第壱章【ハジメテサイカイ】
――――――魔王様。
「………………」
どう答えて言いか分からず、一瞬思考が止まり、無言になる。
「あの……魔王様? 私です……シャクナ……です。あの………お分かりに、ならないのでしょうか……?」
少しだけ、不安げになった、シャクナと名乗る女性。
しかし……
「…………人違いです」
ガチャン!
そう言って、俺は迷わず受話器を下ろした。
「先輩? 人違いって………先輩みたいな珍しいお名前でですかぁ?」
と、ちょうどコーヒーのお代わりを差し出しながら、ユウが声をかけてくる。
ふんわりとカールしたロングヘアーに薄いブルーの事務服の女性………胸のバッジには【Y・HIZIRI】と刻まれている。
中学時代からの後輩で、今は同じ会社で事務と経理を担当している『聖 勇羽』(ひじり ゆう)、通称ユウ。
昔から妙に懐かれていて、高校、職場まで見事に被った、幼馴染とまではいかないが、ちょっとした腐れ縁の相手だ。
「みたいだな、よく分かんないけど………」
ユウにそう答えながら、しばし思考を巡らせる。
なんなんだろう……なんで俺の名前を……? 変な宗教の勧誘か……?
最近、役所勤めの主神教会信者から、主神系テロ組織への個人情報漏えいが発覚したってニュースで言ってたし………
「なにかと物騒な世の中だな………ああ、平穏に暮らしたい………」
遠い目をしながら、カタカタとキーボードを叩く。
誤字診断のスペルチェックを通して、文章を保存。
バックアップを会社のサーバーにコピーして、印刷をクリック。
後は所長の判子を貰って提出するだけなので…………後でいいや。
卓上のファイルから、俺の受け持っている班のバイト・パートスタッフのシフト希望届を取り出す。
一月先の清掃作業予定と照会しながら、バイトのシフト作成に取り掛かった。
「…………げっ!? 市民体育館ワックス掛けの日に限って、畑中さんと山田さん休みかよ…………高校生連中は………だめだ、テスト期間に入ってやがる………仕方ない、宮本のじーさんを引っ張り出すか…………」
うんうんと頭を唸らせながら、シフト作成に脳味噌をフル回転させていた。
「あ、先輩、今日事務のみんなとランチご一緒しませんか? 駅前に、おいしいパスタのお店ができたんですよ〜」
と、ユウから昼食の誘いが来る。
「ワリカン?」
「もちです。4人で行くとセット割になりますからお得ですよ♪」
金の無いリーマンに、割引・ワリカンは非常に魅力的なのだが…………
「ん〜……今日は午後から現場作業だから……事務と休憩時間ずれる……今日は無理だな、また今度でいいか?」
「はいっ、じゃあ、あと一人は………」
きょろきょろとあたりを見回すユウ。
所長は……糖尿と高血圧のケがあるから、いつも奥さん(アヌビス)の手作り健康弁当だし…………
外食したことがバレるとお仕置きされるから、まず無理だろう。
「あ、聖くん、俺俺、俺行くよ」
ちょうど名乗りを上げたのは先ほど電話を取り次いでくれた同僚だった。
「オッケーです。じゃぁ先輩、メニューの当たり外れチェックしときますから」
「ああ、頼んだ」
PCから顔を上げずに答える、いつも通りのやり取り、他愛もない日常。
しかし、俺の日常は、やはり、あの電話の瞬間から狂い始めていた………………
「是音さん、お客様が見えてますよ」
オフィスのドアを開け、受付のおばちゃんが顔を覗かせる。
「え、俺に客……?」
おかしいな、バイトの面接は今日、無かったはずだけど…………
「いえ、アポは取られて無いようですが…………」
少しばかり困惑した様子のおばちゃん。
「――――失礼する! 此方に居られるのだな!?」
突然、おばちゃんの声を遮って、凛とした、気が強そうな女性の声が響く。
「ちょ、勝手に入っちゃ駄目ですよ……!」
バン! とオフィスの扉が押し開かれる。
そこに立っていたのは、魔物娘……それも「地上の帝王」とも称される最高位の魔物「ドラゴン」だった。
強靭な肉体と高い知能を兼ね備えた最高位の魔物であり、まだ此方の世界ではほとんど見ることは無い。
俺自身も生でドラゴンを見たのは初めてで、失礼だと思いつつも、ついじろじろと眺めてしまう。
と、不意に彼女と眼と眼が合う。
「………………あ、ぁ………」
ジワリと、彼女の美しい黄金の瞳から涙が溢れ出る。
「閣……下…………閣下ぁっ!!!」
「…………ぬわぁっ!?」
彼女は十数メートルあったはずの俺との距離を一瞬で詰め、…………そのまま腕の中に抱きしめていた。
「閣下………ゼオンクロト様っ! わたくしです……シャムシェイドです! 貴方の……シャムシェイドです……! ずっと、ずっと、お会いしとうございましたぁ…………!」
ぎゅうぎゅうと、優しく、それでいて力強く、愛おしげに彼女は俺を抱きしめる。
やっぱドラゴンだけあって背が高い…………ちょうど俺の顔の位置が彼女の胸に当たるので…………
うん、見事におっぱいに顔を埋める形になってて、ちょっと息苦しい。
息を吸うたびに、女性独特の甘い香りが鼻腔をくすぐり、弾力がありつつも柔らかいおっぱいが顔に当たる。
魔法使いまであと5年な身としては、非常に理性がヤバいのだが…………
「ちょ………御免、離してくれないかな…………」
ポンポンと腕をタップして、かろうじて彼女に伝える。
おっぱいから離れるのはちょっともったいnゲフンゲフン
「も、申し訳ございません、閣下……!」
慌てて俺を開放し、涙をぬぐう、シャムシェイドと名乗る彼女。
「いや、あの、えっと…………君は…………誰?」
ともかく、現状を把握すべく、彼女に疑問を投げかける。
と、彼女の顔から一気に血の気が引いて、絶望に苛まれた表情が浮かぶ。
「そんな…………閣下……お忘れになったのですか!? わたくしとの出会いを………私を荒々しく打ち倒し、地に横たえさせ『お前が欲しい』と…………高らかに宣言されたあの出会いを…………!」
いきなりの、爆弾宣言だった。
「………………………は?」
バッ! とばかりに、オフィス中の嫉妬驚愕その他もろもろ入り混じった視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「いやいやいやいやいやいやいや!!! 俺は何も知りません! 誤解です人違いです! いやほんと身に覚えがない! お、俺は無実です弁護士呼んでください、いやマジで!」
手をぶんぶんと振って、必死に身の潔白を主張する。
いや、本当に記憶がない!
少なくとも、ここ2年は酔って記憶を失ったことなんてないし、ましてやドラゴンと知り合うどころか今日初めて見たし!
そもそも俺は、ユニコーンとの結婚条件整ってる清いカラダですよ?
「先輩ぃ………どういう事なんですかぁ…………」
刹那、背後から聞こえてきた、血も凍るような、絶対零度の冷たい声。
一瞬だけ振りむこうとして………ヤバすぎる何かが見えたのですぐに止めた。
ひいぃ!? 見えたの一瞬だけだけど、ヤバい。ユウが……ユウの眼が怖いっ……! 完全に『中に誰もいませんよ』的な目になってる……!
「ちょ……えっと……所長! 俺現場作業行ってきます!」
「先輩っ!?」
「閣下ぁ!?」
場の空気に耐えきれなくなった俺は、慌ててデスクの鞄をひっつかむと、オフィスを飛び出して、一気に逃亡を図るのだった。
オフィス脱出して数分後、俺は駅前に辿り着いていた。
「あー、もう、飯もまだなのに………つーか、どう誤解を解けば良いんだよ………」
シフト調整に加えて妙な課題を抱えてしまった………
とりあえず、考えるのは後だ。肉体労働は食わなきゃ持たない。
行きつけの中華料理屋『彩遊喜』で、大盛りチャーハンとギョーザをかっ込む。
店主の三人の奥さんである河童とオークの二人がホールを、店主ともう一人の奥さんが厨房を取り仕切ってる、小さいけどアットホームでいい店だ。
先月、魔物娘との一夫多妻が認められたから、やっと籍を入れたって嬉しそうに言ってたな…………今までは事実婚だったし。
「ごちそうさまー。美味かったです」
店を出て、腹ごなしと時間つぶしを兼ねて、歩いて現場に向かう。
と、向かいから、日傘をさしたヴァンパイアが歩いてくるのが目に入った。
珍しいな……昼間に日傘を差してまで、わざわざ出歩いてるなんて………
そう考えているうちに、彼女との距離はどんどん近付き………………すれ違った、その刹那。
「…………きゃっ……!」
突然のつむじ風。
彼女の指していた日傘が飛ばされてしまい、日光に照らされた彼女は、くたりとその場にへたりこんでしまう。
まずいな……たしかヴァンパイアって日光に弱いはず…………
すぐにダッシュをかけて、吹き飛ばされる前に日傘を捕まえ、すぐに彼女の元にとって返す。
ん? 傘に刺繍がある? 【Charle】……彼女の名前だろうか?
「大丈夫ですか? とりあえずこっちに………」
彼女の手をとって、肩を貸し、日蔭のベンチに誘導する。
「ああ、すまない……僕は大丈夫だ………ありがとう……」
細い銀糸のようなセミロング、自分のことを「僕」と呼ぶことに加え、一見すれば美少年にも見える整った中性的な顔立ち、透けるような白い肌、成熟した大人の女性の魅力は、正しくヴァンパイアそのもので、その美しさに、自然と心拍数が跳ね上がる。
「何か、飲み物でも買ってきましょうか? 水……はアウトか、ハーブティーか何かを……」
彼女を座らせた後、近くの自販機にでも向かおうとしたが…………彼女はその手を放してくれなかった。
「いや、平気だよ。熱中症では無いからね。ふふっ…………くん、くん…………はぁん………♪」
あの、手を放してくれません? って言うか顔赤いですよ、お姉さん。
手をすりすりしないでください、グローブのさわさわした質感で何かに目覚めそうです。
手をくんくんと嗅がないでください……鼻とか唇がちょこちょこ当たって、くすぐった気持良いです。
あの、ほっぺたにあててすりすりしないでください、柔らかくてぷにぷにとしたほっぺたの質感で、理性の鎖がぶち切れそうです。
………ヤバ!? 俺昼飯ギョーザ食ってた!? たしかヴァンパイアって、ニンニクの匂いで発情するって………
「ちょ、えっと、すいません! 俺……仕事あるんで!」
彼女の手を振り払うと、俺は再びダッシュで逃げる。
「ふふ……残念…………じゃあ、またね、『ゼオンクロト』…………」
ひらひらと手を振って、ベンチ座って微笑んだまま、彼女は走りゆく俺の背中にそう告げた。
走る中、脳裏に浮かぶのは、例の電話とドラゴン娘の襲来。
「あれ? 俺………彼女に名前、名乗ったっけ………?」
いや、名札見たんだろう、多分………名字しか書いてないけど………しかも“またね”……?
いやいやいやいやあり得ない…………二度ある事が三度あってたまるか………
不吉な考えを振り払って、俺は無心で歩き続けた。
「………………さて、と」
無事に仕事場に到着。
今日の仕事場は市民図書館、時間は集合40分前か……
着替えと点呼の時間省いても、30分くらいは昼寝できるだろ……
「とりあえず喉乾いたな…………コーヒーでも……」
そう思って、図書館ロビーの自販機の前に進む。
「あう…………えう…………」
目に入ったのは、自販機の前でぴょんぴょんとジャンプしている、フードをかぶった少女の姿。
伸ばした手の先がもふもふとしているな…………ワーウルフとかワーキャットの子供かな?
ああ、どうやら飲みたいジュースのボタンに手が届かないみたいだ…………
「これで良いのかい?」
そっと、少女を驚かせないように近づいて、手を伸ばしていたボタンを押してやる。
「ふえっ…………?」
驚いた顔で、俺を見上げる少女。
目深にかぶったフードで顔が隠れて見えないけど、魔物娘には間違いないだろう。
「あ、えっと…………ありがとう、ゼオン……クロト……さま…………」
そう言って、ジュースを手に、トテトテと走り去ってゆくフードの少女。
って、また名乗って無いのにフルネームで…………今日は一体何なんだ?
何気なく視線で追うと、少女の行く先には数人の魔女たちが…………友達だろうか?
「シャーディさまー、だめですよ、一人で勝手にいっちゃったらー」
「そうですよー、言われてたじゃないですかー、まだ駄目ですってー」
「あう……ごめん、ね……」
と、何やら会話が聞こえてくるも、適当に聞き流して自分のコーヒーを買い、ロビーのソファーに腰掛ける。
嗚呼もう、今日はわけがわからない。
こんな日は、さっさと仕事を終わらせて、帰って酒飲んで寝ちまおう………
――――40分後。
集合したバイト数人と共に、幸い何事もなく、日が沈むころには図書館の清掃は終了。
消耗品の交換まですべて終わらせ、バイトを帰宅させ、図書館のスタッフに認め印を貰い、俺も図書館を後にした。
仕事中、幾度か魔物娘とすれ違うたび、また何かあるんじゃないかと、ちょっとびくびくしていたのは秘密だ。
さて、本来なら会社に戻って、二、三、手続きがあるのだが…………
職場の同僚に電話掛けたら『ユウが給湯室で、包丁を手にして虚ろな目でぶつぶつ言ってるから、帰ってこない方がいいぞ』と言われ、とりあえず所長に許可を取って、現場から直接帰宅。
一応、あのシャムシェイドと名乗ったドラゴンは、俺が居なくなるとすぐに姿を消したらしい。
幸か不幸か、それなりに信頼がある俺のスキャンダルに関しては、現在保留状態。
一応、俺のストーカーじゃないか? という話になったようだが、確証が無いので通報はまだらしい……
って言うか、ユウの状態……あれヤバくね? 付き合い長いけど、数えるくらいしか見たこと無いぞ?
幸い、明日から土日で二連休だ、この二日間でほとぼりが冷めることを願おう。
「嗚呼、マジで鬱だ……月曜日出勤したくねぇ……」
もう晩飯を作る気力も無い。
コンビニで適当にビール500o缶と幕の内弁当を購入し、ぶら下げながら家路に着く。
後は、そこの角を曲がれば、我が家はもうすぐ。
築20年、1DKの古いアパートが見えてくる。
「……………………っ!」
と、その時、何かを感じた……“何か”としか言いようのない、感覚。
そして、ぶわりと一陣の風が吹く。
同時に、周囲の音一切が、まったくかき消えた。
遠くサイレンの音も、野良犬の遠吠えも、人ごみの雑踏すらも。
それだけじゃなく、人、生き物の気配一切が消失する。
そして…………
―――――お迎えにあがりました……我らが“王”よ……!
四つの声が一つに重なって、その場に響く。
いや、どちらかといえば、響くのは心の中だろうか、聞こえるというよりも、直接心に語りかけられるような重み。
「っ!」
気配を感じ、顔を上げる…………今宵は、満月。
その月明かりに照らされて、其処に浮かび上がる影四つ。
天に二つ。
月を背後に外套を広げたヴァンパイアと、両翼を広げたドラゴン。
地に二つ。
とぐろを巻いた蛇体を投げ出した、碧色の肌をし、糸のような細目でニコニコと微笑むエキドナと、巨大な大鎌を携えた、バフォメット。
そして、ゆっくりと、微笑むエキドナが唇を開き、言葉を紡ぐ。
「我ら“四天王”…………貴方様のご帰還をお待ち申し上げておりました、『魔王ゼオンクロト』様………」
俺を魔王と呼ぶその声……それは、まぎれもない、あの電話と同じ声だった。
To be continued……
11/07/01 00:19更新 / たつ
戻る
次へ