処刑人の恋歌
セイレーンが詠っていた。
それは葬送行進曲。しかし勇ましい。
死にいく者に強要する、マーチ。
言わば、刑場への行進曲。
誇らし気に人を殺す為の歌。
一隻の船がいた。
損傷が激しく、自力での航行が不可能であった。
だが問題なのは、その船の現状ではない。
その船が何を運んでいたか。
人魚の血。
運ぶだけではなく、あの者たちの手は人魚達の生き血に塗れていた。
だからこのセイレーンは、魔力の歌で彼らを閉じ込めた。海神ポセイドンの名の下、奴らが助からぬように、助けられぬように。そして助かる手段も無く、ただただ緩慢に死んで行くだけの存在である事を奴らに知らしめて、その自覚の中で飢えて死ぬまで生きながらえさせようとした。
それは処刑だった。
彼女はその残ったメインマストの一番上に佇んで、下を見下ろしていた。
下は、ちょっとした騒動になっていた。
一瓶の、唯一の人魚の血を奪い合っていた。
食料や水が尽きて行く中で、彼等にはそれが生き延びるだだ一つの方法だと勘違いしているようだった。
でも、人魚だって食べなければ死ぬだろう? あれはただ、寿命が延びるだけというのに。
何人かは海に飛び込んだ。この死んで行く事しかできない甲板の上の地獄よりはマシだと。運が良ければ陸に泳ぎ着けるかもしれない。あるいはサメの餌になるにしろ、このまま強要されるよりは、より良い死が訪れるように思えた。
だがそんな奴らを、海面すらも拒んだ。まるで平手で打ち返すように、また船の甲板の上に放り戻された。死んで還る事すらも拒まれる。
やがて水も無く食料も尽きた船上は、静かになった。
彼女はどこか、思い詰めた面持ちで居たが、それも覚悟を決めた表情を浮かべると、セイレーンは静かになった甲板に舞い降りた。
すると一人の青年が姿を現した。
セイレーンはやはり、と口を開いた。
「生き残ったのは、君か。やっぱりね。それが一番、合理的だわ。他の連中なら兎も角、君なら私に助けられる可能性がある。人魚の血を飲んで、一番最後まで生き残っている意味があるもの」
二人は顔馴染みであった。
「それで、幼馴染みに命乞いする?」
挑発的なセイレーンの物言いに、
しかし彼は、静かに頭を横に振った。
「駄目だ、僕はもう、何人も人魚を殺す手伝いをしているんだ。君は仲間を助けなかったんだから、僕も助けちゃ駄目だよ」
その言葉にセイレーンは舌打ちした。
「いい子ぶるんじゃないよ! 弱っちくて、いつも誰かの言いなりになってただけの奴が、昔からッ! そんなっ……あんな奴ら仲間だなんて言わないで! 人魚を殺したあんな奴らと、あんたが何で一緒な訳? あんたは奴らの仲間なんかじゃない! 違う! 違うって言ってよ! そうだ。お前は奴らに捕まってたんだ。だからこんな船に居たんだよな?!」
先程までの相手の感情を露にさせる様な喋り方は失せ、今は逆に彼女が感情を露にしていた。
しかしセイレーンがそのように彼への感情を露にするほど、彼の感情は色褪せて行くように沈んで行った。
「君は見ていたんだろう?」
そう、彼女は見ていた。
彼等の、そして彼の悪事を。
彼女はそれを罰しに来た。海の中に彼等を閉じ込め、また海からも拒絶させて、彼等を罰した。
彼も罰すべき一人だ。
免罪する合理的な理由は、何処にも無い。
「じゃあなんで、人魚の血なんかを飲んだの?」
「死にたく無かった」
「あれは不死の妙薬じゃあ無いわ。単に延命する、その仕組みを与えるだけ」
あれで細胞が不死化する訳ではない。生きる以上、飢えぬ訳ではないのだ。
セイレーンの歌で擬似的に隔離・封鎖されたこの飢餓環境では、それは無益であり、むしろ毒である。
飢えて、本来であれば死ねる筈の状況でも、人魚の血は人を生かす。
それはただ生かそうとされるだけで、得られるものを得ようと半ば細胞同士が共食いをするように生き残ろうとする。その苦痛がそれを飲んだ者の心身を苛んでいく。
死に行く過程としては、酷く残酷なな死に方なのではないのだろうか。
そして彼の死は、決定している。
「それでも良いんだ。君が来るのを待っていた。誰にも邪魔されず、二人だけになる時間が欲しかった。君に言っておきたい事があったんだ」
「一年前に私が貸した金なら、返さなくても良いよ。あんたの死体から金目のものをひっぺがす」
ああ、そうだったね、と彼は苦笑した。
彼女には、彼が何を言おうとしているか、解っている様な気がした。
「君が好きだ」
思っていた通りの言葉だった。
「死ぬってのに、告白するの?」
「死ぬからさ。だから最期に君に伝えておきたかった」
「ふざけんな! 今から死のうっていう人間にコクられて、女が幸せになれる訳ないだろう! 自己満足も大概にしろ!」
「自己満足さ!」
大きな声を上げて、彼は自身の激しさに耐えかねてよろめいた。そしてその激しさを発する為に力を使い過ぎて、よろめく自分を支え切れずに床に尻を着いた。もう、彼の燃料切れという死は近いのだろうか。
「でも、言わないよりは良い」
ああ、そうさ。聞かずに死なれるよりはよっぽど良い。
それがどれだけ残酷な事であろうとも。
彼女には解っていた。
すっと、セイレーンは左の翼を胸に宛て、右の翼を彼に捧げて見せた。
彼の言葉に応えようと、恋の歌を奏でようとする。
「………いや」
彼女は詠うのを思い留まった。
彼が嫌いな訳ではない。
既存のコードで言い表したく無かった。
やや音程を崩して、彼女は詠った。
「花園は蹂躙されるもの。
それ故の美しさ。
穢される為の儚さ。
それが小さな花壇でも。
蹂躙する者を讃えよ。
彼こそが、私の理解者ぞ。
私は、抉じ開けられ、突っ込まれ、ほじられ、
そして、全てがほぐれた土になった時、
私は一粒の種を、得る」
「せめてコクったんなら、女を抱いて逝けよ」と。
セイレーンは彼に迫った。
「蹂躙するのは愛しいからで、
蹂躙されるのも愛しいからで。
香水は混ざり合わせて香しい。
花と花のまぐわい」
花のような甘い香りがした。
彼はセイレーンの蜜壷に顔を埋める。
久方ぶりに、その喉の渇きを癒す。
乾いてざらざらと、蜜を嘗める舌が僅かばかり潤う。
「君のお腹のライン、綺麗だ……やわらかい」
彼の舌と歯牙が、蜜壷から上の、腹の柔らかいその肉を撫でた。
皮をよけて、その下の肉を掘り出すように、深くセイレーンの肉に彼の舌が食い込もうとしていた。その届くまでの深さから掘り起こそうと、柔らかな下腹の肉を掬い上げるように嘗め上げた。
それを何度も、無心に何度もそうされて、皮膚を擦られ肉を揺らされてセイレーンは、自分が破られるような思いがした。
そのまま腑を引きずり出されるような、そんな予感めいた錯覚を覚えた。
彼の飢えを、舌やその歯牙を当てられる度に、その肌に強く感じてしまっていた。
彼が自分を食べてしまいたいと思う気持ちを、彼女は知っている。
人魚の血が、生きようとするその魔力が、そうしてでも生きろと彼を支配している。
彼から強く噛まれて、血がにじんで皮膚の上に小さな玉を作る。
「愛しの獣の歯牙にかけられて、私の血は紅い野イバラのように……しかし甘く……」
セイレーンは、恍惚と溜息のようなフレーズを零す。
「たべて……、
食べてしまっても良いのよ。
貴男の飢えは私の飢えで、
貴男の渇きは私の渇き、
私はそれを感じてしまったから……。
それは全く別物だけど、同じ物。求めるのは同じ。
貴男は私の血肉が無いと飢えてしまう。
そして私も貴男がいなければ、飢えてしまう。
ならば、答えは一つでしょう?
私を、たべて」
飢えを見透かされて、それで更に自覚して、彼は生唾を何度か呑み込んだ。
柔らかな鶏肉が、良い匂いを立てていた。
セイレーンの熱狂的で情熱に啼き上げる声が響き渡った。
そして彼のありったけの声量が、セイレーンのその歌声に覆い被さった。
「違う! 絶対に、絶対に違う! 僕は、君を食べたい訳じゃ無い!」
彼は、彼女の歌を否定するかのように、強引に彼女と繋がった。
自分の望みはこれだ、と、それを彼女に、自分の物を彼女の中へと打ち据えた。
その歌を黙らす為に。その歌を詠う声が、自分が突き込む快楽の声で覆い尽くされるように。
彼女は、彼に喰われる為の歌を詠っていたのだ。
貫かれる痛みと快楽に声を震わせて、しかしセイレーンは詠い続けた。
「それは貴男の願望、
しかし願いは違う。
私はどちら?」
好きな女か、美味しそうな鶏肉か。
セイレーンはどちらでも良かった。
あるいは、ここを周りから隔絶しているセイレーンの歌声が消えれば、その歌声の主である彼女が食べられてしまえば、彼は解き放たれ、助かるかもしれない。
でも彼は、それを拒んだ。
セイレーンは強く詠った。
「ああ、なんて男だろう!
女の気も知らないで!
貴男に生きていてもらいたいと言う気持ちも、
一緒に果ててしまいたいという気持ちも、理解しないのか!
なんという愚者だ!
やっぱり愚かだ!
だから罪人となったのだ!
この罪人は、愚か故にその罪が解らず、罪を犯し続けたか?!
この世に大罪があるとすれば、こいつが背負っているに違いない!」
詠い切って、その声が吸われたように、静かになった。
肌と羽を擦る音と、突き上げられるように乱れた熱い息だけが聞こえて来た。
次第に強く抱き合って。
「お前を助けられない執行人を赦してほしい……」
悲しみの、歌にはならない旋律だけを僅かに示して、セイレーンは詫びた。
彼は、自分が悪いのだし、それで詫びる必要は無いと言ったのだが。
こいつはどうしようもなくて、悪党に呑まれて悪事に手を染める、駄目で気弱な奴だけれど。
どんな奴であろうと、隣に居たのだ。
そんなこいつを、隣に今も居るのに助けられない。
彼はがむしゃらに、セイレーンと更に奥で繋がろうとしていた。一心に彼女を愛して、擦れ合う感触に溺れて、そうして彼女への空腹を思い出さぬようにしていた。
セイレーンは詠った。
「せめて私は彼の種を受ける。
彼はこの冬で枯れてしまうから。
木枯らしが彼を蝕む。
彼は女に種を蒔く。
冬に枯れてしまう草の様に。
春に、貴男は生まれ変わるかもしれない。
その種から芽吹いて」
彼は彼女と繋がる感触に溺れながら、微かにその歌を聞いていた。まず、彼女の歌のように生まれ変われるだなんて思えなかった。たぶんそう詠う彼女も、そうは願ってはいたかもしれないが、信じる事なんかできなかっただろう。
なのに、彼女は詠っていた。
だから彼は、幼なじみのこのセイレーンの傍らに、誰か付いていて欲しかった。
「僕の死が、君を殺さないように、僕は君に種を播く」
まるで詠うように、彼は短い言葉を紡いだ。
彼の体は、体力を失って冷たくなりつつあった。そんな体をセイレーンは翼で包み込んで、自分のより奥へと、最も深い所へと誘う。
彼女は詠う。
ただ一小節。
「来てぇ…」
音程を崩し、彼への泣きじゃくりたい程の心情の揺らぎを吐露した。
彼は導かれるままに、彼女を深々と刺し貫かんばかりに、それを突き込んでいた。
彼が深い所に達しするの感じて、そして、次に来るであろう精の迸りの恍惚をセイレーンは待った。
喉を絞り、最期に、彼に有りっ丈の、与えられる物に対する歓喜の歌を聴かせてやろうと、それで送ってやろうと、待っていた。
しかし、迸りは、来なかった。いつまでたっても。
彼女の胎は空虚のまま、彼の精で満たされる事は無かった。永遠に。
「嘘……でしょ……」
彼は、彼女の胸にその身を預けたまま、事切れていた。
最後の力でそれを突き込んで、しかし放つ事叶わず、力尽きていた。
飢え切って死んでいた。
人魚の血が如何に生かそうとしても、それ自体が生きる糧を失って、細胞は冷たく動かなくなる。
セイレーンは、力を失って自分の中から零れ落ちるように床に崩れる彼に、またのしかかり股がって、まだ繋がったままの腰を一心不乱に振り始めた。
そうすれば、彼が今度こそ満たしてくれる。彼が驚いて、蘇るのではないかと妄執して。
しかし自分の中で彼のものが、しだいに、少しずつ力を失い、固さと存在感を失っていくのが解った。その温かい筈の自分の胎内で、冷たくなっていくその実感が、何よりも彼女に、彼の死を残酷までに克明に理解させようとしていた。
セイレーンは悲鳴を上げながら、呆然と立ち上がった。
無為に激しくして毟られた羽が何枚か、はらはらと床に落ちた。
もう彼と接している事に耐えれなかった。
冷たくなるそれを、肌で感じていたく無かった。
狂いそうだった。
二人が繋がっていたそこから、互いの体液が混ざり合った粘液が、互いの繋がりを表すように、それは細い糸になって二人を繋いでいた。
その中に、彼女は白い色を見つける。
僅かな男の精子。
「あと少し……あと僅か……たった、それだけ、なのに!」
涙が溢れた。
その涙を自分の羽で器用に溜めると、風切羽から滴らせて、それを彼の口へと移す。
「ねぇ…、生き返ってよ。水だよ。だから、生き返ってよぉ!」
彼女は、翼の羽を掻き毟り始めた。
「私を毟って手羽先にして食べてでも良いから、生きていてよ。なんで私を食べなかったのよ。人間でしょ。人魚をたくさん殺して生きて来た悪党でしょ……なのに、たかがスズメのようなセイレーン一匹に何を躊躇うのよ、なのに、あなたは」
体が求めるなにもかもが、干上がっていた筈なのだ。人魚の血を飲み、活性した細胞がその維持に栄養を強度に求めていた筈なのだ。飲まなかった時よりも、強い飢えと渇きに襲われていた筈だ。
だから彼は、彼女を食べてしまもうとしていた。
何度その柔肌を食いちぎろうとしたか。
彼女には解っていた。そしてその度に彼女は戦慄した。
だが、それとは別に妙に達観した、満足感にも似たものに彼女は満たされてもいた。それがどのような感情であるにしろ、しかし、だがその欲求に彼は耐えて、彼女を抱き続けた。
自らが生き残りたいのであれば、彼はセイレーンを食べてしまうのも一つの手だ。
逆にセイレーンを食べてしまうのを恐れるのであれば、会わなければ良い。
しかし彼が生き延びたのは、僅かな時間でもこのセイレーンと会っていきたかったからだ。それが解るから彼女は、喰われるにしろ抱き合うにしろ、自分の有りっ丈を彼に捧げるつもりであったのに。
そして、ああまでして自分に向けられた彼の全てを、このセイレーンはこの身に受け止めようとしていたのに。
空の小瓶が、何処からか転がり落ちて音を立てた。
僅かに、底に赤黒いものがこびり付いていた。
それは、人魚の血だ。
彼を飢えさせた物だ。飢えてそれでも生き延びようとさせた物だ。
「なのに……っ!
なんで、なんでよ! なんでもう少し、あと少しだけで良いから、こいつに寿命を与えなかったのよ!」
セイレーンは、自分が言っている事が的外れである事は承知していた。
そもそも、その苦しみを知っているから、あえて売血商人から人魚の血を奪わず、それすらも罰の一環としたのではないか。
奴らに一人でも、より強い苦しみを。
それを受けたのは彼だった。
彼女との最後の逢瀬の為に。
それなのに、せめて、もう少し。
セイレーンは声を張り上げた。
それは原始的な歌であった。
叫びを捧げる、感情の奉る。
詠う事で、この現実が変えられると言わんばかりに、声を張り上げた。
「海神ポセイドンよ!
何故貴女は、私の子供を奪ったか!
私に授かるはずだった彼との子を!
罪人は証を残してはならないのか!?
私のあいつへの気持ちも残してはならないのか!?
それは悪なのか!?
あってはならぬのか!?
応えよ!」
なんでだよ、ポセイドン様。溺れた女はネイレスにして助けるくせに、男は無視かよ。それとも、こいつが罪人だからなのか?
「こんな良い奴はいなかった!
あいつは自分の罪を知っていた!
そしてそれを隠さず、否定もしなかった!
それであいつは死んだ!
それを一度の罪で!」
あいつは良い奴だった!
でも、例え良い奴でも、彼は海にとっての罪人だ。それに一度ではない筈だ。
なにより、彼等に手にかかった人魚は、もっと良い奴だったかもしれないじゃないか。
最後に奴らの手にかかりそうになったあのメロウも、とても良い奴だ。
でも、彼女は詠い続けた。
嘘でもペテンでも、彼女は詠い続けた。
歌に込める想いは、必ずしも正しい訳じゃあないから。
正しいか否かは、そんなものとは関係なく、それは自分の想いだから。
自分の想いを詠い上げるからこそ、それが歌姫の力を励起させ、歌は魔力を帯びる。
しかしついにはその声も嗄れ潰れ、しかし何も変わらず、彼は生き返らず、セイレーンは一人のままで。
彼女は術を失ってばったり、床に倒れ伏した。
彼の死に顔がそこにあった。
意外と穏やかな表情だった。
どんな気かしれないが、告白した女を抱きながら死ねたんだ、彼はカレナリに幸せだったんだろう。
伺い知る限りは彼も満足のうちに死に……。
満足して死して行く、それで終えれた者は良い。
だが彼女は、これからも生きてゆかねばならない。
やがて彼のその穏やかな顔も朽ちて消えて、生きた者の脳裏からも薄れ、彼のほとんどを思い出せなくなってしまうのだろうか。
セイレーンは彼の屍の横に並んで、自らを横たえた。
このまま、彼の後を追って飢えてしまおうか。この翼を折って飛べないようにでもして。
一時の激情に任せて死のうなどと、馬鹿馬鹿しい考えだ。だがそうしなければ、ずっと、そして必ず後悔するだろう。その後悔に何の価値がある。
彼から預かって持ち帰る筈だったものも、受け取りそびれてしまった。
「あいつとの子にはなんの罪は無いだろう? なら、授けてくれても良かったじゃないか……」
潮風が彼女の頬を撫でた。
海の上を吹き抜ける潮風のどれもこれもが、ポセイドンの魔力を含んだ風である。
それは優し気でありながら、しかし力強く吹き抜けて行った。
その風は彼の上着をはためかせ、彼女はその内ポケットの中に、彼女宛の封筒に入った手紙を見つけた。
推そらく、自分が生きている間に、彼女が舞い降りて来なかった時の為に認めたのだろう。
封筒の中に手紙と、銀貨が一枚、それとのど飴。
まず銀貨に関して、それを昨年の借金の返済とする、と記されていた。
そして出来れば、その銀貨を酒代に使うようにと、書かれていた。
「皆で酒を飲め、か。私に生きて帰れと言うんだな」
帰って、そう、家にちゃんと帰って、その晩の皆で呑み明かす酒代にしてくれる事を願っていると、重ねて書かれていた。
先まで自分の翼を折ろうとしていた自分とその恋心を見透かされていたようで、セイレーンは面白く無かった。
ならばさっさと、その心のうちを明かしてくれれば良かったものの。
しかし、そういえば彼は、そんな酒の席でも自分の仕事について話したがらなかったか。
手紙を読み進めた。
君が酒を呑んだ後の声は酷い、とも書かれていた。
その呑んだ後の酷い声で詠ったのが、セイレーンにとっての"特別な歌"だった。酔った勢いに任せて彼に聴かせたのだが、酔い潰れたあまりに酷い声で、いつもまるで別物であった。
だから呑んだ後でこれを嘗めろ、と、のど飴を同封したのだろう。
しかしこの地獄のように飢えた中にあって、この飴一つがどれだけ至宝で、それが強い誘惑で彼を苛んだ筈なのに、彼は彼女の為にそれを残していた。
セイレーンはそれを嘗めた。
「効かねぇや…」
彼の為に詠った歌で、すっかり喉を潰してしまっていた。
もう、歌は詠えまい。捧げる相手も失ってしまった。
彼女は彼からの銀貨を、海に放り捨てた。
人魚の血を売って得た銀貨を、受け取るわけにはいかない。
小さな水音と共に呑み代は無くなり、それを使う為に帰る必要も無くなった。
しかしセイレーンは、乱れた羽を繕って、そして羽撃いて空へと舞い上がった。
一度、メインマストのてっぺんに留まると、彼の姿をじっと見た。
「酒は呑んでやるよ、有り難く思え、よ」
そして悪夢の終わりの歌を詠う。
悪夢のまま乗組員が死したこの船を、その悪夢から開放する。
嗄れてしまった声であったが、この歌にはむしろ相応しい。
それは哀れな骸を晒す、見せしめの為でもあるが。
ならばせめて、あの男の遺体が陸の者に見つかり、大地に帰れるように。
海は奴らと彼を拒絶しているのだから、せめて……。
晴れゆく空の中へ、詠い終えたセイレーンは飛び立った。
そして生きた者は、誰もいなくなった。
あのセイレーンは、あれ以来、すっかり喉を潰してしまっていた。
だから、その歌声で男を誘惑する事は無かった。
彼女にはもう、その必要は無かったのだ。
彼女の傍に、幼いセイレーンが寄り添っていた。
それは死んだ彼との子供であった。彼女が感じられぬ程の雫が芽吹いたものなのであろうか。そのままでは芽吹く筈が無いそれが、海神ポセイドンの意志で届いて結ばれたのだろうか。あるいはそれを知っていて、あの潮風は彼の上着を揺らしたのであろうか。
それは彼女には解らなかったが。
何も残さなかった彼が、唯一彼女へと贈ったその娘であった。
セイレーンは彼とのその娘の頭を優しく撫でて、その暖かさを確かめていた。
そしていつものように海風は吹いて、そんな二人を撫でていた。
その風に乗せるかの様に、今日もどこかでセイレーンが恋の歌を詠っていた。
それは葬送行進曲。しかし勇ましい。
死にいく者に強要する、マーチ。
言わば、刑場への行進曲。
誇らし気に人を殺す為の歌。
一隻の船がいた。
損傷が激しく、自力での航行が不可能であった。
だが問題なのは、その船の現状ではない。
その船が何を運んでいたか。
人魚の血。
運ぶだけではなく、あの者たちの手は人魚達の生き血に塗れていた。
だからこのセイレーンは、魔力の歌で彼らを閉じ込めた。海神ポセイドンの名の下、奴らが助からぬように、助けられぬように。そして助かる手段も無く、ただただ緩慢に死んで行くだけの存在である事を奴らに知らしめて、その自覚の中で飢えて死ぬまで生きながらえさせようとした。
それは処刑だった。
彼女はその残ったメインマストの一番上に佇んで、下を見下ろしていた。
下は、ちょっとした騒動になっていた。
一瓶の、唯一の人魚の血を奪い合っていた。
食料や水が尽きて行く中で、彼等にはそれが生き延びるだだ一つの方法だと勘違いしているようだった。
でも、人魚だって食べなければ死ぬだろう? あれはただ、寿命が延びるだけというのに。
何人かは海に飛び込んだ。この死んで行く事しかできない甲板の上の地獄よりはマシだと。運が良ければ陸に泳ぎ着けるかもしれない。あるいはサメの餌になるにしろ、このまま強要されるよりは、より良い死が訪れるように思えた。
だがそんな奴らを、海面すらも拒んだ。まるで平手で打ち返すように、また船の甲板の上に放り戻された。死んで還る事すらも拒まれる。
やがて水も無く食料も尽きた船上は、静かになった。
彼女はどこか、思い詰めた面持ちで居たが、それも覚悟を決めた表情を浮かべると、セイレーンは静かになった甲板に舞い降りた。
すると一人の青年が姿を現した。
セイレーンはやはり、と口を開いた。
「生き残ったのは、君か。やっぱりね。それが一番、合理的だわ。他の連中なら兎も角、君なら私に助けられる可能性がある。人魚の血を飲んで、一番最後まで生き残っている意味があるもの」
二人は顔馴染みであった。
「それで、幼馴染みに命乞いする?」
挑発的なセイレーンの物言いに、
しかし彼は、静かに頭を横に振った。
「駄目だ、僕はもう、何人も人魚を殺す手伝いをしているんだ。君は仲間を助けなかったんだから、僕も助けちゃ駄目だよ」
その言葉にセイレーンは舌打ちした。
「いい子ぶるんじゃないよ! 弱っちくて、いつも誰かの言いなりになってただけの奴が、昔からッ! そんなっ……あんな奴ら仲間だなんて言わないで! 人魚を殺したあんな奴らと、あんたが何で一緒な訳? あんたは奴らの仲間なんかじゃない! 違う! 違うって言ってよ! そうだ。お前は奴らに捕まってたんだ。だからこんな船に居たんだよな?!」
先程までの相手の感情を露にさせる様な喋り方は失せ、今は逆に彼女が感情を露にしていた。
しかしセイレーンがそのように彼への感情を露にするほど、彼の感情は色褪せて行くように沈んで行った。
「君は見ていたんだろう?」
そう、彼女は見ていた。
彼等の、そして彼の悪事を。
彼女はそれを罰しに来た。海の中に彼等を閉じ込め、また海からも拒絶させて、彼等を罰した。
彼も罰すべき一人だ。
免罪する合理的な理由は、何処にも無い。
「じゃあなんで、人魚の血なんかを飲んだの?」
「死にたく無かった」
「あれは不死の妙薬じゃあ無いわ。単に延命する、その仕組みを与えるだけ」
あれで細胞が不死化する訳ではない。生きる以上、飢えぬ訳ではないのだ。
セイレーンの歌で擬似的に隔離・封鎖されたこの飢餓環境では、それは無益であり、むしろ毒である。
飢えて、本来であれば死ねる筈の状況でも、人魚の血は人を生かす。
それはただ生かそうとされるだけで、得られるものを得ようと半ば細胞同士が共食いをするように生き残ろうとする。その苦痛がそれを飲んだ者の心身を苛んでいく。
死に行く過程としては、酷く残酷なな死に方なのではないのだろうか。
そして彼の死は、決定している。
「それでも良いんだ。君が来るのを待っていた。誰にも邪魔されず、二人だけになる時間が欲しかった。君に言っておきたい事があったんだ」
「一年前に私が貸した金なら、返さなくても良いよ。あんたの死体から金目のものをひっぺがす」
ああ、そうだったね、と彼は苦笑した。
彼女には、彼が何を言おうとしているか、解っている様な気がした。
「君が好きだ」
思っていた通りの言葉だった。
「死ぬってのに、告白するの?」
「死ぬからさ。だから最期に君に伝えておきたかった」
「ふざけんな! 今から死のうっていう人間にコクられて、女が幸せになれる訳ないだろう! 自己満足も大概にしろ!」
「自己満足さ!」
大きな声を上げて、彼は自身の激しさに耐えかねてよろめいた。そしてその激しさを発する為に力を使い過ぎて、よろめく自分を支え切れずに床に尻を着いた。もう、彼の燃料切れという死は近いのだろうか。
「でも、言わないよりは良い」
ああ、そうさ。聞かずに死なれるよりはよっぽど良い。
それがどれだけ残酷な事であろうとも。
彼女には解っていた。
すっと、セイレーンは左の翼を胸に宛て、右の翼を彼に捧げて見せた。
彼の言葉に応えようと、恋の歌を奏でようとする。
「………いや」
彼女は詠うのを思い留まった。
彼が嫌いな訳ではない。
既存のコードで言い表したく無かった。
やや音程を崩して、彼女は詠った。
「花園は蹂躙されるもの。
それ故の美しさ。
穢される為の儚さ。
それが小さな花壇でも。
蹂躙する者を讃えよ。
彼こそが、私の理解者ぞ。
私は、抉じ開けられ、突っ込まれ、ほじられ、
そして、全てがほぐれた土になった時、
私は一粒の種を、得る」
「せめてコクったんなら、女を抱いて逝けよ」と。
セイレーンは彼に迫った。
「蹂躙するのは愛しいからで、
蹂躙されるのも愛しいからで。
香水は混ざり合わせて香しい。
花と花のまぐわい」
花のような甘い香りがした。
彼はセイレーンの蜜壷に顔を埋める。
久方ぶりに、その喉の渇きを癒す。
乾いてざらざらと、蜜を嘗める舌が僅かばかり潤う。
「君のお腹のライン、綺麗だ……やわらかい」
彼の舌と歯牙が、蜜壷から上の、腹の柔らかいその肉を撫でた。
皮をよけて、その下の肉を掘り出すように、深くセイレーンの肉に彼の舌が食い込もうとしていた。その届くまでの深さから掘り起こそうと、柔らかな下腹の肉を掬い上げるように嘗め上げた。
それを何度も、無心に何度もそうされて、皮膚を擦られ肉を揺らされてセイレーンは、自分が破られるような思いがした。
そのまま腑を引きずり出されるような、そんな予感めいた錯覚を覚えた。
彼の飢えを、舌やその歯牙を当てられる度に、その肌に強く感じてしまっていた。
彼が自分を食べてしまいたいと思う気持ちを、彼女は知っている。
人魚の血が、生きようとするその魔力が、そうしてでも生きろと彼を支配している。
彼から強く噛まれて、血がにじんで皮膚の上に小さな玉を作る。
「愛しの獣の歯牙にかけられて、私の血は紅い野イバラのように……しかし甘く……」
セイレーンは、恍惚と溜息のようなフレーズを零す。
「たべて……、
食べてしまっても良いのよ。
貴男の飢えは私の飢えで、
貴男の渇きは私の渇き、
私はそれを感じてしまったから……。
それは全く別物だけど、同じ物。求めるのは同じ。
貴男は私の血肉が無いと飢えてしまう。
そして私も貴男がいなければ、飢えてしまう。
ならば、答えは一つでしょう?
私を、たべて」
飢えを見透かされて、それで更に自覚して、彼は生唾を何度か呑み込んだ。
柔らかな鶏肉が、良い匂いを立てていた。
セイレーンの熱狂的で情熱に啼き上げる声が響き渡った。
そして彼のありったけの声量が、セイレーンのその歌声に覆い被さった。
「違う! 絶対に、絶対に違う! 僕は、君を食べたい訳じゃ無い!」
彼は、彼女の歌を否定するかのように、強引に彼女と繋がった。
自分の望みはこれだ、と、それを彼女に、自分の物を彼女の中へと打ち据えた。
その歌を黙らす為に。その歌を詠う声が、自分が突き込む快楽の声で覆い尽くされるように。
彼女は、彼に喰われる為の歌を詠っていたのだ。
貫かれる痛みと快楽に声を震わせて、しかしセイレーンは詠い続けた。
「それは貴男の願望、
しかし願いは違う。
私はどちら?」
好きな女か、美味しそうな鶏肉か。
セイレーンはどちらでも良かった。
あるいは、ここを周りから隔絶しているセイレーンの歌声が消えれば、その歌声の主である彼女が食べられてしまえば、彼は解き放たれ、助かるかもしれない。
でも彼は、それを拒んだ。
セイレーンは強く詠った。
「ああ、なんて男だろう!
女の気も知らないで!
貴男に生きていてもらいたいと言う気持ちも、
一緒に果ててしまいたいという気持ちも、理解しないのか!
なんという愚者だ!
やっぱり愚かだ!
だから罪人となったのだ!
この罪人は、愚か故にその罪が解らず、罪を犯し続けたか?!
この世に大罪があるとすれば、こいつが背負っているに違いない!」
詠い切って、その声が吸われたように、静かになった。
肌と羽を擦る音と、突き上げられるように乱れた熱い息だけが聞こえて来た。
次第に強く抱き合って。
「お前を助けられない執行人を赦してほしい……」
悲しみの、歌にはならない旋律だけを僅かに示して、セイレーンは詫びた。
彼は、自分が悪いのだし、それで詫びる必要は無いと言ったのだが。
こいつはどうしようもなくて、悪党に呑まれて悪事に手を染める、駄目で気弱な奴だけれど。
どんな奴であろうと、隣に居たのだ。
そんなこいつを、隣に今も居るのに助けられない。
彼はがむしゃらに、セイレーンと更に奥で繋がろうとしていた。一心に彼女を愛して、擦れ合う感触に溺れて、そうして彼女への空腹を思い出さぬようにしていた。
セイレーンは詠った。
「せめて私は彼の種を受ける。
彼はこの冬で枯れてしまうから。
木枯らしが彼を蝕む。
彼は女に種を蒔く。
冬に枯れてしまう草の様に。
春に、貴男は生まれ変わるかもしれない。
その種から芽吹いて」
彼は彼女と繋がる感触に溺れながら、微かにその歌を聞いていた。まず、彼女の歌のように生まれ変われるだなんて思えなかった。たぶんそう詠う彼女も、そうは願ってはいたかもしれないが、信じる事なんかできなかっただろう。
なのに、彼女は詠っていた。
だから彼は、幼なじみのこのセイレーンの傍らに、誰か付いていて欲しかった。
「僕の死が、君を殺さないように、僕は君に種を播く」
まるで詠うように、彼は短い言葉を紡いだ。
彼の体は、体力を失って冷たくなりつつあった。そんな体をセイレーンは翼で包み込んで、自分のより奥へと、最も深い所へと誘う。
彼女は詠う。
ただ一小節。
「来てぇ…」
音程を崩し、彼への泣きじゃくりたい程の心情の揺らぎを吐露した。
彼は導かれるままに、彼女を深々と刺し貫かんばかりに、それを突き込んでいた。
彼が深い所に達しするの感じて、そして、次に来るであろう精の迸りの恍惚をセイレーンは待った。
喉を絞り、最期に、彼に有りっ丈の、与えられる物に対する歓喜の歌を聴かせてやろうと、それで送ってやろうと、待っていた。
しかし、迸りは、来なかった。いつまでたっても。
彼女の胎は空虚のまま、彼の精で満たされる事は無かった。永遠に。
「嘘……でしょ……」
彼は、彼女の胸にその身を預けたまま、事切れていた。
最後の力でそれを突き込んで、しかし放つ事叶わず、力尽きていた。
飢え切って死んでいた。
人魚の血が如何に生かそうとしても、それ自体が生きる糧を失って、細胞は冷たく動かなくなる。
セイレーンは、力を失って自分の中から零れ落ちるように床に崩れる彼に、またのしかかり股がって、まだ繋がったままの腰を一心不乱に振り始めた。
そうすれば、彼が今度こそ満たしてくれる。彼が驚いて、蘇るのではないかと妄執して。
しかし自分の中で彼のものが、しだいに、少しずつ力を失い、固さと存在感を失っていくのが解った。その温かい筈の自分の胎内で、冷たくなっていくその実感が、何よりも彼女に、彼の死を残酷までに克明に理解させようとしていた。
セイレーンは悲鳴を上げながら、呆然と立ち上がった。
無為に激しくして毟られた羽が何枚か、はらはらと床に落ちた。
もう彼と接している事に耐えれなかった。
冷たくなるそれを、肌で感じていたく無かった。
狂いそうだった。
二人が繋がっていたそこから、互いの体液が混ざり合った粘液が、互いの繋がりを表すように、それは細い糸になって二人を繋いでいた。
その中に、彼女は白い色を見つける。
僅かな男の精子。
「あと少し……あと僅か……たった、それだけ、なのに!」
涙が溢れた。
その涙を自分の羽で器用に溜めると、風切羽から滴らせて、それを彼の口へと移す。
「ねぇ…、生き返ってよ。水だよ。だから、生き返ってよぉ!」
彼女は、翼の羽を掻き毟り始めた。
「私を毟って手羽先にして食べてでも良いから、生きていてよ。なんで私を食べなかったのよ。人間でしょ。人魚をたくさん殺して生きて来た悪党でしょ……なのに、たかがスズメのようなセイレーン一匹に何を躊躇うのよ、なのに、あなたは」
体が求めるなにもかもが、干上がっていた筈なのだ。人魚の血を飲み、活性した細胞がその維持に栄養を強度に求めていた筈なのだ。飲まなかった時よりも、強い飢えと渇きに襲われていた筈だ。
だから彼は、彼女を食べてしまもうとしていた。
何度その柔肌を食いちぎろうとしたか。
彼女には解っていた。そしてその度に彼女は戦慄した。
だが、それとは別に妙に達観した、満足感にも似たものに彼女は満たされてもいた。それがどのような感情であるにしろ、しかし、だがその欲求に彼は耐えて、彼女を抱き続けた。
自らが生き残りたいのであれば、彼はセイレーンを食べてしまうのも一つの手だ。
逆にセイレーンを食べてしまうのを恐れるのであれば、会わなければ良い。
しかし彼が生き延びたのは、僅かな時間でもこのセイレーンと会っていきたかったからだ。それが解るから彼女は、喰われるにしろ抱き合うにしろ、自分の有りっ丈を彼に捧げるつもりであったのに。
そして、ああまでして自分に向けられた彼の全てを、このセイレーンはこの身に受け止めようとしていたのに。
空の小瓶が、何処からか転がり落ちて音を立てた。
僅かに、底に赤黒いものがこびり付いていた。
それは、人魚の血だ。
彼を飢えさせた物だ。飢えてそれでも生き延びようとさせた物だ。
「なのに……っ!
なんで、なんでよ! なんでもう少し、あと少しだけで良いから、こいつに寿命を与えなかったのよ!」
セイレーンは、自分が言っている事が的外れである事は承知していた。
そもそも、その苦しみを知っているから、あえて売血商人から人魚の血を奪わず、それすらも罰の一環としたのではないか。
奴らに一人でも、より強い苦しみを。
それを受けたのは彼だった。
彼女との最後の逢瀬の為に。
それなのに、せめて、もう少し。
セイレーンは声を張り上げた。
それは原始的な歌であった。
叫びを捧げる、感情の奉る。
詠う事で、この現実が変えられると言わんばかりに、声を張り上げた。
「海神ポセイドンよ!
何故貴女は、私の子供を奪ったか!
私に授かるはずだった彼との子を!
罪人は証を残してはならないのか!?
私のあいつへの気持ちも残してはならないのか!?
それは悪なのか!?
あってはならぬのか!?
応えよ!」
なんでだよ、ポセイドン様。溺れた女はネイレスにして助けるくせに、男は無視かよ。それとも、こいつが罪人だからなのか?
「こんな良い奴はいなかった!
あいつは自分の罪を知っていた!
そしてそれを隠さず、否定もしなかった!
それであいつは死んだ!
それを一度の罪で!」
あいつは良い奴だった!
でも、例え良い奴でも、彼は海にとっての罪人だ。それに一度ではない筈だ。
なにより、彼等に手にかかった人魚は、もっと良い奴だったかもしれないじゃないか。
最後に奴らの手にかかりそうになったあのメロウも、とても良い奴だ。
でも、彼女は詠い続けた。
嘘でもペテンでも、彼女は詠い続けた。
歌に込める想いは、必ずしも正しい訳じゃあないから。
正しいか否かは、そんなものとは関係なく、それは自分の想いだから。
自分の想いを詠い上げるからこそ、それが歌姫の力を励起させ、歌は魔力を帯びる。
しかしついにはその声も嗄れ潰れ、しかし何も変わらず、彼は生き返らず、セイレーンは一人のままで。
彼女は術を失ってばったり、床に倒れ伏した。
彼の死に顔がそこにあった。
意外と穏やかな表情だった。
どんな気かしれないが、告白した女を抱きながら死ねたんだ、彼はカレナリに幸せだったんだろう。
伺い知る限りは彼も満足のうちに死に……。
満足して死して行く、それで終えれた者は良い。
だが彼女は、これからも生きてゆかねばならない。
やがて彼のその穏やかな顔も朽ちて消えて、生きた者の脳裏からも薄れ、彼のほとんどを思い出せなくなってしまうのだろうか。
セイレーンは彼の屍の横に並んで、自らを横たえた。
このまま、彼の後を追って飢えてしまおうか。この翼を折って飛べないようにでもして。
一時の激情に任せて死のうなどと、馬鹿馬鹿しい考えだ。だがそうしなければ、ずっと、そして必ず後悔するだろう。その後悔に何の価値がある。
彼から預かって持ち帰る筈だったものも、受け取りそびれてしまった。
「あいつとの子にはなんの罪は無いだろう? なら、授けてくれても良かったじゃないか……」
潮風が彼女の頬を撫でた。
海の上を吹き抜ける潮風のどれもこれもが、ポセイドンの魔力を含んだ風である。
それは優し気でありながら、しかし力強く吹き抜けて行った。
その風は彼の上着をはためかせ、彼女はその内ポケットの中に、彼女宛の封筒に入った手紙を見つけた。
推そらく、自分が生きている間に、彼女が舞い降りて来なかった時の為に認めたのだろう。
封筒の中に手紙と、銀貨が一枚、それとのど飴。
まず銀貨に関して、それを昨年の借金の返済とする、と記されていた。
そして出来れば、その銀貨を酒代に使うようにと、書かれていた。
「皆で酒を飲め、か。私に生きて帰れと言うんだな」
帰って、そう、家にちゃんと帰って、その晩の皆で呑み明かす酒代にしてくれる事を願っていると、重ねて書かれていた。
先まで自分の翼を折ろうとしていた自分とその恋心を見透かされていたようで、セイレーンは面白く無かった。
ならばさっさと、その心のうちを明かしてくれれば良かったものの。
しかし、そういえば彼は、そんな酒の席でも自分の仕事について話したがらなかったか。
手紙を読み進めた。
君が酒を呑んだ後の声は酷い、とも書かれていた。
その呑んだ後の酷い声で詠ったのが、セイレーンにとっての"特別な歌"だった。酔った勢いに任せて彼に聴かせたのだが、酔い潰れたあまりに酷い声で、いつもまるで別物であった。
だから呑んだ後でこれを嘗めろ、と、のど飴を同封したのだろう。
しかしこの地獄のように飢えた中にあって、この飴一つがどれだけ至宝で、それが強い誘惑で彼を苛んだ筈なのに、彼は彼女の為にそれを残していた。
セイレーンはそれを嘗めた。
「効かねぇや…」
彼の為に詠った歌で、すっかり喉を潰してしまっていた。
もう、歌は詠えまい。捧げる相手も失ってしまった。
彼女は彼からの銀貨を、海に放り捨てた。
人魚の血を売って得た銀貨を、受け取るわけにはいかない。
小さな水音と共に呑み代は無くなり、それを使う為に帰る必要も無くなった。
しかしセイレーンは、乱れた羽を繕って、そして羽撃いて空へと舞い上がった。
一度、メインマストのてっぺんに留まると、彼の姿をじっと見た。
「酒は呑んでやるよ、有り難く思え、よ」
そして悪夢の終わりの歌を詠う。
悪夢のまま乗組員が死したこの船を、その悪夢から開放する。
嗄れてしまった声であったが、この歌にはむしろ相応しい。
それは哀れな骸を晒す、見せしめの為でもあるが。
ならばせめて、あの男の遺体が陸の者に見つかり、大地に帰れるように。
海は奴らと彼を拒絶しているのだから、せめて……。
晴れゆく空の中へ、詠い終えたセイレーンは飛び立った。
そして生きた者は、誰もいなくなった。
あのセイレーンは、あれ以来、すっかり喉を潰してしまっていた。
だから、その歌声で男を誘惑する事は無かった。
彼女にはもう、その必要は無かったのだ。
彼女の傍に、幼いセイレーンが寄り添っていた。
それは死んだ彼との子供であった。彼女が感じられぬ程の雫が芽吹いたものなのであろうか。そのままでは芽吹く筈が無いそれが、海神ポセイドンの意志で届いて結ばれたのだろうか。あるいはそれを知っていて、あの潮風は彼の上着を揺らしたのであろうか。
それは彼女には解らなかったが。
何も残さなかった彼が、唯一彼女へと贈ったその娘であった。
セイレーンは彼とのその娘の頭を優しく撫でて、その暖かさを確かめていた。
そしていつものように海風は吹いて、そんな二人を撫でていた。
その風に乗せるかの様に、今日もどこかでセイレーンが恋の歌を詠っていた。
11/06/12 03:27更新 / 雑食ハイエナ