5万年の待ち合わせは万魔殿の喫茶店で
オートマトンからの宇宙天気予報がスピーカーから伝えられていた。
月の空は、母星とを行き交う宇宙船の瞬きだけで星空が描かれていると言われる程、それは無数に飛び交っていた。
おそらく宇宙のどの星の空よりも、月の星空はその往来する人工天体たちによって賑やかであったと私たちは思うほどであった。
宇宙開発の為の資材が、マスドライバーで次々に打ち上げられている。
文明の繁栄を象徴して月の空は、常に混雑していた。
そして、月面から特別な船が旅立とうとしていた。
「観光に行くのにとんだ予算食いだ」
「観光にしては往復5万年は長過ぎる」
それは、銀河中心への観測船だ。
結局、光の速度は越えられなかった。
「良い旅を」
「ああ」
これが友人とリアルタイムで会話できる最後だった。
光の速度を越えた通信手段を、自分たちがまだ持たないからだ。
この宇宙船はその光の速度にも達しない。
我々の文明は何にもかもがまだ未熟で、それでも背伸びして私たちは旅立つのだ。
大人の使う手摺に手を伸ばす初々しさも在った。
友人は、すぐにワープ航行可能な新型の観測船に私たちが追い抜かれるだろと言った。
彼女の代では無理だろうが、彼女の孫の代くらいには可能だろうか。
自分たちはウラシマ効果で、もしかしたらこちらの次の朝時間に目覚めたら、それに追いつかれていて、やってきた未来人と朝食を共にしているかもしれない。
そう言い合って、私たちは最後は笑って別れたのだ。
しかし、
自分たちの観測船を翌朝にでもポンコツにする最新鋭のワープ船は、遂に追いついてくる事は無かった。
亜光速で進む船を少しずつ真後ろからゆっくりと追い越して行く、自分たちと同じ星を旅立った光が、自分たちの所属する文明が滅んだ事を、もう随分と先で教えてくれた。
母星を真っ赤に灼いた絶滅戦争の結果だと、推定された。
それが、今の変わり者のサキュバスが魔王に即位した頃から、五万年前の話である。
一万年先の待ち合わせでも、喫茶店でワンコインのコーヒーで済ます事もできる。
これは時間を忘れる堕落神の宮殿、万魔殿を評する一つの言い方であった。
万魔殿に喫茶店があるのかと訊かれれば、無い訳が無いというのが答えになる。
そもそも時間と言う概念がすっぽ抜けて、それが抜けている事も念入りにすっぽ忘れて、時間のある所から見れば利用できる時間が無限に存在する様にしか見えない、そこに。
そんな呆れるくらいの無限の中で、誰かがそれを望んだとしても不思議ではないからだ。
だから喫茶店と言わず、万魔殿には無限の暇に発生するありとあらゆる希望する物が存在する筈なのである。
ある筈、と言うのは、もはや確認不能な混沌だと言う事なのだ。
だからなのか、様々な外部からの流入にも、万魔殿は結果として寛容であった。
時間が流れない、止まっている、というか無視している、見なかった事にしている……。
どういう表現にせよ、どの時間でもないと言う事は、どの時間にもなれて、どの時間とも繋がれるという事でもあった。相反する、あるいは異なると比較判定する基準が無いからだ、忘れているからだ、無かった事にしているからだ、区別しようがないからだ。
そしてそれは即ち、様々なそれぞれの時間を持った同じだけの世界と、繋がれるという事も意味していた。
異世界転生あるいは異世界召喚、転移、それらの異邦人、世界を渡り歩く何者かにとってここは、混沌に紛れたその中の、とあるこの一隅は、世界間に点在する都合の良いトランジットの一つとして機能していた。
ここは彼らの道程半ばにあって、休息や、乗り継ぎの待ち合い場所として、そこに喫茶店があると言うのであればそれはよく機能していた。
そこは、そんなよく機能している喫茶店の一つだった。
その店の壁には無数の時計で埋め尽くして掲げられていた。
無数の異なるリズムで異なる時間を刻む時計がささやかな大合唱をしている。
もしかしたらその中のどれかが、忘れた事にされたここの時間を刻んでいるのかもしれないが、例えそうであったのだとしても、まぁ意味は無いのだろう。どれがどれだか判らないのだから。
こうしてここの連中は時間と言う物を忘れているのかもしれない。
出身世界あるいは時間によってはその光景を、そのままという訳ではないが国際空港とでもという言葉で言い表すかもしれない。
自分で言うのもなんだが、とある世界を救った異世界の勇者がその店の扉を潜った。
自分視点で、前にここを訪れた時は、そのとある世界を救いに行く勇者候補であったが、その前も実は来店しており、その時はそことは別の世界を救った勇者であったし、更にその前はその別の世界を救う勇者候補であった。
そんな歴戦の勇者という名誉称号で誤摩化されながら、世界から扱き使われ続けて、終われば次と世界をタライ回しにされ、結果としてすっかりこの喫茶店でも常連客と成り果てていた。
いい加減帰りたい気持ちで一杯だ。
最新鋭でスマートな宇宙船の船外活動服だったものがそろそろビンテージと呼ばれそうな、そんないつもの恰好で私はいつもの席についた。
「おっと、失礼」
座ろうとしたいつもの席の、小さなテーブルを挟んで向かいに、先客が居た。
古風な革張りの旅行鞄を席の傍らに置いた女性であった。
いつまでも湯気を立て続けるカフェラテをテーブルに置いて、時間調整の為だろうか読書を嗜んでいる。彼女はその手を止めて、別の席に移動しようとする私を引き止めた。
「私は構いませんので、どうぞ」
「すみません、いつも癖のようにこの席に座っているもので」
言葉に甘えて相席とさせてもらう。
時間だか世界だかが交差すれば、相席も生じる。
他の席が空いていたのだとしてもそういう巡り合わせなのだろう。
不快に思われる事は無かった。
もしかしたら今までは、相席となっている事に気付きもしないのかもしれない。
ただその日は、気付かれてしまったし、相席が居る事に気付いてしまった。
彼女は、ダークプリーストだった。
それは異邦人ではなく万魔殿の主、堕落神を信仰する万魔殿の本来からの住人だ。
ただ、彼女は元からそうでは無かったのだろう。
専ら堕落神への信仰からなるものなので、人からの転向組も多い。彼女も、万魔殿が存在する、この世界のどこかの出身の人間であったのであろう。
彼女の修道服には、所々にどこか見覚えのあるような意匠があった。転向する前、人であった時の世界が近かったのかもしれない。
あるいは、数センチ程度も離れていなかったのかもしれない。
「どこか、旅行へ行かれるのですか?」
私は彼女の旅行鞄から興味本位でそう尋ねてしまっていた。
しかしそれが少し不用意な質問だとすぐに気が付いた。
「いえ、私も旅の身ですから。宜しければ」
「そうですね」
彼女のそんな反応から、旅ではなかったらしい、と私は思わなくも無かった。
だが私にはどうしても彼女が、その旅行鞄からではなく、なんとなくだが、どうしてもとても長い旅をして来たようにしか見えなかったのだ。
「旅をしていると言うのであれば、私は今も旅をしているのですよ。ずっと、ここで」
「ここで」
「外の時間は流れ続けていますから。そうなると時間の流れない万魔殿は、客船か寝台列車のようなものです。もし窓があって外の時間の流れている世界を眺めれば、まるで船か列車からの旅の窓のように、それは後ろへと流れて行ってしまうでしょう」
「時間を旅されておられるのですか」
「外から観測すれば、そう、いう事になるのでしょうね」
「正確に言うと、待っているのです。ずっとこの喫茶店で。でもそれは、旅のようなものでした。友人と会えるその日に向かって旅をしているのです」
「長い時間を、旅されていたのですね」
旅と思える程長い時間を、彼女は待っていたのだ。
いや、彼女は確かに旅をしているのだ。
「貴男はどのような旅を」
今度は自分の番になって、彼女から尋ねられて私は答える。
「勇者のような真似事をしながらあちこちの世界に」
勇者等と、どうにも様にならないので、少し言葉が濁った。
「要は色々な世界に扱き使われているのですよ。
その為に色々な世界、色々な時間へと旅をしているのです」
そして私は思い出したのだ。
「ただ、実はその前からも、私は旅をしていました。
その旅に戻りたくて、今はそれとは別の旅をしているのです」
そしてこう言った。
「私にも友人がいます。もう、生きていないとは、思いますが」
「すみません、そのような事をお聞きしてしまって」
「いいえ、貴女が謝る事ではないのです。
私は、友人を待っているという貴女に聞いて欲しくて、少し口を滑らせてしまったのですよ。
しかし、ここがそうであるように、私が友人とは異なる時間が流れる場所に行ってしまったからです。私と違って友人がいる場所は、あまりにも時間が早く流れていってしまう」
すると彼女は言った。
「私の友人も、貴男の友人のような遠い場所に行ってしまいました」
「そうなのですか」
「私の友人は恒星間探査船の乗組員です。多分、貴男もそうなのではないのですか」
「ええ、そうです。私も宇宙船乗りです。ああ、今は、でした、というベきでしょうか」
「その友人の旅は、五万年ばかりの旅です。
そして、私と、その私の友人が所属する文明は、しかし旅立った友人を待つ事はできなかったのです。
私たちが何十世代も重ねて、より高速の、光の速度を超える、あるいは空間さえ飛び越えてしまう宇宙船と未来人になって、途中で自分たちに追いつかれてしまうだろうとは、笑って彼はこの大地を飛び立って行きましたが、何十世代どころか数世代も作れずに、私たちの世代で自ら滅んでしまったのです。
私は何らかの偶然でここに引っかかりましたから、時間の流れないとされるここで、こうして友人が帰って来るのを、待っているのです」
だけど彼女は、自分の言葉を信じていないようだった。
信じれる言葉を探しているようだった。
「あるいは、友人は帰ってこないのかもしれません」
「なぜ?」
「当然でしょう。彼らに帰る故郷はもう無いのですよ。私たちが壊してしまった。生き残っている人間も、その子供たちも、更にその子供たちも、いない。追いついて来る筈の未来人はいつまで経っても訪れない。未来に進発したより高速で新しい探査船は、いつまで経っても追いついて来てくれない。
そして振り返って、自分たちが飛び立った場所が火の玉になっているのを観測して、まるで塩の柱になってしまったそれを見て、彼らの望郷への想いはその対象と同じように、壊れてしまっているのかもしれない。
彼は帰ってこないのかもしれない……」
「友人、ではなかったのですね。貴女にとって彼は」
「友人……そう友人でした。
そうで無いと気付いたのは、彼が旅立ってからでした。私の時間と、光の速度近くまで加速したその中での彼の時間とが、もはや修正不可能なくらいに違ってしまってからでした」
「しかし、貴女は会えると信じていらっしゃるのですね」
「ええ、会えると思っています」
彼女は、私をじっと見ながら言った。
「この世界は偶然と必然で……、
世界がこのような姿なら、それは偶然の結果であれ、必然として確かな方向性を持っている。ならば私がこの万魔殿に辿り着いて彼を待っているのであれば……。
文明が滅びなければ、私自身は友人の帰還を迎える事無く、五万年どころか運が良くとも百年も経たず早々に人間としての天寿を全うしていたのでしょう。誰か別の伴侶を持ち、繋いだ子孫が友人を迎える筈でした。それがこうして、私自身が友人を待てている。
偶然の結果であれ、この世界が必然であるとしたら、私が万魔殿で彼を待つのであれば、私はきっと、彼にまた会えるのでしょう」
彼女は、まるで自分の前にその友人が座っているかの様に、私の目をじっと見詰めて言葉を紡いで行った。
「長い旅をして来ました。
私はただここで待っていただけで、ここは時間が流れないのですからそれが長いとはおかしな話ですが。
それでも、やっぱり、長い旅をして来た気がします」
私は、そんな彼女に意地の悪い事を訊いてしまった。
自分の言葉も信じきれずにそれでもずっと待っている彼女が、居た堪れなかったからだ。
いや、違う。私は、私自身が居た堪れなくなって、こう言うのだ。何で迎えに行かなかったのかと。
「ここなら、貴女の旅の行き先に直接行けたでしょうに。待たずとも、良かったのではないのですか」
すると彼女は、それを肯定した。
「理想的な未来と接続できるでしょう。彼が帰ってくる未来です。あるいは彼と旅を共にする事もできた。ですがそれは、私の友人の未来ではないのかもしれない、よく似た、私に都合の良い未来かもしれない。
ここは、万魔殿は、余りにも多くの世界と、未来を含めた時間とに繋がり過ぎる。
だから私は、どこの世界のどの時間とも理論上は繋がれるここにいながら、この世界のどこかには違いない、そしてその中で時間を忘れていられるこの万魔殿で、私たちの世界の五万年後の未来が訪れるのを待っているのです。例え、彼が帰ってこないのだとしても」
そうだ、その通りなのだ。
だから私も、彼女に会いに帰らなくてはならないんだ。
例え、徒労であったのだとしても。
私は言った。
「貴女がここに居るのであれば、それは必然なのでしょう。
それでも敢えて私は願います。
良い再会を」
「ありがとう。貴男に言ってもらえると、なんだか、心強い」
それは旅立つのか、それとも旅を終えるのか。
そう言って彼女はティーカップを置いて、その手が、懐から懐中時計を取り出した。
精巧な機械式時計はおそろしい数のカレンダーを魔法としてその周りに展開して彼女に示した。
彼女は自分の居る世界の時間を観測する。そうして本来の自分の世界を自分の中に宿してその時間の中に戻るのだ。彼女の友人が帰ってくる時間となったそこに。
彼女は最後に、私にこう言ってくれた。
「あなたも良い旅を……そして、願わくば、貴男もご友人との再会を。多分、待っていると、思います。待って、います……」
「あ」
私は一人になったそのいつもの席で、まだ暫く座ったままで居た。
良い旅を。
その言葉を、私は彼女の口から、彼女の言う五万年前にも聞いたのだ。
もしかしたら彼女は、待っている筈の居ない彼女が待っていると言う、そんな偶然を、その時間を、万魔殿という時間を忘れる事で様々な可能性と繋がっている場所で、引き当てられた結果だったのかもしれない。
待っているはずは無いのだ。彼女のような偶然でもない限り、五万年も生きる人間はいない。
五万年の年月以前に、あの絶滅戦争の炎の中で、その瞬間に遺伝子すらもバラバラになっている。
あのダークプリーストとの相席は、彼女の言う、選択できる自分にとっての理想的な未来であったのかもしれない。
だから、あるいは、私は提示される運命のままに彼女を引き止めるべきだったのかもしれない。
だがそれは、ようやく辿り着こうとしている彼女の、旅を台無しにしてしまう事でもあった。
私は、彼女にとっての彼ではないのかもしれないのだから。
だから私は、彼女ではなく私の旅を、彼女に会いに帰らなくてはならないのだ。私の生きた世界と時間に居る筈の彼女に。例え彼女が私の友人であったのだとしても、ならば私は帰って、その時をここで待っていた彼女に、会わなくてはならないのだ。
「副長……副長!」
勇者以外の、それは懐かしく感じる肩書きで呼ぶ声だっだ。
私は微かに呻き声を上げた。
「ああ、目覚められましたか」
「ああ……色々と聞きたい事がある」
「副長は飛来した極小天体との衝突で、偶然にも船外活動中の副長は1トラック(単位)の物理エネルギーを受けて、おそらく一時的な異世界転生を……」
偶然にも私に、それが起こる運動エネルギーが作用して、その結果のその中で、私は彼女と会った。
偶然か、それはどの必然と繋がっているのだろうか。
「それは分かってる。四、五十冊は冒険譚が書けるくらいにな」
あれから、何度世界を渡ったのだろうか。
そして、1トラックの運動エネルギーを受けた直後のこの世界に帰って来たのだ。
仕事を満了したのだから、ちゃんと元の世界に返してくれたと信じたい。
私は、私を扱き使った世界の神々が善良であると祈った。
「船の方は、今どうなっている」
「スケジュールに遅れはありません。現状、母星への帰還準備中です。観測データも充分です。しかし……もう……」
「私たちは故郷を失ったのだった、な」
余りにも私はこの旅に戻ってくるまでに旅をし続けて、それを忘れようとしていたのだ。
それを思い出した。
「副長が意識を失っておられる間に、今後の私たちの方針が話し合われました。申し訳ありません。何分……」
「いや、それでいい。もうだいたい決まっていた事だ。それで」
「予定通りの母星への帰還が、決定されています」
結局、他の選択肢は私たちには残されてはいないのだ。
例えそこに、何も残っていないのだとしても。
それは判っていた事だ。
「そう、か……」
それは、安堵なのか。
副長の私的恒星間日誌より。
我々が母星への帰還を開始して船内時間で2ヶ月が経過した。
時間の遅くなっている船内から、自分たちの向かって行く真っ直ぐ先のその光の発生源に向かって観測を続けている。
早回しで歴史を眺めているようだった。
新しい文明の発生を確認した。
彼らが滅ばずに済めば、1万年後くらいには、身に覚えの無い我々を出迎える事になる。
色々と神様に祈るとしよう。
我々を証明する我々の文明の遺物は、かつての母星にはどれくらい残っているのだろうか。
母星への帰還は決まったが、それに対して乗組員のそれぞれの思いがあった。
色々な意見がある。
絶望し切る為に帰ると言う者も居た。
適当な惑星に降りて文明の再建を図ろうと言う意見も無かった訳でもない。
今でもある。
だけど私たちは結局、普段通りにするしかできなかったのだ。
新しく決める事等、できなかったのだ。新しく何かを決められる何物も無かったのだ。だから決められたスケジュールに沿って、母星に帰還して、この仕事を終える事にしたのだ。それしかできなかった。
私たちは女王を巣ごと失った蟻であった。
「良い再会を、か」
日誌を書く手を止めて、彼女へ最後に向けた言葉を反芻する。
私は、彼女が五万年の待ち人を、かつての友人だった彼と再会できる事を心の底から願った。
それは私たちの理想的な未来でもあった。
有り得ない未来であったが、あって欲しい未来であった。
盲目の希望である事は理解している。
偶然の結果であれ、この世界が必然であるとしたら……。
それはあの喫茶店で相席したダークプリーストが、万魔殿で友人を待った理由であったか。
もし私の友人が、彼女が、偶然にも今も五万年の時を万魔殿で待っていてくれているのであれば、必然として私は、彼女とまた会う為に、その旅の為の旅を終えてこの世界に戻って来たのだ。来ているのだ。
だから、帰ろう。
例えそれが有り得ない希望であろうと。
万が一、誰かとの約束を違えてしまわない為にも、私は帰りたかったのだ。
頓着しないが故にうっかり刈り穫り忘れたかのような、そんな万魔殿の奇跡を信じて。
月の空は、母星とを行き交う宇宙船の瞬きだけで星空が描かれていると言われる程、それは無数に飛び交っていた。
おそらく宇宙のどの星の空よりも、月の星空はその往来する人工天体たちによって賑やかであったと私たちは思うほどであった。
宇宙開発の為の資材が、マスドライバーで次々に打ち上げられている。
文明の繁栄を象徴して月の空は、常に混雑していた。
そして、月面から特別な船が旅立とうとしていた。
「観光に行くのにとんだ予算食いだ」
「観光にしては往復5万年は長過ぎる」
それは、銀河中心への観測船だ。
結局、光の速度は越えられなかった。
「良い旅を」
「ああ」
これが友人とリアルタイムで会話できる最後だった。
光の速度を越えた通信手段を、自分たちがまだ持たないからだ。
この宇宙船はその光の速度にも達しない。
我々の文明は何にもかもがまだ未熟で、それでも背伸びして私たちは旅立つのだ。
大人の使う手摺に手を伸ばす初々しさも在った。
友人は、すぐにワープ航行可能な新型の観測船に私たちが追い抜かれるだろと言った。
彼女の代では無理だろうが、彼女の孫の代くらいには可能だろうか。
自分たちはウラシマ効果で、もしかしたらこちらの次の朝時間に目覚めたら、それに追いつかれていて、やってきた未来人と朝食を共にしているかもしれない。
そう言い合って、私たちは最後は笑って別れたのだ。
しかし、
自分たちの観測船を翌朝にでもポンコツにする最新鋭のワープ船は、遂に追いついてくる事は無かった。
亜光速で進む船を少しずつ真後ろからゆっくりと追い越して行く、自分たちと同じ星を旅立った光が、自分たちの所属する文明が滅んだ事を、もう随分と先で教えてくれた。
母星を真っ赤に灼いた絶滅戦争の結果だと、推定された。
それが、今の変わり者のサキュバスが魔王に即位した頃から、五万年前の話である。
一万年先の待ち合わせでも、喫茶店でワンコインのコーヒーで済ます事もできる。
これは時間を忘れる堕落神の宮殿、万魔殿を評する一つの言い方であった。
万魔殿に喫茶店があるのかと訊かれれば、無い訳が無いというのが答えになる。
そもそも時間と言う概念がすっぽ抜けて、それが抜けている事も念入りにすっぽ忘れて、時間のある所から見れば利用できる時間が無限に存在する様にしか見えない、そこに。
そんな呆れるくらいの無限の中で、誰かがそれを望んだとしても不思議ではないからだ。
だから喫茶店と言わず、万魔殿には無限の暇に発生するありとあらゆる希望する物が存在する筈なのである。
ある筈、と言うのは、もはや確認不能な混沌だと言う事なのだ。
だからなのか、様々な外部からの流入にも、万魔殿は結果として寛容であった。
時間が流れない、止まっている、というか無視している、見なかった事にしている……。
どういう表現にせよ、どの時間でもないと言う事は、どの時間にもなれて、どの時間とも繋がれるという事でもあった。相反する、あるいは異なると比較判定する基準が無いからだ、忘れているからだ、無かった事にしているからだ、区別しようがないからだ。
そしてそれは即ち、様々なそれぞれの時間を持った同じだけの世界と、繋がれるという事も意味していた。
異世界転生あるいは異世界召喚、転移、それらの異邦人、世界を渡り歩く何者かにとってここは、混沌に紛れたその中の、とあるこの一隅は、世界間に点在する都合の良いトランジットの一つとして機能していた。
ここは彼らの道程半ばにあって、休息や、乗り継ぎの待ち合い場所として、そこに喫茶店があると言うのであればそれはよく機能していた。
そこは、そんなよく機能している喫茶店の一つだった。
その店の壁には無数の時計で埋め尽くして掲げられていた。
無数の異なるリズムで異なる時間を刻む時計がささやかな大合唱をしている。
もしかしたらその中のどれかが、忘れた事にされたここの時間を刻んでいるのかもしれないが、例えそうであったのだとしても、まぁ意味は無いのだろう。どれがどれだか判らないのだから。
こうしてここの連中は時間と言う物を忘れているのかもしれない。
出身世界あるいは時間によってはその光景を、そのままという訳ではないが国際空港とでもという言葉で言い表すかもしれない。
自分で言うのもなんだが、とある世界を救った異世界の勇者がその店の扉を潜った。
自分視点で、前にここを訪れた時は、そのとある世界を救いに行く勇者候補であったが、その前も実は来店しており、その時はそことは別の世界を救った勇者であったし、更にその前はその別の世界を救う勇者候補であった。
そんな歴戦の勇者という名誉称号で誤摩化されながら、世界から扱き使われ続けて、終われば次と世界をタライ回しにされ、結果としてすっかりこの喫茶店でも常連客と成り果てていた。
いい加減帰りたい気持ちで一杯だ。
最新鋭でスマートな宇宙船の船外活動服だったものがそろそろビンテージと呼ばれそうな、そんないつもの恰好で私はいつもの席についた。
「おっと、失礼」
座ろうとしたいつもの席の、小さなテーブルを挟んで向かいに、先客が居た。
古風な革張りの旅行鞄を席の傍らに置いた女性であった。
いつまでも湯気を立て続けるカフェラテをテーブルに置いて、時間調整の為だろうか読書を嗜んでいる。彼女はその手を止めて、別の席に移動しようとする私を引き止めた。
「私は構いませんので、どうぞ」
「すみません、いつも癖のようにこの席に座っているもので」
言葉に甘えて相席とさせてもらう。
時間だか世界だかが交差すれば、相席も生じる。
他の席が空いていたのだとしてもそういう巡り合わせなのだろう。
不快に思われる事は無かった。
もしかしたら今までは、相席となっている事に気付きもしないのかもしれない。
ただその日は、気付かれてしまったし、相席が居る事に気付いてしまった。
彼女は、ダークプリーストだった。
それは異邦人ではなく万魔殿の主、堕落神を信仰する万魔殿の本来からの住人だ。
ただ、彼女は元からそうでは無かったのだろう。
専ら堕落神への信仰からなるものなので、人からの転向組も多い。彼女も、万魔殿が存在する、この世界のどこかの出身の人間であったのであろう。
彼女の修道服には、所々にどこか見覚えのあるような意匠があった。転向する前、人であった時の世界が近かったのかもしれない。
あるいは、数センチ程度も離れていなかったのかもしれない。
「どこか、旅行へ行かれるのですか?」
私は彼女の旅行鞄から興味本位でそう尋ねてしまっていた。
しかしそれが少し不用意な質問だとすぐに気が付いた。
「いえ、私も旅の身ですから。宜しければ」
「そうですね」
彼女のそんな反応から、旅ではなかったらしい、と私は思わなくも無かった。
だが私にはどうしても彼女が、その旅行鞄からではなく、なんとなくだが、どうしてもとても長い旅をして来たようにしか見えなかったのだ。
「旅をしていると言うのであれば、私は今も旅をしているのですよ。ずっと、ここで」
「ここで」
「外の時間は流れ続けていますから。そうなると時間の流れない万魔殿は、客船か寝台列車のようなものです。もし窓があって外の時間の流れている世界を眺めれば、まるで船か列車からの旅の窓のように、それは後ろへと流れて行ってしまうでしょう」
「時間を旅されておられるのですか」
「外から観測すれば、そう、いう事になるのでしょうね」
「正確に言うと、待っているのです。ずっとこの喫茶店で。でもそれは、旅のようなものでした。友人と会えるその日に向かって旅をしているのです」
「長い時間を、旅されていたのですね」
旅と思える程長い時間を、彼女は待っていたのだ。
いや、彼女は確かに旅をしているのだ。
「貴男はどのような旅を」
今度は自分の番になって、彼女から尋ねられて私は答える。
「勇者のような真似事をしながらあちこちの世界に」
勇者等と、どうにも様にならないので、少し言葉が濁った。
「要は色々な世界に扱き使われているのですよ。
その為に色々な世界、色々な時間へと旅をしているのです」
そして私は思い出したのだ。
「ただ、実はその前からも、私は旅をしていました。
その旅に戻りたくて、今はそれとは別の旅をしているのです」
そしてこう言った。
「私にも友人がいます。もう、生きていないとは、思いますが」
「すみません、そのような事をお聞きしてしまって」
「いいえ、貴女が謝る事ではないのです。
私は、友人を待っているという貴女に聞いて欲しくて、少し口を滑らせてしまったのですよ。
しかし、ここがそうであるように、私が友人とは異なる時間が流れる場所に行ってしまったからです。私と違って友人がいる場所は、あまりにも時間が早く流れていってしまう」
すると彼女は言った。
「私の友人も、貴男の友人のような遠い場所に行ってしまいました」
「そうなのですか」
「私の友人は恒星間探査船の乗組員です。多分、貴男もそうなのではないのですか」
「ええ、そうです。私も宇宙船乗りです。ああ、今は、でした、というベきでしょうか」
「その友人の旅は、五万年ばかりの旅です。
そして、私と、その私の友人が所属する文明は、しかし旅立った友人を待つ事はできなかったのです。
私たちが何十世代も重ねて、より高速の、光の速度を超える、あるいは空間さえ飛び越えてしまう宇宙船と未来人になって、途中で自分たちに追いつかれてしまうだろうとは、笑って彼はこの大地を飛び立って行きましたが、何十世代どころか数世代も作れずに、私たちの世代で自ら滅んでしまったのです。
私は何らかの偶然でここに引っかかりましたから、時間の流れないとされるここで、こうして友人が帰って来るのを、待っているのです」
だけど彼女は、自分の言葉を信じていないようだった。
信じれる言葉を探しているようだった。
「あるいは、友人は帰ってこないのかもしれません」
「なぜ?」
「当然でしょう。彼らに帰る故郷はもう無いのですよ。私たちが壊してしまった。生き残っている人間も、その子供たちも、更にその子供たちも、いない。追いついて来る筈の未来人はいつまで経っても訪れない。未来に進発したより高速で新しい探査船は、いつまで経っても追いついて来てくれない。
そして振り返って、自分たちが飛び立った場所が火の玉になっているのを観測して、まるで塩の柱になってしまったそれを見て、彼らの望郷への想いはその対象と同じように、壊れてしまっているのかもしれない。
彼は帰ってこないのかもしれない……」
「友人、ではなかったのですね。貴女にとって彼は」
「友人……そう友人でした。
そうで無いと気付いたのは、彼が旅立ってからでした。私の時間と、光の速度近くまで加速したその中での彼の時間とが、もはや修正不可能なくらいに違ってしまってからでした」
「しかし、貴女は会えると信じていらっしゃるのですね」
「ええ、会えると思っています」
彼女は、私をじっと見ながら言った。
「この世界は偶然と必然で……、
世界がこのような姿なら、それは偶然の結果であれ、必然として確かな方向性を持っている。ならば私がこの万魔殿に辿り着いて彼を待っているのであれば……。
文明が滅びなければ、私自身は友人の帰還を迎える事無く、五万年どころか運が良くとも百年も経たず早々に人間としての天寿を全うしていたのでしょう。誰か別の伴侶を持ち、繋いだ子孫が友人を迎える筈でした。それがこうして、私自身が友人を待てている。
偶然の結果であれ、この世界が必然であるとしたら、私が万魔殿で彼を待つのであれば、私はきっと、彼にまた会えるのでしょう」
彼女は、まるで自分の前にその友人が座っているかの様に、私の目をじっと見詰めて言葉を紡いで行った。
「長い旅をして来ました。
私はただここで待っていただけで、ここは時間が流れないのですからそれが長いとはおかしな話ですが。
それでも、やっぱり、長い旅をして来た気がします」
私は、そんな彼女に意地の悪い事を訊いてしまった。
自分の言葉も信じきれずにそれでもずっと待っている彼女が、居た堪れなかったからだ。
いや、違う。私は、私自身が居た堪れなくなって、こう言うのだ。何で迎えに行かなかったのかと。
「ここなら、貴女の旅の行き先に直接行けたでしょうに。待たずとも、良かったのではないのですか」
すると彼女は、それを肯定した。
「理想的な未来と接続できるでしょう。彼が帰ってくる未来です。あるいは彼と旅を共にする事もできた。ですがそれは、私の友人の未来ではないのかもしれない、よく似た、私に都合の良い未来かもしれない。
ここは、万魔殿は、余りにも多くの世界と、未来を含めた時間とに繋がり過ぎる。
だから私は、どこの世界のどの時間とも理論上は繋がれるここにいながら、この世界のどこかには違いない、そしてその中で時間を忘れていられるこの万魔殿で、私たちの世界の五万年後の未来が訪れるのを待っているのです。例え、彼が帰ってこないのだとしても」
そうだ、その通りなのだ。
だから私も、彼女に会いに帰らなくてはならないんだ。
例え、徒労であったのだとしても。
私は言った。
「貴女がここに居るのであれば、それは必然なのでしょう。
それでも敢えて私は願います。
良い再会を」
「ありがとう。貴男に言ってもらえると、なんだか、心強い」
それは旅立つのか、それとも旅を終えるのか。
そう言って彼女はティーカップを置いて、その手が、懐から懐中時計を取り出した。
精巧な機械式時計はおそろしい数のカレンダーを魔法としてその周りに展開して彼女に示した。
彼女は自分の居る世界の時間を観測する。そうして本来の自分の世界を自分の中に宿してその時間の中に戻るのだ。彼女の友人が帰ってくる時間となったそこに。
彼女は最後に、私にこう言ってくれた。
「あなたも良い旅を……そして、願わくば、貴男もご友人との再会を。多分、待っていると、思います。待って、います……」
「あ」
私は一人になったそのいつもの席で、まだ暫く座ったままで居た。
良い旅を。
その言葉を、私は彼女の口から、彼女の言う五万年前にも聞いたのだ。
もしかしたら彼女は、待っている筈の居ない彼女が待っていると言う、そんな偶然を、その時間を、万魔殿という時間を忘れる事で様々な可能性と繋がっている場所で、引き当てられた結果だったのかもしれない。
待っているはずは無いのだ。彼女のような偶然でもない限り、五万年も生きる人間はいない。
五万年の年月以前に、あの絶滅戦争の炎の中で、その瞬間に遺伝子すらもバラバラになっている。
あのダークプリーストとの相席は、彼女の言う、選択できる自分にとっての理想的な未来であったのかもしれない。
だから、あるいは、私は提示される運命のままに彼女を引き止めるべきだったのかもしれない。
だがそれは、ようやく辿り着こうとしている彼女の、旅を台無しにしてしまう事でもあった。
私は、彼女にとっての彼ではないのかもしれないのだから。
だから私は、彼女ではなく私の旅を、彼女に会いに帰らなくてはならないのだ。私の生きた世界と時間に居る筈の彼女に。例え彼女が私の友人であったのだとしても、ならば私は帰って、その時をここで待っていた彼女に、会わなくてはならないのだ。
「副長……副長!」
勇者以外の、それは懐かしく感じる肩書きで呼ぶ声だっだ。
私は微かに呻き声を上げた。
「ああ、目覚められましたか」
「ああ……色々と聞きたい事がある」
「副長は飛来した極小天体との衝突で、偶然にも船外活動中の副長は1トラック(単位)の物理エネルギーを受けて、おそらく一時的な異世界転生を……」
偶然にも私に、それが起こる運動エネルギーが作用して、その結果のその中で、私は彼女と会った。
偶然か、それはどの必然と繋がっているのだろうか。
「それは分かってる。四、五十冊は冒険譚が書けるくらいにな」
あれから、何度世界を渡ったのだろうか。
そして、1トラックの運動エネルギーを受けた直後のこの世界に帰って来たのだ。
仕事を満了したのだから、ちゃんと元の世界に返してくれたと信じたい。
私は、私を扱き使った世界の神々が善良であると祈った。
「船の方は、今どうなっている」
「スケジュールに遅れはありません。現状、母星への帰還準備中です。観測データも充分です。しかし……もう……」
「私たちは故郷を失ったのだった、な」
余りにも私はこの旅に戻ってくるまでに旅をし続けて、それを忘れようとしていたのだ。
それを思い出した。
「副長が意識を失っておられる間に、今後の私たちの方針が話し合われました。申し訳ありません。何分……」
「いや、それでいい。もうだいたい決まっていた事だ。それで」
「予定通りの母星への帰還が、決定されています」
結局、他の選択肢は私たちには残されてはいないのだ。
例えそこに、何も残っていないのだとしても。
それは判っていた事だ。
「そう、か……」
それは、安堵なのか。
副長の私的恒星間日誌より。
我々が母星への帰還を開始して船内時間で2ヶ月が経過した。
時間の遅くなっている船内から、自分たちの向かって行く真っ直ぐ先のその光の発生源に向かって観測を続けている。
早回しで歴史を眺めているようだった。
新しい文明の発生を確認した。
彼らが滅ばずに済めば、1万年後くらいには、身に覚えの無い我々を出迎える事になる。
色々と神様に祈るとしよう。
我々を証明する我々の文明の遺物は、かつての母星にはどれくらい残っているのだろうか。
母星への帰還は決まったが、それに対して乗組員のそれぞれの思いがあった。
色々な意見がある。
絶望し切る為に帰ると言う者も居た。
適当な惑星に降りて文明の再建を図ろうと言う意見も無かった訳でもない。
今でもある。
だけど私たちは結局、普段通りにするしかできなかったのだ。
新しく決める事等、できなかったのだ。新しく何かを決められる何物も無かったのだ。だから決められたスケジュールに沿って、母星に帰還して、この仕事を終える事にしたのだ。それしかできなかった。
私たちは女王を巣ごと失った蟻であった。
「良い再会を、か」
日誌を書く手を止めて、彼女へ最後に向けた言葉を反芻する。
私は、彼女が五万年の待ち人を、かつての友人だった彼と再会できる事を心の底から願った。
それは私たちの理想的な未来でもあった。
有り得ない未来であったが、あって欲しい未来であった。
盲目の希望である事は理解している。
偶然の結果であれ、この世界が必然であるとしたら……。
それはあの喫茶店で相席したダークプリーストが、万魔殿で友人を待った理由であったか。
もし私の友人が、彼女が、偶然にも今も五万年の時を万魔殿で待っていてくれているのであれば、必然として私は、彼女とまた会う為に、その旅の為の旅を終えてこの世界に戻って来たのだ。来ているのだ。
だから、帰ろう。
例えそれが有り得ない希望であろうと。
万が一、誰かとの約束を違えてしまわない為にも、私は帰りたかったのだ。
頓着しないが故にうっかり刈り穫り忘れたかのような、そんな万魔殿の奇跡を信じて。
23/12/05 22:23更新 / 雑食ハイエナ