連載小説
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苔岩の森
登場人物

アイオン
 主神教団の元戦士。
 ノチェの導きの元、ガーラと妖精の国を目指す。

ガーラ
 ハイオークの魔物娘。
 最近アイオンにかまってもらえなくて拗ね気味。

ノチェ
 美しい妖精の娘。
 羽が手折られており、空を飛べない。

ティリア
 主神教団のシスター。
 アイオンを愛しているが、その想いが報われることはなかった。



 序 聖都にて

 ……北の大地、遥か昔より長く厳しい冬に閉ざされている大地。
 長く厳しい冬は人魔問わず、生きとし生ける者すべてに試練を与える。
 かつてこの地に住む人々は強きものを長として、一つの一族となって冬を乗り切った。魔物もまた同様に強きものによって率いられ、この厳しい北の大地を生きていた。
糧の少なきこの大地において、他部族、他種族との邂逅は融和、共存への道ではなく己の命と一族全てを懸けた戦いの狼煙にも等しかった。
 そうして、この北の大地には多くの戦いが起こり、血が流れ続けた。ある時は部族と部族が戦い、ある時は人と魔物が、そしてまたある時は魔族と魔族が、遥か昔よりこの大地には仄暗き戦いの記憶と死が刻み込まれていた。
 故に、古の時にこの北の大地はこう呼ばれていた。

 《白い果て》

 人と魔物、そして神すらもいずれ倒れ、舞い散る白い抱擁の中に沈む大地だと。

 北の大地に生きる者にとって、自らの一族の外にいる者はすべて敵かいずれ敵になるものでしかなかった。しかし、そんな北の大地にも大いなる神の息吹が吹き込まれる時がやってくる。
 魔物を征伐するべく主神教団より使わされた使徒アポロスとその一団の来訪である。アポロスは北の大地に主神の教えを広め、来る魔王との戦いに備えること、そして英雄、勇者となるものを見出すことを使命として与えられていた。
 アポロスは卓越した戦士であり、そしてまた敬虔な主神の信仰者であった。どのような困難であっても乗り越え、使命を果たすと誓いを立てていた。
 だが、北の大地はアポロスの熱意をもってしても固く閉ざされたままであり、道のりは困難を極めた。今までの魔物よりもはるかに強靭で狡猾な魔物たち、部族以外すべてを敵とみなす人々、そして何より命全てを凍てつかせる冬がアポロス達、教団の一行を大いに苦しめた。

 しかし、どのような困難の中にあってもアポロスは決してあきらめず、その生涯をかけて北の大地を踏破し、主神の教えを広めこの北の大地に文明をもたらした人物として歴史に名を残すこととなる。
 アポロスの教えによって多くの部族は互いに手を取ることを学び、共に魔物と戦うことを知った。そして教団がもたらした教えと技術によって、北の大地に住む人々は狩りと採集以外で糧を得る術を学んだのである。それによって、人々は争わずとも冬を耐える術を得た。
 アポロスの来北以降、主神の教えは深く北の大地に根付き、それが今の北の大地を支配する国々に深く浸透している。その影響力は魔王との戦いおいて、大きな影響をもたらしたのである。
 恐るべき北の魔物の軍勢を、北の大地内に押しとどめられていたのも、ひとえに主神の名の下に全ての国が団結したからという事が大きかった。そして、それによってもたらされた魔物との長き戦いは人々の心に決して忘れられぬ恐れと憎しみを刻み込むこととなる。
 魔王の代替わりから僅か百年、北の大地の人々の記憶にある魔物は未だに血に飢え、全てを脅かす悪意でしかなかったのである。



 聖都アポロノース、北の大地における教団の統治国家セントノースの首都。
 英雄である聖者アポロスの名を冠した、壮麗な都の一角にある教会にて祈りをささげる女性が一人。燃えるような赤毛で肩を隠しながら跪き、祈りを捧げるその姿はとある物語の一節のようであった。その表情は硬く影を持ち、まるで何かを心の奥底に封じているかのようであった。
 彼女の名はティリア。かつてとある戦士と共に育ち、そしてその戦士に裏切られた女性である。

 何時からであろうか、その戦士を自らが愛していると気づいたのは
 何時からであろうか、その戦士と共にあることが日常であると錯覚したのは
 何時からであろうか、その戦士の番となることが未来だと信じたのは
 何時からであろうか、その戦士に想いを託したのは……

 繰り返される虚ろな言の葉。ずっと伴にあると思っていた最愛の人。気づいた時にはすべてが遅く、ティリアにとって最悪の形で戦士は彼女のもとを去った。
 かつて戦士となる前の彼を襲い、その憎悪を一身に受けていたケモノ。まさかそのケモノに彼が懸想をしてしまうなど、誰が信じられるであろうか。
 いや、彼女は信じたくなかっただけかもしれない。会った時より、彼の心の奥底にはかのケモノが潜んでいたのだ。幼き頃よりその心を喰らい、蝕み、彼を、彼女が愛した一振りの剣に変えたのはほかならぬあのケモノなのだ。

 カレは幼き頃よりダラクしていた、嗚呼ドウシテ

 今頃あのケモノはどうしているだろうか、彼と共に歩み、彼と共に寝所を共にし、その体を重ね合わせているのだろうか。その口と口を合わせ、愛の言葉を紡いで、その身に子を宿すのだろうか。

 オゾマシイ

 瞳からゆっくりと色が失われていく。内に封じる黒い淀みが泥のように溢れ広がっていく。その泥は炎のようにティリアの心を焦がし、憎悪へと染めていく。聖職者にあるまじき、激しい悪意の感情に、心が千々に引き裂かれていくのを感じる。

 ワタシじゃダメなの?

 自惚れと笑われてもいい、彼女は自らの容姿に自信があった。輝くような柔らかな赤毛、ほんのりと朱に染まった快活な白い肌、引き締まった肢体に人並み以上に豊かな胸。街に出れば声を掛けられぬ日はない。誰もがうらやむ、誰もが欲しがる。
 だからこそ、あのようなケモノに奪われるとは思ってもみなかった。
 肌は黒く、髪は煤けた灰のようで、品のない体つき。そして何よりも、嫌悪を感じずにはいられないあの臭い。なぜ彼は、あんなケモノに心奪われてしまったのか。

 「どうして……」

 虚ろな言葉が口から漏れる。いつの間にかティリアは祈りを解き、その虚ろな目で神々の像を見上げる。天窓より入り込む、白い光の中、ティリアの周りだけが黒い虚穴のように口を開けていく。
 神がいるならば、どうして私の想いは届かなかったのだろう。

 モウ、何者ダッテイイ コノ想イガ届クナラバ アノ獣カラ奪エルナラバ
 ワタシノ愛シイ……

 「もし」

 柔らかい女性の声。
 ハッとしたかのように、ティリアは声をかけられた方向を見ると、少し離れた位置で聖職者の女性が心配そうにティリアを見つめていた。その姿を見てティリアは立ち上がると、頭を下げる。
 「すみません! 教母様がいらっしゃるとは思わずに……」
 どれほどの時間をこの場にいたのだろうか。そして、いったいどのような表情をしていたのだろうか。そうティリアは思わずにはいられなかった。北の大地の信仰の中心たる聖都にて、何と悍ましい懸想をしていたのだろうかと。きっと罪を罪とも思わぬような顔だったに違いないと、ティリアは恥じる。
 「楽にしてくださいな ごめんなさい……あなたがあまりにもつらそうな表情だったから、つい声をかけてしまいましたわ」
 ふんわりとした教母の雰囲気に違わぬ柔らかで優しい声。優しく微笑みかけるその顔は、見知らぬ母を連想させた。
 「何か、つらいことでもあるのかしら? わたくしでよければお聞きしますわ」
 この胸の内を見通したかのような申し出。何もかも話してしまいたくなる、不思議な包容力があった。
 「……会いたい人がいるのです でも……彼は……」
 ティリアは慎重に、抑え込むように言葉を選び紡ぐ。少しでも気を緩めれば、吐き出してしまいそうだったから、その身に宿る憎悪を。
 「……他の女と、いってしまいました 私の……気持ちに、気づいて……いたはず、なのにっ!」
 炎のように吹き出す、怒り。
 「どこにっ! どこにいるのっ! なんでっ!」
 ただ彷徨うように聖都に来てしまった時点でわかっていたのだ、この広い北の大地の中でたった一人を探そうなど、目の前に広がる雪原の中に落ちた一粒の宝石を探そうとしているようなものなのだ。だが、ティリアはどうしても欲しかった、そのたった一粒の宝石が、何ものと引き換えにしてでも。
 慟哭の叫びと共に溢れ出る涙がティリアの頬を濡らす。
 そのティリアを、教母はそっと抱きしめるとあやすように背を撫でる。何時までも、何時までもティリアを教母はあやし続けた。



 暫く後、落ち着いたティリアは恥じ入るように教母にお礼を言う。
 「いいのですよ 貴女もまた主神の子なのですから、それを慰めるのも教母である私のお役目です ……泣いて、吐き出して、楽になったかしら」
 教母はティリアに微笑みかける。
 「はい、ありがとうございます ……もう、戻ろうと思います」
 父が待つ、教会へと。養父アルデンもまた、アイオンの出奔と堕落にひどく心を痛めていた。二人を我が子のように思っている神父にこれ以上の心配をかけさせるわけにはいかない。そう考えての事であった。

 「本当に、良いの?」

 見透かすような、教母の問い。
 そうだ、わかっているのだ。体のいい言い訳だと、ティリアはわかっていた。燃え盛る花は剣を諦めきれていないのに、無理やり思慕を断ち切ろうとしているのだと。できるはずがないのに。

 「貴女の中で、答えは決まっているのでしょう?」

 そうだ、まだ散るには早い。ティリアの瞳に炎が宿る。
 「……ありがとうございます教母様 重ねてお礼を申し上げます……行かなくては」
 深々と頭を下げ、ティリアは踵を返す。心を決めた花に、教母は変わらぬ微笑みをもって送り出す。

 「待っていなさい アイオン 必ず見つけ出してやるわ」

 見つけ出して、その後は?
 その心が動かぬならば、その時は……?

 深紅に染まる夢想に体が火照る

 紅毛が燃えるように風にたなびく、さながら全てを焼き尽くす炎のように。



 第一 苔岩の森

 ……眼前に広がる鬱蒼とした森。黒々と枝葉を伸ばした木々が生い茂り、ただでさえ冬が近づき曇りがちな陽の光を遮っているためか薄暗く、足元のぬかるみから立ち上る湿気で何とも言えない近寄りがたさが森全体を覆っていた。
 もしも、アイオンの懐にてご機嫌な妖精……フェアリーのノチェの案内でなければ入っていこうなどとは思わない場所だったに違いない。
 その件の妖精は、今日も変わらずにご機嫌な様子でアイオンの胸元に納まっている。彼女の案内は、羽をもつ者特有の道を道とも思わぬものであったためにずいぶんと遠回りになったのだが、アイオンが考えるよりかは時間をかけずにつくことができた。その広大な森の周りをまるで川が境目のように流れており、その川の水が森の方に流れ込んでいるのか所々水没しているところもあった。このような土地故に長らく不可侵の領域なのだろう、人の手が入った痕跡はなく、見渡す限り橋を架けようとした後すらなかった。この森は永い時の中で今なお人外の領域なのである。
 「この森に入って、奥に行ったところに入り口はあるわ 大きな岩があるの」
 一向に足を動かさないアイオンを急かすように、胸元から鈴声が鳴る。羽をもつものであるノチェからすれば、川を越えることは容易いだろう。それを差し引いても小さな川である、アイオンでも歩いて渡ることはできる。だが、黒々と広がる眼前の森は、まるで入るものを飲み込もうとしているかのような、いってしまえば本能的な忌避を感じる場所であった。恐らく、この森を知るものからすれば入らずの森とでも呼ばれているに違いないだろう、そうアイオンは感じていた。
 「薄気味悪いところだなぁ 本当にこんなところにあるのか?」
 アイオンの横でガーラが不機嫌そうな声で疑問を呟く。アイオンが妖精のノチェを懐に匿うようになってから、アイオンはまるで子を守る狼のようになってしまっていた。そのため、ガーラの《お誘い》も殆ど空振りに終わっており、またいつもノチェがアイオンにくっ付いているために触れ合う事すらも難しかったからである。要は、あまりにもアイオンにかまってもらえなくてガーラは拗ね始めているのである。
 だが、それで完全に拗ねきれないあたりがガーラの世話焼きなところであった。
 「間違いないわ 森の中にいくつもの小川があって、それをたどった先にあるの」
 「ああそうかい……じゃあさっさと行こうぜ」
 ガーラの疑問にノチェが答える。何にしてもただ立ち止まっているわけにもいかない。そうアイオンも覚悟を決めると、流れる川へと足を踏み入れる。思ったよりも川は深く、冷たい水がアイオンの足を覆っていく。
 (足を乾かせる場所があると良いが……)
 じゃぶじゃぶとガーラが先導する形で川を渡る。
 森の淵に立つアイオンとガーラの眼前に、森が広がる。暗く深い、どこまでも続くかのような薄闇が。



 ……森に入って暫く、アイオンとガーラはノチェの言う小川を探していた。曰く、いくつもの小川が集まる泉の中心に入り口となる岩があると言う。森の中は湿っているためか、どこかぼんやりと温かく、それでいて空気の流れもあり思ったほど不快は感じではなかった。それどころか、足元を良く見てみれば多くの平たい苔岩が並び、それほど足場も悪いわけでは無かった。
 相変わらず薄暗さは続くものの、ところどころに生い茂る苔やぼんやりと光る菌類や虫、不思議なほどに澄んだ水を湛え、その周りに蛙などの生き物が集う様子はどこか幻想的でもあった。そう、不思議なことにこの森には間もなく冬が訪れるというのに、未だに多くの生命が息づいているかのようであった。
 「……こんなところがあったとはな」
 見たことのない、森の中の景色にアイオンは感嘆の声を上げる。
 「この森は過ごしやすいの、だから私も好きでよく遊びに来るわ」
 「へぇ ……アタシは苦手だな 湿ってるし、薄暗いしさ」
 そういってガーラは辺りを見回す。確かに、木々の殆どは高く生い茂る針葉樹のために空は覆われ、陽の光は殆ど入ってこない。それに加えて足元は常に湿っているために、過ごしやすいというわけでは無かった。尽きることのない水と苔草を擁するこの森は、それを糧とする獣や虫にとっては楽園のような場所であることは確かであったが、明るさや過ごしやすさという文明的な快適さとは無縁の地といってよかった。
 「むぅ」
 ガーラの言葉に、気を悪くしたのかノチェは小さく膨れると不満げにガーラを見つめる。そんな様子が可愛らしく思ったのか、アイオンはついノチェの頭に指で触れ、優しく撫で始める。しっとりと柔らかく、それでいて程よい硬さで絡みつくような長髪は触れていて心地よく、何時までも撫でていたくなるような触り心地であった。ノチェも撫でられるのが嬉しいのか指にこすりつけるように頭を振る。
 だが、ガーラにとっては面白くもなんともなく。鼻息一つ、荒く鳴らすと地団太を踏むように先へと歩いていく。
 (ちっくしょう! あのチビ、アイオンに可愛がられやがって! アイオンは何でアタシにかまってくれないんだよ!)
 そもそも懐にずっといるという時点でガーラは不満に思っているのである。それこそ、できることならばガーラだってずっとアイオンを抱きしめていたいし、抱かれたいのだ。

 そのようにしながら、森の探索を続けること数刻。ノチェの言う小川を見つける。しかし、それは小川というにしてもあまりにも小さな流れであった。
 岩の隙間を、透明な輝きがちろちろと流れる様子は美しく、他の流れとは確かに何か違うような感じがするものであった。とはいえ、小さい流れ故に見落としやすく、また周囲の薄暗さも手伝って追うのはなかなかに難儀と言えた。
 アイオンが蛇のような小川を見失わないように慎重に歩を進めていると、ノチェが懐から乗り出すように顔を出し、周囲を不思議そうに見まわす。
 「どうした?」
 アイオンの問いに、ノチェが小さく答える。
 「おかしいわ 森がこんなに静かなんて……」
 その言葉にガーラは気になる部分があったのか、足を止め周囲を確認するかのように鼻を鳴らし、耳を澄ませる。
 「……確かにそうだな アイオン、この森は静かだ」
 「それは、奇妙なことか?」
 「いんや、アタシは初めてだしよくわからないけど でも静かだよ、獣はいるけど妖精とか魔物はいないんじゃないか? においもないし」
 ガーラの言葉に、アイオンも違和感を覚える。
 「……妖精も、いない」
 思えばここは人の手が入っていない、原初の森といってもいい。ともなれば当然ここに潜む魔物や、そもそもとして妖精の国の出入り口があるというのに、それら妖精の類がいないというのは余りにもおかしいことであった。
 「みんな……どこにいったの?」
 不安そうにノチェは呟く。
 「……ノチェはどうしてこの森の外に出たんだ?」
 ふと思った疑問を、アイオンは口に出す。その問いに、ノチェは怯える様子で答える。
 「……少し前から、外に遊びに行った妖精が帰ってこなくなったの 外が気に入って、戻ってこなくなることはよくあることだったけれども、その時は余りにもたくさんの仲間が帰ってこなかったわ 私の友達もたくさん……だから探しに行ったの でも、あの人たちに捕まって……」
 そう言葉を切ると、ノチェは隠れるようにアイオンの懐の中に潜り込む。
 消えた妖精に、静かすぎる森、どうにも嫌な予感がアイオンの脳裏をかすめる。しかし、とにかく今は前へと進もうと、胸騒ぎを抑え込み前を向く。
 もっと奥に行けば、誰か、何かいるかもしれないと、そう思いながら。



 第二 泥の獣

 それは突然の事であった。
 森を進み、ある程度開けた場所に出た瞬間。空気が淀み、まるで立ち入ってはならない領域に突然踏み込んでしまったかのような感覚。全身の毛が逆立つような不快感がアイオン達を飲み込んでいく。

 ぞわり、と《何か》が薄闇の中で蠢く。黒泥のように濁り、粘り気のあるそれは苔岩の隙間から沸き起こり、集まりながら形を作っていく。アイオンが周囲を見渡してみれば、それら黒泥のような《何か》は複数、周りを囲うように現れていた。
 一つの姿を成した《何か》は、ゆっくりとその頭をあげアイオン達を黒く淀んだ眼だと思わしき場所で見つめる。それは一見して、巨大な猫のようであった。だが、その体は黒く淀んだ泥で象られ、牙や爪と思わしき部位には不揃いな、それでいて鋭利な石が並ぶ。泥から生まれた獣たちはアイオン達を取り囲むと、唸り声をあげることなくその口を開き鋭い牙を見せつける。
 「……仲良くはできそうにねえな」
 ガーラが大斧を構えて吐き捨てる。そのガーラの背を守るように、アイオンも武器を構えて立つ。むわりと、ガーラの薫りがアイオンの鼻を撫でる。むっとするような、深い薫りだったが不快感はなく、むしろ吸い込めば吸い込むほど勇気と闘志が湧き上がってくるかのようであった。
 戦いの気配に、懐に潜む妖精はより深く潜り込むようにしっかりとその体を信頼する戦士に組み付かせ、何があっても離れまいと鼻息を鳴らす。
 「ガーラ、気を付けろ」
 「わかってるよ アイオンこそ、やられないでおくれよ」
 二人が武器を構えた、その時。

 「ふふん、こんなところに人間とはね それにハイオーク!」
 どこからか、甲高い声が響き渡る。
 「誰だ!」

 「僕かい? ふっふーん!」

 アイオンの叫びに応えるように、少し離れた場所にふわりと黒い影が現れる。全身を黒い襤褸で覆い、辛うじてフードの奥から光る二つの眼だけが見える。背丈は低かったが、その立ち振る舞いは自信満々といった様子であった。
 悠々と歩きながら、アイオンとガーラを面白そうに眺めるその襤褸を纏った何者かは、くすくすと笑う。
 「まあまあ、僕が何者か……なんてことはどうでもいいじゃない! それよりもさあ、君の連れているそのちっこいの! それ、欲しいんだよねぇ……譲ってくれない?」
 不躾な要求。しかし、襤褸を纏った者はさも当然のことのようにその手を差し出す。襤褸の隙間から見える獣のような手に、アイオンはこの者が魔物であり、そして恐らくはこの泥の獣たちを操る術者なのだろうと判断する。事実、泥の獣たちはこの襤褸を纏った者に対しては不自然とも言える無関心を貫いていたからである。
 「貴様がこれらを操る術者か」
 「……そんなことはどうでもいいだろ 譲ってくれるの? くれないの?」
 アイオンからの問いかけに、明らかに不機嫌そうに返事をする。尤も、ここで相手が機嫌よく答えたとしても答えは決まっていた。
 「断る」
 「……ふ〜ん いいの? 殺しはしないけど、とても痛い目にあってもらうよ?」
 アイオンの返答に、少し考えるようにくるりと目と指を動かす。周囲では、泥の獣たちがアイオン達を脅すかのように牙を剥き、爪で大地を掻く。唸り声はなく、粘つく泥の音だけが不気味に響き渡る。
 しかし、この動きがあったことでアイオンは確信する。目の前の小さな存在こそが間違いなく、これらの主であり何らかの術を用いて操っている存在であると。

 「最後にもう一度聞くよ、わかりにくかったかもしれないからはっきり言うよ その妖精を」

 《よこせ》そう言おうとしたのであろう。だが相手がそう言い終える前にアイオンは跳ねるように駆けると鞘巻きの剣で二振り薙ぎ斬り、目の前の獣を殴り払う。泥が弾け飛び散る音と共に、黒い淀みの塊が宙に跳ねる。そのまま剣を構えるように鞘の留め具を外すと、すらりと古き剣を抜く。幾重にも皮で巻かれた重く厚い鞘が音もなく落ちると、鈍色に輝く刀身がその姿を見せた。

 古より戦士の袂にあり、その身に錆一つなし。数多の敵を屠りし古強者よ。

 ずしりと重く、それでいて戦士のために造られたかのように手に馴染む刃が久方ぶりの抜き身に打ち震えるかのように鈍く光る。
 鋭い刃が一筋、光を返した次の瞬間、疾風の如き速さで戦士の剣が術者の首を捉えた。
 「は? え? ひっ!」
 フードの、首にあたる部分がはらりと落ちる。冷たい氷のような刃が、首筋にあたる。
 「へ、ひっふっ そ、そんな、何時の間に……」
 ひんやりとした、終わりの感触が首から全身に広がる。絶対的な優位に立っていると錯覚した術者は今、己が窮地に立たされていることを理解できなかった。
 しかし、意識が理解するよりも先に、本能が、体が理解する。

 死ぬ

 目の前の戦士が、少し力を籠めて剣を引けば首が断たれる。脳裏に浮かぶのは、ぼとりと落ちる己の頭。

 「あ」

 ちょろりと、生暖かい感触がじんわりと術者の下腹部にひろがる。あたりに流れる水とは違う、温かく少しばかりつんとする臭い。
 このような状況でなければ、ひどく羞恥を感じたであろうことであったが、術者にとってはどうでもよかった。ただぼんやりと、止まることなく漏れ濡れていく股座の感触を感じていた。

 「うわ、漏らした……」
 戦士の胸元から妖精の鈴のような声が、同情するように呟く。
 戦士としても、別に殺す気はなかった。しかし、この相手の失態には流石に驚いたのか構えを軽く解き首にあてていた剣を首から少し離す。

 目の前の術者はぼんやりとした様子で動かず、アイオンは警戒しつつもそっと剣を離したその瞬間であった。
 「は、ははっ! 馬鹿め!」
 ハッとするかのように術者が叫んだその瞬間、アイオンの足に泥が絡みつく。
 (しまったっ!)
 ずっぽりと、沼地に足を取られたかのように黒い淀みが巻きつき動きを封じる。殴り飛ばしたはずの泥の獣は形を変え、その不気味な目と思われる窪みをアイオンの方へとむけていた。開かれた口には牙が並ぶ。

 「やらせるかっ!」

 その牙がアイオンの足に食い込もうとしたその時、ガーラの叫びと共に放たれた鋭い飛礫が獣の頭を撃ち抜く。泥沼に石を投げ入れたかのような音と共にびちゃりと黒い泥が飛び散る。そのままガーラは周りにいる獣を強引に斧で斬り飛ばすとアイオンの下に駆け寄り、胴体を一掴みすると沼地から引き上げるように上へと持ち上げる。
 「うわっ!」
 かなり無理やりな、力業での救出劇にアイオンは驚きの声を上げる。しかし、効果はあったようであり、太ももまで這いあがっていた黒い泥は引きちぎられるようにアイオンの足を解放する。そのまま片手で持ち上げられる形で、アイオンはガーラの肩に抱え上げられる。
 「おっおい! ガーラ!」
 「ははっ たまにはいいじゃねえか! しっかり掴まってな!」
 そう叫ぶと、黒泥に足を囚われまいとガーラはアイオンを抱えたまま軽々と動き回る。
 「邪魔だよ!」
 動き回りながらも、片手で軽々と大斧を振るい叩き潰すように泥の獣を打ち払っていく。次々と獣が飛び掛かっていくものの、まるでガーラを捉えることはできず、振り上げた爪は空を切り、牙はがちりと擦り合わされる。それでいながら、獣は次々とガーラの斧によって弾き飛ばされみるみる内にその数を減らしていく。

 「遅いんだよっ!」
 ガーラは斧で足元の岩をひっかけると、力を籠め一息でその岩を投げ飛ばす。その力任せの大技に複数の獣が巻き込まれ泥となって大地にへばりつく。
 一方的であった。もしも泥の獣に再生する力がなかったのであれば、もっと早くに決着はついたであろう。そう言えるほどにガーラの、ハイオークと獣の力の差は歴然としていた。
 「くそっ! なんなんだよ、こんなのってないよ!」
 暴れまわるハイオークを前に、次から次へと泥の獣をけしかけるも、その意味を問いたくなるほどに容赦なく叩き潰されていく。
 飛び掛かれば躱されるか斧の一撃をもらうか、または足で蹴り潰され、隙を伺い足元に潜み足を絡め取ったかと思えば力任せに引きちぎられ、遠くにいてもうっかりすれば飛んできた岩に下敷きにされる。それらを全て肩に人ひとり乗せた状態で行っているのである。動きは鈍く、片手も使えない、極めて不利な状況のはずであった。
 だが、目の前のハイオークは難なく泥の獣たちを叩き伏せていく。まさしくそれは暴威であり、ハイオークがなぜ《強者》たるかの所以を示すようであった。
 「ひひっ ぬるいぬるい!」
 そして、その暴威に担がれ、かつて相対した戦士は改めてその力の恐ろしさと、それが今一番の味方として傍にいてくれることのありがたさを痛感するのであった。

 かくして、全ての泥はハイオークのガーラの手によって均され動かなくなるのであった。幾度となく砕かれ擂り潰された獣は形を保つ力すらも失い、ただの泥となって溶けてゆく。
 咄嗟の隙をつき、逆転したかと思った術者であったが、実際はただの無駄な抵抗であった。目の前のハイオークはまるで軽い運動をした後であるかのように軽く汗ばみ、息を切らしていたが余力があるのは一目瞭然であった。
 「ほら、アイオン……とちっこいの 気を付けろよ」
 ガーラは肩に担いでいたアイオンを少し名残惜し気に下ろす。
 「うぅ……頭がぐらぐらする……」
 「ありがとう 流石だな、ガーラ」
 アイオンのその言葉に、ガーラは嬉しそうに笑う。
 「さて、と 次はどうする? おチビちゃん」
 じろりと、ガーラの眼が術者を睨む。目前の脅威は潰したが、相手は複数のゴーレム……泥人形を難なく操るだけの魔力を有した術者である。隠し玉がある可能性は高く、むしろないはずがなかった。

 「は、ははは はーっはっはっ!」

 突然の高笑いにアイオンとガーラは警戒を強める。
正直なところ、術者は逃げ出したかったが己の尊厳と自負がそれを許さなかった。それに、まだまだ《とっておき》はいくつもあった。
 「ふっふふふふ……や、やるねえ君たち! 僕をここまで怒らせたのは君たちが初めてだ!」
 「あ?」
 「ひぃ! ふっふん! ま、まだ僕は負けてない! すぐに殺さなかったことを後悔させてやるからな!」
 そう叫ぶと、術者は懐から枯れ木のような杖を一つ取り出すと、深々と苔岩の隙間に突き立てる。そしてその杖の上に一つ、奇妙な光を放つ宝石を置くと呪文を唱え始める。

 古き土よ、古き岩よ、ここに我カルタが立つ
 古き根よ、土と岩に再び根をはるべし、ここに我カルタが命を奉じる
 新たなる命よ、立て、ここに我カルタが汝の主となる

 変化はすぐに訪れる。杖に置かれた宝石の光が強く輝くとともに、杖が岩々の隙間に根を張り始める。根は辺りの岩と土を巻き込みながら、術者……カルタと名乗ったものを中心に盛り上がるようにその巨体を形作ってゆく。
 カルタが両手を天に上げると、それと同じように巨大な岩の両腕が大地より離れ天を掴む。今、アイオンとガーラの眼前に巨大な岩山が立ちふさがっていた。先ほどの泥の獣よりも遥かに高度な魔術、大地のゴーレムである。

 「はーはっはっは! どぅだぁ! 僕を! 僕を! もう許さないからな! 行けゴーレム! あいつらをぺちゃんこにしてやるんだ!」



 第三 大地のゴーレム

 両手を掲げた巨体の上、頭部がないゴーレムの胸元に一つ目のように輝く宝石の上で高らかに宣言する術者カルタ。興奮からか、先ほどまでかぶっていたフードが外れ、その顔が露わになる。
 顔全体に毛を生やし、獣の耳を持つもの……というよりもその顔は獣そのものであった。獣頭に人のような髪が生えているといった方が正確であった。
 「……その姿、ケット・シーか!」
 猫が魔力を浴び変じた魔性。高い知性を有し、その辺の魔導士よりも遥かに高度な魔術を操る魔物。その性質は個体によって左右されるものの、概ね気まぐれで狡猾、自分勝手で我がままな存在であるとされている。

 「いけぇっ! いけぇっ! 踏み潰せ! ひっーはっはっはっはぁ!」

 魔力に中てられて気分が高揚してしまっているのか、術者カルタは狂ったように叫び命じる。地響きと共に動き出したゴーレムは木々を薙ぎ倒しながら、アイオンとガーラを踏みつぶそうと《歩き始める》。あまりにも重く巨大な足はただ歩くだけで地震の如き衝撃を起こす。特に、足元の殆どが苔岩であるこの場所では、ただ歩くだけでもその衝撃を吸収しきれずにひび割れ砕け、陥没する有様であった。普通に考えれば正面からぶつかるべき相手ではない。
 「とんだ大物だな!」
 しかし、ガーラはまるで退く気がないかの如くゴーレムの前に立ち塞がる。
 「おい、ガーラ まさかやり合うとか言うなよ」
 幸いにして相手の動きはさほど早いわけでは無く、ゴーレムとアイオン達の間には距離はあった。退こうと思えば退けるかもしれない。しかし、退くべきかと考えていたアイオンの横で、ガーラは爛々と目を輝かせ脅威を前にその戦意を高めていた。
それはハイオークとしての本能か、それとも魔物としての性か、どちらにせよガーラの頭に退却の二文字はないようであった。
 「……無策ではないよな?」
 僅かに考え込んだのち、アイオンはガーラと共に戦う決断する。どちらにせよ、退いたところで目の前の脅威が消え去るわけでは無い。相手が手の内のわからぬ術者である以上、冷静さを失っている今が叩く絶好の機会かもしれない、そうと決まれば早かった。
 「動かなくなるまで砕けば良いんだよ! さっきのようにな!」
 「……ゴーレムを倒すには術者が命じるか、魔力の元を断つ必要があるんだ 砕き続けても止まらないぞ、それにあれだけ巨大なものをどうやって砕くんだ」
 「えっ! じゃあさっきはどうして……どうする、アイオン?」
 「さっきはたまたまだろう、とにかく今は様子を見て隙を狙うしかない! 二手に分かれて撹乱するぞ、絶対に近づくなよ!」
 そう言い放つとアイオンは素早く駆け出していく。

 「いけぇ! ゴーレム、奴を叩き潰せ!」
 カルタの絶叫、それと同時にゴーレムの大腕が振り上げられ、アイオンめがけて振るわれる。巨大な石塊が枝々を圧し砕き、大樹を打倒しながら打ち下ろされ大地を叩き割る。
 木々の隙間に身を隠し翻弄するように駆け、振り下ろされた大岩の破壊槌をアイオンは躱す。大地が割れるとともに、凄まじい衝撃がアイオン達を襲う。しかし、それは術者であっても同じことのようであり、打ち下ろされた後の動きは殊更鈍かった。
 「くそっ! 木が邪魔だ! 薙ぎ払ってしまえっ!」
 あっさりとゴーレムの石槌が躱された挙句に、粉塵によってアイオンを見失ったカルタはイラつくように叫ぶ。ゴーレムは大きく腕を振るうと、大樹へと打ち据える。砕ける音と、軋み折れる悲鳴のような大きな音を立て大樹がなぎ倒されていく。苛立ちまぎれの一撃だが、破壊力は十分にあった。
 「アタシを忘れんなよ!」
 ハイオークの咆哮と共に、ゴーレムめがけて岩が投げ放たれる。投岩はゴーレムの体に当たるも、僅かな衝撃を与えただけで動きを止めるほどの威力はなかったようで、意に介すことなく動き続ける。
「くそっ! ちょっとは効くかと思ったけどダメか!」
 カルタはいずこかへと潜むアイオンを探す方に集中しているのか、アイオンが駆け抜けていった方向の木々を薙ぎ倒し、踏みつぶすように破壊していく。その度に砕けた木や岩、そして吹き上がる水によって煙が起こりゴーレムの周囲の見通しが悪くなっていく。
 文字通り影も形もつかめないカルタは苛立つように周囲を見渡すと、ガーラの方に目を付ける。
 「ゴーレム! 目的を変更だ! あの豚を踏みつぶせっ!」
 岩々が軋み、石が零れ落ちるような音を立てながらゴーレムはその輝く目ガーラへとむける。そのゴーレムの目を見た時、ふとあることをガーラは思いつく。

 巨大なゴーレムが地響きを立てながらガーラへと向き直るも、ガーラは逃げることなくその巨体を睨む。そのまま、足元から手ごろな大きさの石を一つ拾う。人の頭ほどもある石だが、それなりの威力を出せ、そして何より狙いをつけやすい大きさであった。
 「よしっ!」
 ガーラが投げようと構えた、その時。ゴーレムは足元の大岩を掴み持ち上げると、それをガーラに向かって投げつける。
風を押し潰す轟音と共に目の前の迫る巨石を、ガーラは慌てて飛び跳ね避ける。凄まじい衝撃と共に岩が地面にめり込み、破片が飛び散る。何とか躱し、ガーラは一息つく。だが、ゴーレムは次の岩を構えると、再び轟音を響かせながら叩きつけるようにガーラへと投げつける。続けざまに放たれる大岩を、ガーラは慌てて躱し逃げる。
 再度の衝撃。叩きつけられた岩は砕け、辺りに破片をまき散らす。その破片を至近距離で喰らえば、ずたずたに引き裂かれていたであろうが、幸いにして周りには隠れる場所が多くあった。素早く大樹の裏に身を隠したガーラは様子を伺うように顔を出す。
 「ハッハァーッ! どうしたんだ⁉ 自慢の馬鹿力も僕のゴーレムを前には形無しかぁい?」
 カルタは高笑いと同時に岩を持ち上げると、ガーラが身を隠している大樹めがけて岩を放つ。
 「くそっ!」
 (あのチビ、思った以上に厄介な奴だったな!)
 正直、油断はあった。先ほどの失態がたまたまか演技かわからないが、演技だとすれば大した役者だったなと、ガーラは身を隠しながら考える。
 思った以上に硬い、それに動きは鈍いがあの重量と力を正面から受け止めるのはハイオークといえども無理があった。だが、勝機……と言わずとも狙い目はあった。
 (あのデカブツ、見えてないな)
 そう、ガーラはゴーレムの動き方から、自然にゴーレム自身に自立した意思はなく、あくまでカルタの視覚……指示に依存していることを見抜いていたのである。ともすれば、術者に気取られない限りゴーレム自体の足元にいようが目の前にいようが気付かれないということでもあった。
 (ヒヒッ! だったらやりようがある……!)
 ガーラは薄く笑うと、ガーラを見失い暴れまわるゴーレムから身を隠しながら進む。

 「クソッ! またかくれんぼ⁉ 出てこい!」

 アイオンばかりでなく、ガーラまでも見失い激昂する術者カルタはゴーレムを無茶苦茶に動かし、辺り一面を破壊していく。
 「はぁっはぁっ! どこに行ったんだ……!」
 ゴーレムの地響き以外、聞こえない森の中でカルタは周囲を見回す。しかし、人間の戦士も、ハイオークも影も形も見えない。出て来いと叫ぶも、それで出てくれば世話はない。ただカルタの甲高い声が森の中に吸い込まれていくだけであった。
 「……いつの間にか踏みつぶしちゃったかな?」
 そういって苦虫を噛み潰したような渋い顔になるカルタ。ハイオークの方は別にぺちゃんこでも構わなかったが、戦士の方は目的である妖精を連れていただけにぺちゃんこは少し困ってしまう。
 カルタが欲しいのは生きた妖精だったからだ。
 「まあいいや 潰れたにせよ、隠れているにせよ、出てこないってことは僕の勝ちっていうことだな! はっはっはっはっ!」
 ゴーレムの上で得意げに高笑いするカルタ。
 そんなカルタの様子を、圧し折れ砕かれた大樹の残骸の下で伺うガーラ。砂埃や木粉が舞い、視界が悪く呼吸も難しい場所であったが、身を隠すにはうってつけであった。
 ガーラの狙いはただ一つ、あの輝く《目》であった。アイオンの言うように、魔力の元があるとすればあれに違いないだろうと確信していた。術者を狙ってもよかったが、ちょろちょろと動き回る小さな的に中てるのは難しい。そういう意味では目もかなり小さかったが、狙いやすい位置にあったし動きもずっと鈍かった。
 問題はどのようにして狙うか、ということであった。先ほどとは違い、距離はだいぶ近い。狙いをつけることに関しては問題ないだろう。だが、見つかればまた術者はガーラを押し潰すべくゴーレムを暴れさせるだろう。そうなってしまうと身を守ることを優先させねばならず、狙いをつけることが難しくなってしまう。それにどれほどの力を籠めて投げれば魔力の元を破壊できるかもわからなかったし、外してしまう懸念もあった。
 (とにかく、やってみるか)
 ともかく、何時までも隠れているわけにはいかない。意を決し、ガーラが飛び出そうとしたその時であった。ゴーレムの背後に、かすかな音と共に走り寄る影が一つ見える。
 (アイオン!)
 薙ぎ倒された木々と砕かれた岩の間隙を縫うようにアイオンは器用に走り抜けていく。そのままゴーレムの足元にまで駆け寄ると、一跳ねゴーレムの巨大な足に飛び乗る。
 (まさか! よじ登るつもりか⁉)
 ガーラはアイオンの行動を追うも、ゴーレムの影に入り見えなくなってしまった。
 ゴーレムの上では、術者のカルタが苛立たし気に周囲を見渡していた。

 (よし、巧く飛び乗れたな)
 アイオンはこの瞬間を待っていた。アイオンにはガーラのように岩を投げることもできなければ、力任せに砕くこともできない。だが、身軽さには自信があった。故に狙ったのは相手が何らかの理由で立ち止まった時にゴーレムの体をよじ登り、術者を直接叩くというやり方であった。
 もちろん、危険もある。下手な位置でゴーレムが動き出せば、ただそれだけでアイオンは擦り潰され死ぬことになる。そうでなくとも、見つかってしまえば相手は振り落とそうとしてくるだろう。当然、その時にゴーレムに掴まれるか叩かれでもすれば一発で潰れるか、もしくは落ちて地面に叩きつけられることになる。
 だが、それで怯んでいてはそれこそ勝ちの目はない。ゴーレムの巨体が動きづらく、そして隠れる場所の多いこの場所は格好の狙い場でもあったからだ。幸いにして、ゴーレムの体は存外上りやすかった。岩と土で作られた体のあちこちに巨大な根が張り、それが上手い具合に足場や手掛かりとなってくれていた。
 そうした上りやすさもあり、順調に昇っていくアイオン。しかし、アイオンがゴーレムの背中までよじ登ったところで、いよいよガーラが見つからないことに痺れを切らしたのか甲高いカルタの叫び声と共にゴーレムが動き始める。
 (! 不味い!)
 登り切り、術者を討つまでは止まっていてくれと願ったものの、それは叶わないと知ったアイオンは急いでゴーレムの背をよじ登っていく。

 「ちぇっ! どこ行ったんだよ全く……」
 最上段、ゴーレムの肩というべき場所にアイオンは手をかける。まだ、カルタは気づいていない。
 素早く上に登ると、アイオンは腰に差した短刀に手をかける。剣も背に吊るしていたが、ここで振るうには足場が悪すぎた。アイオンはこれから討つべき相手を見る。
 (やはり、ケット・シーか)
 ピンととんがった猫の耳に、全身を覆うふわりとした濃いグレーの毛皮。人の髪のように長く伸びた頭部の毛と一見して愛くるしい姿だが、高度な魔術を難なく操るだけの知性と魔力を備えた危険な魔物。伝承では妖精の同盟者、夢の国の住民とも呼ばれている。一説では魔物よりも妖精に近い存在とも言われ、時として人間の味方にもなったと伝えられている存在であった。
 (大人しく言うことを聞くとは思えないが……)
 可愛らしいその姿に絆された、と言われればそれまでだがアイオンはできることならばこの場で殺すという形は避けたかった。討たねば、こちらがやられる、というのはその通りだったがやはり目的がわからない相手をやみくもに殺してしまうというのは気が進まなかった。そんな迷いが出たのか、がらりと足元の岩が崩れ落ちる。地響きとは異なる音に、ケット・シーの耳がぴくりと動き、その顔がアイオンの方を向く。

 「あっ! えぇっ! い、何時の間に!」

 淡い翠色の瞳が驚きに見開く。アイオンは不安定な足場を蹴り距離を詰めると、腰元から短刀から抜き放ちカルタへと迫る。
 「ヒィッ!」
 飛び掛かるように短刀を振るいあげたアイオンに驚いたカルタは咄嗟に飛び跳ねる。その動きの機敏さは、流石は猫の魔物というべき速さであったが、アイオンの短刀が振り下ろされる方が早かった。
 その短刀は術者を捉えることなく……否、最初から狙ってはいなかった。飛び掛かるようにして振り下ろした先は術者の着ている襤褸の裾であった。ゴーレムの隙間に短刀が突き刺さり、襤褸が繋ぎとめられる。はたして、飛びのこうとしたカルタは大きく転ぶように地べたにぶつかる。
 「にぎゃっ!」
 アイオンはその勢いのまま反対側に飛びのくと、岩の隙間に手をかけ止まり、背に吊るした剣を引き抜くと再度駆けてゆく。
 「にぎぎっ! くそっ! 襤褸が!」
 術者の混乱から、震え動くゴーレムの上は極めて不安定と言えたが、アイオンは器用に速度を落とすことなくカルタへと走り寄ると、転びもがくカルタの胸倉をつかみ、眼前へと剣を突き付ける。
 「ひにゃっ!」
 無理やり起き上がらされた直後、眼前には戦士の睨み顔が迫り、己の目の前に、少し首を倒せば刺さる位置に剣を置かれている状況にカルタは一時、思考が停止する。ゴーレムも術者の思考が止まったのを感知したのか、その動きを止める。
 決した、そう判断した戦士は顔を捉えていた剣を下に振り、胴へと狙いを変える。その切っ先を、カルタの目が茫然とした様子で追う。
 「……余計なことはするな」
 降伏しろ、そうアイオンが言おうとした瞬間である。

 「うおぉっりゃやぁっ‼」

 響き渡るガーラの雄叫び、そして衝撃。次の瞬間、悲鳴のような音と共にゴーレムの目の周辺が吹き飛ぶ。
 「やったぜ! おーいっ! アイオォォォン! 無事かぁっ!」
 ガーラ渾身の投石、いや投岩はゴーレムの目、魔力の核である結晶を見事に捉え打ち砕いたのである。
 だが、それはゴーレムを維持するための魔力が急激に失われていくことを意味していた。すなわち、巨大な岩山を繋ぎ止めるものがなくなり、崩れ落ちるということであった。その兆候はすぐに表れた。ゴーレム全体を這っていた木の根が次々と千切れ飛び始めたのである。
 このままではまずい、アイオンの判断は早かった。
 「ガーラ! 行くぞ!」
 「行くって何が⁉」
 アイオンは剣を背負うとカルタをひっつかんだまま、崩れ落ちるゴーレムの上から跳ぶ。できる限り前へ、受け止めてもらえるように。
 「おっおい!」

 間一髪、というところであった。
 ゴーレムだったものが崩れ転がり跳ねる中、アイオンは無事ガーラの胸の中に納まる。がっしりとたくましく、それでいて柔らかい。何よりも、深く薫るガーラの匂いが生を実感させてくれる。ぶつかるように抱き留められ、転げまわったおかげであちこちぶつけ、その痛みが酷かったが、それでも何とも言えない充足感があった。
 「いちぃ……アイオン、無茶するなって……」
 「う……すまないな」
 すぅっと、無意識のうちにガーラの胸元にうずくまり息を吸う。花や果実の香りとは程遠い獣の匂い、だがどこまでも夢中になるその薫りに体が熱く火照る、このままでは盛ってしまいそうだと感じ取ったアイオンは、思い出したようにガーラから離れると胸元に手を当ててノチェの無事を確認する。何度かもみくちゃになったり、大立ち回りを演じたおかげでだいぶ目を回していたが、一応無事であった。
 「あ、そういやあいつは?」
 「ああ、それなら」
 そういえば掴み上げたままだった……そう思いアイオンが腕をあげると、確かにつかんではいた。中身のない、術者の襤褸を。

 しまった。すぐにアイオンとガーラは周囲を見渡し、カルタの姿を追う。

 だが、幸いにしてアイオンの懸念はすぐに杞憂となる。あたり一面。崩れたゴーレムだったものとそれらの飛び散った粉塵が辺りに舞い、視界が悪かったものの、すぐにカルタは見つかった。どうやら落ちた拍子に襤褸からすっぽ抜け、地面にぶつかり気絶していたようであった。
 近づいてみると完全に伸びているようで、大の字でうつ伏せに倒れ、また失禁していた。
 「うわ……」
 (哀れに思えてきたな……)
 アイオンの胸元から、ぐったりとした様子で顔を出したノチェがカルタの失態を見て、再度憐憫ともいえるような声をあげる。実際、カルタの様子はひどいものであった。埃が毛につき、湿気を吸った影響か掃除に使われたボロ布のような有様であった。毛皮の質が、傍とみて良いものであることがわかるだけに、余計に汚れが目立つ。
 「ほら、起きな」
 しかし、そんな様相にも情をかけないのがガーラであった。ひょいとカルタを摘み上げると、首根っこを掴んだまま揺らして起こす。
 「うぶぶ! う、ぐ……い、痛いよ…… はっ」
 落ちた時に強かに顔を打ったのか、カルタの顔に鼻血が垂れる。襤褸以外に身にまとうものがなかったようで、その裸体をアイオンの眼前に晒す。裸体、と言っても猫と同じくふわふわの毛皮が全身を覆っていた。
 だが、体つきは人に近く、少女ほどの背丈であったが人で言うところの胸の部分はふっくらと盛り上がり、また腰つきも扇情を誘う良い形をしていた。
 とはいえ、それは平時の時に見掛ければ、という話であった。アイオンはカルタの前に立つと、尋問を開始する。
 「はっ離せよ! 痛いじゃないか! ぼ、僕が何を……やったかもしれないけどちょっとした悪戯だろ!」
 「……誰の使いだ?」
 「え? い、言うわけないだろ!」
 「ノチェを欲しがる理由は?」
 「うるさい! 離せよ!」
 「どうしても言うつもりはないか?」
 「当り前だろ! 僕がご主人様を裏切るわけがないだろ!」
 「……ご主人様、というのは? その人物がノチェを欲しがっているわけだな」
 「あっ! えっ へへ、いや、違う違う、僕が、僕が欲しいの!」
 「目的はなんだ」
 ぐっと、カルタに詰め寄るアイオン。カルタの怯えた翠の目がアイオンの目に映りこむ。
 「え、えへへ、へへ……」
 へらへらと笑うカルタ、その時であった、アイオンを見つめるカルタの瞳がぼんやりと光る。その光を見た瞬間、アイオンの思考に靄がかかり、体が動かなくなる。
 淡く光る翠の光、カルタの魔眼の術であった。しっかりとした催眠でなくとも、動きを封じる、または混乱させるぐらいのことはできた。
 「いけない!」
 だが、それを察したノチェが胸元で叫ぶ。
 「! こいつ!」
 ガーラがカルタをアイオンから離した、その瞬間、カルタは身を捻りガーラの顔を足で引っ掻く。
 「ぃちっ! あっ待て!」
 猫であるが故の、鋭い足の爪に引っかかれたガーラは、虚を突かれたこともありカルタを離してしまう。

 「はーはっはっは! バーカバーカッ! 誰が捕まるもんか! 覚えてろ!」

 そう叫びながら森の中に消えるカルタ。
 「くそっ! あっー!」
 「……すまない 俺としたことが……」
 カルタの瞳から解放され、ぼんやりとした頭を無理やり覚ますアイオン。魔術師を相手にするときは最後まで油断するな、その教えを痛感していた。
 「……見失ってしまったな」
 そう言い、悔しそうに歯噛みをするアイオン。だが、ガーラは一つ思い出したかのようにカルタの襤褸を拾うと一嗅ぎにおいを確かめると、にやりと笑う。
 「ひひっ 大丈夫だアイオン 追えるぜ」
 「本当か?」
 「ああ、なんたってあいつは……しょんべん臭いからな ちょっと汚い気がするけど、まあこれだけ臭かったら追えるよ」
 そう言い、鼻を引くつかせるガーラにアイオンは感嘆すると同時に、《まるで犬のようだ》と思ったのだが、それは胸の内にしまっておくことにした。
 「まるで犬のようね」
 「てめえ!」



 第四 森の中の小屋

 ……言葉の通り、ガーラは迷うことなくカルタを追っていく。ガーラ曰く、流石に狼や犬の魔物に比べたらずっと鼻は鈍いらしいが、ハイオークとオークの嗅覚はそれほど変わらないという事から、なるほど念入りに隠しても気づかれるものだと、アイオンは感心していた。特に一回嗅いで絶対に覚えておこうと思ったにおいならばまず間違えないということだった。
 (……やはりあの時、気づかれたのは)
 アイオンは歩きながら、ハイオークの執念深さに想いを馳せる。

 「いたぞ」
 そうこうしているうちに、ガーラがカルタに追いつく。
 カルタはだいぶ疲弊しているのか、息を切らしながらとぼとぼと歩いているところであった。先の一件で何とか逃げおおせたと思っているのか、振り返ることなく森の中を歩いていく様子は痛々しく、足を挫いたのか時折足を引きずり、本来の猫のように四足になりながらも進んでいく。
 「どうする?」
 「少し後を付けよう あいつが言う、主人のことがわかるかもしれない」
 アイオンとガーラは、距離を保ちながら獲物を追う狼の如く慎重に追っていく。

 やがて、森の開けた場所にカルタはやってくる。そこには、何とも不釣り合いな奇妙な《小屋》が建っていた。どう奇妙なのかと問われれば、こう答えるしかなかった。
 《全てが左右対称である》と。
 まるで貴族が使うような狩猟小屋のような小綺麗さに加え、こんな辺境に似つかわしくないガラス張りの窓をもつという点も怪しかったが、突き出した二本の煙突から窓の配置と数、小屋を覆う装飾の模様までも全てがまるで幾何学模的に左右対称に配置されていたのである。唯一、左右対象でなかったのは出入り口であろう扉と、その上に掲げられているランタンだけであった。それも中心に、極めて正確に配置されているようであった。
 そんな奇妙な小屋であったが、カルタは迷うことなくその小屋に近づいていく。

 「待て、術者カルタ」
 「逃げられると思ったか?」

 ここが目的地だろう、そう判断したアイオンとガーラは飛び出しカルタに向けて武器を抜く。そんな二人に、カルタは心底うんざりしたような様子で振り返ると叫ぶ。
 「もうっ! もうっ! なんなんだよっ一体! 君たち何なの⁉ クソッ! 僕としたことが気付かないなんて……」
 遠目からでもカルタの疲弊と焦燥が見て取れる。見るからに先ほどまで見られていた溌溂とした様子はなく、濃い疲労からか動きも鈍い。
 「おおかた、僕を泳がしてご主人様を見つけようと思ったんだろう? 残念だったな! この森には僕しかいないよ!」
 カルタは笑う。相手に手はない、そうアイオンは思いたかったが、カルタの様子からまだ隠し玉があると感じ取り警戒を強める。
 「……それにもっと前に僕を仕留めるんだったな もう僕に打つ手がないとも思っているな? 違うね! 見せてあげるよ! 魔法使いカルタの神髄を!」
 「何をする気だ!」
 ぼろぼろの姿でカルタは不敵に笑うと、片手の手のひらに呪文と共に息を吹き込む。すると、たちまちのうちにカルタの目の色と同じ翠色の火の玉が燃え上がり始める。

 「ここまで僕を追いかけたのが間違いだったな! 動け、我が主の名において命じる! 我が主の敵を滅ぼせ、魔法使いの小屋!」

 カルタは叫び、翠の火の玉をランタンに投げる。
ひとりでにランタンが開くと、吸い込まれるようにランタンに火の玉が収まる。そして軋んだ音を立てて、ランタンが閉まったその瞬間であった。

 《小屋》が動き始めたのは。

 まるで木の根が大地から盛り上がり出るかのように巨大な、鶏のような足が四本小屋の四方から岩を砕きながら伸びる。その足は木でできているようであったが、その先には巨大な鈍色の鋭い爪が生えており、その鋭さは容易く岩を突き砕くほどであった。
 小屋に足が生えた、というまるで何かの冗談かのような、滑稽ともいえるその姿であったがアイオンとガーラは感じ取っていた、これもまた決して生半可な魔術ではないと。
 小屋の扉がひとりでに開くと、中から奇妙な形の、木の根のような触手が伸び、軒先に吊り下げられたランタンを掴み持ち上げると小屋の中へとしまい込む。そのままひとりでに扉が閉まると、部屋の中にぼんやりと翠の灯がともる。そして、まるで目を開くかのように扉に備え付けられた大きな丸窓が開く。
 小屋は身を震わせ、ゆっくりとその身を起こすとアイオン達の眼前に立ち塞がる。

 「どうだぁっ! 今度こそ、今度こそ僕の勝ちだ! 何せこの魔法使いの小屋はご主人様が作ったんだからな! この僕の為に!」
 勝ち誇るカルタ。その様子からも、恐らく先ほどのゴーレムよりも高度な魔術であることが伺えた。
 「行け! 魔法使いの小屋! 奴らを踏みつぶせ!」
 誇らしげに、自慢げに、高らかに命じるカルタ。しかし、小屋はゆっくりとその体を傾ける。丁度、カルタの前に扉が来る。その様子に、怪訝に思ったカルタは首だけ振り返って伺う。
 カルタの翠の目と、その扉の覗窓の目が合ったその時であった。小屋の扉が開く。まるでカルタを招き入れるかのように。

 だが、実際は違った。小屋の中から複数の触手が伸びると、カルタの全身に巻きつく。ただ機械的に無機質な動き、それはまるで獲物を捕らえるかのように。
 「おいっ! なんだよ! やめろ!」
 術者であるはずのカルタにとっても不測の事態なのか、慌て逃げようともがく。しかし、触手は拘束を緩めるどころか小屋の中に引き込むように蠢く。
 カルタの目には映っていた。小屋の奥で煌々と燃える翠の炎が、それは魔力の炉。その燃料は知っている、いや《察した》のだ。獣の本能ともいえるものが、この小屋が何を欲しているのかを理解してしまった。
 「っ! そんな……嫌だ、嫌だいやだイヤだッ! どうしてっ! 止めろ!」
 引き込む力が強まる。その異様な様子に、アイオンとガーラも気づく。

 「いやだッ! イヤダァァァッ!!」

 泣き叫ぶ絶叫と共に、カルタは《小屋に喰われた》。

 扉が閉まり、ひときわ強い翠の光が小屋の中から放たれる。
 カルタの叫びが消え、ひと時の静寂が、気持ちの悪い静けさが辺りを覆う。
 そして、まるで食事を終えたかのように、満足げに小屋は体を震わせると、アイオンとガーラの前に……改めて立ちはだかった。
 無機質なはずの小屋であったが、アイオンとガーラは感じていた。小屋が放つ、明確な意志……殺意を。

 戦いが始まった。

 小屋の動きは速かった。前足を振り上げた次の瞬間には振るわれ、アイオン達へと襲い掛かる。その前足を、アイオンとガーラは咄嗟に躱す。
 岩を突き砕くほどの硬さを持つ爪は、切り裂く刃としても上等なものであった。大樹は容易く切り折られ、悲鳴を響かせながら倒れ込む。幸いだったのは周りの木々も大樹だったがゆえに押し潰される心配が少なかった、ただそれだけである。
 「木々の間に逃げるぞ! 急げ!」
 本来であれば、大きな敵の動きを阻害しアイオン達を守る盾となる木々であったが、小屋は邪魔な木は伐り倒し、倒れてなお邪魔であれば踏み折るか獣のように乗り越えアイオンとガーラを追う。二人が狭い場所に入り込めば、小屋は軋む音を立てながら変形し、四本の足で狭い場所すらも容易く入り込んでいった。
 相当に強力な呪物、アイオンは確信していた。カルタの言う《主人》とは只者ではないと。
 「アイオン! どうやって倒す⁉」
 走りながらガーラが叫ぶ。木々の間を抜け、根を飛び越え全力で走る。決して遅くはない。しかし、それでもなお小屋は決してこちらを見失うことなく追いかけてくる。
 「正面から戦える相手じゃないっ!」
 息を切らしながら、アイオンは答える。ただ純粋な破壊力と機敏さで襲い来る。搦手のない、アイオンとガーラからすれば力負けしている時点で分の悪い相手であった。しかし、振り切れないとわかった以上、何時までも逃げることはできない。
 覚悟を決めると、アイオンはガーラに目配せし立ち止まる。
 「っ! やるしかない!」
 「どう攻める⁉」
 追いついた小屋から爪が振り下ろされ、二人が立っていた地面を抉る。ガーラは躱し際に体を捻り、渾身の力を籠めて斧を小屋の指のへと振り下ろす。鈍い、木が折れるような音と共に斧がめり込むも切断するまでには至らず、小屋もまるで意に介することなく振り下ろした前足を引っ込めると、もう片方の前足を振るう。
 斜めに振り下ろされる前足を、ガーラは伏せて躱す。獣のように鋭く素早い爪撃は躱すだけでも精いっぱいになるようなものであった。
 (やはり正面からでは……!)
 ガーラの力をもってしても断ち切れぬほど硬く、しなやかな足。大樹すらも容易く破砕せしめるその力。正面からではとてもではないが勝てるとは思えない。アイオンもガーラと同じく、隙を狙い小屋の足を斬りつける。確かに、表面に刃は入る。しかし途中で鉄の如く硬い何かに当たり、弾かれる。血を流すこともなく、恐らく痛みも感じていない。
 「本体を狙うぞ! ガーラ、何とか石を当てることはできないか⁉」
 ならば、次の手を。アイオンは叫び、頭上にある小屋を狙う。
 見上げるほど上に足を生やし持ち上がった小屋。みしみしと軋ませながら、時折窓からちらちらと翠の光が漏れる。
 アイオンの言葉を受け、ガーラは岩を手に取ろうとするも、それを察したらしき小屋は執拗にガーラを狙い阻む。アイオンは剣を振るい、何とか注意を向けようとするも、小屋からは脅威に思われていないのか、邪魔な羽虫を払うかのように数度足を払われるぐらいであった。その隙に、ガーラは岩を投げつけようとするも、すぐに小屋は気づきガーラへの攻撃を再開する。
 小屋の苛烈な攻撃を、ガーラは防ぎ避け続けるも、間断なく続けられる猛攻に流石のガーラも疲弊し始める。だが、その動きからアイオンは確信する。小屋は自身を守ろうとしていると、ともすればこの呪物は決して無欠の存在ではない。弱点がある、それも決定的な。
 (だが、どうする⁉)
 頼みの綱のガーラは小屋の猛攻に晒され、自分は小屋に一撃を加えることはおろかひきつけることすらできない。
 (何か! 何かあるはずだ!)
 焦りに駆られ、周囲を見渡すアイオンの目に折れ倒れた木々が目に入る。折れた木は小屋によって圧し折られていたが、それでもほとんどの木々は他の木々に寄りかかるように倒れ、完全に倒れている木は少なかった。
 (……これしかないっ)
 失敗すれば、地面に叩きつけられる。しかしアイオンは意を決すると、一本の倒れた木を駆け上がっていく。折れ木の先、それはちょうど小屋の屋根の横に伸びている。距離はあるが、飛び移れなくはない。アイオンは急ぐ、小屋が動いてしまえば間に合わない。ガーラは小屋の一撃を避けることに集中しているものの、既にいくつかの攻撃がかすり傷を負ってきていた。
 (ここだ!)

 動く小屋へと、剣を背負い、雄叫びをあげて飛ぶ。

 決して遠くはない距離、だがアイオンが飛んだ瞬間に小屋はその身を動かし大きく距離が開いてしまう。
 届かない。
 だが、アイオンは手を伸ばす。どこかにかかりさえすれば。

 鈍い音と手の痛み、アイオンの願いは通じた。

 小屋の端、軒先へと手がかかったのである。掴んだ衝撃で体が揺れ、小屋の側面にぶつかる。その際に、ガラスが砕け散る音が響く。
丁度目の前に窓があり、アイオンはそこにぶつかったのである。割れたガラスの先で、燃えるランタンが揺れていた。
 小屋の主は、すぐに招かれざる客に気が付くと、大きくその体を震わせ払い落とそうと暴れまわる。体を回転させ、大樹へとアイオンを叩きつけようと振るう。しかし、アイオンは素早く窓を蹴り破ると、足を掛けて屋根へと蹴り上がる。次の瞬間、小屋は大きな音を立てて大樹にその身をぶつけるも、アイオンは煙突に腕を回し振り落とされないように耐えていた。
 大きく軋み、窓が割れ、倒壊寸前といった小屋。しかし、小屋が身を起こすと同時にぱきぱきと音を立てて全てが修復されていく。あれほどの衝撃にも関わらず、小屋はアイオンを振り落とそうとすぐに動き始めていた。
 だが、小屋はガーラのことも忘れてはいなかった。攻撃の手が緩んだ隙を狙い、ガーラが岩を持ち上げ構えようとすれば小屋は即座にそれを阻止しようと前足を振るい、ガーラへと襲い掛かった。何とか、動きを止めようとアイオンは模索するも、揺れ動く屋根の上ではしがみ付き振り落とされないようにするだけで精いっぱいでもあった。
 この怪物からすれば、アイオン程度、頭に登ったところで大して気にするような存在ではないのかもしれないが、どうにも頭上にいられるのは気に入らないようで、何かと振り落とそうとするのであった。時に傾け、時に屋根を木々へぶつけ、アイオンを払い落とそうとする。
 必死に振り落とされないようにする中で、アイオンはこの小屋の足ではどうやら屋根に手を伸ばせないことを見抜く。言ってしまえば、正面や足元、もしくは自らの周囲にいるものに対しては如何様にも攻撃を加えられるが、どうやら屋根よりも上に関しては……特に自らの屋根、真上のものに対しては打つ手がないようであった。尤も、だからといってアイオンに何かこの状況を打ち破るだけの術があるわけでもなかった。
 このままでは、いけない。
 暴れまわる小屋の上で、アイオンは必死に考える。どこかに、どこかに小屋の弱点があるはずだと。それがあるからこそ小屋は自分を必死に振り落とそうと暴れているのだと、アイオンは記憶をたどり、思考を巡らせる。
 この小屋が、自らを傷つけ破壊してでも守りたいもの。

 (! 奴がわざわざしまい込んだのはなんだ⁉)

 小屋の中を照らす、翠の炎が燈るランタン。今思えば、なぜ小屋はわざわざ扉の前に吊るしてあったランタンを小屋の中にしまうという行動をしたのか。そう、思い返してみればカルタが命を最初に吹き込んだのはあのランタンであった。そして、奇妙なまでに窓が多い小屋の構造。まるで真ん中に吊り下げられたランタンから全て見渡せるようにしているかのように……アイオンは確信する。

 あのランタンこそ、この小屋の《主》。心臓であると。

 あの炎、ランタンさえ無事であれば、恐らくこの小屋は外がいくら傷つこうとも再生できるのであろう。そして、四本の足で持ち上がっているからこそ、下にいるものは決して小屋の中に入れない。考えてみれば、なるほどよくできた呪物である。
 だが、今、アイオンは屋根の上にいる。小屋の中に侵入できる、この機会を逃してはならない。
 そして小屋もそれを察している。察しているからこそ必死になって招かれざる客を振り払おうとしているのだろう。
 アイオンは決心すると、機を伺う。ただ、やみくもにしがみ付いているわけではない。今度は、明確な意志を持って耐える。小屋の動きが止まるその瞬間を。

 そして、その時は訪れる。小屋がアイオンを叩き落とすべく、再度自らを大樹へと叩きつけたその瞬間、アイオンは叩きつけられた屋根の反対側に跳びはねると軒先を掴み大きく体を捻り、そのままぶら下がるように小屋の側面へと自らを叩きつける。

 その先には小屋の窓。

 窓を蹴り破り、体を滑り込ませるように飛び込む。床に叩きつけられる衝撃に一瞬視界が跳ねるも、即座に起き上がり剣を引き抜く。
 ついに、侵入した客に対し、小屋は大いに気分を害したようでめちゃくちゃに体を叩きつけ始める。凄まじい勢いで衝撃と振動が襲い掛かり、アイオンは家の中で跳ね飛ばされ、体を強かに打ち付けるも、床に剣を突き立て耐える。木々へぶつかる衝撃で剣の刃が自らの体に食い込み血を流しても、決してアイオンは剣を手放さずランタンを睨む。

 次の瞬間、一際大きく小屋が傾き、動きが止まる。
 暴れまわる小屋の足に向けて、ガーラが渾身の力をもって岩を叩きつけ動きを止めたのである。岩に足を取られた小屋は大きく傾き、その動きをわずかにだが止める。
 その隙を逃すアイオンではなかった。耐え続けた体を起こし、ランタンへと跳ねる。

 いよいよ迫りくるアイオンを排除すべく、ランタンの周囲から複数の触手が伸びる。その先端は鋭く、邪魔者を刺し貫こうと蛇のように鎌首をもたげると、一斉に襲い掛かる。
 勝負は一瞬であった。
 最初の一突きを床から引き抜いた刃で受け流すと、続けざまに放たれた突きを躱して剣を構えた次の瞬間、アイオンの肩に触手が突き刺さり激痛が走る。だが、アイオンは怯むことなく剣を薙いだ。刺し違えるかのように、アイオンの刃がランタンを砕き、翠の炎を断ち切る。

 瞬くかのような一時、静寂が世界を支配した次の瞬間、絶叫の如き音と共に炎が爆ぜ天井へと翠の炎が燃え広がる。
 木が焦げ付く臭いと共に炎は広がっていき、たちまちのうちに翠の炎は紅い炎へと変わっていく。小屋は動きを止め、崩れ落ちるように大地へと落ちた。

 衝撃と共に、大きく小屋が軋みたわむ。

 その時であった、小屋の奥の炉の翠の炎が消えると同時に爆ぜ、何かがアイオンの傍に転がり出る。
 アイオンがその転がり出た《何か》に目をやると同時に、小屋の扉が叩き割られる。
 「アイオン! 大丈夫かっ!」
 ガーラは迷うことなく炎が広がる小屋の中に飛び込むと、アイオンへと駆け寄り抱きかかえると、燃え盛り崩れ落ちようとしている小屋の外へと飛び出す。

 紅き炎が小屋を飲み込むのは一瞬であった。

 火を噴き、黒煙を上げて小屋は崩れ、灰へと変わっていく。先ほどのまでの、恐るべき呪物はまるで存在などしていなかったかのように、全てが炎の中に葬られたのである。



 第五 泉の辺にて

 黒々とした煙が、空に広がる。
 それは先ほどの戦いの場が、今どこにあるのかを指し示しているかのようであった。アイオンとガーラは今、先ほどの戦場から離れた小さな泉のほとりにいた。
 小屋との死闘を終えたのち、戦いの中で散らばった荷物を集めながら休めそうな場所を探したところ、この泉を見つけたのである。
 アイオンとガーラは装備と衣服を解くと、体の汚れと傷口を洗う。染み入るような冷たい泉だったが、その冷たさが心地よかった。

 アイオンは、泉の水を杯ですくうと、近くの岩で伸びているノチェの傍に置く。
 ノチェはよろよろといった様子でその杯に近づくと、冷たい泉の水を一口飲むと、そのままぱたりと横になる。この小さな妖精はアイオンと小屋と戦っている時、ずっとアイオンの胸元にいたために振り回され、すっかり参ってしまっていた。いくら見た目よりも頑丈とはいえ、天地がひっくり返るような衝撃の連続は流石に堪えたようである。
 特に、アイオンが思い出したように胸元から取り出したときなど、ノチェが死んでしまったとアイオンが勘違いしてしまうほどであった。正直、ノチェのことを気にしていられないほど厳しい戦いだったとはいえ、もう少し気遣うべきだったとアイオンは反省する。

 そんなアイオンの様子を、ガーラは少し離れた場所で体を洗いながら見ていた。戦いの後だからか、体は熱く火照っているようで、冷たい泉の水を浴びてもなおその褐色の肌から湯気が立ちその黄金の瞳は火が付いたように熱く盛る。
 ぶしつけなことを言えば、ガーラは発情していた。
 そもそもハイオークは血の気が多く、戦闘後は特に《昂ってしまう》類の魔物でもあった。そして、何より己を倒し、主となった……愛しい男、アイオンの引き締まった肉体が惜しげもなく目と鼻の先で曝されているのである。おまけに戦闘後、いってしまえば激しい運動の後である、アイオンの匂いともいえるものがガーラの鋭敏な嗅覚を十全に刺激し、雌の本能をこれでもかと刺激してくる。今までお預けを喰らっていたこともあり、発情しないわけがなかった。
 (ああ……っ! アイオン! アイオン!)
 胎の奥に火が点いたかのようにうねり、熱く粘ついた蜜が太腿を伝う。吐く息は荒く、全身から汗が噴き出す。今すぐにでも目の前の愛しい男を組み伏せ、力の限り犯したい衝動に駆られる。
 もう、何日も愛する男の精をこの身に受けていない……
 飢えた獣が、魔物がガーラの思考を支配していく。

 だが、ガーラは耐える。アイオンの真剣な、隙の無い表情がガーラに対し、静かに《その時》でないことを告げていたからである。
 とはいえ、このままここで燻り続ければいずれ耐えられなくなることは自明であった。ガーラは泉から上がると、そそくさと最低限の衣服を身につけるとアイオンに告げる。
 「ちょっと周りの様子を見てくるよ」
 「大丈夫か?」
 「……動いていないと落ち着かないんだ すぐ戻るから心配すんなって」
 気遣うようなアイオンの声に、耳が疼く。これ以上は不味い。ガーラは自らの本能に抗うように、急いでその場を離れる。動く度に、粘つき湿った音が辺りに響いたが、そんなことを気にしている余裕はなかった。

 「はぁ! うぅっ!」
 アイオンが見えなくなってすぐ、ガーラは近くの大樹に寄りかかるように座り込むと自らの秘部を覆っていた薄布をはぎ取る。既に汗やら蜜やらでぐっちょりと滑ったそれを、ガーラは傍に放ると、熱くひくつき、湯気を吐き出すそこに指を這わす。
 「ぁつ……ンッ!」
 触れた瞬間にわかるほど、そこは熱く物欲しげに蜜を吐き出しその花弁をうねらせる。前置き等いらないそこに、ガーラは無遠慮に指を突き入れる。脳天を突き抜けるような、甘美な刺激にガーラは息を吐く。
 一気に三本もの指を飲み込み、きゅうきゅうと締め付けるそこはもっと刺激を欲しがるように蜜を迸らせる。ぐちゅぐちゅと、指を差し込むたびに粘ついた音が響き、熱い疼きが燃え広がる。
 「アッ! ハァ……ッ うぅ……足りねえ」
 だが、満たされない。いくら自らの指で秘部を慰めようとも、奥の隙間に熱が逃げ濃縮されていくかのように子宮が膨張し、ちりちりと痺れが強くなっていく。肉芽をつねり、自らの胸を慰撫しても、熱と快感ばかりが延焼するように広がっていくばかりである。
 はじけるような、何もかもが満たされるような充足とは程遠い快感だけが無理やり引き延ばされていくような感覚。
 「アアッ! ウッグゥッ! ア、アイオンッ! アイオンッ!」
 無理やり指をねじ込み、愛しい男の名を叫んで自らの無理やり満たす。膣壁が削られるたびに鋭い快感が走り、炸裂するかのような感覚を覚えるも、その度に満たされない、ただ燃え盛る業火に薪を継ぎ足していくような錯覚。手を全て飲み込まんとするばかりに乱暴に、力任せに突き入れ、激しく腰を跳ねさせる。目の前が光り、ちかちかとした頭痛すらも起きるほどの快感。
 膣が収縮し、熱い蜜が噴き出し辺りに濃厚な雌の匂いを充満させる。その激しい自慰に、達したかのように見えたガーラだったが、その眼はどろりと濁り、口からは舌が渇き飢えるかのようにだらりと突き出されていた。

 もう、限界だ……

 でろりと、一際熱く粘りのある蜜が垂れる。一匹の飢えた獣が、愛しい主の元へと戻ろうとその身を起こす。
 結局のところ、ガーラは痛感するだけであった。己を満たせるのはただ一人だけだと。



 ガーラが様子を見ると言って去ってすぐ、アイオンはノチェの横で泉につかり、人の子どもほどの大きさのある灰の塊……のように見える何かを丁寧に洗っていた。
 すっかり汚れ、灰に塗れたそれは一見して燃え滓か何かのようであったが、生きていた。ぴくりと、冷たい水の刺激に反応したのか、その眼がうっすらと開く。薄く透き通った、翠の瞳。ひくひくと鼻を動かし、耳が震え跳ねる。小屋が崩れる直前、ガーラに抱きかかえられる前にアイオンが救い上げた魔物、ケット・シーのカルタであった。
 小屋が燃え崩れ落ちようとしていたあの時、アイオンもなぜ灰の塊をカルタだと理解し、そして救い上げたのかわからなかった。生きているとも思えない、炉から吐き出された灰塗れのカルタをアイオンは抱きかかえ、救ったのである。
 慈悲か憐憫か、その心の内はアイオン自身にもわからなかったが、どこか憎み切れないところがカルタにはあった。敵ではあったが、自らの主の為に最後まで戦い抜こうとしたその姿が、アイオンの心を打ったのかもしれない。
 ともかく、カルタはアイオンの手によって燃え落ちる小屋から救い出された。そして今、ぼんやりとではあったが、目を覚ますと、その瞳をアイオンに向ける。
 信じられないものを見るかのような、カルタの目。まるでまだ戦おうとするかのように、その手がぴくりと動き、瞳が見開かれる。だが、ふっと笑うかのように目を閉じると。ひどく苦しそうに一つ咳き込み、だらりとその手を落とす。

 「……おい」

 息絶えたか、そうアイオンが思った瞬間。ぴくりと耳が動く。それに安心したのか、アイオンが脱力するように息を吐く。
 「……どうして」
 そんなアイオンの態度が不思議だったのか、カルタが小さな声で問う。先ほどまで殺そうとしていた相手が、なぜ死ななかったことを安堵するのか。
 「……それは」
 「いや、いいさ 知りたいんだろう……ご主人様の事」
 確かに、それもあった。だが、アイオンはそのことよりも、この小さな猫の魔物が死ななかったこと自体に安心してもいたが、それは告げなかった。まだ、敵同士であったから。

 「でも、残念だったな……僕は、ご主人様の事 ……何も、何も……」
 涙を流す。嗚咽のような、声。

 「……何も、知らないんだ」
 苦痛に満ちた声での告白。
 「そんな……!」

 「嘘だと思うよね、滑稽だよね 僕は何も知らないご主人様の、ために ……妖精を集めようと……僕は、僕は 僕はカルタだよね?」
 予想外の問い。
 「……カルタ、お前はそう名乗った」

 「じゃあ、誰が僕に名前をくれたの? 僕の名付け親は誰? ご主人様は、誰?」

 涙があふれる。慟哭ともいえる呟き。
 カルタは言う、あれほどの忠義を尽くそうとしていた主の名すらも知らないと。その言葉を、アイオンは信じられなかったが、だがカルタの慟哭と共に吐き出された告白が、嘘とも思えなかった。
 まるで虫食いのように……いや、何もない等しい大きな空白のある記憶。なぜ今まで気が付かなかったのか、カルタは力なき声で嘆き、叫ぶ。
 生きているはずなのに、まるで存在していなかったかのように何もない空虚な思い出。どこかにあるはず、でも思い出せない。大切だったはずの、主人の顔の輪郭すらおぼろげにほどけ消えていく。全てが、カルタの中から溶けて消えていくようであった。いや、そもそも最初から何もなかったのかもしれない。

 ただ空虚な、記憶の砂漠。
 それがカルタの心に広がる、風景であった。
 今のカルタにあるのは、目の前にいる《敵》との思い出だけ。

 ただ、それだけ

 無意識のうちに、縋りつくようにカルタはアイオンに手を伸ばす。今ある自分のすべてが、目の前にあった。
 「僕は、誰?」
 虚ろな問い。空虚な心の響き。
 「お前は、カルタだ そうだろう」

 嗚呼、どうして

 「僕は、カルタ」
 「そうだ」

 こうも心が満たされるのだろう

 自分が、自分で満たされるという感覚。自分の存在が、今ここで認められている。記憶されているという喜び。その事実に、カルタは涙を流す。熱く頬を流れるそれは、心から染み出した歓喜のしるしでもあった。

 「ありがとう……」
 どうしてか、言葉が漏れる。
 「……アイオンだ」
 「ありがとう、アイオン」
 伝えないと、せめてもの言葉を。
 「僕に名前をくれて 僕はカルタだ、僕はカルタ」
 どうしてか、何故ならば。

 もう時間がない

 ゆっくりと、全てがほどけていく。カルタは悟る。もう自分は死ぬのだと。小屋に喰われた時に、自らを形造る魔力全てを、小屋を動かす燃料として使われてしまった。今も、自分の命の灯火が徐々に小さく燃え尽きようとしているのが、手に取るようにわかる。
 「ねえ、僕のことを撫でてみてよ 頭が良いな 良いでしょ?」
 だったらせめて、温もりの中で死にたい。
 「……わかった」
 まだアイオンは警戒していたが、甘えるようなカルタの鳴き声に応じ、片手をカルタの額に当てゆっくりと撫でる。汚れてはいるが、ふわふわと柔らかい。
 ごろごろと、カルタは目を細めて喉を鳴らす。

 ああ、あったかい

 じんわりと、大きな手のひらから熱が伝わる。微かな、生命の息吹。消えかけの火に、熱が燈る。

 もっと、ほしい

 「……ねえ」
 「なんだ」
 カルタは決心する

 「……もうすぐ僕が死ぬって言ったら 悲しい?」

 しばしの沈黙。その問いに、アイオンは呟くように答える。
 「……ああ、悲しいだろうな ……カルタ、大丈夫か?」
 「なんだよ、だろうって……」
 中途半端な答えに、カルタは軽く憤慨するも、死ぬという返答に対しアイオンが心配してくれているという事は嬉しかった。
 「……助かる方法があるって言ったら……」
 そういってアイオンの方を見る。
 カルタは決めていた。もしも、目の前の存在が、少しでもカルタを拒んでいたら、そのまま消えようと。

 「助けよう」

 カルタの心に、火が燈る
 虚ろの中に、燃え広がる

 カルタは頭を撫でていたアイオンの手を取ると、その人差し指をちろりと舐める。
 熱い、熱い命がカルタの舌先に広がる。

「ねえ、僕を見て 僕の目を見て……」

 ぞくりとするような、甘い声。吸い寄せられるように、アイオンはカルタの瞳を見る。翠色の瞳の奥が、ゆっくりと開く。開いた瞳の奥で小さな光が、模様のようにアイオンの視界に広がった次の瞬間。
 ふわりとした感触が、口に当たる。ざらりとした舌が、絡みつく感触。むせ返るような、甘い薫りが口内へと広がっていく。
 いつの間にか、カルタの顔がアイオンの目の前にあった。いや、アイオンがカルタへと顔を近づけていたのである。
 「んっ ふぅっ」
 吸い付くような、カルタの口づけ。人とは違う、薄い唇。それでも柔らかく、弾力のあるそれはとろりとした心地よさがある。絡みつく舌はざらざらとアイオンの舌を味わうように舐る。驚いたアイオンが口を離すと、物足りなさげにカルタの鼻先が動く。
 「ほら……もっと撫でてよ、撫でて」
 甘えるように、アイオンの腕の中で身をくねらせる。
 ぼんやりと思考に靄がかかったように、アイオンは無意識にカルタの胸に手を這わす。むにゅりとした柔肉の弾力と、泉で濡れているはずなのにふんわりとした温かい毛皮の感触がアイオンの手を楽しませる。大きくはないが、主張をするカルタの胸。決して大きくはない、少女のような体つきにアイオンは背徳的な劣情を感じていた。体が熱く、一撫でするごとにカルタへの愛しさが湧いてくる。アイオンはちょっとした好奇心から、毛皮の中に指を這わせ胸の頂きを探す。カルタの頂きはすぐに見つかり、くりっとした小さな芽がアイオンの指に当たる。
 「あっ! ちょっと、あんまりいじらないでよ」
 こりこりと、爪先で遊ぶアイオンにカルタが抗議するように艶声をあげる。その可愛らしい抵抗を無視して、アイオンはゆっくりとその指を腹部の方に流していく。指先に触れるカルタの温もりと毛皮の柔らかさを堪能しながら、あるものを探す。
 「んっ!」
 ぴんとした、乳房のモノよりも控えめな感触。それでも確かに、毛皮の中にそれはあった。
 「……驚いたな」
 「な、なんだよ! おっぱいがたくさんあっちゃ悪い? 僕は猫なんだよ!」
 悪くはない、そう呟くとアイオンはむにむにとその芽を摘まむ。くすぐったいのか、摘ままれた瞬間、カルタは小さく身を捩る。
 「んっんっ! やめてよ! そっちはもっと敏感なの!」
 その言葉に、アイオンは軽く笑い指をはなす。
 アイオンの悪戯から解放されたカルタは軽く息を吐くと、両腿を開き、気恥ずかしそうに目を背けて呟く。
 「……ほら、こっちも触ってよ 優しくだぞ」
 どくりと、アイオンの心臓が鳴る。支え抱く腕に力が入り、カルタは少し強張るように身を縮こませつつも、より大きくその両足を開く。毛皮の中に隠れた秘花が、泉の中でゆっくりとアイオンの眼前に晒される。人に近い形をしたそれは、慎ましやかな少女のようにぴたりと閉じており、それがまたアイオンの獣欲を刺激していく。
 するりと、アイオンの指がカルタの花弁を撫でる。冷たい泉の中でもはっきりとわかるほどに熱く、ぷるぷるとした弾力で指を押し返す。花弁は固く閉ざされていたが、蕾の襞に指を這わせると粘り気のある蜜が絡みつき、じんとした熱が籠る。
 アイオンはゆっくりと、硬い蕾を撫でて咲かせるようにカルタの秘花を愛撫する。ごつごつとした戦士の指に似つかわしくない動きに、カルタは艶やかな吐息でその心を告げる。固く閉じた花は解され、じんわりとした熱が泉の中に広がっていく。
 そのカルタの艶やかな様子に、アイオンの一物も反応し、硬く熱く、その存在を主張していた。そんなアイオンの一物に、ぷにっとした、ふわふわな何かが触れる。
 「あっ! うっ! ……何を」
 腕の中に抱かれたカルタの、悪戯な目。カルタは片手で器用にアイオンの《先っぽ》を掴むと、くにくにと手遊びする。なんてことのない、ただ撫でまわすだけの行為だったが、ふわふわちくちくとした毛の感触にぷりぷりと弾力のある肉球によって、敏感な先っちょをこねくり回されるのは、今までに感じたことのない快感をアイオンに与えていた。間が悪いことに、腰を引いて逃れようとしてもアイオンはカルタを抱いたままであったがために逃げることが叶わなかったばかりか、カルタの嗜虐心に火を付け追撃を受けてしまう。
 「あっうっ! カ、カルタ!」
 このままでは、そう言おうとした刹那、きゅっとアイオンの根元がカルタの小さな手で抑えられる。
 「ダメだよアイオン! まだダメ!」
 絶頂に至ろうとしたアイオンを、カルタは不満気に叱責する。
 そうしている間にも、カルタはくにくにとアイオンの一物を確認するように撫でまわすと、ごくりと、覚悟を決めるように喉を鳴らす。

 「……よし、良いぞ こ、光栄に思えよ! ぼ、僕の……はじめてを……」
 そういって言葉を切るカルタ。そのまま黙って、アイオンと向き合うように体勢を変える。カルタの翠の瞳と、アイオンの瞳が重なる。
人間の、子どもほどの大きさしかないカルタ。そのカルタの小さな秘花の先にアイオンの一物が、まるで巨大な杭のように突き付けられていた。
 魔物との……獣との交わり。二つの禁忌が、アイオンの目の前にあった。だが、そんな些末なことを、アイオンは不思議なほど気にしていなかった。
 再度、カルタの瞳とアイオンの瞳が交わる。

 「……アイオン、僕の目を見て」

 見ているだろう、そう呟こうとした瞬間。目が覚めるような感覚に襲われる。先ほどまで感じていた、奇妙なまでに激しい欲望を、今は感じない。

 「……ごめんね」

 霧が晴れるような感覚。アイオンは己が魅了されていたことに気が付く。
 「カルタ、どうして……」
 確か、助ける方法があると、それがどうしてこの行為につながったのか、アイオンにはいまいち理解できなかった。
 「……アイオンが持っている魔力を、少し分けて欲しいんだ……でも、それには……」
 そこまで言って、カルタは悲し気に目を伏せる。アイオンはカルタが言わんとすることを察する。
 カルタは怖かった。自らを助けると言ってくれた、受け入れてくれた存在が、その助かるための方法を知った途端離れてしまうのではないのかと。空虚なカルタにもわかる、自らの姿は、決して魅力的なものではない。獣の姿をした、先ほどまで敵だった魔物との情事を、しようと言ってくれる人間などいないのだと。故に魅了をかけた、隙を見せた心に入り込み、支配した。
 でも、嫌だった。

 どうせ生きるなら、受け入れられたい あるがままを

 「……アイオン 僕の事……」

 紡がれる前に、塞がれる。カルタの口に、アイオンの口が重なった。しっかりと、確かめ合うような口づけ。
 アイオンの手が、優しくカルタの乳房を撫でる。慰めるように、腹を、尻を、尾を、撫でていく。
 熱い欲望が、カルタの腹に押し付けられる。

 アイオンはカルタから体をはなすと、その瞳を見つめる。

 「いくぞ」

 「え、あ……待って」
 熱が、カルタの秘花を押し広げる。閉じた花が、咲いていく。
 「あっ ぁっ!」
 熱く狭い、ぬめる獣の中に、人の欲望がうずまる。カルタの瞳から、雫が落ちる。
 「……っ ふぅっ」
 気を抜けば、果ててしまいそうになる。せまく締め付けるうねり。ゆっくりと、確かめるように全てを押し入れていく感覚に、未開の地を征服するという快感。
 だが、何よりもアイオンを満たしたのは、カルタもまた、この行為を望み、そして真摯にアイオンと向き合おうとしたその事実であった。
 カルタの聖域は、体の大きさに違わぬ窮屈さであった。だが、懸命にアイオンを飲み込むと同時に、貪欲に奥へと引き込もうとする不思議な感触があった。また、カルタの熱い体温は泉で冷えた一物に灼け付くような刺激を与えていた。
 「あぁ! お、おおきぃ……っ!」
 「っ! おっうっ!」
 強烈な圧迫感に、カルタは身を捩る。その瞬間、アイオンを咥えこんでいた秘所がにゅぐりと引き絞るように蠢き顫動する。窮屈であるがゆえに、体全体のほんの少しの動きが秘所に連動し、アイオンを攻め立てる。動かすこともままならい程の快感の中での強烈な刺激。

 その刺激に耐えられず、アイオンはあっさりと果てた。ただでさえ、先ほどまでお預けをくらっていた身である。そもそも我慢の限界でもあったのだ。
 「ぐっ! くぅっ!」
 「あっ! ぅうん!」
 ぴったりと、噛み合い吸い付いた膣内での射精。漏らすことなく、カルタの最奥へと吐き出す快感。射精の最中、アイオンはより深く押し込もうとカルタの腰に手を回し、より深く突き入れる。深く、抉りこむその一突きに、文字通り刺し貫かれるような衝撃を受けたカルタは仰け反るようにその身を揺らす。小さな体に対する、容赦のない一撃。
 だが、カルタの体は悦んでその大きな欲望を受けいれていた。

 「ぁ」

 とくり、と、カルタの中で命が広がる。自分の中に、新たな命が染み渡っていくのがわかる。それと同時に、まるで自分の体が作り替えられていくような、不思議な感覚にカルタは眩暈を覚える。その変化はすぐに訪れた。
 子宮は痺れるように疼き、カルタの聖域は先ほどよりも貪欲に、舐るようにアイオンへと絡みつく。アイオンが触れた場所はずっと熱く火照り、言いようのない快感が染み込んでいく。何より、目の前の、今自分と繋がっている存在が愛おしくてたまらない。

 すべてをすててでも、そばにいたい

 「ぅん」
 カルタは身を起こすと、その小さな体で抱き着く。ぐるりと、胎の中で肉の杭が暴れめりこむも、その苦痛すらも代えがたい。懸命に抱きつくカルタを、アイオンはその両腕で支えるように包む。
 主の腕の中に抱かれるという幸福。
 カルタの鼻に、血の匂いが届く。主の肩に、傷が一つ開いていた。先ほどの戦いでついた、肩の傷。簡易的な処置をされた傷口から血がしみだしていた。その傷を、カルタは舐める。ざらっとした、猫の舌の強い刺激にアイオンは腰を浮かす。
 その瞬間、秘所の奥を叩かれカルタは息を吐き出すも、やめることなく嘗め続ける。自身に覚え込ませるように、主の味と匂いを、忘れないよう。傷口に、痛みと熱が燈る。そのたびに、腰が動き、それに合わせるようにカルタの中は収縮しより強く喰いついていく。痛みと快楽がないまぜになる、強烈な感覚。さもすれば、苦悶にもなりかねない刺激。
 だが、アイオンはカルタを止めることなく、むしろより強くその腕に抱き、その小さな体へと欲望を打ち付けていく。

 ただ抱き着き、互いの体をこすり合わせ、密着する。それだけでも、まるで全てが崩れていくような快感を、互いに感じていた。
 限界はすぐに訪れた。
 言葉を交わさずとも、アイオンとカルタは同時に果てた。
 より奥へと入るために、アイオンはカルタと繋がり、カルタはアイオンをより深く呑み込むためにその両腿を開き聖域の最奥へと誘う。一番熱く、狭い、カルタの聖域でアイオンは己の命を捧げる。

 からっぽの器に、生が満ちる
 命の意味が、産まれる



 ……カルタとの交わりの後、アイオンは泉の辺で身を清めながらガーラを待つ。
 先の交わりの後、カルタはそのままアイオンの腕の中で気絶するように眠りに落ち、今はアイオンのマントにくるまっていた。丸くなって眠る姿は無垢な獣のようであり、可愛らしいものであったが、先ほどまでの情交を思い出しながらアイオンは果たして己の行動は間違っていなかったかと自問する。
 助けるためとはいえ、ガーラに対しある意味不義理を働いてしまっていたし、何よりカルタの言葉が全て真実という確証もなかった。冷静になってみると、なかなか軽率な行動ではないかとの不安に駆られたのである。
 ただ、全くの嘘であると思えないのも確かであった。
 なんとなしに、アイオンはカルタの傍により、その寝顔を見る。深い眠りに落ちているのか身動ぎ一つしなかったが、時折ぴくぴくと瞼や耳が動き、すぴすぴと寝息を立てる姿は無意識に庇護欲を沸き立たせるものであった。
 「……悩んでいても、な」
 一人つぶやくようにアイオンは吐露する。少しばかりの旅で、このような経験をすることになるとは、旅に出た時点では到底想像できなかった。
 (カルタはどうするのだろうか)
 見知らぬという、だが大切な主を探しに行くのか、それとも新たな道を歩むのか、少なくとももう死ぬという事は、鮮やかな毛艶や元気そうな様子を見る限りなさそうであった。そのことについても、カルタが起きてから話す必要があることであった。
 尤も、カルタの心は既に決まっていることを、アイオンは露とも知らなかったが。

 (……それにしても遅いな)
 流石に、カルタと交わっている時に戻ってこなくてよかったとは思いつつも、一向に戻らないガーラのことが心配になる。
 もしや新手の敵か、そうアイオンが考え始めたその時。アイオンの鼻に嗅ぎなれた薫りが届く。ガーラの、獣のような匂い。ガーラ自身はずいぶんと気にしていたが、アイオンとしては嗅ぐと安心し、また血が沸き立つような感覚を覚えるため好きな薫りであった。その薫りが届き、ガーラが無事に戻ってきたのだなとアイオンは安堵する。
 だが、なんだかやけにガーラの匂いが濃く薫っているように感じていた。
 未だにガーラの姿が見えていないというのにここまで濃い薫りがする、というのも不思議なことであった。それに、体が妙に火照り、情交の後だというのにアイオンの欲望が硬くいきり立とうとしていた。
 アイオンの脳裏に、奇妙な警鐘が鳴り始める。
 何かがいけない、何かが危ない。
 直感的に、ガーラがいるであろう方向を察知したアイオンは、注意深くその方向へと進む。そのたびに薫りはより濃く、まるでねばりつくような密度となり、思考にぼんやりとした、熱に浮かされたような靄がかかり始める。
 これは、まずい。
 アイオンがそう思った時であった。後ろから、特別濃い《熱気》を感じる。

 「……あいおん……」

 荒い息の音が、耳裏で響く。熱い、熱い湯気のような何かが体にまとわりつく。慣れ親しんだガーラの声がやけに異質に聞こえる。振り返ってはならないと、アイオンの本能が靄のかかった意識の中で警鐘を響かせる。だが、同時に悟ってもいた。
 もう逃げられない、と。
 アイオンは覚悟を決め、ゆっくり振り返る。

 「……だめなんだ、あたし あいおんじゃないと、だめなんだ」

 獣が、そこにいた。

 殆ど、普段から衣服の類を身につけていないガーラであったが、目の前にいるガーラはもはや何も身につけていないと言ってよかった。
 だが、それも仕方ないことであっただろう。
 全身から湯気と熱気を放ち、汗はまるで香油のように全身を覆いその暴力的な肉感を滴らせているばかりでなく。隠そうともしていない秘花は淫らに咲き誇り、ぬらぬらと粘ついた蜜を溢れ流し、強烈な芳香をあたりに放つ。口はだらしなく開いたまま火を噴くかのように熱く籠った息を吐き続け、黄金の両眼は狂ったような熱情で燃え盛り、目の前の獲物をその瞳に映す。
 そんな獣が服など着ていた所で、邪魔なだけであった。

 「あいおん」

 ガーラの両腕が、アイオンの体を掴む。

 「あいおん」

 ガーラの体が、アイオンの体を包む。

 「あっいっ」

 ガーラが、アイオンを吞み込む。

 熱くぬめり、どこまでも入り込む、きつくうねり上げ締め付ける肉の奥へと、アイオンは吞み込まれてイく。

 灼けて染み込むような熱気の中で、ヒトはケモノに呑まれ、ヒトを呑み込んだケモノの咆哮が森に響き渡り続けた。



 第六 森の中の入り口

 ……朝、森の中の泉の辺でアイオンは目を覚ます。
 (……なんと澄んだ心地だろう)
 柔らかく熱い肉の感触を感じながら、アイオンは空を見つめる。
 ガーラに抱きかかえられるようにして眠りに落ちていたらしく、横ではガーラが満足げな表情で安らかな寝息を立てていた。
 (……記憶がない 何があったのだ)
 魔獣と化したガーラに襲われたところまでは覚えていたが、それからの記憶が曖昧であった。しかし、思い出そうとすると頭痛が起きる。アイオンは頭を振り、身を起こす。体の節々が痛いばかりでなく、萎えた一物からひりつくような痛みが走る。喉も乾いており、どうしようもない気だるさがアイオンを襲う。
 気づいてみれば、アイオンとガーラは全裸であった。全裸であったにも関わらず寒さを感じなかったのは、ひとえに肉布団と化していたガーラの体温が極めて高かったからであろうと、アイオンは一人考える。
 (ともかく……身を整えねば)
 がっしりと、体と足に絡みついたガーラを解くと、アイオンは傍の泉につかる。澄んだ泉の冷気が、染み入るようにアイオンの意識を覚醒させていった。

 「……アイオン、目が覚めたの?」

 鈴のような声。アイオンは振り返る。
 泉の辺の岩の上で、小さな妖精のノチェがアイオンのことを見つめていた。ノチェはもうすっかり元気を取り戻したようで、岩の上をてくてくと歩く姿は変わらず愛らしかった。長い黒髪と深紫の薄絹を揺らしながら、ノチェは体を清めるアイオンを興味深げに眺めていた。その普段のノチェとは違う様子に、多少の気恥ずかしさを感じながらもアイオンは静々と身を整える。
 泉から上がり、アイオンは自らの衣服を置いてあった場所へと目を向ける。そこには、昨日と変わることなくカルタが包まって眠り込んでいた。ただ、なぜかマントだけでなく衣服そのものを巻き込んで。カルタがまだいたという事に少しの安堵を感じるも、衣服にくるまれていては着替えることもできないので、アイオンは包まっているカルタを転がすように抱きどかす。
 むにゅりと柔らかく、まるで粘性の高い液体の如くアイオンの腕から垂れ下がるカルタを苦労しながらどかすと、アイオンは手早く着替えをすます。所々カルタの毛がうつってしまっていたのか、むず痒い感触がした。
 「……うっ さむい」
 ぷるっと、軽く身を震わせてカルタが起きる。ふわふわの分厚い毛皮を着こんでいてもやはり寒いのかと思ったが、アイオンは荷物の中から毛皮を一枚取り出すとカルタに渡す。
 「羽織れる程度でよければあるが」
 「あ、ありがとう……でも僕はアイオンのマントが良い」
 「……ダメだ」
 「ちぇ じゃあそれで我慢するよ」
 カルタは毛皮を受け取ると、肩にかけるようにして丸く羽織る。
 「ノチェ、寒くなかったか?」
 アイオンは妖精の傍によると、手に抱く。不思議な力に守られているのか、ぼんやりとした光の周りは暖かく、ノチェもそこまで寒そうにはしていなかった。
 「大丈夫よ、でもアイオンの胸の中が良い」
 そうか、と一つ笑うとアイオンはノチェをいつもの位置へとしまう。もぞもぞと、体を動かして満足のいく位置に納まると、ノチェは顔を出す。
 「アイオン」
 胸元から、鈴の音が届く。その音に、どうしたと答える。
 「夜、すごかった ……いつもああいうことをしているの?」
 ほんのりと、熱が籠った囁き。もぞりと、ノチェが動く。
 見られていたか……、アイオンは苦い表情をする。記憶にないがゆえに何を見られていたのか見当もつかないが、一晩中《激しかった》とすれば見られていてもおかしくはない。何とも言えない、居心地の悪さがアイオンを襲う。
 「暗くてよくわからなかったけど すごいことなのはわかった」
 興奮するようにノチェが続ける。よくわからなかった、という言葉に少し安堵するも、ノチェは好奇心を旺盛にアイオンに問いかける。
 「……いつも、しているわけではない」
 「じゃあ、次はいつするの? 近くで見てみたいわ」
 不味い、どうしてかわからないが、アイオンはそう思った。
 「それは……考えておこう それよりも入り口は近そうか?」
 「ああ、それは……こっち 近いわ、なんとなくわかるの」
 ごまかすようにアイオンは話題を変え、ノチェに妖精の国の入り口を聞く。ノチェは気にするそぶりもなくもそりと指をさす。昨日と変わらず薄暗い森の先、ノチェが指さした方向を見る。泉から流れ出ている小川が、その方向に延びていた。

 「……んっ あっ ……あ、んん ふゎぁ……ああ、寝た……」
 「起きたか、ガーラ……早く服を着てくれ」
 「お、あ、ああ……へへっ おはよう」
 さっぱりとした表情でガーラが起きあがる。体を隠そうともしないその姿に、アイオンは呆れたように声をかけると後ろを向く。背後から、水に飛び込む音が聞こえた。

 「ふぅ〜 さっぱりしたぜ」
 体を洗い、服を……といっても裸に近い恰好の服を着こんだガーラは晴れ晴れとした顔でアイオンの横に座る。
 「……あ〜 アイオン、昨日は……その〜」
 アイオンの渋い顔に気が付いたのか、へへっと笑いながらガーラは目を泳がせながら弁明の言葉を探す。
 「いや、大丈夫だ……ただできれば次はもっと控えめにしてくれ」
 実際のところ、何をされたかはわからなかったが記憶を飛ばすほどの行為である。恐らくとんでもないことになっていたであろうことは想像に難くない。
 「ああ、うん ごめん……」
 あまり反省していないようではあったが、アイオンに言われガーラは少ししゅんとしながら軽く頭を下げる。その様子に、アイオンはため息を一つつき、前に向き直る。アイオンとガーラの前には、毛皮を羽織ったカルタがちょこんと岩の上に座っていた。
 「……で、どうするって?」
 ガーラが、静かな声で問う。
 「うん? ああ、僕? もちろん、アイオンについていくよ」
 ことも何気に、つやつやとした毛皮を毛づくろいしながらカルタは答える。
 「本気か?」
 昨日まで敵対していた相手の突然すぎる心変わりに、ガーラは不審に思う。
 「当然じゃないか、僕とアイオンは結ばれたんだよ? 責任取ってもらわないとね!」
 「えっ はっ? ええっ⁉ どういうことだよ!」
 カルタの衝撃発言に、ガーラの矛先が一気にアイオンの方へと向く。
 「……助けるために必要なことだと、その 交わった」
 朝からずっと渋い顔をしていたアイオンだったが、ここに至りより不味い、苦虫を嚙み潰した顔へと変わる。やはり、助けるためという名分があったとしても不貞を働いたという気まずさがあった。
 「なっなんだよ助けるためって⁉ おい! このチビ、何ウソ言ってくれてんだ!」
 「ウソじゃないもん、アイオンが僕に《命》を注いでくれなかったら僕は今頃死んでいたさ ……それはそうと、初めてだったけどとっても良かったよ! 凄く優しくしてくれたんだ!」
 だが、ガーラはアイオンの不貞よりも、あれほど我慢していた自分よりも先に、目の前の生意気な泥棒猫に文字通り《先を越された》ことの方に怒り心頭であるようであった。カルタはカルタでけらけらとからかうようにガーラを挑発する。
 「カルタのために……なにをしたの?」
 目の前で騒ぎ立てる二人を眺めながら、胸元のノチェが答えづらい問いかけを行う。アイオンは、昨日の己の選択が間違っていたのではないかと、軽く後悔しながら二人を宥めるために重い腰を上げるのであった。



 ……カルタはともかく、ガーラは頭に血が上っていたために落ち着くまで暫くかかったが、アイオンが思ったよりも素直にカルタの同行を認める運びとなった。
 「……良いのか?」
 「なんだよ」
 「いや、もっと反対するかと思ったのだが」
 「……別に、嫌だけど仕方ないだろ 癪だけどあのチビが嘘を言っているわけじゃなさそうだしな……なあ、アイオン アタシだけじゃ不満か?」
 いや、そういうわけでは……ガーラの不満げな響きの中に混じる、悲し気な声音の問いに、アイオンは言葉を窮する。
 「……アタシはアイオンを信じるよ だからアイオンがこのチビを信じるって言うなら、アタシは何も言わない」
 「私も カルタ……には最初の時のような嫌な気配がもうないもの、それをアイオンが信じるというなら私も信じる」
 「すまないな」
 アイオンは、ガーラとノチェに礼を述べる。
 「もういい? 大丈夫? じゃあ、これからよろしくね、アイオン! それと、大きいのとちっこいの!」
 「おい!」
 「カルタ……」
 「……わかったよ よろしくね、ガーラ それと……」
 アイオンの胸元から、恐る恐るといった様子でノチェが身を乗り出す。しかし、その顔は恐れよりも好奇心の方が強そうであった。
 「ノチェよ よろしくね、カルタ」
 「よろしく、小さいノチェ!」
 とりあえず丸く収まったことに、アイオンはホッと肩の荷が下りた様子で息を吐く。しかし、懸念はまだあった。
 「ノチェ カルタは前にお前をさらおうとしていたが、妖精の国に招くことに不安はないか?」
 当初、カルタは主の為に妖精を集めると言っていた。今は違うと信じているが、もしもノチェが仲間の妖精たちにカルタが危害を加えるのではと不安に思っていた場合、アイオンは妖精の国へ向かう事を諦めようと思っていた。
 もちろん、ノチェは送り届けるが、自身……つまりガーラとカルタ、この双方と安住の地を探すという旅は続けようと考えていたのである。
 「大丈夫 言ったでしょう、私は貴方を信じるわ それに心配しないで、妖精の国の女王様はとっても強いのよ だから大丈夫」

 「……なんだよ まだ疑っているの?」
 いつの間にか足元にいたカルタが、憤慨するようにアイオンを睨む。
 「まあ、しょうがないか……でもまあ、信じてよ 僕とアイオンの名前にかけて誓うよ、僕はアイオンを裏切らない だから信じて」
 すがるような、懇願にも近い言葉。アイオンはそんなカルタに微笑みかけると、その頭を撫でる。柔らかい毛が、指と手のひらを包む。カルタはゆっくり目を細めると、心地よさげに喉を鳴らす。
 「……おーい 早く行こうぜ、こっちなんだろ」
 その様子に、ガーラが苛立たし気に出発を急かす。
 「全く、情緒も何もないんだから」
 ガーラの声と同時に、アイオンの手が離れカルタはつまらなそうにつぶやくのであった。



 「あれよ、あの岩」
 小川を下って暫く、目的の場所は見つかった。一見してみると何の変哲もない大きな岩山のようであったが、岩の隙間からは清水が溢れるように流れ落ち、小川が岩を中心に合流してはまた別の小川に流れていく、この森の川の流れの中心ともいえるような不思議な場所であった。岩の周りは泉となり、ぽっかりと開いた森の上部からは陽の光が照らしていた。
 アイオン達はノチェの言うとおりに、岩の周りを歩き入り口の目印を探す。
 「どんなところだろうな」
 ガーラがわくわくした様子で声をかける。その無邪気な様子に釣られて、アイオンも表情を緩める。
 「とても素敵なところ 輝く森の中に花がたくさん咲いているの、女王様の住む木はとても立派なのよ」
 ようやく帰り着いた故郷に、ノチェは興奮するように明るい声を出す。
 「あったわ あそこ、渡った先にあるあれ」
 ノチェは身を乗り出して指をさす。水面から平たい岩が突き出し、足場のようになっている先に、岩の窪みがあった。
 いよいよだと、アイオンはしっかりした足取りで岩へと渡る。ガーラ、カルタとその後に続き、窪みの前まで来る。アイオンはノチェを手のひらに乗せると、指し示した場所へとノチェを運ぶ。
 何の変哲もないような、小さな白い花が岩の隙間に咲いていた。だが、ノチェがその花に触れた途端、淡い燐光を花は放つ。
 (……これが入り口の、妖精だけか開くことができるという《鍵》なのだな)
 不可思議な理を前に、アイオンは感心するように眺める。

 だが、変化は一向に訪れなかった。花は燐光を放ち続けるものの、岩が動くことも、不思議な力で道ができることもなかった。
 「……どうして」
 ノチェの口から、悲痛な言葉が漏れる。ノチェが手をはなすと、花の光は消え、再びただの白い花に戻る。

 扉は閉ざされていた



 第七 旅路

 「……ごめんなさい、アイオン」
 大岩の泉の辺で、ノチェはその小さな体をより小さく縮めていた。妖精の国へと通じるという扉、それは開くことなく、開けようとしても無為に時間が過ぎていくだけであった。
 故郷への道が閉ざされてしまったこと、そしてアイオンに結果的には嘘を言ってしまったという事実にノチェはすっかり打ちひしがれていた。
 しんとした、森の中に吹き込む冷たい風が、もう時間がないことを告げる。

 冬が来る

 ノチェも、この北の大地に住む者である。冬の厳しさは知っていた。妖精の国は常春の楽園であるからこそ、外の世界にしかない夏や秋、そして冬には憧れたものだったが、冬の厳しさを知ってからはその考えも改められていた。
 そして、アイオンと旅をする中で、寒さや飢えをしのぐのは容易なことではないことも、また同時に知ったのである。備えもなしに、冬に挑めば待つのは死のみである。そして、その備えをするための貴重な時間を、ノチェは奪ってしまった。
 「ごめん、なさい……」
 アイオンは、そんなノチェをそっと撫でる。柔らかく温かい、ノチェの柔髪。そっと、ノチェを包むように両手で持ち上げると、自らの懐へと持っていく。びくりと、ノチェは震えて拒絶するも、じっと待つアイオンの優しさに縋るように、また懐に納まる。だが、その表情は暗く、アイオンにしがみ付くようにしてただ謝り続けていた。

 「僕のせいかも、しれない」
 泉の辺に、アイオンと並んで座っていたカルタがぽそりと呟く。
 「……僕がこの森に来た目的は知っているでしょ? だから、誰かがそれを知って、妖精の国を守るために閉ざしたのかも だとしたら……」
 ぽんと、カルタを撫でるように頭をたたく。
 「ノチェも、カルタも、それ以上言うな 俺は大丈夫だ」
 「アイオン……」
 アイオンは笑う。確かに、当てが外れてしまったという無念はある。しかし、それでノチェやカルタを責める気はなかった。もとより当てのない、いってしまえば孤立無援の旅だとわかっていた。だが、目的は依然として変わらないし、何よりあと一歩のところで逃したとはいえ、目的地が実在するであろうことは確認できた。
 「……ノチェ、入り口は……他にはあるか?」
 あるならば、そこに向かえばいい、なければ、開ける方法を探せばいい。どちらも無ければ、次の旅が始まるだけだ。
 「あるけど、とても遠いわ……冬に間に合わない……」
 そういって、ノチェは懐で戦慄く。
 「ノチェ、教えてくれ 遠くても良いんだ、次はそこへ そこもだめなら次の場所へ 旅を続けて行こう 冬は、どこかで越せばいい ガーラも、カルタも、良いな」
 無謀な、死出の旅への道ともいえる宣言。
 「良いぜ」
 「僕もだよ、アイオン」
 だが、もとよりアイオンに命を預けた身である。ガーラとカルタの心は決まっていた。アイオンの傍が自らの居場所であり、アイオンの墓が己の墓なのだ。そういう意味では、一人と一匹の心は一致していた。
 ノチェは告げる、アイオンの胸の中で、はるか遠くにあるという入り口を……



 ……川を渡り、森を出る。既に陽は落ちようとしており、仄暗い夕焼けが大地を朱に染め上げ、深く黒い影を伸ばしていた。
 吹きつける風は身を切るように冷たく、これから歩まねばならない道がいかに過酷であるかを告げるかのようであった。
 ノチェが告げたのは、この森より遥か西に位置する山脈のふもとにある森であった。アイオン自身、名前しか知らないような場所である。運よく迷わずにまっすぐ向かったとしても、旅の途中で冬を迎えることはまず間違いない距離であり、望むならばどこかで冬を越す必要がある旅路である。
 「行こう、みんな」
 だが、アイオンは前に進む。立ち止まっていては、安住の地へはたどり着けない。それに、もしかしたら旅の途中で見つけられるかもしれない、妖精の国以外の場所を。淡い期待でしかないとしても、今は少しでも希望が必要な時であった。

 冬の足音が、もうすぐそこにまで迫っている

 二人と一匹の影が、紅い大地の上でうつろう。少しでも遠くへ、少しでも前へ。
 この北の大地で、最も過酷な季節が廻ろうとしている。



 白い果てが、すぐそこにあった


21/05/23 07:37更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
今回も読んでいただきありがとうございます。

毎度、話が長くて読むのが大変かもしれませんが見ていただき感謝しています。
今後も読んでいただけると、とてもありがたく思います。

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