し離して、小さな唇に口付けを交わす。
 そして――





§





「誓うよ、ずっと一緒に居ることを」
「うむ、約束じゃぞ、兄様」

 愛しいバフォメットは花が咲くような笑顔で笑うのだった。
18/07/22 17:40更新 / ナナシ

■作者メッセージ
欲をかいた人間をサバトに連れていく仕事に熱心なバフォ様ですが、内心自分の伴侶がいないことを気にしていたりします。そんな中でストレートに自分を求められたのはとても嬉しいことで、彼女にとっての自慢でもあります。

そんなこと彼は知る由もありませんし、バフォ様も知らなくていいと思ってそうですが。

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