連載小説
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暗雲嵐天
 ……空が渦巻き、雷が轟く。
 山に潜む虫獣たちは来る嵐に備えるようにその身を隠し、じっと息をひそめていた。故に、常に獣の唸り声、虫の囁きが満ちる天崙山にしては静かな時が流れていたのである。
 だが、それは奇妙な緊張を孕んでいた。

 そう、まるで何かを恐れるように……


 一閃、雷雲が鳴く


 稲光に照らされた木々の間に、白金が煌めく。

 かつてそれは、恐れられたもの。

 そのものの祖を知るものはなく
 威となり立つもの総て屠り
 ただその恐ろしきを知る

 時を経て、楼に籠ってからの後、中腹より下には現れなくなった“山の王”の似姿。それが一陣の風の如く、木々の間を縫いながら下へ、下へと駈け廻っていく。幾年の月日が流れてもなお、その輝きは色褪せること無く恐れられているのだろう。その身を潜めたものたちは皆、その首を垂れるかの如く身を縮め、“嵐”が過ぎ去るのを待つ。

 かつて、それを前にしたものは皆地に伏した

 その白金に並び立つように、二つの影が同じく風を纏う。

 一つは燃え広がる炎の如く、霧を焼き払いながら

 一つは転がり落ちる岩の如く、全てをなぎ倒しながら

 そのものらは獣の王、この山に潜みし人外天魔の一角なる

 遥かなる天峰霊山、その伝説と共に語られる魔獣たちであった。
 目指すものはただ一つ、我らが牙の内から逃げ果せた獲物を今一度、喰らうため。人の写し身でありながら、獣のように……獣として地を這うように木々を駈け貫ける。休むことなく、ただひたすらに駈け続けていてもなお獣たちは疲れを見せなかった。それどころか、まるで力を取り戻していくかのように眼光は鋭く、肉体は隆起し、凄まじいまでの熱を持っていた。

 獣の目が動き、より強く、早くその肉体を脈動させる。
 釣りあがった口の端から白い息が漏れる。

 もう間もなく、その牙と爪が届くだろう。
 そしてその肉を喰らうのだ。


 今一度、天より雷鳴が轟く。
 ぽつりと、冷たい雫が……少しずつ空から落ちてきていた。






 ……深い木々に囲まれた、古い山道を紅の装束の一団が急ぐように下っていく。雷雲蠢く曇天より降り注ぐ雨粒は小さな氷のように固く、鋭く彼らの肌を打ちつけていた。だが、誰一人としてそれを苦に思うことなく、黙々とその足を動かしていた。
 急がねばならない。
 誰しもが、ただ一人を除いて皆そう思っていた。
 早く山を降り、この地を去らねばならない。ファンジェン率いる一団は殆ど休むことなく、歩みを続けていた。その甲斐もあり、もう暫く歩めば麓の町が見えるところまで差し掛かっていた。山道は険しい道ではなくなり、なだらかなものへと変わりつつあった。降りしきる雨と風、そして薄闇は厄介ではあったが、少なくとも彼らにとってそれは障害にはなりえなかった。唯一懸念があるとすれば、見通しの悪い山中の森の中にいるということぐらいであっただろう。
 「師兄、冷えますか?」
 「いや……問題はない」
 笠を被ったファンジェンが、そばを歩くティエンに声をかける。ティエンもまた、門弟より渡された笠を身に着けていた。薄靄の中に、ひっそりと麓に立ち並ぶ楼が見える。ほんの数日前まで、あの麓の街に調味料を買い付けに行ったばかりであった。
 (……思い出せば、買い付けた品を外に置きっぱなしにしておいてしまったな)
 それと同時に思い浮かぶは、仙石楼で過ごした日々であった。何時かは終わりが来るとわかっていたことであったが、その終わりがこのような形だとは……ティエンはそう思いたくはなかった。そして、それと同時にかつて己が師事し、そして去った師の事を思い出す。師は納得して送り出したものだと、ティエンは思っていた。だが、事実として数年前からティエンの行方を弟子たちに探させ、そしてこうして連れ戻そうとしていたというファンジェンの言葉の意味をティエンは考えていた。
 確かに、ファンジェンのいうように三師という名の重さは計り知れない。だが、ティエンの思う師は、たとえそうであったとしても次の弟子を取り育てるだろうとばかりに思っていた。
 (師に、何かあったのだろうか……だが、自分は……)

 ふと、思索の迷いが心を掠めた時であった。

 ちりりと、肌が焼ける



 ―ライフー!!―



 髄が覚えている、宿敵の気配。
 ティエンが目を見開いたその時であった、雷鳴轟くと同時に門弟が叫びを上げる。

 「門主へ!! 獣たちが!! 魔獣どもがこちらに!!」

 叫び、それに続くように木々が揺れる。それは風によるものではなく、へし折られ、砕かれる木々の悲鳴であった。
 それに並ぶように、赤炎の輝きが雨を焼き払いながら同じく木々を焼き、まっすぐこちらに向かってくる。
 その中心、最も静かなその流れの中に“奴”はいた。雷雨に照らされるその輝き、ティエンがそれを見間違うはずがなかった。

 待ち望んだ、約定の相手

 「陣を組め! 備えよ!」
 ファンジェンが叫ぶ。その顔にはもはや、余裕はない。


 「待っていたぞ……!!」

 ティエンが呟き、拳を握った時。
 山林より “三獣拳士”がその姿を現す。


 曰く、それは流れる岩の前に立つに似る

 砕け、飛び散る木片、石片が門弟たちに叩きつけられるように飛び、それに混じるように“岩”が飛び出す。素早く、構えと武器を取りながら飛び散る破片を交わし、着地し動きを止めた相手に門弟たちは容赦なく刃を振るう。
 軌道のわかり切った突撃を正面から受けるなど……愚の骨頂……流石は、鍛え抜かれたものたちである。備え、躱し……そして流れるような、必殺の一撃。相手が奇襲なれば、加減をする余裕も、必要もない。
 その刃は、肉を断ち骨を砕く……はずであった。

 だが、響くは肉を切る音ではなく……

 鈍い、砕ける音。

 丸く、身を護るようにしていた大岩の両腕が振るわれると同時に、武器を打ち付けた門弟たちが吹き飛ばされる。
 悲鳴と、呻き。
 その中心に、悠々と立つは……紛うこと無き、鬼女であった。
 編まれた三つ編みは解け、振り乱され、服は破れ刃打たれた処からは血が滲む。両目は爛と揺らぎ、笑む口からは牙がのぞく。
 その両腕と両足の黒毛は細く鋭く連なり立ち、まるで岩の棘のようあった。

 これぞ三獣拳士が一角、大岩熊猫のバイヘイ……その妹、ヘイランである。



 曰く、それは吹き荒れる炎の前に立つに似る

 門弟たちの行く手を遮るように、灼熱の爆風が木々と道を焼く。
 その凄まじい熱量は冷たい風雨をもってしてなお弱まることなく、生きているかの如く地を這い周囲を焼いていく。
 その暴威を前に、門弟たちは怯む。

 それは当然のことであった、いったい誰が燃え盛る炎と戦い、打ち勝てるのか。
 それに、もはや進むことも叶わない。麓へと続く道は焼かれ、周囲は木々に囲まれてしまっている。前に進むには、この炎を操るものを打ち倒すしかないのだ。

 嵐を前に、衰えることのない炎。その主が、火を纏い姿を現す。

 衣服は纏わず……否、自らの炎によって全て灰となったのであろう。生まれたそのままの姿で、小柄な紅髪の少女が立つ。鼠の耳を持ち、四肢の毛皮は火炎の如く揺らいでいる。その尾は鞭のようにしなりながら火の粉を撒く。

 その体からは凄まじい熱を放っているのであろう。雨粒は触れることすらなく空で白煙に変わり消え、その肌を濡らすことはない。
 揺らぐ炎と同じ、紅く輝く眼が門弟たち、そしてファンジェンを睨む。

 かつて、鼠如きと侮った者が居た。
 今は昔、その者は辺り一面、灰に混じってしまった。

 三獣拳士が一、炎嵐鼠のフオジン……その妹フオインが立つ。



 曰く、それは一閃の雷の前に立つに似る……しかして、その後に立つものは居らず……

 前門の火鼠、後門の岩熊猫……ただそれだけでも一門にとっては絶体絶命であった。だが、彼らは知っていた、最後に一つ……此処に並び立つ者が居ると。

 一刃、雷光が奔る

 眩い輝きにも似たそれは、旋風の如く。しかして、容赦なく……運悪く“そこにいた”門弟たちを薙ぎ飛ばす。
 朱の飛沫が、雷雨に混じり飛び散る。それは一瞬の出来事であり、呻きも、悲鳴すらも上げる間もなく薙がれた門弟が大地に落ちる。彼らは構える間も、そして己の眼前に迫る刃に気が付くことすらなかったのである。

 異様、その様を表すならば恐ろしいまでに“冷たい”殺気

 吹雪の中に混じる氷の刃の如く。凍てつくあまり熟練の戦士ですらその気配を見失い、最後は麻痺してしまうほどの殺気。むき出しにされた殺意を浴びながら、命を奪う牙を前に我を忘れてしまう恐怖。
 いくら修練を積もうとも、視界の悪い風雨の中……奇襲の如く現れた猛虎、それも数多の武人を屠り喰らってきた“化け物”を前に、いったい幾人の者が気を保っていられたであろうか。

 三獣拳士の筆頭……雷爪のライフー……その武を継ぐ妹たるタオフー……此処にあり。



 「門主様! 後ろへ!」

 武器を構え、門弟たちは三獣拳士の前に立つ。だが、奇襲を受け浮足立っていることに加え、狭くぬかるむ場所の悪さから形勢は至極不利と言えたのである。態勢を整え、正面から迎え撃てたのであればまだ違ったのかもしれないが、正面、背面、そして側面からの三面攻撃を受け門弟たちの隊列は崩れてしまっていた。それに加え、敵は一騎当千の強者たちであり、数の利と戦術を生かせぬ門弟たちでは勝ちの目は殆どなかったのである。
 だが、そうと分かってもなお、門弟たちは己の誇りと武を信じ、果敢に挑まんと各々構えを取る。
 その様を見て、虎の尾がしなるようにうねり、眼が揺らぐ。
 瞳に映るのは、ただ一つ。それ以外のものは、たとえ立ち塞がろうとも邪魔ものにすらなりえない。そう告げるように、獣たちが構え牙を剥く。
 両者、刃が交わされんとしたその時であった。

 門主ファンジェンが、前に立つ。


 小柄ながらも、威風堂々と門徒全てを背負うものとして、その姿は獣たちに劣ることなく薄闇の中に映る。
 タオフーたちも敵の姿を認め、一時爪と牙を納める。



 どちらとも口を開くことなく、ただ雨音と逆巻く風の音だけが響き渡る。



 「返す意思は無いか」

 口火を切ったのは、タオフーであった。
 雷雲によってもたらされた暗闇の中で、黄金の両目だけが灼けるように浮かぶ。
 その問いに答えるはファンジェン。だが、当然……次に紡がれる言葉は決まり切っていた。

 「……無論」

 ばらり、と結ばれた辮髪が垂らされる。長く、鋭く、しなやかな四つの黒鞭。毒の滲んだ、己の武器を構える。
 それに呼応するように、タオフーの爪が再び闇に閃く。

 「ファンジェン 一つ告げる」

 タオフーが、まるで虎の化け物のように告げる。



 ―お前如き、返り血すら我に触れることは叶わん―



 翻るように、黒鞭が大地を穿ち、振るわれる。
 闇に紛れ音速を超えながらも音一つ立てることなく、振るわれる鞭の刃の鋭さはまさしく、常人ならざる技量が生み出した神技と言えたであろう。

 だが、その刃は白い影を掠め、宙を斬る。確かに、虎を狙い打ち据えたはずの鞭。だが、ファンジェンは怯むことなく再度、さらに鋭く、早く振るう。だが、それもただ宙と雨水を斬るのみ。

 “埒が明かぬ”

 振りぬいた勢いそのままに、叩きつけるように駈け、危険を承知で虎に組打ちを仕掛ける。確かに、ファンジェンの持つ最大の武器である“精心瘴血”において一番強力なのは毒の元たる血を浴びせることである。だが、髪にすら滲む猛毒である。その皮膚からも、血液ほどではないが……触れれば猛毒を塗ると同じ。たとえその身に傷を受けようとも、打ちあいになればファンジェンには十分勝ちの目があった。

 虎に、白虎に迫りその胴に、蹴りをねじり放つ。だが、その爪先は掠ることすらなく。ファンジェンは再び体をひねり、蹴りを、拳を、迫るように放つも、どれも完璧に読み切られ、触れることすらできない。

 「逃げ続けるつもりか!!」

 距離を取るように後ろに飛ぶ虎に、ファンジェンが叫んだ、そう思った瞬間。

 さんっ

 ファンジェンの胸が、裂ける

 いつの間にか、虎は空に流れる雷光と共に眼前に迫り、振り下ろすかのような構えと共にファンジェンに一撃を見舞っていた。刹那、ファンジェンはその両目を捉える。黄金色の、冷たい、その目を。
 怯まず、構えのまま反撃せんとファンジェンは拳打で応戦するも、虎を捕らえることは叶わず。

 虎は風が引くように後ろに下がると、身を低く構えを取る。

 “来る”

 脇腹が、裂ける。
 光差すような、一瞬。それが見えた瞬間にファンジェンの脇を、三つの刃が切り裂いていた。そして、虎が背後に立つ。

 心の臓が、体が……凍てつく、呼吸が、止まる

 一閃、雷虎の爪が背の髄を断つ























 それは、白昼夢。
 夢想の中で、ファンジェンは確かにその命を絶たれた。

 否、現実でも、絶たれていたのだろう。



 「タオフー」

 背後から響く、愛すべき師兄の声。それは厳しくも、優しい声。
 けれど、呼ばれる名は、ファンジェンではない。

 ティエンの手は、白虎の雷爪を捕らえていた。振るわれる爪の刃、その手頸に掌底を打ち据え止めたのである。

 「……帰ろう、タオフー 仙石楼へ」


 勝敗は、決した


 ファンジェンは、その背を丸め、小さく嗚咽を漏らす。
 “勝てない、勝つことはできない”そう思い知ったが故の、慟哭であった。

 最初の宣言通り、タオフーに触れることはおろか、返り血すら浴びていない。それどころか、タオフーもまた“触れてすらいなかった”のだろう。恐ろしく早く振るう虎の爪先、そこから迸る雷閃の如き魔力の刃。それによってファンジェンを断ったのだ。
 それも、達人の眼ですらその爪で裂いたとしか見えぬほど素早く、そして紙一重で触れずに……恐るべき絶技であった。その絶技を、タオフーは難なく連続で、こなして見せたのである。それはファンジェンが自負していた技巧においてすら、タオフーは勝っていることの証左に他ならなかった。

 そもそも最初の戦いですら、戯れていた虎相手に毒という隠し手なしには勝てなかったのだ。
 隠し手を知られ、そして戯れをやめた、虎の狩り。その恐ろしさ、ファンジェンは今その身に沁みさせていた。

 強きものが全てを得、弱きはただ奪われる

 残酷な、自然の摂理。畜生と侮蔑した、獣たちの世界。
 今、ファンジェンは弱者であり、タオフーは強者、ただそれだけであった。


 「……許せ、ファンジェン 私は……やはり約定と……彼女たちの責を果たすまでは山を降りられない 師に、老師に伝えてくれ、ティエンはまだ戻れないと ……我が道を成す時まで、戻るつもりはないと」
 そして、ティエンより告げられるは、別れの言葉。
 ファンジェンは知っていたのだ、師兄たるティエンの意志の頑なさを、知っていたが故に師兄が留守を狙い強襲をかけた。あの噂……獣仙に溺れる従僕が……万が一師兄であったならば……溺れておらずとも、共に過ごしている以上、故あって仙石楼を離れていないのだとわかっていたからこそ……そしてそれは、図らずも留守より戻った師兄の眼を一目見てファンジェンは悟ってしまった。

 そして今、ファンジェンは確信している。
 師兄が言う約定とやらを果たしてなお、師兄はこの者たちから離れはしないと……ただ、その真実だけが酷くファンジェンを打ちのめすようであった。

 最初の強襲、そこしかなかった。ファンジェンと門弟たちが勝利を掴むことができるのは、手の内と……実力が割れていない、その一戦のみ。そこで、完全に止めを刺す必要があったのだ。だが、それは叶わなかった。
 この獣たちを癒す危険、それは重々承知していた。
 だが、そうしてでも、そうしなければ師兄はこの場まで共に来てくれはしなかっただろう。殺していれば、そしてその主がファンジェンだと知ればティエンは……戦いはしなかっただろう……それは同じ師に仕えたものとして、そしてそもそも師の道に反しているのはティエンだったからだ。だが、許しもまた、絶対にすることはなかったであろう。その意味でも、あの瞬間は奇跡的な偶然と言えた。そして、その偶然の産物たる“命の引換”……その瞬間でしかティエンの心を動かすことは叶わなかったのである。

 だが、それも結局は潰えてしまった。
 遠くへと離れ、少しでも引き延ばそうという望みもまた消えた。

 ファンジェンの口から、嗚咽交じりの……血に湿った咳が漏れる。

 「……師兄 ティエン兄……」
 「……ファンジェン」
 悲し気に見上げるファンジェンの傍により、膝をついてその肩に手を置くティエン。その翡翠の目には揺らぎ、亀裂が入ったかのように崩れ落ちそうであった。
 「……兄……兄は……ご存じのはず……この体、もう長くはもたないと……」
 その言葉を噛み締めるように、ティエンは頷く。そのティエンの後ろで、タオフーは怪訝そうに眉を顰める。
 「ふ、ふふ……滲んだ汗に触れただけで……あなたたち魔獣すら殺す猛毒……人の身で宿して……無事でいられるとでも?」
 あの時見せた、毒を滴らせファンジェンが歪んだ笑みを見せる。

 “精心瘴血”

 元来、それは道拳においても外道の武と称される秘奥義の一つ。己が身を、心臓を毒の器と化し血液全てを猛毒とする武。習得者は常に毒の血と、それと対になる解毒の血を体内において中和させ続けることで自身の体を蝕まぬようにするが、ファンジェンの毒の強さは突出してしまっていた。それに加え、変幻自在に毒を作り替えることができるファンジェンの特性が加わり、中和が追い付かずゆっくりと、確実にその体を蝕んでいってしまっていた。
 薄らと輝くような翡翠の瞳、そして白い、白すぎる肌はその副作用の証であった。
 何より、激烈すぎるが故に血液だけでなく、体液全て……汗や唾液、挙句それが滲む肌すらも猛毒と化し、もはやその身に触れることができる存在は殆どないと言って良かった。
 当然、弱い毒だけを精製していれば負担は少ない。だが、ファンジェンは魔獣、それも高位の魔獣に効く猛毒を作り、ずっとそれを宿し続けていた。それは大変な負担となり、事実としてファンジェンの寿命は間違いなく大きく削られてしまっていた。

 ファンジェンは酷く、大きく一つ咳き込み、血が飛び散る。
 口を押えるも、散った血の一部がティエンの体にかかる。

 「ティエン!!」

 我が身すら蝕む猛毒、そう告げた当人から放たれた血に触れてしまったティエンに、タオフーが悲鳴の如く声を上げる。だが、当の本人は至極冷静に、そして血が振れぬようにタオフーを制止する。
 「大丈夫です……だから」
 「どうしてだ……っ! 貴様!! 早くティエンを癒せッ!!」

 「タオフー、大丈夫」
 ただ、ただ静かにティエンは落ち着かせるようにタオフーをなだめる。事実、ティエンは毒に苦しむそぶりも、毒が周り痺れ始める様子も見せなかった。

 「……虎の化け物よ……知らないのか……師兄に、毒は効かない 私と同じ……精心瘴血の修業において、兄は毒を宿すのではなく……毒を、ありとあらゆる病毒を克服したのです、そしてそれは……精心瘴血の行の本当の目的……毒を宿すのではなく、毒の効かぬ、完全な肉体を得る……ですが、それを成し遂げたのはもはや伝説に、老師の古い記憶の中にのみ 師兄……貴方は、貴方は……だから老師は……」
 そこまで言って、ファンジェンは口を閉ざす。

 「……だから……ただ、そばに居てほしかった……」
 沈黙、そして擦れた、吐き出すような心情を露わにする。
 かつてティエンが感じた、ファンジェンの強い独占欲。だが、それは確かに思慕の情からくるものであった。それはわかっていた、わかっていたからこそ、切り捨てねばならぬことに針のような痛みを感じてしまう。



 「……行こう タオフー……フオイン、ヘイラン 仙石楼に、帰ろう」
 雨風が落ち着き、冷たい霧雨が降りしきる中、ティエンは声をかける。
 その言葉を受け獣たちはその牙と爪を納めていく。火鼠は己の火を消し、岩熊猫は棘と化した毛を元に戻す。雷虎は既に門主たるファンジェンを下した時点で、その武を解いていた。そして、おおよそ見回しても門弟たちに戦いの意志は無く、自らの敗北を受け入れていたのである。ただ、それもひとえに門主ファンジェンが生かされていたからに過ぎない。もしも、最後の一閃をティエンが止めていなければ、彼らは最後の一人まで戦い抜いただろう……勝ちの目など無いと知っていても。
 いったい、どれほどの者が人の身で、高位の魔獣たる雷虎、火鼠、岩熊猫を討てようか。


 歩み始める、三獣拳士とティエン。門弟たちは生垣のように左右へと開き道を作る。彼らの眼に宿るは恐れと、脅威……だが、彼も誰も闘志の炎は失っていなかった。一言、門主が彼らを止めよと告げれば、その命を賭して戦いに赴くだろうことは想像に難くなかった。

 「……ティエン兄」
 一歩、去ろうとしたティエンの背中に、ファンジェンは声をかける。その声を受け、ティエンは歩みを止め続く言葉に耳を傾ける。
 「……師は、老師は仰りました 兄を、探し……連れ戻せと それは私だけではありません ……わかっていますね」
 沈黙と共に、頷く。
 「……多くの 老師の門弟たち……同門たちが兄を探しています……私は、ただ一足早かっただけ……いずれ、この地に彼らはやってくるでしょう」
 それは警告。いずれ来る嵐に対する。
 それと同時に、期待交じりの……ファンジェンは知っている。拳を交えたからこそ、わかってしまった。ティエンと、獣たちに勝てるものは、知る限り道拳の門徒たちの中にはいない。少なくとも、正面から戦う正攻法においては……だが、道拳の老師、白澤のウーシュの教えの恐るべきは戦いにおいて、魔の全てを知るだけでなく使える術は容赦も慈悲もなく全て使えと告げるところにある。
 慈悲と不殺、ティエンの至った志こそがそもそも異端なのだ。

 だが、異端に至ったからこそティエンの武は純粋な力としてより上へと磨き上げられてきたのだ。
 ティエンとて愚かではない、慈悲を示すことができるのは強者のみ……それも圧倒的な、絶対的な力を示した者が慈悲を加える“特権”を持てるのだと、ティエンはその身に刻んでいる。その意味では、ティエンもまた最も純粋な力の信奉者の一人と言えた。

 そしてそれは、主旨は違えとも横に並ぶ獣たち……三獣拳士……魔物の世界においても不変の価値観であった。

 「……ティエン兄……私は、諦めません……たとえ、次は死ぬことになろうとも……」
 そう呟くように、ファンジェンはゆっくりとその身を、傷口を押さえながら立ち上がる。湿った咳の音が数度響いた後、ファンジェンはティエンの背に別れを告げる。

 「さようなら、師兄 ……また会いましょう」






 ……互いに去って後。雨が止む。
 だが、薄闇色の空から晴れ間が見えることはなく、冷たい霧が辺りに滲む。

 柔らかく、暖かくふわふわの毛皮がまとわりつくようにフオインとヘイランが両側からティエンに絡めつつ山を登っていく。ふんわりとした、心地よい獣の薫りに包まれながらティエンは少し先を先導するように歩く虎の娘……タオフーを見る。
 その表情は少しばかりぶすっとしていたが、それでも晴れやかなものを宿していた。

 (……ライフー殿)

 脳裏に閃く、在りし日の宿敵。
 タオフーがその身から放った冷たく、凍るような殺気。そしてファンジェンに見せた無情なまでの絶技。その全てが、かつてティエンがその武と命……そして信念を賭して戦ったライフーに重なってしまう。
 どう見ても、目の前を歩むタオフーとライフーが重なる要素はなかった。少なくとも、その毛皮と武以外は。

 霧の中を、美しい黒金と白金の輝きが翻る。

 どうしてだろうか、ティエンの心の中に消えることのない疑念が広がっていくようであった。
 消えた宿敵たちの行方、そして淫魔が跋扈するようになった世の突然の変遷。

 ティエンには、わからないことが多すぎた。
 それでも今はこの凱旋を喜ばしく思いたかった。


24/01/04 15:42更新 / 御茶梟
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