読切小説
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まわして。そして、ふってきて、
 いつものように、
 今年もまたいつものように、蒸して来たのだと思った。

 梅雨を控えた夏至の頃である。この頃にもなると、仕事を終えてもまだ外は明るかった。
 その空の色は本来の藍色に、傾いていく陽が刻々と茜色へと変化させながら色を生んでいる。この季節の空気中を漂う湿り気を無数のプリズムにして、それらは混ざり合いながら色を飽和させている頃だろう。そんな空を、湿った厚い鉛色の雲の塊が覆っている。厚い磨りガラス越しのような、薄明るい、薄暗くもあるそんな、その日も梅雨前のそんないつもの夕刻だった。

 いつものように寄り道をして行く。
 その日は、いつもではない事が一つだけあった。
 ポケットの中に運試し用の三百円があった。
 それで宝くじでも買うつもりだった。
 だが気が変わった。
「最近のガチャガチャは三百円もするのか」

 昔は三十円くらいだったはずだ。いや二十円だったか。
 ダイキャストの受け口に十円玉をセットする時のドキドキ感を今でも憶えている。ハンドルを回してそこをスライドさせて、十円玉が化けてカプセルになって降って来た時の一喜一憂は、子供心にそれは運命そのものだった。
 そしてそれがデラックス版として百円のものが一つ二つ混じってくるのを見て、駄菓子屋の隣に高級百貨店ができたように子供心にも思ったのを覚えている。

 ポケットの三百円を握っていた。
「ガキじゃああるまいし」と、それは分かっているんだと言い訳しながらも、これはあの高級百貨店の更に三倍も高級なのだから、大人の俺にこそ回す資格があるのだと、餌付けされた習性のまま、子供の頃のままに握った三百円を入れてハンドルを回した。

 運試しには宝くじもガチャガチャも変わりなかった筈だ。
 どんな運命が分かる物であるかは疑問ではあるが、当たらなければ何も残らない宝くじよりは、外れても何かが手に入るガチャガチャの方が運試しとしてならまだ良心的なのだろう。自分でやっていて何が当たりで何が外れかは分かっていないが、アタリなんてそう滅多に落ちてくる事が無かったガチャガチャなんてものは、まぁそんなものだ。
 ハンドルの回り切る感触を期待して待つ様に何度か手首を回していき、軽く引っかかる感触とカポンという音がして、昔より大き目なクリアカラーのカプセルがハンドル下のポケットの中に降って来た。
 俺の運命は稲荷らしい。

 カプセルの中身は缶バッジだった。
 魔物娘のイラストが描かれたそれは、魔王軍のサバトあたりがバラ播いている、そんなよくある玩具なのだろう。
 狐娘のイラストにローマ字で「Inari」と書いてある。
 それを見て、ここから駅に戻る途中にも稲荷神社があった事を思い出していた。
 記憶違いかもしれないが、でも、無ければ無かったでそれで良い。
 そんな程度に、駅への帰り道を歩き始めた。

 大きな通りに出て、次に駅に向かって左折するT通一丁目交差点の信号を見て歩く。
 交差点名称を掲げた三色橙の向こうに見えた東の空は相変わらず曇りだった。
 でも今は低く垂れ込めた雲が近かった。その分、合わせ目は広がって見えて、今日は空の色が大きく見えていた。

 この季節の空は湿気のレンズのせいか夕刻の色が濃い。
 雲の隙間から垣間見える東の空は、藍色から鮮やかな天色だった。
 西を見れば夕陽の茜色から紅緋色で、そこからやや光が失せて行きながら今様色や牡丹になって、雲の合間の向こうで東西で混じり合った頭上辺りで薄い菜の花色や蒲公英色になっていた。
 それはまるで、ガチャガチャのカプセルの詰まったタンクのような空だった。
 そうそう、そんなアタリなんか拝んだ事の無いアタリ見本の貼付けてある、大多数がその見本から懸け離れたよく分からない色取り取りの代物が詰まったアレだ。
 そんな今にも色が降って来そうな空を、色の抜け落ちた雲の塊が、どんどんとどこからか沸いてきて覆って行っていた。
 蓋をされたこの季節らしい息苦しさも感じた。
 手を伸ばせば、その雲を払う事もできるような錯覚をいつも覚える。
 その手で少しだけネクタイを弛めた。
 そして交差点を左に曲がってすぐ、記憶にあった稲荷神社があった。

 見落としそうになる位に似つかわしく無い、古い公園や個人宅にあるような灰色のペンキで塗られた金属製の格子柵に神社は囲われていた。家の勝手口に備え付けてあるような門扉を押して境内に入ると、一回り大きな雨除けに収まった社が並んでいる。

 その前に立って、柏手を打つ。
 特に何を願った訳でもなかった。
 そのせいか、何も起きる事は無かった。

「ん……まぁ」
 そんな、ものか……。
 そんなものだ。
 自分に言い聞かせる様に独り言を呟いていた。
 稲荷神社に行ったら狐の魔物の稲荷と出会って、自分の何かしらが変わってしまう、とか、
 そんなふうに、運命とやらが分かり易ければ、こちらもやり易くてもう少し楽なんだろうが……。
 例え運命なんて物があったのだとしても、そんなふうに、自分に都合良く、解り易いものでは無い事くらい、背広が肩に馴染むくらいには弁えていた、つもりだ。
 そして本当に運命とかきっかけと言う奴は、あれはまず、こっちが待ち構えた通りに望んだままに顕われる事は無くて、実際にはそれが何なのかがまず自分には見当が付かないもので、そんなものがある日突然降って来て、訳も分からないままに選択を迫ってくるものだ。
 そうなったら本当にいつも、どうしたら良いのか……「いつもよく分からない」
 また独り言を呟いている事に気付いて我に返った。
 ぽつんと、雨粒が頭を叩いた。

 見上げると雲の合間から、空の色が落ちてくるのが見て取れた。
 小さなガチャガチャのカプセルのような色取り取りの雨粒は、透明できらきらとしながら、まるで運命のように往来の人々の頭上に落ちていく様にも見えた。
 自分に落ちて来たカプセルを思い出す。
 そしてもう一度空を仰いでいた。

 今、降って来るそれは、厚い雲から差し込んだ、蒸し暑い夕方特有の鮮やかすぎる空の光を乱反射させた水滴だ。
 そして稲荷は、人の精を啜って生きる人外の魔物だ。
 その為に人を誘惑してくる、そう言う類のものだ。
「魔物たちがバラまく玩具に金を落として、俺は何を期待しているんだか」
 そう、誰かに聞いて欲しいかの様に、また独り言で言い切ってみせていた。
 取り敢えず、そんな俺でも分かる運命という奴は、どうやら俺の居るこの地方が梅雨入りしたらしいという事だ。
 そして傘は無い。

 ノイズのような雨音が地下道への階段を一緒に降りて行く。
 地下鉄の電光掲示が、梅雨入りのニュースを表示していた。
 もう降り出しているそれに既に肩が少し濡らされている。

 定期券の額面通りであるなら、地下鉄一号線を二駅乗って市の中心部のS駅まで行き、そこで二号線に乗り換えてC坂の駅で降りる事になっている。
 そこから家までは自転車だ。
 だが、外は雨だ。
 自転車は駅の駐輪場に置いておくとして、そこからはバスにしようか。問題なのが地下鉄の駅から乗るべき基幹バスの停留所は、随分と駅から離れた所にある事だ。
 だがその基幹バスは乗り換えのS駅のバスターミナルが始発なのを思い出していた。
 中心街のここなら、地下街を通って濡れずにバスには乗れるだろう。
 そこからはまた考えれば良い。

 使い慣れないバスターミナルから、近所で見慣れたバスに乗った。
 それが妙に不思議な感覚だった。
 バスは屋上庭園の天蓋を抜けて雨の繁華街を走り出した。そしてさっそく渋滞に捕まる。
 レコードの針が盤の上の埃を拾うような音がバス窓を叩いていた。
 のろのろと走るその窓ガラスには、あっと言う間に雨粒に覆われる。
 そのレンズが、繁華街のネオンやLEDの光彩を映して、外の風景が歪めながら彩っていた。
 さっきの、夕刻の雨を思い出す。

 何か変化を求めているのか。
 だがこれと言った具体的なイメージがある訳でない。
 同じ家路につくにしろ、たまにこんなふうに気紛れに違う道を使っている。理由を付けて、見慣れない光景を密かに楽しんでいる。
 市バスにしては長い距離を走る路線のクロスシートは、ブランデーケーキのような落ち着いた色合いのしっとりとした厚めのクッションだった。
 いつもは地下鉄の若葉色のたまに柔らかいものがある硬めのロングシートからトンネルの暗がりばかり見ているのに飽きているのだろうか。
 どこかで何かをそう望んでいたのだとしても、でもそれ自体が何なのか俺には分からない。
 だからあの稲荷神社で俺は、特に何を願った訳でもなく、願える筈もなく、ただ何となく漠然とした何かを願ったのだ。

 降車した停留所シェルターで雨宿りをして、信号が変わると小走りで横断歩道を渡る。
 雨を避けながら、スーパーとその立体駐車場を抜けて、そこからは濡れて行く。
 しとしとと、背広の上着を湿らせながら足早に橋を渡っていった。

 雨に当たるのは楽しい。その雨を避けるのも。
 後だしジャンケンの梅雨入り発表と、しれっと雨マークに変更されていた本日の天気予報でなければこんな羽目にはならず、まず雨に濡れようなんて思わない。雨に濡れて楽しむなんて普段なら酔狂だと笑って避けただろう。
 だが物には限度がある。
 次第に雨粒が大きくなり、その塊が大き過ぎて冷えずにまだ生暖かいままで俺に降り注いで来る。その生暖かさが自分の体温を一緒に連れて、服や肌を伝って地面に流れて行くのをありありと感じるほどの大粒の雨だった。
 ざぁざぁと鳴り響き始め、俺はマンションのエントランスへと駆け込んでいた。
 後悔して、エレベーターの中でさっきまでそれを楽しんだ自分に軽く悪態を付いた。
 エレベーターを七階で降りると共用通路の先に俺の家がある。

 ずぶ濡れに成り損なった以外は日常の、全くもって何の変哲無い普段の我が家の玄関だ。
 ここが変わりないから、悪態を付くような事すら楽しめる。
 そして家に帰って暫くして、インターホンが鳴った。

 丁度その時、俺は家のタオルを総動員して濡れた上着をどうにかした所だった。
 ワイシャツはまだ湿る程度だ。でも襟首から濡れているのは違いなく、冷たくはなってきていた。
 体温を奪って蒸発したもので部屋が少し汗臭くなっていた。
 張り付いて来る不快感に負けて、そのボタン二つか三つ分くらい襟を開けて左手でタオルをその中に突っ込んで拭っていた。
 それよりも、大きな水玉模様になっているズボンを早くなんとかしなくてはならない。
 そこに呼び鈴が鳴ったのだ。
 ズボンをどうにかするか決めかねて、まさかパンツ姿で来客の応対をする訳にも行かず、結局どうもせずにインターホンに向かった。
「どちら様で?」
 我が家のインターフォンは音声の往来しかできないタイプだった。
 スクリーンの無い受話器に、相手の顔色を伺うなんて事はできない。
 だからタイミングが悪かったのか、少し待たせて意表を突いてしまったのか、躊躇うような間があってから、「あの……、よろしければ」とやっと向こうから声がした。
 女性の声だった。
 雨音に掻き消されず、良く体に染み込んで来る綺麗な声だった。
 また少し間があって、声はこう言った。
「雨宿りをさせていただけませんか?」

 雨宿りと言う言葉が、奇妙に聞こえた。
 今時、他人の家まで雨宿りをしにくる人間が普通に居るのだろうか。それに相手は女性なのだ。ここが七階である事も余計に不自然に感じた。
 だから玄関まで行って、ドアスコープを覗きに行ったのは好奇心からだった。
 見て、心臓が一度高鳴った。

 覗き窓の向こうから心を鷲掴みにされる様だった。美貌が、魚眼レンズの向こうから覗き込む俺を、逆にこちらを瞳の中まで覗き込んでいるようだった。
 まるでこちらが見えているような金色の目に捕らえられていた。
 雨に濡れた和服の美人がそこに立っていた。
 一目惚れだった。
 そして不思議な事に、見た瞬間に一目惚れしてもう何年も経つ様に、俺は彼女をよく知っている様に錯覚していた。
 濡れそぼった和服がまるで肌を吸う様に肉体の線を露にしていた。
 うなじを晒す襟が重く垂れて、そこから見える白い肌は見る者に自分の中を弄らせるように透き通っていた。
 濡れた肌の、ざらりとした感触が目に見えて思い出す様に感じられていた。
 水に濡れて透き通るように思い浮かべられる裸体を、まるで毎夜肌を合わせたくらい体の隅々まで知り合った仲の相手を見る様に、俺は彼女を見ていた。
 そして今夜もそうなるのだと何処かでそれを夢想していた。
 見返すその瞳も、まるで俺を知っているかの様に俺を見ていた。
 そしてその瞳に魅入られる事に俺はまた感じていた。

 口から吐いた湿った息で、その彼女の姿が白く曇って霞んで行った。
 曇って行く目の前のレンズに、俺たちの間に扉がある事を思い出した。
 濡れたシャツが俄に冷たかった。
 彼女はもっと濡れていた。
 腕が彼女の冷たい体を抱きたがっていた。
 鍵のキーに手が触れていた。
 触れられたサムターンの内部の噛み合わせが微かに鳴った。
 その微かな音に彼女は震えて、狐色の獣毛に含まれた耳が雨だれを払った。
 俺は既で指を止めた。

 耳から跳ね落ちた雨だれが、コンクリートを穿つ音を聞いた。
 もう一度ドアスコープを覗き込んだ。
 レンズの曇りは晴れていた。
 雨に濡れそぼった髪の上に狐の耳があった。
 隠す気もないそれは、水を吸って重そうに垂れていて、それが生きている事を証明する様に、震えて、跳ねた。その雨だれの音を確かにまた聞いていた。
 彼女が魔物である事は明らかだった。

「稲荷、だ……」
 その声を押し殺した。
 狐の魔物だ。
 あれは人の精を喰らう、人ではない存在だ。
 彼女はまさにその魔物の稲荷だ。
 それが玄関の戸を隔ててすぐ向こうに居た。

 目の前の稲荷は、巫女姿ではないのだから、神社に祀られているような稲荷ではないのだろう。
 それが正しいか正しく無いかは別として、つまり彼女ははそういう類の者だ、と。
 俺はそう思った。
 どちらも魔物であるのには変らないのに、そう思おうとしていた。

 彼女は外で待っていた。
 雨に濡れて肺の中まで冷たくなった吐息が当たって、プレスの金属ドアを微かに、本当に微かに震わせていた。
 俺の耳はそれをこぼすまいと必死に拾っていた、拾おうとしていた。
 彼女の事を隅々まで、その体温まで知っている様に錯覚した俺の体が、その雨に濡れて冷たくなった彼女の体を抱きたがっていた。
 自分が欲情しているのを自覚していた。
 つまり扉を隔てて向き合っている彼女はそういうものなのだ。

 魔物は、人と体を交わらせて、人の精を喰らう、人ではない者だ。人ではないのだ、あんな姿をしていても。人間の捕食者、例えその補食行動が対象の生命を奪うものでも無いのだとしても、種族として人間を食うと言う、ただそれだけで決定的に人間とは異なると、同じである事を否定している存在なのだ。

 なのに彼女らは人間を愛そうとする。人間だって食い物に対する愛情はある。だがそれとは違って彼女らの愛情は、人が人を愛する様に、人間の男を生涯の伴侶のように愛そうとする。キスをして、抱き合って、そしてセックスをしてその果てに 人間との子を身籠ろうとする。

 だがその腹から出てくるのは、魔物の子なのだ。
 そういう意味ではやはり、彼女らは捕食者なのだ。

 戸を開ければ、自分もそうなる。
 彼女は俺を食べ、まぐわって、俺は魔物の種になる。
 いや、そうならないかもしれない。

 彼女をもう一度見た。

 本当に綺麗な人だ。
 だがそれは魔物なのだ。
 寒さに震えて切なく喉を鳴らしても、それは……人ではない。
 人ではない事がそんなに重要だろうか。
 彼女らには雄がいない。
 だから切なく異性である人間の男を求めて来る。
 その為に人の男を愛そうとする。
 今レンズの向こうから俺を誘惑しているその美しさも、人間の男の為なのである。
 たぶん彼女も。
 俺を求めて扉を隔てて目の前に居る……いや俺を求めてではない。だが、誰かを求めて彼女は、俺の家の玄関の前に確かに立っていた。

 あるいは俺は今、運命の出会いをしているのかもしれない。
 この人と愛し合って、そして家庭を築いて……そういう運命と出会っているのかもしれない。またあるいは、やはり魔物がそう思わせているのかもしれない。
 そんな事を考え始めている自分に愕然した。
 いや、人であったのだとしても……。
 俺は彼女に一目惚れてしている。
 だがそれは、一時の感情かもしれない。一目惚れなど一時の感情の代表格だ。それにそれは、魔物の魅了の結果なのかもしれない。

 戸を開く、あるいは戸を開かなかった、どちらが正しいのか俺には分からなかった。
 でも戸を開かず、無かった事にすれば、少なくとも今のままが続く。

 魔物に家の戸を開ける意味を考えていた。
 魔物は、人間の精を喰らう人外だ。
 例えそれが神社に祀られている稲荷様であっても、彼女らは稲荷と言う魔物なのだ。
 そして精と共に人の種を搾り、その種で自分の腹に魔物である我が娘を身籠らせる番として無条件で生涯愛情を注ぐ伴侶を求めて来る。

 運命が目の前にあった。
 美しい異性の姿の魔物。
 人ではない者にここで戸を開けてしまえば、少なくとも俺は変わってしまうだろう。
 だが俺は、それで何が変わるのか、唐突に現れた彼女が魔物と言う事以外はそれが何なのか分からずにいる。どうすべきか、本当にいつもこんなふうに分からないでいる。
 これが正しい運命なのかも分からない。戸を開く、あるいは戸を開かなかった、どちらが正しいのか俺には分からないし、分かる材料は無い。いつだってそうだ。でも戸を開かずに無かった事にすれば、少なくとも今のままが続く。
 ずっと……。
 何かの運命にかこつけた変化を何処かで渇望していたのだとしてもそれは、いつもが続く事が前提の贅沢だ。
 あとで乾かせば良い雨に濡れる事も、始めはいつもと違う道を走るが結局は知った停留場で降りるバスも、後に変わらぬ所に戻って来れると分かり切っていたからこそできる、普段に飽きぬ為の、それは娯楽なのだ。

 だから俺は、魅了を無効にするお呪いを口にする。
 彼女に対して息をひそめて、玄関のドアから下がろうとする。
 無かった事にして、いつものように日常の普段に戻ろうとする。
 運試し紙切れの代わりに手に入れた、運試しのつもりのカプセルの中身を思い出していた。

 が、……とん。

 俺は鍵のノブを握り直して、ガチャガチャのハンドルの様にそれを回していた。
 躊躇いながらも、だが傾けてしまって落ちるままに落ちた鍵の金属音に、ざわっ、と、外で獣の毛が震える気配がした。
 鍵が開いた。

 ドアを開けると、ただ雨が空気をすり抜ける音だけが聞こえた。水玉が地面を叩く雨音はこの階までは余り届かない。霧の様にぼんやりとした気配くらいにしか感じない。それさえも、彼女の背中と視界を覆う八尾の尾っぽたちに遮られて隠れてしまっている。
 狐の魔物が、そこでじっと待っていた。
 俺は、部屋の奥へと開き切った扉の後ろに立っていた。稲荷は何かを弁える様にしてその玄関の敷居を挟んで少し下がって離れた所に立っていた。
 俺たちは暫く黙っていた。
 開けてはみたものの、なんと言ったら良いのか、と。
 互いにそんな事を思っているようだった。
「あ……」
 雨水を含んで重く垂れていた狐毛の耳の先から、大きな雨だれがまた滴り落ちてコンクリートの床に落ちた。
 妙に大きな音に聞こえた。
 弾かれる様に思わず声がでていた。
「あまやどり……?」
 ようやくの事で、インターホンでの彼女の言葉を反芻して尋ねるのがやっとだった。
「ええ……ええ、そうです」
 少しぎこちなく稲荷は応えた。
「……七階、まで? 雨宿りに?」
 少し、意地悪を言ったような気がした。
「途中の階の方々はお留守だったようですので、私ったらムキになってこんな所まで」
 そこまで言うと自分で言っていて可笑しくなったのか、笑い始めた。
 襟の合わせ目から垣間見える彼女の肌は、濡れた水色を吸った様に青かった。

 手を、彼女へと伸ばしていた。
 その手に引かれている様に、俺の足の平が、ひたり、ひたりと、彼女に向かって湿った足音を立てた。
 稲荷もまた、やはり雨に舐められた足を、ひたり、ひたり、と床に吸わせて音を立てて俺に歩み寄った近づいて、玄関の敷居を跨いた。
 狐の尾っぽたちが、ぬるりぬるりと、稲荷も歩み出す度に揺れた。
 彼女は面を、正面から見つめるのを避ける様に少し傾げた。それで彼女の耳が垂れた。
 そこから雨だれが俺へと落ちた。
 余りにも間近に彼女がいた。
 彼女は冷たかった。
「こぉん……」
 胸に頬を押し宛てられて、恋しく啼かれた。
 俺は彼女の冷たさを吸う様に、片腕だけで抱き締めていた。

 指で雨粒を払うふりをしてその頬に触れた。
 冷たさが俺の体温を吸って、触れた指が彼女の頬に吸い付いた。
 掌が触れてしまうのが怖くて、指先だけで頬を掻くようにしていた。
 でも彼女はその手をとって、自分の肌に押し宛てた。
 氷を蕩かす様に頬を、俺の手に擦る。
 俺が触れた彼女の頬は、本当に冷たかった。
 彼女は、自分に向けられた掌の中に収める様に、自分の頬を寄せて包んだ。
 そうして欲しいと、何度も頬を擦りそれで俺は、彼女をその片腕で抱いていた。
 じんわりとシャツ越しに、彼女に染み込んだ冷たさが伝わって来ていた。
 もう一本の腕で重ねて稲荷の彼女を抱いた。
 そういうやり取りをして、俺たちはこれから自分たちのする事を決めていた。

 軽くシャツを食んでいた唇が離れた。
 俺は稲荷を、自分の部屋へと招き入れていた。

 濡れそぼった足音が、フローリングの上に湿った足跡を残して奥へと入って行った。
 自分の横で馬鹿みたいに開き切ったままにまっている玄関ドアのノブに手を伸ばす。
 ドアクローザーのダンパーに抑えられ、緩慢で、もどかしく、ゆっくりと閉まっていくドアを待つ風を装って、俺は玄関に留まっていた。 

 そのドアの向こうに共用通路と、その先にエレベーターの扉が見える。
 まだあそこは日常だ。

 すれ違う彼女のうなじを見ていた。
 襟元から濡れて水玉を浮かべた白い肌が見えた。
 そこから、雨水に混じった僅かに温められた女の肌の良い匂いがした。
 そしてそれに、さっき抱きとめた俺の匂いが混じっていた。
 それがどうしようもなく愛おしく感じていた。

 結局俺は何もせず、ドアが閉まるのを、ただ待っていただけだった。
 キーを回し、鍵を落とした。
 その瞬間、背後から吐息が聞こえた。

「ああ……」
 重みから開放された声が背筋を撫でた。
 背筋を触られて、俺は振り向いていた。
 ちょうど、彼女の肩がはだけた所だった。
 未だ絡まったいたものが肌を舐め落ちていってまた音を立てた。
 解けて行く腰の帯はまるで太い蛇の様で、それは水を吸って腹を丸く膨らませて重く垂れた。その重みに耐えかねて、腿を舐めながら這い回り、弛んだ衽の中に潜り込んでいく。その中に隠れた女の窪みの中で溜まって淀んで、膨らんだ滴りになって足元に垂れ落ちて行った。
 震える声がした。
 帯と言う縛めを解かれた着物は、水気の重みに任せて彼女からはだけていった。
 白い肩が露になり、濡れて開けかけていた襟から垣間見えた全てが曝け出された。雨に流れてしまった血の気の失せた白い肌のその上に、彼女の体温を吸った雨粒が無数に散りばめられていた。それが肌を舐めながら腰の括れへと流れ落ち始める。
 髪の重さからか、僅かに喉をそらした胸の上で桜色の乳首が呼吸する様に揺れていた。
 濡れた着物のその中で体温を奪って蒸れていた肌からの匂いが部屋に、むわっと、広がって、湿気がその色に染まって行くのを、咽せるほどにそれを感じた。
 恥部から臍の窪み、胸の谷間を、何かが立ち上るのが見えるようだった。
 そしてこれから自分たちがする事を暗示しているようだった。
 それらを魅入ってしまっている俺の眼の底を、また稲荷のあの金色の目が見入っていた。
「寒いわ……」
 彼女は、すっかり裸体になっていた。
 声は聞こえていたのだろうか。
 まるで見詰める瞳で囁きかけるようだった。

 俺は彼女へと歩み寄った。
 この魔物と……。
 そう見詰め返しているその先で、稲荷の唇も微かに動いていた。
 この人、と……。
 そう聞いてしまったような気がした。
「わたくしを部屋に入れてくださったからには、私を温めてくださるのでしょう?」

 掌に包んだ小さな肩は、紅玉と緑青の血管が乳白色の肌から透けて、まるでガラスのようだった。

「ああ……っ」
 俺はその冷たい肌を炙る様に彼女を抱き締めた。
 稲荷は大きく息を吸う様に胸を反らした。「ああ、ほんとうに、あたたかい」
 彼女の中に俺の体温が染み込んで行く。
 腕の中の乳房が広がって、乳輪が華開いた。
 稲荷は、俺を味わう様に肌を擦って、そして柔らかな獲物を食む様に、彼女もまた俺を抱いた。
 一度華開いたものを再び閉じる様に胸をあわせた。
 肌の熱さを胸に受けて、彼女は、びくん、と体を震わせた。力が抜けて行く様に項垂れると、中途半端に開けられたシャツの襟の合間から、鼻を男の肌に埋めた。
「あなたも濡れて……る」
 俺は自分も濡れている事を思い出した。
 肌と肌の間で脱がずにいたシャツが蒸れていた。
「素敵。精の匂い。男臭い……」
 男の汗の匂いが、雨に湿ったままにしていたシャツから匂い立っていた。
 震えた針の様に冷たくなった彼女の指が胸に触れた。
 なぞっていた指先の狐の爪が、ワイシャツの小さなボタンを弾いて、前を開けられて行く。
 ベルトの金具が鳴って、ズボンのホックが外れて、チャックが鈍い音を立てて下ろされた。
 濡れたパンツにあの細い指が差し込まれると、湿って肌に張り付いたそれをゆっくりと剥ぎ取られて行った。
 彼女言う、匂いがした。
 されるままにして。
 彼女の様に俺も裸体とされて、そして押し倒された。
 彼女は仰向けにしたその上に寝そべった。

 そうしてしまってから、彼女は自分の行為を恥じらった。
 それでも僅かに躊躇って、続けて唇を重ねて来る。
 甘い感触に、それを今度は、俺が躊躇った。
 胸がまた一度高鳴って、
「貴女は、帰りにお参りした神社の稲荷さん?」
「いいえ」
「じゃあ、他所の何処かで出会ってた?」
 そうされる理由を求めた。
「いいえ」
 聞けば、近所にある名前だけは聞いた事のある大きなお稲荷さんの関係でもなかった。
 でもこの近くに住んでいるから、何処かで知らずにすれ違ってはいたかもしれませんね、とは注釈が入る。
 そして尚こう答える。「おそらく初めてですよ」

 全くの偶然なのだ。
 彼女が雨宿りをしたのも、自分だけが戸を開けたのも。
「私、あなたが戸を開けてくれたのが嬉しくて、だからあなたを……」
 あなたを、と、震えた唇の先が、俺の唇を引っ掛けた。
 そして重ねた。
 互いの胸郭が呼吸する度に押し合っていた。俺が大きく息を吸うと押す様に、その上の彼女の胸郭が膨らんだ。
 互いに雨に湿った肌は、歯牙をかける様に相手の肌に引っかかった。
 俺の上に寝そべった稲荷は、身をくねらせて露にし合った肌で直接俺を貪った
 身じろぎしようとすると、彼女の湿った長い髪が床に張り付いて、俺たちを縛っていた。
 上に寝そべっていた彼女から、肋を透かして冷たさが胸の中に降って来る。
 心臓が締め付けられる様に痛い。
 冷たくて苦しい。
 もがく中で掴んだ手首は、骨の芯まで冷たかった。
 稲荷が、肌を深く寄せて来る。
「あなたを……」
 それなのに、彼女の言葉を、外の雨音が掻き消すようだった。

 なんとなく……、
 稲荷が言葉を詰まらす理由は、なんとなく分かった。分かるような気がする。
 今日の、夕刻からの事を思い出す。
 彼女は、自分に似ているのだと思った。

「あ……」
 温む水からのぼる幽かな湯気のような声を彼女が漏らした。
 その声に俺はまた、稲荷を抱き直して彼女の冷たさを溶かす様に温めていた。

 言いようの無い感情と、それで何かしなくてはならないと言う想いと、そして何をしたら良いのか分からず、それの代償行為として彼女を抱き締めていた。
 俺は自分の体温を彼女に食わせていた。
 俺たちはただ、黙って暫くそうやって、抱き合ったままで二人で、外の雨の音と互いの呼吸を聞いていた。

 ベランダの金属製の手摺を、金管のように鳴らす雨だれの音を聞いていた。
 俺の上に寝そべった稲荷は、その音にたまに狐の耳を跳ねさせていた。そして俺の体の中に潜り込みたがる様に身じろいだ。
 毛布でも取って来ようかと思ったが、稲荷は俺の上らか離れたがろうとはせず動こうとしなかった。俺の腕だけでは包み切れない彼女の肌の上には、季節外れの薄い霜のように鳥肌が浮いていた。それを払うかの様に俺の腕は、何度か彼女を抱き直していた。
 頬を胸に預けられて、温んで来た吐息が胸の上に零れていた。
 その喉が震えた。
「ありがとうございます」
 不意に稲荷はそう言った。
 自然と出たその言葉を口にして彼女は、何かに気付いたようだった。
 顔を俺の肌に埋める。
 くぅん、と鼻を鳴らした。
「あなたの匂い……男の人……私ではない温もり」
 広げた細い指の間で、俺の背中を弄る。
「ありがとう」
 もう一度言う。
 まるで宝物を見つけた様に、嬉しそうに尾っぽたちを震わせる。
 今度は躊躇わず唇を重ねてくる。
「本当に、ありがとう……」
 そう理由を口にした唇をまた重ねた。「ほんとうに……」
 くちゅっ……ちゅぱ………。
 押し宛てて来る、音を立てた。
「……ん、はぁ」
 そして答える度、蕩かす様に耳を垂れさせて、しゃぶる様な接吻を降らせ続ける。
 顔を寄せて、押し付けられる乳房。匂い立つ乳臭さが俺の鼻と口の中にも広がった。
 女臭かった。
 雨に濡れた肌を擦り合い、互いの体温で蒸れた二つの性の匂いが混ざり合っていた。
 それを嗅いで自分たちが何をしているのか、否応無く自覚して行っていた。
 空気が、匂いがもっと混ざり合って行く。
「あなたを……」
 稲荷は、それでも言葉にできぬもどかしさからまた唇を重ね、声にできぬ舌を直接俺の口の中に入れて俺の舌に絡めてそれを伝えようとした。
 俺たちの間で濡れて滑った音が続いていた。

 雨の様に降り注いでくる接吻の形を借りた気持ちに、手や足の指先が震えた。
 流されて落ちて行くのを感じて、足の筋が踏み留まろうとして何処かに突っ張った。
 ただ足の平は、寝そべっていて宙に浮いていて、ただただ落下感だけが続いてじたばたともがいた。
 何かにもがく俺の手の跡が、彼女の肌に押し宛てられて跡を残していく。
 斜面を転げ落ちる様に。踏み留まらねば、自分の何もかもが変わってしまう事を承知で、踏み留まれないでいる。
 寝そべっているのを忘れて、いつまでも床に足の着かない錯覚に延々と滑落して行くように感じて足元を見た。
 合わさった腰を擦り合わせて、その下半身が自分の下半身と重なり合っているのを見た。

 仰向けになっている腰から擡げた男性器が自分の重みで垂れて鉛の様に感じている。肌を寄せた彼女が息をする度に揺れて、更に重く固く熱くなって行くのを感じていた。 
「あっ……」
 稲荷が啼いた。
 もがいていた片足の膝が、彼女の股の中へと潜り込んでいた。
 俺はその感触を確かめていた。
 腿の付け根が、秘所が当たっていた。
 冷たい恥骨の膨らみの上に、薄らと熱い筋が感じていた。
 彼女は背を震わせて、上半身を反らした。
 肌が離れた途端、切なく啼いた。 
「シて……」
 寒さに震えた声で彼女は、雨宿りに転がり込んだ男の体温がまだ残る乳房を、その俺に触れさせた。俺のその手を握った自分の手で、俺の手の上からそれも揉みしだいた。
「あなたにしてほしいの、抱いて、私をもっと温めて」
 間に挟んだ俺の手で、自分の乳房をぎゅっと握らせた。
 俺の掌の体温に炙られて乳房が匂った。熱さに触れた冷たい肌は鳥肌の立てて、ざらざらと、男のやや粗野な肌を引っ掻いた。それを揉みしだき、ほぐれていくその奥から、少しずつ、彼女の体温が染み出して来る。それが握った掌の中で混ざり合って行く。
 乳房の中で二人の体温を混ぜ合わせて行く。
 混ざり合った体温が掌からじんじんと腕を伝わって来る、そして匂い。

 女の匂いに混じって、男臭いものが強く匂った。
 股間の男性器が、熱く固く反り返っていた。強く匂う股間と女臭さとが混じったものを嗅いで、腹の底から迫り上がってくるものに溺れるような息苦しさに喉を詰まらせた。
 彼女の冷たい指が熱いその部分に触れて、稲荷も自分のその部分に俺の指を触れさせた。

 俺は震えが抑えられない身体を起こした。
 稲荷は寝そべっていた俺の上から退いて、俺の傍らに横になった。
 俺は彼女の両膝に手をやって、股を開かせた。
 稲荷は、触れていた指でその熱く硬くなった男の生殖器をを握って、自分の中へと導いていく。
 その中に潜り込む。
 稲荷が声を上げた。
「あっ……ああ……んっ、アアッ!」
 熱い異物を捻り込まれて身を捩って叫ぶ稲荷の中に、俺は自分を沈めていた。
 相手の首筋を愛撫し合う口元が息を荒げる。
 大きく何度か息を吐いた。
「あっ……さっきまで……」躊躇っていた事を微かに笑われる。
 魔物に戸を開けた意味を考えていた。
 開ける意味ではなく、開けた意味だ。
「いつも……」と、俺はそう呟きかけて、やめた。
「むっつりな、ひと……」
「おたがい、さまだ」
 迎える様に俺の背中に回された手が、大きく震えて床に落ちた。
「あっ」
 押し広げる。
 稲荷は床に爪を立てた。
「雄々しい……ああ……太ぃ……アア……」
 腰を揉み合わし、首を揺らした。
「アアアアァァァァァァァ………」
 一瞬、女の喘ぎ声が雨の音を追いやった。
 その雨の音を、狐の尾っぽが床や肌を乱暴に擦る音が掻き消していた。
 腕の中で彼女は体を大きく仰け反らせていた。
 圧されて迫り上がった恥部に、俺は膝を立て倒れこむ。片手が、彼女の肩を握りしめた。男性器を宛てがって女性器の柔らかなものが溶けて、それが形を歪めるのを感じながら、ぐっと押し込んだ。
「ああん! ……あ」
 奥底に届いて、その体を揉みしだく。
 結合した相手を確かめる。
 性器を重ね合わした人がこの人だと、繋がれてただ一人にしか届かないその肌を互いに触って確かめていた。
 震える喉に唇を這わせ、俺の腕の中で仰け反らせた稲荷の胸に顔を埋めた。
 まるで母乳が噴き出しているような乳臭い匂いが噴き出した。つん、と乳首を固くして、胸の上に玉のような汗が浮かび上がる。
 それを舐めて肌の上を舌を這わす。
 俺は腰を振った。

 雨が激しく降っていた。
 雨音がずっと、ずっと、続いていた。
「あ……っ、ん……、ん……あっ……てあっ、あっ……あん……」
 俺はその上らか熱い汗を稲荷に降らせていた。
 腰を揺らされて、彼女の肩から狐色の髪が流れ落ちていく。

 腹の底に突き込まれる熱さに潤ませ視線が何かを探していた。

「はぁ…、はぁん……、はぁ」

 見つけられて、首筋を噛まれる。

「くぅ、んン……っ、あっ、ああっ……いい、良いっ……!」
 固く結んで 鼻息荒く、
「ああ……、熱ぃ……、ん、……あぁン!」
 喘ぎ開いた唇を重ねて舌を絡め合う。
「温かい、熱いっ……あ……もっと……もっとぉっ!」
 その肌を愛撫する。
 雨に濡れた彼女の肌の冷たさは、彼女自身でも、ましてや俺の温度ではなかった。
 彼女の肌の上の雨だれの跡は、まるで蛇が這い回ったようだった。ゆっくりと、うねりながら彼女の肌をなぞり、舐めて、冷たい腹を押し付けて彼女を奪っていた。
 恥部の奥にまで潜り込んだように染み込んで、生暖かい中に冷たさを孕ませていた。
 俺は、嫉妬に駆られた。

「あっ…、はっ、はっ、はっ、はっ、はっぁっ! 激しいっ…熱ぃ、灼かれるてる……っ……あっ、あアッ!」

 俺は彼女に火照らす肌を擦り付ける。
 背中に狐の爪が食い込んだ。

「あっ……」

 稲荷の指が、男の震えを感じ取っていた。
 きゅっと細い腕に強く抱き締められて、糸が切れた様にその中に崩れた。
 身を起して抱擁し合って、相手をしゃぶり合った。
 それからまた腰を振る。

 ずっ……ずちゅっ……ずっ、ずるりゅっ、ずっ……ず……。
 湿り合った肉が潜り込んで泡立って音を立てていた。
 肉棒の腹に絡まった先走った精液が、擦れるほどに女の下の口の回りを汚していった。
「いい……」

「もっと……」

「ん……っ、……っ、……っ」
「あっ…、あっ…、あっ…」

 ぐもった男の息と、小さな女の切な気な声とともに、
 ぼぉ、ぼぉ……と  
 音と声がする度に、狐火のようなものが部屋の宙を瞬いていた。
 窓にかかったレースのカーテンを透かしてガラスに陰を落として、その向こうに落ちる雨粒を照らした。
 それは喘いで荒く吐き出される男女の吐息にすぐ吹き消された。
 自分の腹の中に入ってくるものを確かめる様に、女の尾っぽが男の背中を次々に撫で回していた。ぐっ、ぐっ、と突き込んでははち切れるように膨らんでは固くなる腰や尻から脚の筋肉を縛っているものが男の肌にめり込む。
 その度にまた宙が、ぽぉ、と魔力の光に瞬いて、絡まり合った異形の影を浮かび上がらせた。
 稲荷は、交わりながら俺の精を吸っていた。

 窓を叩く雨に塞がれて締め切った部屋の中に、互いの混じり合う匂いが充満していた。
 匂いは、梅雨の湿りを吸ってそれはより生々しくなって、肺から体の中へと染み込んでいた。
 それは、雨に打たれた冷たい窓のガラスに触れて、霧となって降った。弄り合う二人の肌を濡らして、交じり合う二人の熱にまた匂い立ち始めた。そしてその肌を二人は愛撫し合う。
「あっ…、あっ…、ン」
 その匂いに稲荷は腹を疼かせていた。
 疼いて、腹に何度となく突き込まれる男を扱いた。
 激しく詰られて、止められず激しくなる。
 訳も分からず自分たちが一つになった姿を夢想し合っていた。
 いつしか俺は、男ではなく雄として、彼女を求めていた。
 そして彼女も、俺に雄を求めた。
「このまま、孕ませて」
 稲荷のその言葉に体が震えた。
 熱い異物に掻き回されて、うなされて口走ってしまった事は彼女の顔を見れば明らかだった。彼女は自分の言葉を、喘ぐ合間に一笑に付した。
 それでも彼女は、潜り込んで来て震えて、肌の下を蠢く異性の感触に、自分を慰めていたその手を伸ばして、俺の肩を抱いた。
 その指で抱かれている男の輪郭をなぞりながら、吐息する様に言った。
「あなたの種で私に、稲荷の娘を身籠らせて……わたし、に……っ、あっ!」
 稲荷は震えた。
 腹の中に、同族には居ない男を感じ、それを求めた。
 自分のお腹を摩った。
 そう言って肌を擦り合わせて、味わって、待ち切れなくなった様子で彼女は自ら腰を振った。
 尾っぽたちを波打たせて、突き上げられた腰が当たって、俺の肌をびっしりと覆っていた玉のような汗が一斉に彼女の肌へと降り注ぐ。
 雨に当たった乾いた土のように匂い立った。
「あなたの子を産ませて、わたしのお腹で産ませて」
 はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、と。
 達せられない焦燥に息を乱し、大きく胸を揺らしていた。
 俺の体もそれを求めてしまっていた。
 始めからそのつもりだったではないか。彼女に戸を開けた時から決めた事ではないか。稲荷だって始めからそのつもりで、俺にはそれが分かっていて彼女を招き入れて抱いたんじゃないか。
 魔物の膣がそれを求めてくる度に、身体がじんじんと震えてくる。
 陰嚢を擦られて、昂り始める。
 その堪え切れなくなった震えが稲荷の腹の中を引っ掻き回していた。
「あっあっあっ、」
 その手が、男の責めから逃れて何かに縋る様に、手身近な何かを握りしめた。
 俺はそれから彼女の手を毟り取り、自分を抱かせる。
 しがみつく様に抱かせて、ぐっ、とその深くに、突き込んでいた。
 胎内に幾度と無く突き込まれる血に熱く滾った男性器が、稲荷の体内に染み込んだ雨の冷たさを中から追い立てて、冷たい汗になって床に流れ落ちていった。
 やがてその汗も突き込まれる男性器の様に熱くなっていった。男の体温を孕んだ汗が、彼女の肌を舐めながら這い回り、犯す様にして、やがて陰部の窪みに流れ込んで行った。激しくぶつかり合う男と女の生殖器の合わせ目に孕んで、そこから膨らんでその重さに滴り落ちた。
「ああっ……」

 ぐちゅ……っ、
 ぬちゃっ……、
 狐の啼き声が聞こえる。

「いく」

 首筋に囁かれたその声に、俺は全身が震え上がるのを止められなかった。
 震えに崩れてしまう様に膝をついた。
 その腰を女の脚が絡めた。
 倒れ込む様に、彼女へと埋もれて行く。
 固く締まった男性器が沈む。
 倒れこんで、手の指がフローリングの床に突き立てられた。
 水音が止む。互いの激しく逸る息の音だけが聞こえた。
 俺は体を強張らせた。
 突き込まずとも、俺のものと彼女のものは脈打って互いに混ざり合おうとしている。
 彼女へと潜り込んで俺の先が、底に触れているのを感じていた。 
 自分の腕の中で、喘ぎから絶頂へと駆け上る悲鳴のような声を聞いていた。
 我が物しようと、彼女の獣の鋭い爪が俺の背中に食い込む。
 俺は掻きむしられて露にされるのを感じた。
「はぁ……、ああ……、アァッ!」
 膣が、きゅっと締まった。
 俺は衝動に駆られるまま体を仰け反らせた。
 彼女の重みが俺の中に落ちて来て、その奥底へと自分が堕ちて行くのを感じながら、俺は絶頂していた。
 震えて、込み上げてくる熱い精液の塊を、その男のものを女の中へと吐き出した。
 身を捩らせて女は啼いていた。
 恥骨を絡ませ合って、その柔肌を女の腰骨を感じるほど指を食い込ませて、掴んだ指が彼女と俺の汗で滑って、何度もその手から肢体が滑り落ちる。その度に掴み直して、その大きな臀部を鷲掴みにして、彼女の中へ奥へと沈み込ませる様に、我が身を掴んで自分を溺れさせる様にして俺は射精した。 
 搾り出す様に、ぐっ、ぐっ、と尻から腰が震える。
 ひくひくと震える女の襞の先が、男の精巣を含んだ陰嚢を舐めていた。
 それほど深く食わせて、尚もっと深くへと腰を押し込んで、その先から迸らせていた。

 止まらなかった。
 俺の男性器は脈打ち続けていた。
 俺はその衝動に駆られるまま、委ねて稲荷を抱き続けていた。

 彼女の狐の八つの尾に胸の下まで絡み取られて、彼女を抱く上腕も縛られて、絡み合う巌の様になってそれに包まれて、滲んで来る熱い稲荷の魔力が、ひたひたと俺の奥底に滴り落ちて来る。その度に乱れて波紋に波打って溢れる様に、俺は精液を稲荷の胎内に迸らせていた。
 俺は息だけを吐いていた。
 息を吐く様に精液を吐いていた。
 その揺らす肩を合わす様に稲荷もその細い肩を寄せて、首筋を食んで、それで庇う様に俯いた俺の唇を奪う様にキスをする。
 キスをするその唇から指を滑らせて、俺の喉から、胸をなぞり、脇腹を撫で、恥骨へと流れる窪みに沿ってその結合部を確かめた。

 生殖器とその間を満たす精液と愛液の混合液とで結合した相手を確かめる様に、秘所を弄り合い、その相手を確かめてに互いの上を忙しなく指を這い回らせる。
 また唇をしゃぶる。
 舌でも確かめて、腹の中の物を確信して行く様に、稲荷はうっとりとしていった。
 その指が滑って生暖かく濡れた指が、俺の指と触れて結び合う様にしていた。
 やがて子宮まで一杯にしたのか、膣から溢れ、そして隙間を満たし、それは滲み、玉になり滴り落ち始めた。
 俺が脈打つ度に稲荷は震えて、溺れるようなその隙間から、それは彼女の女性器から爛れ落て行った。
 ねっとりと木の床を穿つ、固く湿った音を立てていた。
 掻き回されたものが体温に温んで匂い立った。
 お互いの鼓動が響き合うその俺と混じり合う感触に、稲荷は瞼を細めて微睡んでいた。
 俺はその顔を指で撫でて、彼女のその感情を確かめていた。
 息はまだ熱く絡み合っていた。
 俺は長い間、彼女の腹へと射精していた。
 俺は彼女の上で果て続けていた。
 果て、やがて火照りが醒めて行くお互いの呼吸で肌を擦り合った。

 ぴちゃ……ちゃぷ……とん……。
 雨音が聞こえる。
 窓の外と、そして自分たちの内側と。
 音にはならない響きに肉を穿たれて、互いの身体を震わせていた。
「まだ……」特に何を訊きたい訳でも無かった「寒いのか?」
 互いの汗と熱い吐息に塗れているのを肌で感じているのに今更、だけど返事をする声が聞きたかった。
 尋ねると、彼女の頭は横に振られて、狐の耳の先が俺の耳元をくすぐった。
 首筋を食んでいた唇が動く。
「あなたの、熱いのが……、とく……、とく……、と」
 そう悪戯っぽく応える声は、自分が抱いた女を確かめているのだと見透かされているようだった。
 そしてまた、彼女は自分に流れ込む血潮の主を確かめる様に首筋を食んだ。
 俺もそれを染み込ませる様に聞いていた。
 彼女に言われて、自分が何かを避けているのだと思った。

 俺は魔物を抱いた。

 彼女の上から身を起こした。
 ず……っ
「あっ……」
 稲荷は自分の中に馴染んでいた物が引き抜かれる感覚に声を上げた。
「いや……」
 離れようとする肩を掴まれてそれで俺は、腰だけを彼女の中から引き抜いた。
 ……りゅぅっ。
 尾っぽたちが絡み付いてくる。

 俺は再び、ずん、と彼女の深みに沈んだ。

「あ……」
「ん……」

 確かめ合う。

 さっき交わり合った相手だと確かめていた。
 腰の中が、先よりも粘りを帯びた音を立てる。
 ぐちゅ……、ぐちゅ……、と。
「ん……、ん……」
 腰を沈める度に彼女は押し殺すような声を上げていた。
 また、込み上げて来る。

「また…」出る……。
「きて…」

 首に指で引っ掛けた両腕が搾られて、身を起される様に抱き寄せられて、押し宛てられる異性の感触にまた、
 どぷ…。
「ああっ……」
 俺のもので満たした子宮に受け止められて、それはゆったりと新しく彼女の中に溶け広がって行くのを感じた。
 震え合う相手の体に手を這わせていた。
 二人は、互いの体温を混ざり合わせた相手の体を弄っていた。
 彼女の上に下にとなって、そして未だ精を吐き出して、彼女と混ざり合っている。
 相手の腕や絡み付く尾のその中で、篭った相手の吐息と体温を呼吸していた。
 全てを吐き出した様に放心して、その呼吸が心に染み込んで来る。
 男の体には女の魔力が、女の体には男の精が、その異性を喰らいあった肉体を交わり合わせていた。その体を抱き合っていた。

 もう離れられないのだと思った。離れる必要が無いのだと思った。このまま一緒にずっと抱き合って、こんなふうに体温を交じり合わせながらずっと一緒に居て、ずっと、それでどうなるか分からなかったが、ずっとこうしていたかった。
 腕の奥へと彼女を深く抱き竦んだ。
 そのまま、また、暫く雨の音を聞いていた。

「ねぇ……」
 稲荷の声がした。
「ん……」
「どうして……」
「ん」
「………」
「………」
「……どうして、私に戸を開いて下さったのですか?」
 その問いは、こうなってしまっては、今更のような気がしていた。
「どうしてって……」
「………」
「………」
「………ねぇ」
「雨宿りに来たのは……稲荷様だろ」
 それが理由だと嘯くしか無かった。
「嘘、みんな開けてくれませんでしたよ」
 そこまで言って彼女は、はたと気づいた。
「何故、私が稲荷だと?」
 俺は驚いた。
「妖狐だったのか?」
「いいえ……でも、何故?」
 彼女が妖狐であるのか稲荷であるのかは大した事ではない。ただ、問いつめられる。
 俺は答えに更に困った。
「なぁぜ、です?」
 稲荷は抱き合ったままで居る自分たちをひっくり返して今度は自分が上になると、不貞腐れた声を上げた。
 なのに、俺の腕の中で面白そうに上半身をころころと転がせた。
 頭の上の耳がぱたぱたと動いて、俺の口の周りをせっついて来る。
 見おろされている事もあって俺は、まるで子供がこっそり隠していたものを母親に見咎められたような心境だった。

「ガチャで……」
 本当に子供の言い訳だ。表現が稚拙すぎてうんざりする。
 言い訳を試みる時、その最初の単語の心証はとても大事である。
 恰好が悪くて言い換えようとして「その、ガチャガチャで」失敗する。
 たぶん、ガチャポンと再度言い換えても同じだ。
 本当にばつが悪くて、近くに放り出したままになっていた鞄を手繰り寄せて、その中から本日の戦利品のガチャガチャのカプセルを取り出して無言で見せた。
 彼女を稲荷だと思って結果として言い当てていた理由も、魔物である稲荷に玄関を開いたのも、それくらいしか理由なんて思い当たらなかった。

「馬鹿みたいだろ」
 先に白状しておく。
 稲荷は、俺が言葉を濁している部分を。自分の頭の中で組上げて合点がいくと笑った。
「私に、七階まで雨宿りに来て、だなんて……」言った癖に、と、最初の俺の言葉を思い出し笑いをして「あなたも、他人の事言えないじゃないですか」
 と、言われる。
「ほんと、それだけなんだよ、な……」
 それだけ。なのだ。本当に。
 一目惚れだったと、言えなかった。
 彼女は言った。
「たった、それだけですよ」
 彼女の言葉に、俺は一度俯けた顔を彼女に上げていた。
「たったそれだけですよ……たぶん、きっと……好きになる前はみんな……好きになる相手とか分からなくて……私が、雨に濡れてしまったのも………」
 言葉を失って、一緒に雨の音を聞いていた。
 俺も黙って、一緒にそれを聞いていた。

「ねぇ……」
「ん……」

 また尋ねられて、少しだけ気の無い返事をしていた。
 暫くまた外の雨の音を聞いていた。
 そしてまた暫くして、不意に稲荷は唇を動かした。

 稲荷は言った。
「一緒に、なりましょう?」
 俺はその言葉を聞いた時、
 戻れるのか、
 と、思ってしまった。
 暫く、俺は何も言えず雨の音を聞いてしまっていた。
 稲荷はそんな俺に、ふっ、と失笑した。
「ふふふふふ、そう言われても困りますよね……」

 変わってしまいたいと何処かで思いながら、俺は答えられないでいた。
 受け入れるでもなく、かと言って拒むでも無かった。

 稲荷が、俺の上から腰を上げた。
 ず……っ
「あっ……」
 密着していた粘膜が引き剥がされて震え合った。
 彼女の中に深々と潜り込んでいた俺のものが彼女の腹の中を擦っていった。「ん……あ」
 ずりゅ……。「ん……」
 ちゅぽ……。
 ゆっくりと震える腰を上げて、男性器を自分の腹の中から引き抜いた。
 未だ猛りの反り収まらない俺のそれは、彼女の柔らかな中を引っ掛けながら抜けて行った。
 蕩けたものが引き摺られて、つー…、と糸を引いて離れる。
 亀頭が引っかかった陰唇にしゃぶられて、ぶるっと震えた。
 それは固く響き易いままに揺らされて、二三度脈打った。そして、離れ切れずに居た彼女の臍の辺りにまた精液の塊を吐き散らした。
 俺は慌てて、床に散らかしたタオルを手繰り寄せて、それを拭った。
「ふふふふ……あなたの、匂い」
 汗臭いタオルだった。
 それは、帰った時シャツの中を拭いていたタオルだった。無意識に自分の匂いを彼女の肌に擦り付けているのに気付いて、慌ててティシュペーパーを取って来た。それで綺麗に拭き直していった。
 彼女はそれが終わるのを待っていた。
 それが終わると、彼女は俺に向かって床に正座して、膝の前に綺麗に指を揃えると、すっと、頭を下げた。
「ありがとう、ございました」

 稲荷はそう言うと、前に揃えた手を床にしっかりと付いて、腰を上げ四つん這いになった。そしてそのまま頭を垂れる様にして、俺の股間に顔を寄せた。その口で、彼女の腹の中で吐き出した物と彼女の物とでドロドロになったままそそり勃っている肉棒をしゃぶりはじめた。
 その言葉でフェラをされる。
 俺はそれをただ何も言わずに委ねていた。
 彼女の狐色の伏せ気味の耳を見下ろしていた。

 一緒になりましょう、と。

 稲荷から言われて、

 その答えは決まっていた筈だ。
 稲荷と言う魔物に向かって玄関を開けた時から、それは決めていた事だ。
 囈言だっのだとしても、俺に繁殖相手を求めて来た時、俺は彼女を抱き続けた。
 そうなるだろうと思っていて、その時になって、そうなってしまえと、何処かで思っていた。

 だが、稲荷にああ尋ねられた時、
 逆に一緒にならなくて良いのかとも気付かされた。
 戻れるのか、と、
 そう思ってしまった。
 あれは稲荷の優しさであったのかもしれないのに俺は、
 一瞬そんな考えに支配されていた。
 足の平が何処かの地面についた瞬間、転げ落ちるのが怖くなった。
 魔物である彼女を怖れているのではない。
 ただ、漠然と、分からずに、変わってしまう事を自覚して、それが怖くなった。

「だめだ……また出る」
 俺は稲荷の口の中にまた射精していた。

 訊かないで、欲しかった。
 有無を言わさず、考えてしまう間もなく、転がり落ちる様に変えてしまって欲しかった。
 大きく脈打って吐き散らす白いものを見ていた。

「……すまない」
 息を撒き散らし頭を垂れた。
 何に、謝っているのか分からなかった。
「いいえ、いいのです。おいしい。ほんとうに、ありがとう」
 口元にはみ出したものも舐める。
 そう言って稲荷は、俺の彼女への欲情を尿道から吸い出す様に啜って、そしてもう一度、彼女は、ありがとう、と、言った。
 扉を開けた時、唇を重ねてくる度にその言葉で解けて行った彼女は、今度はその言葉で自分を閉じて行くようだった。その声が、遠退く様に聞こえる。
 そう言って、そこを汚す二人が混じり合った粘液を何事も無かったかの様に綺麗に舐めとっていった。
 それは稲荷なりの礼儀だったのだろう。
 そして彼女とは、そう言う魔物なのだろう。

 彼女はそれを終えると、俺の前に立った。
 鼻先に、溢れたお互いの粘液でドロドロになった稲荷の陰部が差し出されていた。
 俺はそれをしゃぶった。
 稲荷がした様に、今度は俺がそれを舐めて綺麗にした。
 そうさせておいて、稲荷の押し殺した喘ぎ声が降って来る。
 俺がされた様に、相手にそうされるのを感じている。ブルブルと震えるその尻を鷲掴みにして、舌を差し込んで割れ目の中を刮げた。
 やがて溢れてくる蜜に混じっていた男臭さが消えていった。
 表面が綺麗になって、何事も無かったかの様に終わって口を離すと、稲荷はもう一度俺の前に座り込んで、その口をまた奪った。
 俺が喉の奥底へ躊躇いながら呑み下そうとしたものを、舌で丁寧に口の中から掬い、拭い取っていった。
 彼女の蜜と溶け合った精液は、全て彼女の胃の中へと落ちて行った。
 つまり、そう言う関係にしましょう、という話だ。

 稲荷は、濡れたままの着物を手繰り寄せて、肌に宛てた。
 その肌が俺から覆い隠されるのを、じっと見ていた。

 このまま俺と稲荷とは別れる事になる。
 彼女は魔物らしく男から糧として精を搾り、俺も人間としての日常に戻る。
 一時の魔物との情事。
 それ以外に何事も無かった。
 今日はいつもと違う帰り道を通っただけだ。終点はいつも同じ。
 彼女が立ち去って、戸を閉めればいつもと変らぬ玄関だ。

 いつもこんなふうに、俺は諦めていたのだと思う。
 選べないでいて、いつもこうしているのだと。いつもこんなふうに、変われるチャンス、前へ進むチャンス、それが解っていながら、どうして良いか分からずに立ち止まったままで居るのだと。
 だから例えあの神社で、彼女とは別の稲荷と出会っていたのだとしても、多分俺はこんなふうに、何も変わらないでいようとしただろう。
 俺はあのガチャガチャのカプセルを見ていた。

 今更だと思った。
 いつも後で、そう思っていた。
 運命、などという御大層なものではないにしろ、チャンスとかきっかけに出会った時、俺はそれが自分の転機になると分かっていながら、その先が見通せない事に踏み留まってしまっていた。そしてその後で後悔して来た。
 あの時、そうあの時と。
 俺はそんな事を考えながら、自分が稲荷を見ている事に気付いていた。
 彼女も俺を見ていた。

「………一緒に、なろう、か」

 三百円の投資でも惜しくもなったのか。
 自分のその言葉に顰めたその顔に、稲荷が唇を噛むような接吻をして来る。獣の爪が、両腕を捉えていた。彼女の体重が覆い被さって来る。勢いに宙に舞った金色の髪の毛が、一本一本降り注ぐ感触まで強く握って来る手やその骨を伝って彼女から響いて来た。
 その彼女の唇を、奪われっぱなしの唇で強引に奪っていた。彼女の肌を隠す、帯もされていない着物を引き千切る様に、毟り取って、剥いた。金糸が降り注ぐ白い肢体が現れる。それを貪った。そうする俺を、彼女も貪った。

 運命を信じたくなった。
 例え魔物が捏造した運命でも、そのきっかけは無性に愛おしくて、これを逃したら取り返しがつかなくなる。そんな想いに急き立てられていた。そんな筈はないと思いながらも、そうであればと何処かで願い疑っていた事が現実に起きる事に、そんなこの偶然を愛おしく感じていた。
 魔物相手に玄関のドアを開ければどうなるかも判っていた。精を食われ、彼女らの子の種になる事も。魔物が社会に浸透したこの世の中なら、その魅了をある程度は拒絶する事もできた。誰が唱えようとも効果のあるとされるお呪いもあった。
 だから、でもこうなっているのは半ば望んでいた事だ。だが何も解らずに及んでしまう事にも抵抗もあった、例えそれが望んでいると自覚した今でも、でも、拒んで何事もなく今が続く。その今に、不満がある訳でもない。でも、満足している訳でもない。退屈を感じていたのも確かだ。単に変化が欲しかったのかもしれない、単にそれだけかもしれない、だから……。
 女が大きく喘いだ。
「一緒になろうって言ってくれたんだから、いまさら……許して上げません!」
 また無意識に何かから逃れようとした俺を、彼女の尾っぽたちが捕まえて抱き包まれた。
「もう、決めた事です。決まった事です。私はあなたの精を糧に生きていくと決めたんです。そしてあなたで、魔物である稲荷の私は、人ではないあなたの娘を生みます……人間のあなたの種で、人ではない稲荷の娘を作ると……決めたのです、あなたが決めてくれた事です。だから、もう抗っても、駄目」
 だが、それでも俺の左腕は抗って逃れる様に天井へと伸ばされていた。その腕に、彼女の腕が追い縋ってきて、その手の先を捉えられていた。
「だめ、いっしょになって……」
 掌が重ねられ、もがき目を見開く様に開かれた指と指の間に、彼女の指が差し込まれて行く。捉えられて、その指が折られて閉じられて行く。きゅっと掌を握られる。
 密着した手首から打ち合う鼓動が、左腕の血管から真下の心臓へと流れ落ちて来て胸の中を掻き乱した。
 その掌に宿った互いの体温が混じり合ったもの欲しさに俺は、それ握り返していた。
 やがて、そのまま引きずり込まれる様に、男の左腕は力を失って行く様にゆっくりと折れていく。彼女と握り合わせた拳の重さに垂れて、覆い被さる彼女の背中へと滴り落ちて行った。
 俺は彼女を抱き締めながら、狐の尾の中に沈んで行った。

 男は、狐の尾に絡め娶られ、魔物の力の象徴であるそこから滲み出る魔力を肌に擦り付けられていた。
 男の中で、精が膨れ続けていた。
 胎内に送り込まれる射精される精液にその主は、細い指の手をその送り主である男の胸に添えて、頬を宛てて、腹の底から込み上げて注がれるそれに鎖骨を揺らして息をしていた。
 まぐわう二人を抱き包む八本の尾は、更に獣毛が毛羽立って絡み合い筋を形成して、心臓だか子宮だかにも似た房を形成していた。
 それは、中の男女の喘ぎとともに鼓動している。
 再び通わせた肌を相手の体温と汗で塗れさせ、そして女は中を互いの粘液で満たしていた。呼吸する様に震わせ合う、差し込まれた男性器とそれを呑み下そうとする女性器の、その食み合う合わせ目から、混じり合った証であるものがとろとろと、二人を絡め合わせた尾の坩堝の中を濡らして、絡み合った二人の肢体を浸していた。
 男は、吐き出す衝動に震える指で、相手のその髪を梳いる。不規則に揺れて、髪が指の間からこぼれてその主の肩をくすぐった。男の肌にも落ちて、汗で肌に吸い付いた。抱かれた女はその感触が堪らなく幸せそうに、そんな表情を男に見せていた。

「俺はただ……、日常に飽いて、運命の意図する所を理解する事もできず、活かせずにままならぬ自分に呆れ、それでただ、何処かに堕ちてしまいたいだけなのかもしれない」
 毛の塊と魔力の熱に溺れながら俺は、捕われ、同時に腕の中に手に入れた彼女のそんな顔を詰めながら、どこかぼんやりと、そう呟いていた。
 そんなふうに御大層に宣うて、自分が大事に直面して脚をすくませているように錯覚しようとしていた。
 本当は、それが実は些細な事なのは分かっている。
 言ってしまえば良いのだ。
 俺の中で、何かが緩んだような気がした。
「……一目惚れ、だった」
 俺は稲荷に告白していた。
 でも、それだけだった。
「一時の感情で終わるかもしれない」
 分からなかった。
 女の中から溢れるほど射精して言う科白ではない。
 稲荷は応えた。
「それは私が魔物だから……それに私は魔物だから、一時では済まさない……だから」「そういう事を言っているんじゃない…んだ」
 そうじゃない。
「稲荷は……貴女はそれで、良いのか」
 でも、それは結局それは自問だと、自分で言っていて解っている。
 俺はいつもそうやって、進むでもなく退くのでもなく、ただ立ち止まってしまうんだ。
 今、彼女に甘えている事を承知している。
 俺は変わってしまうのではなく、変えられてしまう事を何処かで望んでいた。
「いいのか……」
 自分に問いかけている。
 だから誰からか、それで良いのだ、と言って欲しかったのかもしれない。
「好きだ」
 嘘を言うつもりは無かった。
 今は偽りではない、だが後は分からない。自分でも無理をして言っているのだと思った。
 その答えがどうしても聞きたかった。
 魔物は、もうこの獲物を逃さないだろう。
 だから、その理由を聞きたかった。

 その口に、もう一度唇を重ねられる。
 稲荷は言った。
「私は、私を温めてくれたあなたがとても大好き」
 たったそれだけ、と言って、また唇を重ねられる。
 その言葉を食べさせる様に、そして俺はその言葉を食べた。
 食べてその言葉を紡いだ稲荷の唇を甘く食んだ。そうする俺の唇を稲荷もまた食んだ。食み合って、互いを食み合う様に相手の肌を弄っていた。
 その手を離そうとしたその手を掴まれて、抱き寄せられて肌を寄せた。
 そして、また俺たちは一つになっていた。
「大好きなあなた。あなたが大好きな私を、あなたも好きになって」


 その日俺たちは、番になった。







余談、あるいは混信。

 魔界深部、魔王城内の某所。
 あるいはサバトの一室とも言う。
「なんじゃこのお便りの山は」
 持ち込まれたダンボール一杯のお手紙の山に、 魔王城サバト本部に何人かいるかもしれないそんな一人のとあるバフォメットは、秘書役の魔女にそう言葉を漏らした。
「感謝のお手紙です」
「感謝?」
 身に覚えの無い言葉に背中にかゆみを覚えるような声を上げる。
 どうにも計算違いを犯した覚えなど無いのだが、どうにもそれをしているようだ。なので確認の為その山の中から一通、適当に手にとって目を通した。
 暫くして、ああ、と合点がいったように声を上げた。
 そして呆れてこう言った。
「わしらは何もしとらんのに」
 そう言って頬杖をつく。
 魔女からそれを嗜められて、やめる。

 確かにサバトは、魔王軍魔法部隊と言うのが前身だ。前身と言うか今でもそれが正式名称で、恣意的にかつ私的流用してはいるものの、組織としては今もそういう事になっている。
 それは建前の話だが一応それらしい事もしているし、それらしい事ついでにそれっぽい事もしている。
 あの缶バッジも"それらしい事ついでのそれっぽい事"として作ってバラまいたものだ。言わばそれは販促用のおまけグッズで、それ自体には何らかの機能がある訳でもなかった。
 人間社会と魔物娘とがより深い融合と結合(いやン)を果たすため、自分らを隣人として周知させる宣伝効果、それ以外のものではなかった、筈であった。
 とあるバフォメットは暫しそれについて考えていた。
 そして運命などと言うものが決まっていれば、どれだけ楽だろうかとも考えた。
 運命に従って生き、解り易く印がつけられた運命の人と、ジパングの地下鉄の様に遅れなく定刻でホーム越しに隣り合わせで待ち合わせて、悩む事も、進む事に踏み留まって考えてしまう事もなく、考え込んで結局何事も変えられずに無かった事にしてしまう事も無く、そして必ず愛し合えるのだから、そんな物が本当にあれば効率的この上ない。
 であれば、主神なども人間の定数のコントロールも容易であったろうに。
 だが、そのような運命などと言う決まり事があれば決して結ばれる事の無かった、愛し合う為に出会った訳でもない、そんな殺し合う為に出会った事をきっかけにして、何かの冗談で結ばれた二人が、今も魔王城の深部で愛し合いながら交わり続けている。
 そして世界は変わり続けている。
 そんな事を考えながら、とあるバフォメットは頬杖をついた。
 肘をついてもう一度魔女に嗜められた。
 注意された腹いせに思いっ切り腕を上げて、背もたれに八つ当たりする様に体を預けた。
 後ろに傾いて絶妙なバランスで斜めになった椅子から天井を仰いでこう言った。
「運命など決まっておらぬのじゃから、まぁこういうものも必要になるのじゃろうて……な」
 なんとなく、心のもやもやが煙突のように上を向けた口から抜ける様に洩れた。
 もう一度手紙の山を見て、そして手元の一通を見て、彼女はまた溜息をついた。
「決まっておらぬのだ、そう思えば、求めてしまって切ないの……」
 とあるバフォメットは執務机から離れた。
 そして甘えに行く口実に、自分の種族が描かれた缶バッジを一つ手に取った。  
 魔女は咎めなかった。
14/12/27 01:38更新 / 雑食ハイエナ

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