前編
彼の身体は、一目見せれば誰もが『たくましい』と感じるものだった。
その腕は力こぶを見せようとしなくてもその力強さがはっきりとわかるぐらいついた筋肉が隆起しており、腹まわりや足には余分な脂肪は一切ついていない。
むしろ腹に関して言えば、腹筋は割れていてまさに筋骨隆々という言葉が似つかわしい。
その上それらは彼の生来の体質ではなく、その全てがたゆまぬ修練のおかげであるのだから、日頃彼がどのような生活を送っているのかは殆どの人間には想像することすらできないのであろう。
それほどの身体である彼ではあるが、顔だけを見るとそのような印象を持てないのだから不思議なものである。
クリーム色をしたストレートの前髪に少し隠れてしまっている青い瞳は長いまつげのおかげで優しい印象を相手に与え、白い肌の色と相まって彼を中性的な見た目に仕立て上げている。
ある種ミスマッチとも言える顔と身体の組み合わせではあるが、それほど鍛えているにも関わらず優しさを損なわない彼の目つきは、人を惹きつける魅力のようなものを備えていた。
そんな彼の身体は現在、植物が生い茂り闇に包まれた森の中、一糸纏わぬ姿で晒されていた。
「くっ……」
彼は先程より、その場から動こうと頭の上に回されている手首に力を込めてはいるのだが、その手がぴくりとも動くことはない。
いや、動かないのではなく、動かせないのだ。
彼の全身を縛り付ける、そこら中の地面から生えた細長いロープのようでいて独特のぬめりけと柔軟性を持つ生物……触手によって。
彼にとって未知の生物であるその触手の前では、全ての抵抗が徒労に終わった。
「不覚……!!」
触手の纏っている粘液には何らかの成分が含まれているのか、彼の着ていた衣服は全て溶かされてしまっていた。
それこそが、成人した男が一人、森の中で裸体となったままでいることになった原因であり、彼の陥った窮地でもあった。
ぎりり、と歯を食いしばる彼の目の前で、地面から新たな触手が一本生えてくる。
「殺すなら……さっさと殺せ……!!」
憎々しげに睨みながら吐かれた彼のその言葉を受けたのかどうかは不明だが、触手はぐねぐねとした動きで彼ににじり寄って、足元から下半身へと這い上がってくる。
既に全身を撫で回されているせいで、その独特な軟体動物のような感触を、今更特別に不快とも思わない自分に嫌気がさしながら、彼はここで自分の命が果てる覚悟を決めていた。
なぜ、彼……エルダ=リカルドがこのような仕打ちを受けているのか。
それは、彼が初めてこの森を訪れた数時間前まで遡る。
その時、夜の帳に包まれた森の中を目的地目指してどんどん進んでいく彼の背後には、現状と違い大勢の人間が並んでいた。
彼等はみな一様に純白の鎧と兜に身を包み、腰には剣を携えていた。
無論、先を行くエルダの格好も例外ではない。
ただし、彼の鎧は後ろを歩く大勢の人間のものとは違い、両肩に盾をモチーフとした独特の紋様が彫り込まれているのだが。
「隊長ー……もっとゆっくり歩いてくださいよー……」
後方にいた集団の内で、最も先頭にいた者が疲弊を滲ませた情けない声を出した。
隊長と呼ばれたエルダはその言葉で立ち止まり、後方の集団を振り返る。
「なんですか、だらしない。私は貴方達をこの程度で弱音を吐くような、軟弱な育て方をした覚えはありませんよ」
「この程度、じゃ全然無いですって……馬も使わずにもう何日歩いてると思ってるんですか……うぅ、これかぶり続けるのすらきつい……」
兜の中で涼しい顔をしてエルダは答えるが、先頭の男はそれに対して溜息をついて兜を外す。
中から現れたのは、まだ比較的若い部類に入る男性の顔だった。
快活そうな一方で、集団を引っ張っていけるタイプには見えない、彼からはそんな印象を受ける。
「三日か四日、ぐらいですね。ネイワ、この程度で疲れているのは貴方ぐらいのものではないですか?」
「絶対そんなことないですって……なぁ、みんな?」
周りに同意を求めようとして、ネイワと呼ばれた男は後ろを向いて全員に尋ねる。
だが、彼等は目を逸らしたり、うつむいたりするだけで、その中にネイワに同意しようとするものは誰もいなかった。
「あ、あれ!?なんで!?」
「ほらみなさい。そんな風に弱音を吐くのは、貴方だけですよ。これは、この任務から帰還した後にあなたの訓練を増やさなくてはなりませんんね……」
それを聞いたネイワの顔がさっと青ざめて、慌てて脱いだばかりの兜をかぶり直す。
「お、俺は全然大丈夫です!!全然大丈夫でした、スイマセン!!さ、さぁ、隊長!!みんなで元気に出発しましょうか!!」
そんな風にエルダの機嫌の回復を謀ろうとするネイワのことを、周りにいる人間は懲りないやつだな……と呆れながら見ているのだった。
エルダが隊長を務めるこの部隊は、とある反魔物領国の教団によって編成された、勇者ではない者のみで構成された騎士団の部隊である。
勇者が存在しない部隊の為、主な役割として勇者の補佐をする部隊ではあるのだが、隊長であるエルダの指導の基に日常的に行われる厳しい鍛錬の成果であるのか、その武功は駆け出しの勇者に勝るとも劣らない程であった。
この部隊の最たる特徴として、隊長の言うことはどんなことがあろうと絶対であり、口答えをする者など言語道断で許さない、という基本方針を掲げていることにある。
そのように、下手をすればあっという間に不満が募るような方針でありながらも、自他共に甘えを許さないエルダのストイックな性格と、厳しさの裏で部下一人一人に対する慈しみの心を忘れずに接するからこそ、エルダ=リカルドという男は隊長としての信頼を部下から得ているのだが、それでもそれを乱す存在というのはいる。
それが、先程の青年、ネイワ=サブテインである。
彼自身は裏表のない好青年で、隊長に対する信頼と憧れこそは勿論持っている上でこの部隊に所属しているのだが、いかんせん黙って人の言うことを聞くことができない性分であるらしい。
ふとした瞬間に思った不満を口に出してしまうことが多々あり、その度に彼はエルダより訓練メニューの特別な変更、などを言い渡されてしまう。
騎士として特別に秀でた点がないことと相まって、現在50人程度が所属しているこの部隊の中で彼は、あまりいいところのないくせに隊長に逆らう馬鹿な奴として完全に浮いた存在になってしまっていた。
先程の誰も同意しなかったネイワの意見にしたって、実際には彼等の殆どは疲労を感じずにはいられない状態になってはいた。
それなのに誰も同意しなかったのは、隊長に逆らったら後が怖いからということと、ネイワと同じような扱いを受けるのを避けたかったからに他ならない。
しかし、周りがどう思っているかなど露知らぬネイワ本人は、やせ我慢をして兜の下で笑顔を浮かべつつ、歩みを再開させるのであった。
景色が変化しない森の中で一番先にそれに気がついたのは、一番歩くことに不満を持っていたネイワであった。
「……!!隊長、あれ……!!」
「?どうしまし……っ……」
歩みを止めたネイワが指差したのは、目の前にある木々の更に上、その向こうに見えるもの。
薄暗い空の合間に、高くそびえ立つ城。
「あれが、俺達の今回の目的地……なんですよね……」
「……えぇ。あれが……レスカティエ……」
それを見たエルダが体を強張らせているのが鎧の上からでもわかり、ネイワは思わずごくりと息を飲む。
元々は絶大な力を持つ宗教国家にして、現在は魔物の統治下におかれた国、レスカティエ。
その国こそが、この部隊の目指す場所であった。
「……私は、立ち止まるのを許可した覚えはありませんよ。ほら、貴方も歩いてください」
「は、はい……」
促されたネイワは大人しく指示に従って歩みを再会するが、その動きはまだいくらかぎこちない。
魔物の手に堕ちた国家を初めて見たことで、緊張を隠せないでいた。
呆れ顔をしてエルダはネイワに話しかける。
「どうしました?まさか、まだこの期におよんでまで逃げ出したいと思っているのですか?」
「いや、はは……流石にもう言いませんよ……」
皮肉を込めた言い方をするエルダに、ネイワは苦笑いを返した。
この任務を言い渡された直後にネイワがエルダの元へと取り下げを直談判したのは、まだ数日前のことである。
『俺はこの任務に納得がいきません!! 何で俺達が……何より、教会に一番貢献しているあなたが、こんな任務を受けなくてはいけないのです!?』
ネイワは、それをわざわざ彼の執務室にまで来て主張していた。
彼等の部隊が今回言い渡された任務はこうだ。
『魔界国家レスカティエへと侵入し、攻略の情報を掴み次第至急帰還せよ』
それ以上詳しい内容は一切聞かされず、エルダがそれを隊員に伝える頃には既にレスカティエへと向かうことは確定していた。
隊長の指示に黙って従う事を信条とする他の隊員達はみな文句も言わずに支度を始めていたが、彼だけは真っ先に異を唱えた。
『こんなの、体のいい厄介払いじゃないですか!!上の奴らは、勇者がいない癖に各地で活躍している俺達の隊が気にくわないだけに決まってます!!』
エルダの率いる隊は、エルダが自ら目を掛けた人間のみで構成されている。
そう言えば聞こえはいいのだが、実際のところ彼が優れた勇者や魔術師などを彼の隊に配属したことは一度もない。
彼等はみな、勇者となる素質がないと判断され、教団から半ば見放されてしまった人間達である。
一度は挫折を味わった彼等を拾い上げ、厳しい鍛錬の末に前線で仕事をこなすことができるところまで育てあげたエルダの手腕を評価するものは勿論いるが、教団直属の勇者が全く配属されていない部隊である為に、教会内では彼等を目の上のたんこぶのように思う者の方が多数派となっているのが、彼等のおかれた現状であった。
実際に、もし彼等が功績通りに評価されているのであれば、このような無謀な任務が言い渡される道理はない。
暗黙の了解でそれについて彼の部隊に所属する騎士達は触れないことと決めていたのだが、全体に流れる空気よりも個人の考えを押し通すのがネイワという男である。
『隊長!!今からでも遅くありません!!どうにかして我々を味方してくれる人間を集めて、上にかけあいましょう!!そうでないと我々は……!!』
『……それで?その後、どうするというのですか?』
それに対するエルダの返答は、すっかり熱くなってしまっていたネイワの熱を一瞬にして冷ましてしまう程に冷ややかだった。
『もし貴方の言うとおりにして、我々がこの任務を断ることができたとしましょう。それで、私達はどうなるというのです?確かに貴方が主張するよう、我々の部隊を邪険に扱う人間は少なからずいるのでしょう。ですがそれは、隊を率いるこの私の未熟さが原因です。貴方が気に病むことはありません』
『そ……そんなわけないです!!隊長は……!!』
『問題は、唯でさえそのように疎まれた状況で更に我々がこの任務を断れば、この部隊は更に評判を落としてしまうということです。そうなれば、我々に回ってくる任務は減り、私達は最悪の場合貧困にあえぐことになるでしょう。それとも……貴方には、そうならないようにする策があるのですか?』
『っ……!!』
エルダの問いに、ネイワは答えない。
ただ、悔しそうに唇の端を少し歪ませるだけであった。
『口答えをする暇があるのなら、少しでも任務を成功させるように自己鍛錬へと努めなさい。それすらもできず、これ以上いたずらに隊に混乱をもたらすようであれば……大人しく私の隊から除名していただきたいものですね』
ピシャリ、と言い放たれたそれは、暗に「除名しろ」と言っているようにしか聞こえなかった。
ようやく、ネイワは自分が失言したことに気づいて、これ以上何を言われるかもわからない恐怖で呼吸の度に胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
が、一刻も早くこの場から逃げだそうとして、言葉をどうにか絞り出した。
『も……申し訳ございませんでした、隊長……それでは、失礼します……』
背中を向けて、一分一秒でも早く隊の仲間の元へと帰ろうと足早にドアへと向かう。
そのネイワが部屋から出ようとする気概を失ったのは、汗が滲む手でドアノブを握りしめた時だった。
『……見捨てません』
冷ややかな声とは対照的な、エルダの穏やかな声。
ネイワはそれを、思わず聞き間違いかと耳を疑った。
『この任務の無謀さは、私も重々承知しています。ですが……貴方達は、私の大切な部下です。私は、誰一人として欠けさせるつもりはありません。私が必ず貴方達を生還させます。ですから……不安がらないでください』
力強く、意志の込められたエルダの言葉。
その一つ一つがネイワの中にくすぶっていた不満を霧散させていく。
……この人となら、どんな任務だろうと生還できる。
その思いが、エルダに対するネイワの返答をとても力強くした。
『……はい!!このネイワ=サブテイン、微力ながらも精一杯任務へと努めさせていただきます!!それでは、失礼しました!!』
自信に満ちた顔で敬礼をして、ネイワは執務室を去っていく。
パタン、とゆっくりドアが閉まると、エルダは短く溜息をついた。
『……参りましたね。最悪、私一人でレスカティエへと向かうことを考えていましたが……これは、彼等を外すわけにはいかなくなりましたか…………ふむ。この場合、あのレスカティエから、無傷で何かしらの情報を掴み、帰還することが目標ですね……さぁ、どうしましょうか……』
独りごちるエルダの言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていった。
「……あれは出過ぎた真似をしていたと今でも反省しています。正直……足はまだ少し震えています。ですが、逃げようなどとはもう思いません」
「結構な心構えです。ですが、肝心要の今回の作戦の内容はきちんと把握していますか?」
「え、えーと……は、はい!!」
少し意地悪な言い方のエルダの問いに、ネイワはやや遅れながらも肯定の意を返すが、続く言葉は何の澱みもなくすらすらと口から流れた。
「今回の作戦は、地理情報把握の為の敵地視察です。俺達は6〜7人の8班に別れ、別々の道よりレスカティエへと潜入。国の内部がどのように変化したか、どのように変化していないのかを確認し、探索が終了し次第それを上層部へと報告する運びとなっている……これでよろしいでしょうか、隊長」
「えぇ、問題ありません」
魔界国家レスカティエに攻め入れようとした反魔物領の部隊や国家は今まで数多く存在するが、その中に生還した者がいるという話はこれまで全く存在しない。
それは、この国がそれだけ強大な力を持っている証であるのだが、何よりもそのせいで反魔物側にはレスカティエに対する情報が圧倒的に不足していた。
今や魔界と化したレスカティエにはかつての面影は高くそびえ立つ城以外に存在しておらず、周囲は濃密な魔力が充満しているせいで迂闊に近寄ることも出来ない為、内情を窺い知ることは至難の業となっていた。
それだけになると、内部の地理すら昔のものと同一と見るには決め手に欠ける。
よって、その地理を把握することだけでも反魔物側にとっては重要なアドバンテージになりえるのだ。
敵の中枢へと直接向かわず、戦闘する必要性すらないために、この作戦は与えられた任務に忠実かつ最もリスクの抑えられたものである、と言えた。
「そして現在、我々にはその目標地点となる場所が見えています。部隊を分ける頃合いとしては……そろそろでしょう。小隊長、前へ!!」
後ろの集団へとエルダが声を張り上げると、何人かが前へと歩み出る。
彼等一人一人に対して、エルダは懐より取り出した小さく透明な宝石のついたペンダントを手渡す。
「あなた方に今渡したのは、通信用水晶です。あなた方が魔力を通せば、私と通話が可能になっています。ですが……万一に備え、これらの使用は緊急性のある報告のみとします。我々の任務はあくまで偵察です。敵に発見されることを避けるのを第一に考え、慎重に行動してください。万が一遭遇した際にも極力戦闘は避けるようにし、即時撤退をするように」
「「「「「「「はっ!!」」」」」」」
隊長の指示に敬礼で応える、小隊長となった者達の声。
「では、これより十分間の休憩を挟んだ後、散開します。必ずや……私達は、全員で生きて帰りましょう……!!」
その場にいる全員へと向けて、エルダは力強く鼓舞をする。
隊員の返事は疲れを感じさせない程に力強く、今やそこに、任務の成功を疑うものはいなかった。
侵入は、全ての班が成功した。深夜帯を狙ったのが功を奏したのか、見張りなどに見つかることはなかった。
偵察はこれ以上なくスムーズに進んだ。住民の目を気にしつつ慎重に進めたその結果、全ての班がレスカティエの内部は建物の立地などが殆ど変わっていないという結論に辿り着いた。
そこまでに、何も問題はなかった。
それでも、エルダの隊がこの任務を成功させることは叶わなかった。
―――――それは、突然のこと。
……ザッ……
『た、隊長!!大変です!!魔物に姿を目撃されました!!このままでは……うわあぁ!!』
「ローグ!?どうしたんですか、報告をしなさい!!」
『ぐ、か、身体が……!!やめろ、こっちに来るなぁぁぁ!!』
『あはは♪お兄ちゃん達、そんな怖い顔しないで♪そんな事より、気持ちいいことしようよ♪……』
……ザッ……
『……隊長!!至急こちらへ増援を!!増援をお願いします!!……くそっ!?こっちは七人がかりだぞ!?どうして、たった一匹の魔物に手も足も……!!』
「今度はドーレ!?そちらは、何が起きているのですか!?」
『はっ、数で押そうなんて考えが甘ぇんだよ!!そんなんじゃ、アタシの旦那になるには百年早ぇ!!』
『がっ……!!く、そ……』
「ドーレ!?返事をしなさい、ドーレ!!」
『おーい、てめぇら!!こいつら全員気絶しちまったから、もう持ち帰っていいぞー!!……』
……ザッ……
『……隊長!!こちらにて複数の魔物に遭遇!!アラクネ種です、隊長はこちらの区画へは……!!くそっ、あ、足が……!!』
「なっ……ラサドのところまで……!?」
……ザッ……
『くっ、どこだ、どこに……ぐあぁ!?……』
……ザッ……
『剣が、効かない……!!ぐ、絡みついてくるなぁぁぁ!!……』
……ザッ……
そこは、路地裏の一角。
エルダの握る水晶越しに聞こえてくるのは、共に帰ると誓い合った部下達の悲鳴と、それらを打ちのめす魔物達の声。
(何が……何が起きているのです!?)
元々、エルダの想定していた作戦は仲間が誰一人として欠けることなく生還するもの。
それでも一、二班程度を失う最悪の事態ならば覚悟の上ではあった。
しかし……それでも、ここまでの規模の被害は想定していない。
部下とて、住民に簡単に見つかるようなお粗末な移動はしない程度の潜入の訓練は積んできているのだ。
「隊長……これは、どういうことです……!?」
隣で驚愕の表情を浮かべているのは、エルダと同じ班となって行動していたネイワ。
部下のその言葉に呼び戻されるかのように、エルダはいくらか冷静さを取り戻す。
「わかりません……わかりませんが、このままでは我々は全滅します!!大至急最も近い班と合流し、撤退を……!!」
「どうやら……この部隊の隊長は、貴様のようだな」
威圧感のあるソプラノの声が、エルダに向かってかけられる。
エルダがハッとして前を向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。
黒を基調として、不気味な赤い色をした目玉の装飾があちこちに着いている鎧。
片手に提げられた、銀色に光る一振りの剣。
気味の悪い装飾を除けば一目で騎士とわかる格好だが兜は着けておらず、隠されることのない鋭い眼光はエルダを睨み付けていた。
「私は魔王軍騎士団第十三部隊隊長、ハクナ。故あって、現在はレスカティエの守護を務めさせていただいている」
「こちらにも……やってきましたか……」
鞘にしまわれた剣にそっと手を回しながら、エルダは部下と共に、一歩ずつ後ずさる。
ハクナと名乗った目の前の魔物が、後ろにエルダ率いる小隊と同じ人数の魔物を引き連れていたからというのもある。だが、なによりも彼女は得体が知れなかった。
(いくらなんでも……タイミングが良すぎます。何か、彼女は私達の行動を知る手段を持っている……としか……)
「何故私がここにいるのかわからない、という顔だな?」
「…………」
心中をぴたりと言い当てられても、エルダは表情を崩さない。たとえ、鎧の内側ではじんわりと汗が滲み出ていたとしても。
そんな彼へと、ハクナはつかつかと歩みを進める。
「確かに貴様等の侵入、索敵などの技術は見事だった。私達の軍には、そのような微細な技術を持つ者は殆ど存在しないから、通常なら見つけるのは困難であっただろう」
「……こうして私達が見つかっている以上、説得力のある言葉とは思えませんね」
精一杯の虚勢を張って、エルダは皮肉を言う。
ここで何か言わなければ、彼女の雰囲気に飲まれてしまいそうだからこその発言であった。
「あぁ、そうだろうな。だから……この状況は、貴様等の落ち度だ」
「……なんですって?」
だが、ハクナの言葉はそんなエルダの虚勢すらもたやすく崩壊させる。
「大方、その鎧か?そこに、周囲の魔力を打ち消す作用が組み込まれているのだろう?」
「……!?」
「愚かなことだ。魔力がそこら中に充満した魔界で、そんな装備に身を包めば自らの場所を教えているようなものではないか」
「こ……この国中の魔力の流れを一度に察知したというのですか!?そんなことが……!!」
「……この国にいらっしゃるお方が誰だと思っているのだ?」
驚愕するエルダに、ハクナは意地の悪い笑みを浮かべる。
彼女は胸元に手をおもむろに差し入れると、そこからガラスの欠片のような小さなものを取り出した。
訝しむエルダの前で、小さな欠片は輝き始める。
『……あれ、ハクナー?どうしたの?しんにゅーしゃ、捕まったの?』
『ミミルはん、まだ反応は消えてへんよ。せやけど……もう、後はハクナはんの相手だけみたいやね』
『そっかー、じゃあハクナ、後は頑張ってね!!あ、おにいちゃーん!!次はミミルと遊んでー♪』
そして、そこから聞こえてくる無邪気な声に、今度こそエルダの表情が青ざめた。
「魔術の扱いに長けたミミル様と、膨大な魔力の制御を日常的に行う今宵様。お二人にかかれば、その程度など雑作もないとおっしゃっていたが?」
「ぐっ……!!」
『黒山羊の魔女』ミミルに、『傾国の黒稲荷』今宵。
レスカティエをという国を支える魔物の代表格で、レスカティエを攻めるにおいてまずその名を知らされる程この国では高位に属する魔物である。
元々レスカティエが堕落する前は反魔物勢力に属していた二人は、反魔物領での知名度が非常に高く、無論、エルダも彼女達の存在を危険視した上で計画を立てていた。
その対処法としてエルダが立てたのは、彼女達に相対する前に全ての任務を終わらせる……つまりは、逃げの作戦。
結局、彼女達とはまともにやり合えば勝ちの目はない、という判断しか下せず、そのためにも一刻も早く任務を終わらせようとしたが故の今回の作戦であった。
そこに、見落としは存在しなかった。
ただ……敵の実力が、エルダの想定を遙かに超えていただけのこと。
「お前、何をでたらめ言っている!!俺達の鎧にそんな高度な細工があるわけないだろ!!」
そこに、未だ希望を失っていない青年の声が無遠慮に響いた。
「……ほう?」
不敵に笑うハクナを睨んでから、ネイワは視線を隊長へと移す。
「隊長も気圧されないでください!!そもそも、あいつの言っていることは前提から間違っていますよ!!確かにこの鎧はここへ来る前に新調したばかりですが、そんな機能があるなんて一切おっしゃってなかったじゃないですか!!です、から……」
ネイワの言葉は、最後まで言う直前に途切れてしまった。
「……たい、ちょう?」
その時のエルダは、まるで。
隠していた秘密が知られて、親に叱られることを強く怯える子供のように……唖然と前を見ながら、小刻みに震えていた。
「……部下にすら、知らせんとはな」
呆れるような言い方をする魔物に、エルダは何も反論しようとしない。
そして、その無言こそが、ハクナの言葉が正しい事を雄弁に語っていた。
「おい……どういうことだ!?」
「隊長が……俺等を騙していたっていうことなんじゃ……」
ネイワでさえもその事実に気づき、その場にいた部下全員がエルダに対して疑惑の視線を向け始めた、その時。
エルダへのとどめの一言が、付け加えられた。
「それとも……知らせる必要もないほどに、部下が無能だったということか?」
その一言は、蒼白だったエルダの顔色を別の色で塗りつぶす。
「き……貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
怒りのままに剣を抜いたエルダは、ハクナへと飛びかかっていく。
空中から振り下ろされたエルダの剣が、居合いの要領で抜かれたハクナの剣と交差する。
銀同士が衝突して、鋭い音が鳴った。
「私への侮辱だけではなく、部下までも……!!訂正しなさい!!私の隊員は……決して無能などではありません!!」
「ふん。随分と部下思いなようだが……そんな力任せの剣で、私に勝てるなどと思うな!!」
重力も味方につけて優位についた筈のエルダの剣は、鍔迫り合いに押し負けてあっさり上方へと弾かれる。
元々、純粋な筋力では人間は魔物に遙かに劣っているのだ。
頭に血が上っていたエルダが、そこにようやく気づいた頃には既に遅い。
(しまっ……!!)
ハクナの手に握られた剣が、がら空きになったエルダの腹部を目がけて迫ってきていた。
「せやぁぁぁ!!」
しかし、エルダの前へと素早く躍り出たネイワによって、その刃は阻止される。
「隊長!!下がってください!!」
その隙に体勢を立て直したエルダが下がると同時、元々まともにやりあう気がなかったネイワもハクナから距離を取る。
「……ほう、かばったか」
ネイワのその行動を、ハクナは敵ながらに素直に感心していた。
ハクナの言葉で逡巡し、反応が一瞬遅れてしまった彼の部下の中で一人、彼だけが迷わずにハクナへと真っ直ぐに突っ込んできたからだ。
「しかし、よいのか貴様?お前の隊長は、重要な事実を部下に伝えず、その挙げ句に部下全員を危険に……」
「うっせえんだよ、魔物!!」
それでもなお、余裕を崩さずに揺さぶりをかけようとするハクナへと、ネイワは思いきり怒鳴りつけた。
「お前の言ってることが事実だろうがなんだろうがなぁ!!隊長が俺等を見捨てるわけないんだよ!!馬鹿にしてんじゃねぇぞ!!」
ハクナへと言いたいことを言い終えたネイワは、今度は隊員の元へと振り返る。
「みんなもだ!!何、隊長のことを疑ってんだよ!!俺達を拾ってくれたのは誰だ!?ここまで鍛え上げてくれたのは誰だ!?全部、隊長じゃないか!!黙ってたのだって……何か、事情があったに決まってんだろ!!」
ネイワの言葉は、根拠も何もないただの感情論でしかない。
それでも、純粋に隊長のことを信じる彼の言葉は、下がりかけていた隊の士気を取り戻すのには充分で。
「ネイワ……」
そして、その言葉に誰よりも元気を与えられたのは、エルダだった。
彼の言葉は、実際にも的を射ていた。
エルダは彼独自の伝で、魔力を反射する作用を持つ「魔硝石」と呼ばれる鉱石を用いた特殊な鎧をある鍛冶師より手に入れていたのだが、そこには条件があった。
それは、「この鎧の特殊性を公表しないこと」。
曰く、その鎧はまだ試供品の段階であるらしく、製品になる前に情報が流出し他の鍛冶師に存在を知られることを恐れたのだそうだ。
その為にエルダは、鎧の特殊性を部下の誰にも語ることはできず……それでも、魔界潜入の任務の危険を少しでも減らせるならばと考え、独断でその鎧の導入を決定した。
その結果として彼等は追い詰められた。
それでも尚、自分に対する信頼を失わないネイワに背中を押されるように、エルダは剣を構え直す。
その構えには、寸分の隙も存在してはいなかった。
「……なるほど。もう、貴様等にこの手は通用しない……か。おい、お前達!!そろそろ動け!!」
「「「はーい♪」」」
そこで初めて、ハクナが部下へと向けて指示をする。
すると、待機していた彼女の部下達は歓声をあげて、エルダの部下へと一直線に走り出した。
エルダは部下を狙う魔物達には目もくれず、ハクナと睨み合う。
「どうした?可愛い部下のピンチに駆けつけなくてもいいのか?」
「貴方を放っておくわけには……いかないでしょう」
会話をしつつも、エルダはハクナに対する警戒を緩めない。
ハクナが達者なのは口先だけではないことを、佇まいや雰囲気からエルダは察している。
「……そうか。では……参る!!」
掛け声と同時にハクナはエルダとの距離を一気に詰めて、素早く突きを繰り出す。
剣でいなしてエルダはその一撃を回避するが、それを読んでいたのか瞬時に体勢を整えたハクナから、休む間もなく猛攻は続く。
その勢いに押されたエルダは、思うように攻められない。
流れを持っていかれ、防戦一方となっていた。
(妙、ですね……)
その分、心に余裕があったのだろうか。エルダは、ハクナの動きに引っかかりを感じていた。
(相手は魔物だというのに……先に比べて、明らかに一撃が軽すぎます……)
防ぎ続けることが出来るのが、いい証拠だった。
力押しの攻撃をしようとすれば、避けられた時に隙ができる、というのはわかる。
それでも、腕力においてはあちらの方が上なのだ。
そのアドバンテージを用いないのは、少なくともエルダならばあり得ない。
(まるで、一撃でも当てることさえできれば満足かのような……っ!!)
そこまで考えた瞬間、エルダはハクナの刀身を弾いて即座に後ろへと下がった。
(刃に、毒か何かが仕込まれている……そう見た方が、いいでしょう……)
それも、麻痺毒か、致死性の高い猛毒か、とにかく触れてしまえば勝負が決するようなもの。
その読みは、当たらずとも遠からずと言えた。
ハクナの持つその刃は『魔界銀』と呼ばれる、魔界で採れる特殊な鉱石から出来ている。
この銀でできた武器は、相手の肉体を一切傷つけず、代わりに魔力を傷つけることで相手を魔物へと変化させるという特性を持つようになる。
それは人間からすれば、人間としての生を一撃で葬り去られるというのには変わりない。
(純粋な力勝負では劣る、鎧の防御力は未知数、おまけに一撃でも当たれば終わり……ならば!!)
突進して刃を振るうハクナの攻撃を、先程と変わらずに防ぐエルダ。
しかし、一撃たりとも喰らってしまう訳にはいかないという圧力があるからか、エルダは先程以上に攻めようという姿勢に転じることができない。
攻撃を受け止め、後退する。僅かでも気を抜けない応酬が、幾度となく続く。
それが終わったのは、後退しようとしたエルダの体が壁にぶつかった時だった。
「なっ……!?」
壁があったことに焦りの表情を浮かべたエルダは一瞬だけ視線を背後へと向けてしまう。
背後の確認を怠ったエルダのミスから生じた、一瞬の隙。
ハクナは、それを逃さなかった。
「終わりだ!!」
エルダの頭上から、銀の刃が振り下ろされた。
……それが、エルダの最後の賭けであるともしらず。
「そこぉぉっ!!」
右手のみで繰り出された突きは、ハクナの首元めがけ一直線に伸びた。
魔界銀製の刃が、エルダの左肩の鎧を砕く。
それと同時に、エルダの剣はハクナの首元に巻かれたチョーカーを真っ直ぐに貫いた。
音もなく、ハクナの首から上が、するりと胴体から離れていく……
「甘い!!」
それと同時に、首を失った筈のハクナの胴体が、エルダの首元へと刃を振るう。
「……っ!!」
間一髪のところで、咄嗟にかがんでエルダはそれを回避する。
しかし、首を無くしたハクナの胴体はもう一度剣を振り上げ、まるで首があってもなくても変わらないかのように振り下ろした。
その剣を、エルダは自らの剣をもって受け止める。
「……まさか、全く動揺せんとはな」
「……人の首は、そう簡単に落ちませんよ」
地面に落ちているハクナの首が、まるで生きているかのように流暢に話しかける。
だが、ハクナの言うとおりにエルダの表情には、驚愕や動揺は一切見られなかった。
それは、エルダが『デュラハン』と言う種族を知っていたからに他ならない。
魔界の騎士団を率いるその魔物は、首と胴体が離れた状態でも平気で活動し、その鍛え抜かれた剣技を持って人間に襲いかかるのだ。
「ほう……しかし、私が何だかわかるのが、少し遅かったようだな……!!」
「ぐっ……!!」
だが、エルダがいくら種族を見抜いた所で、相対しているのは魔物。
人間と魔物が、純粋な力勝負である鍔迫り合いになれば、どちらが勝利するのかは語るまでもない。
エルダの持つ刃は僅かに震え、彼の限界をこれ以上なくはっきりと表していた。
「大方、私を一撃で葬る為に首を狙ったのだろうが、残念だったな。貴様はよくやった、と言っておこう。だが……ここまでだ……!!」
ハクナの手に、より強い力が込められる。
少しずつ彼の剣が押され始めたその時、エルダが口を開く。
「……笑わせますね」
「……?」
「貴方はここまで、ですか……それは……」
「――――――こっちの台詞だぁっ!!」
「がっ……!?」
次の瞬間、勢いよく横から突進してきたネイワによって、ハクナの胴体は吹き飛ばされる。
地面へと倒れ込んだその身体へとネイワはすぐに乗りかかり、最後の抵抗と言わんばかりに暴れるそれを難なく組み伏せてしまった。
「くっ……貴様、私の部下はどうした……!!」
「多分、死んでねぇよ。戦闘中に余所見なんかしてたから、思いっきりぶん殴って寝かせといた。お前、隊長なのに部下にその程度の教育もしてなかったのか?」
「あのうつけ共……!!くそっ、私がこのような形で負けるとは……!!」
悔しそうに足元で呻くハクナの首を、エルダはひょいと拾い上げると、自らの顔へと近づける。
「さて……ハクナ、と名乗っていましたか。貴方に、いくらか質問をします。それに大人しく答えなさい」
「ふん。部下が運良く駆けつけてこなければ私に敗北していたような輩が、何を偉そうに……」
胴体は自由を奪われ、首だけとなったハクナであるが、その態度にはまだ余裕が残っている。
あくまで一対一の勝負で負けてはいないことが、正々堂々たる性格のデュラハンである彼女を気丈に振る舞わせていた。
「……貴方は、まだ気づいていないのですね」
「……何?」
「運が良かった、と言いましたが……では、貴方が部下の接近に気づかなかったことも運だとおっしゃるのですか?」
「……ぐっ」
痛い所を突かれて、ハクナは閉口する。
完全に不意打ちだったとはいえあの程度の一撃を避けることができなかった、というのもまた事実なのだ。
しかし、あの時は首が落下していたせいで、周囲に気を配ることができなかったからで……
その時、苦々しい表情をするハクナの脳裏に、ふとした疑問がよぎる。
……では、目の前の男がもし首を落としていなかったら、どうなっていた?
「まさか……貴様……!!」
「お察しの通りです。私が貴方の首を狙ったのは、貴方を仕留める為ではありません……貴方の首を、落とす為でした。でなければ、わざわざチョーカーは狙いません」
意味ありげに巻かれた首もとのチョーカーと、それ以外に人間と殆ど遜色がない容姿。
それらの特徴から、ハクナがデュラハンであることをエルダは対峙したその時に既に見抜いていた。
「馬鹿な……!!来るかどうかもわからぬ部下の為に自ら窮地に陥ったというのか!?」
それでも、策というにはそれは余りにも無謀。
そんな手段を取ったエルダが、ハクナには理解できない。
エルダは、彼女のそんな態度に溜息を一つついて、静かに告げた。
「窮地で部下を信じてこその……隊長でしょう」
「……なるほどな」
その言葉に、ハクナはようやくエルダの真の狙いを納得した。
自分よりも部下の侮辱に激昂し、剣を振るったエルダ。
よほど、部下を信頼していないと思われる事が心外だったのだろう。
「どうやら、無能と言うのは撤回せねばなるまい。特に貴様は……私よりもよほど、立派な隊長だ」
「……恐縮です」
魔物に褒められながらも、それを受け入れる教会騎士団隊長。
傍から見れば、それは奇妙な光景であった。
「……侮辱の詫びもせねばなるまい。貴様は、部下の居場所を探しているのだったな。それならば……あそこだ」
くいっ、と首だけのハクナが示したのは、この国を象徴すると言ってもいい、巨大な城。
「今回、貴様等の捕縛を担当した我ら第十三部隊は、今はあの城の周囲に住まわせていただいている。もし、貴様の部下がいるとするならば、そこしかあるまい。だが……私の部下が大人しく返すとでも思うのか?」
自らの優位を示すように、ハクナは不敵に笑う。
だが、エルダはハクナの嫌味にも取り合おうとはしなかった。
「……そうですか。情報の提供、感謝いたします」
「隊長。こいつ、どうしますか?」
「そうですね……もう用はありませんし、気絶させてしまった方が……」
「ま、待て!!詫び代わりにもう一つ、重要な情報がある!!」
首を鷲掴みの形に持ち替えたエルダが壁に叩きつけようとすると、ハクナは急に慌て出した。
「……一応、聞きましょう」
有益な情報を教えてもらえたこともあり、とりあえず、エルダは思いとどまる。
その判断を即座に後悔する事になったのだが。
「私はまだ、夫を持たないフリーの魔物……だから、もし犯したいというのであれば存分に構わんぞ!!」
……こんな状況で何言ってんだ、こいつ。
エルダとネイワの心が、一つになった。
彼等はデュラハンという魔物を知ってはいても、首を外したデュラハンが発情してしまう性質までは知らないので、当然と言えば当然の反応であるのだが。
緊迫した空気が一気に弛緩したことにも気づかずに、ハクナの語りは熱くなる。
「だが……最初はせめて、私の体を押さえているあの男からにしてくれんか!?私にも好みというものはあるのだ!!貴様のような女と見間違うような男よりはまだ、あちらの男の方が私は……」
「ふんっ!!」
「んごっ!?きゅう……」
情け容赦なくハクナの首が壁目がけて叩きつけられる。
ネイワが押さえ続けていた胴体から、くたりと力が抜けていった。
「おっと。うっかり手を滑らせてしまいましたか……」
目を回して気絶したその首を、ひょいっと放って捨てるエルダ。
エルダにとっての禁句、「女みたいな顔」を発してしまったハクナに、敵とはいえ心の中で合掌してしまうネイワであった。
「余計な時間を取らされてしまいましたね。さて、行きますよネイワ」
「は、はい……ですが、その前に一つ、よろしいでしょうか……?」
ネイワがおずおずとした様子で切り出すと、エルダは「……えぇ」とだけ返事をする。
「隊長は……俺以外がやってこない理由を、尋ねないのですか……?」
「……聞くまでも、ないでしょう」
ネイワの質問に短く答えて、エルダは先程まで部下達が交戦していた路地を見やる。
そこには、ネイワが倒したと思われる魔物、サキュバスが一人、気を失って寝かされている。
だが、それ以外の姿は、人も魔物も見当たらなかった。
「申し訳、ございません……!!俺が不甲斐ないばっかりに、仲間は……みんなは……!!」
震えるネイワの謝罪は、最後まで言うことすらも出来なかった。
同期に比べても戦闘力の劣る彼だけが残ったのは、ただ単に彼の運がよかっただけだった。
彼が戦った魔物娘が余所見をしていたのは、仲間が連れ去られた際のこと。
彼女は、先に自分の伴侶となるものを見つけた魔物が自慢げに去っていく姿に気を取られたのだ。
そうしなければ負けていたとはいえ、ネイワは先に倒された仲間のことを利用したにすぎなかった。
「……それ以上は、もう結構です」
彼の肩に手を置いて、エルダはそっと彼を諫める。
それは、悲しみから目を背けようとする行為ではなかった。
「我々には立ち止まっている暇など、ないでしょう。彼等を捕まえた場所は判明したのです。……仲間を、取り返しますよ」
エルダは未だ、捕らわれた部下のことを諦めてはいなかった。
見捨てない、という誓い。例え、この場に二人しか残っていなくとも、ネイワと交わしたその誓いだけは絶対に破りたくはなかった。
「隊長……いくらなんでも無理ですよ……俺達、たった二人しかいないじゃないですか……」
しかし、たった一人だけ残った部下は、首を横に振る。
目の前で何人もの仲間が連れ去られたネイワにはもう、再び立ち上がる気力が残されてはいなかった。
「ネイワ、挫けてはいけません。彼等は連れ去られただけで、死んだ訳ではないでしょう。まだ、希望を捨てるには早すぎます……」
「……はい。ですから隊長、お願いがあります……」
そして、ネイワははっきりと告げる。
「隊長は……この国から、逃げてください。俺が囮になります」
「……なっ!?何を言い出すのですか!!そんな馬鹿なこと……!!」
「原理はわかりませんが、俺達はこの鎧のせいで魔物共に動きを察知されてるんですよね?でしたら……これを脱いでしまえば、あいつらは隊長を追えなくなるのではないですか?」
「そういうことを言っているのではありません!!貴方を見捨てて私一人逃げ延びるなど……!!」
そんなことは、考えつきもしなかったのだろう。エルダは弱気になってしまったネイワを叱咤しようとするが、ネイワはそれを遮って怒鳴った。
「じゃあ、隊長は今から全員で無事に帰れると本気で思ってるんですか!?」
「……っ!!」
「俺達はたった二人なんですよ!?わざわざ敵の本拠地に向かって、何十人もの部下を魔物に見つからず全くの無傷で救出できると!?それがどれだけ無謀かってことぐらい……隊長なら、わかるでしょう!?」
絶望的な、戦力の差。
部下の殆どを連れて行かれて頭に血が上っていたエルダは、そのことを考えようともしていなかった。
最も、考えたところで、エルダは部下の為とあれば乗り込もうとするのかもしれない。
それでも、ネイワにはそれが、冷静さを欠いた隊長の自棄を起こした行為にしか思えなかった。
「ですから、ここは一旦退くべきです。俺達は、『レスカティエの地理は殆ど変化していない』という有用な情報を持っています。まずは教会にこの事実を伝え、増援を派遣してもらう方が確実でしょう……!!」
「それならば、貴方が残る必要はありません……私が……!!」
「何言ってんですか。隊長ならともかく、俺みたいな下っ端じゃ上は耳を貸してくれませんよ……これぐらい、聡明な隊長ならわかってますよね?」
なおも食い下がるエルダに、ネイワは自嘲気味に言う。
「……っ」
エルダに、返す言葉はなかった。
普段どんなに取り繕おうとも、自分達の部隊が教団内において疎まれていることは、まぎれもない現実でしかない。
そして、その部隊の更に末端であるネイワと、曲がりなりにも部隊長を務めるエルダ。
……エルダも、とっくに気がついていた。
ネイワのやり方が、この場における最善であるということを。
それでも、それは部下を見捨てて逃げる、という決断を下すことに他ならない。
首を縦に振ることなど、できるわけがなかった。
未だに決断できずにいるエルダに、ネイワは語りかける。
「……そんな顔しないでくださいよ。俺は、こんな形でも隊長のお役に立てるなら、最高に幸せなんですから。だから、もし隊長が間に合わなくて、俺が帰れなかったとしたら……そんときはせめて……」
ネイワは顔を覆う兜に手をかけると、一気に外す。
兜に隠れた彼の顔が、その表情が、エルダの前に晒された。
「ネイワ=サブテインっていう、あなたに尽くした最高の部下がいたことを……語り継いでくださいよ!!」
親指で、ネイワは力強く自分を指し示す。
その顔は、これから囮になるとは思えない程に、笑っていた。
「……、ません……」
きつく握りしめられていたエルダの手。
それが、ゆっくりと手甲へと伸びていく。
パチン、と手甲の留め金が外れて、地面へと落下したそれが乾いた音を立てた。
「絶対に、そんなことさせません!!例え貴方が魔の者に変わり果てようと、私は貴方を助け出します!!必ず……貴方の元へ帰ります!!ですから……どうなっても、心だけは魔に屈さないでください!!」
全ての防具が外れたエルダは、最早見た目だけでは教団の兵であることすらも判別ができない。
それでも、たった一人の部下の期待に応える為に、エルダは駆けだしていく。
部下の命運を全て背負った男は、出口を目指して路地を後にした。
その頼もしい背中を見送って、ネイワは安心そうに息を一つ吐いた。
「魔に屈するな、か……」
ネイワの背後で、がちゃりと金属を持ち上げたような音が鳴った。
エルダが放り投げた筈のデュラハンの首が、いつの間にか見当たらなくなっていることは、とっくに気づいていた。
「……最後の最後で無茶言わないでくださいよ、隊長」
レスカティエ教国からの脱出は、潜入以上に容易なものだった。
身を隠すことも忘れてひたすら走り続けていたにも関わらず、一度も魔物に遭遇することが無く脱出できたのだ。
(早く……もっと、早く!!走らなければ……!!)
レスカティエを抜けたエルダは、森の中を一人走り続ける。
疲労も気にせず、早く帰還することだけを考え、ひたすらに足を動かし続けた。
しかし、どんなに高潔な約束をしようとも、使命感に打ち震えようとも。
人間である以上は、いつか限界が訪れる。
エルダの場合も、それは唐突にやってきた。
(ようやく掴んだ貴重な情報です……!!これさえ、教会へ届ければきっと……!!)
森の中を走り続けて、しばらく経った時のこと。
追っ手が来ない事に僅かに気が緩んだのか、エルダの頭に教会のことが頭をよぎる。
(教会へ、届ければ……増援、を……?)
しかしその時、一心不乱に走っていたエルダの足から、力が抜けた。
(増援、を?私達を厄介払いでこの任務へと派遣した、あの教会が?任務を成功させたからといって、所詮厄介な腫れ物に過ぎない我らの隊の為に……増援を?)
エルダの足が、止まる。
走ることで頭の隅に追いやっていた不安が、頭の中で膨れ上がっていく。
(運良く、増援を寄越してくれたとして……それで、どうなる?それで……勝てるのか?数だけいても、勝てる相手ではない……)
こんなところで立ち止まっている暇なんてない。
一刻も早く、自分の国に向かわなければならない。
わかっていようと、思考は抑えられるものではなかった。
(いや、地理的なデータがある。勝つことは、不可能では……そうすれば、部下達も無事に帰って……無事に?この森を抜けるのには、三日以上……そこから更に、国に帰って…一週間どころでは、ない……その間に……魔物に、魅了されてしまうのでは……)
最悪の映像が、鮮明に頭の中に映し出される。
エルダが倒した魔物の傍に駆け寄り、必死で呼びかける自らと同じ鎧に身を包む兵。
そして、共に戦い抜いた記憶を忘れ、憎悪の瞳でこちらを睨み付ける男の兜の下は、最後に眩しい笑顔を見せてくれたあの顔で……
「あ……う、あぁ……ああぁぁぁぁ!!」
ネイワの顔を思い出した、その瞬間。
エルダは、膝から地面へと崩れ落ちていった。
(ごめんなさい、ネイワ……!!必ず帰ると、誓ったのに……!!)
瞳から大粒の涙をボロボロとこぼしてうずくまるエルダは、恥も外聞も気にせずに叫び続ける。
自分を信じてついてきた部下の全てを失い、教団に忠誠を誓う証の鎧ももう着ていない。
エルダは、これまでに築き上げてきたものの全てを失った。
(足がもう、動かない……!!動こうとして、くれないんです……!!)
そして今、最後に部下と交わした約束さえも、破ろうとしている。
やがて、叫び声さえも枯れ果てたが、それでも再び走り出そうとする気力はどこにも残されていなかった。
……それ故に彼は、背後から近づく存在に気づくことができなかった。
にゅるり、と『それ』は一瞬でエルダの左腕に絡みつく。
「え……なっ!!」
不愉快な感触に顔をしかめた彼が視線を向けた頃には、何もかもが遅かった。
月明かりに照らされた彼の周囲の地面から、一目では数え切れない程大量の触手が生えていた。
「ぐっ……やめろ、離せっ……!!離せぇっ!!」
それは、引きちぎっても、暴れても、何の効果もなかった。
無数の触手は彼にどんどん絡みついていく。
この森が、レスカティエの魔力により生まれた『触手の森』であることなど知らずにいた彼の、最後の抵抗は虚しく終わる。
……そして、エルダ=リカルドは触手により拘束された。
その腕は力こぶを見せようとしなくてもその力強さがはっきりとわかるぐらいついた筋肉が隆起しており、腹まわりや足には余分な脂肪は一切ついていない。
むしろ腹に関して言えば、腹筋は割れていてまさに筋骨隆々という言葉が似つかわしい。
その上それらは彼の生来の体質ではなく、その全てがたゆまぬ修練のおかげであるのだから、日頃彼がどのような生活を送っているのかは殆どの人間には想像することすらできないのであろう。
それほどの身体である彼ではあるが、顔だけを見るとそのような印象を持てないのだから不思議なものである。
クリーム色をしたストレートの前髪に少し隠れてしまっている青い瞳は長いまつげのおかげで優しい印象を相手に与え、白い肌の色と相まって彼を中性的な見た目に仕立て上げている。
ある種ミスマッチとも言える顔と身体の組み合わせではあるが、それほど鍛えているにも関わらず優しさを損なわない彼の目つきは、人を惹きつける魅力のようなものを備えていた。
そんな彼の身体は現在、植物が生い茂り闇に包まれた森の中、一糸纏わぬ姿で晒されていた。
「くっ……」
彼は先程より、その場から動こうと頭の上に回されている手首に力を込めてはいるのだが、その手がぴくりとも動くことはない。
いや、動かないのではなく、動かせないのだ。
彼の全身を縛り付ける、そこら中の地面から生えた細長いロープのようでいて独特のぬめりけと柔軟性を持つ生物……触手によって。
彼にとって未知の生物であるその触手の前では、全ての抵抗が徒労に終わった。
「不覚……!!」
触手の纏っている粘液には何らかの成分が含まれているのか、彼の着ていた衣服は全て溶かされてしまっていた。
それこそが、成人した男が一人、森の中で裸体となったままでいることになった原因であり、彼の陥った窮地でもあった。
ぎりり、と歯を食いしばる彼の目の前で、地面から新たな触手が一本生えてくる。
「殺すなら……さっさと殺せ……!!」
憎々しげに睨みながら吐かれた彼のその言葉を受けたのかどうかは不明だが、触手はぐねぐねとした動きで彼ににじり寄って、足元から下半身へと這い上がってくる。
既に全身を撫で回されているせいで、その独特な軟体動物のような感触を、今更特別に不快とも思わない自分に嫌気がさしながら、彼はここで自分の命が果てる覚悟を決めていた。
なぜ、彼……エルダ=リカルドがこのような仕打ちを受けているのか。
それは、彼が初めてこの森を訪れた数時間前まで遡る。
その時、夜の帳に包まれた森の中を目的地目指してどんどん進んでいく彼の背後には、現状と違い大勢の人間が並んでいた。
彼等はみな一様に純白の鎧と兜に身を包み、腰には剣を携えていた。
無論、先を行くエルダの格好も例外ではない。
ただし、彼の鎧は後ろを歩く大勢の人間のものとは違い、両肩に盾をモチーフとした独特の紋様が彫り込まれているのだが。
「隊長ー……もっとゆっくり歩いてくださいよー……」
後方にいた集団の内で、最も先頭にいた者が疲弊を滲ませた情けない声を出した。
隊長と呼ばれたエルダはその言葉で立ち止まり、後方の集団を振り返る。
「なんですか、だらしない。私は貴方達をこの程度で弱音を吐くような、軟弱な育て方をした覚えはありませんよ」
「この程度、じゃ全然無いですって……馬も使わずにもう何日歩いてると思ってるんですか……うぅ、これかぶり続けるのすらきつい……」
兜の中で涼しい顔をしてエルダは答えるが、先頭の男はそれに対して溜息をついて兜を外す。
中から現れたのは、まだ比較的若い部類に入る男性の顔だった。
快活そうな一方で、集団を引っ張っていけるタイプには見えない、彼からはそんな印象を受ける。
「三日か四日、ぐらいですね。ネイワ、この程度で疲れているのは貴方ぐらいのものではないですか?」
「絶対そんなことないですって……なぁ、みんな?」
周りに同意を求めようとして、ネイワと呼ばれた男は後ろを向いて全員に尋ねる。
だが、彼等は目を逸らしたり、うつむいたりするだけで、その中にネイワに同意しようとするものは誰もいなかった。
「あ、あれ!?なんで!?」
「ほらみなさい。そんな風に弱音を吐くのは、貴方だけですよ。これは、この任務から帰還した後にあなたの訓練を増やさなくてはなりませんんね……」
それを聞いたネイワの顔がさっと青ざめて、慌てて脱いだばかりの兜をかぶり直す。
「お、俺は全然大丈夫です!!全然大丈夫でした、スイマセン!!さ、さぁ、隊長!!みんなで元気に出発しましょうか!!」
そんな風にエルダの機嫌の回復を謀ろうとするネイワのことを、周りにいる人間は懲りないやつだな……と呆れながら見ているのだった。
エルダが隊長を務めるこの部隊は、とある反魔物領国の教団によって編成された、勇者ではない者のみで構成された騎士団の部隊である。
勇者が存在しない部隊の為、主な役割として勇者の補佐をする部隊ではあるのだが、隊長であるエルダの指導の基に日常的に行われる厳しい鍛錬の成果であるのか、その武功は駆け出しの勇者に勝るとも劣らない程であった。
この部隊の最たる特徴として、隊長の言うことはどんなことがあろうと絶対であり、口答えをする者など言語道断で許さない、という基本方針を掲げていることにある。
そのように、下手をすればあっという間に不満が募るような方針でありながらも、自他共に甘えを許さないエルダのストイックな性格と、厳しさの裏で部下一人一人に対する慈しみの心を忘れずに接するからこそ、エルダ=リカルドという男は隊長としての信頼を部下から得ているのだが、それでもそれを乱す存在というのはいる。
それが、先程の青年、ネイワ=サブテインである。
彼自身は裏表のない好青年で、隊長に対する信頼と憧れこそは勿論持っている上でこの部隊に所属しているのだが、いかんせん黙って人の言うことを聞くことができない性分であるらしい。
ふとした瞬間に思った不満を口に出してしまうことが多々あり、その度に彼はエルダより訓練メニューの特別な変更、などを言い渡されてしまう。
騎士として特別に秀でた点がないことと相まって、現在50人程度が所属しているこの部隊の中で彼は、あまりいいところのないくせに隊長に逆らう馬鹿な奴として完全に浮いた存在になってしまっていた。
先程の誰も同意しなかったネイワの意見にしたって、実際には彼等の殆どは疲労を感じずにはいられない状態になってはいた。
それなのに誰も同意しなかったのは、隊長に逆らったら後が怖いからということと、ネイワと同じような扱いを受けるのを避けたかったからに他ならない。
しかし、周りがどう思っているかなど露知らぬネイワ本人は、やせ我慢をして兜の下で笑顔を浮かべつつ、歩みを再開させるのであった。
景色が変化しない森の中で一番先にそれに気がついたのは、一番歩くことに不満を持っていたネイワであった。
「……!!隊長、あれ……!!」
「?どうしまし……っ……」
歩みを止めたネイワが指差したのは、目の前にある木々の更に上、その向こうに見えるもの。
薄暗い空の合間に、高くそびえ立つ城。
「あれが、俺達の今回の目的地……なんですよね……」
「……えぇ。あれが……レスカティエ……」
それを見たエルダが体を強張らせているのが鎧の上からでもわかり、ネイワは思わずごくりと息を飲む。
元々は絶大な力を持つ宗教国家にして、現在は魔物の統治下におかれた国、レスカティエ。
その国こそが、この部隊の目指す場所であった。
「……私は、立ち止まるのを許可した覚えはありませんよ。ほら、貴方も歩いてください」
「は、はい……」
促されたネイワは大人しく指示に従って歩みを再会するが、その動きはまだいくらかぎこちない。
魔物の手に堕ちた国家を初めて見たことで、緊張を隠せないでいた。
呆れ顔をしてエルダはネイワに話しかける。
「どうしました?まさか、まだこの期におよんでまで逃げ出したいと思っているのですか?」
「いや、はは……流石にもう言いませんよ……」
皮肉を込めた言い方をするエルダに、ネイワは苦笑いを返した。
この任務を言い渡された直後にネイワがエルダの元へと取り下げを直談判したのは、まだ数日前のことである。
『俺はこの任務に納得がいきません!! 何で俺達が……何より、教会に一番貢献しているあなたが、こんな任務を受けなくてはいけないのです!?』
ネイワは、それをわざわざ彼の執務室にまで来て主張していた。
彼等の部隊が今回言い渡された任務はこうだ。
『魔界国家レスカティエへと侵入し、攻略の情報を掴み次第至急帰還せよ』
それ以上詳しい内容は一切聞かされず、エルダがそれを隊員に伝える頃には既にレスカティエへと向かうことは確定していた。
隊長の指示に黙って従う事を信条とする他の隊員達はみな文句も言わずに支度を始めていたが、彼だけは真っ先に異を唱えた。
『こんなの、体のいい厄介払いじゃないですか!!上の奴らは、勇者がいない癖に各地で活躍している俺達の隊が気にくわないだけに決まってます!!』
エルダの率いる隊は、エルダが自ら目を掛けた人間のみで構成されている。
そう言えば聞こえはいいのだが、実際のところ彼が優れた勇者や魔術師などを彼の隊に配属したことは一度もない。
彼等はみな、勇者となる素質がないと判断され、教団から半ば見放されてしまった人間達である。
一度は挫折を味わった彼等を拾い上げ、厳しい鍛錬の末に前線で仕事をこなすことができるところまで育てあげたエルダの手腕を評価するものは勿論いるが、教団直属の勇者が全く配属されていない部隊である為に、教会内では彼等を目の上のたんこぶのように思う者の方が多数派となっているのが、彼等のおかれた現状であった。
実際に、もし彼等が功績通りに評価されているのであれば、このような無謀な任務が言い渡される道理はない。
暗黙の了解でそれについて彼の部隊に所属する騎士達は触れないことと決めていたのだが、全体に流れる空気よりも個人の考えを押し通すのがネイワという男である。
『隊長!!今からでも遅くありません!!どうにかして我々を味方してくれる人間を集めて、上にかけあいましょう!!そうでないと我々は……!!』
『……それで?その後、どうするというのですか?』
それに対するエルダの返答は、すっかり熱くなってしまっていたネイワの熱を一瞬にして冷ましてしまう程に冷ややかだった。
『もし貴方の言うとおりにして、我々がこの任務を断ることができたとしましょう。それで、私達はどうなるというのです?確かに貴方が主張するよう、我々の部隊を邪険に扱う人間は少なからずいるのでしょう。ですがそれは、隊を率いるこの私の未熟さが原因です。貴方が気に病むことはありません』
『そ……そんなわけないです!!隊長は……!!』
『問題は、唯でさえそのように疎まれた状況で更に我々がこの任務を断れば、この部隊は更に評判を落としてしまうということです。そうなれば、我々に回ってくる任務は減り、私達は最悪の場合貧困にあえぐことになるでしょう。それとも……貴方には、そうならないようにする策があるのですか?』
『っ……!!』
エルダの問いに、ネイワは答えない。
ただ、悔しそうに唇の端を少し歪ませるだけであった。
『口答えをする暇があるのなら、少しでも任務を成功させるように自己鍛錬へと努めなさい。それすらもできず、これ以上いたずらに隊に混乱をもたらすようであれば……大人しく私の隊から除名していただきたいものですね』
ピシャリ、と言い放たれたそれは、暗に「除名しろ」と言っているようにしか聞こえなかった。
ようやく、ネイワは自分が失言したことに気づいて、これ以上何を言われるかもわからない恐怖で呼吸の度に胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
が、一刻も早くこの場から逃げだそうとして、言葉をどうにか絞り出した。
『も……申し訳ございませんでした、隊長……それでは、失礼します……』
背中を向けて、一分一秒でも早く隊の仲間の元へと帰ろうと足早にドアへと向かう。
そのネイワが部屋から出ようとする気概を失ったのは、汗が滲む手でドアノブを握りしめた時だった。
『……見捨てません』
冷ややかな声とは対照的な、エルダの穏やかな声。
ネイワはそれを、思わず聞き間違いかと耳を疑った。
『この任務の無謀さは、私も重々承知しています。ですが……貴方達は、私の大切な部下です。私は、誰一人として欠けさせるつもりはありません。私が必ず貴方達を生還させます。ですから……不安がらないでください』
力強く、意志の込められたエルダの言葉。
その一つ一つがネイワの中にくすぶっていた不満を霧散させていく。
……この人となら、どんな任務だろうと生還できる。
その思いが、エルダに対するネイワの返答をとても力強くした。
『……はい!!このネイワ=サブテイン、微力ながらも精一杯任務へと努めさせていただきます!!それでは、失礼しました!!』
自信に満ちた顔で敬礼をして、ネイワは執務室を去っていく。
パタン、とゆっくりドアが閉まると、エルダは短く溜息をついた。
『……参りましたね。最悪、私一人でレスカティエへと向かうことを考えていましたが……これは、彼等を外すわけにはいかなくなりましたか…………ふむ。この場合、あのレスカティエから、無傷で何かしらの情報を掴み、帰還することが目標ですね……さぁ、どうしましょうか……』
独りごちるエルダの言葉は、誰の耳にも届くことなく消えていった。
「……あれは出過ぎた真似をしていたと今でも反省しています。正直……足はまだ少し震えています。ですが、逃げようなどとはもう思いません」
「結構な心構えです。ですが、肝心要の今回の作戦の内容はきちんと把握していますか?」
「え、えーと……は、はい!!」
少し意地悪な言い方のエルダの問いに、ネイワはやや遅れながらも肯定の意を返すが、続く言葉は何の澱みもなくすらすらと口から流れた。
「今回の作戦は、地理情報把握の為の敵地視察です。俺達は6〜7人の8班に別れ、別々の道よりレスカティエへと潜入。国の内部がどのように変化したか、どのように変化していないのかを確認し、探索が終了し次第それを上層部へと報告する運びとなっている……これでよろしいでしょうか、隊長」
「えぇ、問題ありません」
魔界国家レスカティエに攻め入れようとした反魔物領の部隊や国家は今まで数多く存在するが、その中に生還した者がいるという話はこれまで全く存在しない。
それは、この国がそれだけ強大な力を持っている証であるのだが、何よりもそのせいで反魔物側にはレスカティエに対する情報が圧倒的に不足していた。
今や魔界と化したレスカティエにはかつての面影は高くそびえ立つ城以外に存在しておらず、周囲は濃密な魔力が充満しているせいで迂闊に近寄ることも出来ない為、内情を窺い知ることは至難の業となっていた。
それだけになると、内部の地理すら昔のものと同一と見るには決め手に欠ける。
よって、その地理を把握することだけでも反魔物側にとっては重要なアドバンテージになりえるのだ。
敵の中枢へと直接向かわず、戦闘する必要性すらないために、この作戦は与えられた任務に忠実かつ最もリスクの抑えられたものである、と言えた。
「そして現在、我々にはその目標地点となる場所が見えています。部隊を分ける頃合いとしては……そろそろでしょう。小隊長、前へ!!」
後ろの集団へとエルダが声を張り上げると、何人かが前へと歩み出る。
彼等一人一人に対して、エルダは懐より取り出した小さく透明な宝石のついたペンダントを手渡す。
「あなた方に今渡したのは、通信用水晶です。あなた方が魔力を通せば、私と通話が可能になっています。ですが……万一に備え、これらの使用は緊急性のある報告のみとします。我々の任務はあくまで偵察です。敵に発見されることを避けるのを第一に考え、慎重に行動してください。万が一遭遇した際にも極力戦闘は避けるようにし、即時撤退をするように」
「「「「「「「はっ!!」」」」」」」
隊長の指示に敬礼で応える、小隊長となった者達の声。
「では、これより十分間の休憩を挟んだ後、散開します。必ずや……私達は、全員で生きて帰りましょう……!!」
その場にいる全員へと向けて、エルダは力強く鼓舞をする。
隊員の返事は疲れを感じさせない程に力強く、今やそこに、任務の成功を疑うものはいなかった。
侵入は、全ての班が成功した。深夜帯を狙ったのが功を奏したのか、見張りなどに見つかることはなかった。
偵察はこれ以上なくスムーズに進んだ。住民の目を気にしつつ慎重に進めたその結果、全ての班がレスカティエの内部は建物の立地などが殆ど変わっていないという結論に辿り着いた。
そこまでに、何も問題はなかった。
それでも、エルダの隊がこの任務を成功させることは叶わなかった。
―――――それは、突然のこと。
……ザッ……
『た、隊長!!大変です!!魔物に姿を目撃されました!!このままでは……うわあぁ!!』
「ローグ!?どうしたんですか、報告をしなさい!!」
『ぐ、か、身体が……!!やめろ、こっちに来るなぁぁぁ!!』
『あはは♪お兄ちゃん達、そんな怖い顔しないで♪そんな事より、気持ちいいことしようよ♪……』
……ザッ……
『……隊長!!至急こちらへ増援を!!増援をお願いします!!……くそっ!?こっちは七人がかりだぞ!?どうして、たった一匹の魔物に手も足も……!!』
「今度はドーレ!?そちらは、何が起きているのですか!?」
『はっ、数で押そうなんて考えが甘ぇんだよ!!そんなんじゃ、アタシの旦那になるには百年早ぇ!!』
『がっ……!!く、そ……』
「ドーレ!?返事をしなさい、ドーレ!!」
『おーい、てめぇら!!こいつら全員気絶しちまったから、もう持ち帰っていいぞー!!……』
……ザッ……
『……隊長!!こちらにて複数の魔物に遭遇!!アラクネ種です、隊長はこちらの区画へは……!!くそっ、あ、足が……!!』
「なっ……ラサドのところまで……!?」
……ザッ……
『くっ、どこだ、どこに……ぐあぁ!?……』
……ザッ……
『剣が、効かない……!!ぐ、絡みついてくるなぁぁぁ!!……』
……ザッ……
そこは、路地裏の一角。
エルダの握る水晶越しに聞こえてくるのは、共に帰ると誓い合った部下達の悲鳴と、それらを打ちのめす魔物達の声。
(何が……何が起きているのです!?)
元々、エルダの想定していた作戦は仲間が誰一人として欠けることなく生還するもの。
それでも一、二班程度を失う最悪の事態ならば覚悟の上ではあった。
しかし……それでも、ここまでの規模の被害は想定していない。
部下とて、住民に簡単に見つかるようなお粗末な移動はしない程度の潜入の訓練は積んできているのだ。
「隊長……これは、どういうことです……!?」
隣で驚愕の表情を浮かべているのは、エルダと同じ班となって行動していたネイワ。
部下のその言葉に呼び戻されるかのように、エルダはいくらか冷静さを取り戻す。
「わかりません……わかりませんが、このままでは我々は全滅します!!大至急最も近い班と合流し、撤退を……!!」
「どうやら……この部隊の隊長は、貴様のようだな」
威圧感のあるソプラノの声が、エルダに向かってかけられる。
エルダがハッとして前を向くと、そこに立っていたのは一人の女性だった。
黒を基調として、不気味な赤い色をした目玉の装飾があちこちに着いている鎧。
片手に提げられた、銀色に光る一振りの剣。
気味の悪い装飾を除けば一目で騎士とわかる格好だが兜は着けておらず、隠されることのない鋭い眼光はエルダを睨み付けていた。
「私は魔王軍騎士団第十三部隊隊長、ハクナ。故あって、現在はレスカティエの守護を務めさせていただいている」
「こちらにも……やってきましたか……」
鞘にしまわれた剣にそっと手を回しながら、エルダは部下と共に、一歩ずつ後ずさる。
ハクナと名乗った目の前の魔物が、後ろにエルダ率いる小隊と同じ人数の魔物を引き連れていたからというのもある。だが、なによりも彼女は得体が知れなかった。
(いくらなんでも……タイミングが良すぎます。何か、彼女は私達の行動を知る手段を持っている……としか……)
「何故私がここにいるのかわからない、という顔だな?」
「…………」
心中をぴたりと言い当てられても、エルダは表情を崩さない。たとえ、鎧の内側ではじんわりと汗が滲み出ていたとしても。
そんな彼へと、ハクナはつかつかと歩みを進める。
「確かに貴様等の侵入、索敵などの技術は見事だった。私達の軍には、そのような微細な技術を持つ者は殆ど存在しないから、通常なら見つけるのは困難であっただろう」
「……こうして私達が見つかっている以上、説得力のある言葉とは思えませんね」
精一杯の虚勢を張って、エルダは皮肉を言う。
ここで何か言わなければ、彼女の雰囲気に飲まれてしまいそうだからこその発言であった。
「あぁ、そうだろうな。だから……この状況は、貴様等の落ち度だ」
「……なんですって?」
だが、ハクナの言葉はそんなエルダの虚勢すらもたやすく崩壊させる。
「大方、その鎧か?そこに、周囲の魔力を打ち消す作用が組み込まれているのだろう?」
「……!?」
「愚かなことだ。魔力がそこら中に充満した魔界で、そんな装備に身を包めば自らの場所を教えているようなものではないか」
「こ……この国中の魔力の流れを一度に察知したというのですか!?そんなことが……!!」
「……この国にいらっしゃるお方が誰だと思っているのだ?」
驚愕するエルダに、ハクナは意地の悪い笑みを浮かべる。
彼女は胸元に手をおもむろに差し入れると、そこからガラスの欠片のような小さなものを取り出した。
訝しむエルダの前で、小さな欠片は輝き始める。
『……あれ、ハクナー?どうしたの?しんにゅーしゃ、捕まったの?』
『ミミルはん、まだ反応は消えてへんよ。せやけど……もう、後はハクナはんの相手だけみたいやね』
『そっかー、じゃあハクナ、後は頑張ってね!!あ、おにいちゃーん!!次はミミルと遊んでー♪』
そして、そこから聞こえてくる無邪気な声に、今度こそエルダの表情が青ざめた。
「魔術の扱いに長けたミミル様と、膨大な魔力の制御を日常的に行う今宵様。お二人にかかれば、その程度など雑作もないとおっしゃっていたが?」
「ぐっ……!!」
『黒山羊の魔女』ミミルに、『傾国の黒稲荷』今宵。
レスカティエをという国を支える魔物の代表格で、レスカティエを攻めるにおいてまずその名を知らされる程この国では高位に属する魔物である。
元々レスカティエが堕落する前は反魔物勢力に属していた二人は、反魔物領での知名度が非常に高く、無論、エルダも彼女達の存在を危険視した上で計画を立てていた。
その対処法としてエルダが立てたのは、彼女達に相対する前に全ての任務を終わらせる……つまりは、逃げの作戦。
結局、彼女達とはまともにやり合えば勝ちの目はない、という判断しか下せず、そのためにも一刻も早く任務を終わらせようとしたが故の今回の作戦であった。
そこに、見落としは存在しなかった。
ただ……敵の実力が、エルダの想定を遙かに超えていただけのこと。
「お前、何をでたらめ言っている!!俺達の鎧にそんな高度な細工があるわけないだろ!!」
そこに、未だ希望を失っていない青年の声が無遠慮に響いた。
「……ほう?」
不敵に笑うハクナを睨んでから、ネイワは視線を隊長へと移す。
「隊長も気圧されないでください!!そもそも、あいつの言っていることは前提から間違っていますよ!!確かにこの鎧はここへ来る前に新調したばかりですが、そんな機能があるなんて一切おっしゃってなかったじゃないですか!!です、から……」
ネイワの言葉は、最後まで言う直前に途切れてしまった。
「……たい、ちょう?」
その時のエルダは、まるで。
隠していた秘密が知られて、親に叱られることを強く怯える子供のように……唖然と前を見ながら、小刻みに震えていた。
「……部下にすら、知らせんとはな」
呆れるような言い方をする魔物に、エルダは何も反論しようとしない。
そして、その無言こそが、ハクナの言葉が正しい事を雄弁に語っていた。
「おい……どういうことだ!?」
「隊長が……俺等を騙していたっていうことなんじゃ……」
ネイワでさえもその事実に気づき、その場にいた部下全員がエルダに対して疑惑の視線を向け始めた、その時。
エルダへのとどめの一言が、付け加えられた。
「それとも……知らせる必要もないほどに、部下が無能だったということか?」
その一言は、蒼白だったエルダの顔色を別の色で塗りつぶす。
「き……貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
怒りのままに剣を抜いたエルダは、ハクナへと飛びかかっていく。
空中から振り下ろされたエルダの剣が、居合いの要領で抜かれたハクナの剣と交差する。
銀同士が衝突して、鋭い音が鳴った。
「私への侮辱だけではなく、部下までも……!!訂正しなさい!!私の隊員は……決して無能などではありません!!」
「ふん。随分と部下思いなようだが……そんな力任せの剣で、私に勝てるなどと思うな!!」
重力も味方につけて優位についた筈のエルダの剣は、鍔迫り合いに押し負けてあっさり上方へと弾かれる。
元々、純粋な筋力では人間は魔物に遙かに劣っているのだ。
頭に血が上っていたエルダが、そこにようやく気づいた頃には既に遅い。
(しまっ……!!)
ハクナの手に握られた剣が、がら空きになったエルダの腹部を目がけて迫ってきていた。
「せやぁぁぁ!!」
しかし、エルダの前へと素早く躍り出たネイワによって、その刃は阻止される。
「隊長!!下がってください!!」
その隙に体勢を立て直したエルダが下がると同時、元々まともにやりあう気がなかったネイワもハクナから距離を取る。
「……ほう、かばったか」
ネイワのその行動を、ハクナは敵ながらに素直に感心していた。
ハクナの言葉で逡巡し、反応が一瞬遅れてしまった彼の部下の中で一人、彼だけが迷わずにハクナへと真っ直ぐに突っ込んできたからだ。
「しかし、よいのか貴様?お前の隊長は、重要な事実を部下に伝えず、その挙げ句に部下全員を危険に……」
「うっせえんだよ、魔物!!」
それでもなお、余裕を崩さずに揺さぶりをかけようとするハクナへと、ネイワは思いきり怒鳴りつけた。
「お前の言ってることが事実だろうがなんだろうがなぁ!!隊長が俺等を見捨てるわけないんだよ!!馬鹿にしてんじゃねぇぞ!!」
ハクナへと言いたいことを言い終えたネイワは、今度は隊員の元へと振り返る。
「みんなもだ!!何、隊長のことを疑ってんだよ!!俺達を拾ってくれたのは誰だ!?ここまで鍛え上げてくれたのは誰だ!?全部、隊長じゃないか!!黙ってたのだって……何か、事情があったに決まってんだろ!!」
ネイワの言葉は、根拠も何もないただの感情論でしかない。
それでも、純粋に隊長のことを信じる彼の言葉は、下がりかけていた隊の士気を取り戻すのには充分で。
「ネイワ……」
そして、その言葉に誰よりも元気を与えられたのは、エルダだった。
彼の言葉は、実際にも的を射ていた。
エルダは彼独自の伝で、魔力を反射する作用を持つ「魔硝石」と呼ばれる鉱石を用いた特殊な鎧をある鍛冶師より手に入れていたのだが、そこには条件があった。
それは、「この鎧の特殊性を公表しないこと」。
曰く、その鎧はまだ試供品の段階であるらしく、製品になる前に情報が流出し他の鍛冶師に存在を知られることを恐れたのだそうだ。
その為にエルダは、鎧の特殊性を部下の誰にも語ることはできず……それでも、魔界潜入の任務の危険を少しでも減らせるならばと考え、独断でその鎧の導入を決定した。
その結果として彼等は追い詰められた。
それでも尚、自分に対する信頼を失わないネイワに背中を押されるように、エルダは剣を構え直す。
その構えには、寸分の隙も存在してはいなかった。
「……なるほど。もう、貴様等にこの手は通用しない……か。おい、お前達!!そろそろ動け!!」
「「「はーい♪」」」
そこで初めて、ハクナが部下へと向けて指示をする。
すると、待機していた彼女の部下達は歓声をあげて、エルダの部下へと一直線に走り出した。
エルダは部下を狙う魔物達には目もくれず、ハクナと睨み合う。
「どうした?可愛い部下のピンチに駆けつけなくてもいいのか?」
「貴方を放っておくわけには……いかないでしょう」
会話をしつつも、エルダはハクナに対する警戒を緩めない。
ハクナが達者なのは口先だけではないことを、佇まいや雰囲気からエルダは察している。
「……そうか。では……参る!!」
掛け声と同時にハクナはエルダとの距離を一気に詰めて、素早く突きを繰り出す。
剣でいなしてエルダはその一撃を回避するが、それを読んでいたのか瞬時に体勢を整えたハクナから、休む間もなく猛攻は続く。
その勢いに押されたエルダは、思うように攻められない。
流れを持っていかれ、防戦一方となっていた。
(妙、ですね……)
その分、心に余裕があったのだろうか。エルダは、ハクナの動きに引っかかりを感じていた。
(相手は魔物だというのに……先に比べて、明らかに一撃が軽すぎます……)
防ぎ続けることが出来るのが、いい証拠だった。
力押しの攻撃をしようとすれば、避けられた時に隙ができる、というのはわかる。
それでも、腕力においてはあちらの方が上なのだ。
そのアドバンテージを用いないのは、少なくともエルダならばあり得ない。
(まるで、一撃でも当てることさえできれば満足かのような……っ!!)
そこまで考えた瞬間、エルダはハクナの刀身を弾いて即座に後ろへと下がった。
(刃に、毒か何かが仕込まれている……そう見た方が、いいでしょう……)
それも、麻痺毒か、致死性の高い猛毒か、とにかく触れてしまえば勝負が決するようなもの。
その読みは、当たらずとも遠からずと言えた。
ハクナの持つその刃は『魔界銀』と呼ばれる、魔界で採れる特殊な鉱石から出来ている。
この銀でできた武器は、相手の肉体を一切傷つけず、代わりに魔力を傷つけることで相手を魔物へと変化させるという特性を持つようになる。
それは人間からすれば、人間としての生を一撃で葬り去られるというのには変わりない。
(純粋な力勝負では劣る、鎧の防御力は未知数、おまけに一撃でも当たれば終わり……ならば!!)
突進して刃を振るうハクナの攻撃を、先程と変わらずに防ぐエルダ。
しかし、一撃たりとも喰らってしまう訳にはいかないという圧力があるからか、エルダは先程以上に攻めようという姿勢に転じることができない。
攻撃を受け止め、後退する。僅かでも気を抜けない応酬が、幾度となく続く。
それが終わったのは、後退しようとしたエルダの体が壁にぶつかった時だった。
「なっ……!?」
壁があったことに焦りの表情を浮かべたエルダは一瞬だけ視線を背後へと向けてしまう。
背後の確認を怠ったエルダのミスから生じた、一瞬の隙。
ハクナは、それを逃さなかった。
「終わりだ!!」
エルダの頭上から、銀の刃が振り下ろされた。
……それが、エルダの最後の賭けであるともしらず。
「そこぉぉっ!!」
右手のみで繰り出された突きは、ハクナの首元めがけ一直線に伸びた。
魔界銀製の刃が、エルダの左肩の鎧を砕く。
それと同時に、エルダの剣はハクナの首元に巻かれたチョーカーを真っ直ぐに貫いた。
音もなく、ハクナの首から上が、するりと胴体から離れていく……
「甘い!!」
それと同時に、首を失った筈のハクナの胴体が、エルダの首元へと刃を振るう。
「……っ!!」
間一髪のところで、咄嗟にかがんでエルダはそれを回避する。
しかし、首を無くしたハクナの胴体はもう一度剣を振り上げ、まるで首があってもなくても変わらないかのように振り下ろした。
その剣を、エルダは自らの剣をもって受け止める。
「……まさか、全く動揺せんとはな」
「……人の首は、そう簡単に落ちませんよ」
地面に落ちているハクナの首が、まるで生きているかのように流暢に話しかける。
だが、ハクナの言うとおりにエルダの表情には、驚愕や動揺は一切見られなかった。
それは、エルダが『デュラハン』と言う種族を知っていたからに他ならない。
魔界の騎士団を率いるその魔物は、首と胴体が離れた状態でも平気で活動し、その鍛え抜かれた剣技を持って人間に襲いかかるのだ。
「ほう……しかし、私が何だかわかるのが、少し遅かったようだな……!!」
「ぐっ……!!」
だが、エルダがいくら種族を見抜いた所で、相対しているのは魔物。
人間と魔物が、純粋な力勝負である鍔迫り合いになれば、どちらが勝利するのかは語るまでもない。
エルダの持つ刃は僅かに震え、彼の限界をこれ以上なくはっきりと表していた。
「大方、私を一撃で葬る為に首を狙ったのだろうが、残念だったな。貴様はよくやった、と言っておこう。だが……ここまでだ……!!」
ハクナの手に、より強い力が込められる。
少しずつ彼の剣が押され始めたその時、エルダが口を開く。
「……笑わせますね」
「……?」
「貴方はここまで、ですか……それは……」
「――――――こっちの台詞だぁっ!!」
「がっ……!?」
次の瞬間、勢いよく横から突進してきたネイワによって、ハクナの胴体は吹き飛ばされる。
地面へと倒れ込んだその身体へとネイワはすぐに乗りかかり、最後の抵抗と言わんばかりに暴れるそれを難なく組み伏せてしまった。
「くっ……貴様、私の部下はどうした……!!」
「多分、死んでねぇよ。戦闘中に余所見なんかしてたから、思いっきりぶん殴って寝かせといた。お前、隊長なのに部下にその程度の教育もしてなかったのか?」
「あのうつけ共……!!くそっ、私がこのような形で負けるとは……!!」
悔しそうに足元で呻くハクナの首を、エルダはひょいと拾い上げると、自らの顔へと近づける。
「さて……ハクナ、と名乗っていましたか。貴方に、いくらか質問をします。それに大人しく答えなさい」
「ふん。部下が運良く駆けつけてこなければ私に敗北していたような輩が、何を偉そうに……」
胴体は自由を奪われ、首だけとなったハクナであるが、その態度にはまだ余裕が残っている。
あくまで一対一の勝負で負けてはいないことが、正々堂々たる性格のデュラハンである彼女を気丈に振る舞わせていた。
「……貴方は、まだ気づいていないのですね」
「……何?」
「運が良かった、と言いましたが……では、貴方が部下の接近に気づかなかったことも運だとおっしゃるのですか?」
「……ぐっ」
痛い所を突かれて、ハクナは閉口する。
完全に不意打ちだったとはいえあの程度の一撃を避けることができなかった、というのもまた事実なのだ。
しかし、あの時は首が落下していたせいで、周囲に気を配ることができなかったからで……
その時、苦々しい表情をするハクナの脳裏に、ふとした疑問がよぎる。
……では、目の前の男がもし首を落としていなかったら、どうなっていた?
「まさか……貴様……!!」
「お察しの通りです。私が貴方の首を狙ったのは、貴方を仕留める為ではありません……貴方の首を、落とす為でした。でなければ、わざわざチョーカーは狙いません」
意味ありげに巻かれた首もとのチョーカーと、それ以外に人間と殆ど遜色がない容姿。
それらの特徴から、ハクナがデュラハンであることをエルダは対峙したその時に既に見抜いていた。
「馬鹿な……!!来るかどうかもわからぬ部下の為に自ら窮地に陥ったというのか!?」
それでも、策というにはそれは余りにも無謀。
そんな手段を取ったエルダが、ハクナには理解できない。
エルダは、彼女のそんな態度に溜息を一つついて、静かに告げた。
「窮地で部下を信じてこその……隊長でしょう」
「……なるほどな」
その言葉に、ハクナはようやくエルダの真の狙いを納得した。
自分よりも部下の侮辱に激昂し、剣を振るったエルダ。
よほど、部下を信頼していないと思われる事が心外だったのだろう。
「どうやら、無能と言うのは撤回せねばなるまい。特に貴様は……私よりもよほど、立派な隊長だ」
「……恐縮です」
魔物に褒められながらも、それを受け入れる教会騎士団隊長。
傍から見れば、それは奇妙な光景であった。
「……侮辱の詫びもせねばなるまい。貴様は、部下の居場所を探しているのだったな。それならば……あそこだ」
くいっ、と首だけのハクナが示したのは、この国を象徴すると言ってもいい、巨大な城。
「今回、貴様等の捕縛を担当した我ら第十三部隊は、今はあの城の周囲に住まわせていただいている。もし、貴様の部下がいるとするならば、そこしかあるまい。だが……私の部下が大人しく返すとでも思うのか?」
自らの優位を示すように、ハクナは不敵に笑う。
だが、エルダはハクナの嫌味にも取り合おうとはしなかった。
「……そうですか。情報の提供、感謝いたします」
「隊長。こいつ、どうしますか?」
「そうですね……もう用はありませんし、気絶させてしまった方が……」
「ま、待て!!詫び代わりにもう一つ、重要な情報がある!!」
首を鷲掴みの形に持ち替えたエルダが壁に叩きつけようとすると、ハクナは急に慌て出した。
「……一応、聞きましょう」
有益な情報を教えてもらえたこともあり、とりあえず、エルダは思いとどまる。
その判断を即座に後悔する事になったのだが。
「私はまだ、夫を持たないフリーの魔物……だから、もし犯したいというのであれば存分に構わんぞ!!」
……こんな状況で何言ってんだ、こいつ。
エルダとネイワの心が、一つになった。
彼等はデュラハンという魔物を知ってはいても、首を外したデュラハンが発情してしまう性質までは知らないので、当然と言えば当然の反応であるのだが。
緊迫した空気が一気に弛緩したことにも気づかずに、ハクナの語りは熱くなる。
「だが……最初はせめて、私の体を押さえているあの男からにしてくれんか!?私にも好みというものはあるのだ!!貴様のような女と見間違うような男よりはまだ、あちらの男の方が私は……」
「ふんっ!!」
「んごっ!?きゅう……」
情け容赦なくハクナの首が壁目がけて叩きつけられる。
ネイワが押さえ続けていた胴体から、くたりと力が抜けていった。
「おっと。うっかり手を滑らせてしまいましたか……」
目を回して気絶したその首を、ひょいっと放って捨てるエルダ。
エルダにとっての禁句、「女みたいな顔」を発してしまったハクナに、敵とはいえ心の中で合掌してしまうネイワであった。
「余計な時間を取らされてしまいましたね。さて、行きますよネイワ」
「は、はい……ですが、その前に一つ、よろしいでしょうか……?」
ネイワがおずおずとした様子で切り出すと、エルダは「……えぇ」とだけ返事をする。
「隊長は……俺以外がやってこない理由を、尋ねないのですか……?」
「……聞くまでも、ないでしょう」
ネイワの質問に短く答えて、エルダは先程まで部下達が交戦していた路地を見やる。
そこには、ネイワが倒したと思われる魔物、サキュバスが一人、気を失って寝かされている。
だが、それ以外の姿は、人も魔物も見当たらなかった。
「申し訳、ございません……!!俺が不甲斐ないばっかりに、仲間は……みんなは……!!」
震えるネイワの謝罪は、最後まで言うことすらも出来なかった。
同期に比べても戦闘力の劣る彼だけが残ったのは、ただ単に彼の運がよかっただけだった。
彼が戦った魔物娘が余所見をしていたのは、仲間が連れ去られた際のこと。
彼女は、先に自分の伴侶となるものを見つけた魔物が自慢げに去っていく姿に気を取られたのだ。
そうしなければ負けていたとはいえ、ネイワは先に倒された仲間のことを利用したにすぎなかった。
「……それ以上は、もう結構です」
彼の肩に手を置いて、エルダはそっと彼を諫める。
それは、悲しみから目を背けようとする行為ではなかった。
「我々には立ち止まっている暇など、ないでしょう。彼等を捕まえた場所は判明したのです。……仲間を、取り返しますよ」
エルダは未だ、捕らわれた部下のことを諦めてはいなかった。
見捨てない、という誓い。例え、この場に二人しか残っていなくとも、ネイワと交わしたその誓いだけは絶対に破りたくはなかった。
「隊長……いくらなんでも無理ですよ……俺達、たった二人しかいないじゃないですか……」
しかし、たった一人だけ残った部下は、首を横に振る。
目の前で何人もの仲間が連れ去られたネイワにはもう、再び立ち上がる気力が残されてはいなかった。
「ネイワ、挫けてはいけません。彼等は連れ去られただけで、死んだ訳ではないでしょう。まだ、希望を捨てるには早すぎます……」
「……はい。ですから隊長、お願いがあります……」
そして、ネイワははっきりと告げる。
「隊長は……この国から、逃げてください。俺が囮になります」
「……なっ!?何を言い出すのですか!!そんな馬鹿なこと……!!」
「原理はわかりませんが、俺達はこの鎧のせいで魔物共に動きを察知されてるんですよね?でしたら……これを脱いでしまえば、あいつらは隊長を追えなくなるのではないですか?」
「そういうことを言っているのではありません!!貴方を見捨てて私一人逃げ延びるなど……!!」
そんなことは、考えつきもしなかったのだろう。エルダは弱気になってしまったネイワを叱咤しようとするが、ネイワはそれを遮って怒鳴った。
「じゃあ、隊長は今から全員で無事に帰れると本気で思ってるんですか!?」
「……っ!!」
「俺達はたった二人なんですよ!?わざわざ敵の本拠地に向かって、何十人もの部下を魔物に見つからず全くの無傷で救出できると!?それがどれだけ無謀かってことぐらい……隊長なら、わかるでしょう!?」
絶望的な、戦力の差。
部下の殆どを連れて行かれて頭に血が上っていたエルダは、そのことを考えようともしていなかった。
最も、考えたところで、エルダは部下の為とあれば乗り込もうとするのかもしれない。
それでも、ネイワにはそれが、冷静さを欠いた隊長の自棄を起こした行為にしか思えなかった。
「ですから、ここは一旦退くべきです。俺達は、『レスカティエの地理は殆ど変化していない』という有用な情報を持っています。まずは教会にこの事実を伝え、増援を派遣してもらう方が確実でしょう……!!」
「それならば、貴方が残る必要はありません……私が……!!」
「何言ってんですか。隊長ならともかく、俺みたいな下っ端じゃ上は耳を貸してくれませんよ……これぐらい、聡明な隊長ならわかってますよね?」
なおも食い下がるエルダに、ネイワは自嘲気味に言う。
「……っ」
エルダに、返す言葉はなかった。
普段どんなに取り繕おうとも、自分達の部隊が教団内において疎まれていることは、まぎれもない現実でしかない。
そして、その部隊の更に末端であるネイワと、曲がりなりにも部隊長を務めるエルダ。
……エルダも、とっくに気がついていた。
ネイワのやり方が、この場における最善であるということを。
それでも、それは部下を見捨てて逃げる、という決断を下すことに他ならない。
首を縦に振ることなど、できるわけがなかった。
未だに決断できずにいるエルダに、ネイワは語りかける。
「……そんな顔しないでくださいよ。俺は、こんな形でも隊長のお役に立てるなら、最高に幸せなんですから。だから、もし隊長が間に合わなくて、俺が帰れなかったとしたら……そんときはせめて……」
ネイワは顔を覆う兜に手をかけると、一気に外す。
兜に隠れた彼の顔が、その表情が、エルダの前に晒された。
「ネイワ=サブテインっていう、あなたに尽くした最高の部下がいたことを……語り継いでくださいよ!!」
親指で、ネイワは力強く自分を指し示す。
その顔は、これから囮になるとは思えない程に、笑っていた。
「……、ません……」
きつく握りしめられていたエルダの手。
それが、ゆっくりと手甲へと伸びていく。
パチン、と手甲の留め金が外れて、地面へと落下したそれが乾いた音を立てた。
「絶対に、そんなことさせません!!例え貴方が魔の者に変わり果てようと、私は貴方を助け出します!!必ず……貴方の元へ帰ります!!ですから……どうなっても、心だけは魔に屈さないでください!!」
全ての防具が外れたエルダは、最早見た目だけでは教団の兵であることすらも判別ができない。
それでも、たった一人の部下の期待に応える為に、エルダは駆けだしていく。
部下の命運を全て背負った男は、出口を目指して路地を後にした。
その頼もしい背中を見送って、ネイワは安心そうに息を一つ吐いた。
「魔に屈するな、か……」
ネイワの背後で、がちゃりと金属を持ち上げたような音が鳴った。
エルダが放り投げた筈のデュラハンの首が、いつの間にか見当たらなくなっていることは、とっくに気づいていた。
「……最後の最後で無茶言わないでくださいよ、隊長」
レスカティエ教国からの脱出は、潜入以上に容易なものだった。
身を隠すことも忘れてひたすら走り続けていたにも関わらず、一度も魔物に遭遇することが無く脱出できたのだ。
(早く……もっと、早く!!走らなければ……!!)
レスカティエを抜けたエルダは、森の中を一人走り続ける。
疲労も気にせず、早く帰還することだけを考え、ひたすらに足を動かし続けた。
しかし、どんなに高潔な約束をしようとも、使命感に打ち震えようとも。
人間である以上は、いつか限界が訪れる。
エルダの場合も、それは唐突にやってきた。
(ようやく掴んだ貴重な情報です……!!これさえ、教会へ届ければきっと……!!)
森の中を走り続けて、しばらく経った時のこと。
追っ手が来ない事に僅かに気が緩んだのか、エルダの頭に教会のことが頭をよぎる。
(教会へ、届ければ……増援、を……?)
しかしその時、一心不乱に走っていたエルダの足から、力が抜けた。
(増援、を?私達を厄介払いでこの任務へと派遣した、あの教会が?任務を成功させたからといって、所詮厄介な腫れ物に過ぎない我らの隊の為に……増援を?)
エルダの足が、止まる。
走ることで頭の隅に追いやっていた不安が、頭の中で膨れ上がっていく。
(運良く、増援を寄越してくれたとして……それで、どうなる?それで……勝てるのか?数だけいても、勝てる相手ではない……)
こんなところで立ち止まっている暇なんてない。
一刻も早く、自分の国に向かわなければならない。
わかっていようと、思考は抑えられるものではなかった。
(いや、地理的なデータがある。勝つことは、不可能では……そうすれば、部下達も無事に帰って……無事に?この森を抜けるのには、三日以上……そこから更に、国に帰って…一週間どころでは、ない……その間に……魔物に、魅了されてしまうのでは……)
最悪の映像が、鮮明に頭の中に映し出される。
エルダが倒した魔物の傍に駆け寄り、必死で呼びかける自らと同じ鎧に身を包む兵。
そして、共に戦い抜いた記憶を忘れ、憎悪の瞳でこちらを睨み付ける男の兜の下は、最後に眩しい笑顔を見せてくれたあの顔で……
「あ……う、あぁ……ああぁぁぁぁ!!」
ネイワの顔を思い出した、その瞬間。
エルダは、膝から地面へと崩れ落ちていった。
(ごめんなさい、ネイワ……!!必ず帰ると、誓ったのに……!!)
瞳から大粒の涙をボロボロとこぼしてうずくまるエルダは、恥も外聞も気にせずに叫び続ける。
自分を信じてついてきた部下の全てを失い、教団に忠誠を誓う証の鎧ももう着ていない。
エルダは、これまでに築き上げてきたものの全てを失った。
(足がもう、動かない……!!動こうとして、くれないんです……!!)
そして今、最後に部下と交わした約束さえも、破ろうとしている。
やがて、叫び声さえも枯れ果てたが、それでも再び走り出そうとする気力はどこにも残されていなかった。
……それ故に彼は、背後から近づく存在に気づくことができなかった。
にゅるり、と『それ』は一瞬でエルダの左腕に絡みつく。
「え……なっ!!」
不愉快な感触に顔をしかめた彼が視線を向けた頃には、何もかもが遅かった。
月明かりに照らされた彼の周囲の地面から、一目では数え切れない程大量の触手が生えていた。
「ぐっ……やめろ、離せっ……!!離せぇっ!!」
それは、引きちぎっても、暴れても、何の効果もなかった。
無数の触手は彼にどんどん絡みついていく。
この森が、レスカティエの魔力により生まれた『触手の森』であることなど知らずにいた彼の、最後の抵抗は虚しく終わる。
……そして、エルダ=リカルドは触手により拘束された。
12/11/25 14:39更新 / たんがん
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