連載小説
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樹氷の群れ


登場人物

 アイオン
 主神教団の元戦士だった青年。
 旅の途中での戦いで重傷を負ってしまう。

 ガーラ
 アイオンと共に旅を続けているハイオークの魔物娘。
 剛毅な性格のようで、実は結構繊細で弱い部分もある。

 ノチェ
 アイオンの懐がお気に入りの小さな妖精。
 重傷を負ってしまったアイオンを案じている。

 カルタ
 色々あって一緒に旅をしているケット・シーの魔物娘。
 旅や戦いの中で、何もできない自分の無力さを悩んでいる。




 アイオンのサーガ 〜樹氷の群れ〜






 第一 白い風

 ……白い風が、静かに吹き抜ける。
 冷たく、刺すように肌を斬りつけていくその風の中を、進む者たちがいた。互いに庇いあうように、守りあうように、一歩一歩しっかりとその大地を踏みしめながら。

 冬、それは北の大地において最も厳しく、閉ざされた季節。

 辺り一面は白く塗りつぶされ、一つ踏みしめるたびにその跡を残す。苦難とともにある、決して祝福されぬ旅。それは一人の戦士が、魔物とともに生きると決めた道。安住の地まで、決して止めることの出来ぬ歩みであった。

 「大丈夫かい?」

 白い息が、ふわりと舞う。
 大柄な女が、横に並ぶ連れに声をかける。

 「ああ、まだ大丈夫だ すまない、ガーラ……心配をかけさせてばかりだ」
 「あたしは気にしちゃいないよ アイオン」

 アイオン、と呼ばれた男が自らの背中を庇うように手を置く。背に受けた傷は深く、本来であればとてもではないが長旅に耐えられるようなものではない。現に、その傷はじくじくと雄弁に痛みを語り、時折その口を開いてはアイオンに苦痛を強いたのである。それを、アイオンの横に立つガーラと呼ばれた女性……魔物はひどく心配していた。
 その恐るべき胆力と辛抱強さにより、アイオンは苦痛に満ちたその旅を可能にしていたが、それが自らの命の燃えさしを削るがごとく行いであることは誰の目にも明らかであった。
 「……アイオン」
 そしてそれは、傍に立つ小さな猫の魔物とアイオンの胸元に包まる小さな姫君にとっても同じ悩みであった。明らかに、彼は無理をしている。無理をしながらも、決してこの旅を止めようとしない。自分たちのために、愛する人はその命を削っている。ただ傍に、ともにあるだけで幸せなのに、愛する人は自らそれを壊そうとしてしまう、愛する者と歩もうとするがゆえに。その事実が、その矛盾が、何よりも魔物たちを苦しめていた。

 願わくば、この苦難に満ちた旅路の終着を

 だがそれは叶わないことであると、彼らは知っていた。
 この大地に息づく、北の国々は決して魔物を受け入れようとはしないだろう。教会の庇護と主神の息吹のもとに、今も多くの国は魔物を排斥し関わるものを断罪し続けている。強く、どこまでも長く続く魔物への恐れと憎しみは、北の大地の奥底に眠る決して解けぬ氷のように冷たく固く今も人の心を縛っている。
 まるで呪縛のように。

 寒さに霞む視界を、何とか開こうとアイオンは目をこする。手についた霜が、ざらつき瞼を薄く切り裂いていく。だが、そんな痛みをもってしても零れ落ちる泥のように瞼が落ちていく。あまりにも強い疲労と睡魔がアイオンを襲っていた。
 「アイオン……本当に大丈夫? 僕は心配だよ」
 そう呟き、アイオンの方をそっとうかがう。くりくりとした翠色の瞳を持つ、この小さな猫の魔物名はカルタという。故あってアイオンとガーラを襲い、そして仲間になった魔物である。ふわふわの灰色の毛皮は雪で白い斑点模様となり、時折全身をはたくようにしてカルタは雪を落としていた。そうしなければ積雪が体に引っ付き、雪だるまのようになってしまうからだ。
 「私も心配だわ、お願い 無理をしないで」
 そして、カルタに続くように胸元からも鈴のような声が響く。美しく輝く白い肌と、黒塗りの夜空のような髪を持つ妖精のノチェであった。アイオンに救われ、そのままこの旅路へと導いた、それだけにアイオンの苦しみはそのままノチェがもたらしたもの……たとえ口には出さずとも、誰もそう思っておらずともノチェはそう感じ深い責任を感じていた。
 羽が手折られ、飛ぶことができず、何の力もない無力な存在。いまもアイオンによってその身を守られていなければ、降りしきる雪を払うこともできずそのまま埋もれ散っていたであろう存在。
 「大丈夫だ」
 白く、浅い息を吐きながらアイオンは言葉をかける。大丈夫、そう答えるも浅く苦し気な呼吸を繰り返し、じりつくような高熱に苛まれているその姿はどう見ても大丈夫とは思えなかった。だが、休めるような場所も余裕もないこともまた然りであった。
 受けた傷はたびたび開き、そのたびに血を流す。癒えることのない傷は通常よりもずっと頑強なその体を削るように蝕み衰弱させていく。本来であれば、雨風をしのげる場所でずっと安静にしていなければならないような状態であった。だが、アイオンは歩み続ける。歩み続けなければ、歩み続けたい理由がった。
 本当であれば、今すぐにでも体を横にして休みたかった。重い瞼を存分に閉じ、夢うつつの中へともぐりこめればどんなにも心地よいだろうかと、たとえ寒さに凍える雪の中であっても考えずにはいられなかった。
 だが、どうしてもそれはできなかった。アイオンは恐ろしかったのだ、体を休め、瞼を閉じたその先が。

 悪夢、ただただ恐ろしい夢。

 いつからか、絶えることのない悪夢が……アイオンの心を蝕んでいた。アイオンの心に広がり始めている荒涼とした蒼い月の夢。孤独な丘の上、紅い紅い丘の上の夢。
 最初は意識するまでもない夢であった。だが、ただの夢のはずがここ最近はまるで現実のように、夢が現実の中に染み出してくるかのようにアイオンの心の中に広がってきていた。紅い丘の夢。蒼い月に照らされ、蒼い世界の中でただただ紅い場所。剣をもって、首を撥ねた戦士の夢。いつも夢は同じところで目が覚める。
 ふらつくアイオンを、抱きとめるようにガーラの手が支える。心配そうに、でも何も言わずに微笑むガーラの顔をアイオンは眺める。愛しいその顔を、毎夜、夢の中で撥ねるその首を。
 「すまない……」
 そう言って、アイオンはガーラから身を離す。
 眠ることが、休むことがアイオンは恐ろしかった。いつか、悪夢と現実が混ざり合ってしまう日が来るのではないのかと、自らの手で愛する者を、その首を撥ねてしまうのではないのかと。かつての自分を、選ぶことのなかった道のその先を、悪夢は見せていたのである。



 第二 樹氷の群れ

 ……「アイオン 林が見えるよ」
 しんしんと、静かな綿雪が降る中でガーラがアイオンに声をかける。その声を受け、力なさげに頭を上げ目の前に広がる雪林を見据える。
 雪化粧に彩られた、まるでつららが逆立つかのような樹氷の群れが先に見えた。凍てついた林は静かに佇み、立ち入ろうとするアイオンたちを迎えていた。このような旅のさなかでなければ、凍り付いた木々に粉雪が風で舞い散り、きらきらと太陽の光を浴びて輝くさまはさぞかし幻想的に映ったに違いないだろう。
 だが、今のアイオンたちにはそのような風情を楽しむ余裕はなく、むしろ見通しが悪くなる分、危険が増すと考えていた。事実、森の正面は樹氷もまばらでありある程度見渡すことは可能そうであった。しかし、奥の方は白い壁のように樹氷が密集しており、先の方は全くと言っていいほど見えそうになかった。
 だがしかし、進まねばならない。ノチェが指し示す方向、目的の地にたどり着くための道はこの雪林の先に延びているのだから。
 「……僕、嫌だな ねえ……アイオン」
 不安げに、何かに警戒するようにカルタがひげと耳をはためかせながら怯えた声を出す。しんと静まり返った、不気味なまでの静寂を前にアイオンもまた不穏な空気を感じ取っていた。
 だが、道はなかった。迂回をするだけの体力も物資どころか、まっすぐ進んでさえも無事に切り抜けられるかわからない程度の蓄えしかない。それにこの雪林がどこまで伸びているかすらもわからなかった。
 「行こう」
 そう言って、一歩を踏み出す。誰一人として、踏みしめた者のいない初雪の中に一歩一歩と歩みを進める。そんな一行を、ひゅうと撫でるように風が吹く。その風にあおられ、樹氷の上から粉雪が降りかかっていく。白く輝く、凍り付いた風。粉雪を混ぜたその風は、ひどく冷たく感じられた。

 ……果たして、その中はまさに白銀の世界であった。
 凍てついた木々は白雪と銀氷に彩られ、触れずとも近づけば冷気をもってここが決して命あるものにとっているべき場所ではないことを、黙して雄弁に告げていた。
 ちらちらと舞い散る雪に混じって、樹氷の上からも細かく砕けた氷の欠片がさらさらと風に乗って落ち、進む者の衣服や肌に食いこんでいく。冷たく凍った氷柱の森、そうとしか言えない場所であった。
 (……どうしようか あまりにもまずいね……)
 アイオンの横で、ガーラは苦悩する。当初、森が見えた時は僅かながら希望を見出していた。冬とはいえ、森には少なからずの動植物がおり、運が良ければ獲物となる動物……キツネや鹿に野兎、この際食べられる獣であればなんでもよかったが、それらが見つかる可能性があり、また旅をしているガーラたちとは違い森に棲んでいる魔物たちに少しばかりの援助や協力を取り付けられる可能性もあった。だが、この森に入ってしばらく、ガーラはそうした望みはないと早くも悟りつつあった
 あまりにも静かで、異質であると、本能的に察したのである。まるで命の気配がしない、白い森。獣はおろか、魔物すらもいなさそうなほどの静寂……というよりも忌避ともいえるような感覚。じくじくと肌に突き刺さり、芯まで冷えていくかのような冷気。誰もが持つ、根源的な恐怖……それが染み出してくるかのような、そんな場所であった。
 道を、歩むべき道を間違えた、そうガーラは確信していた。たとえどのような苦難が待ち受けていたとしてもこの森に入るべきではなかった、立ち入る前にアイオンを説得し道を変えさせるべきだったのだ。だが、もう遅い。
 そしてそれは、ガーラのみならずカルタやノチェも理解していた。この森は生者がいていいような、生者がいるべき場所ではないのだと。だが、引き返すには遅すぎた。今できることはただ一つ、何事も起きないうちに早くこの森を出ることだけである。
 だが、そうは思ってもアイオンの容態だけは無視できなかった。本来であれば長い休息が必要な状態であるのを無理に押して進んでいるのだ。だからこそ、ガーラはこの森で一時でも休息できれば、乾燥した糧食ではなくきちんとした油の滴る肉でも食べさせられれば、そう思っていた。それがかなわないと知ってもなお、ここが危険かもしれないと思ってもなお無視できないほどアイオンは困憊していたのである。
 足取りはしっかりしているし、傍目ではそれほど疲れているようには見えなかったが、ガーラやカルタは『におい』で感じ取っていた。疲れ切り、途切れかすれる呼吸、にじむ汗に混じる苦悶、傷口から漂う腐った血、それらはすべて『死』を連想させるものであった。
 死臭、何よりも悍ましいかおりが愛する者から漂ってしまっている。その事実が何よりも恐ろしかった。どうにかして、少しでも休息を、せめてそれだけでも。
 「少し、休まないかい」
 ガーラは意を決すると、そっとアイオンの肩に手をかけ提案をする。
 「……しかし」
 「僕もちょっと疲れちゃった、アイオン 休もうよ」
 そう言ってカルタはねだるようにアイオンの方を見る。その様子に、アイオンは少し渋るもののつかの間の休息を得るべく辺りを見回す。
 「あまり、いい場所はないようだね」
 「あの……木の周りがいいかもしれないな、ほかの木よりも大きいからか 雪もそこまで積もっていない」
 そう言ってアイオンは木の方向を指さす。ガーラとカルタが目をやると、確かにひときわ大きな木が林の中に伸びており、他よりも枝が多く茂っているためか雪もそこまで積もっている様子はなかった。これならば少し周りの雪を払えば座って休むぐらいのことはできそうであった。
 ガーラはさっそく木の周りに駆け寄ると、背負った大斧を手に持ち地面をえぐるように払う。ほんの一薙ぎで雪の大部分が削り取られ、数人程度であれば十分座れるだけの土が見えるのであった。ちょっぴりではあったが、ふかふかした枯葉や枯れ枝もあり、冷たい地面に座るよりかはまだ居心地がよさそうであった。
 「ほら、アイオン」
 「……すまないな」
 ガーラが手を取り、アイオンを座らせる。
どさりと腰を下ろすアイオンだったが、背中の傷が痛むのか小さくうめき声をあげる。そんなアイオンの背中を労わるようにガーラはそっと手のひらを背に置くとアイオンが冷えないように抱き締め、自分が羽織っているローブでくるむ。ふわりとした温もりと薫りが、アイオンを包み込み、一瞬ではあるが極寒にいることを忘れさせた。
 ふぅっと息を吐くアイオンをガーラは心配するように見つめる。その体は凍え冷え切っているはずなのに額にはじっとりとした汗が滲み、目の下には深い隈が刻まれ極度の疲労状態にあることがうかがえた。
 「ほら、お水 アイオン……飲んで」
 そう言ってカルタが自身の水筒を差し出す。アイオンは何かを言おうと口を開くも、カルタの真剣なまなざしを前に舌を動かすことを止め。促されるままにそっと水筒に口をつける。冷え切った水が、ゆっくりと喉に流れ込む。
 「……んっ」
 アイオンはそっとカルタの頬を撫でる。ふわふわと柔らかく、温かな毛皮。撫でられたのがうれしいのか、カルタは小さく喉を鳴らすと手のひらに押し付けるようにしてすりすりと顔を振る。
 喉の渇きをいやすのならば雪でも齧っていればよかったのに、貴重な水を惜しげもなく差し出したカルタへの、アイオンからのせめてもの感謝の気持ちであった。
 「ほら、少しお眠りよ」
 水を飲み、少し落ち着いたところで、ガーラは声をかけ、返事を待たずに自らの胸元にアイオンを抱き寄せると、そっと瞼の上に手のひらを置く。じんわりとした温かさが目元に広がると、急速に睡魔がアイオンの意識の中に広がっていく。
 「ガーラ……」
 「……アイオン、寝てないんだろ? あたしにはわかるよ 無理はしないでって、お願いしたじゃないか」
 「ガー……ラ……」
 泥沼に沈み込んでいくがごとく、意識が混濁としていく。うわごとのように愛する者の名を呟いた後、アイオンはすっかり眠りに落ち寝息を立て始める。
 きちんと眠りに落ちたことを確認すると、ガーラはほっと一息つくように小さく息を吐く。
 さらさらと、粉雪が風にあおられて落ちる。静寂に満ちる雪林の中で、ガーラの瞳は子を守る母猪のように鋭く周囲を見回していた。

 どうも嫌な気配がする。

 それはカルタも気が付いていた。何かに見られている、気配があるようでない、そう何か透明な何か、雪の結晶のように冷たく透明な何かが自分たちを見ている。
 うつつに非ざるものを見るという、猫の魔物であるカルタはずっと前から感じ取っていたが、ガーラも感じ取ったことでいよいよそれを確信する。
 「……ねえ、ガーラ」
 ぽそりと、カルタが呟く。
 「わかっているよ ……何があっても、守り抜くよ 絶対に……!」
 たとえ何が来ようとも、守り切ると、雌猪は誓う。それに呼応するように、小さな猫の魔物と妖精の姫君も頷くのであった。

 さらりと、粉雪が枝から零れ落ちていった。



 第三 囁き

 ……蒼い月が、アイオンを照らす
 いつの間にか一人になった戦士を、蒼い月が冷たく見守っていた
 底冷えするような孤独に苛まれるも、まるで慣れてしまったかのように心は凍てつき、いったいなぜ孤独を感じるのかさえわからなくなってしまった

 蒼い輝きは周囲の樹氷さえも蒼く染め、蠱惑的で病的な美しさを燃え上がらせている

 誰か、いた
 でも誰が?

 思い出せない、いつもそうだ
 蒼い月夜の中で孤独を感じる、でもその故を思い出せない
 背中の傷が、ひどく痛む
 ずきずきと、にじむように、広がっていく痛みに戦士は呻く

 蠱惑的で病的な、絶望的なまでに美しい世界でただ一人、孤独に呻く

 呻き、苦しみ、背中に手を伸ばす
 痛みを訴える背中を抑えようと、伸ばした手の指先にこつりと、固いものが当たる
 剣であった

 己が何者か、それを確かにするためのもの
 孤独な戦士にとって、それは代えがたいもの

 前を見る、蒼く燃え立つ樹氷の森の奥を

 ……行かなくては

 もう十分休んだ、そう戦士は呟くと痛む背中を庇いながら立ち上がる
 行かなくては、今一度そう呟き歩き始める

 ……己の道を、なすために

 道の先で誰かが呼ぶ、その声を思い出す
 ずっと、そうであった
 誰かが、アイオンを呼んでいる、戦士を、呼んでいる

 …… ……

 アイオンが歩みを始めようとしたその時であった、小さな違和感が、耳に響く
 とても幽かな、囁き
 月光にすらかき消されそうなほどの、小さな声
 誰かが、囁いている

 ふわりと、後ろから何かが薫る

 こもるような、幽かな香り

 何者かが、背後に立っている
 そう確信し振り向いたアイオンの目の前に、いつの間にか少女が立っていた

 誰だ

 そう問おうとしたその時、少女の胸元が咲き乱れ、紅い花が飛び散る

 紅い、花が咲く

 ぽたりと、アイオンの頬に花びらが張り付く
 胸が張り裂けた少女は、虚ろな瞳のままその手を伸ばし

 そっと、アイオンに触れた









 ……息を詰まらせるようにむせると、アイオンは目を覚ます。突然目覚めたアイオンに驚くように、ガーラは声を上げる。
 「っ! い、いったいどうしたんだい?」
 暖かく、柔らかい柔肉と、ガーラの心落ち着く薫りがアイオンを包んでいる。どれほど眠っていたのかはわからないが、それほど時間は経っていないようであった。日はまだ高く、少しだけ晴れ間が見えているのか眠りに落ちるよりかはずっと明るく感じられた。
 アイオンは前を見渡しながら、軽く息を整える。
 (……やはり見たか)
 悪夢を見た、それは間違いなかった。じっとりとした気持ちの悪い汗を感じ、それが背中の傷に張り付いて言いようのない心地の悪さと鈍痛をアイオンに与えていた。
 「大丈夫?」
 恐れ慄くように動くアイオンの目を見て、不安を感じたのかガーラは気遣うように声をかける。心安らぐ温もりと声音に、アイオンは息を吐き出し人心地をつく。相変わらず背中の傷は痛んだが、僅かながらでも睡眠をとった影響か幾分か気持ちは楽になっていた。
 「あ、起きた?」
 どこに行っていたのか、カルタがひょっこりと顔を出す。その頭にはノチェを乗っけており、ふわふわの毛皮とフードの間に挟まれてご機嫌そうであった。
 「何か見つかった?」
 「ううん……なにも 何もないや……不気味だよ」
 「それに、あまりにも……静かだわ 空気も冷たすぎるぐらい」
 ガーラの問いかけに、二人が答える。どうやらアイオンが眠っている間に周囲を散策してきてくれたようであるが、成果の方はあまり芳しくないようであった。何か、凍り付いたものでも良いから食べられそうなもの、もしくは獲物になりそうな獣でもいればと一縷の望みをかけていたガーラたちにとってはあまりにも喜ばしくない結果であった。
 「そんな……」
 思わずガーラの口から失意が零れる。だが、なんとなくわかってもいた。この森は奇妙なまでに無機質であった。いずれ春になれば命を新たに芽吹くはずの木々ですら、まるで命の匂いとでもいうべき気配がないのである。その事実にますます危機感を募らせるも、ガーラは努めて冷静にアイオンへと向き直る。
 「何か食べ物を、と思ったのだけど 悪いね、何も用意できなさそうだ」
 「気にするな 俺は大丈夫だ……もう少し休んだら出発しよう」
 アイオンは身を起こすと、背中の傷を気にしながら木に寄り掛かる。意識がはっきりすればするほど、鈍い痛みの奥に耐え難い、痺れるような苦痛が広がっていくのを感じていたがぐっと耐えるように無理やり笑顔を作ると、カルタとノチェを手招く。
 「おいでカルタ、ノチェ 一緒に休もう」
 その誘いに、パッと顔を綻ばせカルタはアイオンの胸元に飛び込むようにぽすんと飛び込む。勢いの強さにガーラはムッとするも、見た目ほどの衝撃はなく、むしろびっくりするほどに軽かった。
 怪訝な顔をするガーラを横目に、カルタは得意げな表情でアイオンの胸元に頬ずりするとすっぽりとそこに収まるのであった。ほんのりとした温もりが、アイオンの懐に広がっていく。しばらくの間、カルタを撫でながら座り込むのであった。



 ……しばらく、アイオンたちは再び立ち上がると旅を再開する。
 代り映えのしない、ただひたすらに続く樹氷の森を進み続けるうちにアイオンは奇妙な感覚に襲われ始める。
 何かが囁いているような音が耳に響くのである。それと同じく、まるで何かに見られているような、いいがたい気配、不快感ともいえるようなものがアイオンにはあった。だが、周囲を見渡してみても何もいなければ、誰かがいたような気配はない。
 「……アイオンも、感じる?」
 そんな折、カルタが小さく呟くように問いかける。アイオンは驚くも、魔物の感覚は人間よりずっと鋭敏であるし、そもそもが人とは違う領域の存在であることに得心し頷く。
 その様子に、カルタ、ガーラはやっぱりといった様子で目くばせする。どうやら、アイオンよりもずっと前からカルタ、ガーラの両名はこの奇妙な気配を感じ取っていたようであった。
 “それ”の気配は様子を窺うように一定の間隔で周囲に漂っていた。さくさくと雪を踏みしめる音だけが響く森の中だからこそ、より大きく感じる不可思議な気配。空気そのものが意思をもって動いているかのような、奇妙な蠢き。それは日が傾くと同時に、より活発に、はっきりとわかるようになっていった。
 夕刻に差し掛かる頃にはいよいよ隠れる気がなくなったとでもいうように、“それ”はアイオンたちの傍により、まるで渦をなしているかのようにぐるぐると回遊していた。
 一向に抜ける気配のない森の中で、いよいよ一晩過ごさねばならないという状況に差し掛かり、アイオンとガーラは危機感を募らせていた。周囲を漂う何かの目的が分からず、日暮れに近づくにつれどんどんと大胆になってきていることが否応なく恐怖を煽る。だが、その何かは決して姿を現さず、そして離れることもなかった。
 誰も、何も言わなかった、それが余計にこの事態の深刻さを物語っていた。

 「……火を熾そう、ここで野営をする」
 いよいよ日が傾き、闇が零れ出てきた刻限にアイオンは決断する。昼間、休んだ木と同じくらいの木の下で何とか一晩明かそうと考えたのである。もちろん、全員が眠るわけにはいかない、野営といっても夜が明けるまでの間の一時休止であり心と体を休めるためのものではなく、警戒のために交代で休めるようにするだけに過ぎないものであった。
 「燃料と薪を使おう ……拾ってくる時間もないしな」
 「わかった ちょっとまってな」
 できることならば貴重な燃料と携帯していた薪を使わずに火を熾したかったが、日が暮れるまでに乾いた薪を探し出して火を熾せる保証はなかった。ガーラは荷物から薪と燃料を取り出すと、雪を払った土の上に薪を組んで火をつける。
 燃料のおかげか、小さいながらもすぐに火が付き辺りを薄く照らし始める。だが、持ち運んでいる薪はそこまで多くはなかったため、火が付くとすぐにガーラは薪を探しに行くのであった。
 「薪を探してくるよ、そんなには遠くに行かないけど何かあったらすぐに呼んでくれよな」
 「わかった、すまないな」
 「いいって、アイオン ……傷は大丈夫かい?」
 「……大丈夫だ ありがとう」
 「……本当に? 僕、心配だよ」
 そう言ってカルタは鼻をひくひくと動かす。だが、アイオンは気弱なところは見せまいと、笑う。だが、内心は分かっていた、元々鼻の良いガーラとカルタのことである、傷の容態が良くないということには気が付いているであろうと。背中に受けた傷は旅の中で確実に悪化していっていた。もはや隠し切れないほどにその傷は膿み、不快な悪臭を漂わせ始めている。その毒が徐々に血の中に流れ込み、アイオンを蝕んでいっていた。だが、どうしようもなかった。
 生来、生命力が強い獣の魔物であるガーラはすべての傷を己の治癒力だけで癒してきたことに加え、大きな怪我もしたことがなかった。それだけに治療や医療の知識など一切なく、何の処置もできないことを強く悔やんでいたのであった。ただ、できることはなるべくアイオンを休ませ、傷を癒すための体力を養わせることだけだがそれもできずにいた。
 そしてカルタは記憶の欠落と同様に、ゴーレム術以外の魔術の殆どを習得していなかった。できるのは魔力を流し込み、傷を薄皮一枚でふさぐ程度である。それさえも大変な労力と魔力を消費してやっと、という有様であった。
 何もできない、という点ではノチェも同様であった。そもそも精霊に近い妖精であるノチェからすれば人の営み、というものは人が妖精のことを夢物語と思うのと同じようにノチェにとってもわからないことばかりであった。だが、ノチェは感じ取っていた。精霊……つまり命あるものとはまた別の次元に生きるもの、それに近いがゆえにノチェは知ってしまった、わかってしまった。
……アイオンの命がもう長くないことを。

 ノチェは何も言わず、ただアイオンに身を任せている。だが、カルタは知っていた。ノチェの悲しみを、すすり泣きを、だがそれが愛する者の死を悟ったが故だとはわからなかった。自分たちと同じく愛する者の苦痛に対し、何もできない無力を嘆いているのだろうと、そう思っていた。そう思いたかった。



 第四 手招く

 ……寒い、まるで雪に抱かれているかのような……

 アイオンは蒼い夜空に向かって息を吐く、冷え切った体がいつの間にか雪原の中に倒れていた。背中の傷が酷く痛むが、雪の冷たさが心地よかった。熱を持ち、焼けただれたような傷が少しだけその熱を治めてくれているかのようであった。

 ……死ぬのか……

 どうしてか、そうアイオンは思った。なぜこうなったかは思い出せなかったが、手にした剣から戦場で傷でも受けたのであろうと思いなおす。

 ……まだ、体は動くか……

 背中はひどく痛み、全身から力が抜けていく。だが、まだ動いた。
 アイオンは苦痛に呻きながらもゆっくりとその身を起こす。このまま倒れ伏していてもよかったが、なぜか諦めたくなかった。
 誰か、誰かが待っていてくれているような、生きねばと思うだけの理由が、何かあった。でもそれが何だったかが思い出せなかった。
 起き上がり、辺りを見回す。

 紅い丘が、広がっていた。

 数えきれないほどの、屍が戦場に散らばっている。多くの戦士が、魔物が、武具を身にまとい死に果てている。それはかつて見た歴史物語の最も悲惨な場面よりもずっと、凄絶なものであった。それが、まるですべて凍てついたかのように、蒼い月夜の下に広がっている。蒼く照らされてもなお、血は紅に輝き雪を濡らしている。
アイオンは傍に転がっていた死体を見る。それはオークの亡骸だった。醜い豚の魔物は胴を断ち切られ、臓物をぶちまけて息絶えていた。即死だったのか、その表情は戦場の高揚に歪んだままであった。

 ふと視線を上げると、魔物が一匹座り込んでいた。アイオンはとっさに剣を構えるも、すぐにその構えを解く

 魔物には、首がなかった

 戦いのさなかで撥ねられたのであろう。すぐそばに魔物の首が転がっていた。アイオンは、その首を見た。頑強な体に似つかわしい、灰髪を振り乱した魔物の顔を

 ……ハイオーク……

 ぞわりと、思い出す

 ……そうだ……俺が……

 思い出す

 ……首を……この手で……剣で……





 ちがう





 アイオンの視界が揺れる。
 はっきりと、しかし幽かな囁きが心の中に響く。

 何かが、薫る。淡い甘い花のような薫りが、血と、肉と、死によって描かれた戦場に似つかわしくない薫りが、空気に混じる。

 いつの間にか、少女が目の前に立っていた。

 白く透き通った肌と、黄金の髪を持つ美しい少女。その少女の淡い紫の瞳が、アイオンの瞳を映していた。

 ……お前は……

 誰だ、そう問おうとした時である。少女は音もなくアイオンの傍によると、そっとその手を取る。冷たい、そう思わずにはいられないほど熱のない手のひらが、アイオンの武骨な手の中に納まる。それと同時に先ほど嗅いだ、香花のような薫りがより一層濃く少女からふわりと薫るのであった。
 そのまま少女は何も言わず、ただじっとアイオンを見つめながら待つ。

 少しの間、息数度吐く程度の間であったが静かな時が流れる。風が吹いているはずなのに、とても静かな、静寂を経てアイオンは立ち上がる。何者か問わねば、そう思わずにはいられなかったが、どうしてか前から知っているような気もしていた。どこかで見た少女、蒼い光に照らされた肌は青白く透き通り、月の幻影のようでもあった。その身にまとう衣服は貧しい身であることを窺わせたが、手作りと思わしき細やかな装飾が施されており、それが少女の清貧さを表しているかのように可愛らしく見せていた。
 だが、そのようなものを抜きしても少女の造形は美しいものであることは疑いようがなかった。表情は薄く、愁いを秘めたような顔立ちでありどこか陰鬱めいたものがあったが、もしも微笑みかけようものならば大抵のものは心奪われたことであろうことは想像に難くなかった。

 ……だが、なぜ……

 なぜ、この少女は己のもとにいるのだろう。アイオンはただ自問するも、その答えを見出すことはできなかった。そもそも、ここがどこなのかさえアイオンにはわからなかった。それが不可解であった。
 なぜ、己はここにいるのだろう
 なぜ、己はこの場所に至るまでに記憶がないのだろう
 なぜ、己は何も思い出せないのだろう

 なぜ、なぜ……ただその思いだけが広がっていく。ただ、そのようにアイオンが逡巡としている間も、少女はただ静かにじっと待ち続けていた。静かに、その手を握りながら。

 やがて、考えたところで何も得るものはない、とアイオンが思い至ったのを察するかのように、そしてどこか急かすように少女はその手を引き歩き始める。
 導くように、アイオンの横で一歩前に出て、少女は歩く。紅い、紅い丘を歩く。
 辺り一面に亡骸が転がる戦場を歩くのは難儀するものと思われたが、想像とは裏腹に少女はよどみなく歩みを続け、その少女に連れられて歩くアイオンもまた亡骸に足を取られることはなかった。また、少女の手の冷たさはどこか心地よく、背中の痛みすらも忘れられそうであった。

 そのままぼんやりとした心地で蒼い月光の下を歩き続けるうちに、辺り一面に転がる亡骸の数がまばらに転じていき、少しずつではあったが白い雪原へと戻っていくようであった。

 ……どれほど歩いただろうか……

 アイオンは一人思想する。少女に手を引かれただひたすらに歩く。蒼い月光が照らす紅い丘を越えて、白い雪原へと至り、そしてまだ先へと歩んでいる。どこまでも続く蒼い地平を前にアイオンはただ茫然と少女に手を引かれている。
 不思議と疲れは感じなかった。ただ、背中の痛みだけがじくじくと、その傷口からただ流れる血潮だけがアイオンの自我を此処に繋ぎとめていた。

 蒼い世界の中に、ふたりだけ

 アイオンが、そう思いかけかけたその時であった

 ……このかおりは……

 鼻を突きさすような、ひどいにおい
 己は知っている

 ……アイツだ……

 怒りと憎しみに心が燃え立つ、臥せったはずの闘志が蘇る
 家族を、全てを奪った憎き敵
 不快な悪臭をまき散らす、醜い獣

 いつの間にか“それ”が目の前にいた



 満身創痍で、鎖につながれた獣……ハイオークが



 首ヲ刎ネヨ

 誰かが叫ぶ

 手ニハ剣ヲ

 誰かが呼ぶ

 サア ソノ手デ

 誰かが導く

 魔物ヲ殺セ



 ……誰かが、手を握りしめている……
 剣へと伸びるはずだったその手を、誰かが握っている
 冷たい、小さな手のひらが、握っている

 横を見る、小さな少女が瞳を向けていた
 背伸びをするように、戦士の瞳をのぞき込む



 ……貴方はだれ?……



 囁き、静かな問いかけ

 ……おのれは……

 目の前の、獣が叫ぶ
 不快な悪臭をまき散らしながら

 でも、どこか懐かしい

 ……おのれ? おれ?……

 ぞわりと、思考が揺れる

 獣が喚く
 鎖が鳴り響く

 ……じぶんは……おのれ、おれ……

 少女の瞳から、目を離せない
 鎖が千切れ、獣が自由になろうとしている

 ……おれは……

 鎖が砕け、獣が自由になる

 ……俺は……

 戦士は少女から目をはなし、目の前の獣を見据える
 解き放たれた獣は灰髪を振り乱し、牙をむいて戦士の前へと躍り出る
 耐え難い薫りが周囲に広がっていく

 戦士はただ黙って獣を、魔物を見る

 ただ静かに、その魔物を、命を奪う一撃を受け入れた。









 第五 戦士の死

 ……確かに、アイオンは絶命したと感じていた。
 ハイオークの、怒りに任せた一撃を耐えようともせずにその身に受け入れ、その体を砕かれたはずであった。その瞬間の痛みを、確かに感じたと思っていた。

 だが、アイオンは倒れることなく、その足で大地の上に立っていた。

 アイオンの手を握る小さな手の感触もまた、しっかりと感じていた。
 「……俺は」
 アイオン、自らの名を口の中で呟くと、横に立つ少女の方を見る。少女は変わらない様子で、じっとアイオンの方を見ていた。
 アイオンはそっと、片方の手で髪に触れる。柔らかな髪の合間に見える、尖った耳に小さな角。愁いを秘めた瞳が、小さく揺れる。
 (やはり……か)
 何者か、という問いに決着がつく。少女に対し、アイオンが言葉を紡ごうとしたその時であった。アイオンは自らの背に剣がないことに気が付く。
 そればかりではない。蒼い月光の下、再び“紅い丘”へと戻ってきていた。
 (一体何が?)
 とっさに、アイオンは周囲を見渡す。だが、先ほどと変わらない屍の群れだけがアイオンと少女を取り囲むようにして広がっていた。だが、先ほどと違った点が一つだけあった。戦場に立つものが、ほかにもう一人いたのである。

 そのものは戦士であった。

 蒼い月光を浴びて、剣を手にただ一人返り血の中に立つ。
 蒼い世界の中で、ぽっかりとあいた穴のごとく暗い影を落とし、ただ一人。

 何者だ、そう問う前にアイオンは口を閉ざす。相対したその瞬間に悟ったのである、この戦士の目的はただ一つ。

 己がこの戦場に……紅い丘の上に立つ最後の一人になることだと……

 戦士が、駈ける。
 その剣を構え、アイオンと少女めがけて一直線に向かって、その命を、首を刎ねるべく突撃する。

 「逃げろ!」

 そう叫び、少女の手を強く握ったその時であった。少女の柔らかな手の感触とは違う、固い感触にアイオンは少女のいた方を見る。

 少女の手を握っていたはずのアイオンの手には、剣が握られていた。

 (何⁉)

 困惑するアイオンであったが、目の前に迫った戦士が繰り出した刃を咄嗟にその剣で受ける。火花と同時に戦場に鉄鐘のごとき音が響き渡る。
 (重い!)
 ずしりとした衝撃とともに、背中に激痛が走り傷が開くとともに血が噴き出す。まさに、渾身の一撃であったのだろう。そのまま戦士はアイオンを突き崩すべくぎりぎりと力を込めて剣を押し当てていく。ぱきぱきと刃同士がぶつかり合い、削れる音が鳴る。
 アイオンもまた傷が開くのも厭わずにあるだけの力を込めて、戦士に対抗する。互いの力は拮抗し、暫くの間鉄と鉄が擦れあう音と荒い息だけが響く。
戦士の顔は月光を浴びてもなお暗い影を落とし、間近でもその顔を見ることは叶わなかった。だが、その陰の中であっても憎悪と憤怒のままに血走った眼だけは爛々と輝き、その悍ましいまでの殺意を隠すことはできていなかった。
 (このままでは……っ)
 やられる、そう感じたアイオンは剣を一瞬引く。引いたことで力の均衡を崩した相手に対し、素早く力を込めて押し出し突き飛ばすと剣の柄をそのまま相手の顔面目掛けて打ちつける。しかし、読まれていたのか相手はさらに遠くへと飛びのくと警戒するように剣を構えなおす。
 息を数度吐く程度の攻防であったが、アイオンは理解する。相手は相当の手練れ、それも“本物の戦士”であると、敵を、魔物、人問わず討ち取るためにその技を磨いた者。戦場のただなかで最後まで立つことを、一人でも多くの敵を葬ることを至上の目的とする殺意の塊、それが目の前にいるのだと。
 逡巡している暇などなかった、戦士は態勢を立て直すと即座に次の攻撃へと移る。剣を左右に流れるように振るいながら跳ね飛び、斬りかかりながら首めがけて鋭い突きを放つ。流れるような殺人剣技。寸前で交わしたアイオンの頬に、刃があたり切り裂かれる。相手の戦士は突きの態勢そのままに、振り上げ撥ねた刃で力任せの袈裟斬りを放つ。その一撃を、すんでのところで刃で受け、流して躱す。下手な造りの剣であれば、刃ごと叩きおられ断ち切られていたのであろう重く容赦のない一撃は大地を深々と抉り突き刺さる。だが、アイオンが構えるよりも早く抜き去ると間断なく斬撃を放ち続けていく。
 あまりにも容赦のない、技巧と力を持つ剣技を前にアイオンは圧倒される。アイオンの知るどの剣技とも違う戦士の技を前に、アイオンは反撃の糸口を掴めずにいた。流れるように繰り出される斬撃は受けても躱しても次の攻撃につながるように繰り出されており、一切の隙が無いように思われるほど素早くかつ確実に行われていた。
 だが、それでもただでやられるわけにはいくまいと、アイオンは己の持てる全ての技をもってその刃をしのぎ続ける。重い一撃は躱し、早く鋭い一撃は刃で受け流し、隙らしきものがあらば反撃を試みたが上手くはいかなかった。相手はずっと熟練であり、守りに入った若輩の一撃など全て軽くいなされてしまっていた。
 (なんという手練れだろうか!)
 アイオンは追いつめられていた。一撃を受け止めるたびに手と指が痺れ、その手から剣を落としそうになる。アイオンであったとしてもこの力と速さを維持したままこれほどの技を繰り出すのは難しいと言わざるを得なかったが、相手は疲れを見せることもなく難なく強烈な一撃を繰り出し続けている。

 幾ばくかの攻撃を防いだのち、戦士は打ち付けた刃を鋭く引き払うと後方へと飛びのく。その動きに疲れはなく、余裕が透けて見えるようであった。それに対しアイオンは肩で息をするほどに疲れ切り、吐く息は荒かった。形勢は誰の目から見ても明らかであったであろう。そもそもアイオンはすでに手負いでもあったのだ。背中は紅く染まりあがり、すっかり開ききった傷口からはじくじくと血が流れ落ちてしまっていた。この傷がある限り、いずれそう遠くないうちにアイオンは雪の中に抱かれることになることは間違いなかった。

 ……あきらめろ……

 誰かが囁く

 ……いずれ訪れる時が、少し早まるだけだ……

 視界が揺れる

 口の中に、血の味が広がる
 むせそうになる肺を押さえつけ、目の前の敵を見据える

 ……なぜ……

 戦士が問う

 ……なぜ戦う……

 戦士はせせら笑い、陰に隠れた顔で吐き捨てる

 ……戦う理由など、意味など持たぬくせに……

 押さえつけていた肺が暴れ、口から血が噴き出す
 苦い鉄の味が、ゆっくりと喉の中に流れ込む
 手から剣が、零れ落ちそうになる

 ……お前は十分苦しんだ……

 血とともに力が抜けていく
 視界がかすみ、蒼い世界が灰色に変わっていく

 ……ここで果てよ、それが定めというものだ……

 戦士が嘲るように剣を振り上げ構えると、ゆっくりとアイオンへと近づいてゆく
 最早、戦士の一撃を防ぐだけの力もなかった
 辛うじて、剣をその手に握り戦うものとしての最後の意地を保っているに過ぎない



 ……ここ、までか……



 なぜ、戦っていたのだろう

 アイオンはそう自問する

 無意識のうちに、手が心臓の上に置かれる
 仄かに宿る温もり

 ああ、そうだ

 薫る、命

 剣を

 強く握りしめた、剣が熱く感じる

 生きねば

 戦士を睨む
 思い出したのだ
 己の、生きる意味を
 ならばここで果てるわけにはいかない

 敵を睨むアイオンを前に、戦士は吐き捨てる

 ……何故?……



 嘲りも、余裕も、もはやない。
 先ほどの純粋なまでの殺意が、戦士に満ちる。
 戦士は、跳ねる。手にした剣を構え、目の前の命を刎ねるために。

 殺意に濡れた、紅い刃が躍る。

 力はなく、立つことすら難しい。
 だが、今のアイオンにはあった、純粋なまでの決意が。
 生きて戻ると、死ぬわけにはいかぬと。アイオンは構える、生きるために。

 決意に燃える、蒼い剣が舞う。

 紅い刃が、蒼い剣に打ち据えられる。蒼い円刃が紅染の刃を絡めとり、大地へと向けられる。戦士は即座に刃を引き、引き抜く刃で胴を狙うも流れ合わせるように剣が舞い捌かれると同時に蒼い剣が戦士の足を裂く。
 赤黒い血が、苦悶の叫びとともに戦士の足から噴き出す。
 蒼い舞いは、終わらない。刃を跳ね上げ、戦士の前腕を切る。後ろに飛びのく戦士に、刃が躍りかかり、その胸元を切り裂く。致命的な一撃ではなかった、だがそれでも戦士にとっては信じられない手傷であったに違いなかった。
 まるで信じられぬとでもいうように、戦士はアイオンを見据える。

 ……前へ!……

 アイオンの心の中で、獣が叫ぶ。
 雄たけびとともに、アイオンは前へと進み出るとその剣を戦士へと振るう。手負いの、死の淵に立つものとは思えぬ力で、刃を繰り出す。胸の奥にくゆる薫りとともに、戦士の血肉に熱が宿る。失われかけた、戦意が燃え上がる。
 剣と剣がぶつかる、重い音が鳴り響く。だが、先ほどとは違う。アイオンは重く素早く剣を打ち払い、戦士の守りを崩すと再度打ち込み、その首を狙う。戦士の刃によって剣は防がれるも、首元へとその剣は達し戦士を怯ませる。

 「ここで!」

 力を籠める。戦士が片膝をつく。
 決意のままに、剣を押し込んでいく。
 激痛が走り、背から血が……もはや流れ出ぬと思っていた最後の血潮とともにその命を燃やしていく。だが、アイオンは止まらなかった。
 止まるわけにはいかなかった。

 「終わりだ!」

 叫びとともに、アイオンの剣が戦士の首を捕らえる。
 後は一瞬であった。
 蒼い決意の剣は紅き殺意の刃を押し込み、そのまま戦士の首を刎ね飛ばしたのである。血とともに怨嗟の叫びが噴き出し、アイオンの視界を黒く染める。

 生死は決した。

 紅い丘の上で、アイオンは生き残ったのである。戦士の首は遠くへと転がり飛び、主を失った戦士の体は剣を手にしたままその動きを止める。片膝をついたまま、その役目を終えた体は、まるで先ほどの魔物と同じように動くことなく、蒼い光の中でその果てを晒すのであった。



 第六 冬

 ……アイオンが眠りに落ちて暫く。ガーラはほんの僅かながらも乾いた薪を見つけ出し、アイオンのもとに戻ろうとしていた。食料になりそうなものを探し、地面を何度か掘り返してみたりしたものの、成果は芳しくなかった。結局のところ、僅かばかり束ねた薪を手土産にガーラは最愛の人のもとへと戻ることに決めたのである。
 ぼんやりとした焚き木の光以外、うっすらと差し込む月明かりと星明りによってのみ照らされた森は暗く、そして不気味なほど静まり返っていた。
 「……嫌な感じだね」
 誰が、聞くわけでもないのにぽつりと口から言葉が漏れる。
 だが実際のところ、ガーラの呟きはあながち間違いでもなかった。先ほどから感じる、何者かの気配は一層強くなり、暗闇のすぐそこに潜んでいるかのようであった。
 それと同時に一段と冷え込み始め、どうしようもないほどの寂寥感に苛まれ始めていた。まるで一人取り残されてしまったかのように心寂しく感じるのは、姉が人に敗れ、ただ一人群れを飛び出し逃げ出したあの夜以来であった。
 何よりも頼りにして信じていた姉も、一緒に過ごしてきた仲間たちも何もかもを捨て去りたった一人孤独のうちに過ごす、暗く冷たい夜。誰よりも強いと信じていた姉の敗北と、それによって変わってしまった仲間たちに絶望し、寂しくすすり泣きながら暗い森の中を一人歩いたあの時。あの時もまた、この夜のようにぼんやりとした月明かりだけが空を照らしていた。

 そこでガーラは出会ったのだ。黒衣を纏い、捻れ木の杖を持った魔女に。

 まるで物語の中からそのまま出てきたかのような魔女を前に、幼い彼女はただ茫然と見上げるしかなかった。魔女はそんなガーラの傍により、屈みこんでガーラの顔を覘くとそっと囁くように予言を残した。
 いつの日か、愛したものがこの森に帰ってくると……
 いつの日か、戦士となってお前の首を刎ねるために……
 再会と、自らの死を告げる言葉に、幼いガーラはひどく困惑したが、それでもまた“あの子”に会えるのが嬉しくてたまらなかった。だから、強くなろうと思った。戦士となった“あの子”よりもずっとずっと強くあれば、戦士となった“あの子”を打ち負かせば、自分は死ぬことなく愛する者とずっと一緒にいられると、そう思ったからだ。
 ガーラは思う、今思い返してみればずいぶんと心もとない、嘘か真か、見も知らぬ魔女の甘言を信じるなどできたものだと。だが、それほどまでにあの時のガーラは何かに縋りたかったのである。それが例え夢物語に等しい言葉であったとしても。
 あの夜から、ガーラは強くなろうと心に決めた。もう誰にも、奪わせはしまいと、己の幸福はただ己の力によってのみ得られ、守られるのだと……そう強く思い信じ、そして実際に力を得た。あの森でガーラに勝てるものは誰もいなかった。姉と、姉と打ち負かした男さえも一騎打ちならばガーラには勝てなかったであろう。
 けれども“あの子”には勝てなかった。

 単純な力比べであれば、魔物であるガーラに勝てる道理はない。だが、戦士となった愛しい人……アイオンはガーラに対する憎悪と憤怒を糧に一振りの剣として申し分ないだけの力を身に着けて戻ってきた。二人が出会ったあの村へと、それも戦士としての初陣として。何としてでもあの憎き獣の首を刎ねて帰ると……
 結果として、戦いを制したのはアイオンであった。予言の通り、戦士が勝ったのである。

 さく、さく、と雪を踏みしめる音が響く。
 だが、今ガーラは生きている。首を刎ねられることなく、それどころか愛する人と一緒に旅をしている。それは過酷な旅であったが、それと同時にどうしようもなく幸せな旅であった。ただ生きて愛する人といられる、ただそれだけで。

 でも、もう

 ガーラは首を強く降り、その考えを振り払う。
 (少し……疲れているだけだ、弱って……傷の匂いはひどいけれども……)

 腐った、血肉の匂い……死ぬ前の、かおり

 嘲るような暗闇が、ガーラの周りに漂う。



 「ガーラ! おかえり……どうだった?」
 アイオンの傍で見張りをしていたカルタが薪の束をもって戻ったガーラに声をかける。
 「ぼちぼちだね あまり良い薪が拾えなかったよ」
 「そう……でもありがとう、これで少しはアイオンのこと温められるね」
 「……アイオンの、様子はどうだい?」
 努めて、恐れを隠して声をかける。漂っている死の気配に、気づかぬように、慎重に声を選びながら。
 「……さっきから、ずっと 寝ているよ」
 震えを含んだ声。アイオンの胸元から、ノチェのすすり泣きが聞こえる。初めて聞く、鈴の音の悲しみに否応なく意識してしまう。
 ガーラははやる気持ちを抑えきれずに、アイオンの傍によるとその様子を見る。酷く青い顔色に、触れずともわかるほどの熱。だがその顔はどこまでも静かで、汗一つない。ノチェの放つ燐光が、仄かにアイオンの顔を照らす。

 ガーラはただ黙って、アイオンの隣に座る。

 薪が燃え、はぜる音が響く。

 「……進もう」
 ガーラは、呟く。
 「……どこに?」
 カルタが、問う。

 「どこだっていいさ とにかく……ここにいたらダメだ あたしならしょって歩ける だから、少しでも先に進もうと思う ここじゃあ満足に休める場所も、食べ物も……水もないしね あたしたちは飲まず食わずでも平気だけど、アイオンは……人だから、無理はさせられないよ……あたしたちのために、ずっと……ずっと無理をしてきたんだからさ」
 「……そうだね、わかった」

 少しでも、前へ。ここよりも、安全な場所へ。そう決めた、その時であった。

 「っ……誰だ」

 最初は風の音のようであった。

 「ガーラ……まずいよ」

 だがしかし、今ははっきりとわかる。

 「……カルタ、武器を取りな」

 何ものかが、いる。何ものかが、笑っている。風の音のようなせせら笑いが、辺りに響き渡っていた。
 それと同時に、周囲に冷気が満ちる。凍てついた笑い声に合わせて、急激に冷えていくのがわかった。ガーラの吐息が一気に白くなり、皮膚から湯気が立ち始める。

 「くそっ!」

 凍てつく冷気を纏った何かが、ガーラたちを囲うように渦巻いていた。

 「いやぁッ! やめてっ! アイオンを連れて行かないでっ!」

 悲痛に満ちた、ノチェの叫び。愛する戦士の胸元からその身を投げ出し、せせら笑う影に訴えかける。その突然の行動に、ガーラとカルタは驚愕するも、それと同時に理解もしたのであった。

 奴らは“自分たちとは違う存在”であると

 「来ないでッ!」

 ノチェの叫びと同時に、何ものかが闇から現れる。とっさにガーラはその“影”を大斧で打ち払う。
 その大斧は確かに、影を捕らえ叩き斬った。
 まるで水を切るような、重い感触とともに影は霧散するも、闇の中に戻るや否やひと塊にまとまり、すぐにその姿を取り戻す。
 (こいつっ!)
 それは、ぞっとするかのように美しい女性の姿をした“何か”であった。闇のように深い黒髪を持ち、雪のように白い肌を持つ女。だがその頬はやせ細り、纏った黒衣から除く腕は細枝のように鋭い。何より、瞳のない虚空のごときその目が、自分たちとは違う異質の存在であるということを鮮烈に物語っていた。
 「ガーラ! こいつら魔物じゃない!」
 カルタが叫ぶ。
 「精霊だ! 奴らが! “冬”がやってきた!」



 第七 抱擁

 ……“冬”、そうカルタが叫んだ瞬間。周囲に笑い声が響き渡る。老若問わず、女の声で笑う、ガーラたちを、必死に生き抜こうとするものをあざ笑うように、周囲に響き渡る。
 それと同時に、焚き木の火が翳る。光の輪がぐっと縮まり、闇が広がる。
 「ひぃっ!」
 カルタが、悲鳴を上げる。
 「……ちぃ!」
 白い女の顔が、無数に、闇の中に浮かび上がる。白枝の腕をこちらに伸ばし、虚空の眼でただじっとアイオンを見つめ、薄ら笑いを浮かべた顔が。
 若い女、少女、老いた女、だがどれも一様に美しい。美しく悍ましい。
 また、焚き木が翳る。それと同時に、白腕が伸びる。

 「カルタッ火をくべろ! 絶やすな!」

 そう叫び、ガーラは大斧を振り上げると、大きく薙ぎ払い精霊たちに叩きつける。薙ぎ払われた精霊は薄ら笑いのまま飛び散っていく。だが、切り伏せた先から別の白い顔と腕が浮かび上がり、手招くようにガーラへと手を伸ばしていく。
 腕が伸びるたびに、刺すような冷たさがガーラを襲う。もしも、この腕につかまれたならば最後無事で済まないだろうと思うには、十分すぎるほどに異質な冷気であった。だが、この精霊たちの視線はガーラよりも、アイオンに向けられているのは明白であった。熱を持たぬ顔が、皆一様に舐めるような視線をアイオンへと向けている。だが、それは恋慕の伴わぬ、純粋かつ貪欲な感情にほかならず、ガーラはその悍ましさに吐き気を催すほどであった。
 それはまさに、命を失おうとしているアイオンを貪り食らおうとするケダモノに等しかった。
 ガーラが前に立ち、影を薙ぎ払っている隙に残った薪をカルタは焚き木にくべる。投げ入れられるように薪がくべられたことではぜるように焚き木は燃え上がり、不可解な力で陰りを見せた焚き木が再び明るさを取り戻す。明かりが広がると同時に影は霧散し、恨めしそうな表情でずるりと辺りに渦巻く。だが、再び嘲笑を含んだ顔で精霊たちは闇の中からガーラたちを見つめるのであった。
 「……薪はどれぐらい持つ」
 ガーラが、振り返らずに問う。
 「……長くは」
 わかり切っていた答えが、カルタから帰ってくる。
 どう考えても、持っている薪と燃料全てを使ったとしても朝まで火を……この精霊たちを遠ざけられるだけの火を維持することは不可能であった。だからこそ、精霊たちは嘲笑の表情で遠巻きに見ているのだろう。
 獲物たちは逃げられない。だからこそ、待てばいい。やがて闇が彼らを飲み込むのだから。だが、それでもガーラは諦める気はなかった。何としてでも生き延びる、アイオンとともに、そう固く心に誓っていた。
 焚き木と、アイオンを背にガーラは奮起する。

 ぱちぱちと焚き木が燃える音が響き、擦れ木や吹き抜ける風の音に混じって不愉快なせせら笑いがくすくすと流れ込む。ぐるりと、取り囲んだ影たちはじりじりと再びその輪を縮め始めていた。手を伸ばし、アイオンを連れて行こうと。
 そのたびに、ぞっとするような冷気がガーラたちを襲い、焚き木に翳がさす。

 「アイオン⁉ アイオン!」
 アイオンの傍にいる、ノチェの悲鳴。
 「どうした⁉ 何があったの⁉」
 駆け寄るカルタの足音とともにガーラは振り返り、後ろの様子を見る。そこにはすっかり弱り切り、ひどく震えているアイオンがいた。顔は蒼白に変わり、口の端からは血が漏れ出ている。
 「そんなっ!」
 ひどく乾いた、擦り切れるような咳とともに喀血がノチェに降りかかる。死を前にした、灯が消える前の、そんな動きであった。血を浴びたノチェは、呆けた様子でアイオンを見る。息はすでに絶え絶えとなり、その命の灯が消えようとしていた。
 周囲の影の嘲笑いは歓喜の色を帯び、より一層凍えるような冷たさがあたり一面を覆っていく。それと同じく、ガーラたちの心もまた冷たく凍っていく。叫びも、嘆きも、届かぬ先へといってしまう。愛する人が、去ってしまうという絶望がすぐそこにまで迫っていた。
 掠れた吐息が、ガーラの口から洩れる。もう耐えられなかった、ガーラは敵に背を向けることも厭わずアイオンの傍に駆け寄ると、その身を抱く。焚き木の火が、一気に翳る。
 冷え切った体が、ひどく恐ろしい。火に当たっていたはずの体に熱はまるでなく、動いているはずの心臓の音さえ聞き取れないほどに小さくなってしまっていた。

 もう、終わりだ

 もとより無謀な旅ではあった、それでも……このような終わりとは思わなかった。ガーラの嗚咽が、辺りにこだまする。何もできない、愛する人がただ弱り死んでゆく様を見ていることしかできない絶望がガーラの心を折った。
 そしてそれは、カルタも同様であった。ただ、カルタはガーラよりも前に諦めていたのかもしれない。そっとアイオンの傍で抱き着くように丸くなると、その時を待つように、少しでも長く主を感じられるようにその目を閉じている。
 焚き木の火が、すっかり弱まろうとしていた。刺すような冷たさは一層強まり、もはや影たちの手がすぐそこにまで迫っていた。無数の白い顔が、その時を待ち望んでいた。暖かい命を、熱を、饗するその時を。ゆっくりと、その白い腕と針のような指が伸びる。その鋭い指がアイオンの心臓に触れようとその指を下ろす。



 「触れるなっ!」



 静寂の中に、はっきりと響き渡る。鐘の如き怒号。ぼわりと、戦士の心臓の上で翠の燐炎が燃え上がる。心臓に触れようとしていた影の指は翠の炎に焼かれ、その指先を失くす。小さな妖精が、怒りに満ちた表情でその身を焼いていた。
 愛する者を守るために、その胸元に立ちその身をもって守っていた。その炎は暖かく、まるで命そのもののように……いや、ノチェの命そのものであった。その純粋な命の光をもって、ノチェはアイオンを守っていた。
 いよいよその命を得られるものと思っていた精霊たちは俄かに騒ぎ始める。ついに我慢ができなくなったのか、焼ききれるのも厭わずにその燐炎をかき消すべく複数の手が躍り出た次の瞬間、翠の炎を包むように蒼い炎がアイオンの体を覆う。
 その炎によって精霊たちの腕は焼き葬られ、悲鳴のような音が響き渡る。蒼い炎はアイオンの肩を抱くように燃えており、やがて一つの輪郭を……少女の顔を形成し始める。
 流石のことに、ガーラとカルタもその目を開き、事の成り行きを見る。蒼い炎は冷たく感じるものの苦痛が伴うものではなく、むしろ包み守るかのような心地よさを触れるものに与えていたが、精霊に対してはひどく苦痛を伴うもののようであった。蒼い炎はいよいよはっきりと少女の形を成し、恨めし気に睨みつける精霊たちをはっきりと見据えていた。その間も、翠の燐炎はアイオンの心臓の上で燃え上がり続け、溶け合った炎は淡紫の輝きを放つ。
 その時であった、アイオンはせき込むように数度小さく息を吐くと、息を吹き返したかのように心臓が動き始める。まるで炎の温もりが失われかけた命に再び火をともしたかのようであった。
 この驚くべき出来事に、ガーラとカルタは驚愕の念を隠せなかったが、その命を燃やしてでもアイオンを守ろうとしたノチェの姿に、折れた決意が、覚悟の炎が再び灯る。
 先に動いたのはカルタであった。
 カルタはすぐにその手を伸ばすと、ノチェの小さな手に触れる。触れた瞬間、カルタの体に翠の燐炎が燃え移り、アイオンを包む。自らを薪に、魔力を燃料にして燃え上がる翠の燐炎。全身から魔力が失われ、いずれは己の姿すらも維持できなくなるであろう行為であったが、ためらわなかった。
 ガーラも、それに続いた。ノチェの背を守るように、そっと包み込みその炎を自らに移す。ひときわ大きな翠の燐炎があたりに広がり、悍ましい影を振り払う。自らの命と引き換えにして、愛する者を守る。夜明けとともに、この命燃え尽きるかもしれない、それでも……その覚悟の上であった。
 その命の加護を前に、精霊たちは忌々し気に叫び声をあげその腕を狂ったように伸ばし始める。だが、命そのものの加護を破ることは叶わず、差し入れた腕を尽く失わせたのである。

 もう、安心だ

 ゆっくりと、ろうそくが溶けるように己が解けだすのを感じながら、少しでも長く愛する者の傍にいるためにその身を強く抱く。その心臓が、確かに脈打つのを感じながら目を閉じようとしたその時であった。

 目の前に鮮烈な炎が舞い踊ったのは。



 第八 目覚め

 ……紅い丘の上で、アイオンは力尽きようとしていた。
 戦士との死闘を経て、辛くも勝利を収めたものの、もはや立つだけの力すらもなかったのである。
 大地に剣を突き立て、杖代わりにその身を支えるも、すでに限界のきていた体はいうことを聞かずにその両膝を大地に下ろす。眼前には先ほど打倒した戦士の亡骸が、同じく両ひざをついたまま天を仰いでいた。その首は戦いで刎ねられ、今では辺りに転がっている亡骸に混ざってしまい、どの首だったかもわからなくなっていた。

 ……俺も、ここで終わるのか……

 ようやく、思い出したというのに
 ようやく、己の戦う意味を知ったというのに

 ここで果てるわけにはいかない、そう歯を食いしばり立とうとするもその足は動かず。ただ口惜しさに呻くことしかできない。
 それでも、立とうとする。必死に、ただ必死に、だがいくら力を込めても体は言うことを聞かずに動こうとしない。ついには片手が剣から滑り落ち、だらりと力なく転がる。

 ……まだ、死ぬわけには……

 そう思ったその時であった。剣を握っていたはずの手に、柔らかな感触が届く。それと同時に幽花のような甘い香りがそっと漂い始めた。アイオンがその頭を上げると、目の前に先ほどの少女が立っていた。
 先ほどと同じく、無表情ではあったものの、どこか凛と熱を宿した瞳がアイオンを見つめる。透き通りどこまでも吸い込まれそうな淡い紫を見つめていると、湿った咳が口元から洩れる。幾度目かの咳を終えてその手を離すと、べっとりと血がこびりついていた。

 ……でも、ここまでのようだ……

 そう呟き、少女の方を見る。すると、少女は頭を軽く横に振り、そっとその手を引いた。

 ……もう、立つことは……

 できない、そう思っていた。だが、不思議なほどにあっさりとアイオンの両足は大地を踏みしめる。紅い丘の上、蒼い月あかりの下で戦士と少女は並んで立つ。少女はアイオンの前に立つと、もう片方の手を取る。
 血で汚れると、そっとアイオンが手を払おうとするも、それよりも早く躊躇することなく少女はその手を握る。冷たくも柔らかな手のひらが心地よく、アイオンの武骨な手を包む。そのままじっと、二人は見つめあう。どこか初心な気持ちを思い出させるしぐさに、アイオンは目をそらそうとするも、そらすことができずに少女の淡紫の瞳を、整った美しい顔立ちをじっと見つめる。

 ……貴方はだれ?……

 少女が問いかける。

 ……俺は、アイオン……アイオン・ノクトアム……

 戦士は答える、自らの名を。

 ……君は、誰?……

 戦士は問う。

 ……私は、ツェツィリア ツェツィリア・マグノリヤ……

 少女が答える。
 そして、にこりと小さく微笑むとすっと背伸びをするようにその顔を近づけ。
 その口と口をそっと合わせる。
 少女の柔らかな感触に、アイオンは驚くようにその目を見開く。だが、すぐに言いようのない安らぎを感じるとともにその瞼が落ちていく。それと同時に少女の体が蒼く燃え上がり、足元からすべてに燃え広がっていく。だが、不思議と恐怖も熱さも感じなかった。ただ、ひたすらに心地よかった。



 世界を……蒼い炎が、全てを音もなく焼き包んでいく



 それはアイオンが見た、紅い丘の最後の景色であった












 ……苦い血の味をかみしめ、目覚めたアイオンが見た最初の景色は紅く燃える樹氷の森であった。
 心地よい涼やかな蒼い炎と、温かな翠の燐炎に包まれたアイオンの視線の先に、いつか見た黒色の獣が炎を纏い踊り狂っていた。笑い声をあげ、狂乱するように炎を放つ獣は一つではなく、四つの黒炎が樹氷の森を焼き払わんとするかのように紅く紅く炎を噴き上げ舞い狂っている。
 (まだ、夢を見ているのか)
 だが、その身に感じる感覚は紛れもなく現実だと告げていた。
 ひどくけだるく、吐き気もするがまだ意識ははっきりしていた。背中の傷がひどく痛むこともありその身をよじるように動かす。
 「……ッ アイオン!」
 燃え盛るガーラがハッとするように声を出す。その瞬間、アイオンたちの周囲に燃え広がっていた翠と蒼の炎が消え去る。それと同時にひどく冷えた風が頬を撫でるが、それもまた生きているという感覚をはっきりと感じさせた。
 「あっ……ああっ!」
 感極まったといわんばかりに、ガーラはアイオンのことを抱きしめる。力強い腕に抱かれるのは苦しく、痛みもあったが嬉しかった。その様子からひどく心配させてしまったことが容易にうかがえたからこそ、そんな彼女をこれ以上悲しませずにすんだのだから。
 それと同時に、アイオンは横腹で丸くなっているカルタもそっと撫でる。びくりと小さく震え、むくりと顔を上げるとより強くぎゅっとアイオンに抱き着き、その顔をこすりつける。父に甘える娘のように。
 「アイオン……」
 そして、戦士の胸元で小さな妖精の姫君が信じられないものを見るかのような顔つきでそっと振り向くと、そのままぱたりと倒れる。
 「ノチェ!」
 痛む背中を無視し、その手を伸ばす。いつもふわりと暖かい妖精はひどく熱っぽく、荒い息を吐く。それだけでどれだけこの妖精が困憊していたかがうかがえ、アイオンはそっとすくい上げるようにノチェをその手で包むと、胸元にしまい込む。
 いったい何が起きていたのかはわからない、だが自分を守るためにその身を犠牲にしようとしていたのは、魔力の炎に自らをくべるノチェ達の姿から想像することはできた。
 (……すまない)
 小さく、口の中で呟き守るようにその小さな身を手のひらで包む。

 だが、そんなアイオンの目覚めを喜ぶ暇は目の前の紅い炎と、その炎によって焼かれ悲鳴を上げる精霊の嘆き、そしてどこかで聞いた覚えのある笑い声によって掻き消えることとなった。
 アイオンは何とかその身を起こすと、ガーラとともに目の前で踊る黒炎を見据える。
 そんな中、炎の中を舞い踊る一匹がアイオンの視線に気が付いたのか、赤金色の瞳をこちらに向けるとひときわ大きな雄たけびを上げ眼前に飛び出す。
 火の粉を纏い、高熱からか白い湯気を全身にくゆらせたその黒い獣の姿は間違いなく見覚えがあった。
 ノチェと出会った場所である“人食い砦”に近い森の中で遭遇した魔物の娘であり、ガーラとともに戦いとなり打ち負かした獣……ヘルハウンドである。

 「はぁーッ! やっと見つけたぜ! 戦士さんよぉ!」

 代ることのない、下卑たいやらしい笑みを浮かべ舌をぺろりと出す。すらりと引き締まった体に不釣り合いな豊かな胸を見せつけるようにその身をのけぞらせると、片方の手で誘いをかけるように揉みしだく。
 「まったく悪い子だ……アタイを置いて行っちまうなんて! 追いかけようと思って、そこの雌猪の臭いを追ったら全く別の猪に出会う羽目になったし……おかげで探すのに手間取ってしまったじゃないか!」
 燃え盛る背後から、さらに三体のヘルハウンドが姿を現す。どのヘルハウンドも、前に見たことのある顔ぶれといってよかった。
 「はぁー……っ ニヴちゃんもすっかりこいつにお熱だねぇ 殴られて感じちゃった? あれだけびっしょり濡らしていたもんね」
 「うるさいなー! ザンナだって猪に殴られて漏らしたじゃないか!」
 「おっ! なんかちび猫が増えてんな!」
 「猪! 猪!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぎ立てるヘルハウンドたちに対し、ガーラとアイオンは警戒を緩めることなく距離を取る。戦うには、分が悪すぎた。だが、逃げることはできなかったであろう。ヘルハウンドの脚力と体力に勝るのは魔物娘であったとしても極めて難しく、その嗅覚から逃げ切るのは並大抵のことではなかった。
 相手もそれをわかっているのであろう、騒ぎ立てつつもその表情は余裕に緩み、目の前のごちそうをどう食べようか考え楽しんでいるようであった。

 「さて、と」
 やがて騒ぎ立てるのにも飽きたのか、ぴくりと耳を動かし“ニヴ”と呼ばれたヘルハウンドがひくひくと鼻を動かしながらアイオンの方を見る。
 「……ここでいただきます、とイきたいんだけどねえ そうも言っていられないからね」
 来るか、そう考えガーラが武器を構えようとしたその時であった。

 冷たい風が、吹き通る。

 舞い散っていた炎が一瞬で翳るほどの、凍てついた風。
 ヘルハウンドの一体が怯えた様子であたりを見回し始める。月の光すらも翳り、異様な空気がどこからか漏れ出してくるかのようであった。
 それを感じた途端にニヴの表情が険しくなる。
 「ッ! まずい! おいっ!」
 「よるな!」
 「バカ! そんなことしてる暇なんかないんだよっ!」
 駆け寄るニヴ達に対し、ガーラはけん制するもニヴの剣幕からただならぬものを感じるとともに、異様な雰囲気もあり武器を構えるだけにとどめ、ニヴが近づくのを許す。
 「ヒィッ! 冬だ! 冬だ!」
 「シッ! クロ! 静かにッ」
 何か恐ろしいものが迫っている。そう感じさせる声音でクロと呼ばれたヘルハウンドがくるくる回りながら怯え始める。
 「とにかくッ! 行くよ! ほらっ、アタイにつかまれって!」
 いよいよのっぴきならない状況になったのか、ニヴは焦るようにアイオンの腕をつかむとガーラが止める間もなくその背にアイオンを乗せる。思った以上に弱り切っていたアイオンはニヴに引っ張られるままにその背へと乗せられる。
 「あっ! 待てっ! ッ! お、おい!」
 「こらっ! 暴れるんな!」
 「二人がかりで運びな! ほらっプレザ! ザンナを手伝いな!」
 「わっわかったよ!」
 「猫! 猫!」
 「わわっ! アイオン助けてーッ!」
 不意打ちのようにプレザとザンナと呼ばれたヘルハウンドにガーラはつかまり、カルタはクロに咥えられるように背中に放り投げられると、その背に乗せられる。
 「よし! いいね、みんな散っていくよ! 絶対にアイツには見つかるんじゃないよ!」
 「わかってるって! じゃあ森を抜けた先でね」
 「おい! なんであたしを担ぐんだ! 降ろせって!」
 「いいから! 背に乗せてやるって言っているんだよ! 暴れるんじゃねえよ!」
 「まったく重いねえ!」
 騒ぐガーラを後目に、プレザとザンナは無理やり背に乗せる。その表情は納得していない様子ではあったが、ヘルハウンドたちの言うように異様な気配が近いことと、どうやら敵対的ではないと察したことから渋々といった様子でその背に担がれる。
 「走る! わかった!」
 「え? ちょっと! 僕をどこに連れていくつもりなの⁉」
 「それじゃあいくよ!」
 言うや否や、それぞれの背にアイオン、ガーラ、カルタを乗せたヘルハウンドたちは三方に散るように走り出す。
 「ああっ! おい! アイオーン!!」
 ガーラはアイオンと離れ離れにされるとは思っていなかったのか、叫び声をあげるも、すぐにその声は遠くなりあっという間に離れていってしまう。
 ガーラの叫びを聞くと同時にアイオンはニヴの疾走に振り落とされそうになり、慌てて両腕を回すようにしてしがみつく。ニヴの胸元のむにっとした、柔らかく張りのある弾力がその腕に当たり、反射的に手を放そうとしてしまうもぐっとこらえてしがみつく。結果的にニヴの胸に腕を回す形となってしまい、アイオンは少し気まずく思うもニヴは気にすることなく、むしろ上機嫌そうに声をかける。
 「イヒヒ! どうだい、アタイの体は暖かいだろう?」
 ニヴの言うようにその体は熱いぐらいに暖かく、冷え切った体に染み入るような心地よさを与えてくれていた。それに腕から感じる脈動する肉体のうねりとゴワゴワとした見た目とは裏腹に、とても柔らかで少しつんとした塩気のある薫りに満ちた毛皮の感触は心地よく、ヘルハウンドの粗暴そうな見た目とは裏腹にとても官能的な刺激に満ちてもいた。
 また意外にも乗り心地は悪くなく、しっかりと捕まっていれば振り落とされることもなさそうであった。だが、それはひとえにニヴが実に繊細な動きで駆けているからにほかならず、それでいて素早く樹氷の森をかけていく様はアイオンに再び魔物の力強さを感じさせずにはいられなかった。

 だが、安心はできなかった。

 先ほど感じた異様な冷気が、まるで意思を持っているかのようにまとわりついてくるのをアイオンは感じていた。そしてそれはニヴも同様のようであり、徐々にその顔から笑みが消え、真剣な面持ちに変わる。
 いよいよ異様な気配が近づくと同時に、ニヴは大きな唸り声をあげより低く早く走り出す。アイオンは振り落とされぬように、より強くニヴの体を抱きしめる。
 「くそ! しつこい!」
 低く呟くようにニヴは吐き捨てる。一体何に追われているのかと、アイオンは確認しようとするも、月光すら翳りを帯びた森は暗黒の淵に沈みこみ何も見えず。ただ雪をかけるニヴの足音と呼吸以外には吹き抜ける風の音だけが周囲に響き渡っている。だが、確かに気配はしていた。疾走するニヴとアイオンを追うように、何かが闇の中に蠢いている。
 (何が、いったい何が!)
 振り返ろうと、少し首を上げ視線を後ろへと向けようとしたその時であった。ぞくりと、アイオンは悪寒を感じ、口から血の混じった咳が吐き出される。飛び散った血が、ニヴの首元にも垂れかかり、それと同時にアイオンの視界が揺れる。
 「! くそっ! おまえ! しっかりしろよ!」
 ニヴの𠮟咤に応えるように、何とか腕に力を籠めるも、思うように力が入ることはなかった。まるで何かに命そのものを吸い取られて行っているかのように、生命の炎が消えていく。
 「ああっもうっ!!」
 しびれを切らした叫びとともに、ニヴは黒炎を口から噴き出す。それと同時に四肢もまた炎を纏い、一つの火の玉となりアイオンに吼える。
 「絶対に落ちるなよ! 行くぞッ!」
 ニヴに応えるように、アイオンは腕にあるだけの力を籠める。それと同時にその身を黒炎が覆い包んでいく。先ほどの蒼と翠の炎とは違う、より熱く焼き焦げるような刺激とともに、アイオンの視界が紅く染まっていく。だが、不思議と恐怖を感じることはなかった。それどころか、その熱と焼き付くような痛みがアイオンの心を奮い立たせ、力を取り戻させたのである。

 咆哮を上げ、森を焼き尽くしながら走り抜けるニヴとその背にしがみつくアイオン。
 その灼火の疾走は火の矢の如く闇を切り裂き、引き裂かれた風は絶叫を響き渡らせる。
 まるで手にした獲物を奪われた獣の如き叫びと、引き裂かれた恋慕のような嘆き、それらが合わさり悍ましいまでの二重奏がアイオンの耳にこびりつき反響する。

 やがて、森に木霊する絶叫は怨嗟の如き鳴り声となって消えていったのは、ついにニヴが森を抜けだし月光の下、雪原を走り抜けていった後のことであった。



 第九 黒い獣

 ……ニヴとともに進む雪原の旅は思った以上に快適であった。
 追っ手を振り切ったということもあるのか、ニヴが速度を緩めたおかげでそれほど力を入れずとも振り落とされる心配はなくなり。むしろその肉感や温もり、薫りは心地よくアイオンを包み込み、それなりの速度で走っているはずなのに寒さを感じることはなかった。そのため、アイオンはニヴに対し出会った当初に抱いていた警戒心や恐れは殆ど無くなったと言っても良かった。
 何より、経緯はどうあれ助けとなった、というのが一番の感謝どころであったが、それと同時に疑問点でもあった。だが、その疑問の答えをアイオンはすぐに知ることになる。



 「よーしっ ここで待つか!」
 ニヴが走るのを止めたのは、小さな廃墟の前であった。
 かつては見張り塔か何かであったであろう、小高い丘の上に立つ小さな石造りの建物。いまとなっては誰も住んでいないのであろうことがその荒れ具合から伺えた。だが、それでも身を隠して休息できるという点ではありがたかった。
 「はー! 疲れた疲れた!」
 「……すまない、助かった」
 ニヴの背から降り、アイオンは礼を述べる。
 「だが、どうして……助けに来たんだ? その、前にあった時は酷いことをしただろう」
 少なくとも、良い思い出とは思えなかった。アイオンはニヴの誘いを断り、あまつさえ自らの持つ武技をもって撃退したのだ、普通であれば恨まれこそすれ助けられるとは思ってもみなかった。
 だが、アイオンの予想に反しニヴはきょとんとした様子で答える。
 「あ〜ん? また会いたいと思ったからに決まってんじゃん? 理由なんかいんの?」
 「ああ……いや、何かあるのかと」
 「理由、理由ねえ……やっぱりいい匂いだからかなぁ あんたの匂い……すごくそそるんだよ……」
 すんすんと鼻を鳴らしながら、ぞくりとする獣の眼でニヴは答える。
 「そんなことよりもさぁー! 早く建物の中に入りなよ、冷えるよ! ほらほら!」
 しゅるりとまとわるようにニヴはアイオンに触れる。肌と肌をこすり合わせるような、その触り方に一抹の不安を覚えたが、恩義と疲れ、そして未だに抜けきることのない気分の悪さもあり促されるままに建物の中へと進む。

 建物の中は、意外ではあったが整っていた。休息をとりつつ身を隠すには申し分なく、アイオンは安堵の息を吐く。それと同時に少しばかりの不安がもたげる。
 (本当にこの者たちを信用してよいのだろうか)
 実際のところ、危ういところを助けてもらったことは感謝のしようがないことであり、それに対する恩義も感じていた。だが、ガーラやカルタと離れ離れになり、また無事に合流できるのだろうかという不安と恐れも同様にアイオンの心のうちに存在していた。
 「ノチェ、大丈夫だったか?」
 建物の中で寝床として使えそうな、わらが積まれた場所の前でアイオンはノチェを胸元から取り出す。
 「あ、アイオン……私は大丈夫 心配してくれてありがとう」
 小さな姫君は戦士の手の中で微笑む。無理をさせてしまったため、弱っているようには見えたが元気そうであった。先ほど感じた熱さもなくなり、いつものように温かな燐光がその身を覆っている。アイオンが小さく微笑み、姫君を胸元に戻そうとしたその時であった。
 「! アイオン!」
 「ッ!」
 突如背後からニヴが覆いかぶさり、アイオンを押し倒す。ゆっくりではあったが、力強く、抵抗を許さない動き。
 「隙あり……だねぇ アイオン」
 「貴様ッ!」
 ねっとりとした、熱のこもった囁き。べろりと、ジュっと熱い舌がアイオンの首をなめる。
 「何をするの! やめて!」
 アイオンの手の中でノチェが叫ぶ。だが、ニヴは意に介することなくごそごそとアイオンの背中の上で薄ら笑いを浮かべるだけであった。
 アイオンは跳ねのけようとするも、もはやそれだけの力はなかった。
 「イヒヒ……やっと名前を知れたよ……アイオン 嗚呼……アイオーン」
 甘ったるい、媚びたような声音。ほうっと、吐く息に火の粉が混じる。
 「アタイはニヴっていうんだ どうせならそう呼んでおくれよ……貴様、なんてつまらないじゃないか」
 ニヴはそう囁くと、片手をアイオンの背中に乗せる。鋭い爪が衣服に引っかかると、ゆっくりと背中を引き裂いていく。アイオンは抵抗するも、力で敵うはずはなかった。
 「……やっぱり こいつはひどいね、腐ってやがる」
 アイオンの背中の傷を見て、ニヴは呻く。事実、酷いものであった。治ることなく、長旅の中で幾度となく開いた傷口は膿み切り、腐った血と肉がその周囲を縁取り言いようのない悪臭を漂わせていた。その傷が背中一面に広がり、溢れた膿と血が衣服をべっとりと汚している。
 誰がどう見ても、いつ死んでもおかしくないような傷であった。
 「な、何を!」
 「妖精のちびちゃん、アイオンを助けたいなら黙っていな アイオンも、ね」

 言うや否や、ニヴは鋭い爪をアイオンの傷口へと突き立てる。

 飛び散る血膿とともにアイオンの絶叫が、響き渡る。
 ニヴの爪は傷口を深くえぐり、腐った肉と血をこそぎ取り膿を掻き出す。その動きは容赦なく、そして素早かった。治すために必要な処置であったが、それはすさまじい苦痛をアイオンにもたらすものであった。飛び散った血肉はニヴを汚し、そのあまりに凄惨な様子にノチェは卒倒してしまうほどであった。

 「さて、あんたの味はどんなかね」

 ざらりとした、熱い舌が傷口をなぶる。這いまわる苦痛の蛇をその背に乗せ、アイオンは跳ねあがるほどの激痛にのたうち回る。だが、ニヴは魔物の力を存分に振るい、アイオンを逃がすことはしなかった。
 ニヴの舌が細かい腐肉や腐った血と膿を舐めとり、新鮮な血が滲みだしていく、だがそれは間違いなく凄まじいまでの痛みと引き換えによって得られるものであった。
 ニヴが口を離す頃には、アイオンは激痛のあまり気絶する一歩手前であった。むしろ、痛みを思えばノチェのように気絶してしまった方が楽だったかもしれない。

 「それじゃあアイオン、我慢しろよ〜?」

 ぺろりと、血肉を舐めとった紅い舌を出しながらニヴがにやりと笑い、指先をすっと前に出す。その先には血で紅く染まった鋭い爪先が、鈍く輝いていた。
 暫くすると、ニヴの爪先が紅く発光し始め、空気が歪むようにゆらゆらと揺らぎ始める。それは明らかに、高温であった。その灼熱の爪先が、ゆっくりとアイオンの背中に近づき、その傷口に触れる。
 肉と血を焼くにおいと音、そして絶叫が再度鳴り響いていった。










 ……人の肉が焼ける嫌な臭いが立ち込める廃墟の中で、アイオンは苦悶の表情のまま藁の中に倒れこんでいた。ニヴの荒治療により、アイオンの背中は見るも無残な焼き痕がはっきりと残り。事情を知らぬものが見れば、凄絶な拷問の痕とも思ったに違いないほどであった。
 事実、アイオンにとっては拷問に等しかった。
 けれども、そうした苦痛と引き換えではあったがアイオンの気分は久方ぶりに晴れやかな心地を感じていた。今まで感じていた不調や苦痛はすっかり消え去り、体の中に血が廻っていくかのように、生気がみなぎるのを感じていたからである。まだ背中は痛むものの、旅のさなかに感じていた不快感を伴う鈍痛とは違い、正常な、いずれ治るということが確信できる痛みであった。
 そのように廃墟の中で藁に倒れ伏し痛みに呻くアイオンを後目に、ニヴは治療を終えるとさっと毛繕いをし、焚き木を熾すと“体を冷やすなよ”と言い残し外へと飛び出していっていた。
 (一体何を考えているのか……)
 アイオンは先ほどの治療で卒倒し、運ばれた藁の中で寝転ぶノチェを見つめながら考える。少なくともニヴ達には助けてもらったということと、こちらに危害を加えるつもりがないことはアイオンも何となく感じ取ってはいた。
 あれこれと考え事をしているうちに、寒気を覚える。思えば服を切り裂かれてから、血と膿で汚れているところをニヴが焼いてしまっていたため、ぽっかりとした焦げ跡とともに穴が開いてしまっている。
 (何か繕えるような布切れでもあればよいが)
 まだ痛む背中を庇うようにして、アイオンは起き上がる。酷く背中は痛むが、それでも気分はすっきりとしていた。冷えた空気が、痛みにうだる体と頭に心地よく染み込み、思考をはっきりとさせていく。
 そして、それとともにあの樹氷の森で体験した、奇妙な悪夢を思い出す。
 (ツェツィリア……確かに、あの少女はそう名乗った)
 小さな角に、牙、そして尖った耳と魔物の特徴を有した少女、それが悪夢の中に現れ、アイオンを導いた……少なくともアイオンは導かれたと感じていた。そして、それと同時に夢に現れた戦士、それについてもアイオンは引っかかるものを感じていた。ついぞ、最後までその顔を見ることはなかったが、あの“紅い丘の戦士”には何か因縁めいたものを感じてしまっていた。もっと端的に言えば、始めてみた、会った相手ではないように感じてしまう。
 (……どこかで、聞いた物語だろうか?)
 教団にいたころに、アイオンは多くの本を読んだ。ほとんどは魔物との戦いを書いた古い戦士の物語であった。
 “古い物語の中にこそ、得られるものがある”
 (……義父さん……)
 かつて父と慕った人の言葉。それがアイオンの中で懐かしい響きで反復される。
 捨てた、捨てなければならなかったかつての家を想う。だが、その郷愁を振り払うように頭を振ると物語を思い出していく。子ども向けのものから、そうでないものまで、多くの物語が教会には置かれていた。その中には、実際にあったという凄惨な戦いを描いたものもあった。酷いものでは、抵抗むなしく戦士や守ろうとした人々すべてが魔物によって殺され、食われたという描写がある物語すらあった。
 ……平原全てに、敷き詰められたように血と肉が……
 ……川は紅く染まり、人も魔物も同じように濁った底へと……
 ……戦いの後に立つものはみな、満足な体をしておらず……
 ……狂乱に陥り、人も魔物も殺し続けた戦士が……
 ……魔物によって滅ぼされた村、町、国は数えきれず……

 ……故に、人と魔はまじわることなし……

 ……昔は嬉々としてそうした物語を読み込み、いずれ来る魔物との戦いを空想しては奮起し、己の復讐心を掻き立てたものだったが、今思い返してみるとなかなかに陰鬱な気持ちになることが書かれていたなと思いなおす。
 紅い丘の戦士、それに該当するような物語も多い。魔物と戦い、敵も味方も入り乱れ死んでいく中で正気を失い、ただ戦場に立つ最後の一人になろうとする狂戦士の物語。だが、最後は戦いが終わってもなお戦う相手を求め、最後は戦いの中で死ぬか、狂乱の果てに自決する場合がほとんどであった。ゆえに教団は戦士にこう教える“戦いに吞まれるな、常に冷静たれ”と。
 戦士を志す少年に読み聞かせる物語の最後には必ずこうした訓話めいた一言が差し込まれたものだと、アイオンは思い出しながら薄く微笑む。
 だが、少なくともアイオンの記憶には“紅い丘の戦士”の物語であると、断定できるものはなかった。それに、魔物の少女の描写もまた、思い当たるものはなかった。死に際であるがゆえに、奇妙な夢を見たのだろうか、それともあれはもっと別の意味があったのだろうか、アイオンの逡巡は出口を見つけることなくぐるぐるとその頭の中を駈け廻るばかりであった。
 「……ツェツィリア……」
 ぼそりと、何の気もなしにその名を呟いたその時であった。ふわりとした風と共に、夢の中で感じたあの甘い薫りが仄かに漂う。

 アイオンが目を開き、顔を上げて周囲を見回そうとしたその時であった。ニヴが上機嫌な鼻歌とともに廃墟へと戻ってくる。
 「ふふんふんうふふふん、戻ったぜ、アイオン」
 得意げに尻尾を振りながら戻ってきたニヴの口元には、丸々と太ったウサギが一匹咥えられていた。いつ調理したのか、すでにこんがりと焼けており、油の滴るいい匂いが漂っている。
 「ほら、こいつを食って精をつけなきゃあね! アタイに感謝しろよ〜?」
 そう言ってアイオンの前に木板を敷くと、その上にどさりと焼きウサギを置く。噛み痕に少し唾液らしきものが付着していたが、こんがりと焼けておりとてもおいしそうであった。おそらく、捕らえたと同時に自らの放つ炎で焼いたのであろう。
 ちらりと、様子を窺うようにアイオンはニヴを見る。だが、ニヴは得意げな笑みを絶やすことなく、むしろ少しばかりの圧をかけるようにじっとアイオンの方を見るばかりであった。少なくとも、一緒に食べよう、というわけではなくあくまでもこのウサギは《アイオンのため》のものであるようであった。
 「……すまない、ありがとう」
 「いいってことよ」
 よく焼けた肉をむしり、口に運ぶ。じっとりとした油が舌に広がり、久方ぶりのちゃんとした食事に痺れるような快感が口の中で爆発する。それと同時に、先ほどまで全く感じていなかった空腹感が突如沸き起こるように蘇り、アイオンは我を忘れた様子でウサギにかぶりつくのであった。



 ……すっかり食べつくしたアイオンは空腹に我を忘れ、貪るように食べたことを少し恥じ入るようにその口元をぬぐう。それでも、しっかりと満たされた胃袋は心地よく、ようやく生きた心地が戻ってくるようであった。
 改めて礼を言おう、そう思いアイオンが顔を上げたその時であった。

 いつの間にか、ニヴがすぐ傍にまで来ていた。

 「食べた? 食べたね?」
 むわりと、薫る。少しつんとするような、甘さを含んだ汗の匂いが、ニヴから漂う。
 「傷は? 塞がったね? 精はついた?」
 明らかに先ほどとは違う、酷く急いた様子でアイオンの様子をニヴは確認していく。
 無遠慮に、ペタペタとアイオンの体を触る手つきはいやらしく、撫でるようにその手を滑らせていくと、首と腰元でその手が止まる。
 突然のニヴの変容にアイオンは戸惑うも、にっこりと笑うニヴの愛欲に塗れた赤金色の瞳と、劣情に爛れた表情を見てようやく思い出す。

 嗚呼、彼女もまた“魔物”であったと

 ずるりと、貪るような口づけが無遠慮に行われる。暴れ蛇のように熱くうねる舌がアイオンの喉に侵入し、口の中を犯していく。同意も、確認もない一方的な口づけ。
 息をする間もなく、ニヴの甘く痺れるような唾液が炎のように熱い吐息と共にアイオンの喉を通って落ちていく。一息飲み込むたびに、アイオンは己の内側に炎が生じ、燃え広がっていくかのような錯覚を覚える。
 「はふぅ」
 乱暴に口づけを終えると、ニヴは物足りなそうに口の周りをぺろりとひと舐めする。そしてそのままその舌をアイオンの頬へと這わす。ちろりと、焼けるような刺激とともにぞわぞわと熱く舐っていき、ゆっくりと味わうように首へと降りていく。そして、吸い付くような湿った音とともに鋭い牙がアイオンの首元に触れる。すっと刺すような、甘い痛みとともに肉厚の舌がべっとりと首筋を這う。そうしている間に、アイオンの腰元に伸ばしたニヴの片手はアイオンの愚息をまさぐるようにしながら探し当てると、その熱い手のひらを服越しに押し当て刺激を与える。その無遠慮な乱暴な手つきとは裏腹に、じんわりとした、ゆっくりと温められるような優しい快感が下腹部に広がっていく感覚に、アイオンの思考は痺れ、抵抗することさえ忘れていく。
 雪が降り積もる厳しい寒さの中において、ニヴの熱に満ちた体はただ触れているだけで抗いがたい快感をアイオンに与えており、ニヴの荒々しい愛撫の手すらも強烈な麻薬のように心と体を捕らえていた。
 ニヴが口を離し、熱くねっとりとした唾液が糸を引く。その黒色の体は熱気を放ち、冷えた空気が変じた白い湯気を纏い、艶めかしく濡れたように輝いていた。眼前には、豊かな黒丘がじっとりと濡れて輝き、つんと澄ました先端からは雫が一つ垂れようとしている。アイオンがその姿に見惚れ圧倒されていると、ひどく熱のこもった蜜の泉がアイオンの愚息に押し当てられる。いつの間にか愚息はその姿を現されていたが、外の寒さなど全く感じないほどの熱をあてられ、今の今まで気づかないほどであった。その愚息の先に、べっとりと熱と蜜で熟れ切った獣口がしゃぶりつくように押し当てられている。抵抗を許さないほどの熱と快感が、じわりと先端から垂れ落ちるように染み込んでいっていた。
 そんな状況であると、アイオンが気づいたときには、もうすでに遅かった。

 そのまま黒い獣は腰を下ろし、有無を言わさぬまま戦士を飲み込む。

 熱く滑った肉襞をかき分けてずるりと、奥まで飲み込まれる。熱く引き絞られ、うねりを上げる蜜口へと。戦士の視界ははじけ、電流が走ったかのようにその身をのけ反らせる。死にかけ、冷え切った体を熱が包む。
 どぷり、と先から漏れる。
 温もりに揉まれ、絶える間もなく獣の中に吐き出してしまう。勢いのない、水が地の底から湧き出るかの如き射精。漏れ出しながら、しゃぶられる。そんなアイオンの絶頂を、ニヴは知ってか知らずかぐりぐりと腰元を押し付け回すように捻る。
 愚息が蜜内でかき混ぜられ、そのたびにとくり、とくりと精を吸い上げられていく。その淫靡な腰使いにアイオンはただただ嘆息するしかなかった。そうしたアイオンの様子を、ニヴは満足げに、うっとりとした様子で見つめる。熱く湿った吐息を一つ、大きく吐き出すと舌をだらりと下げ、唾液を滴らせながら腰の抽挿を始める。
 粘り、湿った蜜音とともに尻尾を振り乱し、獣が腰を振る。力強く、早く打ち付けられる腰は、より深く密着するように押し付けられ、そのまま蜜肉に食いつかれた愚息はぎゅっと引き絞るように引きずり出される。熱く舐る獣口の如き荒淫に瞬く間のうちに戦士は貪りつくされ、再びその身を捧げんと愚息は打ち震え始める。慈悲を乞う間すら与えられない、無理やり引き出されるかのような快感に戦士は耐えることしかできなかったが、半ば屈服したそれが再び獣の前にひれ伏すのは時間の問題であった。
 アイオンは何とか、せめてもの制止の意を示そうと手を伸ばすも、ニヴは何を勘違いしたのか嬉しそうに破顔をし、覆いかぶさるように抱き着くとそのまま深く口づけを交わす。より深く、ねっとりと湿った体が密着しながらの性交。赤金色の瞳に見つめられ、甘く熱い唾液と舌によって口内を貪られながら、より深く密着するように腰を振り落とし蜜炉の炎を高めていく。双方の両腕はしっかりと互いの背に回され、アイオンの胸板にはニヴの熱く汗で潤んだ黒い双丘が押し当てられ形を変えていく。
 甘く睦まじいツガイのような交わりに、ニヴの炉は一気に燃えあがり、溢れ出た炎は蜜のようにアイオンの愚息へと塗されていく。決して離すまいと、食いつくように締め上げている獣口から無理やり引き出され、そしてまた飲み込まれるという快感。痛いほどに締め付けられているはずなのに、滑る蜜によって苦も無く滑り込み、ただただ耐えようのない強烈な刺激だけが享受されていく。限界はすぐに訪れた。
 びくびくとひときわ大きく愚息が震えると、それを察したニヴは腰を密着させるように打ち据えるとそのまま両足を絡みつかせ、自らの最奥、熱炉の扉へとアイオンを導く。熱く、固いその扉は熱棒が押し当てられた途端、包み込むように吸い付き密着する。ぴったりと、隙間なく吸い付き押しつぶされた戦士はもはや絶えることも許されず、自らのすべてを吐き出す。
 最初の暴発とは違い、しっかりとため込まれたそれは勢いよく噴き出し、ニヴの炉の中を満たしていく。吸い上げ、咀嚼するように蠢く炉内によって絞り出される快感によって、数度突き上げるように腰が浮き上がる。べっとりと濃く、重さを感じるほどの精を受けたニヴの胎内は歓喜に打ち震えるように脈動し、それに呼応するようにニヴの全身はより熱く昂り、流れ出した汗でアイオンを濡らしていく。つんと濃いむせるような獣の薫りに、アイオンもまた昂り、吐き出してなお萎えることなくニヴの中でその存在を主張していた。

 荒い息を吐きながら、じっとりとニヴはアイオンの口から唇を離す。

 そのまま腰をうねるように、確認するようにぐにぐにと動かし、未だ硬度と熱を保つ戦士の剣を満足げに膣で愛撫していく。その艶めかしい動きに、戦士もまた抗いがたい快楽を示す吐息を大きく吐き出し、獣の腰元を撫でる。しなやかで、鍛え上げられたその体は熱く滑り、触れるだけでも言いようのない官能を帯びていた。

 異様な熱気にあてられ、戦士は黒い獣に夢中になっていた。

 戦士の心が、今自分で満たされているという確信に、ニヴは上機嫌となりその腰の動きを速める。捻り、回し、捏ね繰り、その度に粘り気のある熱蜜がぷちゅぷちゅと蜜音を響かせて炉口からあふれ出していく。その動きのさなか、獣の気まぐれにぐりゅりと引きだされた熱棒は炉の熱にも勝るとも劣らないほどに熱せられ、白い湯気を放ちながらどくどくと脈打つように動き、獣を求める。
 満足げにニヴは頷き、再び戦士を己の中に揺り戻すと、こなれた、荒々しい結合を再び始めていく。のけ反り、見せつけるようにその両足を開いてつながる。しっかりと咥えこまれ、熱を吐き出す炉の様子と、獣がふり乱れその美しい黒色の肌と毛皮が舞い、黒丘が揺れる姿はただそれだけで達してしまいそうなほどに蠱惑的であり、そしてその獣が今まさに自らに跨り自身とともに快楽を貪っているのだという感覚は、戦士に再び耐え難いほどの欲望を想起させていく。
 幾度となく腰を打ち、熱く滑った蜜口の中に埋め搾り上げていく。ニヴは魔物の本性を隠すことなく、狂乱した獣のように嬌声を上げ、その口を開け放したままぼたぼたと涎を振りまきその体と心が昂るままに快楽を貪り食らっていく。決して満たされることのない飢えを満たそうとするかのように強く強く腰を振るい、アイオンを攻め立てていく。その姿に、ただただ戦士は圧倒され、耐えるように強く獣の腰を掴み、振りほどかれないように力を籠めるのが精いっぱいであった。
 炎が藁を燃やすかの如く激しく早く燃え広がっていく、その快感にアイオンは再度叫び声をあげる。その声に応じるようにニヴもまた快叫を上げ遠吠えように深く喉を震わせ、全身もまた大きく震わせる。顫動し、収縮しながら蠢く蜜炉が深く深く落とされ、その中にくべられた戦士は再三の叫びをあげ果てる。それに合わせるように、獣も深く大きくのけ反るとあらん限りの歓喜の叫びを、その喉から迸らせ、全身を使って戦士にとどめを刺そうと、その体を震わせ躍動させながら、戦士の精を受け入れた炉を爆発させる。

 月下、雪原にその艶叫は響き渡るのであった。



 第十 雪原を往く

 ……藁の中で、戦士は眠る。
 そのそばで、黒い獣が焚き木の番をしながら戦士のことを守るようにその身を寄せて休んでいた。その姿は先ほどまでの狂獣っぷりからは考えられないほどに落ち着いており、子狼を守る母狼のようであった。
 淫らに歪んでいた口元はしっかりと結ばれ、劣情に燃えていた赤金の瞳は、静かに燃える篝火のように優しく揺らいでいる。

 ニヴは満足していた。長い間、満たされたことのない感情に満たされ、不思議なまでに落ち着いていた。そんな折、ニヴはちらりと、鋭い視線を藁の中に向ける。ニヴの視線に気が付いたのか、藁がふるりとおびえたように震える。
 「……覗き見たあ感心しないねえ おチビちゃん」
 低く唸るような声。ニヴの声音と、刺すような視線に耐えきれなくなったのか小さな妖精……ノチェが顔を出す。
 どことなく、その顔は紅く、いな、全身がほんのりの紅潮し艶づいていた。
 「ふふん 出てきたね ……別に責めやしないさ、それよりも見ていたなら聞いてみたいね どうだったかい、アタイとアイオンの交尾は」
 ノチェはニヴの言葉を前に、より一層紅潮すると、下腹部を……子宮の位置を両手で押さえながらもぞもぞと内股をこすり合わせるようにしながら黙ってしまう。ノチェは、明らかに発情していた。アイオンが充てられたように、ノチェもまたニヴの熱に充てられていたのかもしれない。
 もしくは、自らの愛する戦士が、黒い獣に手酷く“食べられて”しまったことに衝撃を受けたと同時に、戦士の気持ちよさそうな表情、声を聴き、自身もまた同じように戦士のことを“食べたい”と思ったのかもしれない。だが、どちらにせよノチェとアイオンでは種族以上に越えがたい、体躯の差という壁があった。
 それに、妖精であるノチェは自らの体に起きた変化が何を示すのか、まだよくわかっていなかった。性的なことに関しては、肝心なところで無知であったと言ってもよかったからである。だが、そうであったとしても、女としての本能だろうか、目の前にいる獣に戦士を取られた、という事実はノチェをひどく悔しがらせたのであった。
 それとなく、そんなノチェの心情を察したニヴは表情を緩めると、そっとノチェをアイオンの傍に行くように促す。
 「……戦士様の傍がいいんだろう? 傍によりな……なあに、取って食うほど飢えちゃいないさ 今は満腹だしな」
 そう言って、ニヴは自らの腹を撫でるようにさする。ノチェもニヴは敵ではないと、理解はしているのか怯えつつも速足でアイオンの傍に駆け寄ると、その胸元にしがみつくようにして抱き着く。その様子に、ニヴは微笑むと再び静かに寄り添うようにその身を休める。
 ただ静かに、時が流れていくのであった。



 ……喉の渇きを覚え、アイオンは目を覚ます。粗末な藁の寝床で、全裸に近い格好で寝ていたのだが、ニヴの体温のおかげかさほど寒さを感じることなく……むしろ水を欲するほどの暑さを感じるぐらいであった。ニヴも目を閉じ、安らかな寝息を立てており、その様子は最初に出会った頃や先ほどの情事からは想像できないほど大人しく感じられた。
 「あっ……起きたの?」
 裸の胸元で、鈴の声が鳴る。
 「ノチェ?」
 少し浮かされたようなノチェの声。アイオンは自らの胸元に、抱き着くように寝転んでいる妖精を見る。相変わらず妖精は可愛らしく、仄かな光を纏い夜闇の中でも輝く黒髪とその白い肌は幻想的な美しさをたたえている。そんな妖精の姫君が、どこか艶っぽく、熱のこもった表情をしていれば、それは言いようのない背徳的な艶情を感じさせた。
 「どうしたんだ?」
 最初は、自分と同じように暑さを感じているだけだと思ったアイオンであったが、じっと自身を見つめるノチェの黒曜の瞳を前に、確かな恋慕とその裏に潜む炎を見る。その事実にアイオンは動揺するも、思い返してみれば昨日の情事の間、ノチェはずっと意識を失っていたわけではないのだろうとアイオンは思い返す。むしろ、あの騒ぎの中で起きないという方が難しいと言えた。ノチェがアイオンとニヴの交合を見ていたとしても何ら不思議ではない。
 あれだけの激しさに加え、自らも理性を失っていた。傍にいたノチェを忘れるぐらいに……その事実に、アイオンはひどく恥じ入るようにその口を結ぶ。
 そんなアイオンの心情を知ってか知らずか、ノチェは少しいじけるようにその身を起こすと、そのしなやかな肢体を投げ出す。薄紫の薄衣に守られた蠱惑的な神秘、それがアイオンの眼前にあった。その艶やかなノチェの姿に、アイオンは仄かな興奮を覚える。それはまるで、守るべきものとばかり思っていた少女が、いつの間にか自らの魅力と武器を知る“女”になっていた、そんな不可思議な情動であった。
 (このままではまずい……)
 そう感じたアイオンは、両手でノチェを包み込むとさっとその身を起こす。手の中の要請は暖かく、熱を持っていた。
 「……服を、着よう」
 「むぅ」
 手の隙間から、顔を出してむくれるノチェ。その様子は以前の可愛らしい妖精そのままであったが、やはりどこか艶と熱を帯びていた。
 「起きたのかい?」
 アイオンが動いたことで目を覚ましたのか、ニヴもまた目を覚ます。
 「ああ」
 するりと、自然にすり寄るニヴを制止するようにアイオンは手で受け止める。
 「そう警戒しなさんな、お互い乳繰り合った仲じゃあないか アタイ……ますますあんたのことが気に入っちまったよ」
 すむすむと、鼻を少し引くつかせながらちろりとアイオンの肩を舐める。じっと、焼きつくような快感が肩に走る。これ以上、ここで睦み逢うつもりはなかったが、アイオンは振り払うことはせずにニヴの好きにさせていた。
 「……なあ、このままアタイと行かないかい? あんたのこと、独り占めにしたくなっちまったよ」
 熱い吐息とともに漂う、情のこもった誘い。だが、答えは分かっているのだろう、ニヴの問いはどこか悪戯めいた響きを含んでいた。

 「断る」

 にべもない即答。ニヴもわかっていた、この男があのハイオークとケット・シーを見捨てはしないと、一時の快楽に流されて見捨てるような男だったならば、ニヴはあえて誘うことなどしなかったであろう。そんな男であれば、言わずとも勝手についてきたであろうからだ。もっとも、そんな男であったならばニヴは歯牙にもかけなかったであろう。
 「まあ……わかっていたよ でも、ついていくぐらいは良いだろう? それぐらいの責任はとってもらわなきゃね」
 当然、これの答えもわかっていた。わかっていたが、ニヴはアイオンの口からきちんと聞きたかった。
 「……ああ」
 なんとなく、アイオンはニヴの狙いを察していた。それを知りつつなし崩し的に関係を持ってしまった、そう思わずにはいられなかったが、死地から助けられたのは事実であったし、今となっては前ほどの警戒心や敵対心を抱く理由もなかった。だが、それは別にしても次々と魔物と関係を持ってしまった、しまっているという事実にアイオンは諦めに近い心境に近づきつつあった。
 何らかの形で魅了されていたのかもしれないが、それにしてもニヴを抱くことに対する抵抗がなさ過ぎたからである。
 アイオンは深くため息を吐く。
 (己は、ここまで貞操観念の緩い男であっただろうか……)

 相変わらず、傍ではアイオンにすりすりと全身をこすりつけるニヴと、その様子を怒ったように見て抗議するノチェがアイオンの手の中でぽっぽと発光しながら熱を放っていた。



 「ニヴ! ニヴ!」
 アイオンたちと最初に合流したのはカルタを連れたヘルハウンドであった。少々小柄ではあったが、ヘルハウンドらしからぬ人懐っこい笑顔が特徴的であった。
 「クロ、戻ったね アイオン、この子はクロっていうんだ」
 クロと呼ばれたヘルハウンドはアイオンの方を見ると、興味深げに鼻を鳴らす。
 「アイオン! アイオン! 怖かったよー! どうして離れていってしまうのさ!」
 カルタはといえば、アイオンと出会うなり飛びつくように抱き着き、べしべしと顔を打ち付けながらヒシっとしがみつくように甘えていた。
 アイオンはそんなカルタをなだめるように抱き留め、凍った雪玉が付いてしまった毛皮を撫でて払ってあげていた。どうやらクロが道に迷ったのかどうかしたらしく、雪原を一晩中彷徨っていたらしいのであった。
 「場所をしっかり伝えてなかったからねぇ……」
 そう言ってニヴはちらりと舌を出す。その様子に、アイオンはますますハメられたのではという思いが強まるも、腹をくくって気にしないことに決める。
 「それはそうと、なんでそこの狼と仲良さそうにしているのさ! ずるいよ! やったんでしょ⁉」
 なぜわかる、驚いたアイオンはそう口の中で呟くも、腕の中でわちゃわちゃと騒ぐカルタを落ち着かせようとしたその時であった。

 「アイオーン! 無事だったかー⁉」

 ガーラの声が、雪原から届く。
その快活な響きのした方向に、アイオンは顔を向ける。すると、いったいどこで調達したのか、というよりどういうわけかガーラを連れ去った二体のヘルハウンドを簡素なそりに繋ぎ、犬ぞりのようにしてガーラがこちらに向かってきていた。白銀の雪原を、褐色の女戦士と黒い獣が二匹そりを引いて動く様子は、どこか物語めいた一節のようであった。
 ガーラは廃墟の傍までそりを寄せると、飛び降りそのままアイオンの方へと駆け寄ると、カルタと同じく飛び跳ねるようにしてアイオンへと抱き着く。最初に抱き着いていたカルタを押しつぶす形で。
 「ちょっと!! ああっ!」
 「アイオン! 無事で、無事で本当に良かった!」
 ふわりと薫る、ガーラの薫りに包まれ、アイオンもまた同じく強くガーラを抱きしめ返す。しっかりと抱き留めても、もうアイオンはよろけることはなかった。その事実が、ガーラにはどうしても嬉しく感じられた。昨日の夜、あの恐ろしい夜に感じた死の気配は、もう感じなかったからだ。
 「すまない、心配をかけたな」
 「いいんだ! いいんだ……アイオンさえ無事ならそれで」
 そのまま感極まったのか、ガーラはアイオンの顔を押さえるとそのまま顔を寄せる。
 口づけを交わそうとしたその時である。二人の間から苦し気なうめき声が漏れてきたのは。
 「うぐぐ……ちょ、ちょっと……これ、以上、はっ!」
 カルタがぎゅむぎゅむと、ガーラの巨乳に溺れながら、空気を求めて顔を出そうとしていた。その様子に、アイオンとの逢瀬に水を差されたガーラはむすっとして応じる。
 「……なんだい、邪魔だね」
 ガーラは至極残念そうに体を離すと、潰れながらも離れようとしなかったカルタをぺりっと引きはがし雪の上に放り投げる。
 「猫! 猫!」
 そして、放り投げられたカルタをクロがその口で咥えるように捕らえる。
 「あっあーっ!」
 「んべろんべべろんべ」
 放り投げられた先でクロに捕まり悲痛な叫びをあげるカルタを、気に入ったのかべろべろと舐め始めるクロ。その様子がおかしく、アイオンは小さく微笑む。つらく厳しい冬の旅の中で初めて見せたかもしれない、穏やかな笑みであった。
 その穏やかな笑みを、どきりとした様子でガーラは眺めていた。しばしの間、ゆっくりと触れ合うような時がアイオンとガーラの間で流れる。
 だが、それは別として、ガーラには確認せねばならない問題があった。

 どうして、愛する戦士の体から脇にいる黒い獣の匂いがするのか、という問題である。



 ……「ガーラ……」
 最早、許してくれ、とは言わず……言えず、ただアイオンは愛する者の名を呼び、頭を垂れて許しを請う。ガーラとしても、もしや、と思っていただけに嫌な予感の的中ではあった。そもそも昨夜のアイオンとニヴが、ノチェを連れていたとはいえ二人きりで消えた時点でまずいと思っていたのである。だからこそ森を抜けてすぐに二体のヘルハウンドを打ちのめし、簡素なそりを作り上げて急行したものの運が悪いことに……もしくは初めからそれを狙って……ガーラたちが森から抜けた場所が一番アイオンから遠い場所であった。
 結局、合流できたのは夜明けから暫くたって、最後になってしまった。再会の喜びは大きかったが、それでもやはり、愛する人がほかの魔物を愛し、愛されてしまったという事実は何とももどかしいものであった。

 だが結局、ガーラは許すのであった。既にカルタの件で通った道であるし、どうやらニヴの方も無理やり独り占めにしよう、という気は既になく、何よりアイオンの命を救ったという意味でもガーラはあまり強く出ることができなかったからである。
 それに、アイオンに惹かれているのが群れの統率者であるニヴだけのようであることと、冬の寒さをしのぐ、という点でも炎を操れるヘルハウンドたちの存在はとてもありがたいものであった。
 愛する人の旅が、これで少しでも楽になるならば、愛人の一人や二人、増えるのは問題ではなく。むしろ、戦いという点で見ればガーラと同じく天性の戦士でもあるヘルハウンドたちはケット・シーや妖精よりも頼りになるといってよかった。

 「話は決まったかい?」
 答えは分かっているだろうに、という顔で渋々ガーラはニヴ達の同行を許可する。その返事に、ニヴはいやらしい笑みを浮かべて、してやったりという顔で笑う。
 「それじゃあ、改めて……アタイはニヴ よろしくね」
 そう言って、ちらりとアイオンを見るとぺろりと舌なめずりをする。
 「温めて欲しかったらいつでも言いな あんたなら……大歓迎だよ、アイオン……そこの雌猪よりもよくしてあげるからさあ……」
 「待ちなッ!」
 しんなりと熱情を募らせて近づこうとするニヴを、ガーラが威嚇するようにして制止する。そんなガーラをからかうようにしてニヴは離れると、ほかの三体にも挨拶をするように促す。
 「クロはクロ! クロ!」
 無邪気な笑みで、クロが返事をする。こうしてみると、やはりほかの三体よりも小柄であることがよく分かった。ヘルハウンドとは思えぬ人懐っこさで、アイオンにも興味津々といった様子で近づいてくる。その様子にガーラは警戒するも、ガーラにも同じようにクロは近づいていく。もとより懐っこい性格なのかもしれないが、ますますヘルハウンドらしくないなと、アイオンは感じる。
 「……アタシはザンナ よろしく」
 ガーラにこき使われたためか、へばった様子で返事をするザンナ。アイオンにはあまり興味がないのか、熱い視線を向けるニヴとは対照的に少し冷めた様子でアイオンのことを見ていた。だが、冷たい視線というよりかは好奇心を含んだ冷静さ、という目であった。
 「あたいはプレザ よろしくな!」
 ザンナと同じくガーラにこき使われていたようだが、ザンナよりかは元気そうに返事をするプレザ。だが、やはり少しへばっているのか、息は荒い。こちらもあまりアイオンには興味がないのか、興味深げにじろじろと見た後はザンナの方へと戻る。だが、元々落ち着きがない性格なのか、ザンナの周りをうろうろしては鬱陶しそうに唸られていた。

 「それじゃあ、出発しようか だいぶ日が昇ってしまったね」
 尻尾を一振り、ニヴが指揮をとる。その言葉に、プレザとザンナはもっと休憩したいとごねるも、ニヴに睨まれ、ガーラに威嚇されたことから渋々いうことを聞く。
 「ほら、アイオンはあたしに掴まりな」
 そう言ってガーラは、手を差し出す。ガーラお手製の犬ぞりに繋がれたプレザとザンナは極めて不満げにしていたが、その従順さからもうすでにガーラとの力関係は決まったのだろうことがはっきりとうかがえたのである。
 「おっとお待ち、なあアイオン アタイの上は快適だっただろう? ほらぁ」
 アイオンがガーラとともに行こうと、その手を取ろうとした時であった。ニヴが割って入ると、むわりと熱を放ちながら腰を振りアイオンを誘う。確かに、ニヴの乗り心地は快適であったことをアイオンは思い出していた。
 「……邪魔しないでくれるかい?」
 「決めるのはアイオンだよ それに、さすがに妹たちの負担を増やすのは姉としてしのびないからねえ ……それにそのそり、少し小さいじゃないか」
 確かに、ニヴの言うことには一理あった。負担はともかく、そりは急ぎで作ったためかそこまで大きくはなく、どちらかといえば一人乗りといっていい大きさであった。
 「あれ? 僕はどうな……ひぃっ!」
 「カルタ! カルタ運ぶ!」
 ニヴとガーラの間で、静かなにらみ合いが始まりつつある横で、カルタは一足早くクロに捕まり、その背に放り投げられる。その横で、何でもいいから早くしてくれと言わんばかりにプレザとザンナが冷めた視線を投げかけていた。それと同時に、できることならばガーラとともに乗ると言ってくれるな、とその視線は告げてもいた。
 「……ニヴの背に乗っていくよ ガーラ、すまない」
 その言葉に心底がっかりした様子のガーラの後ろで、ほっとした様子でプレザとザンナが息を吐いていた。
 「……せっかく、作ったのに……」
 そう、寂しげにぼそりと呟いたガーラの言葉を聞き、アイオンは申し訳ない気持ちになりつつもニヴの方へと向き直る。ニヴは待ちきれないとでもいうように、より艶めかしく腰を振り、その尾をアイオンに絡みつけていく。
 「イヒヒ! ほらっほらっ! 早く早く! 早くアタイにお乗りよぉ!」
 選ばれたのがよほどうれしかったのか、ニヴは満面の笑みでアイオンを誘う。その様子に、アイオンは不安になるも、昨晩と同じように後ろから覆いかぶさるようにニヴの体に両腕を回す。やはり、熱を放つその体はしなやかで心地よく、その背に乗ればまさに寒さを感じることはないほどの暖かさであった。
 傍から見れば、少し不格好ではあったが、それでも乗り心地は悪くなかった。そして、その様子をガーラは残念そうに眺めると、ぼそりと“もっと大きく作り直すか……”とため息混じりに呟くのであった。



 「じゃあ、行くよ! しっかりついてきな!」
 そう叫ぶと、続いて一吼え遠吠えのように叫び、ニヴは先導きって走り出す。
 ニヴに続いてクロが、そして一番最後をプレザとザンナがガーラの犬ぞりを引いて走る。

 アイオンたち乗せて、ニヴ達は駆けていく。

 ニヴの背に掴まるアイオンを、ふわりと甘い薫りがかすめる。
 ツェツィリア、その名をアイオンは口の中で呟く。
 少女の正体は、なんとなくわかってはいた。だが、確証はもてなかった。それでも、ニヴと同じく、自身を助けてくれたのだとアイオンは感じていた。
 (……いずれ、また会えるだろうか)
 ニヴの背に掴まりながら、あの蒼い夢の少女を想う。だが、いつまでも夢想の中に浸っているわけにはいくまいと、アイオンは前を向く。白く輝く雪原の果ては見えることなく、続いているのだから。



 一つの群れが、雪原を往く……その後を、小さな蒼い影が舞い踊るように飛んで追いかけていた……



21/11/24 05:00更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
今回も読んでいただき、ありがとうございます。

色々と拙い作品とはいえ、第五話まで書くことができました。
今後もアイオンのサーガにお付き合いいただけましたら、幸いです。

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