虎乱春来
……変異が起きて七日。
何もわからぬまま、何も進まぬまま七回朝と夜が廻る。あちこちが修繕され、まだまだ痛んでいたものの少しばかり人が住む分には申し分なくなってきた仙石楼に朝日が当たる。その中の、変わることのない朝餉の時分。
相変わらず、ティエンは文句ひとつなく生真面目な様子でタオフーたちの朝食を用意していた。
ふわりとした柔らかな薫りを燻らせながら、朝食の雑炊が鍋の中で程よく煮えていた。天崙山でとれる雑穀と山菜を煮た質素なものだが、滋養に溢れ重くなりすぎない、適度な朝食という意味では最適な品物であった。
「よっ! ティエン!」
ぱたぱたとすばしっこくフオインが食堂に入り、ティエンに手を振る。その明るい顔つきはすっかりティエンに懐いた少女のようであり、今日の朝食を心待ちにしていたのであった。
「おはようございます」
そこから少し遅れて、ヘイランがゆっくりと食堂に入る。
「おはようございます 今日もすみませんね、ティエンさん」
「おはようございます、ヘイランさん どうぞ座ってください」
いつものように、座っていく彼女たちを前にティエンはよそった粥を置いていく。七日もたてばお互いの定位置というものがある程度定まり、適度な距離感というものも出てくるものであった。そして、今日はその定位置にまだ収まっていないものが一人、いた。
「……タオフーのやつはどうしたんだ?」
最初に声を上げたのはフオインであった。別に待つ必要はないのだが、僅かな間とはいえ食事の時間は四人そろって食べるのが当たり前だっただけに、それが揃わないというのは妙な居心地の悪さがあった。それに加えて、フオインにも一応の仲間意識というものはあった。それを抜きにしても何かと礼儀だなんだと口うるさいタオフーを差し置いて先に食べるというのは遠慮したかったが、それ以上に腹が減っていたというのもあり目の前の粥が冷めてしまう前に匙をつけたいという気持ちの方が大きかったのである。
「今日はまだ見てませんねえ」
フオインほどではなかったが、ヘイランもまた食事は早く始めたかった。日がな一日何をするわけでもないが、楽しみには違いない食事をお預けされるというのはヘイランにとっても好ましくはないことである。ただ、ヘイランは別段タオフーの癇癪を気にするような性分ではなかったので我慢が切れれば勝手に食べ始めたであろうが、なんとなく真っ先に口をつけるというのははしたなく感じられ、手を付けずにいた。
「……自分が様子を見てきます お二人は先に食べていてください」
短い間とはいえ、今までにないことだけに少し不安を感じたティエンは様子を見に行くことに決める。
ティエンの言葉を聞き、やったぜとばかりに匙を口に運び始めるフオイン。その様子をあきれた様子で眺めつつも、タオフーを待つのもバカらしいとばかりにヘイランも食べ始める。
(一体どうしたのだろうか……?)
その様子を見送りつつ、ティエンはタオフーの部屋へと向かうのであった。
……仙石楼の二階、その奥で虎の唸り声が響き渡る。
低く、歯を食いしばるようなその声を聴こうものならば、大抵のものは恐怖に足をすくませるであろう、そんな音であった。それほどまでに、その声音は怒りと怨嗟に満ちたもののように響いていたが、それはタオフーの今の状態には当てはまらなかった。実際のところ、タオフーは寝床に蹲りながら恨めし気に虚空を睨みつけてはいたが、それはひとえに誰か氏らを恨んでのことではなく、己の体の異変に困惑してのことであった。
「うっ……お、ぅっ! ぐぅぅ!」
唸り声とともにびくん、とタオフーの腰が跳ねる。事の起こりは妙なまでの寝苦しさと火照りを深夜に感じ始めた時からであった。タオフーは当初、いつも通りの奇妙な火照りだろうと高をくくり再び目を閉じるも、それは治まるどころかより熱く、強く、衝動的なまでの“熱”となってタオフーを苛め始めていった。よもや、変異が解けようとしているのではとタオフーは期待したがそんなことはなく、ただ抑えようのない熱が際限なく燃え上がり続け朝となる頃には全身がじっとりと汗ばみ、腹の奥が特に熱く蠢くという今まで感じたことのない感覚に悶えることになってしまっていた。
「うっ! うっ!」
力は、入る。立とうと思えば、立てたであろう。しかし、何か情動的な何かに思考を支配され、焼けつくような疼きに全身が侵されているという未知の感覚にタオフーはすっかり混乱し、ただその顔をぐしゃぐしゃに涙と涎で汚しながら寝床で蹲るしかなかったのである。
「はあっ! はぁぁ……ううっ!」
きゅるる、と聞き慣れぬ音が下腹部から響き、ひどく熱の籠った“何か”が股を濡らす。それが汗とは違う何かであることは、粘る感触と燃え立ち燻ぶるような“ニオイ”でタオフーは感づいていた。何も己の体について無知ではない。無知ではなかったが、制御できると、わかっているつもりであった。
ぐちゃぐちゃに蠢く理性を何とかかき集め、床から身を起こそうと力を籠める。何が何でも、この姿を見られるわけにはいかないと、タオフーは歯を食いしばる。このような、乱れた、弱みを見せることは絶対強者として天崙山に君臨していたタオフーにとって死にも等しい恥辱であったからである。
「おっ! おぉぉっ!!」
しかし、力を籠めて立とうとした瞬間。泥が噴き出すような粘った音とともに下腹部がきゅうっと締るような感触とともに脳天が焼き付くような刺激がタオフーを襲う。まるで何か、本能的な衝動がここから自身を逃がすまいとしているかのようであった。実際のところ、タオフーは薄々感づいていた。感づいていたが、認めるわけにはいかなかった。
ひくりと、鼻が動く。
「あ、あ、うっ ぐぅぅッ!」
鼻腔に広がる、匂い。疼く、疼く、胎が疼く。タオフーの意識がドロドロに溶けていく。何者かが近づいてくる。それを待ち望んでいると、本能が燃え盛る。全身が、熱く湯気を吐き出すほどに濡れていく。
己が体の、花が咲く。蜜を滴らせたそれは、待ち望む。
だが、それを認めるわけにはいかぬと、虎は牙を剥く。
ただで摘ませるほど、虎の花は安くはないのだ。
たん、たんと規則正しく階段を上がる音が響く。
音の主であるティエンは仙石楼の二階、その奥に位置するタオフーの部屋を目指して階段を上がっている途中であった。
一見して静かな、いつもと変わることのない仙石楼であったが、宿舎に入ってすぐから既に異様な雰囲気が二階に漂っていることをティエンは察知していた。言い表してみれば、何か粘つくような異様な湿気のような気配が色濃く漂っていたのである。うっかり、深く息を吸おうものならば暫しの間呆けてしまうような、そんな妙な毒気を含んだ瘴気のようなものが廊下……仙石楼の宿舎を包んでいる。
(朝、起きた時は気づかなかったが……)
その異様な雰囲気に、ティエンは警戒しつつも早足にタオフーの部屋を目指す。何か問題が起きているのは確かなことであったが、何はともあれタオフーの無事を確認することが今のティエンにとっては急務だったからである。
二階に上がり、一歩一歩用心しながらもいつもと変わらない足取りで奥の部屋へと向かう。古く痛んだ床板が、みしりと足に合わせて踏み鳴らされる。二階は、静かであった。静かすぎるといっても良いほどの静かさとより色濃く粘つく空気が、ティエンの肌を撫でる。閉じられた戸、その前に立ったティエンはゆっくりとその手を上げ、戸を叩き声を上げようとする。振り下ろされた手が、扉に触れる直前。
ティエンは後ろに飛び退く。
瞬間、戸から鋭い爪が突き出る。
恐ろしく早く鋭い貫手が、殆ど音もなく戸を打ち貫きティエンの顔面を捉えようとしていた。白銀の毛皮に彩られた、鋭い爪。それを持つものは、ティエンが知る限りは二人のみ。
(もしや! ライフーか!?)
いつの間にか戻っていたのか、そうティエンが考え構えた時、戸に突き刺さった爪がそのまま下に引き下げられていく。ばりばりと、襖戸を破り砕いていくかのように堅木でできた戸が破壊され、強襲の主がその姿を現す。
「! タオフー殿!」
そこにいたのは、殺気を迸らせるが如く目を血走らせ、白銀の髪を振り乱した阿修羅の如き姿のタオフーであった。全身から湯気を放ち、唸り声とともに牙を剥いた姿はとてもではないが正気であるとは、ティエンには思えなかった。
瞬間、床を蹴破る音とともにタオフーの姿が消える。
ティエンは素早く、腕を交差させ振り下ろされたタオフーの剛腕を防ぐ。床を跳ね、天井を踏みしめティエンめがけて飛ぶと同時に振り下ろされたその爪撃は重く速く、並みの一撃ではなかった。その一撃を受け、みしりと、骨と床が軋む。
だが、ティエンは素早く腕を広げるようにしてタオフーの腕を弾くとばねのように体をしならせ跳ねると距離を取る。
「タオフー殿!」
叫び、その声を張り上げるもタオフーには届かない。一閃、即座に間合いを詰めたタオフーの爪がティエンの鼻先を掠る。あまりにも鋭い、爪と蹴り、そして鞭の如くしなる尾の連撃が間断なく放たれる、そのどれをとってもまともに喰らえば絶命はまぬかれないほどの威力を秘めていたが、ティエンは捌き防ぎ、そして躱していく。だが、虎の猛攻を人の身で防ぎ続けるのは無理があり、骨は軋み、皮膚は裂け、致命傷は負わずとも小さな傷が積み重なっていく。
(このままではッ!)
押し切られる、そう判断したティエンは連撃の隙を狙い、タオフーの胴を掌底で打ち飛ばすと、そのまま横に跳ねて戸を破り窓から仙石楼の外に飛び出す。
大地へと降り立ち、試合場へと走るとそこでティエンは立ち止まる。追って、タオフーが同じように壁をぶち破り、まるで本物の虎の如く四足でティエンへと走り来る。その動きは襲い来る猛虎そのものであり、警戒するように唸り声をあげティエンを睨みつけていた。その様子から、やはりただ事ではないとティエンは確信し、それと同時に申し訳なく思いつつも声を荒げ構えをとる。
「……我が名はティエン タオフー殿、貴女に一騎打ちを申し渡す!」
話が通じぬのならば、拳で通すしかない。霧の大陸の長い歴史において、人も魔も、そして怪力乱神果ては神仙すらも是とする究極の不文律。
我が道、武を以て示す
「来い! タオフー!」
不遜ながら、ティエンはこの一戦を望んでもいた。会った当初から、ただものではないと、タオフーのことを思っていたからである。望んだ形ではないが、それでも三獣拳士ライフーを兄に持つ、人虎の魔物。その実力はやはり素晴らしいものであったことは、先の一戦でわかっていた。ややもすれば、ライフーと匹敵するかもしれない。その武すら打ち破れずして、ライフーを破れようか。
咆哮、跳躍。
荒れ狂う猛虎の如く牙と爪がティエンを襲う。
鋭い牙を躱し、続けざまに襲う足蹴とその爪を掌底で受け流すティエンにしなる尾が打たれるも、それもまた躱してティエンは独楽の如く回転し逆立ちのように地を掴むタオフーの両手を払わんと回し蹴りを放つ。
風を切るその一閃を、タオフーは軽々と地を砕き飛び躱すとくるりと回転するとふわりと大地に降り立つ。だが、地に足が付いた途端素早く間合いを詰め、手刀を薙ぐ。岩すら穿ち斬り砕くその刃をティエンは躱し、即座に合わせて拳を薙いだことで開いたタオフーの胸元に撃つ。砲弾の如き拳打を受け、タオフーは怯む。
「フウッ!」
好機、そうと見たティエンはさらに続けて二発、拳を撃ち込み続けざまに怯ませると己が拳を組み打ち上げるように肘鉄をタオフーの顎に放つ。鋭い衝撃とともに、顎を打ち上げられたタオフー。そのままとどめとばかりにティエンは身を捩じり、回し蹴りを喉元目掛け放つ。
だが、その蹴りは宙を掠める。
しなやかに、倒れこむように地に落ちながらもタオフーは身を捻り爪を逆立てた蹴りを放つと同時に素早く距離を取る。その爪はティエンの足を切り裂き、紅い鮮血が宙に迸る。
「ぐぅッ!」
不覚。だが、タオフーも傷を負わせることよりも離れることを優先したためかそこまで深くは入っていなかった。
そのままタオフーは距離を取ると、唸り警戒するようにティエンを睨む。
「……流石です、タオフー」
聞こえているかわからぬが、ティエンはタオフーに語りかける。やはり、ライフーに勝らずとも劣らない、素晴らしい武人であるとティエンは確信する。
(しかし、この戦い方は……まるで……ライフー殿の生き写し あまりにも見事!)
この戦い、一切気を抜くことはできない。少しでも力及ばねば、油断をすれば、死ぬは己。
(ライフー殿との約定を果たすまで、このティエン……果てるわけにはいかぬ!)
次は、己から攻める。そう決めたティエンは素早く地を蹴り、タオフーに肉薄する。そのままぶつかるように力を込めた拳を放つ。当然、そのような見え透いた一撃などタオフーに届きはしない。だが、防がれると同時にそのまま渾身の力を籠め、蹴りを、拳を、絶え間なく打ち込む。人の身とは思えぬほど、重く、鋭い連撃。いくら魔物である人虎といえども、ただ耐えるように防ぎ続けるのは無理があった。逃れ得ようと、タオフーが一歩身を引こうとしたその瞬間。
それを待っていた、と言わんばかりにティエンは素早く間合いを詰めると腰を深く落としあらん限りの力を籠めた正拳をタオフーの腹へと放つ。その一撃は正確にタオフーを打ち貫き、後ろへと弾き飛ばす。
いくら魔物といえども、女性に対し余りにも容赦のない一撃。だが、それこそ武人として道を究めんとするティエンの矜持であった。そして、そうしたティエンの強い意思こそ、タオフーが……ライフーが認めた者の所以である。
(手応えあり!)
ここでさらなる追撃をかける手もあったが、それを流石に許しはしないだろうとティエンは警戒するようにタオフーの様子を窺う。
事実、腹を打たれたタオフーはもがくように身を震わせているものの、両足はしかと大地を踏みしめ、両目は爛々と燃えティエンの動きを見極めんと鋭い視線を投げかけていた。その様は隙が有るようで無く、迂闊な追撃は手痛い反撃となって返ってくることだろうことは容易に予想できた。実際、ティエンは一度その手痛い反撃を受けたことがあった。
“虎は、傷を負ってからが全力よ”
かつてライフーが口にした言葉。
それは紛うことなくライフーの武を現しており、戦えば戦うほど、その命を散らせば散らすほどにその武は鋭く重く苛烈に極まっていく。その武を継承していると、間違いなく断言できるタオフーであれば当然、一撃をもらった次の瞬間こそが武の本領といっても良い。タオフーの両目が光り、その牙が向かれる。怒りに満ちたかのようなその顔つきとは裏腹に、どこかその表情は歓喜ともとれる揺らぎが含まれてもいた。
その時である、食堂の方から騒ぎを聞きつけた……おかわりも含めて食事も食べ終わった……フオインとヘイランが何事かといった表情で仙石楼から出てくる。それを見た瞬間、タオフーの表情が不快に染まる。それを見た瞬間、直感的にティエンはタオフーの矛先が自分ではなくフオインたちに向けられつつあることを理解する。
(不味い!)
今のタオフーは危険すぎる。咄嗟に、迷うことなくティエンはタオフーに挑みかかっていく。流石のタオフーも、目の前で拳を振り上げているティエンを無視することはできずにその拳を受け止め、そのまま肉薄したまま互いに連撃を打ち合う。素早く、鋭く繰り出される拳打を掌底や腕で受け流し、棍棒の如く薙ぐ蹴りや尾を飛び跳ね躱し、時に受ける。だが、そうした組手は一度組んでしまえばそう容易くは……致命の一撃となりかねない打撃を受けぬ限りは……抜けられぬ危険なものであった。特に、基礎的な能力が違いすぎる人間と魔物の組手は、魔物が圧倒的に有利といっても良かった。事実、ティエンの全身は既に悲鳴を上げ始めているにも限らず、タオフーの方は余裕と狂喜の笑みすら浮かび始めていた。
重い、タオフーの手刀を受けたティエンの腕がミシリと啼く。そのままくるりと捻るように薙がれた蹴りがティエンの足を打つ。
「ぐッ!」
鈍い痛みとともに、膝が曲がる。次の瞬間、ティエンの脇腹に棍棒の如く強烈な衝撃が襲い掛かり、そのまま弾き飛ばされる。
(ッ! しまった……っ!)
鞭のようにしなやかで、棍のように重い尾の一撃をまともに受けてしまったティエンは何とか受け身を取るも、片膝をついてしまう。
「ティエン!」
その様子を見たフオインが叫ぶ。咄嗟に駆け寄ろうとしたフオインを見たタオフーは、足を大きく踏み鳴らし大地を砕く。その衝撃によって宙に浮いた石をタオフーは蹴りつけ、フオインとヘイラン目掛けて飛礫を叩きつける。
「! てめえ!」
「おお! あぶな!」
フオインは素早く礫を躱し、タオフーを睨む。ヘイランは片腕を回し危なげもなく礫を打ち砕き、大げさに驚く。その様子に、さらなる激昂を見せるタオフー。
「くっ……フオイン殿、ヘイラン殿 逃げてください! タオフー殿は正気じゃない!」
何とか立ち上がり、叫ぶティエン。
「ええ!? どういうことだよ!」
困惑するフオインに対し、ヘイランは妙に得心した様子でタオフーの方を見ると、素早くその身を翻しフオインをかっさらうように抱きかかえるとその場を離れる。
「あ!? おい! 何すんだよ! ウッ! 苦しい! おい、じじぃ……!」
「いいから離れるぞ! 今のアイツはやばい!」
ぎゃいぎゃいと喚くフオインを、ぎりぎりと締め上げるようにして黙らせヘイランはその場を離れていく。その様子を見て、少し安堵するとティエンは再び暴れ狂う猛虎へと向かい合い構えをとる。狂乱に満ちているようでありながらその動きや構えに隙は殆どない。ただそれだけでタオフーの修めた武の道が生半可なものではないことが伺えた。ゆえに、なぜこのような狂乱に堕ちることになったのかがティエンにはわからなかった。
そんなティエンの逡巡など素知らぬように、タオフーは再び咆哮を上げる。
(来る!)
地を蹴り、飛ぶように跳ねる。じくざくと雷のように跳ね駆ける。恐るべき速度で迫りくるその様はまさに白金の雷そのものであり、同時に弱った体では見切ることの出来ない恐るべき一撃でもあった。
瞬閃、恐るべき剛腕がティエンの体にめり込む。
息が詰まり、体が宙に浮かぶ感覚だけが間延びしていく
僅かな一瞬。寸でのところで見切り、その一撃を防ぐもその威力は防ぎきれるようなものではなく、大きくティエンの体を吹き飛ばす。そのまま仙石楼の外に弾き飛ばされたティエンの体は竹林の中に叩きつけられる。
衝撃とともに、飛び抜けていた意識がティエンの中に揺り戻される。
「うっ……くぅ!」
みしりと、体が悲鳴を上げる。だが、伏せるわけにはいかなかった。雷が、白金の疾風がティエンに迫っていた。軽々と、ティエンが吹き飛ばされた距離を飛び越えタオフーが降り立つ。
恐るべきは、飢えた虎の執念。
決して獲物を逃さない、そう告げるようにタオフーは嗤うように唸る。常人であれば、既に死ぬか、もしくは戦意を完全に喪失していたであろう。
だが、ティエンは立つ。
ふらつくことなく、しっかりと、両足を踏みしめ構えをとる。
その目は怯えも、恐れもなく、虎の両目を射抜いていた。
タオフーは歓喜に打ち震える。
これこそ、これこそ好敵手。屠るに値する敵。燃えるように全身が熱くなる。意思が全て、紅く染まり、叫ぶ。
さあ! 我と果たせ!
叫びとともに、間合いを飛び詰め爪を振るう。
その爪の根元を掌底で弾き、ティエンの拳がタオフーの腹を打つ。ずぐんと、深く響く一撃。だがまるで効かぬようにタオフーは身を捩じりその尾と蹴りを合わせ放つ。その一閃を一瞬で地に這うが如く低く体を沈め躱す。そのままティエンは足払いをかけるも、確かな感触とは裏腹に岩の如くその足は動かない。だが、その衝撃をばねにするがの如くティエンもその身を回し立つと連撃の蹴りを膝、腰、脇腹と交差するように放ち、それを受け怯んだタオフーにとどめとばかりに顎に打ち上げた拳を食らわせる。
脳を揺らされ、視界が明滅するもタオフーは止まらない。高笑いするかの如く吼えると素早く爪を薙ぐ。ティエンに受け流されるも、そのままタオフーは獣のように這うとそのまま猛獣の如く唸り飛び跳ねながら爪を打ち、その牙を剥く。低く、それでいて鋭く受ければ骨をすらも断ち砕く一撃が交差するように飛び交う。だが、ティエンもまたそれを凌ぐ速さで見切り躱し続け、そして時にタオフーの背を飛び越えるかのようにして跳ねる。数度爪と牙が空を舞ったのち、埒が明かぬと苛立ったタオフーはティエンに向かって跳ね、抱き着き交差するように爪を放つ。大振りな一撃は難なくティエンによって躱され、両者、距離を取るようにして再び向かい合う。
ぺろりと、タオフーは舌を出して笑む。
嬉しや ああ嬉しや
隆起するように、タオフーの肉体がうねる。
我が血、我が肉
ぱちりと、白い火花が散る。
もはや抑えきれぬ
白金の、雷が吼え、宙に舞う。
雷爪ライフー、かつてそう呼ばれた獣の所以。その姿を見たものは、皆屠られ血に伏した。
一閃、光がティエンの眼前に迫る。風すら感じぬほどの、恐るべき速さで薙がれた爪を寸で身を引き掠らせる。続けざまに、爪が舞う。もはや防ぐ、躱す、受け流す、それを為せるような領域ではなかった。幻影の如く、数多の爪が、腕が、牙が、ティエンの肉を抉っていく。
一閃の如き間、細切れになっていてもおかしくはない。だが、ティエンは凌いだ。全てを僅かに致命傷から躱し、その身を切らせて骨を守った。ただそれだけでも称賛に値する偉業だったであろう。だが、その報いは新たな演舞であった。光り輝く、美しくも残酷な天女による舞。先ほどよりも苛烈に、爪が、牙が、尾が舞う。
ただひたすらに、無我の境地でその舞を受ける。だが、限界は近かった。そもそもが人の身で魔物の力、それも全力かつ武の粋を極めた奥義をその身に受けているのだ。最初の舞を凌げたこと自体が恐るべきことでもあった。
ふわりと、舞が終わる。
血が、宙を泳ぐ。
全身を引き裂かれたかのような、血の雨。だが、ティエンは絶えていなかった。地を踏みしめ、しかと前を見据え、ずたずたになった両手両足を構え……未だ尽きぬ闘志をその身に漲らせて。
タオフーは笑う
再び振るった爪を、ティエンは受ける。しかと見切った、その動き。そのまま腕を滑らせ、タオフーの首を手刀で打つ。破れかぶれではない、重い一撃に怯む。続けざまに、胸と腹に連撃が叩き込まれる。息が止まり、はらわたが浮く。そのままティエンは深く体を沈め、竜巻の如く鋭い回転蹴りがタオフーの脇腹にめり込む。浮いたはらわたに叩き込まれる、衝撃にタオフーの体が曲がる。そのまま逆回転し、膝を撃ち蹴る。ぐらりと、タオフーの視界が揺れる。その隙を、ティエンは逃さない。
膝をつかんと、落ちるタオフーの喉元を、その拳で撃つ。不殺といえども、まともに決まれば魔物であっても昏倒する一撃。それだけの力を籠め、ティエンは打つ。
ずん、と重く鈍い音とともに、タオフーの喉にティエンの拳が入る。
タオフーの息が止まり、苦悶に染まる……かと思われたその時であった。
ティエンの顔を、タオフーの掌が打つ。そのままティエンは暫しの間宙を泳ぐと、地へと叩きつけられ動かなくなった。
確かに、決まった。そう思ったが故の……もしくは、深く傷つけるわけにはいかぬと……気の緩み、力の緩みがあと一歩タオフーを止めるに至らなかった。
ごほりと、這いつくばるようにタオフーが嗚咽を漏らす。僅かな打ち込みの甘さが、タオフーが気絶するだけの威力を損なったが、それでも十分な一撃をタオフーに与えていた。しばしの間、獣の如く苦悶に呻いていたが、その顔を上げる。
そして、ゆっくりと警戒するように倒れ伏したティエンへと近づいていく。その動きは虎そのものであり、獣の如き姿であったが、先ほどのような狂乱は影を潜め、むしろ何かを待たされているかのような、待ち望んでいた何かを得ようとするかのようであった。
ティエンが、咳を漏らす。タオフーの掌底をまともに受け、動くことは叶わなかったが、鍛え抜かれたその意思はなお明瞭な覚醒をティエンに与えていた。ゆっくりと近づいてくるタオフーは、まさに捕食者であり、地に伏して息も絶え絶えな己は強者に饗される獲物であった。
ゆっくりと、タオフーの顔が近づき、それと同時に果実のような甘い薫りが燻る。タオフーの顔を改めて見て、美しいとティエンは思う。
(……これまでか……)
不殺の道、成らず。だがそれも己が弱き故、口惜しいとはいえ致し方ないと、ティエンは静かに目を閉じる。
それに、美しき獣に屠られる最後というのも、悪くない
ティエンの喉元に、湿った吐息と鋭い牙の感触が当たり……そのままゆっくりと牙が己に突き刺さっていく感触を味わう。
嗚呼
ティエンは思う。天は何とも慈悲深いと。
喉の肉を抉られ、骨を砕く猛虎の牙がここまで心地よいものだとは
そのまま熱に焼かれるかのような“快楽”の中、ティエンはその意識を手放すのであった。
何もわからぬまま、何も進まぬまま七回朝と夜が廻る。あちこちが修繕され、まだまだ痛んでいたものの少しばかり人が住む分には申し分なくなってきた仙石楼に朝日が当たる。その中の、変わることのない朝餉の時分。
相変わらず、ティエンは文句ひとつなく生真面目な様子でタオフーたちの朝食を用意していた。
ふわりとした柔らかな薫りを燻らせながら、朝食の雑炊が鍋の中で程よく煮えていた。天崙山でとれる雑穀と山菜を煮た質素なものだが、滋養に溢れ重くなりすぎない、適度な朝食という意味では最適な品物であった。
「よっ! ティエン!」
ぱたぱたとすばしっこくフオインが食堂に入り、ティエンに手を振る。その明るい顔つきはすっかりティエンに懐いた少女のようであり、今日の朝食を心待ちにしていたのであった。
「おはようございます」
そこから少し遅れて、ヘイランがゆっくりと食堂に入る。
「おはようございます 今日もすみませんね、ティエンさん」
「おはようございます、ヘイランさん どうぞ座ってください」
いつものように、座っていく彼女たちを前にティエンはよそった粥を置いていく。七日もたてばお互いの定位置というものがある程度定まり、適度な距離感というものも出てくるものであった。そして、今日はその定位置にまだ収まっていないものが一人、いた。
「……タオフーのやつはどうしたんだ?」
最初に声を上げたのはフオインであった。別に待つ必要はないのだが、僅かな間とはいえ食事の時間は四人そろって食べるのが当たり前だっただけに、それが揃わないというのは妙な居心地の悪さがあった。それに加えて、フオインにも一応の仲間意識というものはあった。それを抜きにしても何かと礼儀だなんだと口うるさいタオフーを差し置いて先に食べるというのは遠慮したかったが、それ以上に腹が減っていたというのもあり目の前の粥が冷めてしまう前に匙をつけたいという気持ちの方が大きかったのである。
「今日はまだ見てませんねえ」
フオインほどではなかったが、ヘイランもまた食事は早く始めたかった。日がな一日何をするわけでもないが、楽しみには違いない食事をお預けされるというのはヘイランにとっても好ましくはないことである。ただ、ヘイランは別段タオフーの癇癪を気にするような性分ではなかったので我慢が切れれば勝手に食べ始めたであろうが、なんとなく真っ先に口をつけるというのははしたなく感じられ、手を付けずにいた。
「……自分が様子を見てきます お二人は先に食べていてください」
短い間とはいえ、今までにないことだけに少し不安を感じたティエンは様子を見に行くことに決める。
ティエンの言葉を聞き、やったぜとばかりに匙を口に運び始めるフオイン。その様子をあきれた様子で眺めつつも、タオフーを待つのもバカらしいとばかりにヘイランも食べ始める。
(一体どうしたのだろうか……?)
その様子を見送りつつ、ティエンはタオフーの部屋へと向かうのであった。
……仙石楼の二階、その奥で虎の唸り声が響き渡る。
低く、歯を食いしばるようなその声を聴こうものならば、大抵のものは恐怖に足をすくませるであろう、そんな音であった。それほどまでに、その声音は怒りと怨嗟に満ちたもののように響いていたが、それはタオフーの今の状態には当てはまらなかった。実際のところ、タオフーは寝床に蹲りながら恨めし気に虚空を睨みつけてはいたが、それはひとえに誰か氏らを恨んでのことではなく、己の体の異変に困惑してのことであった。
「うっ……お、ぅっ! ぐぅぅ!」
唸り声とともにびくん、とタオフーの腰が跳ねる。事の起こりは妙なまでの寝苦しさと火照りを深夜に感じ始めた時からであった。タオフーは当初、いつも通りの奇妙な火照りだろうと高をくくり再び目を閉じるも、それは治まるどころかより熱く、強く、衝動的なまでの“熱”となってタオフーを苛め始めていった。よもや、変異が解けようとしているのではとタオフーは期待したがそんなことはなく、ただ抑えようのない熱が際限なく燃え上がり続け朝となる頃には全身がじっとりと汗ばみ、腹の奥が特に熱く蠢くという今まで感じたことのない感覚に悶えることになってしまっていた。
「うっ! うっ!」
力は、入る。立とうと思えば、立てたであろう。しかし、何か情動的な何かに思考を支配され、焼けつくような疼きに全身が侵されているという未知の感覚にタオフーはすっかり混乱し、ただその顔をぐしゃぐしゃに涙と涎で汚しながら寝床で蹲るしかなかったのである。
「はあっ! はぁぁ……ううっ!」
きゅるる、と聞き慣れぬ音が下腹部から響き、ひどく熱の籠った“何か”が股を濡らす。それが汗とは違う何かであることは、粘る感触と燃え立ち燻ぶるような“ニオイ”でタオフーは感づいていた。何も己の体について無知ではない。無知ではなかったが、制御できると、わかっているつもりであった。
ぐちゃぐちゃに蠢く理性を何とかかき集め、床から身を起こそうと力を籠める。何が何でも、この姿を見られるわけにはいかないと、タオフーは歯を食いしばる。このような、乱れた、弱みを見せることは絶対強者として天崙山に君臨していたタオフーにとって死にも等しい恥辱であったからである。
「おっ! おぉぉっ!!」
しかし、力を籠めて立とうとした瞬間。泥が噴き出すような粘った音とともに下腹部がきゅうっと締るような感触とともに脳天が焼き付くような刺激がタオフーを襲う。まるで何か、本能的な衝動がここから自身を逃がすまいとしているかのようであった。実際のところ、タオフーは薄々感づいていた。感づいていたが、認めるわけにはいかなかった。
ひくりと、鼻が動く。
「あ、あ、うっ ぐぅぅッ!」
鼻腔に広がる、匂い。疼く、疼く、胎が疼く。タオフーの意識がドロドロに溶けていく。何者かが近づいてくる。それを待ち望んでいると、本能が燃え盛る。全身が、熱く湯気を吐き出すほどに濡れていく。
己が体の、花が咲く。蜜を滴らせたそれは、待ち望む。
だが、それを認めるわけにはいかぬと、虎は牙を剥く。
ただで摘ませるほど、虎の花は安くはないのだ。
たん、たんと規則正しく階段を上がる音が響く。
音の主であるティエンは仙石楼の二階、その奥に位置するタオフーの部屋を目指して階段を上がっている途中であった。
一見して静かな、いつもと変わることのない仙石楼であったが、宿舎に入ってすぐから既に異様な雰囲気が二階に漂っていることをティエンは察知していた。言い表してみれば、何か粘つくような異様な湿気のような気配が色濃く漂っていたのである。うっかり、深く息を吸おうものならば暫しの間呆けてしまうような、そんな妙な毒気を含んだ瘴気のようなものが廊下……仙石楼の宿舎を包んでいる。
(朝、起きた時は気づかなかったが……)
その異様な雰囲気に、ティエンは警戒しつつも早足にタオフーの部屋を目指す。何か問題が起きているのは確かなことであったが、何はともあれタオフーの無事を確認することが今のティエンにとっては急務だったからである。
二階に上がり、一歩一歩用心しながらもいつもと変わらない足取りで奥の部屋へと向かう。古く痛んだ床板が、みしりと足に合わせて踏み鳴らされる。二階は、静かであった。静かすぎるといっても良いほどの静かさとより色濃く粘つく空気が、ティエンの肌を撫でる。閉じられた戸、その前に立ったティエンはゆっくりとその手を上げ、戸を叩き声を上げようとする。振り下ろされた手が、扉に触れる直前。
ティエンは後ろに飛び退く。
瞬間、戸から鋭い爪が突き出る。
恐ろしく早く鋭い貫手が、殆ど音もなく戸を打ち貫きティエンの顔面を捉えようとしていた。白銀の毛皮に彩られた、鋭い爪。それを持つものは、ティエンが知る限りは二人のみ。
(もしや! ライフーか!?)
いつの間にか戻っていたのか、そうティエンが考え構えた時、戸に突き刺さった爪がそのまま下に引き下げられていく。ばりばりと、襖戸を破り砕いていくかのように堅木でできた戸が破壊され、強襲の主がその姿を現す。
「! タオフー殿!」
そこにいたのは、殺気を迸らせるが如く目を血走らせ、白銀の髪を振り乱した阿修羅の如き姿のタオフーであった。全身から湯気を放ち、唸り声とともに牙を剥いた姿はとてもではないが正気であるとは、ティエンには思えなかった。
瞬間、床を蹴破る音とともにタオフーの姿が消える。
ティエンは素早く、腕を交差させ振り下ろされたタオフーの剛腕を防ぐ。床を跳ね、天井を踏みしめティエンめがけて飛ぶと同時に振り下ろされたその爪撃は重く速く、並みの一撃ではなかった。その一撃を受け、みしりと、骨と床が軋む。
だが、ティエンは素早く腕を広げるようにしてタオフーの腕を弾くとばねのように体をしならせ跳ねると距離を取る。
「タオフー殿!」
叫び、その声を張り上げるもタオフーには届かない。一閃、即座に間合いを詰めたタオフーの爪がティエンの鼻先を掠る。あまりにも鋭い、爪と蹴り、そして鞭の如くしなる尾の連撃が間断なく放たれる、そのどれをとってもまともに喰らえば絶命はまぬかれないほどの威力を秘めていたが、ティエンは捌き防ぎ、そして躱していく。だが、虎の猛攻を人の身で防ぎ続けるのは無理があり、骨は軋み、皮膚は裂け、致命傷は負わずとも小さな傷が積み重なっていく。
(このままではッ!)
押し切られる、そう判断したティエンは連撃の隙を狙い、タオフーの胴を掌底で打ち飛ばすと、そのまま横に跳ねて戸を破り窓から仙石楼の外に飛び出す。
大地へと降り立ち、試合場へと走るとそこでティエンは立ち止まる。追って、タオフーが同じように壁をぶち破り、まるで本物の虎の如く四足でティエンへと走り来る。その動きは襲い来る猛虎そのものであり、警戒するように唸り声をあげティエンを睨みつけていた。その様子から、やはりただ事ではないとティエンは確信し、それと同時に申し訳なく思いつつも声を荒げ構えをとる。
「……我が名はティエン タオフー殿、貴女に一騎打ちを申し渡す!」
話が通じぬのならば、拳で通すしかない。霧の大陸の長い歴史において、人も魔も、そして怪力乱神果ては神仙すらも是とする究極の不文律。
我が道、武を以て示す
「来い! タオフー!」
不遜ながら、ティエンはこの一戦を望んでもいた。会った当初から、ただものではないと、タオフーのことを思っていたからである。望んだ形ではないが、それでも三獣拳士ライフーを兄に持つ、人虎の魔物。その実力はやはり素晴らしいものであったことは、先の一戦でわかっていた。ややもすれば、ライフーと匹敵するかもしれない。その武すら打ち破れずして、ライフーを破れようか。
咆哮、跳躍。
荒れ狂う猛虎の如く牙と爪がティエンを襲う。
鋭い牙を躱し、続けざまに襲う足蹴とその爪を掌底で受け流すティエンにしなる尾が打たれるも、それもまた躱してティエンは独楽の如く回転し逆立ちのように地を掴むタオフーの両手を払わんと回し蹴りを放つ。
風を切るその一閃を、タオフーは軽々と地を砕き飛び躱すとくるりと回転するとふわりと大地に降り立つ。だが、地に足が付いた途端素早く間合いを詰め、手刀を薙ぐ。岩すら穿ち斬り砕くその刃をティエンは躱し、即座に合わせて拳を薙いだことで開いたタオフーの胸元に撃つ。砲弾の如き拳打を受け、タオフーは怯む。
「フウッ!」
好機、そうと見たティエンはさらに続けて二発、拳を撃ち込み続けざまに怯ませると己が拳を組み打ち上げるように肘鉄をタオフーの顎に放つ。鋭い衝撃とともに、顎を打ち上げられたタオフー。そのままとどめとばかりにティエンは身を捩じり、回し蹴りを喉元目掛け放つ。
だが、その蹴りは宙を掠める。
しなやかに、倒れこむように地に落ちながらもタオフーは身を捻り爪を逆立てた蹴りを放つと同時に素早く距離を取る。その爪はティエンの足を切り裂き、紅い鮮血が宙に迸る。
「ぐぅッ!」
不覚。だが、タオフーも傷を負わせることよりも離れることを優先したためかそこまで深くは入っていなかった。
そのままタオフーは距離を取ると、唸り警戒するようにティエンを睨む。
「……流石です、タオフー」
聞こえているかわからぬが、ティエンはタオフーに語りかける。やはり、ライフーに勝らずとも劣らない、素晴らしい武人であるとティエンは確信する。
(しかし、この戦い方は……まるで……ライフー殿の生き写し あまりにも見事!)
この戦い、一切気を抜くことはできない。少しでも力及ばねば、油断をすれば、死ぬは己。
(ライフー殿との約定を果たすまで、このティエン……果てるわけにはいかぬ!)
次は、己から攻める。そう決めたティエンは素早く地を蹴り、タオフーに肉薄する。そのままぶつかるように力を込めた拳を放つ。当然、そのような見え透いた一撃などタオフーに届きはしない。だが、防がれると同時にそのまま渾身の力を籠め、蹴りを、拳を、絶え間なく打ち込む。人の身とは思えぬほど、重く、鋭い連撃。いくら魔物である人虎といえども、ただ耐えるように防ぎ続けるのは無理があった。逃れ得ようと、タオフーが一歩身を引こうとしたその瞬間。
それを待っていた、と言わんばかりにティエンは素早く間合いを詰めると腰を深く落としあらん限りの力を籠めた正拳をタオフーの腹へと放つ。その一撃は正確にタオフーを打ち貫き、後ろへと弾き飛ばす。
いくら魔物といえども、女性に対し余りにも容赦のない一撃。だが、それこそ武人として道を究めんとするティエンの矜持であった。そして、そうしたティエンの強い意思こそ、タオフーが……ライフーが認めた者の所以である。
(手応えあり!)
ここでさらなる追撃をかける手もあったが、それを流石に許しはしないだろうとティエンは警戒するようにタオフーの様子を窺う。
事実、腹を打たれたタオフーはもがくように身を震わせているものの、両足はしかと大地を踏みしめ、両目は爛々と燃えティエンの動きを見極めんと鋭い視線を投げかけていた。その様は隙が有るようで無く、迂闊な追撃は手痛い反撃となって返ってくることだろうことは容易に予想できた。実際、ティエンは一度その手痛い反撃を受けたことがあった。
“虎は、傷を負ってからが全力よ”
かつてライフーが口にした言葉。
それは紛うことなくライフーの武を現しており、戦えば戦うほど、その命を散らせば散らすほどにその武は鋭く重く苛烈に極まっていく。その武を継承していると、間違いなく断言できるタオフーであれば当然、一撃をもらった次の瞬間こそが武の本領といっても良い。タオフーの両目が光り、その牙が向かれる。怒りに満ちたかのようなその顔つきとは裏腹に、どこかその表情は歓喜ともとれる揺らぎが含まれてもいた。
その時である、食堂の方から騒ぎを聞きつけた……おかわりも含めて食事も食べ終わった……フオインとヘイランが何事かといった表情で仙石楼から出てくる。それを見た瞬間、タオフーの表情が不快に染まる。それを見た瞬間、直感的にティエンはタオフーの矛先が自分ではなくフオインたちに向けられつつあることを理解する。
(不味い!)
今のタオフーは危険すぎる。咄嗟に、迷うことなくティエンはタオフーに挑みかかっていく。流石のタオフーも、目の前で拳を振り上げているティエンを無視することはできずにその拳を受け止め、そのまま肉薄したまま互いに連撃を打ち合う。素早く、鋭く繰り出される拳打を掌底や腕で受け流し、棍棒の如く薙ぐ蹴りや尾を飛び跳ね躱し、時に受ける。だが、そうした組手は一度組んでしまえばそう容易くは……致命の一撃となりかねない打撃を受けぬ限りは……抜けられぬ危険なものであった。特に、基礎的な能力が違いすぎる人間と魔物の組手は、魔物が圧倒的に有利といっても良かった。事実、ティエンの全身は既に悲鳴を上げ始めているにも限らず、タオフーの方は余裕と狂喜の笑みすら浮かび始めていた。
重い、タオフーの手刀を受けたティエンの腕がミシリと啼く。そのままくるりと捻るように薙がれた蹴りがティエンの足を打つ。
「ぐッ!」
鈍い痛みとともに、膝が曲がる。次の瞬間、ティエンの脇腹に棍棒の如く強烈な衝撃が襲い掛かり、そのまま弾き飛ばされる。
(ッ! しまった……っ!)
鞭のようにしなやかで、棍のように重い尾の一撃をまともに受けてしまったティエンは何とか受け身を取るも、片膝をついてしまう。
「ティエン!」
その様子を見たフオインが叫ぶ。咄嗟に駆け寄ろうとしたフオインを見たタオフーは、足を大きく踏み鳴らし大地を砕く。その衝撃によって宙に浮いた石をタオフーは蹴りつけ、フオインとヘイラン目掛けて飛礫を叩きつける。
「! てめえ!」
「おお! あぶな!」
フオインは素早く礫を躱し、タオフーを睨む。ヘイランは片腕を回し危なげもなく礫を打ち砕き、大げさに驚く。その様子に、さらなる激昂を見せるタオフー。
「くっ……フオイン殿、ヘイラン殿 逃げてください! タオフー殿は正気じゃない!」
何とか立ち上がり、叫ぶティエン。
「ええ!? どういうことだよ!」
困惑するフオインに対し、ヘイランは妙に得心した様子でタオフーの方を見ると、素早くその身を翻しフオインをかっさらうように抱きかかえるとその場を離れる。
「あ!? おい! 何すんだよ! ウッ! 苦しい! おい、じじぃ……!」
「いいから離れるぞ! 今のアイツはやばい!」
ぎゃいぎゃいと喚くフオインを、ぎりぎりと締め上げるようにして黙らせヘイランはその場を離れていく。その様子を見て、少し安堵するとティエンは再び暴れ狂う猛虎へと向かい合い構えをとる。狂乱に満ちているようでありながらその動きや構えに隙は殆どない。ただそれだけでタオフーの修めた武の道が生半可なものではないことが伺えた。ゆえに、なぜこのような狂乱に堕ちることになったのかがティエンにはわからなかった。
そんなティエンの逡巡など素知らぬように、タオフーは再び咆哮を上げる。
(来る!)
地を蹴り、飛ぶように跳ねる。じくざくと雷のように跳ね駆ける。恐るべき速度で迫りくるその様はまさに白金の雷そのものであり、同時に弱った体では見切ることの出来ない恐るべき一撃でもあった。
瞬閃、恐るべき剛腕がティエンの体にめり込む。
息が詰まり、体が宙に浮かぶ感覚だけが間延びしていく
僅かな一瞬。寸でのところで見切り、その一撃を防ぐもその威力は防ぎきれるようなものではなく、大きくティエンの体を吹き飛ばす。そのまま仙石楼の外に弾き飛ばされたティエンの体は竹林の中に叩きつけられる。
衝撃とともに、飛び抜けていた意識がティエンの中に揺り戻される。
「うっ……くぅ!」
みしりと、体が悲鳴を上げる。だが、伏せるわけにはいかなかった。雷が、白金の疾風がティエンに迫っていた。軽々と、ティエンが吹き飛ばされた距離を飛び越えタオフーが降り立つ。
恐るべきは、飢えた虎の執念。
決して獲物を逃さない、そう告げるようにタオフーは嗤うように唸る。常人であれば、既に死ぬか、もしくは戦意を完全に喪失していたであろう。
だが、ティエンは立つ。
ふらつくことなく、しっかりと、両足を踏みしめ構えをとる。
その目は怯えも、恐れもなく、虎の両目を射抜いていた。
タオフーは歓喜に打ち震える。
これこそ、これこそ好敵手。屠るに値する敵。燃えるように全身が熱くなる。意思が全て、紅く染まり、叫ぶ。
さあ! 我と果たせ!
叫びとともに、間合いを飛び詰め爪を振るう。
その爪の根元を掌底で弾き、ティエンの拳がタオフーの腹を打つ。ずぐんと、深く響く一撃。だがまるで効かぬようにタオフーは身を捩じりその尾と蹴りを合わせ放つ。その一閃を一瞬で地に這うが如く低く体を沈め躱す。そのままティエンは足払いをかけるも、確かな感触とは裏腹に岩の如くその足は動かない。だが、その衝撃をばねにするがの如くティエンもその身を回し立つと連撃の蹴りを膝、腰、脇腹と交差するように放ち、それを受け怯んだタオフーにとどめとばかりに顎に打ち上げた拳を食らわせる。
脳を揺らされ、視界が明滅するもタオフーは止まらない。高笑いするかの如く吼えると素早く爪を薙ぐ。ティエンに受け流されるも、そのままタオフーは獣のように這うとそのまま猛獣の如く唸り飛び跳ねながら爪を打ち、その牙を剥く。低く、それでいて鋭く受ければ骨をすらも断ち砕く一撃が交差するように飛び交う。だが、ティエンもまたそれを凌ぐ速さで見切り躱し続け、そして時にタオフーの背を飛び越えるかのようにして跳ねる。数度爪と牙が空を舞ったのち、埒が明かぬと苛立ったタオフーはティエンに向かって跳ね、抱き着き交差するように爪を放つ。大振りな一撃は難なくティエンによって躱され、両者、距離を取るようにして再び向かい合う。
ぺろりと、タオフーは舌を出して笑む。
嬉しや ああ嬉しや
隆起するように、タオフーの肉体がうねる。
我が血、我が肉
ぱちりと、白い火花が散る。
もはや抑えきれぬ
白金の、雷が吼え、宙に舞う。
雷爪ライフー、かつてそう呼ばれた獣の所以。その姿を見たものは、皆屠られ血に伏した。
一閃、光がティエンの眼前に迫る。風すら感じぬほどの、恐るべき速さで薙がれた爪を寸で身を引き掠らせる。続けざまに、爪が舞う。もはや防ぐ、躱す、受け流す、それを為せるような領域ではなかった。幻影の如く、数多の爪が、腕が、牙が、ティエンの肉を抉っていく。
一閃の如き間、細切れになっていてもおかしくはない。だが、ティエンは凌いだ。全てを僅かに致命傷から躱し、その身を切らせて骨を守った。ただそれだけでも称賛に値する偉業だったであろう。だが、その報いは新たな演舞であった。光り輝く、美しくも残酷な天女による舞。先ほどよりも苛烈に、爪が、牙が、尾が舞う。
ただひたすらに、無我の境地でその舞を受ける。だが、限界は近かった。そもそもが人の身で魔物の力、それも全力かつ武の粋を極めた奥義をその身に受けているのだ。最初の舞を凌げたこと自体が恐るべきことでもあった。
ふわりと、舞が終わる。
血が、宙を泳ぐ。
全身を引き裂かれたかのような、血の雨。だが、ティエンは絶えていなかった。地を踏みしめ、しかと前を見据え、ずたずたになった両手両足を構え……未だ尽きぬ闘志をその身に漲らせて。
タオフーは笑う
再び振るった爪を、ティエンは受ける。しかと見切った、その動き。そのまま腕を滑らせ、タオフーの首を手刀で打つ。破れかぶれではない、重い一撃に怯む。続けざまに、胸と腹に連撃が叩き込まれる。息が止まり、はらわたが浮く。そのままティエンは深く体を沈め、竜巻の如く鋭い回転蹴りがタオフーの脇腹にめり込む。浮いたはらわたに叩き込まれる、衝撃にタオフーの体が曲がる。そのまま逆回転し、膝を撃ち蹴る。ぐらりと、タオフーの視界が揺れる。その隙を、ティエンは逃さない。
膝をつかんと、落ちるタオフーの喉元を、その拳で撃つ。不殺といえども、まともに決まれば魔物であっても昏倒する一撃。それだけの力を籠め、ティエンは打つ。
ずん、と重く鈍い音とともに、タオフーの喉にティエンの拳が入る。
タオフーの息が止まり、苦悶に染まる……かと思われたその時であった。
ティエンの顔を、タオフーの掌が打つ。そのままティエンは暫しの間宙を泳ぐと、地へと叩きつけられ動かなくなった。
確かに、決まった。そう思ったが故の……もしくは、深く傷つけるわけにはいかぬと……気の緩み、力の緩みがあと一歩タオフーを止めるに至らなかった。
ごほりと、這いつくばるようにタオフーが嗚咽を漏らす。僅かな打ち込みの甘さが、タオフーが気絶するだけの威力を損なったが、それでも十分な一撃をタオフーに与えていた。しばしの間、獣の如く苦悶に呻いていたが、その顔を上げる。
そして、ゆっくりと警戒するように倒れ伏したティエンへと近づいていく。その動きは虎そのものであり、獣の如き姿であったが、先ほどのような狂乱は影を潜め、むしろ何かを待たされているかのような、待ち望んでいた何かを得ようとするかのようであった。
ティエンが、咳を漏らす。タオフーの掌底をまともに受け、動くことは叶わなかったが、鍛え抜かれたその意思はなお明瞭な覚醒をティエンに与えていた。ゆっくりと近づいてくるタオフーは、まさに捕食者であり、地に伏して息も絶え絶えな己は強者に饗される獲物であった。
ゆっくりと、タオフーの顔が近づき、それと同時に果実のような甘い薫りが燻る。タオフーの顔を改めて見て、美しいとティエンは思う。
(……これまでか……)
不殺の道、成らず。だがそれも己が弱き故、口惜しいとはいえ致し方ないと、ティエンは静かに目を閉じる。
それに、美しき獣に屠られる最後というのも、悪くない
ティエンの喉元に、湿った吐息と鋭い牙の感触が当たり……そのままゆっくりと牙が己に突き刺さっていく感触を味わう。
嗚呼
ティエンは思う。天は何とも慈悲深いと。
喉の肉を抉られ、骨を砕く猛虎の牙がここまで心地よいものだとは
そのまま熱に焼かれるかのような“快楽”の中、ティエンはその意識を手放すのであった。
22/07/09 08:20更新 / 御茶梟
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