パリピちゃんすぐオタクくんころす
『無理』『しんどい』『尊い』『#劇場版魔法少女サバト☆マギカ』
液晶に打ち込まれた文字に、自分の語彙力のなさに自己嫌悪する。
いやでもしょうがないのだ。何言ってもネタバレになるのだ。
でもサバマギを世のオタクどもに見て欲しいのだ。
内なるハム太郎と顔をくしくしして、ツイートのボタンをタップする。
タイムラインのトップに置かれた自分のつぶやきに満足し、ポケットに携帯をしまった。
「……ふぅ」
おかしいな。映画見てツイートしただけで一仕事終えた気分になっている。
一時間半とはいえあまりにも濃い内容だったからかもしれない。
いやだってダメじゃんあの展開(褒め言葉)
後天的に魔女になった主人公ちゃんとその使い魔になったファミリアちゃん。
アニメの一期でこそギスギスとした関係だったが、終盤では腐れ縁のようにお互いに心の奥底では仲間と認めあった非常にいい関係だった。
それが映画では一緒にパフェを食べあいっこしてたり、映画オリジナルの展開とはいえど一緒に合体魔法で強敵に息ぴったりで挑んだり、最後には一緒のベッドで寝てたり。
こんなん絶対好きじゃん。オタクはそういうのに弱いんだぞ。
「おっと」
昇天しかけた魂の尻尾を引っ掴んで自分に戻す。
危うく思い出死ぬところだった。
「お会計、1万2380円やで」
あら、意外と安いわ。
グッズ販売コーナーで目についたパンフレットとTシャツの半袖と長袖、双方共に柄が違うあたりもう公式様はしょうがないなあって感じになるけど、それに加えて主人公ちゃんとファミリアちゃんと二人が抱き合っているマグカップ計3つ。
販売員の刑部狸がニコニコと笑っている。
彼女にとって、僕がいいお客さまになれたらいいなとこっちも笑顔になる。
財布から1万円札と千円札を2枚、小銭入れから100円玉を4枚受け皿に入れる。
「これでお願いします」
「毎度おおきに♪ ほなこれ、お釣りの20円や」
「あざっす!」
丁寧に個包装してくれた店員さんにお礼を言って行列から抜ける。
あ、そういえば忘れていたと携帯をポケットから取り出す。
アニメ一期のブルーレイBOX注文しなきゃ。
あと今回の劇場版はいつまで見れたっけ、次の休みにもっかい見に来よう。
カレンダーからスケジュールを確認しながら、僕は映画館を後にした。
レイトショーで見たこともあり、とっぷり暮れた帰り道。
明日が休みであることも考慮したこともあり、映画の余韻に浸りながらのれんをくぐる。
「すいません。三色チーズ牛丼の特盛温玉付きをお願いします」
「あいよー、チー牛温玉付き一つー」
テンションが荒ぶってるせいか、ついハイファットハイカロリー飯を頼んでしまった。
しょうがないね。チーズとニンニクと肉と温玉はオタクの主食だから。
なんてしょうもないことを考えながら、自分の席に本日の戦利品を引掛ける。
外気温との差でくもる眼鏡をティッシュで磨いて店内を何気なく見回してみる。
時計の短い針が9の数字を回っているせいか、客数は昼に比べてまばらだ。
落ち着いてメシが食えるのはありがたい。
お冷を入れようと給水機に近づいた、その時だった。
ガラガラと丁度僕の隣にあった引き戸が勢いよく開かれる。
勢いあまってガタンとレールを跳ねる音に、僕の身体もびくりと跳ねた。
「おっちゃん、トン汁と牛丼おねがーい」
「あいよ。トン汁牛丼いっちょー」
夜中の牛丼屋チェーン店にはふさわしくないほどあどけない声に、思わず振り返る。
店内に躍り込んできた人物は、僕よりも頭一つ小さな少女だった。
この冬中に寒くないのか、だぼだぼのパーカーはへそが見えるほどオープンセサミ。
パーカーの下もチューブトップ一枚で、下は履いているのか見えそうで見えない。
惜しげもなく晒された小麦色の肢体に、顔に熱が集まるのに一拍遅れて気付いた。
目に毒だと目をそらし、慌ててお冷を飲み下す。
額から垂直に伸びたツノから、確かパイロゥという魔物娘だったはずだと思い出す。
「よっと」
そう呟いて彼女が座ったのは、知ってか知らずか僕の隣の席だった。
一番気まずいヤツである。
隣に座ったらコイツわざわざ私の隣に座りやがったとか思われるし、だからと言って席に引掛けている荷物を取って移動すると私の隣はそんなに嫌だったかと思われるヤツだ。
ひん、マジつらたん。
心の中にしわくちゃピカチュウを思い浮かべつつお冷をもう一杯入れる。
「これ、良かったら」
彼女の席にお冷を注いだコップを一つ置く。
さぁどういう反応が来る……? と戦々恐々な気持ちで隣に座る。
恐る恐るパイロゥの様子を伺うと、彼女はニッと白い歯を見せて快活に笑っていた。
やんちゃに生えた八重歯が、彼女のあどけなさを際立たせる。
「マジ卍! あざまる水産よいちょまる!」
「うんごめんなんて???」
分かってたけどおぬしさては陽の里のものだな???
未知の言語に対する困惑と圧倒的な光属性のオリジナル笑顔に眩さを感じる。
陰の里のものには荷が重いでござる。心のピカチュウのシワが一層深くなった。
「ありがとっメガネくん! やさしーんだね!」
「あはは……、まぁ、ついでっすよ」
こ無ゾ(絶命)
けたけたと愉快そうに笑いながらコップの水を一口含むパイロゥ。
やめろよ……オタクは陽キャに褒められると灰になって死ぬんだぞ……。
HPとSAN値がゴリゴリ減るのを感じながら、僕はなんとか彼女に笑顔で応えられた。
「夜の牛丼って背徳的だよね。メガネくんも?」
「へい、チー牛お待ち」
「ヤバっ、バチバチの熱盛じゃん! テン上げ〜!」
人間五十年。化天のうちを比ぶれば。夢幻の如くなり。
バチバチの敦盛が脳内に流れるがテン上げとは何だろうか。
カウンターから僕のテーブルに置かれたハイファットハイカロリー飯にウケるとおなかを抱える少女に、にっこり微笑んで困惑をしまい込む。
なにが琴線に触れたのか、彼女は明るい笑顔で僕に話しかけ続ける。
「メガネくん七味いる? 辛いのイケる?」
「まぁ……」
「チー牛に合うんだよ七味。ウチもチー牛にしたら良かった〜」
「はぁ……」
「てかメガネくんこんな時間になんですきや? どっかの帰り?」
「えぇと、映画館に……」
「えっえっ、何見たの? もしかしたらウチも同じの見たかも……」
「あえぇ。。。。。。(絶命)」
「あれ、全然お箸進んでないじゃんメガネくん。ごめんね、ウチかまちょだからさぁ」
マキマさん助けて。俺この娘好きになっちまう。
ぐいぐい来ていたパイロゥは、申し訳なさげに片手でこちらを拝んでいる。
良かった、見た映画について掘り下げられてたら即死だった。
もう話しかける気はないのか、彼女はニコニコとこちらを見つめている。
頬杖を突いているせいか、手のひらを押し当てたほっぺたがひどくやわっこそうだった。
(いかんいかん……)
顔以外を見ていると、ついそのはだけた胸元に目が行きそうになってしまう。
ニュートンの発見した万乳引力は偉大である。言い訳に面目が立つから。
しかしだからといって見ていいかどうかは話が別である。
僕は分別のあるオタクなので。
チー牛に七味をいくらか振りかけると、彼女の微笑みが一層艶やかになった。
「にひひ♥」
僕がチー牛に七味を入れたことがそんなに嬉しいらしい。
やめろよぅ……オタクは女の子の一挙手一投足に敏感なんだぞぅ……。
顔から火が出そうになるのを水を呷ることで堪える。
チー牛を掻っ込むが、羞恥に染まった脳みそのせいか味覚が死んでて何も分からない。
「んぐふッ」
器官に米粒が入ってむせた。
鼻と口を押えて、ぐふぐふせき込む僕にパイロゥが慌てる。
「メガネくん、これ!」
そう言って彼女が自分のコップを僕の手元に押し付ける。
彼女に会釈で感謝の意を伝え、ありがたくお冷を呷る。
死ぬほどではなかったが、危うく米が鼻までリバースするところだった。
「ありがと……」
情けないやら恥ずかしいやらで息も絶え絶えに感謝する僕に、彼女は良かったと無邪気に胸を撫で下ろす。
優しすぎて全俺が泣いた。勝手に苦手意識持ってごめん。
「……あっ」
途端に、彼女が何かに気付いたかのように口元に手をやる。
やっちまった、と言わんばかりの態度に、僕も何かやらかしたのかとぎくりとする。
財布でも忘れたのだろうか、迷惑をかけた手前、困っているなら力になりたい。
恐る恐るどうしたの? と聞くと、彼女は気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「いや、その……間接チューになっちゃったなって」
間接チュー。
錆びたブリキのように、僕の首がギギギと鳴った気がした。
手元にある空になったグラスは、確か僕が彼女に良かれと思って渡したものだ。
間接チュー。
目の前で照れたようにあははと笑う少女に、言葉を咀嚼する。
つまり、そういうことである。
「ミ゜ッ(絶命)」
僕は死んだ。
溶岩でもかかったかのように熱い顔が最後に見たのは、仰天するパイロゥの顔だった。
◆ ◆ ◆
学ランに身を包んだ僕が、教室の端っこで文庫本を読んでいる。
穏やかにぺらぺらと、一枚一枚ゆっくりとページをめくっている姿に思いだす。
あれは恐らく、中学生の頃の僕だ。
ブックカバーで隠してこそいるが、その本のタイトルは『魔法少女サバト☆マギカ』だ。
当時僕がオタクになるきっかけになったライトノベルで、今でも現役刊行中だ。
あぁ、走馬灯か。
ポンと手を打つ。普段からよく死んでいるが、とうとう本当に死んだのかもしれない。
なんて呑気に考えていると、耳をつんざく怒声があたりに響いた。
「食べ終わった食器は浸けておいてって何度言ったら分かるの!?」
「うるさいな! 仕事で疲れてるんだ! それくらいお前がやれ!」
この声は両親の声だ。
今は離婚しているせいでどこか久しい、そういえば父の声はこんなだったなと懐かしむ。
ぎゃあぎゃあと響く怒声から逃げるように、よく自分の部屋に引きこもって本を読んだ。
物心ついたときから、両親はよく衝突していた。
母さんが家事を回し、父が家計を回し、家族という仕事を回しているような、そんな業務的な家だった。
仕事という役目をこなして家にお金さえ入れれば、それ以上する気はないというビジネスライクな父はたぶん僕に興味がなかった。
仕事をしてお金を稼ぐことがどんなに大変か、いまの自分はよく知っている。
しかし、母さんは父にそれ以上を求めていた。
「あんた、たまにはハジメと遊んであげたら? いつも本読んでばかりで寂しそうなのよ」
「悪いけど、俺も疲れてるんだ。休日くらいゆっくり寝かせてくれ」
そんなやり取りを何度か繰り返して、母さんは父に僕のことを相談しなくなった。
代わりに小さな衝突が、僕の目の前でもよく起こるようになった。
「シャツを裏返して洗濯機に入れないで。干すとき面倒でしょ」
「タバコはベランダで吸ってって言ってるでしょ。ハジメが見てるのよ」
「部屋の掃除くらい自分でしなさいよ、ハジメだってそうしてるのに」
そんなお小言が積み重なって、いつしか毎日のように口喧嘩が始まるようになった。
その時の大きい声が嫌いだった。
自分は悪くないのに、何か悪いことをしてしまったのかと身体がすくむ。
そんな僕の逃げた先が、ライトノベルだった。
そうだった。僕はファンタジーが好きだった。
サバマギは本当に好きなラノベだった。
苦難を共にすればそこに友情や愛情が生まれ、喧嘩してしまってもいつかは仲直りして、好きな人とはずっと一緒に幸せになれる。
そういうきれいごとに飢えていた僕が、一番読みたかったファンタジーだったからだ。
本を閉じて現実に戻るたびに、だからファンタジーなのかと納得した。
この世にそんなものはないから、こんなに物語はきれいなんだ。
そう思うことで、いつも納得していた。
「いつもいつもうるさいんだよ! そんなにハジメが大事ならお前一人で面倒見ろ!」
「あぁそう! 私はそれでいいわよ、せいせいするわ本当に!」
「あんたなんかと結婚するんじゃなかった!」
目が覚めた。
ぐっしょりと全身が嫌な汗に濡れている。
もう何年も昔のことなのに、今でも夢に見るということはまだまだトラウマなのだろう。
小さくため息をこぼすと、額の汗を冷たい何かがぬぐった。
たぶん、水で濡らしたタオルだ。
「だいじょーぶ? なんか、魘されてたケド」
心配そうなはちみつ色の瞳が、僕を見下ろす。
さらりと、色素の薄い絹のような金髪が頬を撫でた。
「だいじょうぶ……いつものことだから……」
寝起きで回らない舌を何とか動かすと、少女の顔が少し曇った。
あぁ、失敗した。そういう顔をさせたかったわけじゃないのに。
「おはよ……。ここ、僕んち……?」
身体を起こして辺りを見回すと、見慣れた部屋だった。
サバマギの限定ポスターが幾つも壁に張られ、ガラスケースには主人公ちゃんとファミリアちゃんのフィギュアが所狭しと並んでいる。
オタク趣味全開の部屋に、我が家ながら苦笑いが漏れた。
「…………うん?」
長らく寝ていた頭が起き上がったせいか、血の気がスッと引いた。
いま僕は誰と話して起き上がったんだ? というか、自宅に帰った記憶がない。
確か僕は、映画で劇場版のサバマギを見て、帰りに夕飯がてらすきやでご飯食べて……。
徐々に思いだされていく記憶に、さっきとは違った意味で嫌な汗がドバアと吹き出る。
そんな……嘘だろ……と一縷の望みを掛けて振り返ると、居心地悪そうに正座する少女。
隣の席に座ったパイロゥだった。
「メガネくんじゃなくて、オタクくんだったんだね」
死のっかな。うん。
僕の目が据わったのを見て、パイロゥは慌ててわたわたと両手を振った。
「ご、ごめんね!? ホントはお家まで届けるだけのつもりだったんだけど、オタクくんが苦しそうで放っておけなかったの! ほら、ウチのせいで気絶しちゃったし……!」
「こっちこそごめんね、お詫びにすぐ死ぬから」
「死なないで!? お詫びのつもりなら生きてほしいな!!」
意図せず他人の秘密を知ってしまったせいか、パイロゥは気まずげに苦笑いしている。
死んで詫びるしかないのに彼女は死ぬなという。
オタクってほんと何やってもダメ、今世は徳を積んで来世にワンチャン期待しよう。
「あ、これ返すねオタクくん」
そう言って彼女が手渡してきたのは僕の財布と映画館で買ったグッズの袋だ。
なぜ財布? と怪訝な顔で伺うと、少しバツが悪そうに頬を掻いている。
「その、オタクくんの住所わかんなくて免許証見たの。もちろんお金は盗ってないよ?」
この期に及んで少しでも疑った自分を恥じた。
オタクに優しいギャルは実在したらしい。
なによそれ、もう死ぬしかないじゃない。
「それで、あの、オタクくんにいっこ、質問してもいい?」
「……え? あ、はい、もう、なんなりと」
僕の内心を知ってか知らずか、彼女はにっこりと微笑む。
眩しい笑顔に穢れた心が浄化されるような気分である。
しかし彼女の口から出てきた言葉はまたも僕を殺しに来た。
「オタクくんって、ロリコンくん?」
「んんんんんんんん!!」
疑われても仕方ない彼女の疑問に撥音が喉から飛び出す。
いや、うん。そう見えても仕方ないよね!!
サバマギの登場人物はサバトの関係者ばかりなだけにロリッ娘が多い。
主人公は魔女、相棒はファミリア、二人の保護者のようなバフォさま。
そんな彼女たちのフィギュアやポスターがここぞとばかりに並んでいたらそう思われても仕方ない、というかむしろそう考えるのが自然だ。
しかしながら穢れない眼でそんなことを質問されると非常にやむ。
「えぇと……現実とぉ、フィクションのぉ、区別はついているのでぇ……」
「うんうん」
僕のしどろもどろな言葉に、彼女は真剣な面持ちでうなずく。
この娘はもっと自分がかわいいと自覚を持ってくれないだろうか。
そんな質問されるオタクの気持ちも考えてくれ、死にたいんだぞ。
「別に、ロリコンというわけでは、ないです……」
「そうなんだ、良かったぁ!」
なにも良くねぇんだよなぁ。
心を虚無で満たしつつ、彼女の笑顔に乾いた愛想笑いで返す。
「じゃあ、ウチと一発ヤらない?」
「んんんんんんんん!!」
本当に何も良くなかった。
満面の笑みで爆弾をぶん投げる彼女に思わず床板に額をぶつけた。
オタクはすぐに死ぬ。童貞なので刺激に弱いのだ。
「オタクくんみたいな優しい子、ウチの好みなんだよね。ね、どお?」
これなんてエロゲ? と困惑する僕に、四つん這いで這いよるパイロゥ。
両腕に挟まれた谷間が柔らかく形を変えて迫り、目が離せない。
彼女の小さな口端が、三日月のように吊り上がっている。
「ほら、こんなにおっきくしてる♥ 気持ちよく、ヌいてあげるよ♥」
すぅっと、狙っているのかズボン越しに裏すじを撫でられる。
びくりと肩が跳ねる僕に、彼女の顔が触れそうなほどに迫る。
どろどろに蕩けたはちみつ色の瞳が、ろうそくのように揺れている。
はくはくと、声が音にならない僕に彼女の唇が触れそうになった。
「あんたなんかと結婚するんじゃなかった!」
どん、と。
気が付くと、彼女を突き飛ばしていた。
まさか自分が突き飛ばされると思っていなかったパイロゥは、ぱちくりと目を瞬かせる。
全身の血の気が引いて、ひどく動揺する。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも理解できなかった。
「あの、ごめ……その、そんなつもりじゃ……」
呆ける彼女に、慌てて手を振る。
無性に情けなくて、鼻の頭が締め付けられるように痛くなる。
ぼろりと、目尻から熱いものがこぼれ落ちた。
「さ、最低だ……こんな……」
「お、落ち着いてオタクくん! どうしたの、なんで泣いてるの?」
泣いている自分が情けなくなって顔を隠す僕に、パイロゥが慌てて僕の両手を掴む。
目を擦らせないようにしたいのか、僕よりも細い腕なのにびくともしなかった。
いやいやと頭を振る僕に、彼女のおろおろとした気配が伝わる。
「な、なにが嫌だった? ウチのせい……?」
「ち、がう……。っく、ちがう……」
しゃくりあげているせいでまともに言葉を紡げない。
でも、僕の最低を、今でも自分の事を心配している彼女のせいにしたくなかった。
ちがうちがうと、何度も首を振る僕に、彼女は安心したようにホッと息を吐いた。
「嫌われてるのかと思っちゃった……。じゃあ、その、どうして……?」
彼女の疑問に、答えられない。
自分の中でも、なんでそうしたのか分からなかった。
「……怖かった?」
彼女の声に、顔を上げる。
なんとなく、その言葉が合っている気がした。
彼女なりに思うところがあるのか、ぽつぽつと言葉を続ける。
「オタクくん、会った時からずっと一線引いてたから……」
その癖は自覚がある。
僕は誰とも仲良くなりたくない。そう思っている節がある。
なんでかなんて、分かりきっている。
破局したくない。母さんと父のように。
永遠に続く関係性なんてないのだと、幼心に僕はよく知っていた。
友情だって、愛情だって、いずれは終わってしまうのだ。
あんな周り全てを不幸にするような別れ方をするくらいなら、僕は誰とも付き合わない。
たぶんきっと、そう決めたんだと思う。
「そっ、か」
たどたどしく自白した僕に、彼女は茫然としたように僕の両手から手を放した。
呆れているのか、軽蔑しているのか。
彼女の温度が離れたことが怖くなって、顔を上げることが出来なかった。
「オタクくん、冷たいんだね」
するりと、壊れ物に触れるように彼女の手のひらが後頭部を包んだ。
ぐさりと刺さる言葉とは裏腹に、その声色はどこまでも優しかった。
「心が冷たくなっちゃってるんだよ、オタクくん。キミは優しい子なのにね」
そう言って、頭を彼女の胸元に抱きすくめられる。
とくとくと温かい脈拍が、鼓膜を優しく揺らす。
するすると髪を梳くように撫でられ、少しずつ動揺が治まっていくのが分かった。
「ウチのために当たり前みたいにお冷一緒に入れてくれたり、行きずりのおとなりさんとあんなにお喋りしてくれるんだから、オタクくんは優しい子なんだよ」
「………………っ」
「なのに、仲良くなりたくないなんて冷たいよ。ズルいや」
ウチはキミのことが好きなのにね。
そう付け加えられた言葉に、心臓が跳ねる。
言い聞かせるような優しい声音だが、同時に絶対に逃がさないという強い意志を感じた。
「ウチね、心に火をつけれるんだ」
そういうと彼女の身体がパッと僕から離れた。
僕に差し出した手のひらに、煌々と火が灯った。
燃え盛るように赤くいて、優しく照らすかのように橙色が揺れている。
「人の心に火をつけて、ずっと一緒にえっちする悪い娘なの♥」
炎に照らされた彼女が、淫靡な笑みを浮かべる。
ちゅるりと下唇を舐めた小さな舌が、ひどくいやらしかった。
ごくりと生唾を飲む僕に、彼女はじゅっと手を握って火を消した。
「でも、オタクくんが怖がることしたくないな。ねぇ、どうしたらいいと思う?」
楽しそうに笑う彼女は、もうその答えが分かっているようだった。
目尻に貯まった涙を拭い、どうするのと尋ねる。
待ってましたと言わんばかりに、彼女の笑顔が咲いた。
「キミが怖くなくなるまで、ウチがキミの心をあっためたげる♥」
だから、一緒にいよーね?
耳元で囁かれた言葉に、背筋がぞくぞくと泡立つ。
そんなに軽率に距離を詰めないで欲しい。
耳まで熱くなって彼女から距離を取ると、彼女はニコニコと実にいい笑顔だ。
「……ひとつ、言っとくことがある」
「うん。なぁに?」
こてんと小首を傾げる彼女に、僕は言葉を続けた。
「……オタクに軽率にそういうことすると好きになっちゃうからやめてね」
液晶に打ち込まれた文字に、自分の語彙力のなさに自己嫌悪する。
いやでもしょうがないのだ。何言ってもネタバレになるのだ。
でもサバマギを世のオタクどもに見て欲しいのだ。
内なるハム太郎と顔をくしくしして、ツイートのボタンをタップする。
タイムラインのトップに置かれた自分のつぶやきに満足し、ポケットに携帯をしまった。
「……ふぅ」
おかしいな。映画見てツイートしただけで一仕事終えた気分になっている。
一時間半とはいえあまりにも濃い内容だったからかもしれない。
いやだってダメじゃんあの展開(褒め言葉)
後天的に魔女になった主人公ちゃんとその使い魔になったファミリアちゃん。
アニメの一期でこそギスギスとした関係だったが、終盤では腐れ縁のようにお互いに心の奥底では仲間と認めあった非常にいい関係だった。
それが映画では一緒にパフェを食べあいっこしてたり、映画オリジナルの展開とはいえど一緒に合体魔法で強敵に息ぴったりで挑んだり、最後には一緒のベッドで寝てたり。
こんなん絶対好きじゃん。オタクはそういうのに弱いんだぞ。
「おっと」
昇天しかけた魂の尻尾を引っ掴んで自分に戻す。
危うく思い出死ぬところだった。
「お会計、1万2380円やで」
あら、意外と安いわ。
グッズ販売コーナーで目についたパンフレットとTシャツの半袖と長袖、双方共に柄が違うあたりもう公式様はしょうがないなあって感じになるけど、それに加えて主人公ちゃんとファミリアちゃんと二人が抱き合っているマグカップ計3つ。
販売員の刑部狸がニコニコと笑っている。
彼女にとって、僕がいいお客さまになれたらいいなとこっちも笑顔になる。
財布から1万円札と千円札を2枚、小銭入れから100円玉を4枚受け皿に入れる。
「これでお願いします」
「毎度おおきに♪ ほなこれ、お釣りの20円や」
「あざっす!」
丁寧に個包装してくれた店員さんにお礼を言って行列から抜ける。
あ、そういえば忘れていたと携帯をポケットから取り出す。
アニメ一期のブルーレイBOX注文しなきゃ。
あと今回の劇場版はいつまで見れたっけ、次の休みにもっかい見に来よう。
カレンダーからスケジュールを確認しながら、僕は映画館を後にした。
レイトショーで見たこともあり、とっぷり暮れた帰り道。
明日が休みであることも考慮したこともあり、映画の余韻に浸りながらのれんをくぐる。
「すいません。三色チーズ牛丼の特盛温玉付きをお願いします」
「あいよー、チー牛温玉付き一つー」
テンションが荒ぶってるせいか、ついハイファットハイカロリー飯を頼んでしまった。
しょうがないね。チーズとニンニクと肉と温玉はオタクの主食だから。
なんてしょうもないことを考えながら、自分の席に本日の戦利品を引掛ける。
外気温との差でくもる眼鏡をティッシュで磨いて店内を何気なく見回してみる。
時計の短い針が9の数字を回っているせいか、客数は昼に比べてまばらだ。
落ち着いてメシが食えるのはありがたい。
お冷を入れようと給水機に近づいた、その時だった。
ガラガラと丁度僕の隣にあった引き戸が勢いよく開かれる。
勢いあまってガタンとレールを跳ねる音に、僕の身体もびくりと跳ねた。
「おっちゃん、トン汁と牛丼おねがーい」
「あいよ。トン汁牛丼いっちょー」
夜中の牛丼屋チェーン店にはふさわしくないほどあどけない声に、思わず振り返る。
店内に躍り込んできた人物は、僕よりも頭一つ小さな少女だった。
この冬中に寒くないのか、だぼだぼのパーカーはへそが見えるほどオープンセサミ。
パーカーの下もチューブトップ一枚で、下は履いているのか見えそうで見えない。
惜しげもなく晒された小麦色の肢体に、顔に熱が集まるのに一拍遅れて気付いた。
目に毒だと目をそらし、慌ててお冷を飲み下す。
額から垂直に伸びたツノから、確かパイロゥという魔物娘だったはずだと思い出す。
「よっと」
そう呟いて彼女が座ったのは、知ってか知らずか僕の隣の席だった。
一番気まずいヤツである。
隣に座ったらコイツわざわざ私の隣に座りやがったとか思われるし、だからと言って席に引掛けている荷物を取って移動すると私の隣はそんなに嫌だったかと思われるヤツだ。
ひん、マジつらたん。
心の中にしわくちゃピカチュウを思い浮かべつつお冷をもう一杯入れる。
「これ、良かったら」
彼女の席にお冷を注いだコップを一つ置く。
さぁどういう反応が来る……? と戦々恐々な気持ちで隣に座る。
恐る恐るパイロゥの様子を伺うと、彼女はニッと白い歯を見せて快活に笑っていた。
やんちゃに生えた八重歯が、彼女のあどけなさを際立たせる。
「マジ卍! あざまる水産よいちょまる!」
「うんごめんなんて???」
分かってたけどおぬしさては陽の里のものだな???
未知の言語に対する困惑と圧倒的な光属性のオリジナル笑顔に眩さを感じる。
陰の里のものには荷が重いでござる。心のピカチュウのシワが一層深くなった。
「ありがとっメガネくん! やさしーんだね!」
「あはは……、まぁ、ついでっすよ」
こ無ゾ(絶命)
けたけたと愉快そうに笑いながらコップの水を一口含むパイロゥ。
やめろよ……オタクは陽キャに褒められると灰になって死ぬんだぞ……。
HPとSAN値がゴリゴリ減るのを感じながら、僕はなんとか彼女に笑顔で応えられた。
「夜の牛丼って背徳的だよね。メガネくんも?」
「へい、チー牛お待ち」
「ヤバっ、バチバチの熱盛じゃん! テン上げ〜!」
人間五十年。化天のうちを比ぶれば。夢幻の如くなり。
バチバチの敦盛が脳内に流れるがテン上げとは何だろうか。
カウンターから僕のテーブルに置かれたハイファットハイカロリー飯にウケるとおなかを抱える少女に、にっこり微笑んで困惑をしまい込む。
なにが琴線に触れたのか、彼女は明るい笑顔で僕に話しかけ続ける。
「メガネくん七味いる? 辛いのイケる?」
「まぁ……」
「チー牛に合うんだよ七味。ウチもチー牛にしたら良かった〜」
「はぁ……」
「てかメガネくんこんな時間になんですきや? どっかの帰り?」
「えぇと、映画館に……」
「えっえっ、何見たの? もしかしたらウチも同じの見たかも……」
「あえぇ。。。。。。(絶命)」
「あれ、全然お箸進んでないじゃんメガネくん。ごめんね、ウチかまちょだからさぁ」
マキマさん助けて。俺この娘好きになっちまう。
ぐいぐい来ていたパイロゥは、申し訳なさげに片手でこちらを拝んでいる。
良かった、見た映画について掘り下げられてたら即死だった。
もう話しかける気はないのか、彼女はニコニコとこちらを見つめている。
頬杖を突いているせいか、手のひらを押し当てたほっぺたがひどくやわっこそうだった。
(いかんいかん……)
顔以外を見ていると、ついそのはだけた胸元に目が行きそうになってしまう。
ニュートンの発見した万乳引力は偉大である。言い訳に面目が立つから。
しかしだからといって見ていいかどうかは話が別である。
僕は分別のあるオタクなので。
チー牛に七味をいくらか振りかけると、彼女の微笑みが一層艶やかになった。
「にひひ♥」
僕がチー牛に七味を入れたことがそんなに嬉しいらしい。
やめろよぅ……オタクは女の子の一挙手一投足に敏感なんだぞぅ……。
顔から火が出そうになるのを水を呷ることで堪える。
チー牛を掻っ込むが、羞恥に染まった脳みそのせいか味覚が死んでて何も分からない。
「んぐふッ」
器官に米粒が入ってむせた。
鼻と口を押えて、ぐふぐふせき込む僕にパイロゥが慌てる。
「メガネくん、これ!」
そう言って彼女が自分のコップを僕の手元に押し付ける。
彼女に会釈で感謝の意を伝え、ありがたくお冷を呷る。
死ぬほどではなかったが、危うく米が鼻までリバースするところだった。
「ありがと……」
情けないやら恥ずかしいやらで息も絶え絶えに感謝する僕に、彼女は良かったと無邪気に胸を撫で下ろす。
優しすぎて全俺が泣いた。勝手に苦手意識持ってごめん。
「……あっ」
途端に、彼女が何かに気付いたかのように口元に手をやる。
やっちまった、と言わんばかりの態度に、僕も何かやらかしたのかとぎくりとする。
財布でも忘れたのだろうか、迷惑をかけた手前、困っているなら力になりたい。
恐る恐るどうしたの? と聞くと、彼女は気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「いや、その……間接チューになっちゃったなって」
間接チュー。
錆びたブリキのように、僕の首がギギギと鳴った気がした。
手元にある空になったグラスは、確か僕が彼女に良かれと思って渡したものだ。
間接チュー。
目の前で照れたようにあははと笑う少女に、言葉を咀嚼する。
つまり、そういうことである。
「ミ゜ッ(絶命)」
僕は死んだ。
溶岩でもかかったかのように熱い顔が最後に見たのは、仰天するパイロゥの顔だった。
◆ ◆ ◆
学ランに身を包んだ僕が、教室の端っこで文庫本を読んでいる。
穏やかにぺらぺらと、一枚一枚ゆっくりとページをめくっている姿に思いだす。
あれは恐らく、中学生の頃の僕だ。
ブックカバーで隠してこそいるが、その本のタイトルは『魔法少女サバト☆マギカ』だ。
当時僕がオタクになるきっかけになったライトノベルで、今でも現役刊行中だ。
あぁ、走馬灯か。
ポンと手を打つ。普段からよく死んでいるが、とうとう本当に死んだのかもしれない。
なんて呑気に考えていると、耳をつんざく怒声があたりに響いた。
「食べ終わった食器は浸けておいてって何度言ったら分かるの!?」
「うるさいな! 仕事で疲れてるんだ! それくらいお前がやれ!」
この声は両親の声だ。
今は離婚しているせいでどこか久しい、そういえば父の声はこんなだったなと懐かしむ。
ぎゃあぎゃあと響く怒声から逃げるように、よく自分の部屋に引きこもって本を読んだ。
物心ついたときから、両親はよく衝突していた。
母さんが家事を回し、父が家計を回し、家族という仕事を回しているような、そんな業務的な家だった。
仕事という役目をこなして家にお金さえ入れれば、それ以上する気はないというビジネスライクな父はたぶん僕に興味がなかった。
仕事をしてお金を稼ぐことがどんなに大変か、いまの自分はよく知っている。
しかし、母さんは父にそれ以上を求めていた。
「あんた、たまにはハジメと遊んであげたら? いつも本読んでばかりで寂しそうなのよ」
「悪いけど、俺も疲れてるんだ。休日くらいゆっくり寝かせてくれ」
そんなやり取りを何度か繰り返して、母さんは父に僕のことを相談しなくなった。
代わりに小さな衝突が、僕の目の前でもよく起こるようになった。
「シャツを裏返して洗濯機に入れないで。干すとき面倒でしょ」
「タバコはベランダで吸ってって言ってるでしょ。ハジメが見てるのよ」
「部屋の掃除くらい自分でしなさいよ、ハジメだってそうしてるのに」
そんなお小言が積み重なって、いつしか毎日のように口喧嘩が始まるようになった。
その時の大きい声が嫌いだった。
自分は悪くないのに、何か悪いことをしてしまったのかと身体がすくむ。
そんな僕の逃げた先が、ライトノベルだった。
そうだった。僕はファンタジーが好きだった。
サバマギは本当に好きなラノベだった。
苦難を共にすればそこに友情や愛情が生まれ、喧嘩してしまってもいつかは仲直りして、好きな人とはずっと一緒に幸せになれる。
そういうきれいごとに飢えていた僕が、一番読みたかったファンタジーだったからだ。
本を閉じて現実に戻るたびに、だからファンタジーなのかと納得した。
この世にそんなものはないから、こんなに物語はきれいなんだ。
そう思うことで、いつも納得していた。
「いつもいつもうるさいんだよ! そんなにハジメが大事ならお前一人で面倒見ろ!」
「あぁそう! 私はそれでいいわよ、せいせいするわ本当に!」
「あんたなんかと結婚するんじゃなかった!」
目が覚めた。
ぐっしょりと全身が嫌な汗に濡れている。
もう何年も昔のことなのに、今でも夢に見るということはまだまだトラウマなのだろう。
小さくため息をこぼすと、額の汗を冷たい何かがぬぐった。
たぶん、水で濡らしたタオルだ。
「だいじょーぶ? なんか、魘されてたケド」
心配そうなはちみつ色の瞳が、僕を見下ろす。
さらりと、色素の薄い絹のような金髪が頬を撫でた。
「だいじょうぶ……いつものことだから……」
寝起きで回らない舌を何とか動かすと、少女の顔が少し曇った。
あぁ、失敗した。そういう顔をさせたかったわけじゃないのに。
「おはよ……。ここ、僕んち……?」
身体を起こして辺りを見回すと、見慣れた部屋だった。
サバマギの限定ポスターが幾つも壁に張られ、ガラスケースには主人公ちゃんとファミリアちゃんのフィギュアが所狭しと並んでいる。
オタク趣味全開の部屋に、我が家ながら苦笑いが漏れた。
「…………うん?」
長らく寝ていた頭が起き上がったせいか、血の気がスッと引いた。
いま僕は誰と話して起き上がったんだ? というか、自宅に帰った記憶がない。
確か僕は、映画で劇場版のサバマギを見て、帰りに夕飯がてらすきやでご飯食べて……。
徐々に思いだされていく記憶に、さっきとは違った意味で嫌な汗がドバアと吹き出る。
そんな……嘘だろ……と一縷の望みを掛けて振り返ると、居心地悪そうに正座する少女。
隣の席に座ったパイロゥだった。
「メガネくんじゃなくて、オタクくんだったんだね」
死のっかな。うん。
僕の目が据わったのを見て、パイロゥは慌ててわたわたと両手を振った。
「ご、ごめんね!? ホントはお家まで届けるだけのつもりだったんだけど、オタクくんが苦しそうで放っておけなかったの! ほら、ウチのせいで気絶しちゃったし……!」
「こっちこそごめんね、お詫びにすぐ死ぬから」
「死なないで!? お詫びのつもりなら生きてほしいな!!」
意図せず他人の秘密を知ってしまったせいか、パイロゥは気まずげに苦笑いしている。
死んで詫びるしかないのに彼女は死ぬなという。
オタクってほんと何やってもダメ、今世は徳を積んで来世にワンチャン期待しよう。
「あ、これ返すねオタクくん」
そう言って彼女が手渡してきたのは僕の財布と映画館で買ったグッズの袋だ。
なぜ財布? と怪訝な顔で伺うと、少しバツが悪そうに頬を掻いている。
「その、オタクくんの住所わかんなくて免許証見たの。もちろんお金は盗ってないよ?」
この期に及んで少しでも疑った自分を恥じた。
オタクに優しいギャルは実在したらしい。
なによそれ、もう死ぬしかないじゃない。
「それで、あの、オタクくんにいっこ、質問してもいい?」
「……え? あ、はい、もう、なんなりと」
僕の内心を知ってか知らずか、彼女はにっこりと微笑む。
眩しい笑顔に穢れた心が浄化されるような気分である。
しかし彼女の口から出てきた言葉はまたも僕を殺しに来た。
「オタクくんって、ロリコンくん?」
「んんんんんんんん!!」
疑われても仕方ない彼女の疑問に撥音が喉から飛び出す。
いや、うん。そう見えても仕方ないよね!!
サバマギの登場人物はサバトの関係者ばかりなだけにロリッ娘が多い。
主人公は魔女、相棒はファミリア、二人の保護者のようなバフォさま。
そんな彼女たちのフィギュアやポスターがここぞとばかりに並んでいたらそう思われても仕方ない、というかむしろそう考えるのが自然だ。
しかしながら穢れない眼でそんなことを質問されると非常にやむ。
「えぇと……現実とぉ、フィクションのぉ、区別はついているのでぇ……」
「うんうん」
僕のしどろもどろな言葉に、彼女は真剣な面持ちでうなずく。
この娘はもっと自分がかわいいと自覚を持ってくれないだろうか。
そんな質問されるオタクの気持ちも考えてくれ、死にたいんだぞ。
「別に、ロリコンというわけでは、ないです……」
「そうなんだ、良かったぁ!」
なにも良くねぇんだよなぁ。
心を虚無で満たしつつ、彼女の笑顔に乾いた愛想笑いで返す。
「じゃあ、ウチと一発ヤらない?」
「んんんんんんんん!!」
本当に何も良くなかった。
満面の笑みで爆弾をぶん投げる彼女に思わず床板に額をぶつけた。
オタクはすぐに死ぬ。童貞なので刺激に弱いのだ。
「オタクくんみたいな優しい子、ウチの好みなんだよね。ね、どお?」
これなんてエロゲ? と困惑する僕に、四つん這いで這いよるパイロゥ。
両腕に挟まれた谷間が柔らかく形を変えて迫り、目が離せない。
彼女の小さな口端が、三日月のように吊り上がっている。
「ほら、こんなにおっきくしてる♥ 気持ちよく、ヌいてあげるよ♥」
すぅっと、狙っているのかズボン越しに裏すじを撫でられる。
びくりと肩が跳ねる僕に、彼女の顔が触れそうなほどに迫る。
どろどろに蕩けたはちみつ色の瞳が、ろうそくのように揺れている。
はくはくと、声が音にならない僕に彼女の唇が触れそうになった。
「あんたなんかと結婚するんじゃなかった!」
どん、と。
気が付くと、彼女を突き飛ばしていた。
まさか自分が突き飛ばされると思っていなかったパイロゥは、ぱちくりと目を瞬かせる。
全身の血の気が引いて、ひどく動揺する。
どうしてそんなことをしたのか、自分でも理解できなかった。
「あの、ごめ……その、そんなつもりじゃ……」
呆ける彼女に、慌てて手を振る。
無性に情けなくて、鼻の頭が締め付けられるように痛くなる。
ぼろりと、目尻から熱いものがこぼれ落ちた。
「さ、最低だ……こんな……」
「お、落ち着いてオタクくん! どうしたの、なんで泣いてるの?」
泣いている自分が情けなくなって顔を隠す僕に、パイロゥが慌てて僕の両手を掴む。
目を擦らせないようにしたいのか、僕よりも細い腕なのにびくともしなかった。
いやいやと頭を振る僕に、彼女のおろおろとした気配が伝わる。
「な、なにが嫌だった? ウチのせい……?」
「ち、がう……。っく、ちがう……」
しゃくりあげているせいでまともに言葉を紡げない。
でも、僕の最低を、今でも自分の事を心配している彼女のせいにしたくなかった。
ちがうちがうと、何度も首を振る僕に、彼女は安心したようにホッと息を吐いた。
「嫌われてるのかと思っちゃった……。じゃあ、その、どうして……?」
彼女の疑問に、答えられない。
自分の中でも、なんでそうしたのか分からなかった。
「……怖かった?」
彼女の声に、顔を上げる。
なんとなく、その言葉が合っている気がした。
彼女なりに思うところがあるのか、ぽつぽつと言葉を続ける。
「オタクくん、会った時からずっと一線引いてたから……」
その癖は自覚がある。
僕は誰とも仲良くなりたくない。そう思っている節がある。
なんでかなんて、分かりきっている。
破局したくない。母さんと父のように。
永遠に続く関係性なんてないのだと、幼心に僕はよく知っていた。
友情だって、愛情だって、いずれは終わってしまうのだ。
あんな周り全てを不幸にするような別れ方をするくらいなら、僕は誰とも付き合わない。
たぶんきっと、そう決めたんだと思う。
「そっ、か」
たどたどしく自白した僕に、彼女は茫然としたように僕の両手から手を放した。
呆れているのか、軽蔑しているのか。
彼女の温度が離れたことが怖くなって、顔を上げることが出来なかった。
「オタクくん、冷たいんだね」
するりと、壊れ物に触れるように彼女の手のひらが後頭部を包んだ。
ぐさりと刺さる言葉とは裏腹に、その声色はどこまでも優しかった。
「心が冷たくなっちゃってるんだよ、オタクくん。キミは優しい子なのにね」
そう言って、頭を彼女の胸元に抱きすくめられる。
とくとくと温かい脈拍が、鼓膜を優しく揺らす。
するすると髪を梳くように撫でられ、少しずつ動揺が治まっていくのが分かった。
「ウチのために当たり前みたいにお冷一緒に入れてくれたり、行きずりのおとなりさんとあんなにお喋りしてくれるんだから、オタクくんは優しい子なんだよ」
「………………っ」
「なのに、仲良くなりたくないなんて冷たいよ。ズルいや」
ウチはキミのことが好きなのにね。
そう付け加えられた言葉に、心臓が跳ねる。
言い聞かせるような優しい声音だが、同時に絶対に逃がさないという強い意志を感じた。
「ウチね、心に火をつけれるんだ」
そういうと彼女の身体がパッと僕から離れた。
僕に差し出した手のひらに、煌々と火が灯った。
燃え盛るように赤くいて、優しく照らすかのように橙色が揺れている。
「人の心に火をつけて、ずっと一緒にえっちする悪い娘なの♥」
炎に照らされた彼女が、淫靡な笑みを浮かべる。
ちゅるりと下唇を舐めた小さな舌が、ひどくいやらしかった。
ごくりと生唾を飲む僕に、彼女はじゅっと手を握って火を消した。
「でも、オタクくんが怖がることしたくないな。ねぇ、どうしたらいいと思う?」
楽しそうに笑う彼女は、もうその答えが分かっているようだった。
目尻に貯まった涙を拭い、どうするのと尋ねる。
待ってましたと言わんばかりに、彼女の笑顔が咲いた。
「キミが怖くなくなるまで、ウチがキミの心をあっためたげる♥」
だから、一緒にいよーね?
耳元で囁かれた言葉に、背筋がぞくぞくと泡立つ。
そんなに軽率に距離を詰めないで欲しい。
耳まで熱くなって彼女から距離を取ると、彼女はニコニコと実にいい笑顔だ。
「……ひとつ、言っとくことがある」
「うん。なぁに?」
こてんと小首を傾げる彼女に、僕は言葉を続けた。
「……オタクに軽率にそういうことすると好きになっちゃうからやめてね」
21/12/14 11:17更新 / 残骸