連載小説
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砂塵の歌


 ……砂塵舞い散る砂の海。
 それを臨む小さな宿場町のはずれ、爪弾きものの男が住むあばら家の脇を一人の旅人が通る。

 「旅人かい」

 椅子に座り砂漠を眺めながら、痩せた男が問う。

 旅人は男の方をふいと一瞥すると、同意するように小さく頷く。
 ぎらりと、男の目が興味深げに光る。そのまま男は片手に持った酒瓶を一つ呷ると、薄く笑って喋り出す。
 「この先に用かい? なんもありゃあしねえのにさ」
 探しものだ、とだけ旅人は返す。その返事が面白いのか、ひひひと酒焼けしたかすれた声で男は嗤う。
 「なんも、な〜んもねえのさ 広がるだけの砂浜に岩山しかねえのさ カンカン照りの太陽はいつもご機嫌、そのせいで魔物さえもちかよりゃしねえ! なんもねえのに探しに行くときてやがる! 旅人さん、あんたいかれているぜぇ!」
 そう言って再び酒瓶を呷り、むせるように笑う。
 旅人は男を無視するように、砂塵の向こう側、蜃気楼のようにそびえる山脈を見据える。事実、旅人のゆく道は安全とは言い難い道であった。
 遥か昔、この地にあったという帝国、その残滓を探す旅。旅人は冒険者であった。時に気ままに世界をさすらい、時に依頼を受けて異国を旅し調査をする。そんな人物であった。物心ついた時から両親はおらず、商隊で様々な人に育てられながら各地を転々としていた。そんな生まれ故に定住することはなく、また縁のある人物もいなかった。育ての親とは早々に離れ離れになり、どこで何をしているのかすらもわからない。
 だが、そんな気楽な、そして孤独な旅こそがこの冒険者……名をリュークという……リュークにとっての日常であり、人生であった。

 そして、此度リュークはさる王国の学院より依頼を受け、この辺境の砂漠……そこに横たわる大山脈に眠るとされる古代帝国の遺跡を探す冒険に出ていたのである。学院より渡された地図に記された目的地はまだ先であったが、この周辺はかつて帝国の交易路として使われていた場所ということもあり、何かしらの痕跡、または遺跡の類いが見つかる可能性は十分にあった。

 恐らく、ここが最後の休息地になるだろう

 リュークは振り返ることなく、砂漠の端、砂に埋もれかけた宿場町を後にする。後ろでは、相変わらず男がかすれたうめき声にも似た笑い声をあげ、死地に向かう旅人を嘲笑う。

 実際、曰くつきの地ではあった。かつて存在したとされる大帝国、伝説にすら存在を記されているにもかかわらず今となっては殆どその詳細を知る者はおらず、その顛末も定かではない。幾つかの仮説も唱えられたが、どれも決定的な証拠はなかった。
 神の怒りにふれ、実り豊かな地を死の大地に変えられた……魔王との戦いの果てに人々も土地も荒廃し静かに滅んだ……疫病の大流行……恐るべき魔導兵器の実験で自爆……様々な学説が飛び交っていた。とはいえ、どれもこれも確たる真実を手に入れてはいなかった。その歴史は長い時と崩れ落ちる砂の中に埋もれてしまっている。

 砂塵が舞う

 さく、さく、小さく砂を踏みしめる音と風の音だけがリュークの耳を掠める。照り付ける太陽は装束の上からでも肌を焼くようであった。魔物さえも近づかぬ死の大地、それを現すように、揺らぐ蜃気楼以外何も動かない景色がただ広がっていく。
 出来得る限りの備えはしてきたつもりであった。孤独にも耐えられる自信があった。だが、無限に広がる虚空の如き砂漠を前に、リュークの心は早くも不安に絡みつかれていく。
 (くそっ これは思った以上にやばいかもしれねえ……)
 口の中で、後悔交じりの悪態を吐き出す。

 それからしばらく、目の前で蜃気楼の如く揺れる大山脈を目指して歩き続けていく。一歩一歩、踏みしめるたびに様々な考えが脳裏をかすめていく。水や食糧の蓄え、難事に備えての道具、帰るための手立てとそれまでの備蓄の計算、そしてそれらにまつわる最悪の想定。
実際、リュークは少々後悔していた。砂漠の旅は何度か経験していたし、一人旅で砂漠を通ったこともあった、それに一か月以上一人で旅をして過ごすこともしょっちゅうである。だからこそ今回のこの冒険も苦労はすれども厄介なものではないと考えていた。期間は二年、砂漠と山を越えて遺跡を見つけ地図に記す、あとは証拠となる遺物を拾いその地図と一緒に学院まで持ち帰るだけ。それで暫くは遊んで暮らせるだけの金が手に入る、この手の調査物としてはかなり破格の部類に入る仕事であった。実際報酬の全てが支払われるのは証拠と地図をもとに学院の調査隊が遺跡を発見してからではあるが、それでも調査報酬として支払われる前金だけでも結構な額であった。流石に支度金ははした金であったが、それでもしばらくの食料代にはなった。最悪、調査報酬だけでももらえれば結構な儲けもの……そう思いこの仕事を請けたものの、いざ現地を前に歩みを進めてみると言いようのない不気味さ、かつてここに栄えた国があったとはとても思えないほど“死んだ大地”を前にリュークはすっかり気後れしてしまっていた。
 (……いざとなったらばっくれるか……)
 そう自らを元気づけ、砂を踏みしめる。目的地は未だ悠然と、眼前に広がるばかりであった。



 ……何もない、砂漠の真ん中。満天の夜空の下、リュークは野営をしていた。一日、ただひたすら歩き続けたが一向に近づいている気がしなかった。
 ただ黙々と火を熾し、敷いた布の上にどかりと腰を落ち着けるとリュークは口の中から小さな蒼い玉を吐き出す。手の中でじんわりと湿ったそれは、不思議なことに乾くことなく、むしろより瑞々しく結露していく。これこそリュークの持つ備えこと魔道具が一つ“水玉”であった。
 水の精霊の力が籠められたこの小さな宝石は、少なくも尽きることなく水が湧き出てくるもので、こういった砂漠の旅では少量とはいえ無限に水を得られるというのは非常に重要なことであった。もっと上等なものであれば、染み出る程度ではなくこんこんと湧き出る泉の如きものもあるというが、あいにくリュークの財布事情ではゆっくりと飴玉のように水が染み出る水玉を買うのが精いっぱいであった。それでも、この水玉に助けられた場面は一度や二度ではないために、良い買い物だったと自負していた。
 リュークはその水玉を空になった水筒に放り込む。こうしておけば、明日にはまとまった水が再び手に入る。リュークはもう一つの水筒を取り出し、一口飲む。移動中は再び口に含み、少しでも喉を潤しながら再び進む。滲み出る程度とはいえ、水玉のおかげで水の消費はずっと少なくすんでいいた。
 (今日はどうするか……)
 正直、腹は減っていた。食料の備蓄はたっぷり……といっても人一人が運べる分である。そこまでの量はなかったが、それでもそれなりに余裕はあるはずであった。だが、乾ききった砂漠を前に、リュークは貴重な食料に手を付けるべきか悩む。砂漠には、何もなかった。サボテン一つ、生えていないのである。それに伴い動植物の類い、果ては虫すらもいるのか怪しかった。極力、こういった辺境での冒険では現地のものは毒や病を警戒し口にしないのが鉄則ではあるが、最悪の最悪、口にできるものがあると思えるのは精神的な余裕を保つ上では重要な要素であった。だが、それすらもないとなるとただ寝るだけの夜はなるべく我慢するほかなかった。それに冒険初日、一番余裕がある時こそ気を引き締めなければならない。そう覚悟を決めるとリュークはそっとその身を布の上に横たえ、目を閉じる。歩き続け、疲れ切った体はすぐに眠りの淵へとリュークを導くのであった。



 ……リュークが大山脈のふもとについたのは、翌日の昼前であった。
 (思ったよりも早くたどり着けたな)
 蜃気楼の如き揺らぎ、それがゆっくりと形を成しはっきりと見えてからは早かった。眼前に広がる茶褐色の壁、天を覆う岩山の群れを前にリュークは空を見上げる。かつて帝国が健在であったころは、何よりも頑強な自然の擁壁となり国を守ったのだろう。この山脈に囲まれる形で帝国は生まれ、そしてここを中心に根を広げるようにしてその領図を広げていった。
 「さて……ここでいいか」
 そう呟き、リュークは荷物の中から小さな石を取り出す。一見して普通の石ころであったが、手書きで数字と印が描かれている。それをリュークは手ごろな、目印になりそうな岩の傍に埋めると、懐から小物を取り出すと確認するように開く。
 それは方位磁石であった。だが、それは北を指すことなく先ほど埋められた石の方を向いている。これもまた、リュークの持つ魔道具であった。魔道具、といっても水玉に比べたらずっと安価なもので、名を導石(しるべいし)といい、専用の方位磁石と必ず対になっている魔道具である。使い方も至極単純で、専用の方位磁石は常に導石の方を指すように魔術細工してあり、戻りたい、目印にしたい地点にその導石を埋めるか置いておけば常にその方角がわかるという代物である。欠点があるとすれば、ただ方角を指すだけということと、魔力によって制御されているため魔力が激しく渦巻く、または濃度が濃いような場所では使えないという点であった。それをリュークは常に複数携帯しており、ここに来る前にも一つ、あのさびれた宿場町に別の導石を埋めて来ていた。
 懐から取り出した導石の対となった方位磁石ははっきりと、振れることなく導石の方を指す。それと同時にもう一つ懐から取り出し、街に埋めた方の導石の方位磁石を確認する。すると、それもはっきりと殆ど振れることなく町の方位を指す。
 (……魔力の流れが穏やか……なのか? 随分としっかり方角を指すな)
 しがない冒険者が持つ代物である、そんな立派な魔道具ではない。だが、使い古しの魔道具はまるで新調した高級品の如き精度でしっかりと導石の方角を指し示す。本来であれば、もっと針が振れるものであるし、遠くに行けば行くほど精度は落ちていくものであった。だが、見る限りそんなことはなく、少し振れているだけですぐに安定して方角を指し示す。それがどうにも奇妙に感じられた。だが、それならばそれで戻る際には大いに助けになることであり、リュークは怪訝に思いつつも道具を懐にしまいこむと再び歩き始める。
 そしてそのまま深い山脈、その中心へと足を踏み入れていくのであった。

 ……どれほど歩き続けたであろうか、少しばかり日が傾いてきた頃合いであった。
 深い山脈の谷底、その隙間を縫うようにして歩む道のりは険しかった。谷底には砂漠から入り込んだであろう細かく輝く砂が運河のように流れており、それが山脈から吹き抜ける強い谷間風によって舞い上がり、リュークの全身を津波のように包む。酷い時など、目を開けることさえできないほどの砂がリュークを襲うのであった。
 また、照り付ける太陽の強さは砂漠と変わらず、山脈によって影ができるとはいえすべての道が日陰になっているわけではなかった。叩きつけるような砂風がないだけ、まだ砂漠の方がましだったかもしれない。そう思えるほどに山脈の谷底を歩む道は険しいものであった。
 それに、相変わらずただ砂が舞い落ちる音や風の音以外、何一つ音もしなければ動きもない止まった世界が、空気があたりを包んでいた。それはますます言いようのない、耐え難い奇妙な孤独感をリュークに与えていく。
 あの不愉快な男の言葉がやけに反響していく。何もない、いやしない。魔物すらも近づかない、砂と岩だけの場所。ますます、リュークの疑問は募るばかりであった。一体此処で何があったのだろう、何が起きて、ここまで静かな場所になってしまったのか。
 その答えを欲しても、問いかける相手も応えてくれる存在も、何もなかった。ただひたすら、砂と風の音だけが響く。

 そんな時であった、砂塵に混じり、奇妙な音色がリュークの耳を掠める

 リュークは反射的に立ち止まり、耳を澄ます。相変わらず、吹き抜ける風の音だけが谷底に木霊していく。だが、どうしてだろうか、リュークにはわかった。
 “あれは歌だと”
 自分の声以外、誰もいない、響くことのない場所にいたからこそであろうか、長い冒険の中で磨かれた微かな音を拾いあげる警戒心もあっただろう。リュークはその音を拾った。明らかに異質な、否、むしろ望んでいた。無機質な砂の音でも、虚空に響く風でもない、確かな動きのある、生きた音色。だが同時に警戒心が芽生える。
このような、死した大地に歌声など、ありえるはずがない。この地のことは全くと言って良いほど知らないが、それでも生きていくには過酷を通り越して無謀すぎる場所である。少なくとも、いるとすれば死者の類いかゴーレムのように魔力さえあれば生きていけるような手合いだろうが、そうした魔物の類いすらも存在しない。だからこそわかる、ここは完全に死んだ大地なのだと。ただ澄み渡る風だけがここを支配している。

 だからこそ、興味を惹かれる

 だがそれは危険な罠にもなりうる。好奇心は猫を殺す、あまりにも有名な警句だがそれは真実だ。特に一歩間違えれば死ぬことすらもあり得る冒険者からすれば何よりも重視するべきことである。君子危うきに近寄らず、眠れる獅子を起こすべからず、触らぬ神に祟りなし、危険には近づかない、触れない、関与しない、それが冒険者の鉄則であった。

 だが、どうしてだろうか……この時ばかりは、リュークはその鉄則を忘れた……否、忘れたふりをした。微かな歌声、それを手繰るようにリュークは歩む。

 たとえ危険を冒してでも、リュークは思い出したかったのかもしれない。
 己は生きた世界にいるのだと、死した大地に一人彷徨う、孤独な旅人ではないと。



 ……あの歌声は孤独に苛まれた結果生み出された幻聴なのだろうか……
 そうリュークが考え始めたその時であった。目の前に広がる大山脈、その一部に道のように広がる亀裂が目に入る。細く鋭く、正確に入れられた垂直な切れ込み。自然の奇跡、その可能性もあったが一番高い可能性は人為的な、もしくは魔為的に作り出されたという可能性。
 (あれは! へへっ! 幻聴だろうがなんだろうが、見つかるもんがみつかりゃなんだっていい! ついてるぜ!)
 警戒しつつも、明らかに興奮し喜びから足が早まるリューク。近づけば近づくほど、それがいよいよ自然の産物ではないことがはっきりとしていく。それは門、ないしは道であった。極めて正確に二等辺三角形の形に山壁をくり貫いて作られたその道の入り口には見慣れぬ、見たこともない装飾が彫り込まれ、これが何らかの意味を持つ道であることを告げる。見たところ、文字と何らかの動物を模したもののようであった。恐らく、遥か昔、この場所の意味や名前が失われ風化する前であれば、もっと精微で美しい彫刻だったのだろう。それが伺える造りであった。
 間違いない、リュークは小さく叫ぶ。

 遺跡を見つけた、見つけたぞ!

 早速、地図を取り出して印をつけ、導石を埋める。
 学院の依頼には遺跡の大小などの条件は問われていない、遺跡を見つけさえすればそれでいいという内容であった。もちろん、大きい遺跡や世紀の発見となるような重要な遺跡であれば追加報酬も出すとの記載があったが、リュークはそこまでの金銭欲はなかった。もちろん、まだ余裕はある。次の遺跡を探すこともできたが、さっさと戻ることにリュークは決めていた。
 仕事さえ済めば、このような気の滅入る場所にいる理由は何もない。
 仕事にとりかかって半年程度、長丁場になることなく引き返せるのだ、これほどうれしいことはない。
 さて、帰ろう……としたところでリュークは思い出す。条件の一つを……証拠となる遺物を持ち帰ること……そうである、地図に印をつけるだけでは、仕事の達成とはならない。ちらりとリュークは遺跡の隅、“門”に掘られた彫刻を見る。乱暴な言い方だが、彫刻を一つ砕き折って持っていけば証拠になるだろう。風化してもなおしっかりとした造りのものである、十分な証拠になることは間違いなかった。だが、持ち帰った遺物にはどこで入手したかの説明義務があったし、どのような理由であれ遺跡を破損させる行為に対しいい顔する学者は殆どいない。特に彫刻には重要な意味が込められていることが多く、意図的に破損させたと……嘘をつけば問題ないと思えたが……なれば報酬の大幅な減額もありえた。依頼主が学院の学者であることを考えると、持ち帰るのは拾っていける彫刻か、もしくはそれこそ“お宝”の方が良かっただろう。
 そう、“お宝”。冒険者にとってみれば何よりも欲しい冒険の褒賞であった。金銀財宝はもちろんのこと、古代の遺物の中でも特に貴重な物、強力な魔導器でも手に入れば一生遊んで暮らせるだけの金になる。
 もしもこの遺跡……入口しか見ていないがゆえに全貌がわからないが……もしも重要な遺跡だった場合、何か凄いお宝が眠っているかもしれない。当然、危険は大きい、死すらも覚悟しなければならないだろう。だが国が認めている冒険者の鉄の掟……個人探索、依頼探索問わず遺跡より持ち帰ったものの内、両手で持てる分は冒険者の正式な所有物として認められる……いわゆる“両手の報酬”と呼ばれる不文律が存在していた。そして強力な魔道具や魔導器は何も大型な物ばかりとは限らない。小さな指輪にとてつもない力が宿っていたりもするのだ、それを見つけ、手にすることができればどれほどの恩恵が得られるか……まあそんなことは滅多にないが、それでも両手で持てるだけの金銀財宝でも十分であった。学術的歴史的に価値があるとして学院に売りつければ普通に売るよりもずっと高く売れるからだ。それならば石ころでしかない彫刻を持ち帰るよりも、何か一つ売りつけられそうなお宝を見つけていった方が良い……そんな打算的な考えがリュークの頭に浮かび上がる。

 「行くか!」

 冒険者としての好奇心、そして得られる報酬への欲望、仕事に対するちょっとだけの責任感からリュークは遺跡の門をくぐる。
 果たして、一体何が待ち受けているのか……警戒しながらリュークは門と同じく彫刻が等間隔に刻まれた通路を進んでいく。






 ……果たして、抜けた先は……一つの街であった。
 通路を出ると眼下には一つの山の中をくり貫いて作ったが如く、盆地状になった山中に収まるように街が広がっていた。だが、ここもまた“死した場所”なのであろう。ただ荒涼とした、物寂し気な風の音だけがひゅうひゅうと響き渡る。

 (……これが、歌声の正体か?)
 吹き抜ける風の音はどこか旋律にも似ていた。少なくとも、歌声というには程遠いものであったが幻聴交じりに聞けばなるほど勘違いの一つや二つはするかもしれないと、リュークは考える。
 それに、眼前に広がる街を見てリュークは残念半分安堵半分といった様子で息を吐く。少なくとも、街の遺跡であれば危険な罠は存在しないし、身を休めることができる場所も豊富にある。だが、安全な分貴重なお宝は殆どないといってよかった。それに自分以外の盗掘者が過去に何度も漁っている可能性もあり、そうとなればなおさら“お宝”は期待できないだろう。
 (まあ、考えように寄っちゃ遺跡としちゃあ規模はでかいから報酬は期待できるな)
 それならそれでと、リュークは気持ちを切り替えて考える。少なくとも、遺跡としてはそれなりの規模であり、これならば仕事の成果としては申し分ない。今日と明日一日、探索に充てれば何かしらの手土産は手に入るだろうと目算し、早ければ明日、遅くとも三日目の朝には引き上げようとリュークは決める。それぐらいならば、毎日腹いっぱい飯を食っても帰りの分を含め食料が持つからであった。
 もちろん、だからといって帰り道に何があるかわからない以上、毎日腹いっぱい食うつもりはさらさらなかったが、今日の夕食ぐらいは少し多めに食べても良いだろうと考えていた。

 かつかつと、うっすらと砂に覆われた石階段を下りる。下に降り、街に近づいていくにつれよりはっきりと街の様子がわかってくる。四角く積み上げられるように並べたてられた石造りの家々、その中に所どころ木々のように突き出した尖塔、その奥には神殿、または何かしら重要な所と思わしき遺跡が見えた。かつてはそれなりに栄えた場所だったのだろう、それが今、全てが死に絶えた地と化して砂の中に眠っている。そんな風景を眺めながら歩いていたその時であった、こうした死地において何よりもありがたい音……水の音が聞こえてくる。
 (水! 水路が生きているのか?)
 さっと音の方向に駆け寄ると、小さな水路の中に陽光を受け燦々と輝く水が流れていた。決してありつけぬとばかりに考えていた恵みを前に、リュークは我を忘れたように手を伸ばす。ちゃぷりと、水が指に触れ、ぬるくもしんとした冷たさがリュークの気持ちを和らげる。そのまま水を救い、一口飲む。湧き水だからだろうか、少しばかり石の味がしたが飲む分には何一つ問題がなかった。
 水路は山の方角からそのまま街中へと流れており、リュークはその水路をたどるようにして道を歩く。水路は街の中心と思わしき広場の中心のため池まで流れており、そこからさらに細かい水路となって分かれている。リュークは当たりを見回し、まるで蜘蛛の巣のように水路が張り巡らされていることに気が付く。恐らくは街全体がこうした水路で覆われているのだろう事実に、リュークは帝国の持つ技術の高さをなんとなく感じ入るのであった。同時に、少なくともここに滞在している分には水に困ることはないと、うれしく思うのであった。
 それに水路がある影響であろうか、ところどころ僅かではあったが草花が生えているのを見つけ、リュークはなぜか嬉しく感じる。そのままそっと、草に手を置き久方ぶりの草の感触を味わう。
 (……っと こうしている場合じゃないな、なんか見つけないとな……できれば金になりそうなものがいいが)
 草花から手を離し、辺りを見回す。遺跡と化した街中からは水路が流れる音、そして風が吹く音だけが深々と奏でられるだけで、古代からの末裔が隠れ住んでいるということは今のところなさそうであった。建物の中を覗いてみても、かつての生活の痕跡を見ることはできてもほとんど風化してしまっているようであった。それに滅び忘れ去られる前に街を去った人々も大勢いたのだろう、殆どの家は整理された形跡が見受けられ、この町は突然滅んだわけではなく“捨てられた”のだろうと推測する。大勢が一気に移動したのか、それとも徐々に衰退していったのかはわからなかったが、少なくともこの街で生きていた人々はここでの生活を諦めたのは間違いないと言えた。
 (う〜ん これじゃあ期待できないか……)
 リュークは唸る。不謹慎だが、突然滅び去ったり、大勢が一気に逃げ出したりしていてくれればまだ宝を探す余地はあった。だが、推測通りゆっくりと滅んだのであれば逃げる際に価値あるものをもって行くだけの時間はあったに違いない。ともなればこうした民家と思わしき遺跡を探したところで、証拠になりそうな品はあれどもリュークが求める金品の類いはまずないと考えられたのである。
 そのまま考えながらリュークはちらりと、街の奥を見る。正直、危険は冒したくなかったが街の様子が分かった以上、期待できそうなのはあの神殿と思わしき遺跡だけであった。尤も、街中の……それも大っぴらに開放されている場所故、そこまで危険な罠の類いがあるとは思っていなかったが、街を守るための古代のゴーレムなどは今なお眠っている可能性があった。魔物娘のゴーレムならばまだ殺されないだけましだが、純正の戦闘用ゴーレムだった場合は悲惨である。少なくともリュークには勝てる気がしなかった。持っている武器といえば、肉などを切る用のナイフと、護身用の棍棒ぐらいである。棍棒の方はきちんとした造りの戦闘用だったが、岩の塊を砕くことは想定していない。あくまで対人間、魔物に対してもゴブリンを追い払えれば良い程度の代物である。
 (……ちょっとだけ覗いてみるか)
 それでも、リュークは好奇心に負けた。好奇心こそ、冒険者を冒険者至らしめるのだ、そう見栄を切って“好奇心猫を殺す”という警句を封じ込めると、しっかりと遺跡を見据え歩き始める。既に日は傾き、夕闇が世界を飲み込みつつあった。

 神殿を目指して歩き始めて暫く、ゆっくりと周囲の環境が変化していることにリュークは気が付く。草花が街中よりもさらに濃く深く生い茂っていたのである。
 (? 水源が近いのか?)
 見る限り、神殿の傍に大きな池や水路があるようには見えなかった。だが、遠目ではわからなかったが神殿の周りは明らかに街中よりも多くの草花が生えていたのである。もちろん、砂漠の中の遺跡にしては……という但し書きが付くが。そのまま進んでいくと、より一層大きな広間が連なる場所へと出る。まっすぐと神殿に続く道は伸びていたが、その周りに広がるように、盆地の傾斜を削って作ったと思わしき広場が連なっていた。
 それは奇妙な、それでいてどこか見覚えのある景色であった。

 大小さまざまな石碑が傾斜に作られた広場に立ち並び、悠然と並んでいる。石碑には文字が刻まれ、何かを書き記しているようであった。
 リュークは興味深げに石碑の一つを見ようと近づく。
 (どれどれ……ん? これは……)
 石碑の前に置かれた、奇妙な品。それは少しばかり萎れた花であった。何者かが摘み取り、ここに置いたのだろう。それに気づいた瞬間、リュークは腰から棍棒を引き抜き警戒するように振り返る。

 陽が暮れ行く中、影だけが伸びていく

 何も、誰もいないと思っていただけにリュークは己の迂闊さを呪う。この場所は無人の遺跡ではなかった。相手はこちらに気づいているのか、それとも気づいていないのか、どちらにせよもはやこの場所に長居は無用であった。街に戻り、夜闇に紛れ……否、それすらも危険であった。少なくともここで夜を明かすわけにはいかない。リュークがゆっくりと街へと戻ろうとしたその時であった。黒い影が、背後に降り立つ。

 「aNiNoMoNaD」

 それは確かな声であった。だが、同時に理解できぬ言葉、意思を問いかけられリュークは振り向きざまに棍棒を振るう。
 鈍い音とともに、確かに棍棒は“何か”に当たる。だが、リュークがその相手を確認することはできなかった。棍棒が当たった次の瞬間、胸を切り裂かれる激痛と同時に体が宙に浮く。

 くそ ぬか っ  た

 一瞬、心地よさを感じるような浮遊感の後に叩きつけられる衝撃と痛みを感じると同時にリュークの意識は一瞬のうちに闇へと沈む。
 そのまま混濁する意識の中、もう二度と目覚めることはないだろうと、リュークはおぼろげに後悔するのであった……
























 ……!
 (ここは!? 俺は、どうなった!?)
 うっすらとした闇の中、リュークは目を覚ます。相変わらず意識は混濁とし、切り裂かれた胸元はじくじくと熱く痛む。だが、胸元から血や肉が飛び散った形跡はなく、なぜか衣服だけが切り裂かれていたようであった。そのまま一つ呻くと、胸元をまさぐり無事を確認する。
 (い、いったいどうして?)

 「eMaGaSeMaTaK」

 聞き慣れぬ言葉、それが耳に届くと同時にリュークは飛び起き、悲鳴を上げる。リュークから少し離れた場所に、“それ”がいたからである。

 それは、見慣れぬ魔物であった。

 一言でいえば、雄大な力の化身。

 雄々しき鷲の羽を広げ、両腕もまた大鷲の如き鋭い爪を持ち
 その下半身は屈強な獅子のものであり
 そして上半身もまた逞しく鍛え上げられ……

 ……そしてとても美しい女の姿をしていた……

 屈強ながらも、決してしなやかさを失ってはいない腹筋に、すらりと伸びた腰回り、隠すことなく広げられた両胸は豊かに揺れ輝かんばかり、そして鋭くも強い意思と使命を宿した黄金獅子の瞳。
 顔立ちは凛々しく、うっすらと金が混じり輝く銀髪を流すさまはこれ以上ないほど整っていた。慎ましい唇はつんと結ばれ、それでいながらも少しばかりふっくらとした下唇が光る。その肌はこの大地に相応しい褐色に彩られており、さながら豊穣の女神のようであった。

 かつて古き異教が執り行ったという、神への生贄……もしも異教の女神がこの姿だったならば、恐らく喜んで生贄になったやもしれない、そうリュークは見惚れながら想う。

 「oTOU aNiNoMoNaD」
 見惚れていたリュークに、再び魔物が問いかける。魔物の言葉に、リュークは己の立場を思い出し、そして戦慄する。未だ脅威は、終わっていない。
 リュークは悩む。あの見慣れぬ魔物は明らかに意思の疎通を図ろうとしている。少なくとも、殺すだけならば最初の一撃でできていた。だが魔力の爪を振るい気絶させるだけにとどめたことから、目的はどうあれ相手はこちらを生かしその上で意図を読もうとしているとリュークは感じていた。だが、困ったことにリュークは……相手もだが……時代もそうだが言語体系が違うのか、全くと言って良いほど何を言っているのかわからなかった。
 だが、黙っているよりかはまだ安全ではないか、そう直感的に感じわからぬまでも同じように声を出し会話を試みる。
 「お、俺は リューク 冒険者、だ」
 恐る恐る、言葉を発する。
 「! aNiNoWIeTTIuR!」
 驚き、目を見開く魔物。相手もまた、こちらの言葉を理解できていないようであった。それどころか、ふざけていると思ったのか、怒りの表情まで浮かべていた。
 「まって! まってくれ!」
 言葉を知らないのだ、そう示すように手を振り首を垂れ、祈るように手を組み必死に許しを乞う。戦って勝てるような相手ではない、それは少なくとも先の一件で痛いほど、本当に痛いほど実感している。
 そんなリュークの意思を感じ取ったのか、魔物は一際大きく唸ると、顔つきは険しいままだったが爪と牙を戻し怒りの表情を解く。
 「oMoTTaySeBuRoNaD」
 相変わらず、わからぬ言葉を発すると、魔物は口を開き喉奥を指さし口を歯噛みするように開け閉めする。
 (!? いったい何を……)
 すっかり委縮してしまったリュークは、魔物の意図が分からず黙ってその身を縮こませる。だが、その姿は魔物にとって意図すべきものではなかったのか、再び怒りに満ちた表情を向け、先ほどよりも大きく口を変え叫ぶように音を発する。
 「ひっひぃ! 許してくれ!!」
 リュークが懇願の言葉を発した時であった、ぴくりと、魔物の耳が揺れ怒りの表情を収めると再び口を指さし始める。
 (な、なんだ? 喋れっていうのか!?)
 なんとなく、相手の意図を悟ったリュークは恐る恐るといった様子で魔物に語り掛ける。するとわかっていないはずであったが、魔物はリュークの言葉を聞き取るように静かに耳を傾け始めるのであった。

 ……暫く、ただひたすらリュークが喋り、それを魔物がひたすら聞くという奇妙な時間が流れていく。
 久方ぶりの、しかも聞いているのかわかっているのかわからない相手にひたすら喋るという慣れぬ行為にリュークが疲れ始めた頃合い、微動だにせず聞き入っていた魔物がその身をむくりと起こす。突然の動きに、驚いたリュークは掠れた声で小さく悲鳴を上げ少しばかり後ろに下がる。
 そのまま少し、魔物は動きを止め目を閉じながら何かを噛むように口を動かす。

 「ア ウ グゥァ コトバ コトバ コウダナ?」

 そして、魔物の口から驚くべき“音”が発せられる。
 明らかに、拙いながらも理解できる言葉。それが発せられたのである。

 「ゥ フム、ドウヤラ伝ワルヨウダナ デハ改メテ問オウ」

 悠々と、その巨体を前に魔物がリュークに迫る。
 (なんで!? 突然!? お、俺の声を聴いて学習したっていうのか!?)
 そうだとすれば、恐るべき学習能力、そして知能である。その事実に、ますますリュークは目の前の魔物がただの魔物ではないと……少なくとも下位や中位では絶対にない、上位の魔物であると……確信する。

 「盗人ヨ 汝ハ何者ダ?」

 ならば、逃げ道も、勝つ道もない。ただ許しを乞い、慈悲を願うだけであった。
 へたり込むようにリュークは膝をつくと、魔物の問いかけに応える。

 「お、俺は、リューク、リュークと 言います、ぼ、冒険者 です」
 冒険者、聞き慣れぬ言葉だったのだろうか、少しばかり魔物は顔をしかめるも意味としては“盗人”と大して変わりはない部分もあった。
 「……フム、デハ冒険者リュークヨ コノ地ニ来タ目的ヲ述ベヨ」
 黄金の瞳が、射抜くようにリュークの目を刺す。
 「そ、それは……依頼で、学院の……い、遺跡、この場所を調べるように言われて……」
 そのついでに金目の物を探していた……などといえば命はない、そう感じたリュークは繕うように言葉を発する。

 「……グゥ 何を隠している?」
 しかし、そんな嘘などお見通しなのだろう。ますます流暢に言葉を発し、その事実から目の前の魔物が恐るべき速さでこちらのことを学習しているという事実にリュークはますます恐怖を感じていく。そのような相手に、何を言ったところで見抜かれるだけ、そう覚悟をしたリュークは首を垂れ跪いて真実を告げる。
 「ゆ、許してください……な、何か価値のあるものを、調べるついでにもって帰れれば……そう思って……そ、そうです、ぬす 盗人です……」
 終わった……だが嘘をつきとおせるとも思わなかった。震えるリュークの耳に遺跡の床を踏みしめる爪の音が響く。その音を前により一層身を縮こませるも、件の魔物はリュークに審判の鉄槌を振り下ろすことなく、離れていく。
 その事実に、恐る恐るリュークが顔を上げると、魔物は少し離れた位置で先ほどと同じように鎮座していた。
 「盗人よ その正直さは認めよう……では次に問おう 盗人よ、汝はその手でこの地を穢したか?」
 「い、いいえ! いいえ! 何も、何も手にしていません!」
 それは事実であった。確かに盗もうとはしていたが、幸いにしてリュークはまだ何も手に付けていなかった。
 「……ふむ、そのようだ ならば最後に問おう 汝、我の守護する地を穢した罪を贖うか?」
 罪を贖う、それがどのような意味を持つのか、だが断る道はなかった。少なくともリュークはそう感じていた。
 「はい! はいぃ! なんでもしますっ! 許しを、許しを乞います!」

 正直、情けないものであったが、命あっての物種である。リュークは懇願する。魔物はうっすらと目を細め、品定めをするようにリュークを見たのち、ゆっくりと口を開き沙汰を言い渡す。

 「よろしい、罪人リュークよ 汝は我が守護する地を穢すという罪を犯した しかし罪を認め己が愚行を正直に話した よって慈悲を加え七日の奉仕を命じる」
 奉仕、それが何を意味するのかわからなかったが、聞いた瞬間リュークの脳裏に浮かぶはこの魔物の股座に顔を埋め、慰撫する己の姿であった。魔物といえば好色と聞いていたのもあったが、命が助かったばかりかそう言った形の“奉仕”ならばむしろ願ったり……リューク自身は認めなかったがこの男、被支配的趣味があった……つまるところああだこうだと命令され、尻に敷かれるのが好きなのである。
 「刻限は今から七日目の日没まで ……ではさっそく奉仕を言い渡す この神殿の清めをせよ、まずは神殿の中の塵を掃うのだ」
 「わ、わかりました」
 だが、現実はそう甘いものでも官能的なものでもなかった。見るからに気位の高い魔物である。そう簡単に身を許すことはしないだろうことはわかり切っていた。だが、どんな形であれ即座に殺されるという事態は回避できたと、リュークは安堵の息を吐く。
 だが、許されたはいいが一つ問題があった。

 道具がない

 そう、掃除をするための道具をリュークはもっていなかった。荷物の中にある手ぬぐいを使えば床ぐらいは拭けただろうがこの大きさの建物を掃除するには無理がある。それに石造りの遺跡である、拭くよりかははたくか掃いた方が断然いいだろうと思えた。
 「……そこの通路を行った先に我の世話役が使っていた部屋がある そこにいけば道具があるだろう」
 リュークの心の内を見抜いたか、魔物は道具のありかを通達する。
 「あ、ありがとうございます……」
 内容と道具の通達、これ以上もたもたすればいくら理性的な魔物と言えど怒りだすだろう、リュークはすぐに言われた部屋を探すべく通路の奥へと走る。魔物は変わらず、神殿の奥、己の座と思わしき場所で鎮座するのであった。

 (外から見た感じよりも中は小さいんだな……)
 件の部屋はすぐに見つかった。それと同時に、あまり建物自体大きくないことも分かったのである。どうやら元は大岩か、山壁を削って創り出された場所なのだろう。それを削りくり貫く労力の多大さは想像するに余りある。
 「お、これだな ……これか」
 塵が積もり、埃に埋もれた部屋。そこにあった道具はどれもボロボロであった。本当に長い時の間、誰も触れることはなかったのだろう。それでも何とか、辛うじて風化を免れた……ほとんど風化同然だったが、使えなくはない道具を引っ張り出しリュークは掃除を始めていく。
 言ったように大して大きくはない建物ではあったが、それでも恐ろしく長い間手つかずとなっていた塵と埃の量は恐ろしいものがあった。
 最初リュークが目覚めた魔物の座所がある大広間はそこまで汚れていなかっただけに、他の部屋もある程度片付いていると思ったが、どうやらそこまで塵が積もっていないのは風通しが良いあの広間だけのようであった。もちろん、この部屋にも窓がないわけではなかったが、塵や埃を吹き飛ばすだけの風は入ってこないようであった。
 「はあ……まあいいや、やっていくか」
 なんであれ、言い渡された仕事を終えれば無事に帰れるかもしれないのだ、やる以外の道はなかった。
 (……あ、そういえば食料はどうするかな……)
 はたきを手に取り、埃を落としながらリュークはあることに気が付く。食料の問題である。少なくとも、手持ちの荷物の食料だけで七日間も過ごすとなると、帰りの分も含めてそこまで余裕があるわけではなかった。保存に関しては心配していなかったし、荷物も無事であった。だが無駄遣いはできない。
 (……掃除しながら食えそうなものを探してみるか)
 少なくとも、あの魔物が百年、千年もの間何も食わずにいられるはずはないとリュークは考え、そうならば何かしらの食料があるはずだと思考を巡らせる。とはいえ、見つけたとしても勝手にとることはしない方が良いだろうことは簡単に想像できた。あの魔物には隠し事は通じない、それは確信めいた直感であった。

 ともあれ、リュークは掃除を進めていく。
 はたきを振るい埃や塵を落とし、箒で掃いていく。



 ……そんなこんなことをしているうちに、あっという間に昼餉の刻限になる。
 (……結局、食えそうなものは見つからなかったな……)
 悲しいかな、リュークは食料になりそうなものは何も見つけられなかった。代わりに、何らかの穀物か果実の種らしきものを数種類、袋に詰められているものを見つけたぐらいであった。穀物の方は茹でるか煮るかすれば食えそうであったが、大した量ではないためそこまでの手間をかけるつもりはなかった。
 結局、仕方なくリュークは己の荷物の中から乾パンと干し肉、そして塩を取り出して水路から水をすくい取ると神殿の隅っこに座り昼食をとる。
 (……見つかったらやばいかな……)
 なんとなく、魔物から身を隠すようにして食事を進めていく。

 「何をしている」

 だが、すぐに見つかる。やはり、この魔物に隠し事は通用しない。

 「ひっ す、すみません! そ、その、食事を」
 恐らく、怠けていると思ったのだろう。魔物は顔を険しくしかめさせリュークに迫る。だが、食事、という単語とリュークが手にしていた乾パンと干し肉を見て何かを思い出したかのように目をぱちくりとさせ動きを止める。
 そして、思い出したように声をかける。
 「……ああ、そうであった お前たち人間は食事を必要とするのだったな……よい、食事をとれ 食事を終えたら奉仕に戻るのだぞ」
 そう呟き、魔物は離れていく。
 (た、助かったのか? ……恐ろしいことに変わりはないが、話は通じるのか……?)
 少なくとも、食事の時間は認めてくれたようであった。その事実にリュークは安堵すると、再びもしゃもしゃと食事を始めるのであった。

 ……食事を終え、再び仕事に戻る。それからはひたすら塵と埃を相手にすることで一日が終わる。日没、カンカンと世界を照らし続けた太陽が沈んでいく刻限。仕事をしていたリュークの前に魔物が現れる。
 「罪人よ、今日の仕事はもうよい その身を休めよ ……人間は休息を必要とするのだろう? その身を休め、明日もまた我が守護する地に奉仕するのだ」
 身を強張らせるリュークに対し存外に、優しい言葉。そんな言葉をかけてもらえるとは思っていなかっただけに、リュークは驚いたように息を詰まらせる。
 だが どうした、休まないのか? と言外に告げる魔物の目を前に我に返り、礼を告げるとそそくさと道具を片付けて魔物に告げられた“己の部屋”に入る。そこは魔物曰く“奉仕者の部屋”であった。そう、最初に道具を見つけた部屋である。リュークの掃除の甲斐あって、埃っぽくはあったが大分きれいにはなっていた。寝台の類いはとっくの昔に崩れ果て、使えなくなってはいたが、床に布切れでも敷けば寝る分には問題なかった。
 (はあ……疲れたな)
 床に寝ころび、悠久の時を刻んだ天井を見上げる。未だに危機は去ったとは言い難かったが、不思議と恐怖心は消えつつあった。どういうわけ、と言われればわからなかったが、少なくともあの魔物は血に飢えた殺戮者ではないと思えたからである。むしろその逆、人と何か関わりが深い存在だったのではなかろうかと、リュークは考える。
 (何はともあれ、あと六日か……)

 逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。けれども、不思議とリュークの頭には逃げるという選択肢は浮かばなかった。代わりに、恐ろしくも雄大で美しい、あの魔物の姿が浮かんでは消えていく。

 いつの間にか、リュークは眠りに落ちていた。



 ……次の日、夜明けとともにリュークの仕事が始まり、何事もなく過ぎていった。相も変わらず、魔物は自らの座所に鎮座し、何もいない、動くことのない風化した街を見守り続けていた。
 (……いったいどれほどの間、あの魔物はこの街を守り続けているのだろうか……)
 純粋な疑問。何故ああもあの魔物はこの地を守るのか。
 (……俺には関係のないことか)
 そうしてまた、一日が過ぎていく。

 ……三日目、変わることなく夜明けとともに仕事をはじめ、大分神殿が片付きリュークも仕事に慣れてきた頃合い。リュークは神殿の外、勝手にいつもの定位置と決めた場所に座り食事をとっていた。代り映えのしない、乾パンと干し肉、そして塩を頬張っていく。
 ある程度食事が進んだ、その時であった。

 舞い散る砂塵に混じった、あの歌声

 それがリュークの耳に入る。砂塵の音混じりではない、はっきりとした、歌声。

 (まさか)

 立ち上がり、歌声の方角を見る。
 そこには確かに、あの日あの時、この場所へと導いた歌……それを謡う歌姫の姿があった。それは雄大な力の化身。鷲と獅子の体を持つ、美しい魔物。それが並び立つ石碑の前で、鎮座し、腕を祈るように組み謡っていた。
 言葉のわからぬ、異郷の歌……音色は美しく、もの悲しい旋律が響いていく。それが風の音に舞い散り、この街を包み込んでいく。



 ……歌を終え、魔物は石碑に目を落とすと、そこに小さな花を一つ添える。
 「……罪人か 何用だ」
 眉一つ動かすことなく、魔物は近づくものの気配を察する。
 「あ、いえ……その 美しい歌だな、と」
 「意味はわかるまい 何故美しいとわかる」
 「……その…… 申し訳ないです でも、その……俺はその歌声を聞いて、ここに来ました あなたの歌声だとは思わず……」
 「……この歌は墓所に捧げられた歌だ 眠れるものを慰め、護りが健在であることを伝えるために我が歌うのだ」
 墓所、その言葉にリュークはハッとする。そう、石碑とばかり思っていたもの、なぜそれが見覚えがあったのか……
 (これは……全て墓標、ここは墓場だったのか!?)
 「それじゃあ、この場所は……」
 「……ウルク、この国の名だ ウルクの墓所は多くあるが、ここは特に特別な場所だ 特別、といってもお前のような盗人が期待するようなものはない ……ここはウルクの神官や巫女たちの眠る場なのだ」
 (……なるほど、神殿陵墓か……)
 だが、純粋な墓所としては街らしい造りであった。だが、その疑問もすぐに魔物が応える。
 「ウルクに仕え死期を悟った神官や巫女は、皆己の故郷に戻り墓所となる街に住むのだ そこで最後の時まで祈りを捧げる それに何も神官や巫女だけではない、その親族たちや墓守の一族もこの地に眠っている ……我はこの地……墓守の神殿の守護者、そうあるために生まれた」
 ウルク、墓守の神殿……恐らくは死者の眠りを永久に安寧なものにするべく創り出された場所なのだろうと、リュークは解釈する。
 (……神官や巫女ともなれば、魔道具の一つや二つ身に着けてそうだが……どのような信仰だったのだろうか?)
 そして、目の前の魔物はリュークのような盗掘者、またはさらにたちの悪いような何者か……それらからこの場所を守るために何らかの方法で創り出された存在、と言ってよかった。
 リュークが思索を巡らせていると、ずいと目の前に魔物が迫る。
 ふわりと、砂交じりの何とも言い難い、香木のような、香油のような官能的な薫りがリュークを包む。

 「汝の問いには答えたぞ 次は我の問いを応えてもらおうか」

 黄金の瞳が鋭く見細められる。その鋭い目つきと魔物の言葉に緊張するようにリュークは生唾を飲み込む。一体何を問われるというのだろうかと。


 「汝がいつもしている食事というもの あれは楽しいものなのか?」


 それは存外、気の抜けるような問いであった。
 もっと深淵な、真理に迫るような問いが来るかと思いきや、まさかと思うほど普通の……というよりも微笑ましい質問にリュークは少しばかり気の抜けた返事をしてしまう。
 「どうなのだ お前たち人間は常に何かを食べている……ともすれば楽しいものなのだろう 我も昔、果実を口にしたことがある だがあまり好ましくはなかった」
 この魔物も、食べることはあるらしい。なんとなしに、リュークはそう思う。だが、食わずとも生きては行けるのだろう。そうでなくてはこのような場所の護りを続けていくことはできない。もしくは、果実を口にした、というようにどこか食べに行っているのだろうか、そんな考えがリュークの頭の中でぐるぐると回る。
 「罪人よ、答えよ」
 「え、はい 食事……それはもちろん楽しい、というか食べないと死んでしまいますから ええ、美味しいものならもっと楽しいけれども」
 「美味しい、美味しい食事とはなんだ お前が食べているものは美味しいのか」
 「いや、あれは ……その」
 見るからに、いや、言外に圧力をかけるが如く魔物の顔が“お前がいつも食っているものをよこせ”と問いかけてくる。遺跡を守ることにしか興味がないのかと思いきや、思った以上に好奇心が旺盛なのか、それとも長い孤独の時を過ごせば、どのような強靭な意思を持ったものでもこうなってしまうのかわからなかったが、魔物はすんすんと鼻を鳴らしリュークが食べていた“食事”の残り香を嗅ぎつける。
 美しい顔と体が、何の遠慮もなしにリュークに近づけられる。だがその巨体である、結構な圧迫感があるうえに、もしも機嫌を損ね“では代わりにお前を喰ってやろう”などと言われてしまえばひとたまりもない……リュークの脳裏に浮かぶは出会い頭にやられた、あの胸の痛み……

 ……結局、リュークは貴重な食料の一部を魔物に“献上”させていただく運びとなった。

 もちろん、保存を最優先にした糧食である。決して“美味しい”ものでも上等な品ではない。だが、魔物からすればかなり久しぶりの“供物”なのだろう。無表情ながらも恐ろしく上機嫌であることがわかるほどであった。
 “多くの罪人はこのようにして我に許しを乞うたのだ お前もようやくわかってきたようだな”
 などと聞いてもいないことを口にさえしていた。

 献上の品は、乾パンと干し肉が一切れ、そして少しだけ盛られた塩……神に捧げるとすればあまりにもひもじいばかりの品ぞろえである。
 すんすんと、興味深げに魔物は乾パンの匂いを嗅ぐ。
 「ふむ、少しばかり芳ばしいが味気のない匂いだ ……んぐ 香りのとおり味気ないな、好ましくはない」
 一口で乾パンを飲み下し、次に干し肉に手を付ける。一見して、何の変哲もない干し肉。だが、魔物は非常に珍しいものを見るようにまじまじと見つめ匂いを嗅ぐ。
 「……これが肉か 初めて口にする」
 その言葉に、リュークは驚愕する。
 「我はこれを口にすることはなかった 我が身の穢れとなると言われてな まあ食わずとも死にはしないのだ、別段苦とは思わなかったが……せっかくの供物だ、いただくとしよう」
 一見、澄ましているが好奇心を抑えきれないのだろう。ややはしたなく思えるほどがぶりとかじりつく。硬いはずの干し肉だったが、魔物の力の前ではたちまちのうちに噛みちぎられ細かくなる。そのままもぐもぐと熱心に咀嚼されていき、ごくり、と飲み込まれる。
 「……なんとも不思議な味だ 干してあるとはいえ血生臭いものとばかり思っていたが、臭みがなく独特な風味が強い……なるほど、これが肉の味か」
 つんとした態度を装っているが、初めての肉に満足しているのだろうことが、なんとなく雰囲気で察せられた。そのまま最後に残った塩に爪先をつけぺろりと舐める。
 「ふむ、塩だな 塩辛い」
 そうですね、としか言いようのない感想を述べる魔物。
 そのままぺろぺろと塩を舐めとり、後には空となった供物入れだけが残る。 

 「うむ、お前の供物 しかといただいた ……慈悲を与え、奉仕を一日免除しよう 明日は一日休むとよい」
 滞在を一日、減らしてくれるわけではないのか……リュークはそう思いつつも、魔物に感謝の意を伝え、自らの仕事に戻ると告げる。このちょっとした出来事以外は、いつもと変わらない一日であった。
 夜、床に就いたリュークは思い返す。そう言えば、結局魔物の問いに答えていなかったと。食事は楽しいものなのか……まあ魔物は満足したようだし……そう思いなおし、目をつむる。明日は自由な……といっても逃げ出すことは許さないだろうと言えたが、もう少しこの遺跡を見て回ろうとリュークは考えるのであった。






 ……四日目の日の出とともに目を覚ましたリュークは、なんとなしに神殿の中を歩く。変わることなく、狭くもないが広くもない神殿の中、一番大きな部屋……広場には変わることなくこの神殿の守護者が鎮座している。全く微動だにしないその姿は、遠目から見たら美しい彫刻のようにも見えるかもしれぬと、リュークはぼんやりと思う。
 「目を覚ましたか 今日は一日好きに過ごすとよい ……この地と我に危害を加えるか、逃げない限り汝は自由だ」
 「わかっています……慈悲に感謝を」
 なんとなく、この魔物との付き合い方もわかってきたリュークは頭を下げて神殿の外に出る。相変わらず、太陽はこの地を照り付けていた。

 (しっかし、どうするかな……)

 仕事のない一日、もしも遥か昔、この街がまだ健在であったならば何かしらの娯楽にありつけたかもしれなかったが、今となっては何もない場所である。好きに過ごしても良いと言われても、ただぶらつくぐらいしかできないところであった。
 なんとなく、ちらりと後ろを振り向く。
 相も変わらず、無表情で彫刻の如く魔物は鎮座しているばかりである。だが、呼吸はしているのだろう、時折ゆっくりと胸元が揺れ動くのを目ざとくリュークは見つける。

 褐色の、豊かなものが……隠されることなく……ほんのりと色素の薄い蕾が……艶やかに光る玉肌……

 リュークの鼻の奥に、昨日嗅いだ官能的な薫りが、ほんのりと思い出される。
 (……まずいな、ここしばらく女日照りだったが……)
 むくむくと、己の中に欲望が沸き起こる。だが、いくら美しいとはいえあのような屈強な魔物に欲望を感じるなど……
 (だ、だめだ 我慢できない!)
 リュークも魔物娘に関しては無知ではなかったし、ある程度どういったものたちかは伝え聞いてもいた。だが、かといってすべての魔物娘が話に聞くように淫乱とも思えなかったのである。特に、あの魔物は守護者として生まれたと言っていただけに、そう言ったことに対し嫌悪感を持っていたとしてもおかしくはなかった。
 (ば……ばれたら俺のナニをもがれかねない!!)
 ただでさえお堅い魔物である。リュークは縮み上がりそうに……むしろその瞬間を期待したのか、より元気になった息子を抑えるようにそそくさと神殿を後にする。


 街一面を見渡せる神殿、そこから隠れるように建物の影にリュークは身を潜める。そのままちらちらと神殿と周囲を警戒するように確認をし、守護者がいないことを確認すると、ごそごそと己のいきり立つ息子を外に開放する。
 (まさか貰った休みですることがこんなこととは……)
 情けない、そう思いつつもこうもむらむらする気持ちは抑えようがなかった。
 目をつむり、記憶を掘り起こす。あの美しい魔物の姿を。

 ……つんと澄ました顔に相応しい、張りつめた乳房……そこがしっとりと汗が滲みながら己の一物を挟み、香油のように官能的な薫りを燻らせながら奉仕を……

 ……魔物の口に相応しい、肉厚で長い舌……それが息子に巻き付くように這わされ、口の中に頬張る……ゆっくりと吸い上げるように、甘く粘つく唾液を絡ませ……

 ……獣の下半身に相応しい、濃厚な薫りに脳が焼ける……ねっとりと粘ついて糸を引く花弁、そこに舌を這わせ……焼け付くような、その薫りと味を堪能し……頭を手で押さえられて……薫りと蜜で息が……


 (うっ! ……ふぅ   ……最低だ、俺って……)

 荒い息を吐き、己が欲望の発露を眺める。所詮は空想の中での真似事に過ぎないが、それでもあの魔物に対し、あからさまに欲望を向けるということは何となく禁忌を犯しているかのような奇妙な背徳感があった。
 しかし、とりあえず、どのような形であれ欲望を発露したことであの燃え滾るような欲望は鳴りを潜め思考の方もすっきりする。
 (……ここ最近まともな女に会ってないからだろうか……)
 リューク自身、魔物性愛の気はないつもりであったし、今までの人生の中で魔物に絡まれたことは数えるほどしかない。それもどれも野盗や強盗じみた戦いの中で、という形である。そこにおいてもリュークは幸か不幸か、魔物に捕まることも倒されることもなく、健在のままこうして冒険者としての人生を続けている。
 その自分が、あの恐ろしい魔物にこうした欲望を抱くこと自体、異常に思われた。
 (この環境が悪いんだ、そうに決まっている 早く解放されて、町に戻って女でも買えばこの気の迷いもなくなるに違いない ……それにしてもいっぱい出たな)



 ……リュークは己の欲望の後始末をした後は、本来の目的に戻り街の遺跡を散策する。
 やはり、どこの家も基本的に整理されており、めぼしいものは何も置いてないようであった。そもそもが神官や巫女の墓場として作られた街ということも含め、そうした俗世的な金品や欲望とは無縁なところだったのかもしれなかった。
 (……あの魔物は人々が去るところも見ていたのだろうか)
 己が守り、この地と共にあったはずの人々が次々と去っていく。それをただ見ているというのはどういった気持ちなのだろう。もしくは、最後まで共にあろうとした人々もいたのだろうか。だがそうした人々も次々と亡くなり、やがて最後の一人が息を引き取った後……あの魔物は……彼女は何を想ったのだろうか……


 ……陽が暮れる頃、リュークは何となく気後れする感じで神殿の前に立つ。神殿の奥では相変わらず、件の魔物が静かに鎮座している。結局、暫く神殿の装飾を眺めるふりをして時間を潰しつつ気まずくならない程度にゆっくりと神殿の中に入る。
 足が神殿に踏み入られると同時に、魔物の黄金色の瞳がリュークを射抜く。それはまるで昼間の……一人慰みを……咎めるように見え、リュークは黙って首を垂れるとそそくさと己の部屋に戻る。

 その様子に、怪訝なものを感じ取った魔物はなんとなしにすんと臭いをかぐ。
 (……なんだ? よくわからぬ生臭い匂いが……ふむ、何とも癖になりそうな匂いだな……)
 嗅いだことのない、奇妙な匂い。
 それもそのはずで、かつてこの墓守の神殿が健在であったころ、守護者たる魔物の世話役はすべて巫女の手によって執り行われていただけでなく、男性が魔物と謁見する際や供物をささげる際には必ず身を清めることを徹底されていたからである。

 (……落ち着かないな)
 ほんのりと、股座がむず痒いような、胸先が痺れるような、そんな奇妙な心地に浸る。今までにない、体の不調に魔物は不満げに顔をしかめると、己の使命に集中するべくその意識を外により一層強く向けるのであった。

 ……その夜、座所にて何度も落ち着かぬ様子で腰を上げたり降ろしたりする魔物であったが、その閉ざされた聖櫃から蜜がとろりと垂れていたのは……魔物を含め、誰も知らないことであった……






 ……「罪人よ、今日からは墓所の清めを命じる お前のおかげで神殿の清めは大分進められた 感謝するぞ」
 翌日、五日目の朝。男は魔物から新たな仕事……といっても内容は変わらず掃除であったが、墓所つまりはあの立ち並んだ石碑を掃除するように命じられる。
 魔物との数少ない交流から、この石碑が立ち並ぶ墓所を守るためにこの魔物は存在しているとのことから、そこの清掃を任せるということはそれなりに信用されたのだろうかと、リュークは思う。
 朝の挨拶もそこそこに、リュークは道具をまとめ墓所の清掃に向かう。神殿とは違い、墓所は広大であった。そもそもが墓所としての機能がこの街の存在意義であったことを考えれば当然であった。
 (……これは骨が折れそうだ)
 やることは数限りなくある。そうリュークは腹をくくると、さっそく掃除に取り掛かるのであった。

 (なんだろう、街中に比べて草が多いな いったいここに何があるのだろうか)
 枯草を払い、砂をはたき落とし、必要であれば布で軽くふき取る。やることは単純で一つ一つはそう時間がかかる内容ではなかったが、何分数が膨大であった。だがそれでも、多少手を抜きつつ……急いで回れば何とか仕事納めの七日目の日没までには終わりそうであった。
 (せっかくやるんだ、どうせならキリがいいところまでやらないとな)
 雇われ冒険者の性か、それとも本人の生真面目さか、どちらにせよ任せられた以上はやり遂げたいという奇妙な責任感をもってリュークは作業を進めていく。

 (やっぱり、草が多い 明らかに生えている量が街中と違う)
 昼時、リュークはなんとなしに石碑のよこに座って乾パンをかじりながら草を触り、辺りを見回すと疑問を感じる。どう考えても水路があり、水気があり、適度に日陰もある街中の方が草花が生えるには適しているように思えたが、この墓所に比べると明らかに生えている量が少なかった。また、墓所も草が生い茂っている場所とそうでない場所があり、その違いをよくよく観察してみるとあることにリュークは気づく。
 (……どういうことだ? 神殿、神殿だ そこを中心に草花が広がっている)
 そう、草花が最も生い茂っているのは、あの魔物が鎮座する神殿の周りであった。そこを中心に、墓所、そして街中へと草花が広がり、そして町の出入り口となる神殿の真向かいに至っては殆どリュークが抜けてきた死の大地と同じ、何も生えていなかった。
 その奇妙な事実に、リュークはやはりあの神殿には何か魔導器関係のお宝があるのではないかと考えるも、首を振りその考えをかき消す。
 (たとえ何かあったとしても、俺の力じゃ彼女を……魔物をどうにかすることはできないだろうしな)
 それに、もしかしたら守護者たる魔物の存在自体が、何かしらの不思議な作用をもたらしているのかもしれない。
 食事を終え、リュークは立ち上がると再び道具を手に持ち己の仕事に取り掛かるのであった。



 ……六日目、何事もなく仕事を進めていくリューク。そして同じく昼餉の時間、石碑の横に座り乾パンと干し肉を齧っていたところ珍しいところを見つける。
 魔物が神殿からのそのそと出てきたのである。
 (なんだ? どこかに行くつもりか?)
 なんとなしに、そっと身を隠すように伏せ様子を窺う。すると、魔物は大きく翼を広げ、その体を伸ばすと……羽をたたみ、神殿の傍の草花の茂みに歩むとその場にしゃがみ何かを探し始める。
 暫くして、目的のものを見つけたのか立ち上がると、とある石碑……墓標の前に立ち、屈む。
 (……そうか、花を供えて……)
 三日前、そして最初の出会いの時に見た花。それを供えていたようであった。
 そして魔物は息を吸い、祈るように腕を組むと……再び、あの歌を謡い始める。もの悲しい、墓守の歌。この地を守り、眠りを守ると誓う、魔物の歌。



 ……歌い終わる頃合いを狙って、そっとリュークは近寄る。
 「お前か、何用だ」
 だが、あっさりと魔物に感づかれる。
 リュークは少し気恥ずかし気に墓標の影から姿を現し魔物に問いかける。
 「いや……その…… その墓、大切な人のものなんですか」
 三日前から、気にはなっていた。これだけ広い墓所にも関わず、魔物が花を供えるのはその墓だけだったからである。掃除を進めても、花が供えられている墓は一つもない。だとすれば、わざわざ魔物が自らの任を一時解いてまで花を探し、供え、そして歌を捧げるほどのものとなれば……魔物にとっては大切な人であった可能性が高い。純粋な好奇心から、というのは失礼だったかもしれないが、リュークはもっと魔物のことを知りたくなってきていた。
 リュークの問いに、黄金の瞳が微かに揺らぐ。

 「……そうだ」
 肯定、そして静かに語り始める。

 「この墓は、我の世話を命じられた……巫女たちのものだ 我の世話だけを使命に、孤児から選ばれ育てられる 少女から我に仕え、そして老いて死ぬまで我から離れぬ 我の世話以外、何もできぬ、何も知らぬ……お前のような男と話すことも、誰かと子を成すこともせぬまま……最後は名すらも墓に刻まれることなく、こうして一つの墓に納められる ただ我に仕えた、ということだけを記されて」
 そう淡々と短く語る魔物の目に、かつての在りし日……ともにこの神殿を守った巫女たちの顔が浮かんでは消えていく……そんな錯覚にリュークは陥る。
 「……この地を守る我の……せめてもの慰めなのだ たとえここが滅び忘れ去られようとも、我はこのものたちと共にある 永遠にな」
 かつての帝国、その風習なのだろう。
 リュークは何も言わず、魔物を見る。その姿にいつもの雄大さはなく、まるで忘れ去られ風化を待つ……名もなき女神像のようにもの悲しく映る。

 「お前も、もう間もなく去るのだろう?」

 ふいに、魔物がリュークに問う。
 その問いに、リュークはなんとなしに肯定の意を示す。

 「……そうか」

 ただ小さく、そう呟くと……魔物は再びのしのしと己が守護する神殿、その座所へと戻る。

 ……だが、その姿はまるで自らの檻に戻る獣にも似ていた……






 ……七日目、いよいよ最後の奉仕の日を迎えるリューク。
 いつものように、日の出とともに目覚め、神殿の守護者に挨拶をする。

 「罪人よ、今日で最後であるな ……しっかりと奉仕するのだぞ」
 心なしか、声が暗く聞こえる。
 「わかっています」
 リュークの返事に、満足げに頷くと、魔物は視線を街に戻す。
 (……どうして……)
 どうして、ただリュークはそう思った。

 どうして…… それは、問いもなければ、答えもない

 ただただ、寂しく、悲しい言霊。


 いつものように、墓所の掃除を進めていく。もうだいぶ、この仕事にも慣れたものであった。枯草を払い、砂を落とし、手早く拭いていく。昼餉になれば乾パンと干し肉を齧り、塩を舐めて水を飲む。そして再び仕事に戻る。
 今日は一日、魔物は神殿の中で鎮座し続けていた。リュークも仕事に集中し、陽が傾き、そして日没に至るまでの間に見事墓所の清掃を終えたのであった。
 もちろん、少しばかり手は抜いていたが、それでも全体的に見れば見違えるほどであった。

 「よし……」
 誰に言うまでもなく、リュークは己の仕事を満足げに眺める。僅かな間とはいえ、人の手が入るだけでこうも違うとは、リュークにとっても思いもよらないことであった。
 (これで、最後……だな)
 そう、静かに神殿の方を眺める。
 もう食料も、大分心もとない。戻りは手早く、確実に行わなければならないだろう。明日の朝、すぐに発ちあの宿場町を目指さねばならなかった。
 そう考えると、リュークは仕事の終わりを報告するために神殿へと向かう。

 神殿の中では、相変わらず彫刻のように街を見守る魔物が静かに鎮座していた。

 「……終わりました」
 まだ、僅かに日は残っている。けれど、やるべきことは終えた。そうリュークは告げる。

 「罪人よ、ご苦労であった ……では、次の奉仕を命じる」

 まだあるのか、もう間もなく陽が落ちるというのに……あきれつつも、リュークは約定通り命に応じる。
 (何を言われるのやら……)

 「罪人よ、我の前に立つがよい ……もっとだ、もっと近く」

 奇妙な、不可解な命。リュークは恐る恐る魔物へと近づいていく。近づけば近づくほど、目の前の魔物の雄大さ、巨体が目立つ。やはり、勝てそうにない。その巨大さを感じたリュークの脳裏によぎるは、これが褒賞だとばかりに爪を振り下ろす魔物の姿であった。
 もちろん、そんなことはしないだろうという根拠のない確信はあったが、やはり怖かった。

 魔物の眼前に、リュークは立つ。
 その瞬間であった、魔物の腕が広げられその鋭い爪が光る。

 一瞬の恐怖、それにリュークが身を強張らせた瞬間であった。

 ぎゅっと力強く、それでいて心地よい温もりと官能的な薫りがリュークを包む。

 痛みも、苦しみもない、その事実に恐る恐るリュークが目を開けると……リュークは抱かれていた、魔物の腕の中に……包まれるように。
 (な、なんだ…… これは……心地いい……)
 巨体故の、まるで幼子に戻り母に抱かれているかのような錯覚。初めて触れる、魔物の肌は張りつめるように瑞々しくも柔らかく、この世のものとは思えぬ肌触りであった。

 とく、とく、と心臓の音が重なる

 魔物は何も言わず、ただリュークを抱きしめた。
 抱きしめ続けた。



 ……陽が、落ちる……



 魔物は、リュークを離すと再び己の座所に腰を落ち着け。淡々と告げる。

 「罪人よ、汝は罪を贖い、良く奉仕した……故に我が命をもって汝の罪を許す 汝は自由だ……冒険者よ」
 「……あ……ああ」
 実感の湧かない、最後の瞬間、最後の奉仕。

 「……明日、旅立つのだろう 夜明けまで、あの部屋は好きに使うと良い……あそこはお前の部屋だ、この地を去る……その時まで」
 そう言って、魔物は微笑む。
 リュークは、どうしてかその微笑みを見ることができなかった。どうしようもなく、つらく感じた。
 どうして……、ただその問いだけが、頭の中をぐるぐると回る。


 最後の夜、リュークは眠ることができなかった











 ……最後の朝、日の出の刻。
 リュークは部屋を片付け、身支度を済ませると部屋を出る。振り返ることなく、神殿の廊下を通り、魔物の座所へと向かう。

 魔物は変わることなく、悠久の時をただ見守り続けている

 「目が覚めたか、冒険者よ ……別れの時だな」
 いつもと変わらない、だというのにどうしてか、とてももの悲しく響く魔物の声。
 「……はい」
 「……せめてもの餞別だ……見送ろう、我が守るこの地の……果てまでな」

 そう告げ、ゆっくりとその身を起こす。
 魔物とリュークは、並んで神殿を出る。


 広がる墓所を、巫女たちの墓を横切り


 かつての墓守たちの街を、家々を越え


 街に至る階段と水路、それを登る


 ただ静かに、一言も喋らずに、時が流れる。
 門の前にたどり着く。

 門は変わることなく、吹きすさぶ砂塵を外界よりこの地へと届けていた。その砂塵を受け、リュークは己の帰るべき場所を、そこまでの道のりを思い出す。

 「礼を言おう、リューク」
 魔物が告げる。
 「お前は我に思い出させてくれた ……我の存在、そしてこの地の存在を」

 「……お別れだな、リューク 何も渡せぬ我を許してくれ   ……一つ問いたい……我の歌は、好ましいか?」

 リュークは、頷く。

 「そうか ならば謡おう、お前のために ……巫女の一人が教えてくれた歌が、一つある……愛の歌だそうだ、愛とはとても好ましい、幸福なものだと聞いている ……お前は良い人間だ、少しばかり欲深いが……根は誠実だ ……だから幸福になってほしい、それを願って謡おう」

 さあ、ゆけ



 魔物の声に押され、リュークの足が動く。
 門を通り、暗い通路を進む。

 砂塵に混じり、歌声が響く。

 リュークを導いた歌声が、彼を送り出す。

 人間は戻る、門を抜け……己がいた世界、時が刻まれ流れゆく世界へと……





 ……砂塵が舞う、歌声と、一人の男の影が混じりながら……

























……とある王国の学院にて、戸が開かれる。
 一人の男が地図を抱え、受付へと至ると地図と“依頼書”を放り投げ一言告げる。









 「失効だ 二年経ったぞ」



 ……男は王国の事務員であった。
 「ああ! ようやくですか……正直、ほっとしましたよ」
 学院の受付の事務員が安堵するように書類を受け取る。
 「だろうな、ずいぶんと破格の報酬設定だ」
 「まったくですよ 学者先生にも困ったものです……何度言ってもあの場所には絶対何かがあるといって聞かないんですから 調査するのは良いんですけどね、きちんと決められた金額や予算のうちに収めて貰わないと……その依頼もすぐに取り下げたんですけどね、新人の事務員が一人の冒険者に受注させてしまっていてずっと気がかりだったんですよ、いや本当に……」
 そう言って事務員は笑いながら依頼書に失効印を押すと、“失効届”と書かれた箱に地図と依頼書を投函する。
 「だが、正規の報酬設定だと誰もいかないのだろう? 危険すぎてな 実際、戻った奴はいない」
 「そもそも何もないんですよ、あそこ 草木一本生えないし、常にカンカン照りで岩や砂ばかり……何かあったとしても、発掘作業をしようものなら学院の予算が吹っ飛んでしまいますよ 魔物すらも嫌って近づかない、呪われた地です」
 「まあ、だからこそ何かあると思ってしまうのかもな」
 「こちらとしてはいい迷惑ですよ……何はともあれ、これで少しばかり安心しました よい便りをありがとう、良い一日を」
 「どういたしまして、それでは」

 事務員同士、軽く会釈をすると、王国の事務員は学院を後にする。
 扉が閉まり、再び学院内にはただ筆を走らせ、何かを書き留める音だけが響くのであった。


22/10/10 19:09更新 / 御茶梟
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■作者メッセージ
読んでいただき、ありがとうございます。

砂塵の歌、としましては本編はこの一話でお終いです。
後の話は蛇足、という形になると思います。

ともあれ、お楽しみいただけたのでしたら幸いです。

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