連載小説
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幕間参-降山来町- ※エロなし
 登場人物

 ティエン
 仙石楼にて修行を積まんとしている拳士。
 宿敵たる三獣拳士の帰還を待ち望んでいる。

 タオフー(桃虎)
 雷爪のライフーの妹……なのだということを忘れかけている人虎の魔物娘。
 鍛え抜かれた完璧な肉体がティエンの好み。

 フオイン(火銀)
 炎嵐のフオジンの妹……である火鼠の魔物娘。
 耀かんばかりの健康的な肉体がティエンの好み。

 ヘイラン(黒蘭)
 岩流のバイヘイの妹……で兄が本当にいたか曖昧なレンシュンマオの魔物娘。
 柔雲の如き白く滑らかな肉体がティエンの好み。

 ナオ(脳)
 ヘイラン作“獣の脳の秘伝の薬味煮込み”が意思?を持ち動き出した料理。
 ティエンのことがとっても大好き。

 注……一石=100s、100gほど




 ……ファンジェン一門との激闘、それが起こる数日前……
 仙石楼でタオフーたちが堕淫、惰性を貪っていた頃。
 ティエンは一人山道を下っていた。

 少しばかり靄のかかった、穏やかな昼下がり。てくてくとティエンは足取り軽く、日差しの差し込む木漏れ日の中を歩き続けていた。
 少しばかりの荷物を背に抱え、山を下る様子は一見せずとも道士か修験者のようであり、ややもすれば修行に心折れ下ってきたようにも見えた。

 数多くの修練者が山の頂を目指し、そして道破れては山を下るものであり、毎日……とはいかずとも、一周、一月おきに誰かが登り、そして降りてくる地でもあった。
 もちろん、上ったきり降りてこない者もいた。それの行方を捜すものは居らず、また探しようもなかったであろう。

 ただ広大なる山脈がそこに横たわり、そしてまたその頂たる天崙山もまた穏やかに鎮座し続けている。その山の一角に、倒れる者がいたとて見つけようがあるはずがなかったのである。

 さて、そんな天崙山に上った一人であるティエンだったが、今こうして山を下ってきたのはその道破れての事ではない。山の中腹、その中心に座すは仙石楼……そこに住まう獣仙達……タオフーら、三獣拳士の妹たちのためであった。

 ……旨い食事を食べさせてあげたい……

 そんな凡夫ともいえるような、慎ましやかな望みのためティエンは今ここにいた。


 うっすらと、眼下の霧が晴れて山の麓が薄切りの中から顔を出す。
 靄がかかりつつも、ところどころ光の切れ目が差し込み始め、穏やかな陽光がすそ野に広がる街を照らす。
 天崙山と街、その間には鬱蒼と茂る林が広がり、街と山……人と自然の領域を隔てるように小川と呼ぶには大きい川が流れ、いくつかの橋が林に続くようにかけられている。橋を渡った先は広々とした平原が、連なる山脈の中にぽっかりと空いた盆のように広がっており、そこに天崙山の麓街があった。少しばかり色の禿げた紅色の楼があちこち立ち並び、歴史ある家屋がぼろぼろの石壁に囲まれた、窮屈な平地の中に押し込められている。中心には大きな広場があり、そこでは旅人や、ティエンのような修行者相手に商売をする店が幾つも軒を連ねていた。少しばかり外れてはいるが、帝のいる都からそう遠くない場所ということもあり、街は交易や旅の中継地点としてもそれなりの賑わいを見せている場所でもあった。そんな街の周りには畑が広がり、ぽつぽつと小さな影のように見える人々が今日も日々の糧を得ようと畑仕事に精を出しているのが見える。
 (……もう間もなく収穫のようだ)
 黄金色に実る穂の実が豊かに揺れる田園を眺め、ティエンは失いつつあった時の流れを思い出す。当初、ティエンがこの山に登った時は冬が明け、春先にかかるかどうかといった時分であった。山道には雪が残り、上に上がれば上がるほど凍て刺す空気に身が引き締まる思いであったことを懐かしむように、ティエンは目を細めて懐古する。
 山に潜むと言われた三匹の魔獣、それらに出会ったのは山を登ってすぐの事であった。山の物の怪を打ち倒し払いながら、山を進むティエンの前に立ちはだかったのが……ライフーであった。霧が晴れた夕刻、夕焼けに照らされながらもなおはっきりと輝く白金色を纏い、鋭い氷柱の如き黄金を湛えたあの眼、それが大岩の上で立ち……己を見下ろしていた……ティエンは目を閉じ、息を深く吸う。

 ―宿敵―

 そう思うに足る、出会いであった。
 今でも思い返すたびに、心躍り体が火照る。互いの手の内、力の先もわからぬ尤も緊迫した戦い……あれから長きを経て、数度に渡る戦いを経てもなお決着はついていない。
 (ライフー殿……)
 目を開き、晴れ渡った空を見る。薄靄がちらちらと光り、大きな綿雲が流れていく、穏やかな青空。
 ティエンは今一度、静かに深く息を吸うと、気を持ち直すように手荷物を持ち直し山のすそ野へと向かうのであった。



 ……ティエンが街に着いたのは、それから暫く……長閑な午後のひと時に差し掛かる刻であった。鬱蒼とした林は思ったよりも長くはなく、ティエンの健脚をもってしなくとも二から三刻の間も歩めば麓から街の境、橋までは歩めそうであった。何より、鬱蒼としていても道がある、ただそれだけで大分歩きやすいことには変わりなかった。
 とはいえ、そんな林と言えど、武の心得のない街や村の人々からすれば十分危険な場所には変わりなかった……はずであったが、どういうわけかティエンが前に上らんと進んだ時とは違い、魔物が潜む気配はすれどもティエンの肉を饗しようと襲い来るようなことはなく、むしろ避けているかのような様相で一体たりとも魔物は出てこなかった。ティエンからしてみれば、どうにも不思議というか、少しばかり怪訝に思うようなことであった。
 (……俺は一体何を期待していたのだろう)
 襲い来るとばかりに思っていた心、その戦いを望むかのような心地にティエンはすっと芽生え始めた“傲慢さ”を戒めるように口を噛む。戦いなど、ないほうが良い……ティエンはいま再び己が力を求める理由を口の中で結び、街へと一歩踏み出していく。


 ……果たして、久しく街の……人々の賑わいを忘れていたティエンにとって、都ほどではないとしても、賑やかな人波に揉まれるというのはなかなかに難儀するようなことであった。

 街へと入る朱色の門はあけっぴろげであり、その脇では暇そうな守衛が数人たむろをして、呑気に博打を打つことに集中しており、修行者が一人山から下りてきた程度では気にも留めていなかった……というよりも気づいてすらいなかったであろう。恐らく、ティエンのような修行者等の出入りがそれなりにあるがために開け閉めが面倒だということで開けっ放しなことに加え、門の周りには魔物除けの……あまりにも古く、何時のものかはわからないほどの……結界塔が幾つか建てられており、それが魔物を寄せ付けてなかったために、長らくこちらの門の仕事はただ人の流れを見張るだけという退屈極まりないものになっていたのだろう。しかし、そうだとしてもあまりにもだらけた様子にティエンは少しばかりため息に近い息を吐くと、そのまま街中へと進んでいく。
 門の周りは寂れた様子ではあったが、少し奥へと入ればすぐに華やかな喧騒が上がるようになり、ティエンが目的とする商店が連なる場所へと向かおうものならばたちまちのうちに様々な人々が波のように行き交う雑踏へと変わっていく。
 あちこちから聞こえ見えてくるのは、日々の生活を営んでいる人々の声であり、姿であった。その様相はかつてこの地を訪れた時と変わることのないもので、変わったことがあれば季節による品ぞろえや衣服ぐらいのものだっただろう。そんな雑踏の中に、ティエンと同じく襤褸をまとったような人物の姿もちらほらと見えていた。
 特に何もせずに暇そうにしている修行者、道端に座り込み何かを調合している道士風の男、店先で何か札でも書いているのか椅子に座り筆を退屈そうに走らせている者などなど……この街にとってティエンのようなよそ者というのは特別珍しいものでもないのが伺えるようであった。それはティエンにとってしてみれば、余計な詮索を受けないことでもありありがたいことである。少なくとも、問題を起こさぬ限りは……という話ではあるが。

 そのまままっすぐ、商店が連なる広場へと至る。いよいよ、人々の喧騒忙しなく、叫ぶように値切る声、酔っぱらいの喧嘩、邪魔だ邪魔だと人々を押しのけ進む荷物を載せた牛車、それに負けじとかき鳴らす芸者の楽器……兎にも角にもうるさかった。
 それに何とも皆、忙しそうにしており、ティエンが調味料を用立てようと店の場所を聞こうにも誰一人として捕まえることができなかった。仕方なく、ティエンは人込みを掻き分けるようにして店を探してみるのだが、この場所はおろか人の世にも若干疎い男である、間違った店に入ること数回……ようやく目的の店を見つけたのは少しばかり日が傾いてきた頃合いになっての事であった。

 「いらっしゃい! 何がいるんだい」
 大きな甕が立ち並ぶ、倉庫のような店先で恰幅の良い女将が甲高い声を張り上げティエンを見る。まっすぐと立つ鍛え抜かれた体の修行者といった風の男である、正直商売としてはあまり期待できる相手ではなかったが、目に入ったならば喰いついてみるのが女将の商売の流儀であった。いつもの料亭の相手ではないし、何ならこの辺に住んでいる相手でもなかった、見覚えのない顔……というだけで修行者か旅人か、何なら最近越してきた手合いか……何であれこの街の馴染みではないことは見ればすぐに女将には分かった。
 「あ、ああ……醤に酢……それと砂糖の類はありますか」
 少しばかり女将の勢いに押されるも、ティエンは注文を出す。
 「あるよ! たださらさらの砂糖はないねえ、固めた黒糖ならあるよ!」
 「ではそれを……量は」
 「待った! あんた、疑いたくはないけど金は持っているのかい」
 量を告げようとしたティエンの眼前にぱっと手のひらを突き付け、くるりと手を返して出すものを出すように催促する。修行者は客の一人には違いないが、かといって金持ちというわけでもないというのがこの街の常識である。用意したが良いが金がないなどしょっちゅうであり、それがもとで揉めることなどこの街では日常茶飯事でもあった。それだけに修行者という存在を煙たがるものも多かった。なまじ、変に力を持っているだけ厄介な相手ともいえたからである。そんなこともあり、大抵はどの店も腕利きの用心棒を雇っており、この店を例にもれず二人の用心棒が店の奥と女将のすぐ後ろに目立たぬように控えていた。
 「これは失礼した……これは使えますか」
 ぶしつけではあるが、至極真っ当である。ティエンは特に顔色一つ変えずに懐から銭を出す。仙石楼に転がっていた古い通貨で、少しばかり変色していたが使えなくはなさそうであった……が、女将の顔は険しくなる。
 「こりゃまた! ……ふる〜いものだねぇ、こんなの持ってるのって……ばあ様ぐらいだよ! 一応、銀みたいだけど……量は、いくら欲しいの」
 「それぞれ一石ほど」
 「一石も! ……悪いけど……道士さん、これじゃあ全然足りないね」
 今日において調味料は高級品である。特に高いのが甘味料であった。そうでなくとも、一介の個人が買うような量でもなかった。一度に一石も買うなど、どこかの料亭か何かなのだろうかと思わんばかりであった……それでも一度にこの量を買い付けるのは繁盛しているところぐらいである。
 そんな女将の驚きの声と同時に、のっそりと用心棒が威嚇をするように立ち上がる。腰には剣をぶら下げ、何時でも抜けるようにしていた。
 「……ふむ、ではこれは」
 そう言ってティエンは手荷物に手を入れると、一つ黄金色に輝く……金の塊……もといヘイランが作った料理の一つ、肉切れの黄金を取り出す。ただぶつ切りにした肉を金塊に変えただけの味気ない料理ではあったが、そんなことを知りもしない商人にとっては何よりのご馳走でもあった。それこそ、目の色を変え涎を垂らしてしまうほどに。
 当然、女将の顔色もぱっと早変わりする。
 「! うもう! 道士様ったら! 早く出しておくれよ!」
 ごとりと、重々しい音を立ててかつて肉切れだった金の延べ棒がはかりの上に置かれる。それは外の陽光を浴び、神々しく光り輝いていた……少なくとも女将の目にはそう映った。
 「……あ! でも、ちょっと足りないかもねえ……ねえ、道士様……もうちょっと……ないとねえ」
 重さだけ見れば、すでに十分はおろか御釣りが出るほどであったが、女将は相手がそこまで金銭に聡くないことを見抜くや否や、さらに吹っ掛けることを試みる。
 「ではこれで」
 そう言って、ティエンはさらに荷物から肉切れ……ではなく芋だったと思わしき金塊をさらに取り出し、はかりの上に置く。ずしりと針が動き、灼け付くような輝きが、さらに増える。
 「あっあっ ……わ、わかった でも、今日は……ちょっと渡せないね 荷物を包んだり、甕に入れるのに時間がかかるさな 悪いけど明日の朝また来ておくれよ 道士様もどう運ぶのかわからないけど、荷物を運ぶ用立てがあるだろう」
 あっさりと倍近いかそれ以上の金を渡してきたティエン相手にすっかり上機嫌な女将であったが、まだ信用はしていなかった。そこは手堅い商売人である。すぐに荷物を渡さずに、この金が本当に金であるかを調べる腹積もりだったのである。本物であれば丸儲けであるし、そうでないならば品を渡さねば良いだけであった。
 とはいえ、少なくとも肉切れと芋に関しては、元々食べ物だったというだけで、今となっては中身の芯まで完全完璧な純金であった。そこだけは、ヘイランは手を抜かなかったのである。ただ、料理としては食べることができない時点で失敗だったというだけであった。
 「……時が惜しいので、夜明け一番にいただきたいのですが」
 「夜明け……夜明けね、あいよ それじゃあ朝一番にこの店の前でね 道士様、お名前は」
 「ティエン、と申します」
 なるべく早く戻りたかったが、店主が言うからには仕方がない。ティエンは店を出ると、喧騒から離れるべく外壁部へと向かう。久々の人込みに揉まれるのは、ティエンにとってはなかなか疲れる経験であった。何であれ、後は寝て朝を待つだけとなった今、ティエンは次何時戻れるか、もしくはもう二度と戻れないかもわからない下界を見て回ろうと思い立つ。

 霧深く切り立った山脈と雄大な自然に囲まれた山の上とは違い、麓はなだらかな平地や丘が広がり、あたりを覆う霧は薄く、暖かな陽光が周囲をほんのりと照らしていた。その薄靄の中に色とりどりの作物や黄金の穂波が広がる様子は平和そのものであり、ティエンはこうした平穏を守るために我々は居るのだと思い返す。
 そのまま暫く、外壁の上で下界の景色を眺め見ようとティエンが意識を傾きかけさせた時であった、遠くの丘……畑を越え、平野と山林の境、そこを越えた草木の茂る山道らしき場所……そこに奇妙なものを見つける。
 それは一見して人影のようであったが、人にしては背丈が大きく感じられたのである、人であれば間違いなく十尺(約3m)はあろうほどであった。それが複数、先の山林の中で動くのが見えたのである。いや、それは確かに動いていた。それも人ではありえないような速さで人影が山の中、木々の陰に紛れて疾走していたのである。このティエンをしても、いくら下界に疎くとも、凡その人々が風の如く……それも十尺ほどの体躯をもってして走ることができるとは到底思ってはいない。そもそもそれだけの体躯を誇るというだけで十分注目に値するだけの珍しさである。
 それが複数ともなれば考えられるのはまず一つだけであった。

 ―魔物―

 ティエンは素早く周囲を見渡すも、陽が傾きかけたこの時分になってもなお兵士が篝火を焚こうと石壁の上に上がってくることはなく、それどころか周囲には兵士すらいないような有様であった。

 探し出し、脅威を伝えることもできる

 しかし、それでは遅すぎる。
 あの道は人里まで通じ、しかも相手は風のように早く走れるのだ、そんな相手に対し時を失することはできない。

 迷う暇はなかった

 ティエンは跳ねるように、石壁の上から跳ね降りると、着地と同時に地を蹴り駈ける。その姿もまた、風のようであった。いや、まさに一迅の風だったであろう。入り組み、木々が生い茂る山脈と違い、整地された平地である。踏みしめる足は十全に地を蹴り、爪先に当たる木々の根や小岩もない。身を低くしてもなお視界は開け、先を見通すことができる。
 即ち、その身を風に変えることなどティエンにとっては最早造作もないことであった。

 穂を薙ぐように、風が通る。

 伏せるように、そして当たらぬように、疾風の如く。

 一瞬、背を風が撫でたと振り返れば何もなく、先で微かに土ぼこりが舞うと眺めてみれば矢が抜けるように何かが駆け貫ける。後に残るはただ“誰か”が足音と共に駆け抜け去っていったということと、ほんのりと舞い散る砂ぼこりだけであった。

 かくして、疾風はすそ野の平野を駆け抜け、そのまま林の中へと潜り込みその気配を隠す。山で過ごすに慣れたこの体、森林程度であれば身を隠しながら早蛇の如く廻るなど容易いことであった。

 そのまま、木々の影に紛れながら音と気配を追う。
 だが、相手も手練れ、それはティエンも察していた。いくら身を伏せたとて風の如く平野を翔れば嫌でも目立つもの。だが、相手もまた山林を駈けながらの行軍である。気づかぬことに賭けたが、ティエンが山林に入って暫く……恐らく相手が見失ったと同時に……相手もまた山林の靄の如く、気配を消して紛れてしまった。
 “狙いは我ら”それも相手に悟られている。ティエンは影を走りながら思考を巡らせる。あれほどの体躯、そして速さで駈けていながら気配を瞬時に消すことができる手合い、それは相当な手練れである。少なくとも見失うと同時に気配を消したことからも戦い慣れている相手であることは確かであった。

 (だが……消せぬものもある)

 意識を集中させながら、ティエンは気を静める。
 たとえ気配を消す術に長けていようとも、消し難いものはある。一つに、それは音であり、一つに、それはにおいであり、一つに、それは体の動きである……それすなわち、呼吸。如何なものとて、生きている限りは息を吸い、そして吐く。その気配だけは如何にしても消し難いものであった。大なれば大なる程、その呼吸も大なるものになる。それに相手は集団、しかも先ほどまで走っていたともなれば息切れの一つもしようものである。それはティエンとて同じであったが、ティエンの体躯は少なくとも相手よりかは小さく、それに呼吸法を元に即座に体を整える術も持ち合わせていた。
 そんな微かな“気配”をティエンは探り……そして覚る……幾つか、山林に潜む魔物と思わしき中にまとまった五つの気配。集団であることを鑑みても、ティエンが見た相手である可能性が大きかった。そう離れてもいない、恐らくティエンが山に入ったと同時にその場で止まったのだろう、そういう意味ではティエンが予測していた位置とはずれてはいたが、この際はどちらでも良かった。

 (……往くか)
 ゆっくりと橙に染まる薄靄の中、ティエンは翔る。手の内がわからぬは互いに同じ、だが相手は集団であることからこちらは不利と言えた。
 だが、不利と分かって逃げるようであればそもそもここまで来ていない。

 ティエンは静かに、影を踏む。


 ……かくして、ティエンは開けた山道、その中心に佇む一団を見つけたのである。その姿は果たして……魔物のそれであった。
 いうなれば、人馬一体、人の半身と馬の半身を重ね合わせたが如くの存在。霧の大陸においては、北の大平原に棲むとされる龍馬族(ケンタウロス)であった。
 屈強な馬体は何より、半身たる人の身もまた鍛え抜かれた戦士そのものであり、それが人より遥かな高みから武を振るうのである。龍馬一騎人兵百値……優れた龍馬は一騎で人の兵士百人に値する……そんな言葉もあるほどであり、そんな龍馬族が跋扈する北の大平原は長らく人にとって不可侵の領域であり、そして時として群れで襲い来る龍馬の大軍は防ぎようのない災害の如きものであった。時として、征伐に赴く時の権力者もいたが、一度として成功することはなかった。その龍馬が五騎、並ぶように山道に連なり気配を探るように睨みを利かしていたのである。

 (ここ最近は見ないと聞いていたが……)
 ティエンは相手を見ながら、静かに逡巡する。龍馬族の縄張りは大平原とその近辺に限られており、しかも大抵の龍馬族は山脈の多い場所は龍馬の体躯においては活動に向かぬため嫌って近づかないものであり、このような山道で見ること自体稀と言えた。それでもなお山脈を進むとすれば、険しく起伏の多い山道と平坦な農道、どちらを取ると問われれば殆どの龍馬族は平坦な道を選ぶものである。
 だが、事実こうして山道を……それもある種隠れるように駈けていたというのはティエンをしてみても怪しかった。

 その龍馬の一団は道を陣取るように、息をひそめるかの如く静かに佇んでいた。ティエンは素早くその身を木陰に隠すと、そっと耳を立てる。だが、相手も警戒しているのか、息を殺し、人とは違う馬耳をぴくりと回しながらほんの少しの衣擦れの音さえも聞き逃さんと集中していた。


 暫く、文字通り息を殺すような静寂が過ぎる。


 虫、風、そして葉擦れの音。
 山の息遣いだけが過ぎ去っていく。

 やがて、龍馬の一団、その中心にいる者の傍に控えている龍馬がそっと一団の長らしきその龍馬に近づくと、そっと耳打ちをするように会話を始める。

 「……ジエン殿、いかがいたしますか」
 「吾らに気付いた者がいる それは間違いない」
 「人間どもの兵でしょうか」
 「……それを確かめねば」

 風の中、擦れて消えそうな音を拾う。
 仕草、会話の切れ端からティエンはこの龍馬がただの野盗紛いではないことを即座に悟る。少なくとも、間違いなく兵士としての訓練を積んだ者の動きであった。

 龍馬たちが会話を交わして暫く、また再びの静寂が流れようとしたその時。
 龍馬の一団の長、ジエンと呼ばれた龍馬が一歩前に踏み出すと、背に乗せた弓をその手に構え……弦がねじれ引き絞られる音と共に……道を外れた先、陰に揺れる木の一つへと狙いを絞る。
 数拍、息を呑むような間の後、風を切る音を立てて弦が弾け、矢が放たれる。

 夕焼けを受け、火矢の如く飛翔した矢は木の幹に突き刺さり、その太い胴を刺し貫く。
 木の皮膚を破り、その幹を貫く音が山に響き渡る中、龍馬の一団は長に続くように矢をつがえ弓を構える。


 ―仕留めたか……―


 龍馬の長が目を細めた、その時であった。
 木々の影、闇の中を縫うように走り抜ける風を見る。

 「放てッ!」

 号令、その怒声と共に龍馬の矢が放たれる。
 だが、風を捉えることは叶わず。影をまとった風は矢を躱し、目にも止まらぬ速さで龍馬の一団へと肉薄していく。木々を盾に、道なき道を風の如く駆け抜ける者。龍馬の長は矢では捉えられぬと見切り、素早く背から大刀を抜き去ると後ろへと飛びぬき、他の龍馬に命じる。
 「散れッ! 弓で挑むなッ!」

 その声を受け、さっとその場から散り背の大刀を抜かんとする龍馬たち。
 その動きに無駄はなく、決して誹りを受けるようなものではなかったであろう。しかし、相手の方が一歩……否、三歩ほども早かった。
 矢を躱し、相手が弓矢では分が悪いと武器を持ち替えようとしたその瞬間、ティエンは蛇行するように木々を駈けていたのをやめ、まっすぐ相手へと突っ込むようにして木々の間から飛び出したのである。
 飛び出したその瞬間、目の前に立つ龍馬に対し、飛び上がると同時にその顎を回し蹴りにて撃ち抜き、その意識を昏倒させる。そのまま着地すると、すかさず大地を蹴り跳ね、ふらつく龍馬の上体の脇腹に重い蹴りを打ち込む。大樹すらも圧し折るやもしれぬその一撃を受け、龍馬の一体はその口から吐瀉物混じりの息を吐いて転倒する。
 「ジウ!」
 まさか、瞬く間に龍馬が地に伏すとは、龍馬の誰として思わなかったことに違いない。
 だが、それで怯むような相手でもなかった。
 「ッアアーッ!!」
 龍馬の一騎が己を鼓舞するように叫ぶと己の馬体ほどはあろう大刀を振りかぶりティエンに迫る。
 大柄な、龍馬の体から繰り出される大刀の一撃は風を薙ぐ音と共にティエンの胴を捉えるも、すでにその場にティエンの姿はなく虚しく空を切る音だけが木霊する。紙一重、その僅かな斬撃の隙を見切りティエンは最小の動きで刃を躱す。馬体の突撃に怯むことはおろか、ほんの僅かな動揺すら見られぬ正確無比な動き。だが、龍馬の殆どは戦いの高揚にその事実を見切ることはなかった……ただ一騎を除いて。
 そのまま、ティエンは龍馬の脇を抜けるようにして切りかかった龍馬を躱す。そのティエンに対し、他の龍馬が続けざまに雄たけびと共に大刀の刃を切り上げるように大地ごと振りぬく。だが、その刃もまた躱され……横を抜ける瞬間、馬体に目掛け躱し、振り向きざまにティエンの拳が右の脾腹へと叩き撃ち込まれる。鈍く、内へと響く重い音と共に胴に撃ち込まれた龍馬の顔に苦悶が浮かぶ。人体よりも遥かに頑丈なはずの龍馬の馬体、その内に響かせる一撃をよもや人の身で、しかも武器を使わぬ素手で放つという事実に撃ち込まれた龍馬は恐怖を覚える。そのまま、追撃しようと思えばできたであろう、だが切りかかった龍馬は振り返るも怯んだようにその動きを鈍らせる。事実、脾腹は鈍く重く、右の後ろ脚に至っては脾腹の痛みが伝わるように徐々に麻痺しつつあった。
 龍馬最大の強み、それは機動力である。屈強な肉体もそうであるが、その肉体を持ちなおかつ疲れることなく駆け抜けることができる健脚こそ龍馬の誇りであった。だが、その最大の強みが僅か一撃で、人の手で殺されようとしていたのである。
 いや、すでに殺されていたかもしれなかった。ティエンの拳を受けた龍馬の足は震えはじめ、もはやまともに走れそうになかった。
 「貴様……ッ」
 脾腹からじんわりと染み込むように疼く痛みに耐えながら、龍馬の一騎はティエンを睨む。

 二騎

 人百兵に値すると言われた龍馬が、二騎……たった一人の人間に……深手を負わせられた瞬間であった。

 だが、相手もまた誇り高き龍馬の一族、深手を負わされたとて逃げの一手を打とうなどとは思っていなかったであろう。事実、たとえ足が動かずとも決して引かずと、その眼は訴えていたからである。

 前後、ティエンの前後に龍馬は居た。背後の三騎は、手負いと打ち倒された者、そして未だ無傷の龍馬。
 前方には、大刀を構えた無傷の二騎。数の上では劣勢、しかし相手はわかっていた。この中の龍馬、ただ一騎を除いてこの人間に勝てる者はいないと。

 龍馬の一騎、長と思わしき龍馬が他の三騎にその鋭い目を向けると、他の三騎は武器を構えたまま少しばかり後ろに下がる。

 龍馬の長が大刀を構え、ティエンの前に立つ

 その姿を、ティエンは見る。
 逞しい馬体は黒鹿毛の毛に覆われ、隆起した馬足とその馬体に刻まれた傷痕が歴戦の戦士であることを伺わせていた。人の肉体は黒い装束に覆われ判らなかったが、その所作から馬体と同じく鍛え抜かれたものであることは疑う余地がなかった。肌は浅黒く、その顔は端正に整っており切れ長の眼と、その瞳の色と同じ黒色の切り揃えられた前髪がその意志の強さを物語るようであった。後ろ髪は一纏めにされており、肩口で丁寧に切り揃えられた髪が馬の尾のように流されている。むき出しになった馬耳は胴と同じく黒鹿毛の艶やかな毛並みに覆われ、警戒するようにぴくりと動いていた。

 装束は北の平原のものと思われたが、首元に厚く巻いた布には艶やかな銀糸が縫い付けられ、この龍馬の地位の高さを表しているかのようであった。
 その手に握られた大刀の刃は厚く、ずっしりとした鈍い輝きを放つ。北の平原、その戦士長たる存在が、今ティエンの目の前にあった。

 静かに、鈍く輝く刃が上段に掲げられ……しなやかにその体が捻じられた時……地を蹴る音と共に龍馬がティエンへと打ちかかる。

 上段、袈裟斬りの如く振り下ろされる刃。
 それを先ほどと同じく最小の動きで、後ろに跳ねるようにして読み切った刃を躱そうとした時であった。刃を躱された龍馬の長はそのまま振りぬくと同時に馬体まで大きく捩り、そしてそのまま後ろ脚を打ち上げ馬蹴りを放つ。
 その馬蹴りは正確にティエンの胴を狙い、その腹を、頭蓋を蹴り破らんと突き跳ねる。だが、ティエンは間一髪上体をのけぞり倒すように避けるも、龍馬の長はそれすらも読んでいたかのように蹴りの勢いそのままティエンを飛び越え― ―その背後に飛び立つと、のけぞったティエンの面目掛けて大刀での突きを放つ。

 夕焼けが煌めく一閃

 身をよじり、回転するように突きを躱す。ティエンの頬に灼けるような痛みが走るも、致死の一撃を受けることはなかった。だがもしも、龍馬の獲物が大刀ではなく、もっと軽い武器であったならばティエンの面は刺し貫かれていたに違いはなかった。
 そのまま突きを返すように斬り上げた刃を龍馬は振るう。先ほどの先駆けの一撃とは違う、流れるように隙の無い斬撃。腕を回すように、大刀の重さを生かした風車の如き斬撃を休むことなく打ち続ける。だが、その刃はティエンを捉えることはなかった。

 一見して、一方的ともとれる攻防。

 だが、龍馬の長は見切っていた。
 この戦い、拮抗していると。相手が打ってこぬは、あくまで大刀を受けきれる“武具”がないがだけ……少しでも攻撃の手を緩め、微かな隙をさらせば即座にこの人間は反撃に転じてくる。

 手練れ

 この辺境の街に何故いるのか、そう問わずにはいられないほどの人間であった。
 しかも、素手で、龍馬二騎を不能にせしめた。その一撃、侮ることはできない。だが、なにより龍馬の長が恐れたのは目の前の人間が“我ら”龍馬の弱点を知っていることであった。
 弱点を知り、しかも的確に打ってくる。

 その人間が、鎧一つ、武器一つ持たぬのに、一度当たれば命を奪う刃の風車を前に怯むことなく紙一重での攻防を続けているという畏怖。
 “この人間は、勝つ気でいる”


 龍馬の長は太刀を振るうと同時に、四つ足で地を蹴り距離を取る。

 「人間 名は」
 確かな信念を感じさせる、凛とした声が響く。
 「……ティエンと申す」
 その言葉を受け、龍馬の長は切れ長の目を、さらに細め見つめる。
 「良い名だ」
 そう呟くや否や、手にした大刀で首に巻いた黒布を裂く。刃が布に触れた瞬間、銀色の眩い輝きと共に黒布が宙を舞う。それはまるで銀糸に彩られた黒布の小鳥のように風に乗ると、ティエンの方へと舞う。そしてそのまま、意志を持っているかのようにティエンの手に絡みつく。

 「吾が名はヨン ヨン・ジエン」

 「吾に討たれるまで、覚えておくといい ティエン 人とは思えぬ者よ」
 指に絡みついた銀糸が、焼け差しのように熱く感じられた。


……龍馬は誇り高き戦士である。
 だが、戦いの中であってもその誇り高さで己を見失うことはない。それが龍馬の騎兵を霧の大陸において恐るべき無二の集団としてその名を轟かせていた。
 ヨンと名乗った龍馬が踵を返し、来た道を……日が最後の夕焼けの中に溶けていく薄闇の中、山奥へと消えていく。

 戦いは終わった

 龍馬たちはそれを察したのだろう、傷ついた仲間を助け起こし一瞥もせずに己の長を追う。長と揃いの黒の装束はたちまちのうちに夕闇の中に紛れ、やがて砂ぼこりだけが後に舞うのみであった。



 ……龍馬族との戦いの後、ティエンは街へと戻り守兵の長に龍馬の件を伝えるもまともに取り合わされずに追い返されてしまう。ティエンからすれば至極正直に伝えただけであったが、龍馬を前に……しかも五騎……まともな武具を持たずたった一人で挑み、あまつさえ二騎を倒しその長と思わしき相手に大立ち回りを演じたという言葉を……かなり古臭い襤褸のような道着をまとった修行者崩れ……前にして信じることなど到底できなかった。
 その言葉をまともに信じるのであれば、目の前の男は兵五百に匹敵するか、もしくはそれ以上の武勇を持っていることになるからであった。確かに体は鍛えられているが、ただの人が武装した龍馬相手に生きて戻るなど信じるわけにはいかなかった。

 結局、真摯に伝えるもますます“山でおかしくなった”ものと扱われ、最後は押しのけられるように詰所から追い出されてしまった。

 人が襲われぬようにと、山道で戦ったことでティエンと龍馬を見たものもまた殆どいなかったのである。ごく一部、恐ろしく早く走る男の姿を見た者もいたが、それもまた嘘か“風”と見間違えたのだと笑い話になるだけであった。


 結局、ティエンは一人街の中……屋根の上で仰向けに寝転がり、頭の後ろで腕を組んで薄霧に浮かぶ寝待の月を眺めていた。
 ぼんやりと月を眺めながら、ティエンは懐から切り裂かれた黒布を取り出す。月の明かりにちらりと銀糸が光り、黒々とした川に揺蕩う白魚のようにも見えていた。どうしてか、あの戦いの後、指に絡みついたこの黒布を捨てる気にはならなかった。そうというよりも、捨てたとしても戻ってくる……そんな奇妙な確信があったのである。それに、恐らく呪術めいた“何か”があるのだろう、絡みついた人差し指の根元にはくっきりと赤く灼けたように奇妙な輪が刻印されていたのである。それはただの模様のようでもあったが、どことなく文字のようにも見えた。一見して痛々しいが、触れてみても痛みはなく、動かすことには何の支障もなかった。

 そんな指の焼け跡を見つめながら、今はただの布と化した切れ端を指でなでる。
 柔らかくもしっかりとした厚手の黒布。その感触は心地よく、なんとなくティエンは癖になったように指をこすりつける。

 ―ヨン・ジエン―

 ティエンの脳裏に、あの切れ長の眼がよぎる。
 鷹の如き、鋭い眼。
 (あれほどの女傑が龍馬の一族にいたとは)
 厚手の装束で身を固め、隠していたがティエンは見抜いていた。一見して中世的な美男子にも見えたが、それは鍛え抜かれた体がそう見せているだけで、その実は女であることを。
 そして、もう一つ……ティエンは悟ってもいた。

 彼女は、本気ではない

 正確には、本気を出したのは最初の三連撃……刃、蹴り、突き……あれだけはティエンを侮らず……むしろ一撃で決めるつもりで繰り出していた。だが、その後はまるでティエンを試すかのようであった。
 おそらく、何かを見極めていたのであろう、もしくはここで戦うべきか否か……結論としては、決着はつかなかった。だが、いずれは決着をつけることになる。そうティエンは確信していた、それは戦いの道を究めんとする者としての宿命にも似た確信であった。

 「眠ろう」
 誰に聞かせるでもなく、己に言い聞かせるようにティエンは呟く。
 黒布を懐にしまい、目を閉じる。山の上と違って下の気候は温暖で、霧が出ていてもティエンの肌が冷えるようなことはなかった。
 その前に、なんとなしに頬を撫でる。鋭い、龍馬の大刀で受けた傷。元来、傷の治りはかなり早い方というのは自覚していたが、ぱっくりと割れたはずの頬は既にくっつき、少しばかりひりひりと痒みを訴える程度であったことに少し驚く。よほど鋭く、しかも精確な太刀筋であれば、断ち切られた個所を合わせればぴったりと付くと聞いたことはあったが、よもや己の身でそれを実感することになるとは流石のティエンも思いはしなかったのである。
 なんにせよ、北に広がるという大平原、その中においても一角の武人であることは疑いようがなかった。
 (世界は広い まだ見も聞かぬ武人が数多存在するのだろう)

 目を閉じ、ゆっくりと頭を闇の中に沈めていく中……脳裏に浮かぶは美しい白金の毛並みと黄金の瞳。
 力強い、風の如きうねりと共に白金の輝きが去れば、太陽のように燃える紅が瞼の裏を焼く。命そのものと言える熱と、弾けるような火花が散ると同時に、むくりと大きな巌が起き上がり、黒紫の眼が宝玉の如く光る。

 かつてその道を交え、そして今再び離れてしまった宿敵たち……それと不可思議な縁で結びついた宿敵の妹たち……どうしてか夢の中では奇妙に重なり、混じり合うような姿でティエンと会う。

 ……貴方たちは、今どこにいるのか……


 霧深く、月隠れの夜。
 静かに街は眠り往く。






 ……「はいよ、道士の兄さん これで全部だよ」
 翌朝、ティエンは商店の女将から調味料の甕を受け取る。
 ずっしりとした黒塗りの甕が陽光を薄く反射すると同時に、いかにも重そうな鈍い色合いでティエンの顔を映す。
 「それにしても、こんなものどうやって運ぶつもりだい 見たところ荷車も何もないみたいだけど……」
 目の前に置かれた、酢、黒糖、醤……それぞれの調味料が一石ずつ満たされた大甕を女将は怪訝な顔をしてみる。店の若い衆数人がかりで用意して運び出したものである、それを目の前の道士がどう運ぼうというのかが疑問であった。少なくとも、仲間がいるようには見えなかったことも含めて。だが、そんな女将の疑問はすぐに、それも予想外なほど単純に解決することになる。
 「縄で縛り、背負って行きます」
 「うそだろう」
 やっぱり、頭がおかしいのか……そう女将が思った最中、ティエンは荷物入れから荒縄を一組取り出すと、甕に巻くようにてきぱきと結んでいく。たちまち、三つの大甕が一つの荷物としてまとまると、何のことなしにティエンはそれを“背負う”。
 ずっ……と、重い、鈍い音を響かせて大甕が三つ……男の背に浮く。まるで軽石を背負うように、大の男数人がかりでも背負えないような大荷物をいとも容易く顔色変えることなく。
 「女将殿、ありがとうございます また切れたらお伺いいたします」
 そのまま、軽く首だけで会釈をするとティエンは呆けた様子の女将と、商店一同を背に皆が待つ天崙山へと歩み始める。音が響く足取りとは裏腹に、ティエンの動きは軽快そのものであり、女将はその日の最後まで“甕の中身を一石入れたのか”帳簿を確認し続けることになるのであったが、何度確認しても一つの甕の中には確かに“一石”調味料がぎっしりと詰められていたのである。


 ……そのまま、ティエンはあるものからは奇異の眼で、あるものからは驚愕の眼差しを受けながら街道を抜け、天崙山へと通じる門をくぐる。
相変わらず、門のそばにたむろしている見張りの兵士はやる気なさげに、しかしながら大荷物を抱えたティエンを物珍し気に見る。だが、特に声をかけることもなく、ただ驚愕の表情でティエンを見送るのであった。

 門を出てしばらく、林に入る頃合いになってティエンは再び気配を探るように耳を澄ます。
 来た時と同じく、静かな風とそれによって擦り合う葉や木々の枝々の音だけがさらさらと流れていた。その中には確かに魔物や獣の気配も混じるが、ティエンの方に向かってくるようなことはなかった。ただ、幾つかの気配はティエンの様子を伺うように動くものの、やはりある程度近づくと何かに感づいたように離れていくのであった。

 脅威はなし

 荷物を背負っている故、戦いはなるべく避けたいところだっただけに、ティエンは一つ安堵の息を吐くと目の前の霊峰を見上げる。
 霧深く、天を突く巨大な山塊。多くの魔と、そして人々、神仙を惹きつけて已まない大霊地……天崙山へとティエンは再び上るべく足を運び始める。

 その様子は、家に帰る丈夫にも似ていたという。


24/10/20 09:47更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
ティエンが山を降りていた時の話です
一石の単位ですが、軽くですが調べてみると時代や国によって量が結構違いましたので、ここでは注の通りの量に決めさせてもらいました

楽しんでいただけたのであれば幸いです

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