私メリーさん、あなたの1キロメートル後ろにいるの
「もしもし、私メリーさん。あなたの家の前に居るの」
それはあれだ、都市伝説でよく聞いたあのフレーズだった。
その電話の向こうにこう訊ねる。
「目玉焼きは半熟? 堅焼き?」
「半熟がいいの」
可愛らしい返事が来る。
あの都市伝説も、こんな声なのかね、と。
そんな事を考えながら、フライパンの上で熱せられて油が浮いたベーコンを見やり、そこへ小気味いい音を立てて殻を割った卵を落とした。
そして塩こしょう……、
「もしもし、私メリーさん」
受話器の向こうからまた声がした。
「そろそろ開けてほしいの」
コンロの火を止めてフライパンの中に目玉焼きを残して玄関に行く。
仰々しい鋳物の鍵を回し手応えの有る重いプレスドアを開けると、しっとりと重い風が流れ込んでくる。
「……あふっ」
欠伸が出た。
そして欠伸は伝染する。
その感染源たる彼女が再感染しているのだから、あれには免疫というものには無縁らしい。
「ふにぁ〜ぅ」
電話の向こうと同じ可愛らしい声を見やると、そこには眠そうな目をした羊娘の顔があった。
お察しの通り、これがうちのメリーさん。
羊がメリーさんだからだろうか。でもあのメリーさんは羊ではなく、羊の飼い主がメリーさんだ。
そしてあの都市伝説は人形のお話だけれども、うちの場合はリビングドールではなく、人形のようなゴーレムでもなく、あるいは人形に取り憑きそうなゴーストでもなくて、彼女はワーシープだった。
「……あふっ」
「ふにぁ〜ぅ」
顔を合わせるなり軽く手を上げてまた欠伸をする。それが二人の挨拶になっていた。
その扉の前で待っていた彼女をすり抜けた外から空気は、今は夏なのにまるで蜜を含んでいるようにふんわりとした春のように感じた。
眠気の元締めは、ぽてぽてと玄関を上がる。
そしてそのまま食堂の食卓の前まで行って、ちょこんと、いつもの椅子に座った。
台所から見ると、眠そうな眼はしかし強い意志で彼女は訴えかける。
「はいはい」
自分の朝食と、そして彼女の前にも自分と同じ朝食を並べる。
彼女はそれを、まさに朝食らしく起き抜けて来たばかりのような眠そうな顔で、はむ、と頬張る。
はむはむ、と確かめる。
「私メリーさん、私の目玉焼き堅焼き気味なの……」
「火加減が大事な時に急かすからだ」
火を止めても熱いフライパンの上に置かれたままの目玉焼きは、すっかり固く焼き締まってしまっていた。
微睡みの続きのような、とろりと溢れて舌に絡む黄身を期待していたのに。
口の中の水分を吸われてもそもそとする彼女が、こちらの皿の方の目玉焼きを見ていた。
そして気が付くと彼女が見ていたこちらの目玉焼きは、何故か彼女の前にあった。
代わりに、羊の噛み跡で黄身が半分になった目玉焼きが自分の目の前に。
なかなかの早業、否、一瞬転寝してしまったように思える。
隣の牧草は青かったらしい。
でも、同じフライパンでまとめて作ったそれは多少の斑はあっても、だいたい同じ。
結局、口の中をぼそぼそとする事になって、少し涙目な彼女のコップにミルクを注いだ。
彼女はそれを口に付けて、口の周りにコップの輪郭で天使の輪っかを作っているのを傍目に、トースターから飛び出したパンにマーマレードを塗って皿の上に、そしてテーブルに並べる。
タンポポ色が混じったミルク色の彼女は、マーマレードの鮮やかなオレンジが良く映えた。
ほっぺに、マリーゴールドの花が咲いている。
それを手で摘もうとすると、ひょいと避けられる。
そして手を引っ込めると、それに引っ張られたように頬を寄せて来る。
仕方なくこちらも顔を寄せた。
「キスじゃない」
まず言い訳してから、唇の端に引っかかったそれを唇で摘んで食べた。
甘くしかし少し苦い、そんなマーマレードの味。そして粉砂糖のようなざらりとした感触が、舌先を少しだけ乾かして、そして溶けて消えた。目を瞑った彼女の肌はまるで砂糖菓子みたいだった。
こなっぽい肌を湿らす羊毛の薄く丹念に塗った油っぽい匂いが、鼻腔に絡んだ。香油のように溶かし込んだ空気が、鼻の粘膜からゆっくりと全身に広がって行くのを感じる。
また欠伸が出た。大きく吸い込んだ
額をぶつける音は、まるで自分の意識のスイッチのようだ。
なにせテーブルで頭を撃てば痛い筈なだから。
瞼が重くなって、自分の寝息を聞きながら意識が砂糖のように溶けていった。
彼女の謝る声が聞こえた。
「私メリーさん、ごめんなさい、ワーシープなの」
彼女が覆い被さってくる影のように、意識が暗転した。
彼女と出会ったのは、一ヶ月くらい前の話だ。
ちなみにその時その場所では、爆睡したままチャリンコに乗る男を半泣き状態で追いかけるワーシープの図、というものが展開されていたらしい。
そんな面白い光景、不覚にも眠ってしまって見逃したのが悔しくてしょうがない。
まったく、それをやらかした本人である事が悔やまれる。
目が覚めたら壁にぶつかっていて、乗っていた自転車はへしゃげていた。
自分はと言うと、至る所の打ち身や擦り傷だらけで、しかしそこには羊柄の絆創膏で手当をされていた。
そして、ケータイのベルが鳴った。
「私メリーさん、あなたの後ろに居るの」
それが彼女からの初めての電話だった。
その声に振り向いた。
しかし誰もいない。
「ちなみに一キロメートル後ろ」
「すまない、俺そこまで目は良く無いんだ」
初顔合わせは少し後になる。
そしてメリーと言う名前とそして電話から、あの都市伝説を思い出した。
「電話の度に近づいて来る嗜好で?」
映画ジョーズのテーマ曲が聞こえた。
今一度振り向いて、辺りを伺う。
まだ見えなかった。
「近づくって、どれくらいずつ?」
「一センチずつ」
「それ、車に轢かれるんじゃあ……」
びくっ……。
身震いする気配と同時に、丁度向こうから聞こえていた歩行者信号のメロディが途切れた。
慌てた蹄の音が鳴り響き、タタンッと、そのステップを踏み切った途端、覆い被さるように凄い勢いで自動車の音が沸き起こる。
「えーっと」
どうやら彼女は、今さっき何センチ移動したのかを計り倦ねているようだった。
だから言った。
「とりあえず今はまだ俺は眠く無い……」はず。抓って確かめる。
すると、電波の向こうから安堵するような溜息が聞こえた。
やや大袈裟だけど、彼女が気にしているのはそういう事だった。
一キロ先から眠くなる強力な魔力なんて聞いた事が無いが、彼女は一キロ向こうからセンチ単位で手探りでにじり寄って来た、らしい。ただ、そのうちセンチと言う単位に我慢できなくなったり飽きたりすると、それ毎に単位をデノミしていった。近づくにつれ普通は単位は細かくしていくはずなのに、大雑把になっていった。
大雑把過ぎて、やっぱり、うちを一度通り越したっぽい。
「私メリーさん、もしかしてあなたの前にいるの?」
クエッションマークが付いた。
前方のまだ何十かあるいは何百メートルだろうかと考えた。どうやらキロ単位でオーバーランと気付いたのはそれから五回目くらいの彼女からの電話の時である。
それでもやっと日暮れまでに玄関の前に着いて、でもその頃にはすっかり二人して目的を忘れていた。
着いたは良いが、扉を開けた先でぽかんとする彼女に向かって、言葉に窮したのもこちらも同じだった。
二人して欠伸が出た。
それでどこかに残っていた記憶の残骸も、何もかも洗い流されてしまったようだった。
「とりあえず……夕食でも?」
つまり、察していた本来の目的を忘れてしまったからと言って、適当な理由をでっちあげてはいけないと言う事である。
後日、彼女は怪我をさせた事を謝りに来たのだと二人でやっと思い出したのだが、その頃には食卓で独身家主の向いの来客用の椅子は彼女の指定席になっていた。
それから、彼女をよく近所で見掛けるようになった。
団地の芝地なんかでよく、もこもことしながら眠そうにひなたぼっこをしている。
「おーい、昼寝するぞー」
どこか人を避けるように遠くに居るような彼女を誘うと、可愛くて小さな雲のように尻尾を揺らしていつも駆け寄って来る。
連れ立って、我が家の申し訳程度に設えられた狭い和室の畳の上で、扇風機を回して二人して雑魚寝する。
彼女はカールした羊毛に気持ち良さそうにその風を通していた。
だいたいそこから意識が無い。
そのまままるで柔道で一本決められたような、どこか小気味良い大きな音を立てて、畳の上に強かに額を打つ。その音、びくっ震える彼女の肩を感じて、眠りの闇に落ちる。
ゆっくり寝たいのに、全くもってゆっくりそっと寝たいのに、不意に催した眠気が肉体の統制を奪うか。
それで崩れる体が、傍らで微睡む良い気持ちが消し飛ぶ程、凄い音が立つ事はそれで知っているし、それで、例えば額をテーブルなんかにぶつけると本当に痛い事を、彼女は知っているのだろう。
また今日もそんなふうに寝こけてまた目を覚まして、半熟のなり損ない堅焼き目玉焼きを食べていた事を思い出す。
その時にはもう、やはり彼女は居なかった。
今週最後の平日である金曜日は十時間ちょっと前に終わっていて、今はとりあえず休日の土曜日のほとんど昼の遅めの朝だった。
彼女の微睡む残り香に身を委ねてしまい誘惑に駆られる。
最近は慣れていたつもりなのにな。
失敗に額に手を伸ばすと、指先が触れた所が熱を持って鈍く疼いた。
電話が鳴った。
「もしもし私メリーさん、あなたの後ろにいるの」
「どれくらい後ろに?」
「二キロメートル」
ああ、また遠いな。
そう思いながら冷蔵庫の方に手を伸ばして、欲しい音楽CDは無かったかと考えていた。
そして、着た本人の与り知らぬ所で半脱ぎになったズボンが脚が絡まってこけた。
外出先でケータイが鳴った。
「私メリーさん。あなたの十メートル後ろに居るの。五メートルまで近づいていい?」
場所は家の最寄り駅から普通電車で三駅行った少し大きな駅の前。だいたい家から二キロ。
電話の向こうの声が心無しか嬉しそう。
一つ増えた額の絆創膏を指でなぞりながら言ってやる。
「迎えに来た訳じゃない。俺に迎えにいく義理が何処にある」
と、ガッカリとさせてやる。
「今日は単に冷やし音楽CDが切れていたから、ここまで買いに来ただけだ」
自分で何を言っているのか解らない。多分冷やし中華の親戚だ。
がっかりさせるつもりが、嬉しそうな声が聞こえた。
「帰るぞ」
電話の向こうに努めてぶっきらぼうにそう言うと、駅の改札を潜った。
階段を上りながら、五メートル後ろをついてくる蹄の音を聞いていた。
ホームに上がると電車が入ってくる。
「私メリーさん、あなたの後ろ三メートルにいるの。近づかないと一緒に電車に乗れないの」
二メートルでも、一メートルでも、そう他愛無く笑い返すつもりで吐いた息が、欠伸になっていた。
不味い。
そう思って恐る恐る振り返ると、三メートル先に彼女がぴたりと歩みを止めていた。
彼女の方へと歩み寄った。
すると三メートル先の彼女は同じだけ後ずさった。
少しして、彼女がちょこちょこと、慎重深く歩み寄る。
また欠伸が出た。
すると彼女は一歩だけ後ずさった。
そんな様子に溜息をついて踵を返し、彼女を背に一歩踏み出した。
すると彼女は慌てて、二歩で追いかけた。
さっきのと合わせて差し引きがゼロ。
「三百センチ」
単位を言い換えて誤摩化す。
確かに数字を大きくすると離れた気になれる。
でも実数は変わらない。なのに、数字は大きくなる。そう言うのが少し気に入らない。
発車を待つ開いた電車の扉を潜り足早に電車に乗る。
ちょうど三メートル後ろを、蹄の音がついて来た。
置いて行かれないように慌てた音だった。
「三千ミリ」
電車の反対側の扉の所まで行って手摺につかまる。そして蹄の音が止まる。
「言い方変えても同じだぞー」
言った本人にもわかる気の抜けた声に言われて、電話の向こう側で大量のゼロを呑み込む音がした。
「三京ジンバブエドル」
「わけわからん」
確かにレートによっては天文学的な数字になる。
ただ実際はとても小さくて、近い。
巧い例えのつもりなんだろうか。
「なぁ」
近くに居るのにケータイを通して遠回しに彼女に呼びかける。
呼びかけて、その後どうしようかと悩んでいる自分に気付く。
それよりも早く、その呼びかけると遮るように、彼女の声が被っていた。
「あなたが、寝過ごすの」
「そんな事を気にしているのか」
「またおデコぶつけるの」
「あ、う、ん、……まぁ、な……」
「いつも、そうなの……」
そして彼女は言った。
「そしてそんなあなたの寝顔を見ていると、犯したくなっちゃうの」
「マテ」
彼女は待たなかった。
「だから、あなたが露出癖のあるマゾで、跨がられて責められている自分の姿を大勢の他人に見られても、むしろハァハァしちゃう変態野郎なら……」生唾を呑み込む音が聞こえた。「メリーさん躊躇わないのぉ……」
「躊躇わずにそれを期待するように言わないでくれるか……」
というか彼女が居なくなった後でズボンがずりお降ろされているのはそれか。
そんな三メートルの電話越しの会話に、周囲がぎょっとする気配が渦巻いていた。
黙らせよう ええ黙らせましょう、黙らせよう。
振り返ってあの羊娘へと手を伸ばそうとした。
「あ」
その手を、電車の扉が遮った。
ああ、そう言えば。
電車って車体幅三メートルも無いんだっけな。
いつもぎゅう詰めの痛勤電車、骨身に染みるその幅である。
そして彼女の泣き顔は、可愛らしいけれど骨身に染みる。
扉が閉まると電車は動くものだ。
「ふにゃあぁぁぁぁぁぁ〜〜っ」
窓の外の彼女。
案の定の泣き顔。
閉まった扉の向こう側で、涙目が電車の加速で後ろへと流れて行く。
三京ジンバブエドルほどの彼女との距離は、更にインフレーションしていった。
「きっとあなたの所に行くからぁぁぁ〜っ!」
もこもこ雲のような羊毛の雲を揺らして電車を追っかけて、そしてお約束にもホームの端でこけた。
今一度思おう。
可愛かった。
不謹慎だが可愛かった。
胸が締め付けられる思いがする。
だから、それからは一キロにも満たない次の駅につくまでが果てしなく遠く、折り返す電車が来るのがもどかしかった。折り返しにゃって来た電車の運転間隔と遅さが恨めしかった。
そうしてやっと戻って来たら向かい側のホームの電車の中に彼女を見つける。
ひゅぅぅぅぅ、たらりらりらりぃぃ〜
電車の起動音が奏でるドレミファ音階が加速する。
「あなたの方に行くっていったのにぃぃぃぃ」
電車の加速とともに波長が引き延ばされてドップラー効果で赤方偏移していく"電車に乗った"彼女の声が虚しく棚引いて行ってしまった。
どちらが悪かったのだろうか、と考えてしまった。
幾ら考えても、どちらも間が悪かったか間が抜けていた、としか言いようが無かった。
溜息が出た。
「私、メリーさん……」
次の電話は仕切り直すつもりで家に帰って少ししてからだった。
「迷子なのぉ」
「だろうな……」
と、しか言いようが無かった。
ビービーと泣かれた。
その頭を撫でようとしていた手が空振りして、手持ち無沙汰に自分の頭を掻いていた。
彼女が乗った電車は真っ赤な表示の特急だった。
そしてうち最寄り駅は普通電車しか止まらない駅だった。
そもそも家に帰る為に乗る路線には特急なんて走ってはいないのだ。あの駅で路線は本線と支線に分岐していて、本線の特急は支線の三つ先が最寄り駅である我が家とは全く違う方向に当分無停車で疾走するのである。
そしてなんとなし、彼女は停車駅を数えて降りる駅を決めている人だと思った。
普通の三駅と 特急の三駅は呆れるくらい違う。
特急と普通の停車駅数の差分だけ遠くに運ばれて、見知らぬ駅に降りて初めて気付いて、それで途方に暮れる姿が目に浮かぶ。
声の調子からして多分まだ涙目。
「私メリーさん、涙目なの」
「知ってる」
思わずそう言ってしまって、すると受話器を離して、自分を気付かない所から見ている意地悪を探すように、後ろを振り返る音がぶんぶんと、こちらまで聞こえる。
勿論そこに自分は居ない。
「私メリーさん、嘘つきは嫌いなのぉ!」
ぷつっ……。
つー、つー、つー…、
溜息一つ分だけの間を置いて、また電話のベルが鳴った。
「私メリーさん」
少し、しょんぼりした声がした。
「今ロシアのハバロフスクにいるの」
「おい」
「もこもこだから寒く無いの」
「冗談を言えるくらいは、元気はあるんだよな」
少し安心したような気がした。
大袈裟な事を言ってみたものの構ってもらえずに、もう一段しょんぼりする気配がスピーカー向こうから伝わって来た。
それと、何処に居るか本気でさっぱり見当がつかない事もわかった。
だから今さっき言ったように、冗談が言えるのならと少しだけ安心した。
こちらと来たら、彼女を宛てもなく追いかけて、彼女に追いつけなかったのかそれとも追い越してしまったのか、結局会えずに、冗談も気遣う余裕もなく、ただヘトヘトに疲れてしまっていたのだから。
自分の物ではないが、空元気というものはそれなりに効能があるらしい。
「今、何が見えている?」
彼女から電話がかかって来るまで待たせておいた地図を開ける。
ただ、その地図を見たからと言ってそこに彼女の居場所が書いてある訳じゃない。
彼女に訊いても、降りた駅名も解らない。
何処からか犬のおまわりさんと迷子の子猫の鳴き声が聞こえて来るようだった。
「お名前は?」
「メリーさん」
だよな……。
歌詞の続きを口ずさんでいた。
どうやら良く知った気のする三つ目の駅に降りて、良く知ったような気のする道を歩いて、良く知ったような曲がり角を多分こっちだろうと適当に曲がって、ついでに曲がる数も数え間違えたらしく、そしてほとんどハバロフスクに居るのと変わらないくらい見知らぬ土地のその真ん中に、ぽつねんと立っている自分に唐突に気付いたらしい。
電柱に巻き付けられた地名の書かれた古い広告を探してもらう。
目立つ建物は無いかと訊いてみる。
探し物は探検の様相を呈し始める。
古の探検隊のパロディソングのフレーズが頭の中に流れ出した。
ああでもここは、行った事があるな……。
電話の向こうから聞こえてくる幾つ目か地名になんとなく聞き覚えがあった。
ああたぶん、ここだろうな、と。
当たりをつけはじめて少し安堵できる所までやって来た。
だぃたぃアタリを付けた頃になると、黙々と左とか右とか、それで会話が途絶え始めた。
ぱかぽこ、と心細い蹄の音だけが聞こえていた。
「元気かー」
何も話しかけないよりは良い。
向こうから「おー」という声がした。
蹄の音が少しだけ陽気になる。
「おでこ、まだ痛い?」
「もう大丈夫だよ」
「買い物はし忘れたかな」
「冷やしCD?」
笑った。
「まるで、デートしているみたいなの」
「でも、やっぱり、あなたが傍に居無いと寂しいの」
暫く、無言で彼女の蹄の音を訊いていた。
「最近はずっと一緒だったよな」
「なんとなく」
「そっか、なんとなくか」
なんとなくじゃあ、な……。
声にならない返事を聞いたような気がした。
二人はしばらく電話を切る事にした。
電話が鳴った。
「もしもし、私メリーさん。お家の前なの」
その言葉に玄関を開けたが、そこには誰もいなかった。
怪訝に思いながら受話器に向かった。
「もしもし、メリーさん?」
問いかけると、少ししてから返事があった。
「私メリーさん、迷子じゃなくなったら私、自分のお家に帰らなきゃならないの」
そもそも彼女は、いつから迷子なんだろうか。
今日の、支線と本線の分岐駅からだろうか。
あるいは彼女はこんなふうに迷って、うちに辿り着いたんじゃないのか。
本線ではなく支線、特急ではなく普通、偶数ホームではなく奇数ホーム、それらを間違えて迷子になって、ある男を自転車に乗ったまま昏睡させて怪我をさせて、そして紆余曲折の後に半熟卵焼きの朝食を食べたりしていたんじゃあないのか。
それが今、うちを目指しながら逆の間違いをして、本当の自分の家の前に戻って来れたのかもしれない。
彼女は自分の家の玄関の前にずっと立っている。
電話の向こうから声がした。
「私メリーさん、植木鉢のお花がしおれているから水を上げるの」
そう言えばここの数日、雨が降ってなかったな。
こちらもそんな事を考えていた。
家の鍵が見当たら無いから、と、共用の水道から水を汲むので少し時間がかかるともわざわざ電話の向こうから言ってきた。
何かを言おうと息を吸う度、受話器の向こうからぷるぷると頭を振って、耳がぱたぱたと鳴る音が聞こえた。
そこがお前の家なんだな、とそう確定してしまう声を受話器の向こうに放ってしまいそうになていて、そう自覚する度に口が噤んだ。
だから暫く、何も言えずに黙っていた。
如雨露からの慈雨が降り注いでしおれた葉っぱ、乾いた土に弾けて染み込む音を聞いていた。
その雨音が止む。
電話の向こうの彼女は、まだしおれたままのように黙ったままで居る。
そんな気がした。
今度はこちらの声を待っているようだった。
彼女がそのまま自分の家に入るのなら、こっちの言葉なんかいらない。
彼女もこちらへ電話も、もう要らないのだ。
キーホルダーの鎖の音が聞こえていた。
受話器から視線を落とし、地図を見た。
一度頭を掻きむしる。
そして受話器に向かって言った。
「あと、もう少し歩いたら、駅だろ。そこから特急乗って、三駅目で降りて支線に乗り換える。うちは、普通電車で三駅目……だ」
言ってしまった。
彼女は、彼女自身の家の前に居るのに、こう言ってしまった。
会った時もそうだった、迂闊にも程がある。
だけどステップを踏む蹄の音と、また鼻歌のような声がした。
「私メリーさん。今駅に向かって歩いているの」
鼻歌はずっと続いた。
やがてその唄に、特急電車が軽快にレールの音のリズムを刻んだ。
駅名を告げて行くアナウンスが聞き慣れたものになっていく。
改札の音が近くなってまた遠くなる。
蹄が踏む音が、アスファルトからタイル張りの音に変った。
「私メリーさん。今あなたの住んでるマンションのエントランス、ついでに郵便受け見ておくね」
そう言われて、玄関を開けに行く。
以前、「開けてよぉ」と泣かれた事を思い出して鍵を開けておく。
少し遅い。
電話から声がした。
「私、メリーさん」
息も絶え絶えで言った。
「今、やっと、七階なの」
「いいからエレベーターで来なさい」
そして我が家は五階。
エレベーターホールまで出迎える。
動かなかったエレベーターの位置表示のランプは全然関係の無い階から、関係の無い階へ行って、そしてまた関係の無い階に止まって動かなくなった。
まだ階段で上って来ているのかと思い、階段で一階まで行って、今度は非常要階段を上りながら確かめた。
そして一人で鍵の開いた家に戻る。
いつの間にかに切れていた電話がまた鳴った。
「メリーさん?」
受話器に向かって訊ねると、その向こうから微かな寝息が聞こえた。
玄関から廊下に上がって、そっと寝室の扉を開ける。
廊下から差した込んだ光の先に、疲れに任せてベッドに寝そべるワーシープの姿があった。
わたしめりーさん……あなたのしんしつに、いる、の……
ずっと、ずっと…、待ってるの……
さっき受話器の向こうから聞こえた寝息と一緒に、寝言が聞こえていた。
疲れに任せて他人のベットの上に連虜無く寝そべって、そこからはみ出した蹄の汚れを濡らした布で拭いた。
あともう少し、待ってもらう事にする。
食堂に戻って彼女の夕食をラップに掛けて、冷蔵庫にしまう。
自分の食べた夕食の後片付けをする。
そんな中、たまに電話が鳴って、しかし聞こえるのは寝息ばかり。
だから受話器を上げたままにして、皿洗いの音を聞かせる。
最後に蛇口をしっかり絞めて、ガスの元栓も確かめて、そしてパジャマに着替えてから、電話を切った。
そっと寝室に入って、ベットも枕元で開いたままの彼女のケータイを閉じる。
「ほら、きてやった、ぞ、ぉ…あふぅ」
そして恩着せがましく、寝床を取られた事に悪態を付く。
そして占領されたベッドの縁を背中を預けて、持って来た毛布にくるまった。
「おかえり」
悪態で紛らわして、やっとその言葉を言えた。
そのまま、彼女のもこもこな気配に身を委ねて眠る。
優しく包まれたものが脈打っている。
時折きゅっきゅっと締まって、気持ちがよかった。
朝、部屋に差し込む日差しと、心地良い快感に目を覚ましていた。
ずり下ろされたパンツがいつものように中途半端に脚の自由を奪っていた。
男の腰に深く沈み込んだ彼女の可愛いお尻が、ぷるぷると震えていた。
ミルク色の羊毛から垣間見える肌を苺色にして、やっぱりぷるぷると震えて、はぁはぁ、と熱い息を吐いていた。
そんな彼女のお腹の中へと自分のものが溶けていくのを微睡んでいる様に感じていた。
可愛い小さなお尻を撫でた。
俺が目を覚まして自分を見ていることに気付いて、ワーシープは少し恥じらった。
「私メリーさん、あなたの前に居るの」
しかし自分の中を満たされて行く幸福感に恥じらいも溶けて、こぼれるような満面な笑みを浮かべた。鼻が触れ合うくらいに近くにあって、嬉しそうに彼女は言った。
「メリーさんあなたと一緒なの」
繋がって体温を通わせながら彼女はそう言った。
「いつも、そうしているのだろう」
意地悪ではなく、ただ純粋にいつも一緒に居たと思っていた。
でも彼女はぷるぷると今度は顔を横に振って、羊の可愛らしい耳を揺らした。
「でも今日はあなたの目が覚めてるの」
うっとりと見下ろす彼女を見上げて、思い出したように挨拶した。
「……おはよ」
ぶっきらぼうな声に、彼女はきょとんとした。
あ、と気付く。
改めて自覚する。
「おは、よう……あふ」
彼女はとびきり幸せそうに顔をほころばせて、嬉しさで紅潮しているのが分かって、それが恥ずかしくなったのか最後は可愛い欠伸でそれを誤摩化してそう答えた。
「私メリーさん、お察しの通り方向オンチなの」
そう言って半熟目玉焼きを食べる。
幸せ一杯の笑顔。
「私メリーさん、またお家が分からないの」
自分の家をまた見失うって、どんだけだよ……今度は一緒に探してやろうか?
昨晩迷子になっていた辺りだし、たぶん、すぐに見つかるよ。
そう言ったら、寝ぼけ 少し不満そうな顔をした。
「私メリーさん。今から毛を刈るの」
「えっ……?」
その日から彼の家が彼女の家にもなりました。
「私メリーさん、彼のお嫁さんなの」
彼女は自分の毛を刈った後で、そのまま二匹目の羊の毛刈りをするようにこちらの服をひんむいて、寝ぼけ魔法を脱ぎさったワーシープにあれよあれよと(性的な意味で)起きたまま襲われた。
「お前それ、問題の解決になってない」
ひんむかれて脱ぎ散らかされた服を手繰り寄せそう言うと、彼女は覚めた悪夢を思い出したようにぷるっと震えて瞳を涙を溜めた。
「私メリーさん、愛しい旦那様は私を見失わない、の……」
つくづく自分の往生際の悪さを実感する。
そうされて、謝るような溜息が出た。
「違うの?」
戻って来い、と言ったのは自分だ。
彼女の雲のような可愛い耳がぱたぱたと揺れた。
俺は言った。
「おかえり」
「はい、ただいま」
彼女は応えた。
「ケータイは無くすなよ、また迷っても見つけてやるから」
「はい」
更なる自分の往生際の悪さに涙が出る。
「うちに、来い……っ」
言ってから、いや、来てください……、いやそういう言い回しも変か、いやいやいや……。
しどろもどろする。
「次からは、俺がぁ……その、毛を……刈る……っ」
大事なことを言い忘れている。
「おまえの……」
迂遠すぎる。「いや、俺の……」
彼女は眠そうな眼を じっとこちらを見ている。
「俺の嫁さんになって……、くれ」
そう言って様子を伺う。
言って、じっと見つめられているのが恥ずかしくなって俯く。
あまりの恥ずかしさに、ワーシープのふわふわもこもこの魔法にかかったふりをする。
そして顔が真っ赤で狸寝入りがすぐバレる。
彼女は隣で一緒に横になって寝顔を覗き込む。
「はぁい」
にっこり笑ったその顔がまるで瞼が閉じるように近づいて、微睡むような柔らかな接吻。
後日、彼女は自分の家に戻った。
部屋の荷物を取りに、あと、またしおれかけていた植木鉢も。
それはあれだ、都市伝説でよく聞いたあのフレーズだった。
その電話の向こうにこう訊ねる。
「目玉焼きは半熟? 堅焼き?」
「半熟がいいの」
可愛らしい返事が来る。
あの都市伝説も、こんな声なのかね、と。
そんな事を考えながら、フライパンの上で熱せられて油が浮いたベーコンを見やり、そこへ小気味いい音を立てて殻を割った卵を落とした。
そして塩こしょう……、
「もしもし、私メリーさん」
受話器の向こうからまた声がした。
「そろそろ開けてほしいの」
コンロの火を止めてフライパンの中に目玉焼きを残して玄関に行く。
仰々しい鋳物の鍵を回し手応えの有る重いプレスドアを開けると、しっとりと重い風が流れ込んでくる。
「……あふっ」
欠伸が出た。
そして欠伸は伝染する。
その感染源たる彼女が再感染しているのだから、あれには免疫というものには無縁らしい。
「ふにぁ〜ぅ」
電話の向こうと同じ可愛らしい声を見やると、そこには眠そうな目をした羊娘の顔があった。
お察しの通り、これがうちのメリーさん。
羊がメリーさんだからだろうか。でもあのメリーさんは羊ではなく、羊の飼い主がメリーさんだ。
そしてあの都市伝説は人形のお話だけれども、うちの場合はリビングドールではなく、人形のようなゴーレムでもなく、あるいは人形に取り憑きそうなゴーストでもなくて、彼女はワーシープだった。
「……あふっ」
「ふにぁ〜ぅ」
顔を合わせるなり軽く手を上げてまた欠伸をする。それが二人の挨拶になっていた。
その扉の前で待っていた彼女をすり抜けた外から空気は、今は夏なのにまるで蜜を含んでいるようにふんわりとした春のように感じた。
眠気の元締めは、ぽてぽてと玄関を上がる。
そしてそのまま食堂の食卓の前まで行って、ちょこんと、いつもの椅子に座った。
台所から見ると、眠そうな眼はしかし強い意志で彼女は訴えかける。
「はいはい」
自分の朝食と、そして彼女の前にも自分と同じ朝食を並べる。
彼女はそれを、まさに朝食らしく起き抜けて来たばかりのような眠そうな顔で、はむ、と頬張る。
はむはむ、と確かめる。
「私メリーさん、私の目玉焼き堅焼き気味なの……」
「火加減が大事な時に急かすからだ」
火を止めても熱いフライパンの上に置かれたままの目玉焼きは、すっかり固く焼き締まってしまっていた。
微睡みの続きのような、とろりと溢れて舌に絡む黄身を期待していたのに。
口の中の水分を吸われてもそもそとする彼女が、こちらの皿の方の目玉焼きを見ていた。
そして気が付くと彼女が見ていたこちらの目玉焼きは、何故か彼女の前にあった。
代わりに、羊の噛み跡で黄身が半分になった目玉焼きが自分の目の前に。
なかなかの早業、否、一瞬転寝してしまったように思える。
隣の牧草は青かったらしい。
でも、同じフライパンでまとめて作ったそれは多少の斑はあっても、だいたい同じ。
結局、口の中をぼそぼそとする事になって、少し涙目な彼女のコップにミルクを注いだ。
彼女はそれを口に付けて、口の周りにコップの輪郭で天使の輪っかを作っているのを傍目に、トースターから飛び出したパンにマーマレードを塗って皿の上に、そしてテーブルに並べる。
タンポポ色が混じったミルク色の彼女は、マーマレードの鮮やかなオレンジが良く映えた。
ほっぺに、マリーゴールドの花が咲いている。
それを手で摘もうとすると、ひょいと避けられる。
そして手を引っ込めると、それに引っ張られたように頬を寄せて来る。
仕方なくこちらも顔を寄せた。
「キスじゃない」
まず言い訳してから、唇の端に引っかかったそれを唇で摘んで食べた。
甘くしかし少し苦い、そんなマーマレードの味。そして粉砂糖のようなざらりとした感触が、舌先を少しだけ乾かして、そして溶けて消えた。目を瞑った彼女の肌はまるで砂糖菓子みたいだった。
こなっぽい肌を湿らす羊毛の薄く丹念に塗った油っぽい匂いが、鼻腔に絡んだ。香油のように溶かし込んだ空気が、鼻の粘膜からゆっくりと全身に広がって行くのを感じる。
また欠伸が出た。大きく吸い込んだ
額をぶつける音は、まるで自分の意識のスイッチのようだ。
なにせテーブルで頭を撃てば痛い筈なだから。
瞼が重くなって、自分の寝息を聞きながら意識が砂糖のように溶けていった。
彼女の謝る声が聞こえた。
「私メリーさん、ごめんなさい、ワーシープなの」
彼女が覆い被さってくる影のように、意識が暗転した。
彼女と出会ったのは、一ヶ月くらい前の話だ。
ちなみにその時その場所では、爆睡したままチャリンコに乗る男を半泣き状態で追いかけるワーシープの図、というものが展開されていたらしい。
そんな面白い光景、不覚にも眠ってしまって見逃したのが悔しくてしょうがない。
まったく、それをやらかした本人である事が悔やまれる。
目が覚めたら壁にぶつかっていて、乗っていた自転車はへしゃげていた。
自分はと言うと、至る所の打ち身や擦り傷だらけで、しかしそこには羊柄の絆創膏で手当をされていた。
そして、ケータイのベルが鳴った。
「私メリーさん、あなたの後ろに居るの」
それが彼女からの初めての電話だった。
その声に振り向いた。
しかし誰もいない。
「ちなみに一キロメートル後ろ」
「すまない、俺そこまで目は良く無いんだ」
初顔合わせは少し後になる。
そしてメリーと言う名前とそして電話から、あの都市伝説を思い出した。
「電話の度に近づいて来る嗜好で?」
映画ジョーズのテーマ曲が聞こえた。
今一度振り向いて、辺りを伺う。
まだ見えなかった。
「近づくって、どれくらいずつ?」
「一センチずつ」
「それ、車に轢かれるんじゃあ……」
びくっ……。
身震いする気配と同時に、丁度向こうから聞こえていた歩行者信号のメロディが途切れた。
慌てた蹄の音が鳴り響き、タタンッと、そのステップを踏み切った途端、覆い被さるように凄い勢いで自動車の音が沸き起こる。
「えーっと」
どうやら彼女は、今さっき何センチ移動したのかを計り倦ねているようだった。
だから言った。
「とりあえず今はまだ俺は眠く無い……」はず。抓って確かめる。
すると、電波の向こうから安堵するような溜息が聞こえた。
やや大袈裟だけど、彼女が気にしているのはそういう事だった。
一キロ先から眠くなる強力な魔力なんて聞いた事が無いが、彼女は一キロ向こうからセンチ単位で手探りでにじり寄って来た、らしい。ただ、そのうちセンチと言う単位に我慢できなくなったり飽きたりすると、それ毎に単位をデノミしていった。近づくにつれ普通は単位は細かくしていくはずなのに、大雑把になっていった。
大雑把過ぎて、やっぱり、うちを一度通り越したっぽい。
「私メリーさん、もしかしてあなたの前にいるの?」
クエッションマークが付いた。
前方のまだ何十かあるいは何百メートルだろうかと考えた。どうやらキロ単位でオーバーランと気付いたのはそれから五回目くらいの彼女からの電話の時である。
それでもやっと日暮れまでに玄関の前に着いて、でもその頃にはすっかり二人して目的を忘れていた。
着いたは良いが、扉を開けた先でぽかんとする彼女に向かって、言葉に窮したのもこちらも同じだった。
二人して欠伸が出た。
それでどこかに残っていた記憶の残骸も、何もかも洗い流されてしまったようだった。
「とりあえず……夕食でも?」
つまり、察していた本来の目的を忘れてしまったからと言って、適当な理由をでっちあげてはいけないと言う事である。
後日、彼女は怪我をさせた事を謝りに来たのだと二人でやっと思い出したのだが、その頃には食卓で独身家主の向いの来客用の椅子は彼女の指定席になっていた。
それから、彼女をよく近所で見掛けるようになった。
団地の芝地なんかでよく、もこもことしながら眠そうにひなたぼっこをしている。
「おーい、昼寝するぞー」
どこか人を避けるように遠くに居るような彼女を誘うと、可愛くて小さな雲のように尻尾を揺らしていつも駆け寄って来る。
連れ立って、我が家の申し訳程度に設えられた狭い和室の畳の上で、扇風機を回して二人して雑魚寝する。
彼女はカールした羊毛に気持ち良さそうにその風を通していた。
だいたいそこから意識が無い。
そのまままるで柔道で一本決められたような、どこか小気味良い大きな音を立てて、畳の上に強かに額を打つ。その音、びくっ震える彼女の肩を感じて、眠りの闇に落ちる。
ゆっくり寝たいのに、全くもってゆっくりそっと寝たいのに、不意に催した眠気が肉体の統制を奪うか。
それで崩れる体が、傍らで微睡む良い気持ちが消し飛ぶ程、凄い音が立つ事はそれで知っているし、それで、例えば額をテーブルなんかにぶつけると本当に痛い事を、彼女は知っているのだろう。
また今日もそんなふうに寝こけてまた目を覚まして、半熟のなり損ない堅焼き目玉焼きを食べていた事を思い出す。
その時にはもう、やはり彼女は居なかった。
今週最後の平日である金曜日は十時間ちょっと前に終わっていて、今はとりあえず休日の土曜日のほとんど昼の遅めの朝だった。
彼女の微睡む残り香に身を委ねてしまい誘惑に駆られる。
最近は慣れていたつもりなのにな。
失敗に額に手を伸ばすと、指先が触れた所が熱を持って鈍く疼いた。
電話が鳴った。
「もしもし私メリーさん、あなたの後ろにいるの」
「どれくらい後ろに?」
「二キロメートル」
ああ、また遠いな。
そう思いながら冷蔵庫の方に手を伸ばして、欲しい音楽CDは無かったかと考えていた。
そして、着た本人の与り知らぬ所で半脱ぎになったズボンが脚が絡まってこけた。
外出先でケータイが鳴った。
「私メリーさん。あなたの十メートル後ろに居るの。五メートルまで近づいていい?」
場所は家の最寄り駅から普通電車で三駅行った少し大きな駅の前。だいたい家から二キロ。
電話の向こうの声が心無しか嬉しそう。
一つ増えた額の絆創膏を指でなぞりながら言ってやる。
「迎えに来た訳じゃない。俺に迎えにいく義理が何処にある」
と、ガッカリとさせてやる。
「今日は単に冷やし音楽CDが切れていたから、ここまで買いに来ただけだ」
自分で何を言っているのか解らない。多分冷やし中華の親戚だ。
がっかりさせるつもりが、嬉しそうな声が聞こえた。
「帰るぞ」
電話の向こうに努めてぶっきらぼうにそう言うと、駅の改札を潜った。
階段を上りながら、五メートル後ろをついてくる蹄の音を聞いていた。
ホームに上がると電車が入ってくる。
「私メリーさん、あなたの後ろ三メートルにいるの。近づかないと一緒に電車に乗れないの」
二メートルでも、一メートルでも、そう他愛無く笑い返すつもりで吐いた息が、欠伸になっていた。
不味い。
そう思って恐る恐る振り返ると、三メートル先に彼女がぴたりと歩みを止めていた。
彼女の方へと歩み寄った。
すると三メートル先の彼女は同じだけ後ずさった。
少しして、彼女がちょこちょこと、慎重深く歩み寄る。
また欠伸が出た。
すると彼女は一歩だけ後ずさった。
そんな様子に溜息をついて踵を返し、彼女を背に一歩踏み出した。
すると彼女は慌てて、二歩で追いかけた。
さっきのと合わせて差し引きがゼロ。
「三百センチ」
単位を言い換えて誤摩化す。
確かに数字を大きくすると離れた気になれる。
でも実数は変わらない。なのに、数字は大きくなる。そう言うのが少し気に入らない。
発車を待つ開いた電車の扉を潜り足早に電車に乗る。
ちょうど三メートル後ろを、蹄の音がついて来た。
置いて行かれないように慌てた音だった。
「三千ミリ」
電車の反対側の扉の所まで行って手摺につかまる。そして蹄の音が止まる。
「言い方変えても同じだぞー」
言った本人にもわかる気の抜けた声に言われて、電話の向こう側で大量のゼロを呑み込む音がした。
「三京ジンバブエドル」
「わけわからん」
確かにレートによっては天文学的な数字になる。
ただ実際はとても小さくて、近い。
巧い例えのつもりなんだろうか。
「なぁ」
近くに居るのにケータイを通して遠回しに彼女に呼びかける。
呼びかけて、その後どうしようかと悩んでいる自分に気付く。
それよりも早く、その呼びかけると遮るように、彼女の声が被っていた。
「あなたが、寝過ごすの」
「そんな事を気にしているのか」
「またおデコぶつけるの」
「あ、う、ん、……まぁ、な……」
「いつも、そうなの……」
そして彼女は言った。
「そしてそんなあなたの寝顔を見ていると、犯したくなっちゃうの」
「マテ」
彼女は待たなかった。
「だから、あなたが露出癖のあるマゾで、跨がられて責められている自分の姿を大勢の他人に見られても、むしろハァハァしちゃう変態野郎なら……」生唾を呑み込む音が聞こえた。「メリーさん躊躇わないのぉ……」
「躊躇わずにそれを期待するように言わないでくれるか……」
というか彼女が居なくなった後でズボンがずりお降ろされているのはそれか。
そんな三メートルの電話越しの会話に、周囲がぎょっとする気配が渦巻いていた。
黙らせよう ええ黙らせましょう、黙らせよう。
振り返ってあの羊娘へと手を伸ばそうとした。
「あ」
その手を、電車の扉が遮った。
ああ、そう言えば。
電車って車体幅三メートルも無いんだっけな。
いつもぎゅう詰めの痛勤電車、骨身に染みるその幅である。
そして彼女の泣き顔は、可愛らしいけれど骨身に染みる。
扉が閉まると電車は動くものだ。
「ふにゃあぁぁぁぁぁぁ〜〜っ」
窓の外の彼女。
案の定の泣き顔。
閉まった扉の向こう側で、涙目が電車の加速で後ろへと流れて行く。
三京ジンバブエドルほどの彼女との距離は、更にインフレーションしていった。
「きっとあなたの所に行くからぁぁぁ〜っ!」
もこもこ雲のような羊毛の雲を揺らして電車を追っかけて、そしてお約束にもホームの端でこけた。
今一度思おう。
可愛かった。
不謹慎だが可愛かった。
胸が締め付けられる思いがする。
だから、それからは一キロにも満たない次の駅につくまでが果てしなく遠く、折り返す電車が来るのがもどかしかった。折り返しにゃって来た電車の運転間隔と遅さが恨めしかった。
そうしてやっと戻って来たら向かい側のホームの電車の中に彼女を見つける。
ひゅぅぅぅぅ、たらりらりらりぃぃ〜
電車の起動音が奏でるドレミファ音階が加速する。
「あなたの方に行くっていったのにぃぃぃぃ」
電車の加速とともに波長が引き延ばされてドップラー効果で赤方偏移していく"電車に乗った"彼女の声が虚しく棚引いて行ってしまった。
どちらが悪かったのだろうか、と考えてしまった。
幾ら考えても、どちらも間が悪かったか間が抜けていた、としか言いようが無かった。
溜息が出た。
「私、メリーさん……」
次の電話は仕切り直すつもりで家に帰って少ししてからだった。
「迷子なのぉ」
「だろうな……」
と、しか言いようが無かった。
ビービーと泣かれた。
その頭を撫でようとしていた手が空振りして、手持ち無沙汰に自分の頭を掻いていた。
彼女が乗った電車は真っ赤な表示の特急だった。
そしてうち最寄り駅は普通電車しか止まらない駅だった。
そもそも家に帰る為に乗る路線には特急なんて走ってはいないのだ。あの駅で路線は本線と支線に分岐していて、本線の特急は支線の三つ先が最寄り駅である我が家とは全く違う方向に当分無停車で疾走するのである。
そしてなんとなし、彼女は停車駅を数えて降りる駅を決めている人だと思った。
普通の三駅と 特急の三駅は呆れるくらい違う。
特急と普通の停車駅数の差分だけ遠くに運ばれて、見知らぬ駅に降りて初めて気付いて、それで途方に暮れる姿が目に浮かぶ。
声の調子からして多分まだ涙目。
「私メリーさん、涙目なの」
「知ってる」
思わずそう言ってしまって、すると受話器を離して、自分を気付かない所から見ている意地悪を探すように、後ろを振り返る音がぶんぶんと、こちらまで聞こえる。
勿論そこに自分は居ない。
「私メリーさん、嘘つきは嫌いなのぉ!」
ぷつっ……。
つー、つー、つー…、
溜息一つ分だけの間を置いて、また電話のベルが鳴った。
「私メリーさん」
少し、しょんぼりした声がした。
「今ロシアのハバロフスクにいるの」
「おい」
「もこもこだから寒く無いの」
「冗談を言えるくらいは、元気はあるんだよな」
少し安心したような気がした。
大袈裟な事を言ってみたものの構ってもらえずに、もう一段しょんぼりする気配がスピーカー向こうから伝わって来た。
それと、何処に居るか本気でさっぱり見当がつかない事もわかった。
だから今さっき言ったように、冗談が言えるのならと少しだけ安心した。
こちらと来たら、彼女を宛てもなく追いかけて、彼女に追いつけなかったのかそれとも追い越してしまったのか、結局会えずに、冗談も気遣う余裕もなく、ただヘトヘトに疲れてしまっていたのだから。
自分の物ではないが、空元気というものはそれなりに効能があるらしい。
「今、何が見えている?」
彼女から電話がかかって来るまで待たせておいた地図を開ける。
ただ、その地図を見たからと言ってそこに彼女の居場所が書いてある訳じゃない。
彼女に訊いても、降りた駅名も解らない。
何処からか犬のおまわりさんと迷子の子猫の鳴き声が聞こえて来るようだった。
「お名前は?」
「メリーさん」
だよな……。
歌詞の続きを口ずさんでいた。
どうやら良く知った気のする三つ目の駅に降りて、良く知ったような気のする道を歩いて、良く知ったような曲がり角を多分こっちだろうと適当に曲がって、ついでに曲がる数も数え間違えたらしく、そしてほとんどハバロフスクに居るのと変わらないくらい見知らぬ土地のその真ん中に、ぽつねんと立っている自分に唐突に気付いたらしい。
電柱に巻き付けられた地名の書かれた古い広告を探してもらう。
目立つ建物は無いかと訊いてみる。
探し物は探検の様相を呈し始める。
古の探検隊のパロディソングのフレーズが頭の中に流れ出した。
ああでもここは、行った事があるな……。
電話の向こうから聞こえてくる幾つ目か地名になんとなく聞き覚えがあった。
ああたぶん、ここだろうな、と。
当たりをつけはじめて少し安堵できる所までやって来た。
だぃたぃアタリを付けた頃になると、黙々と左とか右とか、それで会話が途絶え始めた。
ぱかぽこ、と心細い蹄の音だけが聞こえていた。
「元気かー」
何も話しかけないよりは良い。
向こうから「おー」という声がした。
蹄の音が少しだけ陽気になる。
「おでこ、まだ痛い?」
「もう大丈夫だよ」
「買い物はし忘れたかな」
「冷やしCD?」
笑った。
「まるで、デートしているみたいなの」
「でも、やっぱり、あなたが傍に居無いと寂しいの」
暫く、無言で彼女の蹄の音を訊いていた。
「最近はずっと一緒だったよな」
「なんとなく」
「そっか、なんとなくか」
なんとなくじゃあ、な……。
声にならない返事を聞いたような気がした。
二人はしばらく電話を切る事にした。
電話が鳴った。
「もしもし、私メリーさん。お家の前なの」
その言葉に玄関を開けたが、そこには誰もいなかった。
怪訝に思いながら受話器に向かった。
「もしもし、メリーさん?」
問いかけると、少ししてから返事があった。
「私メリーさん、迷子じゃなくなったら私、自分のお家に帰らなきゃならないの」
そもそも彼女は、いつから迷子なんだろうか。
今日の、支線と本線の分岐駅からだろうか。
あるいは彼女はこんなふうに迷って、うちに辿り着いたんじゃないのか。
本線ではなく支線、特急ではなく普通、偶数ホームではなく奇数ホーム、それらを間違えて迷子になって、ある男を自転車に乗ったまま昏睡させて怪我をさせて、そして紆余曲折の後に半熟卵焼きの朝食を食べたりしていたんじゃあないのか。
それが今、うちを目指しながら逆の間違いをして、本当の自分の家の前に戻って来れたのかもしれない。
彼女は自分の家の玄関の前にずっと立っている。
電話の向こうから声がした。
「私メリーさん、植木鉢のお花がしおれているから水を上げるの」
そう言えばここの数日、雨が降ってなかったな。
こちらもそんな事を考えていた。
家の鍵が見当たら無いから、と、共用の水道から水を汲むので少し時間がかかるともわざわざ電話の向こうから言ってきた。
何かを言おうと息を吸う度、受話器の向こうからぷるぷると頭を振って、耳がぱたぱたと鳴る音が聞こえた。
そこがお前の家なんだな、とそう確定してしまう声を受話器の向こうに放ってしまいそうになていて、そう自覚する度に口が噤んだ。
だから暫く、何も言えずに黙っていた。
如雨露からの慈雨が降り注いでしおれた葉っぱ、乾いた土に弾けて染み込む音を聞いていた。
その雨音が止む。
電話の向こうの彼女は、まだしおれたままのように黙ったままで居る。
そんな気がした。
今度はこちらの声を待っているようだった。
彼女がそのまま自分の家に入るのなら、こっちの言葉なんかいらない。
彼女もこちらへ電話も、もう要らないのだ。
キーホルダーの鎖の音が聞こえていた。
受話器から視線を落とし、地図を見た。
一度頭を掻きむしる。
そして受話器に向かって言った。
「あと、もう少し歩いたら、駅だろ。そこから特急乗って、三駅目で降りて支線に乗り換える。うちは、普通電車で三駅目……だ」
言ってしまった。
彼女は、彼女自身の家の前に居るのに、こう言ってしまった。
会った時もそうだった、迂闊にも程がある。
だけどステップを踏む蹄の音と、また鼻歌のような声がした。
「私メリーさん。今駅に向かって歩いているの」
鼻歌はずっと続いた。
やがてその唄に、特急電車が軽快にレールの音のリズムを刻んだ。
駅名を告げて行くアナウンスが聞き慣れたものになっていく。
改札の音が近くなってまた遠くなる。
蹄が踏む音が、アスファルトからタイル張りの音に変った。
「私メリーさん。今あなたの住んでるマンションのエントランス、ついでに郵便受け見ておくね」
そう言われて、玄関を開けに行く。
以前、「開けてよぉ」と泣かれた事を思い出して鍵を開けておく。
少し遅い。
電話から声がした。
「私、メリーさん」
息も絶え絶えで言った。
「今、やっと、七階なの」
「いいからエレベーターで来なさい」
そして我が家は五階。
エレベーターホールまで出迎える。
動かなかったエレベーターの位置表示のランプは全然関係の無い階から、関係の無い階へ行って、そしてまた関係の無い階に止まって動かなくなった。
まだ階段で上って来ているのかと思い、階段で一階まで行って、今度は非常要階段を上りながら確かめた。
そして一人で鍵の開いた家に戻る。
いつの間にかに切れていた電話がまた鳴った。
「メリーさん?」
受話器に向かって訊ねると、その向こうから微かな寝息が聞こえた。
玄関から廊下に上がって、そっと寝室の扉を開ける。
廊下から差した込んだ光の先に、疲れに任せてベッドに寝そべるワーシープの姿があった。
わたしめりーさん……あなたのしんしつに、いる、の……
ずっと、ずっと…、待ってるの……
さっき受話器の向こうから聞こえた寝息と一緒に、寝言が聞こえていた。
疲れに任せて他人のベットの上に連虜無く寝そべって、そこからはみ出した蹄の汚れを濡らした布で拭いた。
あともう少し、待ってもらう事にする。
食堂に戻って彼女の夕食をラップに掛けて、冷蔵庫にしまう。
自分の食べた夕食の後片付けをする。
そんな中、たまに電話が鳴って、しかし聞こえるのは寝息ばかり。
だから受話器を上げたままにして、皿洗いの音を聞かせる。
最後に蛇口をしっかり絞めて、ガスの元栓も確かめて、そしてパジャマに着替えてから、電話を切った。
そっと寝室に入って、ベットも枕元で開いたままの彼女のケータイを閉じる。
「ほら、きてやった、ぞ、ぉ…あふぅ」
そして恩着せがましく、寝床を取られた事に悪態を付く。
そして占領されたベッドの縁を背中を預けて、持って来た毛布にくるまった。
「おかえり」
悪態で紛らわして、やっとその言葉を言えた。
そのまま、彼女のもこもこな気配に身を委ねて眠る。
優しく包まれたものが脈打っている。
時折きゅっきゅっと締まって、気持ちがよかった。
朝、部屋に差し込む日差しと、心地良い快感に目を覚ましていた。
ずり下ろされたパンツがいつものように中途半端に脚の自由を奪っていた。
男の腰に深く沈み込んだ彼女の可愛いお尻が、ぷるぷると震えていた。
ミルク色の羊毛から垣間見える肌を苺色にして、やっぱりぷるぷると震えて、はぁはぁ、と熱い息を吐いていた。
そんな彼女のお腹の中へと自分のものが溶けていくのを微睡んでいる様に感じていた。
可愛い小さなお尻を撫でた。
俺が目を覚まして自分を見ていることに気付いて、ワーシープは少し恥じらった。
「私メリーさん、あなたの前に居るの」
しかし自分の中を満たされて行く幸福感に恥じらいも溶けて、こぼれるような満面な笑みを浮かべた。鼻が触れ合うくらいに近くにあって、嬉しそうに彼女は言った。
「メリーさんあなたと一緒なの」
繋がって体温を通わせながら彼女はそう言った。
「いつも、そうしているのだろう」
意地悪ではなく、ただ純粋にいつも一緒に居たと思っていた。
でも彼女はぷるぷると今度は顔を横に振って、羊の可愛らしい耳を揺らした。
「でも今日はあなたの目が覚めてるの」
うっとりと見下ろす彼女を見上げて、思い出したように挨拶した。
「……おはよ」
ぶっきらぼうな声に、彼女はきょとんとした。
あ、と気付く。
改めて自覚する。
「おは、よう……あふ」
彼女はとびきり幸せそうに顔をほころばせて、嬉しさで紅潮しているのが分かって、それが恥ずかしくなったのか最後は可愛い欠伸でそれを誤摩化してそう答えた。
「私メリーさん、お察しの通り方向オンチなの」
そう言って半熟目玉焼きを食べる。
幸せ一杯の笑顔。
「私メリーさん、またお家が分からないの」
自分の家をまた見失うって、どんだけだよ……今度は一緒に探してやろうか?
昨晩迷子になっていた辺りだし、たぶん、すぐに見つかるよ。
そう言ったら、寝ぼけ 少し不満そうな顔をした。
「私メリーさん。今から毛を刈るの」
「えっ……?」
その日から彼の家が彼女の家にもなりました。
「私メリーさん、彼のお嫁さんなの」
彼女は自分の毛を刈った後で、そのまま二匹目の羊の毛刈りをするようにこちらの服をひんむいて、寝ぼけ魔法を脱ぎさったワーシープにあれよあれよと(性的な意味で)起きたまま襲われた。
「お前それ、問題の解決になってない」
ひんむかれて脱ぎ散らかされた服を手繰り寄せそう言うと、彼女は覚めた悪夢を思い出したようにぷるっと震えて瞳を涙を溜めた。
「私メリーさん、愛しい旦那様は私を見失わない、の……」
つくづく自分の往生際の悪さを実感する。
そうされて、謝るような溜息が出た。
「違うの?」
戻って来い、と言ったのは自分だ。
彼女の雲のような可愛い耳がぱたぱたと揺れた。
俺は言った。
「おかえり」
「はい、ただいま」
彼女は応えた。
「ケータイは無くすなよ、また迷っても見つけてやるから」
「はい」
更なる自分の往生際の悪さに涙が出る。
「うちに、来い……っ」
言ってから、いや、来てください……、いやそういう言い回しも変か、いやいやいや……。
しどろもどろする。
「次からは、俺がぁ……その、毛を……刈る……っ」
大事なことを言い忘れている。
「おまえの……」
迂遠すぎる。「いや、俺の……」
彼女は眠そうな眼を じっとこちらを見ている。
「俺の嫁さんになって……、くれ」
そう言って様子を伺う。
言って、じっと見つめられているのが恥ずかしくなって俯く。
あまりの恥ずかしさに、ワーシープのふわふわもこもこの魔法にかかったふりをする。
そして顔が真っ赤で狸寝入りがすぐバレる。
彼女は隣で一緒に横になって寝顔を覗き込む。
「はぁい」
にっこり笑ったその顔がまるで瞼が閉じるように近づいて、微睡むような柔らかな接吻。
後日、彼女は自分の家に戻った。
部屋の荷物を取りに、あと、またしおれかけていた植木鉢も。
18/01/30 21:47更新 / 雑食ハイエナ