第十二話 ある『貴族』のお話
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『私に、関わらないで』
――――この言葉を、私は何度サバトの仲間に向けて告げてきたのだろう。
同じ魔女の子達は、私を遊びに誘ってくる事があった。魔物娘だからと言っても淫靡なものは一切ない、無邪気な子供の遊び。その中に、混じった事は何度かはあった。
どうしようもなく、胸が苦しくなった。
何も知らずに遊んでいたはるか昔の事を、思い出してしまって――――
その内に、誰も私を遊びに誘わなくなった。遊ぶ度に苦しそうな顔を浮かべるような魔女なんて、嫌って当然だろうと思う。
魔法陣を体に刻む前は、精を得る為に仕方なく男との行為を経験した事もあった。
サバトに来るだけあって、男性は誰もが優しかった。男性は皆が私を気づかい、優しい言葉を投げかけてきて。
私に、優しかった。
魔女(わたし)に、優しかった。
耐えられなかった。
兄になりたいと言ってきた人間に、ごめんねと首を横に振る。好意を無下にする好意は、私自身も辛くて。
それでも……男の人と一緒にいることの方が、もっと辛くて――――――
私にとって心が安らぐのは、魔術を学ぶ時間だけ。知識を深めるその瞬間だけが、私にとって他の何よりもかけがえがなく、楽しい物で。
そこには、他の誰かはいらなくて。
『じゃ、じゃから……お、お主も、魔術【なんか】より……こ、恋人を、【ちゃんと】作ってみては……』
だから、その言葉が許せなかった。
私の大事な物を軽んじた、彼女を嫌いになった。
そうやって、大好きな物さえも蔑ろにするぐらいなら――――
――――精なんて、愛なんて。
私にはいらないと、そう思った。
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俺とエリーの二人は、ベッドの端に腰を下ろした。
殺風景な部屋の中で、魔物娘と二人。だけれども、俺たちの間に甘い雰囲気はない。
あるのは……唾を飲み込む音さえも大きく聞こえるような、緊張感。
そんな空気の中、エリーは口を開く。
「エリーはね、反魔物領の貴族だったの。兄が二人で姉が一人、その家の末娘として生まれてきたんだ」
反魔物領の貴族だった事は、俺も予想ができていた事だ。
だからと言って話の腰を折るような事はせず、じっとその話に耳を傾ける。
「自由だったのなんて本当に小さい頃ぐらいで、物心つくかつかないかの頃にはもう貴族としての礼儀を叩き込まれてた。食事や挨拶は勿論、普段の所作一つとっても指導を受けるぐらいには、徹底的に。お兄ちゃんならもう、わかると思うけど……今でもその癖、抜けてないんだ。食事の時とか、ふとした瞬間にその時の癖が出ちゃう事があるの。歩く時とか、意識しなきゃ難しい事は流石にそうでもないんだけど」
あはは、と乾いた笑みをこぼすエリーに対し、俺は曖昧な返事さえする事はできない。何でもない事のように語るそれでさえ既に、俺には想像もつかない領域なのだから。
「でも、それはそんなに辛い事じゃなかったよ。社交界に出る時なんかはできないと恥ずかしいぐらいだったし、エリーもそれぐらいはできて当たり前だと思ってたから。それに……産まれた時からエリーは、他所の家に嫁ぐ事が決まってたんだもん」
「他所の、家……」
「そ、政略結婚ってやつだよ。他所の貴族の人が跡継ぎを残せるように、家から女を出すの。向こうは子を為せて喜ぶし、こっちは向こうの家に借りを作る事ができる……別に、エリーの家が特別に珍しかった訳じゃないよ。恋愛結婚なんて、できる貴族の方が珍しいような地域だったし。上に兄妹も沢山いたから、エリーが家を継ぐ必要なんてなかったし……だから、その事について何の疑問も抱かなかった」
好きな相手とではなく、親に決められた相手との結婚。魔物どころか、俺のような人間とさえも異なっている価値観。その持ち主が、エリーだったという事実……これが、あのエリーだと言うのか。
淡々としたその語り口に、じんわりと手のひらに汗が滲んできたのがわかる。
サバトに来てからまだ短い時間しか経っていないというのに、俺は衝撃を受けてばかりだ。
「その時が来るまでひたすら貴族としての礼儀を学んで。一通り学び終わって、20にもならない歳には親が決めた相手の所に行って……そういう人生が、当たり前だと思ってた」
そこまで言った所で、真っ直ぐ前を向いていたエリーの目が、伏せられる。帽子に隠れた表情を、窺い知ることができなくなって。どこを見ているのかも、わからなくなる。
「……その人の第一印象は、悪くなかった。絵に描いたように紳士的で気さくな態度だったから両親は喜んでいたし、エリーもこの人と結婚するなら悪くないと思ってた。その人の家、エリーの家よりも全然おっきい家だったから結婚したらエリーの家を援助してもらえる事になってたし……」
それはきっと、嫁ぐ先の男の話なのだろうと思った。けれど、その声音には楽しさも嬉しさも感じられない。
なにも感じとれない、無味無臭の声。
「だから婚姻はすぐ正式に定まって、エリーは自分の家をすぐに出ることになった。あの人の家に辿り着いて、晴れて初夜を迎える事になって――
――――――ベッドに着いてから、エリーは頬を思いっきり殴られた」
そんな声で、『それ』は唐突に投げかけられて。
その時の俺は、何も反応する事ができなかった。例え反応できたとしても、何も言える訳が無かったとは思うが。
「何度も何度も、それは止まらなかった。エリーがいくら泣いても叫んでも、殴られて、殴られて、殴られて……顔も体もじんじんして、赤く腫れて……その内、ロープで手足を縛られて……痛みで気絶しそうになってる内に……初めての夜、終わってて……!!」
「…………っ」
エリーの声に、少しだけ力がこもる。けれど、彼女の気持ちが伝わるのには、それで十分だった。
その叫びは、聞いている俺でさえ痛くて、苦しくて……歯を食いしばらないと、耐えられそうにない程で。
「『綺麗だ』『愛してる』……そんな言葉を、殴りながらあの人は何度も笑ってエリーに繰り返してた。それは憂さ晴らしとかでもなんでもなくて、ただあの人の趣味だった。エリーの事、初めて会った時からずっとこうしたかったんだって。こんな可愛い人を……殴ると、興奮するって……」
「そ、んな……」
ふざけんな。
そう言おうとして、開いた口は震えて使い物にならなかった。
圧倒されていた。ただ異なるだけではない、理解できない価値観に。理解する事さえ拒みたくなる、その行動に。
そして、それを抑揚なく言ってのけるエリーに対してさえも。
本当に圧倒されるのは、これからだったというのに。
「それからは、毎晩その繰り返しだった。昼間は時間を潰すのに、部屋にあった本を読んで。社交界に顔を出す時は、良好な仲みたいに笑顔で周りと接して。帰ったら、殴られながら夜の営みをして。痛いのを我慢して、朝を待って……社交界以外では、部屋から出ることさえも許されなかった。あの部屋に、エリーはいつも1人でいて――
――――――それが、レーミエに助けられるまで続いて。エリーの話は、これでおしまいだよ」
「………………………………は?」
間抜けな言葉は、ずっと遅れて出た。それまで、頭が追いつかなかったのだ。この話が、ここで終わったという事に。
軟禁されて、暴力を振るわれ続けて。
それが……バフォメットに、助けられるまで……
「――――――っ!!」
背筋が、凍った。
気づいてしまった。それが意味する事に。それは、つまり――――
20にもならない歳から……老婆になるまで、ずっと?
「ま、待て………待てよっ!!おかしいだろ、そんな話!!てめぇは何でそれを誰にも言わなかったんだ!!そうすりゃ、誰かが助けに……!!」
気づいてしまえば、言葉は滑るように飛び出てきた。
ほとんど反射的に、その話を否定しようとしていた。
「一度、部屋にご飯を運びに来る女給さんに話をしたことはあったよ。だけど……その人ね、その次の日にはいなくなってた。その日の夜、殴られながら言われたよ。『次誰かに言おうとしたら、君の家を壊す』って。あの人の家、おっきかったから……やろうと思えば、本当にできたと思う。社会的にだって、もしくは本当に跡形もなく……」
「だとしても、だ!!てめぇが60とか70になってもそれが続いたってのかよ!?若い頃ならともかく、その頃には飽きてるだろ!!」
「だったら、良かったんだけどね……いくら殴っても抵抗しない玩具だったから、いくらいじっても飽きなかったんじゃないのかな?あの人の考えてる事なんて、エリーには良くわからないけど……」
「ぐっ…………!!」
俺が反論する度に、エリーはそれを潰す。まるで他人事のような物言いに、全身から血の気が引くのがわかる。
エリーの話が真実である事を、理性は既に半ば認めようとしていた。
けれども……そんな悲劇がこの世界にある事を、認めたくもなくて。
「だ、だったら……」
俺は、なおもエリーに食い下がった。
「……子供は!?そうだ、てめぇは子供を産む為に嫁いだんだろ!?そうだ、不妊だったらそもそも嫁がされる訳がねぇんだ!!子供が現状に対して訴えれば……!!」
「あぁ……いたね、そういうのも」
ぽつり、と。
素っ気なく、エリーはそう言って。
即座に、後悔した。そこは、踏み込んではいけない領域だったのだとわかったから。
「そんなの、産んだと同時に取り上げられたよ。結構痛い思いはしたんだけどね、それでもエリーはその子を手に抱く事さえ許されなかった。ずっと一人で部屋に閉じこめられてたし、『お母さんは忙しい人なんだよ』って言われてたみたいでね。家で関わる事はなかったし、社交界へ一緒に行っても自分の子らしい子供はこちらを見もしなかったよ。多分、向こうは私に対する興味さえ……」
「やめろぉぉぉぉっ!!」
耳を塞ぐ代わりに、叫んだ。
耐えられなかった。何もかもを無感情に述べる、その言葉の重みが。
「俺が、悪かった……悪かった、から……やめろ……やめて、くれ……」
それは、心の底からの懇願だった。
エリーの心に踏み込む事を選択したのは他でもない、俺だというのに。
「だから、なのか……?だから、てめぇはずっと……魔物娘になった後も、1人で……」
絞り出したその問いかけに、エリーは俯いたまま答えない。
けれど、だからこそその反応は、何よりも雄弁に肯定を物語っていて。
……頭が、ふらつきそうになる。
少女だと思っていた彼女の中に内包されていたものの、あまりの重さに。
『エリーはね、お兄ちゃんのお嫁さんになりにきたの!!』
そんな頭が不意に思い出したのは、底抜けに明るい笑顔を見せたこいつの姿で。
すがるように、その記憶を口にする。
「じゃあ……なんでお前は、俺の嫁になりにきたんだ……お前は……俺を……」
好きなんじゃ、ねぇのか。
言葉の続きは自意識過剰に思えて、言えなくて。
けれど、後になって思えば。無理矢理にでも、その続きは口にした方が良かったのかもしれない。
「……男の人なら、喜ぶと思ったから。あの人、何度もエリーっていうお嫁さんがいる事を社交界で自慢してたし……お兄ちゃんは、エリーを傷つけないって言ってたもん。あぁ言っても、まぁ大丈夫かなって」
その言葉だけでも、心臓が握りつぶされるような思いだった。この瞬間、俺は最後の拠り所さえなくしてしまったのだから。
けれども、更にエリーは俺の方へと顔を上げる。
その時見た顔を、表情を。俺はこれから先、忘れる事はないだろう。
「それとも、お兄ちゃんも……一緒なの?エリーの事……『愛してる』の……?」
その視線は、俺の方を向いている。
なのに、その目は決して俺を映してはいない。
この部屋のどこも見ていない、濁った瞳……
じゃあ、どこを見ているのか……そんなのは、一つしかない。
『過去』だ。
かつて、閉じこめられていたいた部屋。
その部屋で、執拗に嬲られた傷跡。
エリーを殴りながら歪んだ笑みを浮かべる、その男を……焼き付いた景色を、濁った瞳に映しているのだ。
「ぁ………………」
――――俺が不用意に、踏み込んでしまったばっかりに。
「え……り、い……」
言いたいことが、沢山あった。
叱ってやるつもりだった。慰めてやるつもりだった。
……助けて『やる』、つもりだった。
それが傲慢だという事に、ようやく気付いて。
言おうとしていた言葉は、こぼれる事もなく消えていく。
そうだ……良く考えれば、分かる事だったじゃないか。
こいつの知識は、いくら貴族だったとしても偏りすぎていた。冒険者どころか馬車も酒場もろくに知らない、人の家には箒を使って侵入してくつろぐ……箱入り娘程度で片付けられるような、そんなものではなかった。
勉強する事しか考えられない、魔術以外に楽しい事なんてない。妊娠できなくなるような魔法陣でさえ、受け入れても良い……そんな考えを、持ってしまうような。それだけの目に、あっていたのだ。
そんな彼女へ、俺が何を言えるというのだ。
俺は、ただの平凡な人間だ。
辛い過去なんてせいぜい、勘違いから幼馴染みと喧嘩別れした事だの尊敬していた祖父が死んだ事だの……所詮、そこまでだ。
たかだか20年程度しか生きていない俺が、その何倍も生きた彼女に。
俺が産まれてから今に至るまでの間よりもずっと、長く……苦しみを味わってきた、彼女に。
握っていた自分の拳は震えていて、力も入っていなくて。
傍から見たらきっと、自分はみっともない顔をしていたのだろう。その濁った瞳から、目を逸らすこともできず……固まっているだけの、自分は。
「あっ……ご、ごめんなさい……お兄ちゃんは、そんな事する訳ないもんね……」
「……っ!!そ……そんな、の……!!」
皮肉な事に、その謝罪によってエリーの目は再び俺を捉えるようになった。
けれど、俺からすればそんな事は問題ではなくなっていた。
うつむくエリーの、申し訳なさそうな表情。
彼女は何も悪くないのに、罪悪感で押しつぶされそうな顔を……これ以上見ていたくはなかった。
「ぁっ……」
当たり前だ、と続けるつもりだった。けれど、かすれた言葉は意味を持つものにはならなくて。
代わりに、その小さな身体へ手が伸びる。何かを考えていた訳ではない。
目の前の少女が、今すぐにでもどこかへ消えてしまいそうに見えたから……無意識に、身体が動いていただけで。
その肩に、手を伸ばす。首元の滑らかな肌に触れて、必死に掴む。
何でもいいから、何かを言おうとして……
……その瞬間、目の前が閃光に包まれた。
「……っ!?なっ……!!」
あまりに突然の事だったから、目を開けていられなくなる。
最初は、エリーの仕業かとも思った。何らかの魔術を、発動させたのかと。
「え……!?お、お兄ちゃ……!?」
けれど、驚く声はエリーからも聞こえてきて。今度こそ、何が起きたのかわからなくなる。
一体、何が起きて……!!
どうにか状況を把握しようと、薄目を開ける事を試みる。
「――――ゃ!!――――が……!!」
閃光はまだ消えておらず、視界は白で包まれた世界のままだった。けれど……目を凝らせば、小さなものが、見えた気がして。
あれは……手か!!なら……!!
その時は、藁にもすがる思いだった。
その手を掴もうとして、がむしゃらに手を伸ばす。
届、け――――っ!?
けれど、その手を掴む直前に。白だけの世界は、終わる。
色が取り戻された空は黒で覆われていた。星も雲も何も見えない、空というには余りに暗すぎる闇。
地には、鮮やかな色調を持つ複雑な紋様――それはまるで、魔法陣に描かれた呪文のような。赤、青、緑、紫、橙……紋様の彩りが地を、壁を、覆い尽くす。
目が痛くなりそうな、現実感を失いそうな。目の前に広がる光景に……汗が、頬を伝う。
「どこだよ……ここ」
――――俺のいる場所は、エリーの部屋ではなくなっていた。
16/07/24 23:14更新 / たんがん
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