寂寥の怪物
「こりゃ……一雨来っかねぃ?」
編笠をくいと持ち上げて、青年はポツリと独り言ちる。
見上げるは鬱蒼と茂る枝葉の隙間の曇天。素人目に見ようが如何にも夕立の気配を覚える。
山の天気は移ろいやすいとも言う。あっという間に豪雨となるであろう。
「商売道具が濡れるなぁ勘弁願いていぜ」
よっ、と荷籠を背負い直し、彼は歩調を早めた。
着物の裾から見える健脚は逞しく、足場の悪い獣道をわけもなく進んでいく。
しかし、それにしても妙に仄暗い。
鬱蒼と茂る森に曇天、更には黄昏時と言うのも拍車をかけて妙に薄気味悪い。
それこそまさに、妖怪でも出てきそうなほどに……。
「どっこいしょ、っと」
だが、青年は迷いなくどんどん進んでいく。
やけに出張った木の根を飛び越え、臆することなく前へ前へと歩みを止めない。
そりゃそうだ。妖怪なんかよりも、ここまで運んだ商売道具がダメになる方が恐ろしい。
早に雨宿りをせねばとその脚は止まることを知らぬかの如く進んでいく。
「おっ?」
そして、運はどうやら青年に味方をしたようだ。
行き止まりと言わんばかりの絶壁に、丁度良く拵えたような洞穴があったのだ。
こりゃ助かったと躊躇なく、青年は洞穴へ飛び込む。
「ふぅ、一安心やぁ……」
額をぬぐい、椅子代わりに小岩に腰を下ろして安堵の息を零す。
折良くも洞穴の外はしとしとと小雨がぱらつき、どうやら間一髪だったようだ。
一息ついたか、青年はぱさりと編笠を外す。
「こりゃ今日は草枕、いやさ岩枕かね」
狐のような糸目を更に細めて、旅の者とは思えぬほどに整った顔立ちが露わになる。
女人のような細顎を撫で、どうにも落ち着きなく辺りを探っている。
経験上、彼にとっては野宿は鬼門なのだ。
籠荷には干し肉や南蛮菓子など食料品もあるため、下手に寝ると獣に食い漁られる。
だが、獣程度ならまだマシだ。もっと性質の悪いものを、青年は嫌というほど知っている。
そして、そいつらは――
「おい坊主、誰に断わって入ってきてんだァ?」
「兄貴、食いもんだ! こいつから食いもんの匂いがすっぞ!」
――来てほしくない時こそよく来る。
自身の虫の予感を呪いながら、洞穴の奥から出てきた柄の悪い男たちに青年はため息を零す。
生憎と追剥を歓迎する趣味はなく、彼は小岩から立ち上がる。
「あいやー、先客がいらっしゃったとは露知らず、こいつぁ申し訳ございやせん」
心にもない詫びを入れ、青年は抜け目なく男たちの一挙手一投足を見逃さない。
そんな彼の警戒を知ってか知らずか、山賊然とした男たちは嫌らしくニヤニヤと笑っている。
「分かってんなら身包み置いてさっさと消えな。今なら命くらいは見逃してやってもいいぜ?」
「そんなご無体なことを仰らず! ここは穏便に済ませちゃくれやせん?」
ギラリと凶悪に光る刀を一瞥し、青年は人懐っこい笑みを浮かべる。
さながら鋸の如く刃毀れの目立つナマクラに、体格も合っていない鎧帷子。
柄を握る手もどこかたどたどしく、彼はあぁ良かったと内心胸を撫で下ろす。
この男たちは追剥ぎにまだまだ慣れていない、そう察したからだ。
侍ぶってはいるが装備は間に合わせの拾い物。極めつけはその無精ひげと顔色だ。
「飢えていらっしゃるなら握り飯を、病んでいらっしゃるなら薬もお一つ。これで手打ちにしてくれやせん?」
「……っ?」
なぜわかった? そう言いたげに男が虚を突かれたように怯む。
「右腕、震えてらっしゃいやす。顔の色艶も大変よろしくない。肝臓辺りが悪いんでっしゃろ?」
見た目は明らかな落伍者で、人数も2、3人と賊にしては少なすぎる。
そう言えばと青年が思い返せば、一月ほど前にどこかの村で水害があったとか。
行き場をなくし、腹を空かせ、弱り目に祟り目と病床に伏せるわけにもいかず。
細められた青年の瞳には、同情の色があった。
「はるか遠くは霧の大陸より取り寄せた妙薬をお一つ、今ならあたしを見逃すだけでお譲りしやす」
「だ、騙されっか! いかに旅商と言えど、そんなものを都合よく持っているわけがねぇ!」
「いえいえ眉唾物と侮るなかれ。たちまちに健やかな体を取り戻しましょうよ?」
本音を言わば同情半分、保身半分。しかしどうにも青年の態度は胡散臭い。
男は俺を殺すための毒薬に違いないと頑なに拒み、どうにも目が血走っている。
「そうやって上手いこと言って逃げるつもりなんだろ!? 舐めやがって……!」
「兄貴、どうせ奪っちまえば俺たちのもんだ! 早いとこぶっ殺しちやいやしょう!」
おぉっと。これは良くない雲行きだ、と青年の細い目が更に鋭く細められる。
人を断ち切るにはガタがきているナマクラだが、斬り伏せれば人は死ぬ。
如何に慣れていなくとも、刀は振れば殺せる、突けば殺せる代物なのだ。
これは逃げるが勝ちか? そう、彼が一歩後退った瞬間だった。
「騒がしゅう御座います」
凛、と。
洞穴の奥、その薄暗闇からやや甲高い声が響き渡った。
追剥ぎの仲間か? と青年が男を窺うも、どうやらそうではないらしい。
唐突な来訪者に対する狼狽を隠すかのごとく、誰だ出てこいと声を張り上げている。
「出てこい、とは穏やかでは御座いませんね。何か火急のご用でありましょうか?」
殺伐とした雰囲気にはそぐわぬ、取り澄ましたような礼儀正しい声。
しかしどうにも幼さの見える声音に、青年は、ん? と違和感を覚える。
曇天のもとに日は沈みゆき、時は正しく逢魔が時。
加えてこのような人気のない山の、それも煤けた洞穴なぞに女人の声。
あっ、と些かニブい自覚のある彼も察せざるを得なかった。
「惚けやがって、馬鹿にしてんのか!?」
「そのような畏れ多いこと、滅相もありませぬ」
苛立ちを孕んだ男の声と、いやに丁寧な少女の声。
どうにも間の合わないやり取りに、気も早く部外者面の青年は思わず苦笑いだ。
「とっとと出てきやがれ小娘! テメェも丁重にもてなしてやんよぉ!」
「げへへ、カモがネギ背負って来たと思ってたら女までいるたぁツイてるぜ!」
愚かにも、男たちは何一つ気付くことなく下衆な笑いを響かせる。
そしてきっと、男たちはその浅はかな行動をのちに後悔する羽目になるだろう。
今宵、彼らは悪夢を見る。
「とうに此方に居りますれば」
それは、丁度青年の頭上から響いた。
いつの間にと近づいた声に男たちは一斉に顔を上げ、その表情が固まった。
あどけない少女が、岩天井から宙ぶらりんと微笑んでいるのだ。
上等な着物をはだけて真っ白な肌を露わに、影の差したその微笑みはどこか不気味だ。
「て、天井に張りついて……!?」
いや、注目すべきはそこではない。
彼女の腰から下、この場合は上と言うべきがギチギチと嫌な音を立てている。
「ひ、な、なんだあれ!?」
「む、ムカデ!? なんだあの馬鹿でけぇムカデは!?」
丸太のように図太い百足の身体が、鳥肌が立つような軋みを上げている。
うじゃうじゃと無数の節足が波打つように蠢き、見る者に生理的な嫌悪感を与える。
洞窟の奥から伸びたその巨体は、なおも悍ましく犇めいていた。
「ぎゃあああああああ!! か、怪物だあああああ!?」
「まぁ、か弱い女子を捕まえて悲鳴をあげるなぞ、酷い殿方」
クスクスとおかしげに笑う少女の声は男たちには届かない。
得物の刀を捨ててバタバタと逃げ出す彼らを、彼女は追う気もないのかひらひらと手を振っている。
小雨もお構いなしに洞穴から駆け出す取り巻きに、カシラと思しき男は狼狽えはじめる。
「お、おめぇら逃げんじゃねぇ……! た、ただの妖怪だろこんな女ぁ……!」
そういう彼こそが、もっとも恐れているゆえに説得力なぞ欠片もない。
情けない制止に誰一人振り向くこともなく、追剥は蜘蛛の子を散らす如く逃げの足を止めない。
「あらあらまぁ、弥生は嬉しゅう御座います。貴方さまは逃げないでくださるのですね?」
ずるり、と弥生と名乗った少女は男に肉薄する。
吐息がかかるほどに接近した彼女に、彼はひっと喉笛を鳴らした。
無邪気な少女の笑みはざんばら髪と黄昏の闇がかかり、異様に不気味だ。
「ひっ、ぃ……!」
「そう怯えないでくださいまし。取って食すわけでは御座りませぬ」
ねぇ、お話ししましょう?
弥生がそう小首を傾げるがすぐに、男はバタバタと腰を抜かしたまま這い這いで逃げ出す。
「ば、バケモノぉぉおおお……!」
みっともなく、何度も手を地面から外しながら男は洞穴の外へ逃げ出す。
外まで出て、ようやく立ち上がったかと思えば、何度も蹴っ躓きながら駆けだした。
尾を引く悲鳴は、雨音に掻き消されながらも青年の耳によく残った。
「……はぁ、無礼な殿方」
そんな男を彼方まで見送り、弥生は小さな溜め息を零した。
うぞうぞと節足を犇めかせ、どうやら洞穴の奥に引っ込むらしい。
俯いた彼女の瞳はどこか寂しげで、でも仕方ないと言わんばかりで。
「あ……」
その目がバッチリ、青年と合ってしまった。
「あ、あらあら、貴方さまは逃げないので御座いますか? 弥生と遊んでくださるのですか?」
取り繕うように放たれた言葉に、青年はうんともすんとも応えない。
ぼけっと口を開いたまま、少女をまじまじと見つめている。
「……逃げても、弥生は追いませぬよ?」
最終勧告と言わんばかりに、弥生はニコリと影の差した微笑みを浮かべる。
しかしそれでも何の反応も示さぬ青年に、キッと彼女の目が細められる。
だがその瞬間。
「ほろり……」
わざわざ口でそう言うや、青年のまなじりに涙が溢れる。
「!?」
何の脈絡もない意味不明な泣きに、弥生はぎょっと変な顔になった。
わたわたとやり場なく手を振り、青年の傍らに寄ってオロオロと戸惑う。
「い、如何なされました? どこか怪我でも……?」
だが弥生の心配は見当違いに、青年はすんと鼻を鳴らす。
「ありがたやぁ……!」
「……は、はい?」
何やら感涙にむせんでいるようで、青年は仰々しく弥生を拝む。
当の彼女は全く以てわけがわからず、疑問符を浮かべ戸惑うばかりだ。
「渡る世間に鬼はなし、ホンマ他人様の優しさは心に染みるねぃ……!」
わざとらしく涙を拭い、青年はガバッと弥生の両手を掴む。
圧倒的気持ち悪さに、今度は彼女が短い悲鳴を上げる番だった。
「ひぇうっ!?」
「お嬢さん……! このご恩、この身に代えてもお返ししやす! おかげさんで傷一つなく!」
お嬢さん!? ご恩!? と弥生は混乱していた。
そんな彼女にお構いなく、青年はありがたやありがたやと頭を垂れている。
「あっしは甲斐と申しやす! お嬢さん、何かお困りごとはございやせんかい!?」
詰め寄る甲斐は輝かんばかりの笑顔だ。
そんな彼に弥生は困惑しつつも、困ったように笑って、一言頼んだ。
どこか、その頬は朱に染まっていた。
「と、とりあえず手を放していただくと、その……助かり申します……」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なっはっはっは、こいつぁ失敬! あたしとしたことが我を忘れていやした!」
豪快な笑い声が、ロウソクに照らされた洞穴に響きわたる。
誤魔化すようでいながら、甲斐の頬は赤くなっており、どうやら彼も照れているらしい。
そんな青年に弥生は困ったように微笑み、ハッと甲斐は何かに気付いたかのように荷籠を漁る。
「あ、気が利かずすいやせん! 粗品ですがどうぞ頂いちゃってくだせぃ!」
「ど、どうか楽に! 弥生にそのような気遣い、勿体のうございまする!」
居心地の悪そうな弥生の制止を意にも介さず、甲斐は小さな小包を取り出す。
「堺で仕入れた南蛮菓子でございやす! ささっ、どうぞお一つ!」
そう言って包みを広げると、小さな色とりどりの小石がころころと転がる。
桃色に黄色、緑色から青色とまるで飴細工のようだ。
だが生憎と、弥生は南蛮菓子に馴染みはなく、こくんと小さく喉が鳴ってしまった。
「こ、こちらは何と言う名のお菓子でしょうか……?」
「ははっ! 金平糖と申しやす!」
金平糖、と甲斐の言葉を反芻し、指を伸ばしてはハッと引っ込める。
食べてみたい、でも見ず知らずの方の御前でそのようなはしたない真似をするなど……!
と、誘惑に負けつ勝ちつつどうにも意思は固く、なかなかその細っこい指は金平糖に届かない。
「…………………………っ! ………………っ! ………………………っ!」
一つ伸びてはぺちんと己の掌を叩き、一つ伸びてはまたも己の掌を叩き。
そわそわと蠢く百足の肢体は落ち着きがない。
「……あ、あたしは甘いもん苦手なんでお気になさらず」
「さ、左様で御座いますれば仕方ありませんね!」
わっさーと百足の尾が跳ねた。
あっさりと抵抗も瓦解したものの、やや躊躇いながらも弥生は金平糖を恐る恐る摘まむ。
そして、頂きますと、いざ口に含む。
「……っ! ……っ!」
わっさわっさと百足の尾が揺れる。まるで犬の尾のようである。
落ちようもない頬を押さえ、弥生はコロコロと舌先で金平糖を転がしているようだ。
「美味しゅう、切に美味しゅう御座います……! これ程の甘味、今生初に頂きました……!」
「お気に召したようで何よりでありやす」
どうぞみな頂いてくださいな、と勧める甲斐に、はたと弥生は我に返る。
なぜか流れで和気あいあいと戯れてしまったが、本来はこう在るべきではないのだ。
自分にそう言い聞かせ、カリッと弥生は金平糖を噛み砕く。
「その……甲斐さま、お戯れも程ほどに。少々お伺い申したいことが御座いますれば……」
「? 何なりとどうぞ?」
はてと首を傾げる甲斐に、弥生はゆっくりと顔を上げる。
顔を覆わんばかりに伸びた髪の隙間では、戸惑いに満ちた瞳が揺れていた。
そんな彼女の小さな口が、覚悟を決めたようにすぅっと息を吸い込む。
「なぜ、お逃げにならないのです……?」
心底理解できない。その問いには、そういう非難が混じっていた。
「弥生めは、見ての通り百足の化生、怪物に御座います」
自身の胸に手を当てて、弥生は絞り出すようにそう言った。
その端正な顔立ちに引きつった笑みを浮かべて、彼女は言の葉を紡ぐ。
「このように油断させて、弥生は今にこの顎肢を甲斐さまの首に突き立てるやもしれません」
彼女の首周りに伸びた牙のような顎肢から、ぽたりと毒液が涙のように零れる。
泣き笑いの如くクスリと微笑み、自虐のような脅しは止まらない
「そうして動けなくなった甲斐さまをこの体で捕えて、舐るように、嬲るように、じわじわと弱る貴方さまを嘲笑いながら、がぶりと食べてしまうやもしれませぬ」
「弥生は、怪物に御座いますよ……?」
押し出した一言は、胃の腑をじわりと蝕むようであった。
ふるふるとその華奢な体を小刻みに震わせて、弥生は困ったように微笑んだ。
仄暗い影が差しこむその笑みは、何かあったのか自嘲に満ち満ちていた。
「………………」
彼女の話を黙って聞いていた甲斐は、やはりぽかんと間の抜けた表情だ。
糸目を細め、ふむと一つ頷く。
「そんなこと、お嬢さんはしやせんでしょ?」
あっけらかんと返された言葉に、弥生は言葉を失くした。
何を根拠にそんなことを? そう言いたげな彼女の顔には、妙な苛立ちが見て取れた。
まるで、己の悩みは取るに足らないことだと言われたかのように。
「もしお嬢さんにその気があったなら、あたしゃ金平糖より疾く食われてやすもん」
それに、と甲斐は付け加えた。
「お嬢さんは優しい御仁ですし、そんなことできやせんよ」
へらっと微笑みを浮かべる甲斐に、弥生はギリッと歯を軋ませる。
あまりにも楽観的に言ってのける彼に、彼女は苛立ちを隠そうともしない。
「そういうことではなく……!」
「あたしから言わせりゃ、お嬢さんは怪物じゃありやせんぜ?」
弥生の言葉を否定すように、甲斐の言葉が覆いかぶさった。
へらっと愛想笑いを浮かべる彼は、まるで小さな子供を諭すように続ける。
「怪物なら、赤の他人助けるために自分が傷つこなんて思いやせん」
その言葉に、ピタリと弥生が止まる。
先ほどまでの剣呑さがなりを潜め、なんとも言えない表情だ。
「怪物なんて、自分が一等言われたない言葉なんでっしゃろ? せやらば、自分でそんな悲しいこと言っちゃあきませんぜ?」
ポン、と。
甲斐の骨ばった掌が、何の気負いもなく彼女の頭に置かれた。
毒液の滲む触覚も気にすることなく、わしゃわしゃと彼女の髪が掻き乱される。
されるがままに弥生は頭を撫でられ、ぽかんと甲斐のように呆けていた。
「お嬢さんは確かに人とはかけ離れた異形でしょうよ。でも、その心根は人のそれでしょう?」
あたしゃそれは、人と何ら変わりないと思いやすよ。
一言そう付け加え、甲斐は弥生にニコリと微笑みかけた。
「甲斐……さま……」
呆気にとられたように、伏目がちな弥生の瞳が見開かれる。
そのまなじりから、ほろりと一筋零れ落ちる。
彼女のその様子に、要領の悪い妹でも見るかのように、甲斐は苦笑を零した。
「そのように……、そのように申してくださったのは、貴方さまが初めてに御座います……」
「あたしゃむしろそっちのが不思議でございやすよ……。今どき妖怪を怪物呼ばわりなんて、実際に耳にしたのは初めてでさぁ」
その言葉に、え? と弥生が顔を上げる。
甲斐はむしろその反応に、え? とおうむ返しする始末だ。
「……え?」
「……え?」
何を言っているのか皆目理解できない、そう言いたげな視線が交差する。
弥生はすんと鼻をすすり、本当に分からないと小首を傾げる。
「え、え? ど、どういうことに御座いますか?」
「え? や、怪物やて忌み嫌われてたんて昔の話でっしゃろ? あれ?」
「え? じゃ、じゃあ今は……?」
「え? 妖怪が普通に人里に居るん、よう見やすけど……」
何でも南蛮の国で妖怪の主君がすげかわり、その際に妖怪は人と友好関係を結んでいるとか。
これが幾年も前の話で、今や人里では妖怪と人間が睦みあっているほどだとか。
今や常識とも言えるジパング史をかいつまんで弥生に伝え、甲斐は驚きを隠せない。
旅商としてジパング各地を旅していたが、未だに妖怪を怪物と見る者はいるらしい。
「そら、人を襲う妖怪も居るにゃあ居るけども……」
「居るけども……?」
「……あ、あー、お嬢さんにはまだ早い話でさぁ。お気になさらず」
まさか逃げる男を捕まえて無理くりまぐわっているなどとは思うまい。
まだまだあどけない弥生の頭を撫でて、甲斐は愛想笑いで誤魔化した。
荷籠のなかに実は妖怪の春本が混じっているが、彼は仏に誓って弥生には晒すまいと誓った。
「弥生の暮らしていた町では妖怪にとんと縁が御座いませぬゆえ、存じておりませんでした……」
そんな閉鎖的な場所もあるのか。
この頃には随分と珍しい町もあったものだと、甲斐は一つ頷く。
「うん?」
と、そこで甲斐は何気なく放たれた弥生の言葉に首を傾げる。
彼女の暮らしていた町は、妖怪にまるで縁がない。
では、はて? 彼はいま目の前で百足の肢体をくねらせる少女をじっと見やる。
「お嬢さん、もしかして元は人だったんですかい?」
ウシオニならまだしも、大百足の妖怪化など聞いたこともなく、甲斐は不意を突かれたようだった。
しかし、よくよく見やれば彼女の羽織る着物はそこらで拾えるような品質ではない。
町娘が着るにしては華やかな、なかなかどうして質のいい反物だ。
「はい……、もとは宿屋の娘で御座いました」
どうやらあまり触れてほしくないのか、弥生は疲れたように微笑む。
甲斐もニブい自覚はあるが、察しは悪いわけではない。
こんなにも妖怪を畏怖し、そんな町で彼女は大百足と言う見るも恐ろしい妖怪となったのだ。
周囲の反応がどういうものだったのかなど、想像に難くない。
「お嬢さん愛らしゅうございやすし、きっと看板娘だったでしょうね」
お茶を濁すように茶化し、甲斐はからからと笑う。
お世辞は止してくださいと、弥生もクスクス微笑む。
「甲斐さまと話すのは、なにやら楽しゅう御座います」
口元を袖で押さえ、弥生は尚も愉快げに微笑を称えている。
まるで夢のようで御座いますね、とその笑みは儚げだ。
「この雨が止まれれば、甲斐さまは行ってしまわれるのでしょうか?」
「ん? そりゃ、ねぇ。あたしも商売で出てるわけでありやすし」
サァー、と耳に心地よい雨音は相変わらず止まる気配がない。
ふと甲斐が外を見やれば、雲に隠れた日も落ちたようで夜色に染まっている。
これはいよいよ岩枕か、彼は呑気にそんな冗談を零した。
「この雨が、ずっと降りつづければよろしいのに……」
その小さな呟きは、彼女の望む雨音に呑みこまれ、甲斐には聞こえなかった。
編笠をくいと持ち上げて、青年はポツリと独り言ちる。
見上げるは鬱蒼と茂る枝葉の隙間の曇天。素人目に見ようが如何にも夕立の気配を覚える。
山の天気は移ろいやすいとも言う。あっという間に豪雨となるであろう。
「商売道具が濡れるなぁ勘弁願いていぜ」
よっ、と荷籠を背負い直し、彼は歩調を早めた。
着物の裾から見える健脚は逞しく、足場の悪い獣道をわけもなく進んでいく。
しかし、それにしても妙に仄暗い。
鬱蒼と茂る森に曇天、更には黄昏時と言うのも拍車をかけて妙に薄気味悪い。
それこそまさに、妖怪でも出てきそうなほどに……。
「どっこいしょ、っと」
だが、青年は迷いなくどんどん進んでいく。
やけに出張った木の根を飛び越え、臆することなく前へ前へと歩みを止めない。
そりゃそうだ。妖怪なんかよりも、ここまで運んだ商売道具がダメになる方が恐ろしい。
早に雨宿りをせねばとその脚は止まることを知らぬかの如く進んでいく。
「おっ?」
そして、運はどうやら青年に味方をしたようだ。
行き止まりと言わんばかりの絶壁に、丁度良く拵えたような洞穴があったのだ。
こりゃ助かったと躊躇なく、青年は洞穴へ飛び込む。
「ふぅ、一安心やぁ……」
額をぬぐい、椅子代わりに小岩に腰を下ろして安堵の息を零す。
折良くも洞穴の外はしとしとと小雨がぱらつき、どうやら間一髪だったようだ。
一息ついたか、青年はぱさりと編笠を外す。
「こりゃ今日は草枕、いやさ岩枕かね」
狐のような糸目を更に細めて、旅の者とは思えぬほどに整った顔立ちが露わになる。
女人のような細顎を撫で、どうにも落ち着きなく辺りを探っている。
経験上、彼にとっては野宿は鬼門なのだ。
籠荷には干し肉や南蛮菓子など食料品もあるため、下手に寝ると獣に食い漁られる。
だが、獣程度ならまだマシだ。もっと性質の悪いものを、青年は嫌というほど知っている。
そして、そいつらは――
「おい坊主、誰に断わって入ってきてんだァ?」
「兄貴、食いもんだ! こいつから食いもんの匂いがすっぞ!」
――来てほしくない時こそよく来る。
自身の虫の予感を呪いながら、洞穴の奥から出てきた柄の悪い男たちに青年はため息を零す。
生憎と追剥を歓迎する趣味はなく、彼は小岩から立ち上がる。
「あいやー、先客がいらっしゃったとは露知らず、こいつぁ申し訳ございやせん」
心にもない詫びを入れ、青年は抜け目なく男たちの一挙手一投足を見逃さない。
そんな彼の警戒を知ってか知らずか、山賊然とした男たちは嫌らしくニヤニヤと笑っている。
「分かってんなら身包み置いてさっさと消えな。今なら命くらいは見逃してやってもいいぜ?」
「そんなご無体なことを仰らず! ここは穏便に済ませちゃくれやせん?」
ギラリと凶悪に光る刀を一瞥し、青年は人懐っこい笑みを浮かべる。
さながら鋸の如く刃毀れの目立つナマクラに、体格も合っていない鎧帷子。
柄を握る手もどこかたどたどしく、彼はあぁ良かったと内心胸を撫で下ろす。
この男たちは追剥ぎにまだまだ慣れていない、そう察したからだ。
侍ぶってはいるが装備は間に合わせの拾い物。極めつけはその無精ひげと顔色だ。
「飢えていらっしゃるなら握り飯を、病んでいらっしゃるなら薬もお一つ。これで手打ちにしてくれやせん?」
「……っ?」
なぜわかった? そう言いたげに男が虚を突かれたように怯む。
「右腕、震えてらっしゃいやす。顔の色艶も大変よろしくない。肝臓辺りが悪いんでっしゃろ?」
見た目は明らかな落伍者で、人数も2、3人と賊にしては少なすぎる。
そう言えばと青年が思い返せば、一月ほど前にどこかの村で水害があったとか。
行き場をなくし、腹を空かせ、弱り目に祟り目と病床に伏せるわけにもいかず。
細められた青年の瞳には、同情の色があった。
「はるか遠くは霧の大陸より取り寄せた妙薬をお一つ、今ならあたしを見逃すだけでお譲りしやす」
「だ、騙されっか! いかに旅商と言えど、そんなものを都合よく持っているわけがねぇ!」
「いえいえ眉唾物と侮るなかれ。たちまちに健やかな体を取り戻しましょうよ?」
本音を言わば同情半分、保身半分。しかしどうにも青年の態度は胡散臭い。
男は俺を殺すための毒薬に違いないと頑なに拒み、どうにも目が血走っている。
「そうやって上手いこと言って逃げるつもりなんだろ!? 舐めやがって……!」
「兄貴、どうせ奪っちまえば俺たちのもんだ! 早いとこぶっ殺しちやいやしょう!」
おぉっと。これは良くない雲行きだ、と青年の細い目が更に鋭く細められる。
人を断ち切るにはガタがきているナマクラだが、斬り伏せれば人は死ぬ。
如何に慣れていなくとも、刀は振れば殺せる、突けば殺せる代物なのだ。
これは逃げるが勝ちか? そう、彼が一歩後退った瞬間だった。
「騒がしゅう御座います」
凛、と。
洞穴の奥、その薄暗闇からやや甲高い声が響き渡った。
追剥ぎの仲間か? と青年が男を窺うも、どうやらそうではないらしい。
唐突な来訪者に対する狼狽を隠すかのごとく、誰だ出てこいと声を張り上げている。
「出てこい、とは穏やかでは御座いませんね。何か火急のご用でありましょうか?」
殺伐とした雰囲気にはそぐわぬ、取り澄ましたような礼儀正しい声。
しかしどうにも幼さの見える声音に、青年は、ん? と違和感を覚える。
曇天のもとに日は沈みゆき、時は正しく逢魔が時。
加えてこのような人気のない山の、それも煤けた洞穴なぞに女人の声。
あっ、と些かニブい自覚のある彼も察せざるを得なかった。
「惚けやがって、馬鹿にしてんのか!?」
「そのような畏れ多いこと、滅相もありませぬ」
苛立ちを孕んだ男の声と、いやに丁寧な少女の声。
どうにも間の合わないやり取りに、気も早く部外者面の青年は思わず苦笑いだ。
「とっとと出てきやがれ小娘! テメェも丁重にもてなしてやんよぉ!」
「げへへ、カモがネギ背負って来たと思ってたら女までいるたぁツイてるぜ!」
愚かにも、男たちは何一つ気付くことなく下衆な笑いを響かせる。
そしてきっと、男たちはその浅はかな行動をのちに後悔する羽目になるだろう。
今宵、彼らは悪夢を見る。
「とうに此方に居りますれば」
それは、丁度青年の頭上から響いた。
いつの間にと近づいた声に男たちは一斉に顔を上げ、その表情が固まった。
あどけない少女が、岩天井から宙ぶらりんと微笑んでいるのだ。
上等な着物をはだけて真っ白な肌を露わに、影の差したその微笑みはどこか不気味だ。
「て、天井に張りついて……!?」
いや、注目すべきはそこではない。
彼女の腰から下、この場合は上と言うべきがギチギチと嫌な音を立てている。
「ひ、な、なんだあれ!?」
「む、ムカデ!? なんだあの馬鹿でけぇムカデは!?」
丸太のように図太い百足の身体が、鳥肌が立つような軋みを上げている。
うじゃうじゃと無数の節足が波打つように蠢き、見る者に生理的な嫌悪感を与える。
洞窟の奥から伸びたその巨体は、なおも悍ましく犇めいていた。
「ぎゃあああああああ!! か、怪物だあああああ!?」
「まぁ、か弱い女子を捕まえて悲鳴をあげるなぞ、酷い殿方」
クスクスとおかしげに笑う少女の声は男たちには届かない。
得物の刀を捨ててバタバタと逃げ出す彼らを、彼女は追う気もないのかひらひらと手を振っている。
小雨もお構いなしに洞穴から駆け出す取り巻きに、カシラと思しき男は狼狽えはじめる。
「お、おめぇら逃げんじゃねぇ……! た、ただの妖怪だろこんな女ぁ……!」
そういう彼こそが、もっとも恐れているゆえに説得力なぞ欠片もない。
情けない制止に誰一人振り向くこともなく、追剥は蜘蛛の子を散らす如く逃げの足を止めない。
「あらあらまぁ、弥生は嬉しゅう御座います。貴方さまは逃げないでくださるのですね?」
ずるり、と弥生と名乗った少女は男に肉薄する。
吐息がかかるほどに接近した彼女に、彼はひっと喉笛を鳴らした。
無邪気な少女の笑みはざんばら髪と黄昏の闇がかかり、異様に不気味だ。
「ひっ、ぃ……!」
「そう怯えないでくださいまし。取って食すわけでは御座りませぬ」
ねぇ、お話ししましょう?
弥生がそう小首を傾げるがすぐに、男はバタバタと腰を抜かしたまま這い這いで逃げ出す。
「ば、バケモノぉぉおおお……!」
みっともなく、何度も手を地面から外しながら男は洞穴の外へ逃げ出す。
外まで出て、ようやく立ち上がったかと思えば、何度も蹴っ躓きながら駆けだした。
尾を引く悲鳴は、雨音に掻き消されながらも青年の耳によく残った。
「……はぁ、無礼な殿方」
そんな男を彼方まで見送り、弥生は小さな溜め息を零した。
うぞうぞと節足を犇めかせ、どうやら洞穴の奥に引っ込むらしい。
俯いた彼女の瞳はどこか寂しげで、でも仕方ないと言わんばかりで。
「あ……」
その目がバッチリ、青年と合ってしまった。
「あ、あらあら、貴方さまは逃げないので御座いますか? 弥生と遊んでくださるのですか?」
取り繕うように放たれた言葉に、青年はうんともすんとも応えない。
ぼけっと口を開いたまま、少女をまじまじと見つめている。
「……逃げても、弥生は追いませぬよ?」
最終勧告と言わんばかりに、弥生はニコリと影の差した微笑みを浮かべる。
しかしそれでも何の反応も示さぬ青年に、キッと彼女の目が細められる。
だがその瞬間。
「ほろり……」
わざわざ口でそう言うや、青年のまなじりに涙が溢れる。
「!?」
何の脈絡もない意味不明な泣きに、弥生はぎょっと変な顔になった。
わたわたとやり場なく手を振り、青年の傍らに寄ってオロオロと戸惑う。
「い、如何なされました? どこか怪我でも……?」
だが弥生の心配は見当違いに、青年はすんと鼻を鳴らす。
「ありがたやぁ……!」
「……は、はい?」
何やら感涙にむせんでいるようで、青年は仰々しく弥生を拝む。
当の彼女は全く以てわけがわからず、疑問符を浮かべ戸惑うばかりだ。
「渡る世間に鬼はなし、ホンマ他人様の優しさは心に染みるねぃ……!」
わざとらしく涙を拭い、青年はガバッと弥生の両手を掴む。
圧倒的気持ち悪さに、今度は彼女が短い悲鳴を上げる番だった。
「ひぇうっ!?」
「お嬢さん……! このご恩、この身に代えてもお返ししやす! おかげさんで傷一つなく!」
お嬢さん!? ご恩!? と弥生は混乱していた。
そんな彼女にお構いなく、青年はありがたやありがたやと頭を垂れている。
「あっしは甲斐と申しやす! お嬢さん、何かお困りごとはございやせんかい!?」
詰め寄る甲斐は輝かんばかりの笑顔だ。
そんな彼に弥生は困惑しつつも、困ったように笑って、一言頼んだ。
どこか、その頬は朱に染まっていた。
「と、とりあえず手を放していただくと、その……助かり申します……」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なっはっはっは、こいつぁ失敬! あたしとしたことが我を忘れていやした!」
豪快な笑い声が、ロウソクに照らされた洞穴に響きわたる。
誤魔化すようでいながら、甲斐の頬は赤くなっており、どうやら彼も照れているらしい。
そんな青年に弥生は困ったように微笑み、ハッと甲斐は何かに気付いたかのように荷籠を漁る。
「あ、気が利かずすいやせん! 粗品ですがどうぞ頂いちゃってくだせぃ!」
「ど、どうか楽に! 弥生にそのような気遣い、勿体のうございまする!」
居心地の悪そうな弥生の制止を意にも介さず、甲斐は小さな小包を取り出す。
「堺で仕入れた南蛮菓子でございやす! ささっ、どうぞお一つ!」
そう言って包みを広げると、小さな色とりどりの小石がころころと転がる。
桃色に黄色、緑色から青色とまるで飴細工のようだ。
だが生憎と、弥生は南蛮菓子に馴染みはなく、こくんと小さく喉が鳴ってしまった。
「こ、こちらは何と言う名のお菓子でしょうか……?」
「ははっ! 金平糖と申しやす!」
金平糖、と甲斐の言葉を反芻し、指を伸ばしてはハッと引っ込める。
食べてみたい、でも見ず知らずの方の御前でそのようなはしたない真似をするなど……!
と、誘惑に負けつ勝ちつつどうにも意思は固く、なかなかその細っこい指は金平糖に届かない。
「…………………………っ! ………………っ! ………………………っ!」
一つ伸びてはぺちんと己の掌を叩き、一つ伸びてはまたも己の掌を叩き。
そわそわと蠢く百足の肢体は落ち着きがない。
「……あ、あたしは甘いもん苦手なんでお気になさらず」
「さ、左様で御座いますれば仕方ありませんね!」
わっさーと百足の尾が跳ねた。
あっさりと抵抗も瓦解したものの、やや躊躇いながらも弥生は金平糖を恐る恐る摘まむ。
そして、頂きますと、いざ口に含む。
「……っ! ……っ!」
わっさわっさと百足の尾が揺れる。まるで犬の尾のようである。
落ちようもない頬を押さえ、弥生はコロコロと舌先で金平糖を転がしているようだ。
「美味しゅう、切に美味しゅう御座います……! これ程の甘味、今生初に頂きました……!」
「お気に召したようで何よりでありやす」
どうぞみな頂いてくださいな、と勧める甲斐に、はたと弥生は我に返る。
なぜか流れで和気あいあいと戯れてしまったが、本来はこう在るべきではないのだ。
自分にそう言い聞かせ、カリッと弥生は金平糖を噛み砕く。
「その……甲斐さま、お戯れも程ほどに。少々お伺い申したいことが御座いますれば……」
「? 何なりとどうぞ?」
はてと首を傾げる甲斐に、弥生はゆっくりと顔を上げる。
顔を覆わんばかりに伸びた髪の隙間では、戸惑いに満ちた瞳が揺れていた。
そんな彼女の小さな口が、覚悟を決めたようにすぅっと息を吸い込む。
「なぜ、お逃げにならないのです……?」
心底理解できない。その問いには、そういう非難が混じっていた。
「弥生めは、見ての通り百足の化生、怪物に御座います」
自身の胸に手を当てて、弥生は絞り出すようにそう言った。
その端正な顔立ちに引きつった笑みを浮かべて、彼女は言の葉を紡ぐ。
「このように油断させて、弥生は今にこの顎肢を甲斐さまの首に突き立てるやもしれません」
彼女の首周りに伸びた牙のような顎肢から、ぽたりと毒液が涙のように零れる。
泣き笑いの如くクスリと微笑み、自虐のような脅しは止まらない
「そうして動けなくなった甲斐さまをこの体で捕えて、舐るように、嬲るように、じわじわと弱る貴方さまを嘲笑いながら、がぶりと食べてしまうやもしれませぬ」
「弥生は、怪物に御座いますよ……?」
押し出した一言は、胃の腑をじわりと蝕むようであった。
ふるふるとその華奢な体を小刻みに震わせて、弥生は困ったように微笑んだ。
仄暗い影が差しこむその笑みは、何かあったのか自嘲に満ち満ちていた。
「………………」
彼女の話を黙って聞いていた甲斐は、やはりぽかんと間の抜けた表情だ。
糸目を細め、ふむと一つ頷く。
「そんなこと、お嬢さんはしやせんでしょ?」
あっけらかんと返された言葉に、弥生は言葉を失くした。
何を根拠にそんなことを? そう言いたげな彼女の顔には、妙な苛立ちが見て取れた。
まるで、己の悩みは取るに足らないことだと言われたかのように。
「もしお嬢さんにその気があったなら、あたしゃ金平糖より疾く食われてやすもん」
それに、と甲斐は付け加えた。
「お嬢さんは優しい御仁ですし、そんなことできやせんよ」
へらっと微笑みを浮かべる甲斐に、弥生はギリッと歯を軋ませる。
あまりにも楽観的に言ってのける彼に、彼女は苛立ちを隠そうともしない。
「そういうことではなく……!」
「あたしから言わせりゃ、お嬢さんは怪物じゃありやせんぜ?」
弥生の言葉を否定すように、甲斐の言葉が覆いかぶさった。
へらっと愛想笑いを浮かべる彼は、まるで小さな子供を諭すように続ける。
「怪物なら、赤の他人助けるために自分が傷つこなんて思いやせん」
その言葉に、ピタリと弥生が止まる。
先ほどまでの剣呑さがなりを潜め、なんとも言えない表情だ。
「怪物なんて、自分が一等言われたない言葉なんでっしゃろ? せやらば、自分でそんな悲しいこと言っちゃあきませんぜ?」
ポン、と。
甲斐の骨ばった掌が、何の気負いもなく彼女の頭に置かれた。
毒液の滲む触覚も気にすることなく、わしゃわしゃと彼女の髪が掻き乱される。
されるがままに弥生は頭を撫でられ、ぽかんと甲斐のように呆けていた。
「お嬢さんは確かに人とはかけ離れた異形でしょうよ。でも、その心根は人のそれでしょう?」
あたしゃそれは、人と何ら変わりないと思いやすよ。
一言そう付け加え、甲斐は弥生にニコリと微笑みかけた。
「甲斐……さま……」
呆気にとられたように、伏目がちな弥生の瞳が見開かれる。
そのまなじりから、ほろりと一筋零れ落ちる。
彼女のその様子に、要領の悪い妹でも見るかのように、甲斐は苦笑を零した。
「そのように……、そのように申してくださったのは、貴方さまが初めてに御座います……」
「あたしゃむしろそっちのが不思議でございやすよ……。今どき妖怪を怪物呼ばわりなんて、実際に耳にしたのは初めてでさぁ」
その言葉に、え? と弥生が顔を上げる。
甲斐はむしろその反応に、え? とおうむ返しする始末だ。
「……え?」
「……え?」
何を言っているのか皆目理解できない、そう言いたげな視線が交差する。
弥生はすんと鼻をすすり、本当に分からないと小首を傾げる。
「え、え? ど、どういうことに御座いますか?」
「え? や、怪物やて忌み嫌われてたんて昔の話でっしゃろ? あれ?」
「え? じゃ、じゃあ今は……?」
「え? 妖怪が普通に人里に居るん、よう見やすけど……」
何でも南蛮の国で妖怪の主君がすげかわり、その際に妖怪は人と友好関係を結んでいるとか。
これが幾年も前の話で、今や人里では妖怪と人間が睦みあっているほどだとか。
今や常識とも言えるジパング史をかいつまんで弥生に伝え、甲斐は驚きを隠せない。
旅商としてジパング各地を旅していたが、未だに妖怪を怪物と見る者はいるらしい。
「そら、人を襲う妖怪も居るにゃあ居るけども……」
「居るけども……?」
「……あ、あー、お嬢さんにはまだ早い話でさぁ。お気になさらず」
まさか逃げる男を捕まえて無理くりまぐわっているなどとは思うまい。
まだまだあどけない弥生の頭を撫でて、甲斐は愛想笑いで誤魔化した。
荷籠のなかに実は妖怪の春本が混じっているが、彼は仏に誓って弥生には晒すまいと誓った。
「弥生の暮らしていた町では妖怪にとんと縁が御座いませぬゆえ、存じておりませんでした……」
そんな閉鎖的な場所もあるのか。
この頃には随分と珍しい町もあったものだと、甲斐は一つ頷く。
「うん?」
と、そこで甲斐は何気なく放たれた弥生の言葉に首を傾げる。
彼女の暮らしていた町は、妖怪にまるで縁がない。
では、はて? 彼はいま目の前で百足の肢体をくねらせる少女をじっと見やる。
「お嬢さん、もしかして元は人だったんですかい?」
ウシオニならまだしも、大百足の妖怪化など聞いたこともなく、甲斐は不意を突かれたようだった。
しかし、よくよく見やれば彼女の羽織る着物はそこらで拾えるような品質ではない。
町娘が着るにしては華やかな、なかなかどうして質のいい反物だ。
「はい……、もとは宿屋の娘で御座いました」
どうやらあまり触れてほしくないのか、弥生は疲れたように微笑む。
甲斐もニブい自覚はあるが、察しは悪いわけではない。
こんなにも妖怪を畏怖し、そんな町で彼女は大百足と言う見るも恐ろしい妖怪となったのだ。
周囲の反応がどういうものだったのかなど、想像に難くない。
「お嬢さん愛らしゅうございやすし、きっと看板娘だったでしょうね」
お茶を濁すように茶化し、甲斐はからからと笑う。
お世辞は止してくださいと、弥生もクスクス微笑む。
「甲斐さまと話すのは、なにやら楽しゅう御座います」
口元を袖で押さえ、弥生は尚も愉快げに微笑を称えている。
まるで夢のようで御座いますね、とその笑みは儚げだ。
「この雨が止まれれば、甲斐さまは行ってしまわれるのでしょうか?」
「ん? そりゃ、ねぇ。あたしも商売で出てるわけでありやすし」
サァー、と耳に心地よい雨音は相変わらず止まる気配がない。
ふと甲斐が外を見やれば、雲に隠れた日も落ちたようで夜色に染まっている。
これはいよいよ岩枕か、彼は呑気にそんな冗談を零した。
「この雨が、ずっと降りつづければよろしいのに……」
その小さな呟きは、彼女の望む雨音に呑みこまれ、甲斐には聞こえなかった。
14/05/31 00:37更新 / 残骸
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