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流天雪夜 |
あれから幾年かの時が過ぎた。 縁側に掛けられた、建て付けの悪い硝子窓が、カタカタと音を成す。 私は火の落ちかけた火鉢に炭を入れ、ふぅふぅと息を吹く。 やがて炭はパチパチと、産声を上げて輝き始める。 私は再び愛読書に目を戻すと、読みかけの文字列を探して、目を走らせる。 パチパチ、カタカタと、鳴り出す音はそれらだけ。 無音の苦しさを、彼らはその不規則な協和音で幾分か紛らわせてくれる。 夏になれば、これ位の時間の頃には、近所の子らの遊ぶ声が聞こえる。 日に日に減っていく残りの頁(ページ)は、溶け逝く積雪に似て、少しばかり寂しく感じる。 行く行く孤独に向かう主人公の心境は、私のそれにも似て、少しばかり悲しく感じる。 とうとう読み終えた本を、丁寧に閉じ本棚に並べる頃には、蝋燭が必要なほど部屋は暗く沈んでいた。 そんな中、赤々と小さく燃える火鉢の火は、私の中の彼女に見える。 私は蝋燭に火を燈し、それを持って縁側を渡る。 先祖代々続く屋敷は、ところどころ手直ししつつも、古く静かで、ただ広く、今では人けの無い座敷などは、どこか虚しい。 その癖にここは、隙間風ばかりをよく通し、火を入れねばそこの寒さは外のそれだ。 炊事場は暗く沈み、竈(かまど)の上にある格子戸から漏れる光が、微かに石の地面を明るくしていた。 三月(みつき)も前の今頃ならば、女中の妙さんがよく透る声で「もうすぐお食事が上がりますよ」と出迎えてくれたのだろう。 彼女が大きくなったお腹を抱え、里に帰ったのは初雪の降る前だっただろうか。 婿は彼女に似合わず、大人しそうな青年だった。 私は釜に残った冷や飯を掬い、長年使い続けている碗によそう。 膳に冷や飯と少しの漬物を乗せ、私は部屋へ戻ろうとそれを持つ。 “トントン” そんな処へ玄関の戸を叩く音が聞こえた。 私は持っていた膳を置き、玄関へと向かう。 引っ越した時に新しく入れた、曇り硝子の玄関戸は、ぼんやりと小柄な影を映し出している。 私の許を訪ねてくる者など、片手を折るほどに少ないはずだ。 玄関の戸を引くと、そこには見知った鴉の娘が立っていた。 「夜分遅くなりました。お手紙をお届けに参りました」 彼女は雪傘に蓑を着て、いかにも寒そうにしながら、一通の手紙を翼で持って、差し出した。 「お仕事ご苦労様です。雪はどれ程降りそうですか」 私は手紙を受け取り、そう尋ねる。 「この分ですと、また一積りしそうですね。…と言っても、これが最後の雪になりましょう」 彼女は傘を上げ、空を見上げてそう答えた。 その白い頬は寒さのせいか、赤く色づいている。 「そうですか。少し名残惜しくも思いますね」 「ははは。そう言わないでくださいよ。私等からしてみれば、雪が降れば商売あがったりですよ」 「そうでしたね。これは失礼しました。御代の方は幾等でしょうか?」 「御代は送り主のお兄さんから預かってますよ」 そう言いながら彼女は一度鼻をすすった。 「じゃ、私はこれから帰って温まるとします」 「はい。どうもありがとうございました」 「まいど。今後とも“黒鴉飛脚”を御贔屓に」 明るい声で鴉が去ると、私は戸を閉めて文を見る。 宛名の文字は見慣れたものだった。 夕食を済ませ、部屋に戻ると、私は早速文を開けてみる。 差出人は街に暮らす弟だ。 内容は私の身体を気遣うものと、『彼女の事で塞ぎ込むのはそろそろやめろ』、という毎回のものだった。 身体の弱い彼女が、出産に耐える事が出来ないまま、腹の子と共に亡くなったのはどれ程前のことだったのか。 この屋敷へは彼女の出産の為の休養で戻った。それまで私たちは街の店を、私と彼女と弟、それから店に奉公しに来ていた何人かの人たちで回していた。 しかし、彼女が腹の子と共に亡くなって以来、私は街の店を全て弟に任せて、先祖代々のこの屋敷に隠居した。 まだ二十とそこそこでの隠居を周りは酷く咎めたが、私にはとても店を商っていけるだけの気力は残って無かったのだ。 私は文を畳み、棚の引き出しにしまうと、お気に入りの揺り椅子に腰かけ、目を閉じる。 ぎぃぎぃと椅子が揺れ、板の間の床が軋む様な音が鳴る。 読み終えた小説の内容を振り返り、言葉を噛みしめる。 恥の多い生涯。 私の最大の恥と言うならば、彼女への想いを捨てきれないでいる事か。 それとも、 あの時、「子が出来た」と喜んだ彼女と共に喜んだ自分を恨み。 あろうことか彼女と共に、顔も見ぬまま命を落とした我が子さえも恨んだ。 そんな愚かな自分だろうか。 はたまた、それらを言い訳として、このような処に籠っている事だろうか。 亡霊と言うものがあるとするならば、それはきっと私の様な者を指すのだろう。 カタカタという窓の鳴る音で、目を覚ます。 火鉢はまだパチパチとよく燃えていた。 私が眠りに落ちていたのは、ほんの一時だったのだろう。 部屋は暗く、蝋燭の灯りさえも陰って見える。 外はあの鴉の言っていた通り、雪の量が増し、空はやんわりとした白い光に包まれている。 降り来る雪の、白い靄(もや)に包まれる空は、今の私の心によく似ていた。 私は椅子を立つと、廊下をギシギシと踏みならし、炊事場に向かう。 陰の戸棚を開いて、中の一抱えほどの甕(かめ)を持って廊下を戻っていく。 私の重みに甕の重みが加わり、より一層と廊下は音を鳴らした。 酒の入った甕を縁側にドカリと置くと、蓋の杓になみなみと注ぎ、一口に煽る。 元来酒に強くない私はそれだけでくらくらと来るが、私はそれを望んでいるのだ。 と、その時であった。 “ガタガタ” 表の方で戸が勢いよく叩かれた音がした。 私はどうにか立ち上がり、表へ向かう。 「どなたですか」 私は戸越しに尋ねる。 曇り硝子の戸口には、ぼんやりと大柄な人影が映し出されていた。 「悪いねぇ。ちょっと街まで降りて、今しがた戻ってきたんだが、途中でこの雪に降られてね。家まで帰れそうにないんで、ちょいと雪を凌がせてもらえないかい?」 快活なその声は、外の風音にも負けず、こちらへと響いてきた。 私が戸を開けると、そこには雪の積もった番傘を挿し、巨大な大長瓢箪を背負った人物が立っていた。 傘の陰で顔はよく見えず、雪よけの外套のせいで、体格も分かりにくい。 街中に行けば頭一つ突き出る私の鼻の高さ程もあるその人物は、鼻までを覆っていた襟巻きを摺り下ろして顔を見せた。 「…………」 その顔を見てしばし私は失礼だと思いつつも見つめてしまう。 痕。 火傷痕、だろうか。 顔立ちそのものは非常に美しい女だ。 しかしながらその左目には顔の半面ほどを覆うような大きな火傷の痕がある。 「災難でしたね。生憎、囲炉裏には火を入れていないので、私の部屋の火鉢にでも当たって身体を暖めてください」 「悪いね。いやぁ、ほんっと参ったよ。前の長雪で最後だと思ってたんだが、まさかこんなに降るとはねぇ」 少しかすれた渋みのある女の声は、つい先程まで雪の中に居たとは思えぬほど乾いた響きを含んでいた。 女は番傘の雪を表に落とすと、傘を畳み、麻色の外套を脱いだ。 すると先程までは傘で見えなかったが、女の頭には大きな角がある事が分かった。 しかし、その角の片割れは文字通り割れた様に半分から折れ、その折片さえも長い時間が経つうちに風化したのか角が削れ、丸くなっていた。 その折れた左側の角は、顔の左半面にある火傷痕と対となっているかの様であり、その美しい容姿と相まって恐ろしい様な美しさを持っている。 また、着物が窮屈なほどに押し上げられた胸などが人間の女には無い色気を持っている。 痕、角、そして金色の瞳。 人間の女には無い妖しさと、人間の女には無い美しさを併せ持つ彼女は、それを誇る様に、それで脅す様に、それらを隠す様子は全くなかった。 「ん。どうした。あたしの顔に見惚れたかい」 「鬼…ですか」 「ああ。ちょいと酒が切れたんで、街まで下りてたのさ」 そう言って鬼女は背負った瓢箪を親指で指した。 「安心しな。盗って食おうってわけじゃないんだ。それとも、あんたは女のあたしをまた雪空の下にほっぽり出す気かい?」 女はそう言って顔をぐいっと近づけてきた。 その時吐息に交じってほんのりと酒の匂いがした。 「…はは。それは失礼しました。兎にも角にも、上がってください。何もないところですが」 私が答えると、鬼女はすっと顔を離した。 その時、ほんのりと酒とは別な香りがした。 その香りが香水の類のものなのか、それとも鬼特有のものなのか、それとも、女の美しい容姿から香ったものなのか私には分からない。 ただ、それは色街の遊女などのものに比べると幾分も柔らかく心地好く香った。 私は女を火鉢のある部屋へと導いた。 途中に女は二言三言「広い家だね」等と独り言をこぼしていたが、私はそれに特に答えるでもなく渡し船の船頭の様に屋敷を案内した。 相も変わらず寒い屋敷は、妻が亡くなって以来の客人にひそひそと何かを独り言ちているように、風の音を静かに響かせていた。 大座敷の隣を抜け、橙の灯りの漏れる部屋に入る頃にはその独り言は私にさえも向けられているようであった。 その頃には酔いはすっかり冷めていたようで、幾分か視界は落ち着いていた。 部屋に入ると女は、火鉢の前にどっかりと座りこんで、手を広げて暖を取った。 その姿はまるで良く見知った友人の家に久しぶりに来た者か、はたまたこの部屋の主であるかの様に映る。 部屋の蝋燭の灯りの中で、女の肌が火照りのせいか赤く見える。 その中でも一際赤く存在を主張する火傷痕は、蝋燭の炎で再びその火を吹き返した様にその存在を主張した。 また、その長い黒髪は所々が炎に照らされ金色の輪郭を示し、あたかもその髪自体が燃えているかのように鮮やかだ。 歳の頃は私と同じくらいに見えるか、いいや、化生の彼女はそれよりも数倍は生きていると感じられる。 「あぁ。あったまるねぇ。後はこれで強い酒でもあれば言う事無いよ」 そう言って女は私をちらりと見た。 私はそれに気づいてその視線を少し開いた障子度から見える縁側の上の甕に向ける。 どうやら鬼が無類の酒好きだというのは本当だったようだ。 私は聞こえぬようにため息を吐き、障子戸を開け、縁側の甕を部屋に引き込んだ。 「こんな酒でよければ、どうぞ」 「あはは。気が利くね。旦那」 「あなたもよく鼻の利く人ですね」 「ああ。あたしの鼻は酒の匂いを嗅ぐためにあるからね」 そう言って女は私の差し出した甕を片手で軽々と掴んでふたを開けた。 「ほら、あたしに一人で酌させる気かい?旦那もこっちにおいでよ」 女はそう言って自分の隣辺りの床をぽんと叩いた。 「あまり強くありませんが、それでよろしければ。お邪魔しますよ」 「そうこなくっちゃね」 そう言って豪快に笑うと、甕に直接口をつけて酒を口へ流しこんだ。 「ほら、あんたも」 そう言って甕をこちらに向ける鬼女。 私は苦笑して、床に置かれた器を拾い、それを差し出した。 とくとくと酒が注がれる。 「ありがとうございます」 「はは。こんな美人が酌してやるんだ。味わって飲みなよ」 何とも図々しくも、清々しい人だ。 しかし、その笑顔は女に似合って見える。 「では、ちびちびと戴きますよ」 「なんだい。張り合いがないね」 女はいかにもつまらないと言いたげな顔をする。 私は先程の酒がまだ残っているのかそれが少しカチンとくる。 「生憎、鬼と張り合える程“化け物”でもないのですよ」 私の言葉に、彼女は一瞬驚いたようだった。 いや、傷ついたのか。 「…あっはっはっはっは!そうかい。あたしは化け物かい。ははは。こりゃあいい。じゃあ、あんたは化け物を家に招きこんだって訳かい」 予想に反して彼女は笑った。 「ええ。盗られるものは何もありませんから」 私は器の酒を一口飲んだ。 「じゃあ、あたしがあんたの魂を盗ろうって言ったら?」 景色が裏返った様だった。 次の瞬間には女は私の身体を抑え、私の上にまたがっていた。 板間の床に器が転がり、酒が零れる。 目の前に迫った女の顔、陰った右の美しい顔、そして火に照らされて燃える左の表情、そしてその金色の瞳には、先程の仕返しだ、とばかりの挑発の色がうかがえた。 そこで私はこう答える事にする。 「はは。痛いですよ。私を脅しても残念ながらこれ以上酒は出てこないですよ」 私の答えに女はまた驚いたような顔をした。 「はっはっはっは!そうかそうか。確かにそうだ。…旦那。あたしはあんたを気に入ったよ」 そう言って女は豪快に笑った。 彼女の儚げな花の様な笑顔とは違う。 女の笑顔は太陽の様だ。 「あなたはよく笑うのですね」 「ああ。笑う門には福来るってね」 「…ああ。確かにその通りだ」 「ふぅむ………あんた、今、嘘を吐いたね?」 私の返答に女は疑問を示した。 パチパチと燃える火鉢の灯りが女の顔の影を濃くする。 「あたいは人の嘘を見抜くのが得意なんだ。特にあんたみたいに嘘の下手な奴の嘘はね」 「私、何か嘘を吐きましたか?」 「ああ。“いくら笑っても幸せなんて来ない”って思ってる。どうだい。当たりだろ。」 橙色の灯りの中で女はニッっと笑った。 私も笑顔を作る。 「…これは参りましたね。何か当たりの賞品を用意しないと」 「酒だね」 女は間髪入れずに、鏡のように言葉を返した。 「残念ながらあなたが今飲んでいる分で全部です。あ、料理酒ならありますが…」 「かぁっ!しっけた賞品だねぇえ。こんなにでっかい家に住んでんだ。こう、酒を樽で!とか用意しとくれよ」 「うちは酒屋じゃないですから。それに、この家には何もないですよ」 「じゃ、肴を貰おうかね」 「…漬物ぐらいしかありませんよ」 「いいや。目の前に居るじゃないか。うまそうな男がさ」 「…強引ですね」 「鬼だからね」 「鬼ですね」 女は私の唇に口づけた。 酷く酒臭いそれは、酒の味にも似て、辛く、ほどける様で。 口を付けるほどに甘みを増して熱を持ち。 離すと、スッと甘みを残して乾いていく。 「ずいぶんと府抜けた味の肴だね」 「酸いも辛いも全部出しつくした後の抜け殻ですから」 「どうした?ずいぶんと乗り気じゃないね」 「無理やりしたのはあなたでしょう」 「………これじゃあ楽しくないね。あんた、もっと飲みなよ」 「…呑まれない程度に」 「飲めば乗りも良くなるかいね?」 そう言って女は酒を口いっぱいに含むと、私に口づけてきた。 酒の味が広がる。 強い酒が無理やりに流し込まれて頭に回り始める。 「…っはぁ。どうだい。少しは効いたかい?」 「……そんなこと…ないです」 頭がくらくらとして、頭も動かしていないのに景色が動き始める。 「あんた。女が居るのかい?」 「……いいえ」 「嘘だね」 「…いいえ。今は…もう」 その言葉と共に私は隣の部屋の襖の向こうにある彼女の仏壇の方に目を向けた。 私の返答で女は察したらしく、一度身体を離した。 「重そうだね…」 「ええ。あれほどの想いは最初で最後でした」 「つまらない男だね。もう最後にしちまうのかい」 「…恐らくは」 私は回り始める酔いを醒ます意味も含めて、静かに俯いた。 “ふわり” 一瞬甘い香りがする。 その数瞬後には唇に確かな温もりを残し、女の顔が離れていった。 「あんた、いい男なんだ。たった一度の不幸で男を捨てちまうなんて勿体無いね」 「ありがとうございます。でも…」 「でも、もへったくれもありゃあしないね」 そう言いながら彼女は立ち上がる。 その目は水を含んだ綿の様な重みを持ち、私の顔を見つめている。 「あんた、それならそんな顔はやめた方がいい」 「そんな顔、といいますと」 「構ってほしくて仕方ない犬みたいな顔してるよ。まぁ、気持ちは分からんでもないけどね」 「………そうですか」 返す言葉は無かった。 しばしの間、部屋を火鉢の音と、外の風の音だけが時を待つように流れていく。 “チッ ボォ” 再び時を動かしたのは女が燐寸(マッチ)を擦った音だった。 女は煙管に火を点け、すぅとそれを吸って、煙を吐いた。 煙は ふわ と部屋の中に舞い、その姿を様々に変えながらやがてどこかへと流れていった。 「他に家族は居ないのかい?」 「街に弟が。他は皆亡くなってしまいましたが」 「そうかい。弟は何をやってるんだい?」 女はまた煙管を吸って尋ねた。 「問屋業をやっております。妻が出産の時に腹の子と共に亡くなるまでは私も一緒にそちらに居たのですが…」 「ほぉ…。女ってのは嫁の事かい。そりゃあずいぶんと辛かったろう」 「ええ…。しかし、そんな事を言い訳に二年も三年もこんな誰もいない屋敷で籠っている事に弟はやきもきしている様ですがね」 私は恥ずかしくも素直に答えた。 良くない事であるとはどこかで思っているのだ。 「他の女には興味がないのかい?」 そう言って女は懐を少しはだけて見せた。 「はは。あなたは随分と積極的な女性だ。少し羨ましいです」 「はっはっは。そうかい。本当にそう思ってるんだったらあんたも街に残って次の女を探してると思うんだがねぇ?」 女はそう笑いながら煙管を火鉢にコンコンと叩き、火種を落とすと煙管筒にしまい込んだ。 「ねぇ、あんた。冗談無しに、あたしを抱いてみる気はないかい?」 そう言いながら女はするりと着物の帯を解いた。 コロンと音がして懐から美しい塗りの杯(さかずき)が転がり落ちた。 滑らかなその肌は火鉢の光に照らされて妖しく光を反す。 正直に綺麗だと思う。 しかし、私はそれが触れてはいけないものである様に感じ、首を横に振って見せた。 「そうかい。こんないい女そうそういないと思うんだけどね」 拗ねた様に肩をすぼめると、女は落ちた杯を拾い上げ、着物で軽く表面を拭くと、酒を注いで壁に凭れ掛った。 「まるで檻から出るのを怖がってる鼬(いたち)みたいだね。あんたは」 誘うように笑みを浮かべ、杯を一口に煽って見せた。 それが“臆病者”と言っているように見えた。 しかし、まさしくその通りだなと私は思う。 「犬の次は鼬ですか。次は何になればいいのですか?」 私は自嘲しながら答える。 そんな私を見て、女はまたくすりと笑い、 「男になりな。いい女がこんなに誘ってるんだ。嫁に“ごめん”とでも言って目の前の女を押し倒せるくらいの男にね」 「それはそれは。まるで狼の様な男だ」 「あたしはその狼を食う鬼さ」 「なら私は、今少し狸になって様子を見る事にしますよ」 私はそう言いながら酒を一口に煽った。 ツンとした酒の気が私の鼻を突いた。 どうやら私はあのまま酔い潰れるまで酒を飲んだらしい。 心地好い気だるさと、それを劈く(つんざく)様な頭の痛みの中、私は目を覚ました。 火鉢はその火を落とし、肌を突く様な寒さが私を起こした。 外から入る日の光は降り積もった雪に反射してずいぶんとその明るさを増しているようだった。 昨夜の事を思い出そうとする。 記憶を呼び起こすも、酒気が川面に浮かぶ霧霞の様に掛かり、それは纏った形にはならない。 それは今朝の視界も同じであるらしく、しばらくぼぅっと見慣れた天井を眺めているが、視界が正しい像を結ぶにはしばしの時間がかかった。 ようやく記憶の川から引き揚げた映像には、あの後も酒を飲み続け、挙句私にも無理やりに酒を勧めるあの女と、それをとうとう断り切れずに無理な酒に付き合い記憶をなくし眠りこけた私が映っているようだった。 しかしながら始終交わしていた会話の内容などは今だ霞がかかったままであるらしい。 それにもかかわらず、何故か女の顔だけがいやにはっきりと思い浮かんでしまう。 横になったまま首を動かし部屋を見渡す。 意外な事に、あの鬼女は私が目を覚ます頃にはこの屋敷から発ったらしく、後には空になった甕と、この家のものではない漆塗りの杯が1つ残されていた。 私は酒で重たさを伴う頭を起こし、隣の部屋に行き、仏壇の彼女の前に正座した。 そして昨夜の事を詫びる。 「……………………」 彼女からの答えは返ってこなかった。 だが、不思議な事にその無言には怒りの意味は含まれていない様であった。 いや、位牌に反射した日の光がそう見せただけかもしれない…。 どうやらまだ朝の早くであるらしく、空だけは明るく輝いているが、空気は今だ夜であるかの様にしんと静まり返って聞こえた。 私は寒い空気を鼻から吸い込みながら中庭に備えられた井戸へ行き、水を何度か腹に流し込む。 凍てつくような水は私の意識を酒の霞からずいぶんと回復させてくれた。 そして、ふと中庭の窓からのぞく炊事場に目を向け、今日すべき事を思い浮かべる。 昨夜の事で鬼が肴にとなけなしの食糧を食べてしまった事もあり、町に買い物に行く事にする。 雪は随分と積もっていたが、かんじきを出すほどでもないように思える。 玄関を出ると、そこには真新しい足跡が残されていた。 歩幅も進行方向も実に自由気ままなそれは、その足跡の主の性格をそのまま示しているかのようだった。 しばしその足跡をたどってみる。 玄関を抜け、正面にはまっすぐ続く田舎道がある。 しかしそれは真直ぐ続いては行かず、すぐに左に曲がり、山へと続く道の方へと向かっているようだった。 『また来るよ』 昨夜の鬼女の温もりと共に聞こえた言葉を、酒に濁った記憶の中から不意に思い出した。 私はその足跡の続く先を目で追うと、まっすぐに新雪の続く田舎道を歩いた。 私が買った荷を担ぎ、家に帰る頃にはすっかり日は高くなり、これからゆっくりと落ち始める具合だった。 その時、ふと私を呼びとめる声が聞こえた。 それは弟のものである様だった。 私は彼に連れられるまま、間口の広い問屋の裏から二階へ上がった。 初めのうちは懐かしむような話を続けていた彼であったが、しばらくすればその話は終わり、いつもの話へとすり替わって行った。 「兄さんは我が家の長子なのですよ。そんな人がこんな年で隠居などしていては周囲に示しがつきません」 何とも言い返す事も出来ない正論ばかり。 弟は商人らしく、ポンポンと話を上げては、誘導するかのように話を進めていく。 しかし、私の返答は決まったものだった。 「すまない」 その一言を聞いて弟は肩を小さく落とし、言った。 「他に女を作りなさいよ。確かに雪恵さんは素晴らしい女性でした。でも、もう雪恵さんはどれ程待っても帰ってこないのですよ」 年々弟は私達の母に口ぶりが似てくる。 両親が疫病で亡くなったのは弟が元服したばかりの頃だった。 その頃私は雪恵と共に立ち上げたこの問屋を切り盛りするので、てんてこ舞いだった。 しかし弟は私と違って賢い子だ。 見る見る間に私たちの身振り手振りを覚え、独学で算術や商いの仕方も覚えてしまった。 …それ故に、私は彼に甘えてしまっているのかもしれない。 「……分かりました」 「本当ですか!」 私の返答に弟は瞳を子供の様にして食いついた。 その顔を見て、私は一つの条件を出すことにする。 「あなたが妻を娶ったら、その時は私も新しい女性を探しますよ」 私は意地悪く言ったつもりだった。 しかし、弟はそれを聞くと口角を少し釣り上げ、儲けている商人のような笑みを作り、大きな声を上げた。 「文さ〜ん。知枝をここに呼んでください。」 どうやら下に居る女中に誰かを呼ぶように伝えたようだった。 その後しばらく部屋には無音の空気が流れていた。 私は、ああしまった、と心の中で思っていた。 そうして現れたのは弟とは違い、物静かで落ち着いた感じのする女性だった。 歳の頃は弟よりも上であろうか。 「兄さん。紹介します。近く結納を行う予定の知枝です。本当はもう少し後でご報告するつもりだったのですけどね」 やはり。 そう思った。 私の表情を見て、弟はさらに嬉しそうに目を輝かせた。 そんな私たちの様子を知枝さんという女性は少し恥ずかしそうに見ていたが、手をついて、 「何分不束ではございますが、繁信様を支えて行きとうございます。どうぞよろしくお願いします」 と挨拶をした。 ずいぶんとよく出来た娘さんだった。 まいった。 これは完全に弟に食わされてしまった。 私は知枝さんに弟を頼むと挨拶をし、弟に「負けたよ」と一言残して店を後にした。 ふいに思い出した女性の顔は、彼女ではなくあの鬼の笑顔であった。 帰り道、抱えるほどの荷物を持って私は雪道を歩いていた。 昨夜の事といい、弟といい。 思い返せば笑ってしまいそうになる。 反面。 彼女の笑顔を思い出し、泣き出しそうにもなった。 嗚呼。私はどうすればいいのだろう。 そう思いながら、やっと見えてきた屋敷を見た。 「やぁ。ずいぶんと“重そう”じゃないか。あたしが請け負ってやろうかい?」 そこに居たのは昨夜の鬼女だった。 「……では、1つだけ、お願いします」 私はそう返すと、酒の入った甕を荷担ぎ竿から抜き、差し出した。 「お…この匂い…。家に入る前に空になっててもあたしを責めないでおくれよ」 「…まぁ、いいですよ。そうなれば飲む酒がなくなって困るのはあなただ」 私は荷の入った袋が2つ結ばれた竿を担ぎなおしながら言う。 「はっはっ。そうだったね。安心しな、今日はちゃんと持ってきてやったよ」 そう言いながら鬼女は昨夜も担いでいた大長瓢箪を親指で指した。 「もうすっかり空になったものかと思っていました」 「ああ。だから新しく買ってきたのさ」 「…………あなたに飲ませるのは酒を井戸に捨てているような気がしてきますね」 「なら、酒が湧く井戸を掘り当てないとね」 彼女はその美しい顔に良く似合った表情で笑って見せた。 昨日の事といい、その火傷痕に浮かべる笑顔といい、この人は本当に強い人だ。 「そんな物掘り当てでもしたら、あなたみたいな人がたくさん集まってきてしまうではないですか。あなた一人でもこちらは随分と困っているというのに」 「んじゃあ、あたしはもっとあんたの慌てる顔を見てみたいね」 「はぁ…」 私のわざとらしいため息を嬉しそうに見ると、女は私の屋敷の中へ我が物顔で入っていく。 仕方ないので私もその後に続く。 玄関に入ると私は担いでいた荷を下ろし、息を吐いた。 「ずいぶんと買い込んだんだね。露店でも始める気かい?」 「あなたが買ってくれるのなら」 「じゃあ、あたしはこの酒を貰おうかね」 「少々お高いですよ」 「大丈夫さ。あたしの身体はもっと高くで売れる」 「…高すぎて買い手が付きそうにないですね」 「付くさ。それこそ売りに出したら大きな競りが始まっちまうぐらいにね。競りが始まっちまう前に買っておいた方が得だと思うよ?」 「買った後の酒代の方が高く付きそうなので、今は遠慮して置きましょうかね」 「ふふ。それは様子見ってことかい?」 「確かな価値の分からない商品に手を出すのは危険ですから」 「その商品の価値を見極めるのが商人の目利きってもんだろ?」 「……隠居して長いですから。もう少し時間がかかりそうです」 私はそう答えながら、街での弟の話を思い出していた。 「ほら。戸を閉めとくれ。ただでさえ寒い家なんだ」 「あ、すみません」 私は言われるままに戸に手をかける。 その時、女の言葉に違和を感じなかったのは、女の持つ独特の空気のせいだろうか。 戸を引こうとしたところで、私の手に覚えのある冷たい刺激が舞い降りた。 「雪…」 空からは、はらりはらりと雪が舞い落ちていた。 その雪は後になるほど大きな綿となって、鳶の羽の様にゆるりゆるりと舞い落ちて行く。 「こりゃあ、今日も泊めてもらわないと駄目そうだね」 後ろから女の笑いを含んだ声が聞こえてきた。 「…その様ですね」 私は静かに答えながら戸を閉めた。 “くつくつ” 何月か振りに火の入れられた囲炉裏の中で鉄鍋の上に掛けられた木蓋が音を立てていた。 見上げれば数百年をかけて積もった煤(すす)で汚れた天井がある。 土間を渡った隣の炊事場では女が竈の上で飯の煮炊きを行っていた。 鬼の彼女が割烹着を掛け、炊事を行う姿はどこか不思議なものがある。 しかしながらその手つきは奉公に来ていた妙さんよりもいいほどで、囲炉裏と竈、合計三つの鍋を流れるように扱っていた。 そして、私はそんな姿を見ながら、言いつけられた囲炉裏の鍋の様子をじっと見ているのだ。 何とも可笑しな感じがする。 まるで私の方が招かれた客であるかのようだ。 だがしかし、私がそのように言うと彼女はこう答えるのだ。 『泊めてもらうってのに、何にもしないってのはあたしの流儀に反するのさ』 ちなみに、昨日の件については、“裸を見せたからチャラ”だそうだ。 どこかしら納得がいかないものがあるが、こうして屋敷の中に私以外の人がいるというのは悪い気がしない。 「ほら。飯が出来たよ。そっちの塩梅はどうだい?」 女が蓋の隙間から湯気の漏れるお櫃(ひつ)を持って土間から上がり込んできた。 「そろそろいい頃でしょう」 「そうかい。見せておくれ」 上がり込んだその足で女は鍋の蓋をかぱと開ける。 湯気が湧水の様に上がり、逃げ水のように消えていく。 おたまで何度かかき混ぜ、浮かんだ野菜などの様子を見る。 「ん。いいね。じゃ、味噌を入れるよ」 小さめの甕に入った味噌をおたまで一掬いし、煮立った鍋の中へ溶かしていく。 ふわりと甘い様な香りが広がり、味噌汁が出来上がる。 その具合を見て“よし”と一言溢し、味も視ないまま、鍋を五徳から下ろすと、女はお櫃を置いて炊事場に戻って行った。 女はそのまま炊事場でごそごそと何かをやっているようだった。 私は女の離れた部屋の中で、パチパチと音をたてて燃える囲炉裏の火を見、お櫃から香る焚きあがった飯の香りと、今しがた出来上がった味噌汁の匂いを嗅ぐ。 背後の炊事場ではカタカタかちゃかちゃと女の動く音がする。 何処となく懐かしい感じがする。 良い、そう思える。 今になって思えば昨夜の事も、まるで何年も昔から行われてきたやり取りであるかのようにも思えた。 そう、まるで厄介な友人が久しぶりに会いに来たかのような。 それでいて彼女は私に女として意識させるような事を、さも自然と行ってしまうのだ。 そして途端に恐ろしくなる。 私は彼女の事を記憶と言う棺に入れてしまいそうになる。 ほんの数年前まで彼女の傍に居て、彼女に触れ、彼女と共に培ってきた思い出が、彼女の遺品として埋葬させられそうになる。 もう私にはそれしか残っていないのに。 彼女の声も、言葉も、その表情も、彼女の子も、彼女自身も、彼女を示すものは全て失われてしまったというのに。 私の持っている彼女の想いだけが、思い出だけが唯一彼女を生かしているものであるというのに。 彼女は死した。 彼女の身体は灰となり、その骨は私が手で拾い上げ土に埋めた。 彼女の死は理解している。 でも、でも、それを納得することなど出来るはずもない。 なぜなら目を瞑りさえすればそこに彼女が見えるのだ。 耳を塞げば彼女の声が聞こえるのだ。 思い起こせば彼女と共に経験した様々な感情が触れられるように蘇るのだ。 『この子が産まれたら、一番に抱いてあげてくださいね』 私はまだ赤子を抱いていない。 私はまだ彼女に“頑張った”と褒める事さえも出来ていない。 なのに、私は別の女の事をこうして考えているのだ。 今朝目が覚めた時からそうだった。 昨夜の女の顔が頭から離れずにいたのだ。 そして、今日再び出会い、意識する事もなく笑みが浮かんでしまった。 私は、何と罪深い男なのだろう。 「ほ〜ら。かぼちゃを炊いてみたよ。あん……うん。こりゃあ、つまみにもなりそうだね」 女が陶器の器を持って、先程摘み食った指先を舐め、土間から上がってきた。 ことんと囲炉裏を囲む木の枠組みにそれを置くと、腕を背中にまわして割烹着を脱ぎ始めた。 置かれた器は、古くなりあちらこちらが削れて凸凹になった木枠の上で少し傾いていた。 その中にはおいしそうに煮付けられた南瓜がごろごろと入って、甘い香りを食事の匂いに融け込ませている。 「…美味しそうですね」 「美味いに決まってるだろ。なんたってあたしが作ってやったんだからね」 「すみませんね。なんだか」 「そう言う時は“ありがとう”って言やあいいのさ」 「食材は私が買ってきた者ですけどね」 「じゃああんたは生の南瓜でも齧(かじ)ってるかい?」 「いいえ。遠慮して置きます。すみません」 「“ありがとう”」 女は私の返答にむっとした表情を見せ、ぐいと顔を近づけてきた。 私はその顔を見て、くすりと吹き出しそうになったが、一度俯き、 「ありがとうございます」 と答えた。 女はしばし私の瞳をじっと見つめ、 「よし。いいよ。食べさせてやるよ」 と見慣れた笑顔を湛えた。 そして女は向かいの面ではなく角を挟んだ隣の面にご飯を装った茶碗を置き、私の茶碗を私の正面に置いた。 味噌汁の入った碗も同じように置き、最後に南瓜の煮付けを間の角に置き、配膳を終えた。 私がその様子を見ていると、 「別に分けなくてもよかっただろ?」 と聞いてくる。 南瓜の煮付けの事を指しているらしい。 “ええ”と私が答えると、満足したかのように一度頷き、 「んじゃ、頂こうかい」 と箸を持った。 私も“頂きます”と呟き、箸を取った。 囲炉裏に火を入れた事もそうであったが、飯の時に言葉を発した事も久しぶりである。 汁椀を取り、ふぅふぅと息を吹きかけると、視界を埋めつくさんばかりの湯気が上がる。 それが顔に当たりちりちりとするが、同時に美味そうな香りも鼻の奥に触れる。 ずずっと一口すすると、出汁の風味と味噌の味が口の中に広がる。 「どうだい?」 「美味しいです」 「だろ?」 そう嬉しそうに答えると、女は自分の碗も啜った。 私が食事を終える頃、女はいつの間にか南瓜をつまみに酒を飲み始めていた。 外も日が落ち、部屋だけが囲炉裏の火で明るく照らされていた。 私は食器を重ね、持ちあげるとため息を吐いて聞かせた。 「ふふ。桶に水を張っといたから、そこに浸けといておくれよ。戻ったら酌をしておくれ」 「…はい」 二度目のため息は自分に吐いた。 「…でね、そいつがまた可笑しな奴でさ、あたしの顔を見て驚いてんだか笑ってんだか分からない様な顔をしてこう言ったのさ。“鬼が出たぞ〜!”って。あたしはもう可笑しくってさ、そこですごんでこう言ってみたのさ“あんたは美味そうな匂いがするね”ってそしたらそいつったら肥溜ん中飛び込んじまって…」 酒がいい具合に回り、その酒気を囲炉裏の温かさが加速させる。 女は機嫌よく上り調子な話を聞かせて笑っていた。 私もそれに合わせ、笑いながら聞いていた。 「ふふ。少し意地が悪いではないですか。あなたが脅かしたりするから」 「勝手に驚いてんだから仕方ないじゃないか。まぁ、あんましかわいそうだったからあの傘を買ってやったのさ。でも、以外にもあれはもちが良い。もう十年近く使っているが、紙を何度か張り替えただけでまだまだ使えるんだ」 「へぇ。是非その青年の傘をうちの店で取り扱いたいものですね」 「はっはっは。流石は商人だね。でも、もう十年近くも前の話だ。もしかしたらあんたよりか年上かもしれないよ」 「はは。そうでしたね…」 話が面白いのか、女の話し方がうまいのか、私はついついその話に引き込まれていく。 ああ、そうか。 そう言えば昨夜も途中からこんな感じだった気がする。 「ほら、器が空だ。もう一杯どうだい?」 「ああ…。どうも」 差し出した器に並々と酒が注がれていく。 私の買ってきた酒はとうとう女が飲み尽くし、注がれる酒は女の持ってきた分だ。 ずいぶんと良い酒を買っているらしく、注がれた濁りのない酒は水の様に喉に浸みこみ、甘みとうまみを残して通り過ぎて行く。 「ずいぶんと美味しいお酒ですね」 「ああ。ずっと前にこの国を旅して回ってやっと見つけた酒さ。あたしがここの山に住んでるのはこれを売ってる酒屋が近いからさ。酒の越し具合も、水の配合も最高だと思うね」 「そのせいで私は今にも眠りこけてしまいそうですよ」 私は畳に腕を突き、凭れ掛って言って見せた。 「あっはっはっは。昨日もそうだったけど、あんたはほんっとに弱いね」 「あなたと比べれば…ねえ」 「なんだい。その目は?“この化け物め”と言いたそうな口をしてるよ」 「当たりです」 「はっは。酔っても口の悪い男だね、あんたは」 「それはあなたもでしょう」 「ははは。違いないね」 笑いながら女は杯を空け、新たに酒を注いだ。 「ああ。こんな楽しい酒は旦那亡くして以来久しぶりさ」 ことんと女が私の肩に頭を凭れ掛けて静かに言った。 「旦那さんがいらっしゃったのですか?」 私は素直に聞き返した。 彼女の声と態度がそれを訪ねるよう、言っていた気がしたのだ。 「ああ。あんたと違って乗り気な男でね、ジジイになってもあたしをよく抱いてさ。それどころが街でいい女を見つけるとはその尻を追いかけて行くような男だったよ」 「はは。それは元気な人ですね」 「ああ。でも、あたしはそんなあいつが大好きだった。歳食っても変わらず女好きでだらしがなくて。いつもあたしが面倒食って…。あたしがこんなになったのも半分はあいつの所為さね」 「それは意外な話ですね」 「ふふ。こう見えても若いころはお淑やかで、大人しい小娘だったんだよ?」 「嘘ですね」 「大人しすぎて酒と旦那に頼らなければ自分を取りつくろう事も出来ない様な…」 「嘘ですね」 「……ち。ばれちまったか」 「あなたがお淑やかなら、街の娘の大半は物静かな女になってしまいます」 「ちぇ。もう少し信じてくれてもいいじゃないかね」 女は拗ねた様に言って、ぽんと私の膝の上に手を乗せた。 そうしてしばらくそのまま静かに目を細め、 「だから……あんたの気持ち。分からない事は無いんだよ」 落ち着いた言葉でそう言った。 火傷痕の中で金の光を放つ綺麗な瞳は、私に何かを言うように諭しているようだった。 霧靄の中にある頭の中から答える言葉を探す。 「………ありがとうございます」 どうにか探し当てた言葉がそれだった。 「あたしも旦那亡くした時は“どうして人間ってのはこんなに早く死んじまうんだろ”って思ったよ」 静かに優しく言葉を紡ぐ。 「……はは。そん時程酒が有難かった事は無いね」 「………ええ」 女の言葉を聞いて、女が来る前までの毎日の事を思い返す。 女中の妙さんに見つからないように隠してまで毎日酒を飲む。 飲めない筈の酒を。 その理由は女の言ったそれと同じ。 「この火傷の理由を聞いておくれ」 そう言い、女は私の手を取ると、その顔の火傷痕に静かに乗せた。 赤い痣を作るその表面は、爪を立てれば崩れてしまいそうなほど柔らかく、未だ中で炎が燻っているかのように熱かった。 「…どうしたのですか?」 私はゆっくりと尋ねた。 女は手を離す事無く、そのまま柔らかに目を閉じ、話し始めた。 「ずいぶんと昔の話さ。その頃あたしも旦那もまだ若かった。あたしと旦那は偶然ある飲み屋で知り合った飲み友達だった。あいつは人間の癖にずいぶんと酒に強くてね。毎晩店の親父に追い出されるまで二人で酒を飲んだ。あたしが身体を開いたのにそう長くはかからなかった。旦那も、あたしも、互いにあたしたちは気の合う奴だと思ってたのさ」 すっと目を開き、瞳を振わせる。 その視線は私の方を向いてはいるが、別のものを見ているようであった。 「そうして夫婦になったあたしたちは、旦那の少ない稼ぎの中、贅沢は出来ないが、幸せに暮らしてたんだ。でも、ある日、街の中で大火事があった。ずいぶんと酷い火事でね、街中が真夜中にもかかわらず目を覚まして慌てふためいていた。あたし達はあたしが鬼ってこともあって、街中では何かと居心地が悪かったから、街の外れに住んでたんだ。おかげで家に燃え移る事は無かったが、旦那は真直ぐな馬鹿野郎だ。昼間の様に明るい空を見て、“これじゃあ火消集だけじゃ人手が足りねぇ”って言って、草履を履くのも忘れて飛び出していっちまった。あたしも慌てて追いかけた」 女の視線が囲炉裏の中で燃える火に向けられる。 私もそれを追って、赤々と燃える火を見つめた。 「あたしも旦那と一緒に火の粉が降る街の中を走り回って、混乱する人間を助けて回った。そんな時、屋根に火が移った家の中に人間の女の子が一人泣いているのを見つけたんだ。あたしは居ても立ってもいられず、飛び込んで、その娘を外へ放り出した。まさに間一髪ってやつさ。おかげであたしは逃げる事も出来やしなかった。焼け落ちた屋根に巻き込まれて、頭をぶつけて気を失っちまったんだ」 私の触れている手を少し強く握り、その赤い頬をするりと撫でる。 「目を覚ました時にゃ、あたしの顔はこの様だった。旦那は火中にあたしの姿を見つけてふんどし一丁に水を被ってあたしを引きずり出してくれたらしい。そして、目を覚ましたあたしに“すまねぇ、すまねぇ”って何度も何度も謝ってた。あたしはその旦那の顔が堪らなく嫌でね、こう言ってやったのさ。“あんたは何に謝ってるんだい?あんたはあたしがどんな顔になってもあたしと一緒に居てくれるんだろ?”って。そしたらあいつ、みっともなく大泣きしながら“もちろんだ”って答えてくれたよ。あたしはそれが嬉しくてね。それ以来この顔を隠す事はしなかった。まぁ、あの馬鹿な旦那はそんな事言っときながら、街に出りゃあ美人を見つけては声をかける様などうしようもない男だったけどね」 くすくすと笑いを浮かべる女の頬から、柔らかく振動が指先に伝わる。 「でもね、床の中ではよくあたしのこの顔を撫でて、言ってくれたんだ。“俺はこの顔が好きだ。お前は他人の為に命張れるほど強ぇ女だ。俺の惚れた女は、そんな強ぇ女なんだ。この顔はその印だ。俺はおめぇの事が好きだ”って。全く、ずるい男だよね。そんな事あんな大真面目な顔で言うんだ。そんなの嫌いになれるはずがないじゃないか」 女はすっと私の手に被せた手を解いた。 私はそれでも、その頬をするりと撫でた。 「はは。あなたらしい話ですね。その旦那さんもきっとあなたの様に強く、とても優しい人だったのでしょう」 「ああ。あいつはいい男だったよ。 まぁ、面構えはあんたとじゃ月と鼈(すっぽん)だけどね」 「……なんで、私なんかにそんな話を?」 私は疑問を言葉に挙げて、尋ねた。 「あんたに、知ってほしかったんだ。あんた。あたしを初めて見た時、火傷の事ずいぶんと気になってたみたいだからね。でも、それでもあんたはその事を気に掛けない振りをして、あたしに話しかけてくれた。本当は嬉しかったのさ。」 「やはり、気にしていらしたのですか」 「そりゃそうさ。こんなでも、あたしも女だ。こんな面になっちまって、気にしない方がどうかしてる。…だから、あんたがあんな事を言った時は少し腹が立った」 「…“化け物”と。 それは…すみませんでした」 私は心苦しく謝った。 しかし、女はそんな私を見ようともせず、 「まぁ。後から思えばあんたは随分と意地の悪い性格をしてるからね。そのあとのあんたを見て、逆にこっちが苛めたくなっちまったくらいさ。 まぁ、あたしはこんな面だ。何度か女を捨てるつもりもしたさ。特に、旦那亡くした後はね」 女は眠り草の様にこうべを垂れ、はぁ、と一つ息を吐いた。 その息は寒さの為にふわと白い花を咲かせ、その様は雨露に濡れる眠り草の花そのものである様だった。 しかしながら、しばらくするとその肩をくっくと弾ませ、 「あっはっはっは。駄目だね。あたしゃどうもこう言う話は苦手だ。馬鹿馬鹿しくて笑えてくるよ」 大きく口を開けて笑い声をあげた。 「ねぇ。あんたの目にあたしはどう映る?」 「…鬼灯の様です」 「ほおずき?」 「ええ。雪の中でもよく燃えて。闇の中でも辺りを明るくする。そんな灯火の様な鬼です」 「はっは。なかなか上手い事言うね」 「私は…。あなたの様にはなれない」 「なろうとしてないんだろ?」 くすりと女は意地悪く言った。 「…………ええ」 「あんたは自分から雪に埋もれたがってる。それも、さも助けてほしそうに震えながらね」 「……ええ」 「そしてあたしはそんなあんたを見て鬼灯の灯りで照らさずにはいられないお人好しさ」 「あなたが言うと漫談の様ですね」 「ねぇ。鬼灯の実で遊んだ事はあるかい?」 女の質問に私は首をかしげた。 「あれはね。よく熟した身をゆっくりとゆっくりとほぐしていくとね、ヘタの所から中身を取り出す事が出来るんだ。それがなかなか難しくてね」 「はぁ…」 「硬い実はなかなか上手くほぐす事が出来ない。でも、焦って力を入れ過ぎるとプツリと実ははじけちまう。旦那はそいつがなかなかに上手くてね。残った実の皮を鳴らして見せてくれたよ」 「…そうなのですか」 「そしてこう言うんだ。お前は鬼灯によく似てる。噛みつくと苦くて食えやしないが、ゆっくりと解してやれば綺麗に剥けて…」 「下ネタですか…」 私は切れてじとりと女に目を向けた。 「青臭い街娘よりかはいいだろ?」 「……真面目な話を期待した私が馬鹿でした」 「ふふ。じゃあどんな話がよかったんだい?」 「…………」 私は酒を煽るふりをして口を閉ざした。 そんな私を見て含む様な笑みを浮かべる女。 ずいぶんと意地の悪い事だ。 「じゃあ、こう言うのはどうだい?鬼灯をほぐしてはみないかい?」 す…と顔をこちらに向けて女は言った。 その瞳は囲炉裏の炎の中で金色に揺れている。 まるで水面の様に。 まるで火炎の様に。 「ねぇ。あたしを抱いてはくれないかい?」 珍しく女の眉は山生りに形を浮かべ、その唇は瑞々しくも、普段の張りを失ったようだった。 私はその顔と心を見て、すっと目を閉じた。 瞼の外から入る囲炉裏の光。 瞼の裏の闇の奥に居るであろう女の姿。 眼前に浮かぶ彼女の姿。 その姿が私の心を絞めつけた。 “………なさい” 嗚呼。私は罪深い人間だ。 今、彼女を、目の前の鬼を見て、その気持ちを誤魔化せないでいる。 それは先程の話の所為ではない。 昼間の弟の言葉の所為でもない。 昨夜から、今朝目を覚ました時から、今日、再び彼女を見た時から、私は彼女に心を奪われていたのだ。 ほろほろと。 つむった目から涙が零れた。 彼女は許してくれるだろうか。 こんな私を許してくれるだろうか。 私は瞼を上げる。 美しい鬼の姿があった。 “ひゅう” 部屋の中に外からの風の音が聞こえた。 そして、玄関の曇り硝子の向こうに、はらはらと舞い落ちる白い影を見た。 その時思い出した。 あの時私の手に触れた一片の雪粒を。 “ごめんなさい。ありがとう” 私は口を開いた。 「…今日。弟に、約束をしてしまいました」 私はその瞳を見つめながら言った。 「何を…約束したんだい?」 「……新しい女性を探す。と」 「…そうかい。どうだい?見つかりそうかい?」 鬼らしからぬ瞳で彼女は見つめた。 手を伸ばし、その赤い頬に触れる。 彼女はゆっくりと目を閉じる。 「……ええ」 すっと、鬼の身体を抱きしめた。 酒の匂い。 甘い香り。 女の、この人の香り。 ふわりと鼻を擽る(くすぐる)酒とは別の香り。 「私で、いいですか?」 「ああ。少し物足りないが、我慢してやるよ」 「ふふ。…ありがとうございます」 す と唇と重ねた。 柔らかく、解ける様で。 互いの気持ちを重ね、ゆっくりと積み上げるように。 それとは逆に、何かがすぅっと融けて行くようで。 甘く、悲しい。 私の厚羽織を二人の肩に掛け、その中で裸の互いの身体を寄せ付け相い、囲炉裏の炎を見つめた。 隣に居る彼女の髪は、先程までの行為の所為で汗に濡れ、その赤みの強い美しい身体に張り付いていた。 その髪を何度か撫で、その唇に口づける。 酒気の弱まったその味は、より甘く。 「私は、恥ずかしくも、彼女の姿を使って、自分の瞳を閉ざしていました」 「…ああ。あたしもそうだった」 「彼女は怒っていました」 「そうだろうね」 「…でも、許してくれました」 「いい女だね」 「ええ。とても、いい女性でした」 瞼から一筋涙が零れ落ちる。 すぅと、彼女がその手で私の涙を掬ってくれる。 触れ合った互いの素肌はそこから互いの温もりを伝える。 「あの…」 ゆっくりと唇を開く。 「私も、あなたの旦那さんの様に、あなたを置いて逝ってしまうでしょう」 「ああ。そうだね」 静かに、彼女は答えた。 「それでも、私はあなたと共にあります。彼女がそうしてくれているように」 「ふふ。そこまでしなくていいよ。そんな事よりも。一緒に居られる時を一緒に生きて、あんたが死んでから、あんたとの思い出を肴にして美味い酒が飲めるよう、あたしを幸せにしておくれ」 私に回された彼女の腕に力がこもった。 私も同じように彼女の細い身体を抱き締める。 肩に彼女が頭を乗せて、静かで、確かな彼女の息遣いが私に伝わる。 その頭に、私も頭を凭れ掛けさせる。 彼女と温もりを溶け合わせる。 それは静かに融けて行く雪解けの春の温もりの様で。 次の日の朝には雪は止み、昨日の昼間の様に澄み渡った空が所々顔をのぞかせていた。 囲炉裏の燻ぶりの様な火と、隙間を埋める様に触れる彼女の肌がそんな寒さから私を遠ざけてくれる。 昨晩あれほど呑んだにもかかわらず、私の頭は雪上がりの空の様に澄み渡っていた。 「おはよ。気分はどうだい?」 「とても…心地いいです」 「ふふ。もっとあたしの肌に溺れてみるかい?」 「……そろそろ起きないと罰が当たりそうですね」 「ちぇ。もっと惚気てくれてもいいじゃないか」 「…まだ酔ってらっしゃるのですか?」 「ああ。ずっと」 悪びれる様子もない彼女の笑顔。 とても綺麗だ。 私も微笑み返し、身体を起こした。 「今朝は寒いね。温かい物でも作るよ」 「ありがとうございます」 “すぐに朝食にしますね” その時、ふと彼女の笑顔が思い浮かんだ。 私はそれを見て、彼女に言った。 「…その前に、彼女に、雪恵に、会ってやってくれますか?朔羅さん」 「ああ。もちろんさ」 座敷を抜け、彼女の居る部屋に二人で歩いて行く。 静かに彼女はたたずんでいた。 私は彼女に手を合わせ、祈りをささげる。 すると、後ろから彼女が私を押しのけて彼女の前に陣取り彼女に向き直った。 「あんたの旦那。あたしが貰うよ。そいで、あんたがしたようにあたしはこいつを愛して見せる。だから、あんたはもう心配せずに逝っとくれ。そんで、あんたの子と一緒に、新しい生を生きておくれ。こいつの事はあたしがあんたに変わって幸せにして見せるよ。だから、もう安心しておくれ」 彼女は、どこか寂しそうに笑うと、一度静かに頷いた。 残された仏壇には、一つの位牌が朝日を反し、光っていた。 これから春が来る。 私が地に縛り付けてしまっていた雪は春の温かさに融け、雪解け水となって海へ、空へと還っていく。 雪はやっと、廻る命へと還っていく。 その喜ばしい事を目の前に、私はなぜか涙が止まらなかった。 |