第六楽句〜訪問者は彼にとってのなんなのか〜
「あなたを、“浄化”します」
メシュエル・ラメステラ……エルは、そう言ってどこからか取り出した大鎌を構え、僕に振るう。
漆黒の刃が、僕に向かって大きく縦に振り下ろされた。
しかし、僕はそれを横に逸れてかわす。
「ごめんね、“ここ”で死にたくはないんだ」
「………………っ!」
続いて、返すように横に振られた鎌を、今度は後ろに跳んで避ける。
二年間、教団から逃れてきたんだ。
これくらいなら、なんとか避けることが出来る。
アミリちゃんがお風呂からあがったということは、昨日の通りならメリカさん達はたしかホールの掃除をしていたはずだ……
なら……
跳んでちょうど部屋の入り口から離れたので、僕は離れていたアミリちゃんの方を向いた。
「アミリちゃん、悪いけど、今夜は話せそうにないよ」
「おにぃ、ちゃん……?」
そう謝ってから、僕はこの施設の中の、特に強く印象に残った場所へ走り出す。
……メリカさん、ごめんなさい……
全力で走りながら、僕は心の中で、先に謝っておくのだった。
××××××××××××××××××××××××××××××
横に振り払う一撃を、ハー君は避けて部屋の外へ飛び出す。
そしてさらにどこかに向かうのか、何かを言ってからすぐに走り去った。
もちろん、私は彼を追うために、部屋の外へ出る。
と、視界の端に小さな女の子……魔女が入った。
「……っ!」
不意に浮かんでしまった余計な感情は捨てて、私は彼の去って行った方向へ走り出す。
しかし……
「……ファイアっ!」
ヒュボッ!と、後ろから私に向かって一直線に何かが飛んできたので、横に跳んで避けた。
飛んできたものを視認すると、それは火の玉であった。
危ないな……そう思いながら火の玉の飛んできた方向を見ると、そこには、先ほど視界の端にうつった魔女が、泣いているような、怒っているような顔をしてこちらを見ていた。
「……危ないわね、なにするのよ」
「おねぇさんは、ハーおにぃちゃんを傷つけようとしました……だから……」
そう溜めて、少女はキッ!と、私を睨んで、子供らしい……よく言えば優しい、悪く言えばぬるい……しかし、明確な敵意を、向けてきた。
「おねぇさんには、ハーおにぃちゃんは追わせないです!」
「……そう、邪魔、するんだ」
子供とはいえ、敵意を向けられた私は、いつ攻撃されてもいいように、臨戦体勢をとる。
私たちの周りの空気に、薄く、緊張が充満していく。
そんななか、私は彼女の気をそらすために口を開いた。
「ところで、君はいったいハー君のなんなのかな」
「アミィは……ハーおにぃちゃんのファンなのです!」
「ファン、か……こんなちっちゃい子にもいたんだ。すごいな、ハー君……」
「……おねぇさんは、ハーおにぃちゃんのなんなのですか」
「ん?ん〜、まぁ、友人……かな。でも、今は……敵、よっ!」
彼女の気を引くという目的を達成した私は、答えながら、私は後ろを向いて再び彼を追い始める。
今回の任務は対象の浄化だけ。
それ以外の、魔物の殲滅は請け負っていないから、彼女たちを相手にする気はない。
「ま、待つのです!いっちゃダメなのですっ!」
私の動きに気がついて、少女は慌てて追いかけ、また魔術を詠唱し、炎球や氷球、風や雷を飛ばし、足止めをしようとしてくる。
が、私はそれらを鎌でいなしたり、横に跳んだりして回避した。
たまに設置型の魔術を使い、火柱や氷柱を出したりしてくるが、それも簡単に回避する。
複数設置型の魔術を壁のように張れば足止めになるだろうけど、彼女はそれをしない。いや、たぶん、出来ないんだろう。
これなら、なんとか撒けそうね。
そう思った、その時だった。
「行っちゃ……駄目なのぉぉぉ!!」
少女が、駄々をこねるように叫んだあと、二つの炎球を放ってくる。
私は他の攻撃と同じように回避し、そして……
クッ、と、炎球が私のいる方向に進路を変えてきた。
「なっ!?く、ぅ……!!」
突然であることと、油断したこともあり、私は飛んできた炎球を回避できず、咄嗟に前に出した腕に当たってしまった。
足を止めてしまった私は、後ろに振り替える。
と、しっかりと私についてきていた少女が、追いついて立ち止まり、泣きそうな顔で私を睨んでいた。
「駄目なのぉ!おにぃちゃんのとこに行っちゃ駄目なのぉ!」
「……はぁ……仕方ない、か……」
いくら逃げても、彼女は諦めずに私を追ってくるだろう。
ただそれだけならよかったけど、さっきみたいに足止めされて、撒けないのは少々辛い。
出来れば、傷つけないように撒いてから彼のとこに行きたかったんだけどな……
そう思い、ため息をつきながらしかし、私は覚悟を決める。
「ハーおにぃちゃんのとこには、行っちゃ駄目なのです……!ハーおにぃちゃんは、傷つけさせないのです……!」
「本当に、いい子ね、君は。……大丈夫よ。私は、ハー君を傷つける気なんて、ないわ」
「え……?」
「……でも、ごめんね。君には、ちょっと邪魔にならないように、倒れててもらうね」
そういってから、私は、私が“黄泉の神殿”と呼ばれる由縁である魔術を練り、そして、少女に向かって放った。
「……本当に、ごめんね……“ムドオン”」
「……あ……ぇ……?」
魔術を発動した途端、少女の周囲に黒いモヤのような魔力が彼女にまとわりつく。
その瞬間、少女は、まるで操り人形の糸がきれたように、ペタン、と膝を床につけた。
「お、ねぇさん……?なにを……?」
「大丈夫。死ぬことはないわ。ただ、ちょっと意識は失うだけ。……ごめんね、本当に……」
“呪殺魔術”『ムドオン』
対象の生命力を徐々に奪い、最終的に衰弱死させる闇属性の魔術。
教団にはほとんどいない、闇属性魔術の適性者、それゆえ私は、死を象徴するという意味で、“黄泉の神殿”と呼ばれ、そして、少なからず、恐れられていた。
……少女が気を失ってから、私は殺さないように術を解き、さらに念のために彼女が気を失っているかを確認した。
……うん、大丈夫そうね。
「……ごめんね」
何度謝ったのかわからないけど、私はもう一度謝ってから、彼の魔力を辿り、彼の元に向かうのだった。
××××××××××××××××××××××××××××××
淡く部屋を照らす照明の光に照らされながら、僕は黒く大きなそれの表面を撫でる。
演奏会の時は、僕の半身になっていると言っても過言ではなかった、それは……ピアノ。
今僕は、ピアノの置いてあった、リハーサル室の一つにいる。
ここに到着してから、だいたい5分くらい経ったろうか?
彼女が見失ったとしても、幾分かここにくるには遅い。
そう思い始めたちょうどその時、部屋の入り口の扉が、開いた。
「……遅かったね、エル」
「……ちょっと、邪魔が入っちゃってね。……にしても、やっぱり、ここに……ピアノのある場所に、来たんだ……」
僕を追って来ていたエルが、ようやく僕のいる部屋に入ってきた。
そして、彼女は僕がピアノのそばにいるところを見ると、嬉しそうに微笑んでいるのが、薄暗い部屋の中でかろうじてわかった。
「なんで嬉しそうに微笑んでいるんだい?僕を追って来た他の人達は、僕がピアノの近くにいると、すごく嫌な顔をしてたのに」
「それは……嬉しくってね。二年間、まったく引いていないのに、まだ、ピアノが好きなんだってわかってさ」
「ピアノが好きなのは当たり前だよ。嫌いになるわけがない。ピアノは、母さんからもらった大切な……僕の人生って言ってもいいものだからね。……まぁ、もう、人に聴かせることは出来ないけどね……」
「聴かせることが出来ない、じゃなくて、正確には、聴かせられない、でしょ」
自嘲気味に笑う僕にたいし、エルはそういいながら、近くの椅子に座り、そして、信じられないことを言った。
「いいわよ、私になら、遠慮なくピアノを弾いて聴かせても」
「……え……?」
「……浄化の任務なんて、本当はどうでもいいの。私はね、ただ、君のピアノを聴きにきただけなんだ」
「エル、君は、なにを言ってるのかわかってるのかい?僕のピアノは……」
「わかってる。わかってるからこそ、そう言ってるのよ」
「……わかってないよ……君は自分で自分のことを……」
「だから、わかってるって言ってるでしょう。私はね、最期に、君のピアノが聴きたいんだよ。そして、これは私の……“黄泉の神殿”の、最初で最後の、唯一失敗する任務になるんだ」
「駄目だよ……僕のピアノは、人には聴かせられない。特に、君には。だって君は、僕の大切な友人なんだ……友人を……殺せるわけ、ないじゃないか……!?」
「私だって……私だって同じだよ!私の任務は浄化、つまりは君を殺さないといけない!そんなの、嫌に決まってる!でも、教団の命令には逆らえない……!!」
僕も、エルも、目に涙を溜めながら、叫んでいた。
どちらも、同じことを考えていたのだ。
僕も、エルに殺されるつもりで、いた。
そのために、死に場所に、好きなものの近くにいたくて……ここに来た。
殺したくない。だから、死ぬしかない。
僕が自分の身を守るためにピアノを弾けば、“エルが死ぬ”。だけど僕はエルを殺したくないから、彼女に殺されるしかない。
エルが任務を果たすためには、僕を殺さないといけない。だけどエルは僕を殺したくないから、任務に失敗するしか……死ぬしか、ない。
どちらも生き残る選択肢は、なかった。
彼女が動いた。そう話に聞いてから、ずっと考えていたけれど、でも、どちらも生きて幸せになる方法は、見つからなかった。
涙を目に溜めたまま、エルは、顔をうつ向ける。
「教団は、おかしいよ……魔物たちは、友好を願っているのに、魔物は悪だ、滅さなければならないって……魔物に関わってるってだけで、罪もない人も……殺したくないって命令を無視すれば、強制的に人口人格に切り替えられて、無理矢理…………もう、疲れちゃったよ……殺したくないんだよ……だから、お願い」
ひとしきり言葉を放ったあと、エルはまた顔を上げ、そして、疲れたきったような顔をして、残酷な一言を、言う。
「私を、殺して……」
エルの言葉に、僕は、ビクリと、震えた。
「お願い。最期は、君のピアノを聴きながら死にたいの……だから、お願い。私の好きな、君のピアノで、私を殺して……」
「……ゃだ……嫌だよ……殺したくない……僕だって、殺したくなんかない!!」
ゆらり、と、エルはまるで幽鬼のように立ち上がり、お願いだから、お願いだから、とつぶやきながら、僕の下へ歩き、近づいてくる。
……また、殺すのか?
ピアノが聴きたいと願われたから……
死ぬことを知ったその上で願われたから……
弾いて、そして、殺すのか……?
ずっと我慢してきた、僕の心の奥底にたしかにあった、ピアノを弾きたいという強い欲求に駆られ、僕は床にうずくまり、自分にそう問いかけ、欲求を抑え込む。
しかし、そのせいで、僕の体は動かなかった。
徐々に、徐々に、エルと僕の距離は縮まる。
そして、互いに手の届く位置まで来る。
と、その時であった。
「なにをしておるっ!!」
バンッ!と、勢いよく扉が開かれ、聞き覚えのある声とともに、たくさんの小さな影が部屋に押し寄せてきた。
入ってきたのは、やはり、メリカさんたちであった。
突然の侵入者に驚きながらも、エルは状況を判断し、そして……
「……っ!!」
無言のまま、僕の後ろにあった、この部屋で唯一の窓を開け、そして飛び出して逃げていった。
「待つのじゃっ!皆のもの、追うぞっ!」
『はいっ!』
逃げたエルを追って、メリカさん達は部屋を出ていく。
皆が出て行き、部屋には僕一人となる。
はぁ……はぁ……と、息を荒げながら緊張していた身体が脱力し、仰向けに寝転がる形になる。
からっぽになっていた僕の頭の中では、逃げるとき、最後に言った言葉をただ意味もなく反芻していた。
『……よかった。まだ、ハー君を殺さないで済む……』
……メリカさん達が部屋に戻ってくるまで、僕はピクリとも動かず、ただ仰向けに寝転がったままでいた……
メシュエル・ラメステラ……エルは、そう言ってどこからか取り出した大鎌を構え、僕に振るう。
漆黒の刃が、僕に向かって大きく縦に振り下ろされた。
しかし、僕はそれを横に逸れてかわす。
「ごめんね、“ここ”で死にたくはないんだ」
「………………っ!」
続いて、返すように横に振られた鎌を、今度は後ろに跳んで避ける。
二年間、教団から逃れてきたんだ。
これくらいなら、なんとか避けることが出来る。
アミリちゃんがお風呂からあがったということは、昨日の通りならメリカさん達はたしかホールの掃除をしていたはずだ……
なら……
跳んでちょうど部屋の入り口から離れたので、僕は離れていたアミリちゃんの方を向いた。
「アミリちゃん、悪いけど、今夜は話せそうにないよ」
「おにぃ、ちゃん……?」
そう謝ってから、僕はこの施設の中の、特に強く印象に残った場所へ走り出す。
……メリカさん、ごめんなさい……
全力で走りながら、僕は心の中で、先に謝っておくのだった。
××××××××××××××××××××××××××××××
横に振り払う一撃を、ハー君は避けて部屋の外へ飛び出す。
そしてさらにどこかに向かうのか、何かを言ってからすぐに走り去った。
もちろん、私は彼を追うために、部屋の外へ出る。
と、視界の端に小さな女の子……魔女が入った。
「……っ!」
不意に浮かんでしまった余計な感情は捨てて、私は彼の去って行った方向へ走り出す。
しかし……
「……ファイアっ!」
ヒュボッ!と、後ろから私に向かって一直線に何かが飛んできたので、横に跳んで避けた。
飛んできたものを視認すると、それは火の玉であった。
危ないな……そう思いながら火の玉の飛んできた方向を見ると、そこには、先ほど視界の端にうつった魔女が、泣いているような、怒っているような顔をしてこちらを見ていた。
「……危ないわね、なにするのよ」
「おねぇさんは、ハーおにぃちゃんを傷つけようとしました……だから……」
そう溜めて、少女はキッ!と、私を睨んで、子供らしい……よく言えば優しい、悪く言えばぬるい……しかし、明確な敵意を、向けてきた。
「おねぇさんには、ハーおにぃちゃんは追わせないです!」
「……そう、邪魔、するんだ」
子供とはいえ、敵意を向けられた私は、いつ攻撃されてもいいように、臨戦体勢をとる。
私たちの周りの空気に、薄く、緊張が充満していく。
そんななか、私は彼女の気をそらすために口を開いた。
「ところで、君はいったいハー君のなんなのかな」
「アミィは……ハーおにぃちゃんのファンなのです!」
「ファン、か……こんなちっちゃい子にもいたんだ。すごいな、ハー君……」
「……おねぇさんは、ハーおにぃちゃんのなんなのですか」
「ん?ん〜、まぁ、友人……かな。でも、今は……敵、よっ!」
彼女の気を引くという目的を達成した私は、答えながら、私は後ろを向いて再び彼を追い始める。
今回の任務は対象の浄化だけ。
それ以外の、魔物の殲滅は請け負っていないから、彼女たちを相手にする気はない。
「ま、待つのです!いっちゃダメなのですっ!」
私の動きに気がついて、少女は慌てて追いかけ、また魔術を詠唱し、炎球や氷球、風や雷を飛ばし、足止めをしようとしてくる。
が、私はそれらを鎌でいなしたり、横に跳んだりして回避した。
たまに設置型の魔術を使い、火柱や氷柱を出したりしてくるが、それも簡単に回避する。
複数設置型の魔術を壁のように張れば足止めになるだろうけど、彼女はそれをしない。いや、たぶん、出来ないんだろう。
これなら、なんとか撒けそうね。
そう思った、その時だった。
「行っちゃ……駄目なのぉぉぉ!!」
少女が、駄々をこねるように叫んだあと、二つの炎球を放ってくる。
私は他の攻撃と同じように回避し、そして……
クッ、と、炎球が私のいる方向に進路を変えてきた。
「なっ!?く、ぅ……!!」
突然であることと、油断したこともあり、私は飛んできた炎球を回避できず、咄嗟に前に出した腕に当たってしまった。
足を止めてしまった私は、後ろに振り替える。
と、しっかりと私についてきていた少女が、追いついて立ち止まり、泣きそうな顔で私を睨んでいた。
「駄目なのぉ!おにぃちゃんのとこに行っちゃ駄目なのぉ!」
「……はぁ……仕方ない、か……」
いくら逃げても、彼女は諦めずに私を追ってくるだろう。
ただそれだけならよかったけど、さっきみたいに足止めされて、撒けないのは少々辛い。
出来れば、傷つけないように撒いてから彼のとこに行きたかったんだけどな……
そう思い、ため息をつきながらしかし、私は覚悟を決める。
「ハーおにぃちゃんのとこには、行っちゃ駄目なのです……!ハーおにぃちゃんは、傷つけさせないのです……!」
「本当に、いい子ね、君は。……大丈夫よ。私は、ハー君を傷つける気なんて、ないわ」
「え……?」
「……でも、ごめんね。君には、ちょっと邪魔にならないように、倒れててもらうね」
そういってから、私は、私が“黄泉の神殿”と呼ばれる由縁である魔術を練り、そして、少女に向かって放った。
「……本当に、ごめんね……“ムドオン”」
「……あ……ぇ……?」
魔術を発動した途端、少女の周囲に黒いモヤのような魔力が彼女にまとわりつく。
その瞬間、少女は、まるで操り人形の糸がきれたように、ペタン、と膝を床につけた。
「お、ねぇさん……?なにを……?」
「大丈夫。死ぬことはないわ。ただ、ちょっと意識は失うだけ。……ごめんね、本当に……」
“呪殺魔術”『ムドオン』
対象の生命力を徐々に奪い、最終的に衰弱死させる闇属性の魔術。
教団にはほとんどいない、闇属性魔術の適性者、それゆえ私は、死を象徴するという意味で、“黄泉の神殿”と呼ばれ、そして、少なからず、恐れられていた。
……少女が気を失ってから、私は殺さないように術を解き、さらに念のために彼女が気を失っているかを確認した。
……うん、大丈夫そうね。
「……ごめんね」
何度謝ったのかわからないけど、私はもう一度謝ってから、彼の魔力を辿り、彼の元に向かうのだった。
××××××××××××××××××××××××××××××
淡く部屋を照らす照明の光に照らされながら、僕は黒く大きなそれの表面を撫でる。
演奏会の時は、僕の半身になっていると言っても過言ではなかった、それは……ピアノ。
今僕は、ピアノの置いてあった、リハーサル室の一つにいる。
ここに到着してから、だいたい5分くらい経ったろうか?
彼女が見失ったとしても、幾分かここにくるには遅い。
そう思い始めたちょうどその時、部屋の入り口の扉が、開いた。
「……遅かったね、エル」
「……ちょっと、邪魔が入っちゃってね。……にしても、やっぱり、ここに……ピアノのある場所に、来たんだ……」
僕を追って来ていたエルが、ようやく僕のいる部屋に入ってきた。
そして、彼女は僕がピアノのそばにいるところを見ると、嬉しそうに微笑んでいるのが、薄暗い部屋の中でかろうじてわかった。
「なんで嬉しそうに微笑んでいるんだい?僕を追って来た他の人達は、僕がピアノの近くにいると、すごく嫌な顔をしてたのに」
「それは……嬉しくってね。二年間、まったく引いていないのに、まだ、ピアノが好きなんだってわかってさ」
「ピアノが好きなのは当たり前だよ。嫌いになるわけがない。ピアノは、母さんからもらった大切な……僕の人生って言ってもいいものだからね。……まぁ、もう、人に聴かせることは出来ないけどね……」
「聴かせることが出来ない、じゃなくて、正確には、聴かせられない、でしょ」
自嘲気味に笑う僕にたいし、エルはそういいながら、近くの椅子に座り、そして、信じられないことを言った。
「いいわよ、私になら、遠慮なくピアノを弾いて聴かせても」
「……え……?」
「……浄化の任務なんて、本当はどうでもいいの。私はね、ただ、君のピアノを聴きにきただけなんだ」
「エル、君は、なにを言ってるのかわかってるのかい?僕のピアノは……」
「わかってる。わかってるからこそ、そう言ってるのよ」
「……わかってないよ……君は自分で自分のことを……」
「だから、わかってるって言ってるでしょう。私はね、最期に、君のピアノが聴きたいんだよ。そして、これは私の……“黄泉の神殿”の、最初で最後の、唯一失敗する任務になるんだ」
「駄目だよ……僕のピアノは、人には聴かせられない。特に、君には。だって君は、僕の大切な友人なんだ……友人を……殺せるわけ、ないじゃないか……!?」
「私だって……私だって同じだよ!私の任務は浄化、つまりは君を殺さないといけない!そんなの、嫌に決まってる!でも、教団の命令には逆らえない……!!」
僕も、エルも、目に涙を溜めながら、叫んでいた。
どちらも、同じことを考えていたのだ。
僕も、エルに殺されるつもりで、いた。
そのために、死に場所に、好きなものの近くにいたくて……ここに来た。
殺したくない。だから、死ぬしかない。
僕が自分の身を守るためにピアノを弾けば、“エルが死ぬ”。だけど僕はエルを殺したくないから、彼女に殺されるしかない。
エルが任務を果たすためには、僕を殺さないといけない。だけどエルは僕を殺したくないから、任務に失敗するしか……死ぬしか、ない。
どちらも生き残る選択肢は、なかった。
彼女が動いた。そう話に聞いてから、ずっと考えていたけれど、でも、どちらも生きて幸せになる方法は、見つからなかった。
涙を目に溜めたまま、エルは、顔をうつ向ける。
「教団は、おかしいよ……魔物たちは、友好を願っているのに、魔物は悪だ、滅さなければならないって……魔物に関わってるってだけで、罪もない人も……殺したくないって命令を無視すれば、強制的に人口人格に切り替えられて、無理矢理…………もう、疲れちゃったよ……殺したくないんだよ……だから、お願い」
ひとしきり言葉を放ったあと、エルはまた顔を上げ、そして、疲れたきったような顔をして、残酷な一言を、言う。
「私を、殺して……」
エルの言葉に、僕は、ビクリと、震えた。
「お願い。最期は、君のピアノを聴きながら死にたいの……だから、お願い。私の好きな、君のピアノで、私を殺して……」
「……ゃだ……嫌だよ……殺したくない……僕だって、殺したくなんかない!!」
ゆらり、と、エルはまるで幽鬼のように立ち上がり、お願いだから、お願いだから、とつぶやきながら、僕の下へ歩き、近づいてくる。
……また、殺すのか?
ピアノが聴きたいと願われたから……
死ぬことを知ったその上で願われたから……
弾いて、そして、殺すのか……?
ずっと我慢してきた、僕の心の奥底にたしかにあった、ピアノを弾きたいという強い欲求に駆られ、僕は床にうずくまり、自分にそう問いかけ、欲求を抑え込む。
しかし、そのせいで、僕の体は動かなかった。
徐々に、徐々に、エルと僕の距離は縮まる。
そして、互いに手の届く位置まで来る。
と、その時であった。
「なにをしておるっ!!」
バンッ!と、勢いよく扉が開かれ、聞き覚えのある声とともに、たくさんの小さな影が部屋に押し寄せてきた。
入ってきたのは、やはり、メリカさんたちであった。
突然の侵入者に驚きながらも、エルは状況を判断し、そして……
「……っ!!」
無言のまま、僕の後ろにあった、この部屋で唯一の窓を開け、そして飛び出して逃げていった。
「待つのじゃっ!皆のもの、追うぞっ!」
『はいっ!』
逃げたエルを追って、メリカさん達は部屋を出ていく。
皆が出て行き、部屋には僕一人となる。
はぁ……はぁ……と、息を荒げながら緊張していた身体が脱力し、仰向けに寝転がる形になる。
からっぽになっていた僕の頭の中では、逃げるとき、最後に言った言葉をただ意味もなく反芻していた。
『……よかった。まだ、ハー君を殺さないで済む……』
……メリカさん達が部屋に戻ってくるまで、僕はピクリとも動かず、ただ仰向けに寝転がったままでいた……
11/08/09 21:31更新 / 星村 空理
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