連載小説
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砂塵の夢

 ……砂塵舞い散る砂の街。
 永久の中に埋もれ、忘れ去られた街を独りの魔物が……己が座所より眺めていた。
 魔物に名はなく、ただ此処の守護者と呼ばれ、そうあり続けている。

 かつて、ウルクと呼ばれた国。
 その墓所の一つ……死者を、古き神に仕えた者たちを守るために、古き神の手で生み出された存在。その身は強靭にして朽ちることなく、その意思は堅く狂気を跳ねのけ、その力は竜にすら抗する……その魔物たちは神の傑作のひとつといってよかった。

 だが、傑作故に、神はその魔物たちが自由を……己が役目を放棄することは許さなかった。たとえ仕えるべき国が滅び去り、護るべき場所が朽ち果て埋もれようとも、魔物はそこでともに朽ち滅び、忘れ去られることを求められた。


 自由を許せば、いずれ造り手にすら牙を剥く


 そう、神が考えた故であった。
 故に、魔物は独りであった。
 広大な土地とともに国は滅び、この地も神に忘れ去られ、魔物に問いかけに神が応えることはなかった。



 魔物はただ護り続けた。



 いつからだろうか、国が、大地が、大気が……全てが死に始めたのは。

 始まりは一吹きの渇いた風であった

 その風は帝国全てを撫でるように吹き抜け、消えた……全てが変わったのはその後であった。
 大地が……草木が……ゆっくりと枯れ、いくら耕し、水を与えても命芽吹かぬ地と化したのは。
 ただ静かに、全てが朽ちていった。
 渇いた大地は家々を飲み込み、朽ち滅ぼし。風は金属を蝕み、一握の砂に変えた。それはゆっくりと、しかし確実に国を蝕み、気が付いたころには全てが手遅れと化していた。

 全てが朽ち、砂と化し、そして飢えが国を襲った……

 飢えは荒廃を……荒廃は争いを……争いは分裂を……そして全てが荒れ果て、崩れ落ちていった……この地に神はなく、人々は次々と故郷を捨てていった……いや、捨てざるを得なかったのだ。
 広大な領図が次々と崩れ離れ消えてゆくとともに、滅びゆく帝国は己の民にさえも牙を向け……最後の渾沌、帝国が完全に崩れ落ちた大内乱……百年に及び続いたかつての帝国領同士の戦いの後、正統な歴史は失われ、帝国の存在そのものが歴史から消え去っていった。



 かつて帝国が築いたものの殆どは長い時と、全てを飲み込む砂、そして朽ちさせる風を浴び……埋もれ消え去っていった……



 僅かに残る……風を浴びず、砂に埋もれることのない地に築かれた場所を除いて……



 魔物は、街を、残された歴史の残滓を眺める。

 古き……魔物の創造主たる神に仕えた神官と巫女が眠る街。墓守たちの街。
 四方を山壁に囲まれ、全てを飲み込み滅ぼす風と砂から守られた街。

 だが、滅びは僅かな隙間から入り込み、草木を枯らし、人の住めぬ地へとこの街を変えた。
 それでもなお、この街は己の役割を、造られた意義を果たさんとしていた。必死に食物を集め、作り、分け与え……度重なる争いと内乱、増え続ける傷ついた民と死者を慰め、この災いがさることを祈った。

 だが……祈りは届かなかった……

 風と共に砂が、砂塵が舞い散る中……一人、一人……やがては一族、もう一族というように街を去っていった。
 僅かにこの街に残る者もいた……身寄りがなく、長旅に耐えられぬ者……この地に仕え続けた墓守の一族……そして魔物の世話をする巫女たち……彼らは飢え、疲れ果て、そして傷つきながら役目を果たしていった。

 最初に死に絶えたのは……墓守の一族であった。彼らは皆、この地を守るために、暴徒と化した兵士や民と戦い散っていった。
 数奇にも、魔物と……そして最後の墓守と戦い、散ったものたちがこの地の最後の兵士たちであった。帝国最後の……古き神に仕えた兵士と、墓守がともに死んだ……その亡骸は今もこの地に眠っている。

 次に死に絶えたのは、身寄りのない者たちであった。病み、老いた者たち。飢えて弱り、時に静かに、時に嘆き、時に感謝の言葉を告げ……この地で眠りについた。

 最後に死に絶えたのが……巫女たちであった。最後まで魔物の傍に居、そして世話を、日々の務めを果たし続けた。
 だが、満足な食事を得ることは叶わず……最後の巫女は、まだ少女であった。初心なまま、ただ魔物だけを家族として……飢えて死んだ。



 おなかすいたの……ごめんなさい……



 最後の、この地、この国最後の巫女の言葉。
 眠るように、やせ細った少女は死んだ。吹けば飛ぶような、枯れ枝のような体を魔物は抱え、他の巫女と同じ墓に……火葬の作法を知らず、そのまま狭い墓の中に収めた……それでも少女はすっぽりと収まった。その小さく弱り切った体は簡単に狭い墓の中に入ったのである。

 この地を護れ

 古き神の言葉、呪い。
 魔物は今なお、この地に縛られている。


 ……だが……


 魔物は思う。果たして自由とは何なのだろうか、この空の果てまで、どこにでも行けるとしたら我はどこに行くのだろう、と。
 この地の守護者、その役目を失ったら、一体己はなんなのだろうか。

 名もなく、家族もなく、ただ守護者という役割、存在として生まれた

 魔物は縛られ続けた。
 ただそれだけが自分を自分足らしめ、そして長い、長すぎる時の流れに耐えるために唯一必要なことであった。



 何百何千何万という日の出と日没を見た
 何百何千何万という日々を見続けた
 何百何千何万という時を越えた



 魔物は護り続けた



いつからだろうか、魔物は謡う
 在りし日を想い、己が役目を忘れまいとするように、魔物は謡う
 記憶を揺り起こし、旋律を、言葉を、意味を……巫女たちが歌った、あの歌を……

 ただそれだけが、魔物を魔物至らしめるただ唯一の慰めであった



 けれど……あまりにも長い、長すぎる孤独は……静かに魔物の意思を……記憶を……






































 いつものように、花を手向け、謡う

 そして、座所に戻り

 街を守護する



 繰り返し続けた

 独り

 繰り返し続けた



 日々























 最初、“それ”を感じた時、魔物はわからなかった。

 己の頭の中で何かが蠢く感覚。とても大事なこと、ただそれだけが感覚的に残っていた。
 “それ”は小さく、だがうぞうぞと果実にたかる羽虫のように不快に感じられた。これはよくないものだと、魔物はゆっくりとその身を起こす。

 その身を起こし、羽を……そうだ、羽があったのであった……そう思いだし、広げる。そして頭を振り……いや、どうするのか……目をつむり……違うな、もっと……目を開き、意識を集中させ……そうだ、こうすれば……“それ”を感じる。
 街の中を……半ば砂に埋もれつつあるが、まだ街とわかる場所で“それ”は蠢く。魔物の中に、怒りが湧き起こる。何故そうなるのか、それはわからなかったが、“それ”を排除せねばと無意識のうちに感じる。魔物はその身を震わせ、己が座所から外に出る。

 一瞬、しかして長く視界が白く染まる

 暫く、魔物は怯むように立ち尽くす。だが、光に慣れてからはあっという間であった。たちまちのうちに、魔物の体はかつての強靭な肉体、その動きを取り戻していく。感覚は鋭く尖り、全身の筋肉が隆起し強力な鎧、そして武器となって魔物を突き動かす。その翼は力強く、もはや飾りと化していただけの翼ではなかった。

 魔物は、本来の……守護者たる己の力を“思い出した”のである。

 そのまま魔物は翼を広げ、音もなく飛び立つと山壁に突き出した岩の影へと降り立ち、己が守護する地への侵入者を見る。
 それは人間、そして男であった。あまり見慣れぬ、しかし砂漠を旅するのに適した服に身を包み、何かを探すように家々へと立ち入り、探し回っていた。
 その様子から魔物の直感はあの男が“盗人”であることを即座に感じとる。

 我が守るこの地に盗み入るとは……愚かな……

 久方ぶりの、幾数百数千年ぶりに見る人の姿。それが盗人となろうとは……魔物は静かに嘆く。だがそれと同時に守護者としての任を果たすという使命感に心身が火照る。

 “普段”であれば、もうすでに男を捕えようとしていたところである

 音もたてずに疾風の如く飛ぶ翼と鎧よりも硬い皮膚と剣の如き爪、愚かな罪人の首を刈り取ることなど造作もなかった。見たところ警戒心の強そうな男であったが、この地のことを知り尽くしている魔物からすればどこに潜み、どこで襲い掛かれば一瞬で片が付くかなどわかり切ったことであり、そうでなくとも出入り口は一つしかない。かつてこの地で罪を犯した罪人たちは、守護者たる魔物を見ると皆そこへと逃げる。たとえどれほど早く逃げたところで、魔物の翼をもってすれば罪人が階段を登り切る前に座所から“門”に至ることなど悠々とできることであった。
 魔物の前に立った罪人が辿る道は二つ……

 あくまで刃向かい、死ぬか

 跪いて許しを乞い、罰を受けるか

 この地を護る、そのために魔物は“居る”のだ。


 だが、魔物はじっと男を観察する。
 匂い、気配、どれもあの男が“盗人”であることを示していた。だが、男は家に勝手に押し入ることはすれども、何かを盗って出るようなことはしなかった。何かを探しているのは間違いない、だが一向に手を出そうとはしなかった。
 その様子に、魔物は考える。

 果たしてこの男は何者なのだろうか

 盗人なのは間違いない。許可もなくこの地に侵入した時点で罪人なのだ。だが、魔物はじっと様子を見る。生きて動く、人間を、男を。かつてこの地に栄えた人々の似姿を。

 静かに、魔物の心臓が鼓動する。

 なぜ、胸が鳴るのだろう。なぜ、使命を果たすことを躊躇してしまうのだろう。

 もしも、僅かな言葉が魔物の心を、体を止める。

 もしも、あの男が刃向かってきたら……



 ……我はまたこの地で……



 魔物は守護者であると同時に、裁判官でもあった。この地で捕らえられた罪人の行く末の決定権は全て魔物にある。だが、従うべき規則はあった。

 捕らえるか

 殺すか

 決定権は魔物にあるが、攻撃、危害を加えようとしたものに対する罰は常に決まっていた。

 死

 ただそれだけである。守護者として、この地を害する者を排さねばならない。

 魔物の心が揺らぐ。
 だが、使命は果たさねばならない。
 二つの心が、魔物の中で振り子のように揺らぐ。
 だが、もしも……
 魔物の心が揺らぐ。

 ゆっくりと、陽が傾く。静かに、橙色に街が染まっていく。
 魔物は未だに揺らいでいた。男を見つめながら。

 男は一通り街を物色したものの、気に入るものがなかったのか何一つ手に取り盗むことなくただぶらぶらと歩きまわっていた。しかし、流石に手ぶらで帰るつもりはないのだろう。未だに男は燻ぶるような欲望を薫らせていたからである。
 そんな男が動き出す。その方角は普段魔物が過ごしている神殿の方であった。最初、男は何かを警戒するように神殿には近づかなかった。だが、街中で得られるものがなかったからであろうか、神殿には何かあるやもしれぬと考えたのかしっかりとした足取りで神殿へと向かい始める。
 もはや誰もいない地である。何も盗まず、ただ侵入しただけならば不問に処そうかと考えていた魔物だったが、自らの意義足る墓所の守護だけは果たさねばならなかった。

 心臓が、高鳴る

 魔物が見つめる中、男の足が、体が……町と神殿の境を越える。

 翼を広げ、魔物は飛び立つ。音もなく空を滑り、影を映さぬように山壁を舞う。滑るように降り立ち、墓所の影に潜む。鋭敏な嗅覚が“生”の匂い、男の匂いを捕える。男は進む、進んで……立ち止まる。

 巫女の墓の前

 男が何かに気づき、構える。
 その手には……


 怒りに、視界が染まる


 男の背後に飛び出し、問う……守護者として……



 “何者だ”



 返答は、殴打の一撃であった。
 鈍い音とともに、鉄の塊が腕にめり込む。だが、しょせんは人間の一撃。竜の一撃にすら耐える魔物の皮膚を貫き、肉を裂き、骨を砕くような力はない。


 嗚呼


 魔物の爪が躍る

 目の前で、紅い鮮血が飛び散り、罪人の体が浮き……そして落ちる。

 一滴、魔物の顔に血が垂れる。目の端にかかり、熱く、薄く頬を流れていく。



 ……これで、我は……また……



 役目を果たした。
 魔物は小さく呻くと、死したる罪人の傍による。

 葬って、やらねばな……

 如何な者とて死ねば同じ。墓所たるこの地には、まだまだ多くの“場所”がある。魔物は亡骸を掴もうとその手を伸ばし……触れる。

 手に広がる、微かな温もり

 それは遥かな昔に感じた、記憶というのかすらも怪しい、想い。


 生きている!


 確かに、心臓をこの手で、爪で裂いた。だが事実、罪人たる男は生きていた。意識を失い、ひきつった表情で倒れていたが、確かな鼓動をその身に刻みながら、絶えることなく呼吸を繰り返す。飛び散ったと思わしき紅い鮮血は、ゆっくりと揺らぐ煙のように解け消えていく。

 どういうことだ

 魔物は己の手を見る。確かに鋭く、命を刈り取るに十分すぎるだけのものである。だが、何かが違っていた。それは微かな、それでいて決定的な変化。鋭い爪を覆うように、奇妙な魔力の膜が薄く張られていたのである。その奇妙な事実に魔物は困惑する。
 いったい、いつ、このような不可解な変化があったのか。

 ……だが……

 結果として、罪人は生きている。
 魔物は、じっと罪人の男を見る。少なくとも“罰”は執行された。執行されたのだから男の“罪”は贖われたのである。

 ……

 魔物は男の体を掴むと、己が守る神殿へと運び込む。

 確かに、罪は贖われた。だがそれはあくまで“守護者たる魔物に対して危害を加えた罪”である。魔物が守る、この街に対する罪は贖われていない。ならば、魔物は守護者としての役目を全うするまで。

 そう考えると魔物は男を放り投げ、目が覚めるまでの間、再び街を守護するという役目に戻るべく座所に腰を下ろす。






 ……それがあの男、リュークとの出会いであった……






 魔物は、目を開ける。
 目の前では幾星霜もの月日の中で変わる事のない、乾いた風と輝く砂に埋もれた街があった。立ち並ぶ墓所は再び枯草と埃を身にまとい、座所の隅には砂が溜まり床が見えなくなりつつあった。かつてあの罪人が成し遂げた仕事の痕跡、それももはや失われつつある。

 ……あれは一時の夢、幻であったのだろうか……

 魔物は想う。あの時見た、話した、触れあった存在は果たして孤独に狂った己が見た砂塵の夢ではないかと。
 決して狂うことない、強靭な意思の中で生まれた小さな綻びではなかったかと。

 ……だとすればあまりにももの悲しい……

 いつからだろうか、物思いに耽ることが多くなった。かつてこの地に仕えた巫女たち、墓守たち、人々の姿。それをよく思い返す。そして最後には必ず、あの男が出てくる。何よりも鮮明な記憶……妄想……匂い、温もり、それすらもただただ永劫の静寂の中では不確かなものに思えてくる。

 ……そんなはずは、ない……

 違う、確かにあの男はいた。そう魔物は繰り返す。
 幾度となく繰り返された問答、ぐるぐると回り続ける輪廻の輪の如く。二つの魔物が口々に問うては答え繰り返す。

 あの男は実在したのか?

 あの七日間は現実なのか?

 孤独な己が見た砂塵に虚ろう夢ではないのか?

 魔物は目を開く。変わる事のない永劫が、眼前に広がっている。

 護るべき、己の場所、使命。

 だが、どうだろう……今となっては……



 “ダメダ”



 微かに表情をひきつらせ、思考を断つ。それは決して、考えてはいけない言葉。
 だが、それは同時に魔物にとって代えがたい事実の一つを鮮明に映し出してしまってもいた。



 幾星霜もの孤独

 それは何よりも強靭なる魔物の中に

 確かな綻びを生み出していた



 ゆっくりと身を起こし、いつもの“務め”“慰み”へと向かう。
 さらさらとした砂が流れ落ち、風が舞い上げ砂塵と化す。茂みの中から小さな花を探し、それをゆっくりと摘み取るととある無名の……小さな、巫女たちの墓の前に立ち花を添える。いつも、前に供えた花はいずこかへと風に飛ばされ消えている。

 ……かつてこの地、この墓所全て……供えられた花で満ちていた……

 まだ緑深き時代、この地は墓であると同時に巨大な庭園でもあった。だがその面影は何一つ残ってはいない。
 魔物は腕を組み、小さく息を吸うとその喉を鳴らし、歌を紡ぐ。

 ……願わくば……

 誰か、この歌を……

 いつからか、魔物はそう願うようになった。



































 ……乾いた風の音が響く。
 魔物は、目を開く。


 街は砂に埋もれ


 墓所は枯草と砂に覆われ


 座所の床は見えなくなった


 ただ、永遠が、横たわる






 喉の渇きを覚え、魔物はのそのそとその身を起こす。かつて感じたことのない、覚えのない感覚。ただ苛まれる、尽きることのない渇き。墓所の傍の水路へと足を運び、獣のように水を得る。

 ……この手ではな……

 神の与え給う、鋭き爪。敵を討ちとり、威嚇する武器。だがそれは同時に何も握れぬ、何も掬えぬものへと魔物の手を変えた。
 水から口を離し、魔物は街を見る。いくら飲んだところで、この渇きが癒えることはなかった。ただそうすることでしか、己を慰めることができなかった。
 ちろりと、湿った唇を舌で舐める。こうした渇きを覚えるようになったのは、つい最近のことであった。この奇妙な変化を、魔物は淡々と受け入れていた。事実、魔物は己の何かが変容しつつあることを感じていたのである。
 かつて、耐えられたはずの孤独、だが今や魔物はその孤独を……先の見えぬ永遠を……恐れるようになっていた。変わる事のない、遥か古に置き去りにされたままの街。その失われた墓所の墓守としてただ一人護り続けるという使命。耐えられる、耐えたはずの孤独。それがこれからもずっと続くのだという事実が……どうしようもなく恐ろしく、魔物の心を締め付ける。それが覚えたことのない渇きとなって、魔物を苛むようになっていた。同時に、渇きは言いようのない飢えを魔物にもたらすようになっていった。



 ……リューク……



 心に浮かぶは、あの罪人の顔。砂塵の見せる、夢でもいい。
 魔物は渇望する。

 もう一度、会いたい と

 魔物を、この場所を知る者は、ただ一人だけ。
 あの男が去ってから暫く、魔物は微かに期待していた。もしやとすれば再びこの地に、リュークが……人が戻るやもしれぬと。再び歴史の中にこの場所が思い出されたのだと、忘れ去られたわけではないのだと。
 だが、戻りはしなかった。リュークが去って幾月、いや幾年か、幾百の昼と夜を過ぎてなお街は、世界はただそこで乾いた音を立てるのみであった。

 魔物は、弱くなった

 もはや、永劫を耐えられる強さを持つことは、魔物にはできなかった。あまりに長すぎる孤独で渇き切った心は、ほんの僅かな人との交わりすら、病的なまでの渇望をもたらすようになってしまった。
 渇き、飢え切った心。

 いつしか、魔物は座所で謡うようになった。

 もの悲しく、綴るようになった

 あの時紡いだ、あの男のために謡った歌を










































 ……“それ”を感じた時、魔物はわからなかった。

 己の頭の中で何かが蠢く感覚。とても大事なこと、ただそれだけが記憶に残っていた。
 “それ”は小さく、だがしっかりと記憶に残っている感覚。決して忘れえぬと、魔物はゆっくりとその身を起こす。

 そして目を開く。

 変わる事のない孤独が、眼前に広がっている。
 だがどうしてだろう、心がざわつく。何かがおかしい。



 “それ”は、すぐにわかった。



 “それ”は門をくぐり


 魔物は門から……街から目を伏せる   恐ろしかった



 “それ”は水路流れる階段を降り


 魔物は目を閉じる   信じたくなかった



 “それ”は街を抜けて


 魔物はうずくまる   もしもこれが



 “それ”は墓標を通り


 魔物は震える   砂塵の見せた夢だったなら



 “それ”は神殿の扉をくぐり



 魔物は きっと壊れてしまうから



 “それ”は、魔物の前に



 暫く、“それ”は魔物の前で静かに佇んでいた
 魔物は意を決し、恐る恐る顔を上げる



 その直後、男の悲鳴が上がるのと
 魔物が飛び掛かり転げまわる音が響き渡るのはほぼ同時のことであった


22/11/05 20:45更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただきありがとうございます。
砂塵の唄、魔物編です。

長い時を生きる魔物と言えども千年単位の孤独は流石に堪えるだろうとは思います、なまじ人と関わりがある存在ならば猶更なのではと。

何であれ、楽しんでいただけたならば幸いと思います。

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