まろはなんでもしってるにゃ
「まろは、なんでも知ってるニャア」
と、初っ端から来たもんだ。
最初は一本、猫の尻尾がぴょこん、とコタツの向こう側から顔を出した。
続いてもう一本生えて来た。
それから、もぞもぞ、もこもこと、布団を盛り上げて、天板の向こうに猫耳が跳ね始める。
そして、さっきお湯を注いだカップラーメンができあがる前に、何故か目の前に二本尻尾のワーキャットが"できあがって"いた。
彼はコタツの布団をめくった。
ミミックは居なかった。つぼまじんもだ。
では、彼女はどこから、どうやってここに現れた?
飼い猫は居ても、ワーキャットを招いた覚えなど無い。
「どちら様で?」
「まろだにゃ」
埒があかない。
彼女の首には、アクセサリーのように鈴付きの輪っかが巻かれていた。頭を忙しなく振る度に、
しゃりん、しゃりん……。
鳴る鈴の音に、彼は思い至る。
「あ、お前。タマか?」
それが彼の飼い猫の名だ。
「その没個性な、猫界"付けられたく無い名前"ワースト1の名前、禁止ウニャ」
どうやら、タマらしい。少なくとも自分の名前が、そんなワーストな名前"タマ"をつけられてしまった事に、忸怩たる思いのタマさんではあるらしかった。
「まろは御主人のオリジナリティの無さを知ってるにゃ」
「じゃかあしい」
彼女は彼のことを「御主人」と呼んだ。やはり彼女は彼の飼い猫"タマ"であった。
飼い猫が、どうしてこうなった。
「そうか、猫じゃなくてネコマタだったか」
ネコマタは人に化けれる猫、というより猫に化けれる魔物というべきか。
思えば彼の飼い猫"タマ"は、妙に人間臭い所のある猫だった。
日頃から扉を少し開けて、その隙間から顔を半分出して覗き込む、"家政婦は見たゴッコ"をしている猫であった。
「むっふっふー、まろは、にゃんだって知ってるにゃ」
「そうだったな」
日頃から"家政婦は見たゴッコ"をしている猫であったが、ゴッコではなく本気だったのか。
「それで、何の用だ?」
その短い言葉の中に、彼は有りっ丈の邪険を詰め込んで、つっけんどんにしてみせる。
猫には用があるが、ネコマタは用は無いと言わんばかりである。
当然だろう?
突然、見知らぬ奴がテリトリーに踏み込んで来たら、猫も人間も不機嫌になる。
だがそれは、ネコマタもだ。
彼女からすれば、ちょっと姿を戻しただけなのに、まるで侵略者のようなこの扱い。彼女としては、むしろ本来の姿を晒したのだから、親愛の証として受け取って貰いたかったのだ。
頭の一つも、撫でて欲しかったりもしたのだ。
猫を前にした彼なら、多分そうした。
それが、そんな予想と逆走する彼の態度に、ネコマタは自分のテリトリーを否定されたようで面白く無い。
ふん、と鼻を鳴らして、まくしたてる。
「随分と偉そうなことを言うものにゃな、御主人?
君は忘れたかもしれにゃいが、まろはよく覚えているにゃよ?
どうにかしてまろを飼い猫にしようと、ねこじゃらしを常に持ち歩いて気を惹こうとしていた事をにゃね。
それに君がバレンタインデーに、どういう女性からどれだけチョコレートを貰ったり、貰えると思って貰えなかったりしたか。学生時代、生活費を分配されたとき、その内何割をため込んでエロ本を買うのに回したか。私費を使った旅行で、まろ以外の女性を連れていったことが何度あるか、私はみぃんなっ、知っているんにゃ」
彼は、じぃっとネコマタに見られながら、こんな事を考えていた。
旅行に連れて行かなかった事が、そんなに気に食わないから化けたのか?
ネコマタがほんの一例として詳らかにした「まろは何でも知ってるにゃ」の後ろの方はどう考えても、知っている事というよりは、彼女自身のやっかみなだけのような気がしていた。
そうして、ネコマタが尻尾で意味ありげに突いているのは、男として秘蔵すべき類いのモノの在処であった。
その表情は、何気に得意げである。
彼は言った。
「今はこまっしゃくれて、ネコジャラシにも見向きもしないけどな、お前」
件の隠し場所を、猫がそれを知ってどうするという気もしない訳でもないが。
つまりタマ改めネコマタ(名前はまだない)の彼女は、新しい猫じゃらしを見つけたという事なのか。
彼はおもむろに、膝を叩いてみせた。
ぽん、ぼん……。
するとその音に、ネコマタの耳が、びょこん、と跳ね上がった。そのまま全身を撥ね上げ、叩かれた膝の上に飛び乗る。
その様子を見て彼は、してやったりと言った顔をして見せた。
「俺もお前の事、何でも知ってるぞ。
何年、お前の買い主してると思ってんだ?」
しかし猫も心得たもの、
「まろも知っているぞ御主人。そうやって飛んで来たまろの喉を、撫でるのが好きなんだろう?」
と、言い返す。
言われるまでもなく、彼は指でネコマタの喉から上顎を撫でた。
ごろごろごろ……。
上機嫌に喉を鳴らす。
「俺も知っているぞ。お前単に俺に遊んで欲しいだけなんだろう? ネコマタの姿を現したのは、何か新しい遊びでも考えたのか?」
「それを言うのは、御主人が寂しいからにゃと、まろは思うにゃあ。
御主人が猫によく語りかける寂しがりやだって、まろはよぉーく、知ってるにゃ」
ネコマタのままの姿で、彼女は猫だった頃の話をする。
「そんなに猫じゃないと、駄目にゃ、か?」
言って、猫に代わって今の自分を試させるように、ネコマタは彼の膝の上に寝そべった。
うにゃあ、ごろろぉーっ、と。
以前なら、その重力を無視するような挙動と同じようで、時に紙袋のように軽く感じてしまう猫。
でも、今その膝の上に居るそれは、そんなにも軽くは無い。柔らかく絡み付くように、ネコマタは重みを押し付けて来た。
「御主人は知っているよにゃ、まろが腹を撫でてもらうのも好きだって事」
言ってネコマタは、いつも猫がするように仰向けになって腹を晒した。
彼が飼っていた猫は、腹を撫でてもらうのも好きだった。
いつものように、撫でた。
すると、やはり、猫じゃない。
本当に、まるで、人みたいだ。
猫がどこをどうすりゃ、こうなるんだよ。
撫でていて、その感触に思わずそうしてしまいたくなって、心地良く腹を撫でていた手が、脇を強襲して、くすぐる。
「俺は知っているぞ。お前がくすぐり攻撃にめっちゃ弱い事をなッ、と」
うにゃはははっ、うにゃ、うにゃっ!
「かの霧の大陸にあった国には、笑い殺す処刑法もあった事を、御主人は知っておくべき、にゃ」
ネコを殺す気か、と。
心臓麻痺で死にかけた。
「御主人の気づいていない事を教えてやるにゃ」
「なんだ?」
「股間が勃起してるにゃ」
言って何が嬉しいのか、ネコマタは猫の柔らかさを持った女性の肢体を、彼の膝の上で徒にうねらせた。
「まろは知ってるにゃ〜、御主人がまろに欲情しているという事を……にゃ」
「するかっ」
くすぐり第二波攻撃。(絨毯爆撃)
うぎゃにぃぃーっ!
笑止。
「御主人の知らない事を教えてやろう、にゃ」
「俺が女に縁が無いッてんなら、知ってるぞぉ。化け猫に欲情している、なんて言われるくらいになっ」
「飼い主が猫に向かって自虐ネタに走って意気消沈するのは、良くある事にゃけど、御主人も平均的かつ没個性にも、そのクチだって事も知ってるにゃ」
はふぅ、とダメダメな溜め息をついてみせる。
やれやれ、と両手をあげて、頭をふるふると振る。
ネコマタは、御主人が自虐的に振る舞って何かを誤摩化そうとしているのは解っていた。だから、弄るようにしてみせて、この程度で赦してやる事にした。
大事な話があった。
ネコマタは言った。
「まろは、御主人が大好きなノニャよ」
ネコマタは知っている。
御主人は困っている。
「んー、知ってた、かな……」
そう言っても、ほら、頭を掻きたそうに右手を浮かしている。
そういう時は、はぐらかしたい時だって、ネコマタは知っているのだ。
そんな彼は言った。
「でも、金色のネコ缶が目の前にあれば、浮気するんたろう?」
「そんにゃ、こと……ぉ?」
黄金に輝く、猫にはとってもまばゆいカンヅメが、彼の右手の上にあった。
「あにゃにゃにゃあ……」
猫の阿波踊りだった。
ネコ缶を取ろうと、ネコマタの両手が踊る。
ネコがヒトガタになっても、変わらない光景であった。
とは言え、人間サイズに戻ったネコマタが相手なので、猫だった頃のように、彼は高さのアドバンテージをさほど得られず、黄金のネコ缶を彼女に引ったくられる。
「にゃっほ〜い」
ネコマタは小躍りする。先ほどの阿波踊りと見た目さほど変わらないが、これは勝利の踊りだ。
この御主人のネコ缶を使った意地悪は今に始まった事ではないが、ネコはネコマタに戻る事で初めてそれに勝利した。
してやったり、と、ネコマタは彼を見た。
そしてそのネコに、いつもなら取られる事の無かった彼は、まるで飼い猫を失ったような寂しそうな顔をしていた。
彼からすればやっぱり、彼女は飼い猫であり、しかし今の彼女は飼い猫とは別物なのだ。
少し、気不味くなった。
「二兎を追う者は、一兎も得ず、と言いますにゃ、が……それは単にそいつが無能にゃからにゃ」
さすがネコマタ、尻尾が"二股"になっているだけある、と言葉尻に自分で突っ込んでおいて、空笑いする。
「まろは、缶切りの場所もしってるにゃ〜」
そして前脚改め両手の間で、まるでお手玉をするようにネコ缶を弄びながら、嬉々として台所へ缶切りをとりに行った。
彼はこのネコが、自分にネコ缶を開けてもらう事を、とても喜ぶ事を覚えている。
プルタブを引っ張れば、すぐにでも開くタイプなのであったが、彼はネコマタから缶切りを手渡されると、いつものように、じゃっこじゃっこ、とその金具をちまちまと上下させながら、ゆっくりと開けていった。
ネコはとても幸せな時間を過ごすように、それをゆっくり眺めているのが好きだった。
勿論ネコマタに戻った今も好きだ。
それを、彼に知って欲しかった。
しかし缶を開けながら、彼はネコマタに訊ねた。
「もう一兎は?」
「まろは、御主人がそんな意地悪じゃないって、知っているにゃ、よ」
開いたネコ缶を少し不機嫌そうに引ったくると、ネコマタは持って来たスプーンを器用に掴んで、黙々とその中身を食べ始めた。
確かに意地悪な言い方だったと、彼は思った。
そのもう一兎は、彼自身なのだから。
彼は、相手が猫とは言え、少し悪い気がした。いや、そんなふうに思い始めている。自分の中でも、もう彼女は猫じゃなくなって来ている。
このネコは、自分が不安な時、一緒に不安にしてみせる事を、彼は知っている。
だから今も、彼は懐を開けておく。
ネコマタはネコ缶を食べ終わるとまた、コタツの前で胡座をかいて待っている彼の中に、ぴょんと飛び乗った。
不安げに体を寄せて、呟いて来た。
「まろは、御主人がまろを好きなのか、知らない、にゃ」
「好きだ、な」
「飼い猫としてにゃろ?」
このネコがしょんぼりする時、それは猫かぶりなどではなく、本当にしょんぼりしている事を彼は知っている。
「確かめて、みる、か……?」
躊躇うように言葉をぎこちなく途切れさせて、彼が猫に話しかけて来る時、猫にとって、とても嬉しい事がある事を、彼女は知っていた。
二人は顔を寄せた。
唇が触れ合おうとする。
でも、ふっ、と彼の顔が退いた。
ネコマタの顔の前が、不意に開けると、
パチン。
ネコマタの鼻先で、彼の手が鳴った。
ぽてん、とネコマタが床に寝転がった。
猫騙し。
「まろは知っていたはずにゃ。
そうにゃ、知っていたはずにゃ。
御主人がとんだ朴念仁で、唐揚げにしたいくらいチキンだって事くにゃい」
「そういやお前、よく俺の食ってる鶏の唐揚げ、欲しそうにしてたよなぁ」
踏ん切りがつかなくて、彼は思わず顔をひっこめてしまった。
彼は気不味くなって、思わず膝を叩いていた。
ネコマタは、ぴょんと跳ねて彼の膝の上に座り直す。
「ああ、わかってるにゃ、わかってたにゃ。まろはこーして、騙されるってことを。ああそうさ、猫にとって御主人は"人間猫騙し"だって事くらい、わかってるにゃよー」
駄々をこねるように体を揺らし、背中で彼の胸を叩いていた。
それで気が済んだのか、それとも気が済まなかったからなのか、あとは暫く、つーん、とまるでシャム猫のような表情と姿勢でそっぽを向く。
彼がネコマタの手を取っても、拗ねる事に意地になって、そのままでいる。
彼は思い悩んでいる時、悩みながらこんなふうに、ネコの肉球をぷにぷにする事を、彼女はそれをよく知っている。
「なぁ、タマ」
「タマ禁止にゃ」
ワースト1な名前禁止。
「こうしてじゃれついているだけで楽しいじゃないか、これで駄目なのか?」
猫として付き合って来た。
それがいきなりネコマタになった。
そいつに好きだなんて言われた。
予想だにできるか、飼い猫が人の言葉を喋って、人の姿になって、「好きだ」って。
タマの事は好きだ。猫として。でもそのタマが、人みたいになって、今までのような好きで良いんだろうか、と考えてしまう。
今彼は、どうして良いか解らないと、感じている。
どうして良いのか解らないのなら、前のままで良いじゃないか、とも思っている。
だって、今まではそれで、楽しくやって来たじゃないか。
しかしネコマタは、頭を横に振った。
「猫のときはそれでも良いけれど、まろは、ほら、やっぱり、ネコマタだし……」
ネコマタは、背中を預けながら、少し黙りこくった。
今、彼を感じているこの背中だ。
猫の小さな額と言うけれど、背中だって小さい。
随分と伸びるけれど、それでも、彼を感じたい気持ちには足りない。
ネコマタの姿に戻る。
すると、ほら、両腕で包むように、御主人がまろを抱いていてくれる。
顔を項垂れて、右肩に少しだけ預けてきてくれる。
きゅっと、彼の全身で抱きしめられる事もできる。
その感触に、尻尾が踊り狂って、絡まってしまう。
こんな気持ち……。
猫の体じゃあ、やっぱり、小さすぎるよ。
彼はこの猫と出会った時の事を思い出す。
そんな小さな体を草むらに重さで半分くらい埋めて、猫が丸くなっていた。
まさか……死んでる……?
気になって足を止めてしまった。
「ち、ちち……」
舌を鳴らして呼んでみる。
すると猫はその呼びかけに、ぴくっ、と僅かに頭を動かした。
なぁ…ぉ。
大きく伸びをした。
凍てついた死体のようであったそれが まるで氷が緩むように柔らかくなっていく。見ているだけで、こちらまで息を吹き返すような柔らかな仕草だった。かわいらしかった。
この子、ほしいなぁ……。
彼はそう思った。
そう言う好意なのだ。
「俺は、お前を飼い猫だとしか思っていない。だからこれからも、飼い猫のようにしか、好きになれない、かもしれない……」
そこまで言って、彼は少し申し分けなく思って、少し言葉を淀ませていた。
「それでも良いのか?」
飼い猫として好きであるけど、人としては解らなかった。
でも彼女の事を、好きである事は変わらなかった。
彼はそれを、言いたかったらしい。
ネコマタは応えた。
「まろは知っているにゃよ。今まろは、その言葉が、とっても嬉しいんにゃよ」
その二本の尻尾が、彼の腕に絡まるように寄り添わせた。
彼の膝の上に寝そべっる時も、御主人をからかうようにしてみせた時も、金色の缶詰を開けた時も、そして最初に抱き上げた時、やはりこのネコはそうしていた。
まだその時は、尻尾は一本だったが。
彼はそれを知っていたから、
そして今度こそ、キスをする。
そのあとで、少しずつ肌を合わせた。
彼女は、彼より少し小さな、それでも猫より大きなネコマタの体を一杯に使って、それを感じていた。
彼はこんな具合で、チキンで、おっかなびっくりだけれど。缶切りで缶詰を開けるように、ゆっくりだけど、彼が開けてくれる。あの時はネコ缶で、今はネコマタの服だったり体だったりなのだが。
どちらにせよ、それはとても幸せな事なのだと、このネコマタは知っているし、これから知るのだ。
後日、猫の盛り声がうるさいと近所から苦情が来た。
ネコマタと、そして彼は少しだけ、反省した。
と、初っ端から来たもんだ。
最初は一本、猫の尻尾がぴょこん、とコタツの向こう側から顔を出した。
続いてもう一本生えて来た。
それから、もぞもぞ、もこもこと、布団を盛り上げて、天板の向こうに猫耳が跳ね始める。
そして、さっきお湯を注いだカップラーメンができあがる前に、何故か目の前に二本尻尾のワーキャットが"できあがって"いた。
彼はコタツの布団をめくった。
ミミックは居なかった。つぼまじんもだ。
では、彼女はどこから、どうやってここに現れた?
飼い猫は居ても、ワーキャットを招いた覚えなど無い。
「どちら様で?」
「まろだにゃ」
埒があかない。
彼女の首には、アクセサリーのように鈴付きの輪っかが巻かれていた。頭を忙しなく振る度に、
しゃりん、しゃりん……。
鳴る鈴の音に、彼は思い至る。
「あ、お前。タマか?」
それが彼の飼い猫の名だ。
「その没個性な、猫界"付けられたく無い名前"ワースト1の名前、禁止ウニャ」
どうやら、タマらしい。少なくとも自分の名前が、そんなワーストな名前"タマ"をつけられてしまった事に、忸怩たる思いのタマさんではあるらしかった。
「まろは御主人のオリジナリティの無さを知ってるにゃ」
「じゃかあしい」
彼女は彼のことを「御主人」と呼んだ。やはり彼女は彼の飼い猫"タマ"であった。
飼い猫が、どうしてこうなった。
「そうか、猫じゃなくてネコマタだったか」
ネコマタは人に化けれる猫、というより猫に化けれる魔物というべきか。
思えば彼の飼い猫"タマ"は、妙に人間臭い所のある猫だった。
日頃から扉を少し開けて、その隙間から顔を半分出して覗き込む、"家政婦は見たゴッコ"をしている猫であった。
「むっふっふー、まろは、にゃんだって知ってるにゃ」
「そうだったな」
日頃から"家政婦は見たゴッコ"をしている猫であったが、ゴッコではなく本気だったのか。
「それで、何の用だ?」
その短い言葉の中に、彼は有りっ丈の邪険を詰め込んで、つっけんどんにしてみせる。
猫には用があるが、ネコマタは用は無いと言わんばかりである。
当然だろう?
突然、見知らぬ奴がテリトリーに踏み込んで来たら、猫も人間も不機嫌になる。
だがそれは、ネコマタもだ。
彼女からすれば、ちょっと姿を戻しただけなのに、まるで侵略者のようなこの扱い。彼女としては、むしろ本来の姿を晒したのだから、親愛の証として受け取って貰いたかったのだ。
頭の一つも、撫でて欲しかったりもしたのだ。
猫を前にした彼なら、多分そうした。
それが、そんな予想と逆走する彼の態度に、ネコマタは自分のテリトリーを否定されたようで面白く無い。
ふん、と鼻を鳴らして、まくしたてる。
「随分と偉そうなことを言うものにゃな、御主人?
君は忘れたかもしれにゃいが、まろはよく覚えているにゃよ?
どうにかしてまろを飼い猫にしようと、ねこじゃらしを常に持ち歩いて気を惹こうとしていた事をにゃね。
それに君がバレンタインデーに、どういう女性からどれだけチョコレートを貰ったり、貰えると思って貰えなかったりしたか。学生時代、生活費を分配されたとき、その内何割をため込んでエロ本を買うのに回したか。私費を使った旅行で、まろ以外の女性を連れていったことが何度あるか、私はみぃんなっ、知っているんにゃ」
彼は、じぃっとネコマタに見られながら、こんな事を考えていた。
旅行に連れて行かなかった事が、そんなに気に食わないから化けたのか?
ネコマタがほんの一例として詳らかにした「まろは何でも知ってるにゃ」の後ろの方はどう考えても、知っている事というよりは、彼女自身のやっかみなだけのような気がしていた。
そうして、ネコマタが尻尾で意味ありげに突いているのは、男として秘蔵すべき類いのモノの在処であった。
その表情は、何気に得意げである。
彼は言った。
「今はこまっしゃくれて、ネコジャラシにも見向きもしないけどな、お前」
件の隠し場所を、猫がそれを知ってどうするという気もしない訳でもないが。
つまりタマ改めネコマタ(名前はまだない)の彼女は、新しい猫じゃらしを見つけたという事なのか。
彼はおもむろに、膝を叩いてみせた。
ぽん、ぼん……。
するとその音に、ネコマタの耳が、びょこん、と跳ね上がった。そのまま全身を撥ね上げ、叩かれた膝の上に飛び乗る。
その様子を見て彼は、してやったりと言った顔をして見せた。
「俺もお前の事、何でも知ってるぞ。
何年、お前の買い主してると思ってんだ?」
しかし猫も心得たもの、
「まろも知っているぞ御主人。そうやって飛んで来たまろの喉を、撫でるのが好きなんだろう?」
と、言い返す。
言われるまでもなく、彼は指でネコマタの喉から上顎を撫でた。
ごろごろごろ……。
上機嫌に喉を鳴らす。
「俺も知っているぞ。お前単に俺に遊んで欲しいだけなんだろう? ネコマタの姿を現したのは、何か新しい遊びでも考えたのか?」
「それを言うのは、御主人が寂しいからにゃと、まろは思うにゃあ。
御主人が猫によく語りかける寂しがりやだって、まろはよぉーく、知ってるにゃ」
ネコマタのままの姿で、彼女は猫だった頃の話をする。
「そんなに猫じゃないと、駄目にゃ、か?」
言って、猫に代わって今の自分を試させるように、ネコマタは彼の膝の上に寝そべった。
うにゃあ、ごろろぉーっ、と。
以前なら、その重力を無視するような挙動と同じようで、時に紙袋のように軽く感じてしまう猫。
でも、今その膝の上に居るそれは、そんなにも軽くは無い。柔らかく絡み付くように、ネコマタは重みを押し付けて来た。
「御主人は知っているよにゃ、まろが腹を撫でてもらうのも好きだって事」
言ってネコマタは、いつも猫がするように仰向けになって腹を晒した。
彼が飼っていた猫は、腹を撫でてもらうのも好きだった。
いつものように、撫でた。
すると、やはり、猫じゃない。
本当に、まるで、人みたいだ。
猫がどこをどうすりゃ、こうなるんだよ。
撫でていて、その感触に思わずそうしてしまいたくなって、心地良く腹を撫でていた手が、脇を強襲して、くすぐる。
「俺は知っているぞ。お前がくすぐり攻撃にめっちゃ弱い事をなッ、と」
うにゃはははっ、うにゃ、うにゃっ!
「かの霧の大陸にあった国には、笑い殺す処刑法もあった事を、御主人は知っておくべき、にゃ」
ネコを殺す気か、と。
心臓麻痺で死にかけた。
「御主人の気づいていない事を教えてやるにゃ」
「なんだ?」
「股間が勃起してるにゃ」
言って何が嬉しいのか、ネコマタは猫の柔らかさを持った女性の肢体を、彼の膝の上で徒にうねらせた。
「まろは知ってるにゃ〜、御主人がまろに欲情しているという事を……にゃ」
「するかっ」
くすぐり第二波攻撃。(絨毯爆撃)
うぎゃにぃぃーっ!
笑止。
「御主人の知らない事を教えてやろう、にゃ」
「俺が女に縁が無いッてんなら、知ってるぞぉ。化け猫に欲情している、なんて言われるくらいになっ」
「飼い主が猫に向かって自虐ネタに走って意気消沈するのは、良くある事にゃけど、御主人も平均的かつ没個性にも、そのクチだって事も知ってるにゃ」
はふぅ、とダメダメな溜め息をついてみせる。
やれやれ、と両手をあげて、頭をふるふると振る。
ネコマタは、御主人が自虐的に振る舞って何かを誤摩化そうとしているのは解っていた。だから、弄るようにしてみせて、この程度で赦してやる事にした。
大事な話があった。
ネコマタは言った。
「まろは、御主人が大好きなノニャよ」
ネコマタは知っている。
御主人は困っている。
「んー、知ってた、かな……」
そう言っても、ほら、頭を掻きたそうに右手を浮かしている。
そういう時は、はぐらかしたい時だって、ネコマタは知っているのだ。
そんな彼は言った。
「でも、金色のネコ缶が目の前にあれば、浮気するんたろう?」
「そんにゃ、こと……ぉ?」
黄金に輝く、猫にはとってもまばゆいカンヅメが、彼の右手の上にあった。
「あにゃにゃにゃあ……」
猫の阿波踊りだった。
ネコ缶を取ろうと、ネコマタの両手が踊る。
ネコがヒトガタになっても、変わらない光景であった。
とは言え、人間サイズに戻ったネコマタが相手なので、猫だった頃のように、彼は高さのアドバンテージをさほど得られず、黄金のネコ缶を彼女に引ったくられる。
「にゃっほ〜い」
ネコマタは小躍りする。先ほどの阿波踊りと見た目さほど変わらないが、これは勝利の踊りだ。
この御主人のネコ缶を使った意地悪は今に始まった事ではないが、ネコはネコマタに戻る事で初めてそれに勝利した。
してやったり、と、ネコマタは彼を見た。
そしてそのネコに、いつもなら取られる事の無かった彼は、まるで飼い猫を失ったような寂しそうな顔をしていた。
彼からすればやっぱり、彼女は飼い猫であり、しかし今の彼女は飼い猫とは別物なのだ。
少し、気不味くなった。
「二兎を追う者は、一兎も得ず、と言いますにゃ、が……それは単にそいつが無能にゃからにゃ」
さすがネコマタ、尻尾が"二股"になっているだけある、と言葉尻に自分で突っ込んでおいて、空笑いする。
「まろは、缶切りの場所もしってるにゃ〜」
そして前脚改め両手の間で、まるでお手玉をするようにネコ缶を弄びながら、嬉々として台所へ缶切りをとりに行った。
彼はこのネコが、自分にネコ缶を開けてもらう事を、とても喜ぶ事を覚えている。
プルタブを引っ張れば、すぐにでも開くタイプなのであったが、彼はネコマタから缶切りを手渡されると、いつものように、じゃっこじゃっこ、とその金具をちまちまと上下させながら、ゆっくりと開けていった。
ネコはとても幸せな時間を過ごすように、それをゆっくり眺めているのが好きだった。
勿論ネコマタに戻った今も好きだ。
それを、彼に知って欲しかった。
しかし缶を開けながら、彼はネコマタに訊ねた。
「もう一兎は?」
「まろは、御主人がそんな意地悪じゃないって、知っているにゃ、よ」
開いたネコ缶を少し不機嫌そうに引ったくると、ネコマタは持って来たスプーンを器用に掴んで、黙々とその中身を食べ始めた。
確かに意地悪な言い方だったと、彼は思った。
そのもう一兎は、彼自身なのだから。
彼は、相手が猫とは言え、少し悪い気がした。いや、そんなふうに思い始めている。自分の中でも、もう彼女は猫じゃなくなって来ている。
このネコは、自分が不安な時、一緒に不安にしてみせる事を、彼は知っている。
だから今も、彼は懐を開けておく。
ネコマタはネコ缶を食べ終わるとまた、コタツの前で胡座をかいて待っている彼の中に、ぴょんと飛び乗った。
不安げに体を寄せて、呟いて来た。
「まろは、御主人がまろを好きなのか、知らない、にゃ」
「好きだ、な」
「飼い猫としてにゃろ?」
このネコがしょんぼりする時、それは猫かぶりなどではなく、本当にしょんぼりしている事を彼は知っている。
「確かめて、みる、か……?」
躊躇うように言葉をぎこちなく途切れさせて、彼が猫に話しかけて来る時、猫にとって、とても嬉しい事がある事を、彼女は知っていた。
二人は顔を寄せた。
唇が触れ合おうとする。
でも、ふっ、と彼の顔が退いた。
ネコマタの顔の前が、不意に開けると、
パチン。
ネコマタの鼻先で、彼の手が鳴った。
ぽてん、とネコマタが床に寝転がった。
猫騙し。
「まろは知っていたはずにゃ。
そうにゃ、知っていたはずにゃ。
御主人がとんだ朴念仁で、唐揚げにしたいくらいチキンだって事くにゃい」
「そういやお前、よく俺の食ってる鶏の唐揚げ、欲しそうにしてたよなぁ」
踏ん切りがつかなくて、彼は思わず顔をひっこめてしまった。
彼は気不味くなって、思わず膝を叩いていた。
ネコマタは、ぴょんと跳ねて彼の膝の上に座り直す。
「ああ、わかってるにゃ、わかってたにゃ。まろはこーして、騙されるってことを。ああそうさ、猫にとって御主人は"人間猫騙し"だって事くらい、わかってるにゃよー」
駄々をこねるように体を揺らし、背中で彼の胸を叩いていた。
それで気が済んだのか、それとも気が済まなかったからなのか、あとは暫く、つーん、とまるでシャム猫のような表情と姿勢でそっぽを向く。
彼がネコマタの手を取っても、拗ねる事に意地になって、そのままでいる。
彼は思い悩んでいる時、悩みながらこんなふうに、ネコの肉球をぷにぷにする事を、彼女はそれをよく知っている。
「なぁ、タマ」
「タマ禁止にゃ」
ワースト1な名前禁止。
「こうしてじゃれついているだけで楽しいじゃないか、これで駄目なのか?」
猫として付き合って来た。
それがいきなりネコマタになった。
そいつに好きだなんて言われた。
予想だにできるか、飼い猫が人の言葉を喋って、人の姿になって、「好きだ」って。
タマの事は好きだ。猫として。でもそのタマが、人みたいになって、今までのような好きで良いんだろうか、と考えてしまう。
今彼は、どうして良いか解らないと、感じている。
どうして良いのか解らないのなら、前のままで良いじゃないか、とも思っている。
だって、今まではそれで、楽しくやって来たじゃないか。
しかしネコマタは、頭を横に振った。
「猫のときはそれでも良いけれど、まろは、ほら、やっぱり、ネコマタだし……」
ネコマタは、背中を預けながら、少し黙りこくった。
今、彼を感じているこの背中だ。
猫の小さな額と言うけれど、背中だって小さい。
随分と伸びるけれど、それでも、彼を感じたい気持ちには足りない。
ネコマタの姿に戻る。
すると、ほら、両腕で包むように、御主人がまろを抱いていてくれる。
顔を項垂れて、右肩に少しだけ預けてきてくれる。
きゅっと、彼の全身で抱きしめられる事もできる。
その感触に、尻尾が踊り狂って、絡まってしまう。
こんな気持ち……。
猫の体じゃあ、やっぱり、小さすぎるよ。
彼はこの猫と出会った時の事を思い出す。
そんな小さな体を草むらに重さで半分くらい埋めて、猫が丸くなっていた。
まさか……死んでる……?
気になって足を止めてしまった。
「ち、ちち……」
舌を鳴らして呼んでみる。
すると猫はその呼びかけに、ぴくっ、と僅かに頭を動かした。
なぁ…ぉ。
大きく伸びをした。
凍てついた死体のようであったそれが まるで氷が緩むように柔らかくなっていく。見ているだけで、こちらまで息を吹き返すような柔らかな仕草だった。かわいらしかった。
この子、ほしいなぁ……。
彼はそう思った。
そう言う好意なのだ。
「俺は、お前を飼い猫だとしか思っていない。だからこれからも、飼い猫のようにしか、好きになれない、かもしれない……」
そこまで言って、彼は少し申し分けなく思って、少し言葉を淀ませていた。
「それでも良いのか?」
飼い猫として好きであるけど、人としては解らなかった。
でも彼女の事を、好きである事は変わらなかった。
彼はそれを、言いたかったらしい。
ネコマタは応えた。
「まろは知っているにゃよ。今まろは、その言葉が、とっても嬉しいんにゃよ」
その二本の尻尾が、彼の腕に絡まるように寄り添わせた。
彼の膝の上に寝そべっる時も、御主人をからかうようにしてみせた時も、金色の缶詰を開けた時も、そして最初に抱き上げた時、やはりこのネコはそうしていた。
まだその時は、尻尾は一本だったが。
彼はそれを知っていたから、
そして今度こそ、キスをする。
そのあとで、少しずつ肌を合わせた。
彼女は、彼より少し小さな、それでも猫より大きなネコマタの体を一杯に使って、それを感じていた。
彼はこんな具合で、チキンで、おっかなびっくりだけれど。缶切りで缶詰を開けるように、ゆっくりだけど、彼が開けてくれる。あの時はネコ缶で、今はネコマタの服だったり体だったりなのだが。
どちらにせよ、それはとても幸せな事なのだと、このネコマタは知っているし、これから知るのだ。
後日、猫の盛り声がうるさいと近所から苦情が来た。
ネコマタと、そして彼は少しだけ、反省した。
11/06/20 16:18更新 / 雑食ハイエナ