少女達の協奏曲<コンツェルト>
「―――――じゃねぇ!!まだ………何も…………ねぇだろうが!!」
家の外から聞こえてくる叫び声で、ソファーの上で寝ていたディアルは目を覚ました。
ちょっとした休憩のつもりで横になっていたのだが、気がつけばうたた寝をしていたらしい。
「あ、ディアルさん起きた?おはよー」
上半身を起こしたディアルに、声がかかる。
声の主は、同じ家に住んでいる少女、イリンのものだった。
「なんだ、この叫び声は……五月蠅くてかなわん。外で何かあったのか?」
「あぁ、今の声?急に叫びだしたみたいで、あたしにもよくわかんない。ちょっと確認してみるね」
ディアルが目を擦りながら尋ねると、小さならせんを描いた短い尻尾を揺らして、オークの少女、イリンは玄関の横に備え付けてある窓枠へと寄った。
窓ガラスに顔をつけて、外の様子を窺う。
「………やるよ!!……………は、ノ……………に…………だった!!」
「えっとね……痴話喧嘩してるみたい」
「痴話喧嘩?」
見えた景色のみから判断した情報を、イリンはディアルへと伝える。
「うん。なんか、人間の男の人が、ワーウルフの子の手を掴んで何か言ってる。男の人がワーウルフの子を怒らせちゃったのかな?けど、隣にサイクロプスもいるんだよね……あ、サイクロプスの子、なんかワーウルフの子の前に出たよ」
「ほー…」
イリンが教えてくれる見えたままの状況を聞きながら、溜息をついてディアルは顎に生えた無精髭を軽くさする。
魔物特有の深い愛情から来る、一人の男を取り合った争いだろうか。痴話喧嘩をするのは大いに結構だが、そろそろ中年と呼ばれる年齢に差し掛かろうとしている自分の頭に叫び声は嫌でもよく響いてしまう。周りの住人のことを考えずに叫ぶのは止めて欲しいというのが本音であった。
「あれ、ワーウルフの子の方が頭下げちゃったよ。んー、でも喧嘩も終わったみたい。男の人とサイクロプス、どっか行っちゃった」
ディアルにとってはさっきまでの話で充分だったのだが、律儀にもイリンはまだ窓の外を見続けていた。
「……おい。もう、見なくてもいいぞ」
「へ?あ、あぁ、そう?そっか、ごめんごめん。ところでディアルさん、今から何するの?」
「そろそろ外が赤くなってきたからな。夕食でも作る」
ソファーからディアルは立ち上がると、キッチンへと向かう。
ゆきおんなやグラキエスの協力を得て作られた、という触れ込みで売られていた冷蔵庫を開けるが、中にはわずかに野菜が置かれている程度だった。
この量では、一食分すら心もとないだろう。
「そうだ、そう言えば食べ物切れてたんだった!!ディアルさーん、あたし買い物行ってくるよ!!何買ってくればいい?」
ディアルがそれに気づくのと同時に、キッチンの外からイリンの声が聞こえてきた。
「そうだな……これだと、買ってくるものもかなり多くなるが……まぁ、頃合いか……」
ごく少量の野菜を見下ろしながら、ディアルは頭の中で、何を買うべきかについて考えだす。
その時、唐突に玄関に取り付けた鈴の鳴る音が玄関から聞こえてきた。
「ごめんくださーい」
その音に続いて、声が聞こえてくる。
どことなく幼さがあるその声音は、少女のものであるように聞こえた。
「……客か?」
「みたいだね……待ってて、あたし出てくるよ」
ディアルが何かを言う前に、イリンはパタパタと駆けだしていく。
「初めて……だよね。お客なんて」
ドアを開ける直前、イリンの心臓は落ち着きなく跳ねていた。
たった二人で暮らすこの家を訪れる人など、会ったことがない。心当たりがあるとすれば、街で良くしてもらっている人ぐらいなのだが、彼等にわざわざ家にまで来る用事は無いはずだ。
何にせよ開けてみないことには何もわからない、と自分に言い聞かせ、玄関の扉を引く。
その先に立っていたのは、イリンとそう変わらない年齢に見える容姿の少女だった。
面識は一切なかったのだが、その少女の姿には今、イリンは一番見覚えがある。
「あれ?あんた、さっきの……」
そこには、さっきイリンが窓越しに見た、男と痴話喧嘩を繰り広げていたワーウルフが立っていた。
「突然すいません。ディアル=ウィトスさんのお宅はこちらでしょうか?」
「え?あぁ、ディアルさんなら確かにこの家だけど……」
「お届け物を持って参りました。本人に直接、とのことでしたので、呼んでいただきいたいのですが……」
「……もう来ているぞ」
「うぇ!?でぃ、ディアルさんいたの!?」
背後からの声に驚いて、身体を大きく弾ませたイリンに、「……そりゃあ、そろそろ自分に郵便が届くことは知ってたからな」とディアルは呟く。
「では、ディアルさん。こちらの書類の内容に目を通した上で、サインをお願いできますか?」
少女が背中に背負ったリュックから取り出した数枚の書類の束を手に取って、ディアルはその中身をペラペラとめくって確認する。
その手は数枚めくったところで、ふと止まった。
「……なぁ。これは俺が今すぐ配達の注文を追加するってのはできんのか?」
「え?は、はい……報酬さえ、いただけるならば……」
自信なさげにワーウルフの少女はディアルに尋ねるが、ディアルは笑って首を横に振った。
「そうか。よし、そんなら……ちょいとひとっ走り頼まれてくれねぇか?なぁに、難しい仕事じゃねぇ」
「は、はい。かしこまりました……」
まさか本当にこの場で注文されることになるとは思ってなかったらしく、ワーウルフの少女の顔にはどこか戸惑いの色がある。
そんな表情を知ってか知らずか、ディアルはにやりと笑った。
「……ちょいと、こいつと買い物に行ってくれや」
「……え、えぇ!?あたし!?」
ぐいっと、イリンの腕が引っ張られる。
それに驚きの声をあげたのは、他ならぬイリンであった。
「これは……確かに、一人で運ぶには多いなぁ……」
カティナトの街の住宅街、その通りを二人で並んで歩きながら、イリンは呟く。
彼女の手の中にあるのは、さきほどディアルに渡された一枚のメモ。
「そんなにあるんですか……?」
「うん。これ、見てみ?」
ワーウルフの少女にイリンがメモを向けると、それだけで彼女の顔が若干ひきつった。
「こ、こんなに買うんですか……!?」
「ディアルさんって元々、まとめ買いする人だからねー……流石にいつもはこんな多くないんだけど、あたしがうっかり買い忘れちゃってさ」
あはは、とイリンは軽く苦笑いを浮かべる。
「ま、だからあんたがいてくれてちょうどよかったかな。そういえばさ、あんたの名前なんて言うの?あたしはイリン!!」
「私はノア=レギーアです。短い間ですがよろしくお願いします、イリンさん」
ぺこり、と律儀にお辞儀をするノアに、イリンは笑って手を振る。
「そんな、かしこまんなくたっていいって!!あたし、あんましそういうの柄じゃ無いしさ。だから、敬語も禁止ね!!」
「え……で、ですが、初対面の方ですし……」
「あたしがそうしてほしいの!!なんかさ、あたしって敬語使われるの慣れてないみたいでさ、こう……背中がむずむずすんの!!だから……えーと……」
彼女の言いたいことを的確に表現するならば、『距離感を感じる』といったところだろうか。
イリンはそれを必死に伝えようして両手をわたわたと動かすが、結局まとめきれなかったらしい。
その様子を見ていたノアは、溜息のように小さく息を吐いて、僅かに口元を緩ませた。
「……うん。わかったよ、イリン」
「……!!そうそう、そんな感じ!!よろしくね、ノア!!」
ノアの口調に一瞬驚いてから、イリンは少々うるさいぐらいの調子で返した。
挨拶もそこそこに、話題はイリンの興味のままに切り替わる。
「そーいやさ、ノアって郵便屋さんなの?ワーウルフにしちゃ、珍しいよね」
「え?ううん、私は違うよ。今日は、雇い主さんから依頼を受けただけ。いつもはね、賞金稼ぎの仕事をやってるの」
「賞金稼ぎ!?それってあれでしょ、悪人をばったばったと倒していく正義のヒーローでしょ!? すっごーい!!ノアってあたしとそんなに年離れてるようには見えないのに!!」
「そこまで大したことはしてないよ。それに、私はまだ色んな人に助けてもらってばっかだし……」
賞金稼ぎと聞いて目を輝かせるイリンに、口では謙遜しながらも内心褒められたことが嬉しいのか、ノアの尻尾は小さく左右に揺れる。
「……あれ?それじゃ、何で今日は郵便屋さんなんてやってたの?」
「ブロ……えぇと、私がいつも、お世話になってる人がいるんだけどね。その人に頼まれてきたの」
「へぇ……でもさ、そういうのって普通はハーピーとかがやるもんじゃない?ほら、飛んだ方が早いイメージあるし……」
悪気なく若干失礼な言い方をするイリンだが、言っていること自体は的を射ていた。
ハーピーに行商や郵便を商いとしている者は多いし、実際にイリンもつい先日ハーピーの行商人から物を買ったばかりだ。
彼女は緑色の綺麗な羽をしていたから、イリンはよく覚えている。
ノアもそれを自覚はしていたのか、特に気にする素振りもなく答える。
「それもそうなんだけどね。その人が、『あそこは良い街だから、この機会に見てくるといい』ってお勧めしてきたんだよ。そんな風に言うなんて、どんな街なんだろうな……って、思ったから……」
どうやら、半分程は観光を目的としていた節があったらしい。
それを聞いて、イリンは納得がいったように頷いた。
「なるほどねぇ……その人、すっごく良くこの街をわかってるんだね!!そういうことなら、あたしに任せて!!買い物ついでにあたしがこの街のいいとこ、ぜーんぶ教えてあげる!!」
「お、お手柔らかに……」
カティナトの街を表すかのように手を大きく広げて、言い放つイリン。
褒められてから張り切りだした辺り、余程この街の事が好きなのだろう。
「……そういえば、イリンって何か、仕事はやっているの?」
「あたしー?あたしがやってるのは、八百屋の売り子の手伝いぐらいだよ。ま、売ってる野菜は魔界産じゃない普通の野菜だけど」
「そうなの?ここって親魔物領だから、そういうの手に入りやすいと思うんだけど……」
「そりゃ、反魔物領に比べたらそうなんだけどさ。こっちじゃ人気ありすぎるせいで、仕入れようとすると割と値段高いらしいんだよねー、魔界産の作物って。私が働いてるとこってそんな大きい店じゃないからさ、そのせいで大手のところに大体は取られちゃうんだよ」
やれやれ…と諦めたようにイリンは首を振るが、あまり悲観している様子はない。
ただ、ノアはあまり聞いてはいけないことだと勘違いしたのか、「そうなんだ……」と相槌は少し控えめだった。
それを見て、イリンはフォローするように続ける。
「あ、だからってうちの店が繁盛してないわけじゃないよ!!なんせ、商売ってのは品揃えだけが全てじゃないからね!!」
そう言って、イリンがとても自慢げに胸を張った頃に、二人は住宅街を抜けたところへと着く。
「お、ちょうどいいところに見えてきた!!見てみなよノア、これがこの街の露店街だよ!!」
若干大げさにイリンが指し示す先に、その露店街はあった。
「ほーら!!よってらっしゃい見てらっしゃーい!!いい品揃ってるよー!!」
「新鮮な魚が揃ってるよー!!昨日仕入れたばかりの品だよー!!」
「本日は魔界豚入荷しておりまーす!!手に入るのは今だけですよー!!」
真っ先に耳に届くのは、そんな叫び声の数々。溢れる活気で盛り上がる、夕暮れの市場。
全ての店から聞こえていたわけではなかったが、だからといって店の客足はどの店にも違いはさほど見受けられない。
軒先につるされた、脂がたっぷりのった肉。鱗を銀色に光らせて並べられる魚。色とりどりで粒ぞろいの宝石。色彩鮮やかに展示される洋服。果ては黒塗りの怪しげなテント……と、その通りには様々な物が溢れかえっていた。
その往来を行き交う人々も、置かれた人参から目を離せずに立ち止まっているユニコーンに、人間の作った服を感心しながら眺めるアラクネ。人と魔物が交じった子供達が、仲良く通りを歩いている姿、など人、魔物を問わずして実に多い。
「もう夕暮れなのに、随分賑やかなんだね……」
「でっしょー!!そりゃ、カティナトといったら商売がウリの一つだからね!!んじゃ、まずはこっちね、ついてきて!!」
そう言って、慣れた足取りでイリンは人混みの中を歩き出した。
足をもつれさせそうになりながら、ノアはそれに続く。
「い、イリン、早いよ……」
「そう?あっはは、ごめんごめん!!」
ノアに指摘され、イリンは朗らかに笑いつつも、歩調を落とす。
ノアが隣に並んだところで、イリンはノアの手をそっと掴んだ。
「え……?」
「よし。これで、迷わないでしょ!!」
イリンなりの考えがあってのことだったらしい。
これで万事解決、とばかりに満足げに頷くと、イリンはその手を引っ張って再びすたすたと歩く。
イリンは一見して何も考えずに歩いているようだがきちんと周囲を見ているらしく、人混みの中でも二人は一切通行人に詰まるようなことはなくすいすいと進んでいく。
「とうちゃーく!!ここね、あたしが働いてる店なんだよ!!」
だから、最初の目的地である八百屋まで二人がたどり着くのにも、10分と経たなかった。
イリンが手を広げて紹介していると、店員の一人がゆっくりとした歩き方でやってくる。
「イリンちゃん、こんにちは〜。……あれ〜?その子は、誰なの〜?」
「あ、ウーロさん!!この子はね、えーっと……」
乳牛の魔物、ホルスタウロスであるウーロは、歩き方だけでなく喋り方までゆったりとした調子で問いかけるが、イリンは少し言葉に詰まる。
ノアは賞金稼ぎで、今日は依頼を受けて郵便物をディアルの元へと届けに来て、そこで更にディアルからイリンの買い物に付き合うように頼まれた……と言うのが正しいのであろうが、イリンにはそうやってまとめた言葉がすぐに思いつかなかった。
「……友達!!ま、さっき会ったばっかなんだけどね!!」
代わりに、イリンはとびっきりの笑顔でそう答えた。
「あら〜、そうなの〜?それなら、挨拶しないとね〜。初めまして〜、イリンちゃんと一緒に働いているウーロです〜」
「は、初めまして……ノア=レギーアです」
ほんわかとした笑顔のウーロに、ノアも少し遅れて返事をする。
「それで、イリンちゃんは買い物かな〜?」
「うん!!ディアルさんに頼まれちゃったんだけど、結構多くてさ……このメモに書いてあるやつ、全部でお願い!!」
「わかったよ〜、すぐに用意するね〜」
メモに書かれた内容を見ても全く驚かずに、ウーロはぽやん、とした表情とは裏腹にてきぱきと野菜を持ってきた紙袋の中へと入れていく。
ノアがそれを眺めている少しの間に、数多くの野菜が入った袋はもうイリンへと手渡されていた。
「はい、これで全部だよ〜。量多いから、落とさないようにね〜」
「さっすがウーロさんは仕事早いねー!!ありがとー!!」
代金を払って商品を受け取ると、袋を片手だけで掴んだイリンはもう片方の手でノアの手を握り直す。
「よっし!!そんじゃ、次行こっか!!……?ノア?どうしたの?」
歩きだそうとしたイリンは、ノアがどこかぼんやりとしていることに気づく。それを口にすると、ノアははっとなってイリンの方を向いた。
「あ、す、すいません!!……じゃなくて、ごめんね!!ちょっと、考えごとしてたから……」
「そうなの?ま、いいや。行こ?」
「う、うん……」
そのまま、イリンが引っ張る手の力に合わせて、ノアも少しだけうつむき気味で歩き出した。
「……友達、か……」
イリンに聞こえないような、少しだけ弾んだつぶやきをぽつりと吐きながら。
それからしばらくの間二人は、なんでもない話をしながら、店を回って食べ物を買うことを繰り返していた。
イリンは大げさな身振り手振りも少し交えてカティナトの街を紹介して、ノアもそれに相槌を返す。
ノアに街を褒められると、イリンは自分のことのようによく笑って、あれはなんだこれはなんだと嬉々としてまた語り始める。
それは、年頃の少女二人が肩を並べて歩いて他愛もない雑談を交わす、どこにでもありそうな時間。
そんな時間も過ぎていき、いくつかの店で買い物を済ませる頃には、荷物はイリンの両手では持てない量になっていた。
イリンもノアも、食べ物がいっぱいに詰まった袋を両手で抱えて歩くが、そこは流石魔物の力というべきか。
同じ年頃の人間の少女だったら数歩歩いたところで倒れてしまいそうな重さの荷物を持っていようと、二人は特に苦もなく歩いていた。
「イリン、どこ行くの?そろそろ買い物は終わったんじゃないの?」
「んー?ちょっとね、ノアに見せたいものがあるの」
その足でイリンが向かおうとするのが明らかに彼女の家の方向でないことに気がついたノアが不思議に思ってその点を指摘すると、やはりイリンは笑みを返すだけであった。
やがて、人通りの激しかった露店街を抜けると、二人の目の前に大きく映るものがあった。
「ここ、港……?」
貿易や渡航に使われるのであろう様々な船が停泊した、船着き場。
夕暮れ時でもたくさんの人がいた露店街とは違い、その場所にいるのは船の整備士か乗組員、それに空で鳴くカモメぐらいのもの。
夕暮れ時のその場所には先程までの活気とは違った、一種穏やかな雰囲気があった。
「そうだよ。ついでに言うとここ、カティナトの一番東なんだよねぇ」
「見せたいものって……ここ……?」
「んー……半分当たりだけど、半分はずれ、かな。ま、とにかく来てよ」
含みのある言い方でイリンは薄く笑うと、荷物を抱えたまま海沿いに歩き出す。
ノアもその後に続くが、イリンがどこへ行きたいのかはさっぱり分からないままであった。
イリンがふとその足を止めたのは、それから少し歩いてからの事だった。
どこか遠くを見るような表情で、海の方向を静かに見つめている。
「イリン?どうした……の……」
ノアの言葉が最後まで続かなかったのは、イリンが足を止めた理由がはっきりと理解できたからだった。
赤く、空の中央で輝く夕陽。
沈みゆく海面には夕陽の色をそのまま引き延ばしたような線が描かれ、こちらを目指して真っ直ぐに伸びる。
ゆらゆらとその線を揺らすように波立つ海は、それすらも受け入れるかのように陽射しを受けて赤く輝いていた。
「わぁ……」
ノアの口から思わず、感嘆の声が漏れる。
船という遮蔽物がなくなったこの場所で初めてはっきりと見ることのできた景色は、まさに絵に描いたように美しかった。
「へっへーん!!どうよ!!これぞ、カティナトの街の名スポットの一つ!!……って言うのは、あたしが勝手に思ってるだけなんだけどさ。綺麗でしょ?あたしのお気に入りなんだ、ここ」
「うん……すごい、綺麗だね……」
うんうん、とノアの言葉に満足げにうなずくイリン。
「……あたしさ。同じ魔物の友達って、今までいたことなかったんだよね」
そんな彼女が海を眺めながら、独り言のように少し調子の下がった声で口を開く。
唐突な告白の内容は、明るいイリンの性格を考えるとノアにはすぐに信じられないようなことだった。
「ウーロさんみたいな職場の人とか、他にも色々世間話するお客様とかならいるんだけどさ……こんな風に一緒に店を回るなんて、ノアが初めてだった。……だからさ、今日はすっごい楽しかったよ!!ノアはこれから、すぐにどっか行っちゃうんだろうけどさ……あたし、今日のこと絶対忘れないからね!!」
夕陽に照らされるイリンの姿に、ノアはしばしの間だけ見惚れ……そして、一言。
「うん……私も、楽しかったよ」
夕陽を背にして、ノアは微笑んだ。
その笑みは、どこか儚げで……無理に笑っているわけではないのに、寂しそうな雰囲気を漂わせていて。
「あ……ようやくちゃんと笑ったね、ノア!!」
「え?あ……」
しかし、イリンはそんなことには構わなかった。
ノアが笑った、ただそれだけの事を純粋に喜んでいた。
「あたし、ずっと心配だったんだよ!?ひょっとしたら楽しんでたのはあたしだけで、ノアは全然楽しんでないんじゃないかー……って!!けど、よかったー……こういうの初めてだったから、自信なかったんだよあたし……」
ほっと一息ついてから、イリンはすぐにその顔を笑顔に変える。
「それにしても、ノアって笑うと可愛いんだね!!それなのに、あんまり笑わないなんて勿体ないよもー!!」
「それはちょっと、言い過ぎじゃないかな……?」
「そんなことないって!!ほら、もっほわはほ(もっとわらお)!!」
あまりの褒め殺しに苦笑いするノアにイリンは自分の両頬を掴むと、それを左右に引っ張って強引に口元だけを笑いの形に歪ませてみせた。
それを見たノアは、くすくすと口元を綻ばせる。
「イリン……ヴァンお姉ちゃんみたい」
「……お姉ちゃん?ノア、お姉ちゃんいるの?」
「うん。いつも元気で明るくて、ちょっと食い意地張ってるけどいつも私には優しくしてくれる……私のお姉ちゃん。イリンって、お姉ちゃんになにか似てる気がする」
「それ、あたしのこと褒めてくれてるの?やだなぁ、やめてよー!!あたしそんな立派じゃないってー!!」
口では嫌そうにして手をぶんぶん振る(荷物は器用に片手で持って)イリンだが、顔がにやけてしまっていて言葉の説得力はまるでなかった。
「ほら、もう行こ!!そろそろノアも依頼主さんのところに帰らないといけないでしょ!!」
「私は大丈夫だけど……イリンの旦那さんが、心配しちゃうもんね……」
歩きだしたイリンの足が、ノアの一言でぴたりと止まった。
「……旦那?それって、ディアルさんのこと?あはは、それ違うよノア!!ディアルさんは、あたしの旦那様じゃないよ!!」
「え、違うの?それじゃぁ……お父さん、とか?」
てっきりディアルを旦那だと思っていたノアには、それは意外な返答だった。
それならばお父さん、というのが一番自然ではあったが、イリンはそれにも微妙な顔をする。
「うーん……近いけどそれも何か違う感じはするなぁ……そうだね、あえて言うんだったら……」
少し考え込んでから、イリンは照れくさそうに口にした。
「……家族、なのかな」
「ディアルさーん、今帰ったよー!!」
底抜けに元気な挨拶に、居間で新聞を読み返していたらしいディアルが返事をする。
「おう、ようやく帰ったか」
「うん!!荷物、ここにおいとくね!!」
ドサッ、と音を立ててイリンの腕の中に抱えられていた大量の食べ物の入った袋が床に置かれる。
「では私も、荷物はここに置いておきますね」
ノアもその後に続いて荷物を下ろす。イリンと違うのは、背中に背負っていたリュックも一緒に下ろしていたところだった。
「おう。嬢ちゃんもイリンも、ご苦労様だったな。それで……その中身、見せてもらっても構わんかね?」
「はい、わかりました」
ディアルが指差したのは、ノアが置いたばかりのリュック。ノアはディアルに素直に従って、ごそごそとその中身を取り出す。
「そういえば、ノアって元々ディアルさんに届け物があってきたんだっけ。ディアルさん、何頼んだの?」
「何かって?まぁ、見りゃわかんだろ」
興味津々な様子のイリンの目の前に、ゴトリ、と音を立ててそれは置かれた。
それは、人の手により産まれた見事な曲線美と大地が産んだ偶然の中の奇跡による幾何学的な模様で、圧倒的な存在感を放ち、座する一つの……
「……壺、だね」
「あぁ、壺だな」
……年期の入った、壺だった。
「だが、ただの壺じゃねぇ。今じゃ生産を中止した幻の工房、ポーコムト工房の作品の一つだ。スフィルラグ領じゃもう取り扱ってねぇ品だからな、取り寄せて正解だった」
壺を満足そうに眺めながら、いつになく饒舌に語り出すディアル。
それなりに歳を取っているディアルであるが、その姿はまるで自分の玩具を自慢する子供のようであった。
「そっか。ディアルさん、そういうの良く集めてるもんね。壺とか……食器とか?」
「おいおい、骨董品って言い方があるんだぞ?まぁ、これが俺の唯一の趣味みたいなもんだしな」
「喜んでいただけたなら光栄です。それでは、こちらの書類の方に必要事項のご記入を……」
「あぁ、それならとっくに終わってるぞ?お前達、なんだかわからんが長かったからな」
机に置かれていた書類を手にとって、差し出すディアル。
「あ、はい、確認します……本当に終わってる……」
受け取ったノアが、狼の手でめくるのに多少時間をかけつつも確認すると、少なからず驚いた。
その書類は、本来ならばノアが説明するべきである、素人が見ただけではわからないような郵送手続きに関する点も含めて、全ての欄に記入が完了していた。
「……はい、確認も完了いたしました。これで、ご契約された分の私の仕事は完了でよろしいですか?」
「あぁそうだな、これで終わりだ。いやぁ、嬢ちゃんがいてくれて助かった」
「うんうん!!ノアがいてくれて助かったよ!!」
とはいえ、客がどんな能力を持っていようが、仕事は仕事。
そう割り切ったのか事務的な会話をするノアに、イリンは満面の笑みを返した。
その後ろで、何故か不敵な笑みをディアルが浮かべ、また何かあるのか、とノアの身体が僅かに強張る。
「それで、報酬の件なんだが……ところで嬢ちゃん、今日はもう遅いが宿はどうするつもりだ?」
「え?宿はこれから決めるつもりですが……」
脈絡の無い唐突な問いかけに、ノアはしばし呆気にとられる。
ノアが普段住まう地方からこの場所へは、いくらワーウルフの脚力であってもすぐに帰れるような距離ではない。その為、今日の彼女は宿をどこかで取ってから一晩を過ごしてから帰路につく予定であったのだが、街についてからは色々あって、その暇が無かったのである。
だが、それをこのタイミングで何故問われるのかがさっぱりわからなかった。
次のディアルの言葉で、即座に理解することとなるのだが。
「よし。それならよ、報酬はここで一泊ってのはどうだ?」
……そこで一番驚いたのは、ノアではなく。
「え……えぇ!?ディアルさん、どういうこと!?」
その隣にいたイリンの方であった。
別れの言葉まで済ませたイリンには当初、ノアが家に泊まる事に対して気恥ずかしさも多少あった。が、様々な地域を旅しているノアの話を聞く内にそんな感情はどこかに吹き飛んでしまったらしい。
今は彼女が旅した地域について、詳しく聞かせてもらっている最中であった。
「ジョイレイン領?」
「うん。ここから遠くにある、結構親魔物領でも有名な所なんだけど……イリン、聞いたことない?」
「うーん……ないなぁ……あたし、そもそもこの街以外の事詳しく知らないんだよねぇ……」
少し頭を捻って見ても、彼女の話はイリンの聞いたことがないものばかりであった。
「自分が住んでる領の名前だってよく覚えてないし……えーっと、なんて名前だったっけ……ふぃ……フィーリ……」
「……スフィルラグ領、だっけ?」
「そう、それ!!スフィルラグ領!!ノア、よく知ってるね!!」
「ここに来る前、教えてもらってたから。とゆうか、自分の住んでる場所の名前ぐらい覚えようよ……」
少し呆れた顔でノアに注意されても、イリンは大した反省の色も見せずに「あっはは、次からちゃんと覚えるよ!!」などと言ってへらへら笑うだけだ。
ノアは、そういった点も含めてイリンのことを姉に似ていると評しているのだが、当の本人は勿論そんなことは露知らないままであった。
「それにしても……泊めさせてもらえるなんて、思ってなかったよ……」
「あっ、それあたしもー!!まさかディアルさんがあんなこと言い出すなんてびっくりだったよ!!」
彼がノアに泊まるようにと言い出した、その言い分はこうだ。
『なぁに、外の世界を見て回ったやつの話を少し聞きたくなってな。嬢ちゃん、ブロックスの野郎の使いなんだろ?』
『は、はい。確かに私は今回、ブロックスさんからのご依頼で来ましたが……』
『ぶ…ブロッ、コリー……?ノア、誰それ?』
『私を雇ってくれてる人だよ。あとイリン、その間違え方は怒られるよ……』
『おいおい、俺のいない間に随分仲良くなったじゃねぇかお前ら。まぁとにかく、俺としてもあんたは久しぶりの客だ。せっかくの機会だからな、このままさよならって言うのも寂しくてな。……あんたさえよければ、こんなオッサンの話し相手になってくれんかね?』
その後、ノアはその質問を快諾して、今に至る。
尚、ディアルの家を宿として仮定した場合の宿泊代が、壺の代金と郵送料を足した額と殆ど同額だったというのは、別の話。
「ま、あたしとしては嬉しいからよかったんだけどねー……うわ、もう外真っ暗」
知らない地方の様々な話に熱心に耳を傾けている内に、二人がいるイリンの部屋の窓から見える景色はすっかり暗くなりつつあった。
くぅ、と小さな音がイリンのお腹から鳴る。
「あはは、お腹空いてきちゃったな。ディアルさん、何作るんだろう」
「……そういうイリンは料理、作れるの?」
「一応、ディアルさんに教わったからね。いつもは手伝いとかやってるんだけど……あんな事言われちゃぁ、ねぇ」
ディアルは今一人で料理を作っているが、それは彼たっての希望だ。本人曰く、『お客様を一人で待たせる訳にはいかないだろう』という事らしい。
「そういうノアは?なんか料理作ったことあるの?」
「私は……あんまりないかな。そういうのはいつも、誰かにやってもらってたから……」
「ふーん……」
そこでイリンが何となくそれ以上の追求をやめたのは、ノアがどこか別の方向を向いているように思ったから。
それは何かを懐かしむようにも、悲しんでいるようにも見えるような、複雑な表情。
「おーい、夕飯できたぞー!!」
「ふぁ!?は、はーい!!」
いつの間にかイリンはその顔に見入ってしまったらしく、扉の外から唐突に聞こえてきた大きな声に驚いて思わず肩が跳ねてしまう。
「もうできたんだ……じゃあいこっか、ノア!!」
気を取り直して明るく声をかけるイリンに続いて、ノアも食卓へと向かった。
「わぁ、美味しそう!!」
テーブルの上を見るなり、イリンははしゃいだ声をあげた。
椅子の前に置かれているのは、ご飯に乗った薄い黄色の身の上に波のような赤い模様が描かれたオムライス。
まだオムレツが出来たてなのか、立ち上った白い湯気が卵の匂いも連れてきて、それだけでお腹が減ってしまいそうだ。
料理はそれだけではなく、テーブルの中央には茶色い焦げ目の唐揚げが皿の中に積まれていた。
皿の下に敷かれたレタスの葉っぱや周りに並べられていたトマトが、そっと彩りを添えている。
「どうだ?オッサンだってがんばりゃこれぐらいはできるんだぞ?」
「ディアルさん、お料理上手なんですね……すごいです……」
得意げに言うディアルを素直に称賛するノア。
実際に、それは見ただけでもどこかの食堂で出てきそうな位の出来映えとわかる。
「ちょっと味見しちゃおっかなー♪」
「おい、やめろ。意地汚いぞイリン……」
だから、ついついイリンが唐揚げに手を伸ばして摘み上げてしまうのも、それを見かねたディアルが軽く叱咤するのも、ごく当たり前の事であった。
驚いたというには過剰なぐらいに、イリンの肩が大きく跳ねるまでは。
唐揚げがイリンの手から離れて、ぽとりと机の上に落ちた。
「あ、あはは……そ、そうだよね、こんなことしちゃ、駄目だよね……あたし何してたんだろ、ゴメンねディアルさん!!」
「い、イリン……?」
恐る恐る声をかけたのは、ノアである。
イリンは相変わらず明るいままなのだが身体は小刻みに震え、ノアにはそれがどこか不自然なように感じられた。
「ん?何ー?どうしたのノア?気にしないでいいよ、今のは明らかにあたしが悪かったんだしさ!!いやー、ホント馬鹿なことしちゃったよね、あたし!!」
返事を待たずに早口でまくし立ててくるイリンに、今度こそノアは自分の考えを確信した。
イリンの浮かべる、笑顔。
それが、見ているだけで元気を貰えるような明るいものではなく……ぎこちなく顔に張り付いて、無理矢理浮かべたようにしかみえなかったから。
「それよりディアルさん!!夕飯なんだけど、あたしに手伝える事とかないかな!?ほら、皿出すぐらいならあたしでもできるしさ!!」
「い、いや……もう、夕飯の準備はあらかた終えたからこれ以上、してもらうような事もないが……」
イリンの会話の矛先が唐突にディアルへと向く。
戸惑っている、というよりも、悲しそうな表情をしながら彼はイリンに返事をする。
「あ、そっか。夕飯の準備、全部するって言ってたもんね!!そりゃ、あたしの出る幕なんてあるわけないよね!!あたし何勘違いしてんだろ、変な事聞いちゃってゴメンね!!」
「別に、気にしてなんか……」
「そう?ならよかった!!ディアルさんって、本当に優しいよね!!」
「イリン……」
「あ、そうだ!!風呂、まだ湧かしてないよね!!あたし、ちょっと見てくる!!待ってて、ご飯食べ終わったらすぐに入れるようにしとくからさ!!」
「お、おい!!……っ……」
ディアルの制止を待たずに、イリンは風呂場の方へとさっさと向かってしまう。
残されたのは、状況を飲み込めずに固まるノアと、ディアルだけだった。
「イリンを……待とうか」
脱力しながら、椅子に座るディアル。
その顔には、悲しみと諦めの混じったような、暗い表情が浮かんでいた。
「……そう、ですね」
しかし、ノアはそれを尋ねることはなく、ディアルに続いて用意された椅子に腰掛ける。
それから、イリンが帰ってくるまでの間。
圧迫してくるような気まずさに、食卓は包まれていた。
イリンは、何事もなかったかのように風呂場から戻ってきた。
お待たせ、という言葉には震えもなくて、ノアは安心しきったことを覚えている。
明るい雰囲気の戻ってきた食卓には現在、ノアの旅した地域についての話に花が咲いていた。
「ねぇねぇ!!その、ティルナ・ノーグってサーカスは、どんな感じだったの!?」
「えっとね、色んな人と魔物が協力して色んな出し物をするんだよ。火の輪くぐりとか、空中ブランコとか……あんまり上手く言えないんだけど、すっごく素敵だったよ」
「へぇ……!!羨ましいなぁ、そんなの見られるなんて!!あーあ、この街にもサーカスが来てくれればいいのになぁ」
「まぁ、待ってりゃその内スフィルラグ領には来るんじゃねぇか?来たら、連れてってやるよ。それにしても、ジョイレイン領にティルナ・ノーグか……懐かしい名前だな……」
「ディアルさんは、ご存じなのですか?」
「ジョイレイン領は何度も行ったことがあるから、知ってはいるつもりだ。これでも俺は、昔は行商人だったからな」
「行商人、だったんですか……じゃあ、イリンもそうだったの?」
「うぅん、あたしはね、色々あって路頭に迷っていた所を、ディアルさんが行商人を辞めた頃に拾われたんだ。スフィルラグ領から出たこともないし、勿論サーカスなんて見た事もなかったよ」
「つっても、ティルナ・ノーグは名前を知ってるだけで、俺もサーカスは見たことはないけどな。新鮮さだけなら、イリンとそう変わらん」
「そうだったんですか……ディアルさんはきっと、私よりも多くの地域を回っていたんでしょうね……」
「かもしれねぇな。けどな、大事なのはどれだけ多くの地域を回ったかじゃねぇ。その場所で何に触れて、何を得たのかだ。嬢ちゃんも、いつか一生の思い出になるような経験が出来るといいな」
「……はい!!」
「ねぇねぇ、ノアの行った所って、ティルナ・ノーグだけじゃないんでしょ!!他にはさ、どんな所に行ったの?」
「そうだね……じゃあ、悪い魔術師を捕まえに洞窟に行った時の話とか……」
「何それ!!すっごい気になる!!聞かせて聞かせて!!」
「俺も是非、聞いてみてぇな」
「そ、そんなにですか……?それじゃあ……」
三人で過ごす食卓の時間は、こうして和やかに、何事もなく、過ぎていく。
窓から見える景色が、街灯の優しい明かりに照らされるようになった時間。
ディアルの好意で湯船にまで浸からせてもらたノアは現在、イリンの部屋で部屋の主と共に寝間着になっていた。
当初は、布団もないのでディアルがソファで雑魚寝をすると言い出したのだが、ノアはそんなことさせるわけにはいかない、と言って、互いに譲らなかった。
そこに、イリンが提案をしたのだ。
『それなら、ノアがあたしのベッドで一緒に寝るのはどう?ほら、ちょっと詰めれば二人なら寝れるだろうし』
結局、三人で話し合った結果それが一番という結果となり、今に至る。
「ちょっと狭いかもしんないけど……ほら、ここ来なよ」
電気が消えた部屋の中でポンポン、とベッドを叩いて、既にベッドの奥で寝ているイリンはノアを呼ぶ。
「うん。おじゃま、します……」
その横に、遠慮がちにノアが寝ると、向かい合う二人の目は自然と合った。
「えへへ……こんなの、初めて……」
楽しそうに笑うイリンは、そっとノアの腕に触れる。
「すごいふかふかして、あったかい。これ、抱き枕にでもしちゃいたいぐらいだよ」
暗闇の中でも、イリンの表情は明るい。
それは逆に、ノアの沈んだ表情を引き立たせるかのように。
「ねぇ、イリン……」
「なぁに?」
「ディアルさんは、イリンにとって家族なんだよね?」
「うん、そうだよ!!あたしにとって、大事な人なんだ!!」
その表情に、嘘はなかった。
自慢げに語るイリンは、本気でディアルの事を好いているように見えた。
だからこそ、ノアには余計に分からなかった。
「じゃあ、どうして……さっきは、目を合わせようとしなかったの?」
イリンが、ディアルに声をかけるどころか、一切返事さえしなくなってしまったことに。
ノアのその一言で、イリンの笑みが凍り付く。
時間が止まったかのように言葉を失って、やがて、小さな声で尋ねた。
「……そんなに、露骨だったの?」
ノアは、小さく頷いた。
「そっか……そんなつもり、無かったんだけどなぁ……」
イリンは、どことなく自虐気味に言って、俯く。
「……ノアはさ、あたしがお姉ちゃんに似てるって言ってたよね?」
「え?う、うん……」
唐突に、イリンは話題を変える。首を傾げながら答えたノアだったが、その意図はよく掴めなかった。
「やっぱり……さ。あたしは似てなんか、ないよ……」
そう続けたイリンの豚の耳が、元気なく垂れ下がる。
「あたしは、そういうフリをしてるだけ。本当のあたしはね、嫌われたくないっていっつも人の目を気にしてビクビクしてる。さっきのあたしが、本当のあたしなの。だから……さ。そんな風に言って貰う資格、あたしにはないんだよ」
語るイリンの言葉は、一つ一つが重い。
ノアには信じがたいことではあったがそれは、嘘ではないのだろう。
弱音をこぼし、今にも押しつぶされてしまいそうな、目の前のイリンこそが……本当のイリンなのだろう。
「……関係ないよ、そんなこと」
それでも、ノアは迷わずにそう返した。
「私にとってのイリンは、この街で初めて出来た友達だよ。イリンが本当は臆病だったからって、それは何も変わらない。そんなことで、嫌いになったりなんかしないよ。……だから、怖がらないで」
そう告げて、ノアは穏やかに微笑む。
その表情は、イリンがずっと待ち望んでいたものだった。……それなのに、当のイリンの表情の方は、晴れないまま。
「そう……だね。もう……限界、かな……」
彼女はただ、何かを確かめるように呟くだけ。
「……ねぇ、ノア。あなたにね、聞いて欲しい話があるの」
またも唐突に切り出すイリン。
しかし、声こそ震えていても、尋ねる表情はとても真剣なもので。
「……うん、いいよ」
その想いを汲み取ったのか、ノアも覚悟を決めて返事をした。
「あ、先に言っておくと、これは友達の話。その友達はね、あたしと同じオークなんだ」
何か楽しい記憶でもあったのか、『友達』の話をすると少しだけイリンは明るい調子に戻る。
「友達……?」
「そう。その友達は、親魔物領の街じゃなくて、山の中で産まれたんだけどね……」
そう言って、彼女は語り出す。
あるオークの抱き続ける、罪の物語を。
そのオークは、姉妹の中でも一番の末っ子だった。
そのためか、物心がついたときには既に姉達に連れられて、親元を離れて暮らしていた。
親代わりに受けた、姉達からの教育。
それは、人間は弱い生き物だ、だから強いあたし達はそいつらを好きにしてもいい、という考え。
姉達は、日々の食料や金目の物を林道に入った人間から奪う、盗賊業をしていた。
幼く純粋なオークは、その言葉を完全に信じたまま、成長していった。
そして時は経ち、姉から盗賊業に参加する許しを得てもらった頃。
初めて参加した盗賊稼業は、姉が積み荷を奪い、後から抵抗する人間を自分が動けなくするというものだった。
やってきたのは、夫婦と思われる行商人の男と女が一人ずつ。
三人の姉が荷台へと押し掛けると、男はそちらへと飛び出していく。
最初は止められたが、悲鳴を聞いて飛びだそうとした女の前に、オークは立ちふさがる。
そして、得意げな表情で、自分の得物である石斧を女性に目がけて振り下ろした。
……姉にあっさりと受け止められてしまうような、弱い一撃のつもりだった。
しかし、オークにとって弱い一撃であっても、身体能力が魔物に比べて劣る人間にとって、それは強すぎる一撃となってしまうことを、彼女は知らなかったのだ。
ガツン……と、石斧を握る手に、鈍い感触。
頭に一撃をお見舞いされた女性は、そのまま何の抵抗もなく倒れた。
この程度で倒れるとは夢にも思わず、呆然とするオーク。
じわり、じわり。
倒れた女性の頭の下には、水たまりができていた。
段々と広がっていくそれは、赤く、赤く……
そこまで見て、オークは思わず石斧に目を向けた。
それは、目を背けようとするための、無意識の行動。
しかし、彼女のそんな小さな願いは、叶わなかった。
赤い液体は……石斧にも、べっとりとこびりついていたから。
『え……あ……』
オークの顔から血の気が引いて、口から掠れた声が漏れた。
これまで全てを姉にゆだねてきたオークは、何をしていいのかも分からずに、姉の方へと駆け寄る。
だが、荷台の傍に駆け寄ったオークは、またしても動けなくなってしまった。
……馬車の影に、倒れている男性の姿を見てしまったから。
その姿が、倒れた女性と重なった時、オークはようやく気がついた。
……自分たちが、どれだけ恐ろしいことをしていたかということに。
立ち尽くしたオークの手が、そのとき引っ張られた。
ずらかるぞ!!という言葉と共に、姉はオークを引き摺るようにして連れていく。
『待って!!人が、女の人が、大変なの!!』
叫んでも、ほっとけ!!と言うばかりで姉は聞き入れようともしない。
『お願い、待ってよぉ……!!』
その声は、木々の間に吸い込まれて消えていった。
帰ってきたオークは、改めて姉に事情を話す。
女の人が、自分の一撃で血を流して倒れたこと。
……そして、自分がもう盗賊をやりたくなくなっていたことを。
『もうやめようよ……奪ってばっかじゃ、人間が可哀想だよ……!!』
目尻を潤ませ、全身を震わせながら、オークは告げる。
しかし、姉たちは皆耳を傾けようとはしなかった。
『偶に犯して気持ちよくさせてやってんだ、別にいいんだよ』
その言葉には、反省などなかった。
『じゃあ、あの女の人は!?あたしのせいで、死んじゃったかもしれないんだよ!?それなのに……!!』
――――叫ぼうとした言葉は、途中で遮られた。
『黙れぇっ!!』
突然、オークの頬が強く殴られる。
今までも、姉に殴られたりしたことはあった。それが、手加減されていたということに、ようやく気がついた時には、彼女の身体は地面に倒れていた。
『じゃあ何だ!?お前は、あたし達が、間違ってるって言うのかよ!!他に、食ってく方法が、あるのかよ!!えぇ!?』
腹、腋、腕、すね。
何度も何度も、一番上の姉オークはオークを踏みつける。
『げほっ、げほっ!!ち、ちがっ……えほっ!!あたしは、そんな……!!』
何度もえづいて、オークの目には涙がにじむ。
しかし、他の姉もそれを助けてくれる様子はない。
どうして、と思うオークが腹を蹴られ、無様に転がった。
痛みが辛くて、何より迫ってくる姉が怖くなって、ふらふらと立ち上がるとオークは一目散に外へと逃げ出した。
『い、いいのかよ……』
『ほっとけ!!どうせ、すぐに帰ってくるだろ!!』
姉達がそんな風に言い合う声は、イリンには届かなかった。
だから、オークが後ろをチラチラと見ながら走り続けるのは当然のこと。
……そして、初めて姉も無しに出た外の世界で、前への注意がおろそかになり、崖から足を踏み外すのも、また当然だった。
『あ……きゃぁぁぁぁぁぁ!!』
オークは叫びながら崖を転げるように落ちて、地面に激突した。
『あっ……う……』
全身に回る痛みは、手足を動かすどころか、言葉を出すことすら許してはくれない。
(あの人も……こんな痛みだったのかな……)
ぼんやりと思い出すのは、自らが傷つけた人間の事。
視界に入る太陽が眩しいからか、それとも全身が痛むからか、目から涙が流れてきた。
(あたし……もう、駄目なんだろうなぁ……)
迫り来る死を、オークは既に半ば受け入れつつあった。
その時、草原を踏みしめる音が聞こえてくる。
閉じかけた瞳が、うっすらと人影を捉えた。
(にん、げん……?)
後ろから太陽に照らされていて、その顔をよく窺うことができない。それでもその影は、どうやら人間のように見えた。
(奇跡って……こういうことなのかな?)
一つだけあった、心残り。それを無くす為に、オークは口を開く。
『…… ……』
それから、目覚めるまでの間の記憶は、オークにはなかった。
目が覚めると、オークは一面が白い部屋にいた。
そこが『病院』という場所であることを、オークは後に知る。
周りから聞こえる、お加減は大丈夫ですか?という声。腕に得体の知れない物が刺さっているのを見て、思わず引き抜こうとするが、その瞬間カーテンが開いた。
『あ、お目覚めになったんですね……っと、駄目ですよ、引っこ抜こうとしては』
入ってきたのは、純白の衣装に身を包んだ下半身が異形の魔物、ユニコーン。
彼女はオークが針を引っこ抜こうとしているのを目に入れると、オークを優しく止める。
『は、針なんて、こんなの……』
オークは、自分の身体の中に何かが入ってくる感覚に震えていた。
そんな彼女に対して、ユニコーンは変わらず優しく話しかける。
『それは点滴ですからね、引っこ抜いてしまうとそっちの方が危ないですよ?』
『て、てんてき……?』
訳もわからずに聞き返すオーク。
『あら、点滴が分かりませんか?』
と言うユニコーンに、オークは素直に頷いた。
それから、ユニコーンの看護師は懇切丁寧にオークの質問に答えた。
そして、ユニコーンは更に、彼女をここまで運んできてくれた人が、毎日お見舞いに来てくれていることも話す。
オークは、首を傾げた。ずっと山中で暮らしていた彼女に人間の知り合いなど、いるわけもない。
その時、オークのいる病室に人が入ってきた。
『ほら、あの人がいつもお見舞いに来てくれる方ですよ』
ユニコーンは入り口を見て言う。
指差す先を見るオークは、その顔を見た瞬間に絶句した。
……その人は、あの時姉に伸されて倒れていたはずの男だった。
ユニコーンとその男の人は何か会話をしたようだったが、オークには殆ど耳に入らなかった。
どうしてあの人が、ここにいるの。どうして、どうして。
心臓がうるさく跳ねる音が、頭の中で反響する。
心の準備が着く前に、ユニコーンは出て行ってしまい、オークは一人でその男に対峙した。
何を言われるのか、わからない。報復だと言って、今すぐ殴られるのかもしれない。
自然と、布団を握りしめる力が強くなった。
やがて、男が口を開く。
『……おめぇさんはなんで、俺が見つけた時そんなにボロボロになっていたんだ?』
だから、そんな質問が投げかけられた時、オークは耳を疑った。
しかし、それを問う男の表情は、ふざけている訳でも、怒っているわけでもなく、まるで自分を気にかけるような表情。
『あっ……えっと……』
言おうとして、思い出す。
姉に殴られて、蹴られた時のこと。その時の姉の表情。そして、その発端となった事件……
思い出して、何も言えなくなった。
男は、イリンの様子で諦めたのかそれ以上追求はせず、代わりに別の質問を投げかける。
『……お前は、退院したら帰るのか?お前の家に……』
男の表情は少し寂しげだったが、オークは気付かない。
あの家に、帰る。それは、口にすれば酷く単純なこと。それなのに、思い出すのはあの時の姉の顔。……あの家に、もう一度帰る?
『わから、ない……あたし、どこに帰ればいいの……?』
胸の内は、勝手に口から滑り落ちていた。あそこにはもう、いたくない。仮に、姉が全てを許してくれたとしても、あそこに帰ればまた盗賊稼業をやらされるだけだ。けれど、他にどこに行けばいいのかも、わからない。男に言われてようやく、彼女は自分が一人になってしまった事に気がついたのだった。
そんなオークに、続けて男が尋ねる。
『……なら、俺と来ないか?』
『……え?』
尋ねるその口調の優しさに、オークは逸らしていた顔を上げる。
こちらを見つめる男の目は、真っ直ぐにオークを見ていた。
『俺はもうじき、この街を離れる。それからよ、どっかの街で家の一つでも買って、そこでのんびり暮らそうと思うんだ。おめぇさん、帰る場所がねぇってんなら……そこで一緒に暮らさねぇか?』
オークにとっては願ってもない申し出のはずだが、混乱しているイリンはそこまで頭が回らない。
自分が傷つけた人間の言葉とは思えないくらいの優しさに、戸惑うばかり。
『え……な、なんで……?あたし、あたし、は……』
あなたの奥さんに、酷いことしたのに。
そこから先は、口にするのも恐ろしくて言葉にできなかった。
そこに、ディアルは言葉を付け加える。
『ほっとけねぇんだよ。おめぇさんみたいに……辛そうな顔してる奴を、よ』
『……!!』
言われて、オークは自分がずっと俯きがちだったことに気付く。
少なくとも、この人が今すぐに自分を傷つける気が無いことを、なんとなく理解していた。
ひょっとしたら、この人は自分の顔を覚えていないからこんなことを言ってくれるのかもしれない。
本当の事を言ったら怒り出して、姉のように酷いことをしてくるのかもしれない。
そんな不安は、確かにあった。
『……あたし……あなたに、ついていきたい……』
それでも、オークのした返事は、まぎれもない本心だった。
「それからね……あたしの友達は、自分を拾ってくれた人に色んな事を教わったの……」
どこか遠くを見るような目で、イリンはノアに語り続ける。
「人間は、お金で物を手に入れるっていうこと。そのお金も、働かないと手に入らないっていうこと。それから、その子は退院した後、男の人と一緒にその街を離れたの。その子は勿論、男の人だってきっと、辛かったんだろうね。しばらくしてから、二人はある街で暮らしだして、その子はちゃんと仕事もするようになった。その子は、願ってた生活を手に入れたんだよ……」
でもね、とイリンは付け加える。
「男の人と一緒にいた、女の人……その子が殴った人には、それからも一度も会わなかった。……死んじゃったんだよ、きっと。他に……理由、ないもん……」
俯くイリンに、ノアは言葉をかけられない。
そんなこと無いよ、などと軽々しく言って良いとは、思えなかった。
言えない理由も……ノアは既に、察している。
「だから……一緒の生活が楽しくなっていけばいくほど、本当の事がどんどん言えなくなって……それなのに……一人になっちゃったのに、あの人はいつも優しくしてくれた……!!でも……優しくされる度に、胸がどんどん痛くなるの!!」
語る言葉は、徐々に熱が入っていく。
イリンは、溢れ出す感情を抑えられなくなっていた。
「あの人の……ディアルさんの、大事な人奪っちゃったのは……あたしだから……!!」
そしてついに、イリンは友達の事だと隠すことをやめた。
「あたし、怖いの……!!ディアルさんに嫌われたら、って思うとそれだけで小さな事でも身体が震えちゃう……違うの、あたしが言いたいのはそんな事じゃないの!!あの時の事、ちゃんと謝りたいのに……!!できなかったの、ずっと……ディアルさんのこと、信じたいのに……怖いよぉ……!!」
ぼろぼろと、零れる涙と共に、イリンの秘めた思いが堰を切ったかのように溢れて、止まらない。
とっくに、彼女は限界だったのだ。ディアルの傍にいることは、まるであの時の彼女から居場所を奪っているような気分で。
それでも、失ってしまうには、その場所は心地よくなりすぎた。また、どこにも帰れなくなる絶望は、何度もイリンの喉元で言葉を堰き止めた。
それでも……ノアには、語ることができた。
勇気を振り絞ったのではない。
ただ、あんなことがあっても尚自分を信じてくれた彼女に、応えたい一心で。
責められることも、怒られる事も、覚悟はしていた。
自分は、それだけのことをしていたのだから。軽蔑されても、仕方のないことなのだから。
けれども、軽蔑も批難も覚悟していたイリンでも。
ノアのその言葉は、予想できなかった。
「馬鹿っ……!!」
内気な少女が発した、大きな声。
しかし、イリンの流す涙が止まった理由は、怒られたからではない。
なぜならば、ノアもまた、泣きそうな程にその顔を歪めていたから。
イリンの言葉で……悲しんで、いたから。
「どうして、そんなこと言うの……!!ディアルさんは家族だって、イリン言ってたじゃない……!!」
イリンは、その余りの気迫に、呆気にとられた。
こんな表情もできたのか、という驚きもあって、しどろもどろになりながら返答する。
「い、言ったよ……言ったけど……それでも……あたし、本当の家族なんかじゃ、ないし……」
「それでも、じゃないよ!!イリンは家族だって、思ってるんでしょ……!!血が繋がってるかなんて、関係ないよ!!家族って、どんな時でも支えてくれるものでしょ……憎んだり、ましてや殺したりなんて……絶対、しないよ……!!」
ノアの言葉は、酷くイリンの心に突き刺さった。
ノアは、イリンと歳が離れているようには見えない。
それなのに、彼女の言葉には、経験を何倍も重ねた大人のように、重みがあって。
イリンは、思い出す。
自分の成長を喜んでくれた事。
姉に連れられて兎を獲ってきた日、褒めてくれた事。
幼い自分に微笑みかける、オークの姉達。
自分を拾ってくれたこと。
一から教えてもらった、人間生活の知識。
一つ一つ理解する度に、笑ってくれたディアル。
「家族だから……信じ、られる……」
ノアの言葉を、噛みしめるように口にした途端。
……零れる涙が、喜びの色で滲んだ。
「そう……だよね……家族って、そういうものだよね……!!」
イリンは、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、笑っていた。
姉の事を、信じられるような気がした。
ディアルの事を、信じられるような気がした。
その一言は、イリンの中に溜まっていた物を、全て吹き飛ばしてくれた。
「そうだよ……イリンだって、わかってたから……私に、その話をしたんでしょ?ディアルさんに……全部、言いたいんでしょ?」
「うん……あたし、ディアルさんに嫌われるのはやだ。だけど……このまま黙ってるなんて、もっとやだ……!!」
涙を拭いて、力強く返事をするイリン。イリンには、やっぱり元気な顔が似合うと、ノアは思った。
そして、イリンは明るかった表情をぎゅっと引き締める。
ノアのおかげでできた決意を、無駄にしたくはなかった。
だから、イリンははっきりとノアに告げた。
「ノア……ありがとう。あたし……本当のこと、ディアルさんに言うね」
「ノア……いる?」
「うん。いるよ、イリン」
翌日の朝。
廊下を先に歩くイリンは振り返らずに声をかけると、ノアも優しく返事をする。
「……怖いの?」
「……うん。やっぱり、怖い」
そう言うイリンだが、一度も後ろは振り向かない。
「だけどあたし、決めたから……ノア、傍にいて?」
「……うん」
一歩、一歩。ディアルのいる部屋へと近づいていくイリン。
その顔は、決意に満ちた表情で、真っ直ぐ前を向いて歩く。
そして、その足は一回へ降りる為の階段に差し掛かろうとしたその時。
「……イリン!!」
家の中だと言うのに息を切らせて、ディアルがイリンを呼んだ。
「ど、どうしたの、ディアルさん……?」
見たことのない鬼気迫る表情のディアルに、イリンは気圧される。
それを知ってか知らずかディアルは傍によると、イリンの前にその手に持っていた新聞を突き出す。
「え……これって……」
その見出しに書かれていた内容に、イリンは目を見開いた。
「おねえ、ちゃん……?」
『通り魔逮捕!!』そんな見出しと共に載っていた写真に、姉の顔が写っていた。
「ルベルさん……!?」
それに気付いて、愕然とするイリンと、別の写真に反応するノア。
「えっ……?ノア、知り合いいるの……?」
「う、うん、ここ……昨日、知り合ったばっかりなんだけど……」
そう言って、ノアが獣の手で指差したのは、大きな写真の傍にあった小さな写真。
「この人……!?」
そこには、「盗賊に襲われ、重傷を負いながらも盗賊を返り討ちにしたルベルクス=リーク氏」という説明と共に、昨日ノアと一緒にいた金髪の男の顔が載っていた。
「それよりイリン、お姉ちゃんってことは……」
「うん、そうだよ……ここに写ってるのは、あたしの……」
そこまで言って、別のことに気がついた。
……ディアルが、はっきりと自分の名を呼んで新聞を持ってきた事に。
自分の同種、オークの記事だから?それでは、あそこまで切羽詰まった表情はしない。
ならば、何故か。その答えは、一つしか思い浮かばなかった。
「ディアルさん……あたしの事、覚えてたの……!?」
「……?何の話だ?俺はただ、あの時お前が一緒にいた仲間が写っていたから、お前に見せなきゃと思って……」
イリンの言わんとすることを察せなかったディアルだが、その言葉はイリンに確信を持たせるには充分だった。
「それじゃ、ディアルさん……あたしがやった事、わかってて……?」
震える声で尋ねるイリン。ディアルは顎を一回さすると、急に沈痛な面持ちで問う。
「……それは、リアの……俺の妹の事か?」
「え……?いも、うと……?」
ディアルの口から出たその言葉に、驚きを隠せないイリン。
「……そうだ。妹はあの日、お前が殴ったせいで……死んだ。お前等の顔を忘れた事なんか、一度もねぇよ」
ぎゅっ……と、イリンは胸を押さえる。
覚悟は、していたつもりだった。けれど、実際にディアルの口からそれを聞いて、恨まれている事も聞いて、イリンは心臓を鷲掴みにされたような心地になる。
身体は震えて、握る手に汗が滲んでいく。
隣のノアも、そんなイリンに何も言わず、ただその姿を見守っている。
そんな二人に向けて、ディアルは言葉を続けた。
「……けどな、もういいんだよ、んなこたぁ」
ポン、と。
イリンの頭に、ディアルの手が置かれる。
「おめぇさんは、ちゃんと謝ってくれたじゃねぇか。あんなボロボロで、死にそうになっちまいながらよ……」
「……え?あ……」
イリンは思い出す。あの日、崖から転落して、死を覚悟したあの時。
ディアルの影へと、そうともわからずに呟いた、あの言葉。
『……ごめんなさい……』
ちゃんと口から出ていたかすら分からなかった、その言葉を。
ディアルは、聞いてくれていたのだ。
「あの時俺は、おめぇさんを助けたいと思った。あんな目に遭ってる奴を、放っておけねぇと思った。だから今、こうして一緒にいるんじゃねぇか。てっきり、イリンも覚えてて一緒にいると思ったんだがな……」
ぽりぽりと、ディアルは気まずそうに顎髭をさする。
知ってしまえば、何ということもない。ずっと隠していたというのは、イリンの思い違いに過ぎなかったのだ。
それが意味するところは、つまり。
「ディアル、さん……あたしのこと、許してくれてたの……?あたし……酷いこと、したのに……」
見上げるイリンに、ディアルは優しく笑った。
「何言ってんだ。イリンはもう、充分すぎるぐれぇ苦しんでくれたじゃねぇか。その分も……俺の傍で、一緒に笑ってくれ。お前が幸せなら、それで……俺は充分だ」
言葉にしてしまえば、ディアルの言ったことはとても短い事だった。
昨日までのイリンであれば、その言葉さえも疑っていたかもしれない。ディアルの感情を理解できず、赤の他人の自分を許してくれるわけない、と思いこんで……生涯、ディアルを信用することはなかったかもしれない。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……!!うわぁぁぁぁぁぁん!!」
しかし、イリンはその言葉を迷わずに信じて、ディアルの胸で涙を流した。それは、家族の言葉だったから。ディアルがそんなことを思う訳がないと、信じるきっかけをくれた少女がいたから。
「ずっと、言いたかった……!!あたし、ディアルさんは何も知らないって……!!あたしが、騙してるだけだって、思ってたから……!!」
「……お互い様だ。おめぇがそんな勘違いしてたなんて……ちっとも、気付かなかったからよ……」
泣き続けるオークを、男は優しく抱きしめる。優しく、けれど深く、深く。
今までの隙間を、埋めるように。
「……素敵な家族、だね」
ワーウルフの少女はただ静かに、家族が絆で結ばれる様を、温かい目で見守り続けるのだった。
家族の行く末を見届けられたノアは、満足していた。
「……待って」
静かに立ち去ろうとしたその時、イリンが声をかける。
「ノア。……最後にもう一度、一緒に来て欲しいところがあるの」
ディアルの腕から離れて、立ち上がるイリン。
「イリン……行くんだな?」
「うん。あたし、行ってくる。あたしの家族は……一人じゃ、ないから」
ディアルは、自ずとイリンの意図を察していた。ノアだけがわからずに、きょとんとした表情を浮かべる。
「あたし、お姉ちゃんのところに行く。ノアにも……ついてきて欲しいの」
「え……私……?どうして、私なの……?」
「違うよ。あたしは、ノアがいいの。ノアは、あたしにディアルさんの事を信じさせてくれた。ノアといれば……お姉ちゃんのことも、信じられる気がする。まぁつまり、ただの直感なんだけどね」
あはは、と小さく笑うイリン。
「多分あたし、酷いこと言われると思う。それで、ノアが聞いても、きっと嫌な思いする。だから、来て欲しいっていうのは、あたしの我が儘。それでも……言うね。一緒に、来て欲しいの」
ゆっくりと、手を伸ばすイリン。その手に、狼の小さな手の平が重なった。
「……うん。私でいいなら、ぜひ」
「……ありがと!!」
ゆっくりと首を縦に振るノアに、イリンは嬉しそうに笑った。
面会の許可は、自警団の詰所であっさりと降りた。
その理由には、イリンが自分を捕まったオークの家族だ、と正直に話した事が大きい。
何の躊躇いもなく過去を告白したイリンが、真剣に過去に立ち向かおうとしている事は、隣にいるノアでもよくわかる程だった。
看守に連れられて、薄暗い階段を下ったその先、小さな明かりがその姿を映し出す。
「それでは、面会時間終了まで私は外にいますが……妙な行動は、起こさないでくださいね?」
アヌビスの監察官は気を遣ってくれたのか、それ以上の事を言わずに外へと出て行った。
そして、残されたイリンは、牢屋の前に立つ。
中に居たオークは、三人。
鉄格子を境にして、姉妹達は数年ぶりに向かいあった。
「……よぉ、久しぶりだな」
「リリィお姉ちゃん……」
最初に口を開いたのは一番上の姉、リリィの方だった。最も、姉達がイリンを見る目は冷たく、イリンも萎縮しているのかその表情は優れない。互いに、姉妹の再会を素直に喜ぶ素振りはなかった。
「突然いなくなったかと思えば、あたし達が捕まってから顔出すなんて……どういうつもりだ?イリン」
姉の糾弾にも似た言葉に、イリンは何も返せない。姉の存在から逃げていたのは……間違いない、事実だから。
「それに、隣の奴はなんだ?どうして、ワーウルフがお前についてきてるんだよ?」
「ノアは……あたしの、友達だよ。あたしが連れてきたんだ」
ノアをかばうように、手を突き出すイリン。しかし、その手はカタカタと震え、姉達の嘲笑の的になるだけだった。
「友達ねぇ……友達がいないと、あたしの前に立つのも怖いってか?お前も変わってないね」
「あ、あたし、は……」
「ほら、何か言い返して見ろよ弱虫イリン!!」
「はは、そのへんにしときなよ。またべそかいて泣き出しちゃうよ?」
「「「あはははははは……!!」」」
「……っ」
あざけるような姉たちの言い方に、口をつぐむイリン。小さく縮こまり、震えるその顔は、涙を堪えるようにぎゅっと唇を噛むだけだった。
直接悪意を向けられていないノアでさえ、全身を締め付けられるかのような錯覚に陥る程の空気を感じている。
ましてや、悪意を直接向けられているイリンには、それ以上の辛さなのだろう。
ノアもイリンも……何も言い返せなかった。
「弱っちいなぁ。まるで人間みたいじゃねぇか、イリン!!」
「……が、う……」
「……あ?」
震えながら、何かを言い出すイリンを、訝しむ姉たちに向かって、イリンは俯いていた顔を初めてあげる。
その身体の震えは、もう止まっていた。
「違うっ……!!お姉ちゃんに、何がわかるって言うの……!!」
必死の叫びが、鉄格子を揺らすかという勢いで牢屋に響いた。
「人間は、弱くなんかない!!あたし達より、ずっと強いんだよ!!お姉ちゃん達を捕まえたのだって、人間なんでしょ……!!それなのに、人間を見下すなんて……馬鹿みたい!!」
「なんだと……!!こいつ!!」
リリィは怒って立ち上がり、イリンに掴みかかろうとするが、鉄格子に遮られる。
「あたし達は、奪う事しかしてこなかった……!!だけどね、人間は違う!!誰かの為に仕事して、その仕事でお金を手に入れて、お金で物を手に入れて……そうやって、みんながみんなの事を思いやって暮らしてるの!!この街の人は……あたし達より、全然優しいよ……!!」
リリィを見上げるイリンの目尻には、涙が溜まっていた。
それでも、彼女はリリィから目を逸らさない。
怖くても、みっともなくても、逃げることだけはしない。
「う……嘘だ!! 人なんて、汚い奴ばっかなんだよ!!人間が思いやるだとか、優しいなんて、そんなこと……!!」
そのイリンの迫力に怯えるように、リリィは目線をノアへと向けた。
「おい、ワーウルフのあんた!!あんたまで同じこと言うのかよ!!」
「の、ノアは関係ないでしょ……!!」
傷つけさせまいとして、止めようとするイリンをそっと、ノアは手で制する。
リリィの前に出ると、彼女は静かに語り出した。
「私は……人間に、酷い言葉を投げかけられたことがあります。その人は、自分の為なら躊躇いなく魔物を傷つけるような人で……私も、その例外ではありませんでした」
「ノア……?」
どうしてそんな話をするのか、イリンにはわからなかった。牢屋の中にいるリリィの顔は、それ見たことか、と言わんばかりに勝ち誇り、まるで彼女は姉達の味方をしているようにも聞こえた。
それは違うのだと、次の言葉で全員が嫌と言うほど思い知る事になるのだが。
「何で、なんでしょうね……私も、元はと言えばその人間の一人だったのに……」
「……っ!!」
イリンは、絶句した。
いや、彼女だけではない。イリンの姉達も、驚きの表情でノアへと視線を向けていた。
イリンもノアも、今は魔物であることに変わりはない。
それでも、最初から魔物だったイリンと、人間から魔物になったノアとでは、根本から価値観が異なる。
元は同族だった者に、否定される。
それは、どんな絶望だったのだろう。
量り知ることなど……できるわけがなかった。
「……でも、そんな私を助けてくれたのは、同じ人間のお兄ちゃんでした。お兄ちゃんがいなかったら私は……きっと、こうやって普通に立って歩く事も、できなかったと思います」
イリンは、ようやく理解することができた。
ノアが何故、あそこまで家族を信頼することができたのか。
それは……彼女もまた、家族によって救われていたから。
ノアの語る、その兄という人間は、それだけ強くノアの事を想っていてくれたのだろう。
「汚い事をするのが人間だって、言うのなら……人間から物を奪ったあなた達は、魔物なんですか?私には、わかりません……どこからが人間で、どこからが魔物なのか……」
その言葉を最後に、ノアは押し黙る。
リリィの鉄格子を掴む手は脱力して、その後ろにいる二人は座ったまま俯いている。
誰も、簡単に口を開こうとはしない中、イリンだけはもう一度牢屋の前に立っていた。
「お願い、リリィお姉ちゃん……人間のこと、信じてよ……」
それは、イリンの心からの嘆願。
重い過去さえ語ってくれたノアの為にできる、イリンの精一杯だった。
リリィは、答えなかった。
代わりに、手の中の鉄格子をぎゅっと握りしめて、呟く。
「今更、そんなこと言われたって……もう、遅いんだよ……」
「え……?今、なんて……?」
憧れと恐怖の対象だったリリィの、弱々しい言葉。
イリンの質問に返事をしたのは、リリィの後ろからの声だった。
「……あたし等の旦那は、ゴブリンに連れ去られちまったんだよ」
「……メリル!?あんた、何を……!!」
意外な方向からの返事に同時に驚くイリンとリリィに、次女であるメリルは言葉を続ける。
「……イリンの言うとおりだよ。盗賊業をし続けて捕まったあたし等が、それをやめて生きてたイリンを笑う資格なんかない。だったら……終わった話をするぐらい、いいでしょ?」
「……あたしもメリル姉にさんせー。なんていうか、さ……今のあたし達より、イリンの方がよっぽど立派に見えるよ……」
「カレンまで……!!」
黙っていた三女、カレンまでもがそこに同調する。
それも少なからず、嬉しかった。
けれど、イリンが一番嬉しかったのは、それではなく。
「お姉ちゃん……旦那さん、いたんだ……」
リリィが人間を、好きになったということだった。
けれど、だからこそ余計にわからなかった。旦那様を手に入れて、人間と関わってもなお、リリィがここまで人間を信じない理由が。
「……あぁ、そうだよ。あたし達は、人間の盗賊団を襲って、返り討ちにあって……一緒に、人間を好きになっちまった」
そこで、観念したかのように口を開いたのは……リリィだった。
「あたしだって、最初はなんでかわかんなかったけど……あたしを殴り倒した男のことが、すっごくかっこよく見えて……気がつけば、みんなで自分たちを倒した男のこと追っかけてた」
魔物娘の中でも人間に対し強気な態度をするオークであるが、彼女達には一つの特性がある。
……自分を倒した人間に対し、徹底的に従順になること。
リリィ達でさえ、それは例外ではなかったのだろう。
「でも……そいつらは、勝手についてくるあたし達に、ちっとも優しくなんかしてくれなかった。……いつも、あたしらが言うこと聞くからって、酷い命令ばっかやらされてた。……同じ人間を、殺す手伝いとかな」
「……!!」
「力が強いあたし等に人間を捕まえさせて、とどめは人間がやるって寸法さ。最初は、やり過ぎだって止めようとしたけど……旦那様に睨まれたら、何も言えなくなって……結局……あたし達は、何人も見殺しにしてきた……」
「ひ、酷い……!!」
「…………っ」
口元を抑えるイリンと、苦虫を噛みつぶしたような表情で俯くノア。
「その挙げ句あたし達のいた盗賊団は、あたしの旦那を含めて全員人間に負けちまった。その後、なぜか知らんがゴブリンがやってきて……あたし等は捕まって、人間はみんなあいつらが巣に運んでっちまった。はは、今頃……旦那様は、ゴブリン達と楽しんでるんじゃねぇかな……」
リリィのその皮肉には、まるで力がこもっていなくて。
いくら酷いことをされても、本当に姉たちは旦那様が好きだったのだろう。
だからこそ……命令には忠実であるという、オークなりの愛情表現をとることしか、できなくて。
それがわかってしまったから。イリンは、辛くなる。
「それなのに……あんたは、今更人間がどうとか!!そんなにあたし等を苦しめたいのかよ!!あたし達は、人間を愛する魔王様にさえ背いちまったんだ!!そんなことが、今わかったところで……あたし達にはもう、関係ないんだよ……」
それは、イリンの初めて見る、リリィの弱々しい姿。
リリィだけではない。後ろにいるメリルも、カレンも。
その顔に浮かぶのは、諦めの色。
自分たちのやってきた事に対する、どうしようもない後悔。
苦しんでいたのは、イリンだけではなかった。
姉達も……ずっと、苦しんでいたのだ。
それをわかっても……いや、わかったから、こそ。
イリンはすうっと大きく深呼吸をして、告げる。
「じゃあ、お姉ちゃんは……その人を諦めちゃうの……?」
慰めるでもなく、叱るでもなく。
イリンはただ、疑問を投げかけた。
「止められなかったから……?旦那様の事、見て見ぬフリしてきたから……?だから、諦めちゃうの……?一回間違えたからって……全部、諦めなきゃいけないの……?」
「う……うるさい!!なんなんだ!!どいつもこいつも、あたしの事を何でも知ってるような口ばっかききやがって……!!逃げ出したあんたに、あたしの何がわかるってんだよ!!」
「……わかるよ」
子供のように喚いて、言葉を遮ろうとするリリィ。
彼女を一直線に見上げて、イリンは自らの罪を打ち明けた。
「だって、あたしも……人を、殺しちゃったから……」
そこで初めて、三人の姉の目線がイリンに集まった。
「あの時、あたしが殴った人は、あたしのせいで死んじゃったんだよ……あたし、それを後悔しない日なんて、ない……そんなの、当たり前でしょ……!!」
語る言葉は震えて、目元にはまた涙が溜まっていく。
それでも、その涙さえ吹き飛ばすかのように、イリンはしっかりと上を見据えた。
「だけど……そんなあたしを、許してくれる人がいた!!あたしのせいで辛い思いしたのに、あたしに笑って欲しいって言ってくれたの!!あたしはその人の傍で笑いたい!!あの人の……奥さんに、なりたい!!」
イリンは、叫ぶ。
自分の感情を、想いを、全てを乗せて。
「一回間違ったからって……あたしは、あたしの幸せを、諦めたくなんかないよ……!!」
自分の幸せと、姉達の幸せ。
両方を願って……イリンは、強く叫んだ。
リリィは、イリンのそんな言葉を全て聞き終えて……呟く。
「……ハッ。イリンの癖に……生意気、言うようになったじゃねぇか……」
それだけ言ってから、リリィは牢屋の中を振り返った。
「……おい、メリル、カレン。お前等……旦那のこと、まだ好きか?」
「そんなの決まってる!!あたしは、大好きだ!!」
「あたしも。リリィ姉、そんなのわかりきったことでしょ?」
「……よし。じゃあ決まりだ」
質問に答えるメリルとカレンの顔には、どこか吹っ切れたような表情が浮かんでいて。
「こっから出たら……乗り込むぞ、ゴブリンのところにな」
「お姉ちゃん……!!」
リリィの顔も晴れやかになっていて、イリンはまた涙を零してしまいそうになった。
「勘違いすんなよ、イリン。あたしはあんたの言うことに感動した訳じゃねぇ。ただ……思い出しただけだ。惚れた男だろうと、欲しいもんがあったら力ずくで手に入れる。人間が気にくわない事してたら、力ずくで止めてやる。それが……あたし達だ、ってな!!」
「ううん……そっちの方が、お姉ちゃんらしいよ……!!」
怖いこともあったけど、いつも頼もしく姉妹を引っ張ってくれた、一番上の姉。
思い出の中の元気な姿、そのままのリリィがそこにいた。
「……けどな。一応、お前に礼はしとくからな」
リリィが軽く手で合図をすると、後ろからメリルとカレンがイリンの目の前までやってくる。
戸惑うイリンの目の前で、三人の姉は並ぶと。
「えっ……」
「……悪かった。間違ってたのは……あたし達の方だった」
牢屋の前で、頭を下げた。
イリンはそれに、一瞬だけ驚いた素振りを見せてから……微笑んだ。
「……いいよ、お姉ちゃん。頭、あげて。あたしね、お姉ちゃんのしたこと……怒ってないよ」
「……何だって?」
姉達は、恐る恐る頭を上げる。
三人を代表して、思わず聞き返したリリィに、イリンは優しく言った。
「だって、ディアルさんやノア、あたしが色んな人に会えたのは……あの日の事が、あったからだもん。そりゃあ、痛い思いとか、怖い思いもしたけど……だからって、怒れないよ」
ポカン……と。
余りにも単純な理由に、毒気を抜かれたような顔をしてから。
「……はっ、ははっ……はははっ!!何だそれ!!あんた、そんなことであたしを許すなんて……どんだけ、甘いんだよ……!!」
「なんていうか、イリンらしいや……」
「本当に、何でこんなあたし達の妹はこんな風になっちゃったんだか……」
リリィは、思いっきり大笑いをした。
メリルとカレンも、呆れながらもふっと表情を緩めて、笑い合う。
「えっ……えっ……?あたし、そんなおかしいこと言ったかな……?」
「ふふっ。褒められてるんだよ……イリン」
姉達が突然笑った意味がわからず、頭に大量の?マークを浮かべるイリンに、今まで口を開かなかったノアまでもが小さく笑って言う。
「ははっ、こんな笑ったの久しぶりだ……」
ひとしきり笑い尽くしてから、リリィは満足げな表情を浮かべていた。
呼吸を落ち着かせると、彼女は再びイリンに目を合わせて、静かに口を開いた。
「……強くなったんだな、イリン」
……それが、姉が自分を認めてくれた言葉だと、イリンは一瞬呆けてから気付いた。
ずっと、自分は敵わないんだろうなと思っていた、姉からの言葉。
それを受けて、表情をぱぁっと輝かせたイリンは……静かに、首を横に振った。
「……うぅん。あたしが強いんじゃないよ。あたしがこうやって立ってこれたのは……あたしを、傍で支えてくれた人のおかげ。……この、ノアとかね!!」
「わぁっ!?い、イリン!?」
そう言ってイリンは、茶目っ気のある笑顔で隣のノアの片腕に自分の両腕を絡めた。
余りに突然だったせいで驚くノアの表情は、自分の過去を打ち明けた時からは想像もできない、普通の女の子が浮かべるもので。
「イリンー、褒め言葉ぐらい素直に受け取れってー」
「そうだそうだ!!リリィ姉に褒められるなんてうらやましいんだよお前!!」
「うん、そうだね……!!」
にやにやしながら囃し立てるカレンとメリルの声にも、明るくイリンは返事をする。
こんな風に姉妹で笑ったのは、いつぶりだっただろうか。
「お姉ちゃん……今日は、また会えてうれしかったよ!!」
「……あたしは別に、そうでもないけどな」
「リリィ姉、意地張ってるー」
「うるさい!!」
素直に自分の気持ちを告げたイリンに、リリィはそっぽを向いたが、カレンがそこに茶々を入れる。
ようやく、イリンはあの頃の家族に戻れたような、そんな気がした。
「それじゃああたし……もう行くね」
「……そうかよ」
まだここにいたい気持ちは、勿論あった。
それでも、イリンは別れの挨拶を告げる。
リリィは、最後までそっぽを向いたままだった。
「イリン、出たらまずはお前をびっくりさせてやるから覚悟しろよー!!」
「……まぁ、あたしも顔見せにぐらい、行ってあげる」
「うん!!お姉ちゃん……またね!!ノア、行こ!!」
「……うん」
メリルとカレンの言葉を最後に、イリンはノアの腕を引いて、歩き出す。
ここに来て、本当によかった。
イリンが心からそう思った、その時。
「……おい、イリン!!」
去ろうとするイリン達の背中に、リリィが声をかけた。
リリィは少しだけ、口を恥ずかしそうにもごもごと動かしてから……一言だけ、口にした。
「……またな」
「……うん!!」
――――――それから、数年後。
あるゴブリンの住処で、ゴブリンと一緒に暮らすオーク達とその夫の姿が、目撃されるようになる。
目撃した者の証言によれば、ゴブリンとオークが一人の男を奪い合っているように見えたらしい。
それでも、その目撃者の中に、止めに行こうという者はいなかった。
それは、彼女達は男を奪いあっているというのに、その表情はお互いに楽しそうに笑っていたから……と、言われている。
「ノア……それじゃあ、お別れだね」
「……うん」
そこは、カティナトの街の東側に属する、港。
時刻が早いからか、まだ朝の陽射しが反射して、海が眩しく光る。
イリンがお気に入りだとノアに紹介した、あの場所だった。
その場所で、イリンはノアと別れる事を決めた。
「その前に……ごめんね。ノアが昔は人間だったって事知ってたらあたし、絶対にノアを連れてきたりしなかった……」
「気にしないで。私が言いたいって思ったから、言ったんだよ。それは、イリンのせいじゃないよ」
イリンが謝罪の言葉を口にしても、ノアは優しく返してくれる。
けれど、イリンはもう、知っている。彼女が、その優しさの裏で、自分とはまた違う苦しみをずっと抱えているのだということを。
「……すごいなぁ、ノア」
「イリンだって、私にずっと隠してた事を話してくれたでしょ?私は、イリンとおんなじことをしただけだよ」
「あはは、そういえばそっか。でもさ、やっぱり、すごいよ……」
イリンは、思い出す。
ノアが、自分の姉へと向けて放った、疑問の言葉を。
「ノア、さ。さっき、お姉ちゃんに『人間と魔物はどう違うか』、って聞いたでしょ?」
「う、うん……今思うと、変なこと言っちゃったなって思うけど……」
「そんなことないよ。だから、さっきそれを聞かれた時ね、あたしなりに答えを考えて見たの」
そして、イリンが語り出したのは、彼女なりのノアへの答え。
「だけど……結局、わかんなかった。あたしは、そんなこと考えたこと、なかったから……」
そう。悔しいが、それが事実なのだ。イリンには……ノアの望む答えを、見つけることができなかった。
それでも、イリンは明るい表情で、次の言葉を紡ぐ。
「だけどね、そんなあたしにも、わかることがあるの。さっき、ノアは『こんな私でよければ』って言ってたけどさ……ノアにはね、ノアだからこそ、できることがあるんだよ」
「私だから、できること……?」
きょとんとするノアに、イリンは自信を持って言う。
「そう。少なくとも、あたしを助けてくれたのは、間違いなくノア。ノアにはきっと、あると思うんだよね。辛いことを、色々経験したからこそ……誰かを助けてあげられる、そんな力が」
「誰かを……助ける……」
ノアは、その言葉を刻み込むかのように、復唱する。
「……あたしもさ、そうなりたいって思う。ディアルさんが……助けてくれた、命だから」
どこか遠い目で、イリンは街の方へと目線を向ける。その視線の方角には……彼女の家。
「本当はね……さっきお姉ちゃんに会った時は……自首しようかと思ってたの。あたしが殺した、リアさんの為にも……そうした方が、いいのかなって」
そこまで言ってから、イリンは首を振る。
それは、自分で告げた言葉を、否定する為に。
「でもね、ディアルさんは、今まであたしを引き渡そうとしたことなんてなかった。やろうと思えばいつでも出来た筈なのに、あの人は、そんなこと望まなかったんだよ。だからさ……あたしはそれを、無駄にしたくない。その分もディアルさんの事、みんなの事、もっと幸せにしてあげたい。それが……あたしにできることだって、思うから!!」
ノアに向かって、イリンは笑った。
自分を守る為の作り上げた笑顔ではなく、心からの笑顔で。
「……イリン、本当にディアルさんの事、好きなんだね」
そんな彼女へのノアの返事は、イリンに自分が何を口走ってしまったのかを思い出させる。
『私は……ディアルさんの、奥さんになりたい!!』
「あぁ、そう言えば思いっきり言っちゃったんだっけ。あはは、迂闊だったなぁ……」
顔を赤くしながら、頬を掻くイリン。
ディアルを家族だと思っていたのは、嘘ではない。
自分とディアルの関係をこれ以上なく表す事が出来るのは、その言葉だと思っていた。
……嘘をつき続けている自分が、妻になれる資格など、ないと思っていたから。
「なれるよ。イリンなら、きっと」
「うん!!あたし、ノアに次に会うときにはきっとそうなってみせるから……!!ノア、元気でね!!」
「わかった。……楽しみに、してるね」
ノアは小さく、イリンは大げさに。
どこまでも対照的に笑って、二人の少女は最後に別れの挨拶を告げる。
「「……じゃあね!!」」
ワーウルフの脚力を使って、猛スピードで走り去るノアの背中に、イリンは叫ぶ。
「ノアー!!ありがとー!!あたし、頑張るからー!!」
その声は、カティナトの街の青い空へと、消えていく。
一人が去った後のその場所には、波の音が彼女達の幸福を祈るように、静かに響き続けていた。
「行った……か……」
イリンの姿を見送ったディアルは、そっとおかれた手紙を開ける。
「まさか……こんなことに、なるなんてな……」
差出人は……ブロックス・モーシュと書かれていた。
『ディアル=ウィトス様へ
前略
あなたに、お願いがあります。
私は今、知人からの頼みでノア=レギーアという少女を預かっています。彼女は、人と魔物の違いについて悩み、とても苦しんでいます。貴方には、どうか彼女に貴方の過去を語っていただきたいのです。
他ならぬ、自らを苦しめた魔物を許した、貴方自身の口から。
もしこの手紙を不快に感じたならば、破り捨てていただいても結構です。
ですが、この手紙に返事をいただけるのならば、私はその子を貴方の元へと向かわせたいと思っております。
良い返事を、お待ちしております。
ブロックス=モーシュ』
……いつの間にか、自分の事が行商人の間ではちょっとした話題になっていたのを、後に彼は知った。
差出人の顔を思い出して、薄く笑う。
彼とは、行商時代に数度の縁があっただけだが、その顔はよく覚えていた。
丁寧な物腰であったのに、時折見せる表情からは何か大きなものをその背に抱えているような雰囲気を感じる、不思議な男だった。
ディアルはその手紙に、二つ返事で了承を返した。
自分が誰かの助けになれるなら、と。
「ったく、あの子を引き留める理由を考えるのは苦労したな……」
ディアルは彼女の顔を思い出して、苦笑いを浮かべる。
ブロックスにすら告げなかった、ディアルが力を貸した本当の理由。
それは彼女が、ノア=レギーアの境遇が……余りに、リアと似ていたから。
――――――10年以上も離れて産まれてきた妹は、生まれつき身体が弱かった。
家のベッドで本を開きながら、同年代の子供が外を走り回っている姿を羨ましそうに眺めているような、そんな子供だった。
そんな妹を、治療費を稼ぐために多忙だった両親の代わりに世話をするのが、ディアルの役目だった。
両親の分までいつも妹の面倒を見てきたディアルは、同年代の友達と遊んだり、自分の趣味に没頭するということが殆どなかったが、彼はその生き様を後悔したことはなかった。
彼自身、妹の身を案じてそうすることを望んだのだから。外の話を聞いて、笑ってくれる妹の笑顔が大好きだったのだから。
ディアルが行商人になったのもまた、妹の為だった。
いつか身体が治った時に、外の世界を見せてあげたい。
その一心で、妹の世話をする傍らで、商人の叔父の元で勉学にもはげんだ。
その努力が報われたのか、妹は20を何年か越す頃になってようやく薬の世話にならずとも外を歩けるまでに回復した。
そうしてディアルは、夢にまで見た妹との旅を、始めることができたのである。
その頃には既に30を越えていた兄を見る妹の表情が、ただの喜びだけではないと気がつかぬまま。
……そして、兄妹は盗賊に襲われた。
殴られて倒れたディアルは、自分の積み荷を奪うオークの姿を見ても、体を動かせなかった。
それから、食料を奪って満足したらしいオークはずらかっていったが、その中でも引き摺られていったオークの顔が、その言葉と共にディアルの脳に焼き付いた。
『人が、女の人が、大変なの!!お願い、待ってよぉ……!!』
『……リアが……どうしたって、言うんだよ……』
それだけの思いで力を振り絞って立ち上がったディアルは、リアの元へと歩き出す。
……しかし、そこにいたのは、頭から血を流して倒れたリアの姿だった。
『リア……?おい、リア!!』
『にい、さん……?』
虚ろな眼をしたリアを抱きかかえるが、脈はどんどん弱くなっていく。
馬車に乗ろうと思っても、その車輪は盗賊達の手でとっくに粉砕されていた。
その肢体を抱きかかえて、ディアルは駆けだした。
『しっかりしろ!!俺がすぐに病院に連れていってやる!!だから……それまで、気をしっかり持てよ!!』
『にい、さん……もう、いいの……』
『喋るな!!大人しくしてねぇと、余計に体力を消費しちまうだろ!!』
『私は、幸せだった……兄さんが、ずっと……傍に、いてくれたから……』
『喋るなって言ってるだろ!!俺が絶対、助けてやるから……!!だから……!!』
叫ぶディアルの頬に、暖かい物が触れる。
それは、リアの細い腕。
伸ばすリアの表情は、命の灯火が消えそうなのにとても穏やかで。
『だから、もう……私に、縛ら、れないで……兄、さんは……自分の……しあわせ、を……掴、ん……』
リアの手が頬から離れて、だらりと垂れる。
『リア!!おい、リア……!!』
手の中から、リアの熱が段々と消えていく。
その言葉を最後に……リア=ウィトスは、ぴくりとも動かなくなった。
『リア……嘘、だろ……?なぁ、返事、してくれよおい……!!お前に見て欲しい所、まだまだいっぱいあるんだよ……!!リアぁぁぁぁぁ!!』
涙を流す声は、木立の間に響いてから、誰にも届かず消えていった。
それから、ディアルは無意識に歩いていた。
リアのことを必死の思いで担ぎ、危なげな足取りながらも来た道を引き返す。
気がつけば、粉々にされた馬車がディアルの目の前にあった。
御者台に、リアの身体をそっと降ろして、しばらくその姿をじっと見下ろす。
『何が、魔物だ……何が、人間を愛する種族だ……』
怨嗟の声を漏らしながら、荷台に手を突っ込んだディアルは、その中の荷物の一つを取り出す。
それは、調理用にと持ってきた銀色に光る刃物――――包丁だった。
本来の持ち方とはまるで逆の、ねじり込む動きに特化した逆手の持ち方で、柄に痕ができそうな程強く握りしめる。
『必ず、探し出して……リアの仇を、取ってやる……』
一つの感情に全てを支配されたディアルの瞳は、どろりと濁っていた。
リアの言葉など既に忘れて、彼はただあてもなく獣道の中を歩き出した。
『きゃぁぁぁぁぁぁ……!!』
その悲鳴が聞こえたのは、その時だった。
異変を感じたディアルは、その声の聞こえてきた方へと走る。
そこは切り立った崖で、上の方がよく見えないぐらいに高くそびえ立っていた。
その下に、自分が探していた少女の姿はあった。
『ぁ……う……』
ただし、全身に傷を負って、今にも死にそうな体の姿で。
『人間、なの……?』
息も絶え絶えな言葉を繋いで、声を絞り出すオークの少女。ディアルはその姿から、目が離せなかった。
オークの唇が、再び言葉を紡ぐ。彼女の、たった一つの後悔を。
『ごめん、なさ、い……あたし、そんな、つもりじゃ……』
……カシャン、と包丁が手から滑り落ちた。
『俺は……俺、は……』
ディアルの脳裏に、再び妹の姿がよぎる。
最期の時に、自分ではなく兄を心配したその姿が……目の前の傷だらけの少女と、重なって。
『……うぉぉぉぉぉぉぉ!!』
――気がつけば、彼はまた自らの手の中に小さな命を握っていた。
『くそっ……!!くそっ、くそぉぉぉっ……!!わかったよ!!お前が反省してるのは、よくわかった……!!だから、もう……俺の前で、二人も死なさねぇぞぉぉぉぉぉぉ!!』
息も絶え絶えな少女を抱えて、自らの疲労も忘れてディアルは走り出した。
――――魔物娘は人間に比べて頑丈にできているからか、はたまた彼の執念によるものか。
二度目にして、彼はようやく、大事な物を護ることに成功したのだった。
「あれから、二年は経ったか……この街に移り住んでから……」
そして今日、ワーウルフの少女、ノアが訪れた。
本当は、夕飯なり食後なり、時間を見つけて自分から過去を話すつもりでいた。
だが、できなかった。イリンの様子が、またおかしくなってしまっていたから。
ディアルはそれを、自分への負い目を未だに感じているからだ、という事は感づいていた。
しかし同時に、それは自分の口から言ってどうにかなるわけではない事だと、思っていた。
何も出来ない自分の無力さを悔やんで、ディアルは結局イリンの傷口に触れないようにする事を選んだ。
何のためにノアを呼んだのかと、後悔し続けながら。
けれども、悩み続けていたディアルの代わりに語り手となってくれたのは、他でもないイリンだった。
葛藤し続け、苦しんでいた少女の振り絞った、小さな勇気。そして、聞き手となってくれた少女。そのおかげで、すれ違いは解けた。
その翌日に、偶々ノアと街ですれ違った青年が、イリンの姉を捕まえて、再会のきっかけを作った。
「……これが全て、偶然か?ブロックスさんよ……」
手紙を見下ろして、呟くディアル。
「まぁ……そんなこと、どうでもいいがな」
そう言って、ディアルは封筒に手紙を丁寧にしまった。
辛い事を思い出させまいと、あえてイリンと話す時はあの時の事に触れないようにしていた。
それが、余計にイリンを苦しめてしまっていたことにも気付かずに。
そのすれ違いを解いて、イリンが今度こそ自然に笑えるようにしてくれたノア、ひいては彼女を寄越したブロックスには感謝することさえあれ、疑う理由などあるわけもない。
「力になるつもりが、逆に助けられちまうとはな……全く、面目が立たねぇな」
それでも、そう言って窓の外を眺めるディアルの表情は、とても晴れやかだった。
その時、玄関の扉が開いて、ベルが鳴る音が聞こえた。
誰かなど、考えるまでもない。その音が聞こえると同時に、ディアルは玄関へと向かった。
そこには、やはりイリンが立っていた。
「……おかえり」
ディアルは、イリンに向かって微笑む。
彼女の帰る家は、間違いなく自分の住むここなのだから。
「……ただいま!!」
イリンもまた、大切な家族へと元気に挨拶を返した。
――――かくして、一日限りの協奏曲は終わりを告げる。
一度合わさった音色が、再び離れた後にどんな音を紡ぐのか、それは誰にも分からない。
それでも、願わくば。
その音色が、幸福に弾むような音である事を……
13/09/09 22:30更新 / たんがん