管理者と 旦那と おさんぽと
「めんどうくさい」
それは青天の霹靂を予感させる言葉であった。
あり得ない言葉であった。
起き抜けの寝言かと思った。
アヌビスである妻が、あの管理魔であるアヌビスが、自らの管理物である旦那に対して「めんどうくさい」と嘯くだろうか。それは匙を投げたと同義であり、敵前逃亡であり、存在否定であり、引退してどこかに引き蘢ってしまいそうな老体の本音のごときであった。
彼は美貌の妻を見た。見惚れた。見惚れる程彼女はまだ若々しく、美しい。
その黒髪も宇宙よりも深みのある漆黒で、黒曜石よりも艶やか。
褐色の肌理細やかな肌は、濡れれば黄金のようである。
肉球も、ぷにぷに。
目元涼やか、頬は林檎の如く、唇は白州に打ち寄せる波のように瑞々しい。
生気を失うどころか、彼女は結婚してから尚、旦那を管理するという糧を貪って、魅力的な女性であり続けていた。
ああ、これでもう少し胸があれば……、
……ずぎゃん。
「ぐぅわほぉぉ!」
「今何か……触れてはならぬ事を触れた様なので、管理者権限で旦那を強制停止した。業務連絡終わり」
その黄金の杖で、旦那をバルカンピンチすると、彼女は気怠気に息を吐いた。
「どうにもこうにも……もう、こんなふうに管理するのが、面倒臭くなったのだ。自信喪失というやつなのやもしれん」
「俺がお前に高望みしたばっかりに……ああ、本当はパーフェクトだよ我が妻よ。ああ、でもこれで胸さえもう少し……めきょげぇ!」
アヌビスは旦那に、キルコマンドを送信した。
「私はお前の支配権を放棄する事にした」
「つまり俺を、捨てると?」
「そう飛躍するな。私は今でもお前を愛している。お前も愛しているだろう私を? うんと頷け……良し、つまり相思相愛なのだ」
旦那にとって、釈然としない結論の導き方であったが、それは認める所である。
「ただ、あれやこれや口を出すのが、妙に面倒臭くなってな。色々と考えて管理するというのは、なかなか大変なのだ」
そう大変なのである。
それは管理を受けている彼にも、よく解る。
彼自身、それに付き合わされて、大変だからである。
彼は自分のしてきた、大変な、努力を思い浮かべる。
実は彼女の婚前の本名は、やたらと長い。
彼女個人の名前、彼女の家名、氏族名、加えてどのような血が混じって来たかを示すメモ書きの様な単語が入り乱れ、その長さと来たら、覚えているというだけで一芸として数えられるほどである。
本来であればそれは、彼との結婚を機に、彼女に関して言えばファーストネーム以外のそれらは、彼の簡素なファミリーネームによって書き換えられる筈であった。少なくとも彼の予定ではそうであった。
しかし彼女は、自らを彼の管理者と自負しているが故に、それを許さず、彼を自らの家に"編入"してしまった。
悪夢である。少なくとも彼にとっては。
しかもそれによって、彼の婚前のファミリーネームはその名前と称する単語の長蛇の列に組み込まれて、忌々しいその長さの延長に貢献すらしている。
一芸と言った所で、披露した所で途中から大量の居眠り者を発生させるだけのそれを、まるで芸を仕込まれるかのように、暗記させられた彼である。
犬の様な容姿の彼女が、何処をどう見ても人間である彼に芸を仕込む姿は、傍目に見てシュールであり、なんら責任も懲罰も免責された他人からすれば、微笑ましい光景であった。
さよなら、短いファミリーネーム。そして、こんにちわ、単語帳一冊分にも匹敵するファミリーネームらしきもの。受験でもないのに、なんでそんなもんを暗記せにゃならならんのだ。
と抗議したら、マミーの呪いが飛んで来た。
これが、旦那が、大変な、努力である。
「管理する気がないのなら、この長い名前をなんとか……」
「めんどうくさいから簡略してヨシ」
俺の努力はぁ!?
それだけ、彼女が深刻なのであろうが。
「世の中、如何に管理しようとしても、思う通りにならぬのでな」
彼女の、徒労を感じさせる眼差しが、ある一点を見つめていた。
その視線の先には、小さなバケットがあった。その中には彼女のようなイヌとかネコ科の存在が好みそうな毛糸の玉と、興味を失った事を主張するかのように、編みかけの小さな靴下が無造作に放り込まれていた。
彼女らには子供がいない。
結婚して五年が経とうとしていた。
それは彼女が望まないからではない。彼も望んでは居たが、被管理物である彼の意見は、事実の決定には埒外なのでこの際は問題ではない。
兎に角、彼女は彼を夫として迎えたその日からそれを望んで、それを主眼に五ヶ年計画を敢行し、夫との夜の営みを管理している。当初の計画通りであれば、三人の子供が今頃は、彼等の周りをぐるぐる回っている筈であった。
無意志のうちに撫でている彼女の下腹部に、しかし未だに子が宿る兆しは無かった。
「もう……頑張っても……面倒臭いのだ」
朝食を作る以降の家事を放棄した彼女はソファに寝そべって、背もたれに向かって何やらぶつぶつ言い始める。
力なく、だらりとしたシッポを垂れ下げた尻を、ぽりぽと掻いた。
旦那は洗った食器を片付けながら、頭をぽりぽりと掻いた。
「散歩にでも行くか?」
「私は犬ではない」
しかし、その提案にアヌビスのシッポが、少しばかり頭をもたげた。
「何でもいい。とにかく気分転換をしよう」
散歩程度で劇的に彼女の心境が改善される訳でもないだろうし、子供ができる訳でもないのだが、何もしないよりはマシだ。
「散歩か……」
彼女は判断を少し変えたようだ。
彼が思っていたより少し良好な食いつきを見せると、おもむろに戸棚に向かう。
そして、真紅の首輪を一つ取り出した。
「我が妻よ、これはなんの罰ゲームだ?」
「罰ゲームなものか、これを着けるのは私だぞ。お前が着けるんじゃあない。お前はリードを引いて私を散歩させるのだ。これで私が、お前の支配権を放棄した事を世に知らしめる!」
「充分、罰ゲームだ! 俺に変態になれとぉぉぉ!?」
しかもそれを、御近所に"変態"襲名披露興行をしながら練り歩けとぉ?
……あ、でも。
彼は愛する妻が、真っ赤な可愛らしい首輪を付けた姿を想像した。
「きゃうん!」
可愛いかもしれない。
変態決定。
「まぁ、これを買った時は、旦那にしてもらうつもりだったんだけどな」
旦那の支配権を主張する為に。
試しに旦那にも着けてみた。
「わふっ!」
「きゃーっ! かわいい!」
夫婦揃って変態決定。
「なぁなぁ! 今からでも、結婚指輪を首輪に作り直さないか! なぁ!?」
妻よ、それは勘弁してくれ。
旦那は、アヌビスが彼に対する管理意欲を減退させている事に対して、神に感謝した。
そうでなければ、彼女の口にした彼に関する言葉全てが、決定事項だ。
結局は首輪をせずに、それでグズる妻を旦那が引きずるようにして、二人は散歩に出かけた。
どうせなら少し遠くに行ってみようかと、どちらかというとハイキング感覚で二人は電車に乗った。
久しぶりに乗る電車と流れる車窓は、その嬉々とした様子からして彼女の停滞していた心を、幾分かは紛らわせたようだった。
気分転換という意味では、この選択は良かったのであろう。
しばらくして、二人は電車の揺れに身を任せて眠り始めた。
旦那は、肩を震わす振動で目を覚ました。
寝過ごしたらしい、車窓の風景は見知らぬものだった。
そして隣の妻も、見知らぬ状態であった。
「ここ、どこ?!」
一足先に目を覚ました彼女は、ガチガチ震えながら旦那を見ていた。
ああ、アヌビスは想定外の状況にやたらと弱かったか。混乱し、いつもの冷静さを通り過ぎて冷徹な粋にすら達しつつあるそれが鳴りを潜め、状況判断できずに理性は不安のズンドコに落っこちて、そしてウルフ種としての本性が現れる。
「わきゃん!」
妻が犬化した。
車掌が申し訳なさそうに言った。
「お客様、ペットの持ち込みは……」
見知らぬ途中の駅で降ろされた。
「まぁ、そのまま乗ってても知らん所だし、降りて正解か」
アヌビスの格好をした中身は犬となった妻を連れて、彼は家に向かって線路伝いに歩き始めた。
どこか、ペットショップで犬用のカゴを買えば、手荷物切符で電車に乗れるか……。
彼女が入る、カゴ?
彼は諦めて歩く事にした。
「自分の脚で歩いてくれる分、カゴよりはマシさ」
旦那は運動不足であった。(妻はそうでもなかったが)
「すんません、こいつに首輪着けときますから、電車乗せてくれませんかね」
次の駅で交渉と言うか懇願をした所、
遠巻きに、変態はご遠慮ください、と、やんわり言われた。
彼はしかたが無く、また歩き始めた。
彼女は心惹かれたものを見つけたようで、先に駆けていった。
心惹かれていたのは、電柱のようであった。
嫌な予感がした。
彼女は、片足を上げようとしていた。
「すなーっ!」
するな! するな! するな! 人狼としての矜持は何処!?
旦那はそれを阻止し、彼女を近くの公園のトイレに放り込んだ。
そして、彼はそのすぐ近くのベンチに腰掛けた。
「……やれやれ」
退屈しないのは良い事だ。
何せ管理されるという事は、客観的に効率が良い。ただし、驚きに欠ける。そのようなものを排除するから、効率というものは上がるのだが。
トイレから彼女が出て来た。
出て来る時に手を洗っていた所を見ると、それなりに人としての気質が戻って来ているのかもしれない。
彼女が旦那を見つけて、駆け寄って来た。
駆けて、駆けて、そしてウルフ種特有のしなやかな筋肉から発揮される爆発的な瞬発力を遺憾無く発揮し、旦那の鳩尾めがけて突撃した。
「ごぼべにょぉ!?」
改訂、まだ、わんこだ。
懐に子犬のように飛び込んで来た、しかし成人女性の質量を持ったそれと、ベンチの背もたれとで強かな挟撃を受け、旦那は暫し悶絶した。
彼女は人形のようになった彼に、頬を摺り寄せて抱きつく。
こいつも、こんな正直な愛情表現ができるんだなぁ。
なんとか復旧しつつある意識の中で、旦那は感慨に耽った。
なにせ、
「管理こそ我が愛! 我が愛を受け止めて、従え旦那よ!」
と日頃から宣う彼女なのである。
彼女らからすればそれは当然の事なのだろうが、人間からすれば彼女らの愛情表現はとても素直じゃない。
ボールの跳ねる音と一緒に、子供の声が聞こえた。
公園の広場で、ワーウルフの子供達が遊んでいた。それに交じって、アヌビス族の子供も居た。
「なぁ、旦那……」
「戻っていたのかよ」
彼女が次に何を言わんとしているのか、それが解っている事を伝えるように、旦那は彼女の頭を撫でた。
それに応えるように、彼女の旦那に抱きつく腕が、きゅっと強くなる。
「私はこんなにもお前を愛しているんだぞ。子供ができなくっても、私はお前を愛しているんだ」
それは彼に向けた言葉であったが、彼女自身に言い聞かせている言葉の様でもあった。
「俺もお前を愛していなけりゃ、こんな所二人して歩いているかよ」
でなきゃ、さっさと電車のって帰る。
そんな旦那の答えにアヌビスらしからぬ、しかしとても彼女らしい笑みを浮かべた。
もしかしたら彼女は、今朝からこの言葉が聞きたかっただけなのかもしれない。
妻はすっかり犬ではなくなって立ち上がると、未だベンチに座る旦那に手を差し伸べた。
「歩こ、か」
「最寄りの駅までな。お前が普通に戻ったんなら……」
「わきゃん、わんわん!」
「そんなに歩きたいのかよ」
「こうして旦那と歩いていると、幸せになれる様な気がする」
彼女のシッポが、嬉しそうにリズムを刻んでいた。
そんな彼女に、これ以上の反対意見は無意味である。
二人は歩き始めた。
旦那は思った。
考えても見れば、こんなふうにデートというものを、二人はした事が無い。妻はした事があると主張するが、あれは彼女の主催する遠足のようなものであって、彼女曰く"自由度のある"分刻みの行動予定表付きの豪華なしおりが毎回付いて来る、そんな行事だった。
思い起こせばプロポーズの言葉ですら、彼女が用意したものであった。結婚する気があるなら、この呪文を唱えなさい、と言われた。彼は言われたままにして、彼等は夫婦となった。その呪文を唱えるかどうかは彼の選択であったし、結果としてそれは幸福な事だ。
だが彼は、言葉ですら、彼女に贈った事が無いような気がしてならない。
彼女が愛しているという言葉を欲するから、自分は愛していると言った。
それは事実を言い表すに、相違無いのではあるが。
だから彼は、今こう言ったのだ。
「愛してるよ」
何の芸も無いその一言を。
彼女が求めるからでなく、自分が言いたいから。ああでも、さっき言ったか。でも今また言いたいから、彼はまた言ったのだ。
「なんだ、それは……」
ぶっきらぼうに言葉を浴びせかけられ、彼女に一瞬浮かんだ怪訝な顔が、彼には面白かった。これはまさしく彼女の言葉ではなく、彼の言葉なのだ。
その自ら以外の言葉に、次第に彼女の頬を紅く染めていく。
「そんな告白を受けるのは、今日の予定には無いぞ」
「そもそも予定外の散歩だ。いいだろう?」
そう言う旦那に、すると妻はその腕に抱きついて囁くように言った。
「ああ、とてもいい」
少々の冒険談と筋肉痛を残して、この長い散歩は、夕日が落ちた頃に家に着いて終わった。
あの散歩から帰って来た彼女は、何処か憑き物がとれたようで、さっぱりした様子だった。
そんな彼女が、ポンと手を打って、妙に合点が言った様子で夫にこう宣った。
「つまり、どちらかが種無しだって事か。旦那、お前がそうだな、うんと頷け……良し、つまり旦那が種無しなのだ。私は悪く無い」
それで良いのか我が妻よ。
本当の所、それは結局は彼女の、自分の身体に関する周期計算か何かの些細なミスが原因であった。
彼女の統制が回復するまでの数日間、できるものができたのだから、そういう事になる。
授かるものを授かって、嬉しい反面、自らの頼る能力の無能っぷりを自覚させられた彼女は、暫し壁を友とした。
「ほら、そんなところで壁と会話してないで、こっち来て体、暖めてろ……な」
「うん……(ぐすん)」
そんな落ち込む彼女も可愛かった。
……と、口が裂けなくても言いたい旦那は、数分も経たぬ間に口を滑らせた。
マミーの呪いが飛んで来た。
それは青天の霹靂を予感させる言葉であった。
あり得ない言葉であった。
起き抜けの寝言かと思った。
アヌビスである妻が、あの管理魔であるアヌビスが、自らの管理物である旦那に対して「めんどうくさい」と嘯くだろうか。それは匙を投げたと同義であり、敵前逃亡であり、存在否定であり、引退してどこかに引き蘢ってしまいそうな老体の本音のごときであった。
彼は美貌の妻を見た。見惚れた。見惚れる程彼女はまだ若々しく、美しい。
その黒髪も宇宙よりも深みのある漆黒で、黒曜石よりも艶やか。
褐色の肌理細やかな肌は、濡れれば黄金のようである。
肉球も、ぷにぷに。
目元涼やか、頬は林檎の如く、唇は白州に打ち寄せる波のように瑞々しい。
生気を失うどころか、彼女は結婚してから尚、旦那を管理するという糧を貪って、魅力的な女性であり続けていた。
ああ、これでもう少し胸があれば……、
……ずぎゃん。
「ぐぅわほぉぉ!」
「今何か……触れてはならぬ事を触れた様なので、管理者権限で旦那を強制停止した。業務連絡終わり」
その黄金の杖で、旦那をバルカンピンチすると、彼女は気怠気に息を吐いた。
「どうにもこうにも……もう、こんなふうに管理するのが、面倒臭くなったのだ。自信喪失というやつなのやもしれん」
「俺がお前に高望みしたばっかりに……ああ、本当はパーフェクトだよ我が妻よ。ああ、でもこれで胸さえもう少し……めきょげぇ!」
アヌビスは旦那に、キルコマンドを送信した。
「私はお前の支配権を放棄する事にした」
「つまり俺を、捨てると?」
「そう飛躍するな。私は今でもお前を愛している。お前も愛しているだろう私を? うんと頷け……良し、つまり相思相愛なのだ」
旦那にとって、釈然としない結論の導き方であったが、それは認める所である。
「ただ、あれやこれや口を出すのが、妙に面倒臭くなってな。色々と考えて管理するというのは、なかなか大変なのだ」
そう大変なのである。
それは管理を受けている彼にも、よく解る。
彼自身、それに付き合わされて、大変だからである。
彼は自分のしてきた、大変な、努力を思い浮かべる。
実は彼女の婚前の本名は、やたらと長い。
彼女個人の名前、彼女の家名、氏族名、加えてどのような血が混じって来たかを示すメモ書きの様な単語が入り乱れ、その長さと来たら、覚えているというだけで一芸として数えられるほどである。
本来であればそれは、彼との結婚を機に、彼女に関して言えばファーストネーム以外のそれらは、彼の簡素なファミリーネームによって書き換えられる筈であった。少なくとも彼の予定ではそうであった。
しかし彼女は、自らを彼の管理者と自負しているが故に、それを許さず、彼を自らの家に"編入"してしまった。
悪夢である。少なくとも彼にとっては。
しかもそれによって、彼の婚前のファミリーネームはその名前と称する単語の長蛇の列に組み込まれて、忌々しいその長さの延長に貢献すらしている。
一芸と言った所で、披露した所で途中から大量の居眠り者を発生させるだけのそれを、まるで芸を仕込まれるかのように、暗記させられた彼である。
犬の様な容姿の彼女が、何処をどう見ても人間である彼に芸を仕込む姿は、傍目に見てシュールであり、なんら責任も懲罰も免責された他人からすれば、微笑ましい光景であった。
さよなら、短いファミリーネーム。そして、こんにちわ、単語帳一冊分にも匹敵するファミリーネームらしきもの。受験でもないのに、なんでそんなもんを暗記せにゃならならんのだ。
と抗議したら、マミーの呪いが飛んで来た。
これが、旦那が、大変な、努力である。
「管理する気がないのなら、この長い名前をなんとか……」
「めんどうくさいから簡略してヨシ」
俺の努力はぁ!?
それだけ、彼女が深刻なのであろうが。
「世の中、如何に管理しようとしても、思う通りにならぬのでな」
彼女の、徒労を感じさせる眼差しが、ある一点を見つめていた。
その視線の先には、小さなバケットがあった。その中には彼女のようなイヌとかネコ科の存在が好みそうな毛糸の玉と、興味を失った事を主張するかのように、編みかけの小さな靴下が無造作に放り込まれていた。
彼女らには子供がいない。
結婚して五年が経とうとしていた。
それは彼女が望まないからではない。彼も望んでは居たが、被管理物である彼の意見は、事実の決定には埒外なのでこの際は問題ではない。
兎に角、彼女は彼を夫として迎えたその日からそれを望んで、それを主眼に五ヶ年計画を敢行し、夫との夜の営みを管理している。当初の計画通りであれば、三人の子供が今頃は、彼等の周りをぐるぐる回っている筈であった。
無意志のうちに撫でている彼女の下腹部に、しかし未だに子が宿る兆しは無かった。
「もう……頑張っても……面倒臭いのだ」
朝食を作る以降の家事を放棄した彼女はソファに寝そべって、背もたれに向かって何やらぶつぶつ言い始める。
力なく、だらりとしたシッポを垂れ下げた尻を、ぽりぽと掻いた。
旦那は洗った食器を片付けながら、頭をぽりぽりと掻いた。
「散歩にでも行くか?」
「私は犬ではない」
しかし、その提案にアヌビスのシッポが、少しばかり頭をもたげた。
「何でもいい。とにかく気分転換をしよう」
散歩程度で劇的に彼女の心境が改善される訳でもないだろうし、子供ができる訳でもないのだが、何もしないよりはマシだ。
「散歩か……」
彼女は判断を少し変えたようだ。
彼が思っていたより少し良好な食いつきを見せると、おもむろに戸棚に向かう。
そして、真紅の首輪を一つ取り出した。
「我が妻よ、これはなんの罰ゲームだ?」
「罰ゲームなものか、これを着けるのは私だぞ。お前が着けるんじゃあない。お前はリードを引いて私を散歩させるのだ。これで私が、お前の支配権を放棄した事を世に知らしめる!」
「充分、罰ゲームだ! 俺に変態になれとぉぉぉ!?」
しかもそれを、御近所に"変態"襲名披露興行をしながら練り歩けとぉ?
……あ、でも。
彼は愛する妻が、真っ赤な可愛らしい首輪を付けた姿を想像した。
「きゃうん!」
可愛いかもしれない。
変態決定。
「まぁ、これを買った時は、旦那にしてもらうつもりだったんだけどな」
旦那の支配権を主張する為に。
試しに旦那にも着けてみた。
「わふっ!」
「きゃーっ! かわいい!」
夫婦揃って変態決定。
「なぁなぁ! 今からでも、結婚指輪を首輪に作り直さないか! なぁ!?」
妻よ、それは勘弁してくれ。
旦那は、アヌビスが彼に対する管理意欲を減退させている事に対して、神に感謝した。
そうでなければ、彼女の口にした彼に関する言葉全てが、決定事項だ。
結局は首輪をせずに、それでグズる妻を旦那が引きずるようにして、二人は散歩に出かけた。
どうせなら少し遠くに行ってみようかと、どちらかというとハイキング感覚で二人は電車に乗った。
久しぶりに乗る電車と流れる車窓は、その嬉々とした様子からして彼女の停滞していた心を、幾分かは紛らわせたようだった。
気分転換という意味では、この選択は良かったのであろう。
しばらくして、二人は電車の揺れに身を任せて眠り始めた。
旦那は、肩を震わす振動で目を覚ました。
寝過ごしたらしい、車窓の風景は見知らぬものだった。
そして隣の妻も、見知らぬ状態であった。
「ここ、どこ?!」
一足先に目を覚ました彼女は、ガチガチ震えながら旦那を見ていた。
ああ、アヌビスは想定外の状況にやたらと弱かったか。混乱し、いつもの冷静さを通り過ぎて冷徹な粋にすら達しつつあるそれが鳴りを潜め、状況判断できずに理性は不安のズンドコに落っこちて、そしてウルフ種としての本性が現れる。
「わきゃん!」
妻が犬化した。
車掌が申し訳なさそうに言った。
「お客様、ペットの持ち込みは……」
見知らぬ途中の駅で降ろされた。
「まぁ、そのまま乗ってても知らん所だし、降りて正解か」
アヌビスの格好をした中身は犬となった妻を連れて、彼は家に向かって線路伝いに歩き始めた。
どこか、ペットショップで犬用のカゴを買えば、手荷物切符で電車に乗れるか……。
彼女が入る、カゴ?
彼は諦めて歩く事にした。
「自分の脚で歩いてくれる分、カゴよりはマシさ」
旦那は運動不足であった。(妻はそうでもなかったが)
「すんません、こいつに首輪着けときますから、電車乗せてくれませんかね」
次の駅で交渉と言うか懇願をした所、
遠巻きに、変態はご遠慮ください、と、やんわり言われた。
彼はしかたが無く、また歩き始めた。
彼女は心惹かれたものを見つけたようで、先に駆けていった。
心惹かれていたのは、電柱のようであった。
嫌な予感がした。
彼女は、片足を上げようとしていた。
「すなーっ!」
するな! するな! するな! 人狼としての矜持は何処!?
旦那はそれを阻止し、彼女を近くの公園のトイレに放り込んだ。
そして、彼はそのすぐ近くのベンチに腰掛けた。
「……やれやれ」
退屈しないのは良い事だ。
何せ管理されるという事は、客観的に効率が良い。ただし、驚きに欠ける。そのようなものを排除するから、効率というものは上がるのだが。
トイレから彼女が出て来た。
出て来る時に手を洗っていた所を見ると、それなりに人としての気質が戻って来ているのかもしれない。
彼女が旦那を見つけて、駆け寄って来た。
駆けて、駆けて、そしてウルフ種特有のしなやかな筋肉から発揮される爆発的な瞬発力を遺憾無く発揮し、旦那の鳩尾めがけて突撃した。
「ごぼべにょぉ!?」
改訂、まだ、わんこだ。
懐に子犬のように飛び込んで来た、しかし成人女性の質量を持ったそれと、ベンチの背もたれとで強かな挟撃を受け、旦那は暫し悶絶した。
彼女は人形のようになった彼に、頬を摺り寄せて抱きつく。
こいつも、こんな正直な愛情表現ができるんだなぁ。
なんとか復旧しつつある意識の中で、旦那は感慨に耽った。
なにせ、
「管理こそ我が愛! 我が愛を受け止めて、従え旦那よ!」
と日頃から宣う彼女なのである。
彼女らからすればそれは当然の事なのだろうが、人間からすれば彼女らの愛情表現はとても素直じゃない。
ボールの跳ねる音と一緒に、子供の声が聞こえた。
公園の広場で、ワーウルフの子供達が遊んでいた。それに交じって、アヌビス族の子供も居た。
「なぁ、旦那……」
「戻っていたのかよ」
彼女が次に何を言わんとしているのか、それが解っている事を伝えるように、旦那は彼女の頭を撫でた。
それに応えるように、彼女の旦那に抱きつく腕が、きゅっと強くなる。
「私はこんなにもお前を愛しているんだぞ。子供ができなくっても、私はお前を愛しているんだ」
それは彼に向けた言葉であったが、彼女自身に言い聞かせている言葉の様でもあった。
「俺もお前を愛していなけりゃ、こんな所二人して歩いているかよ」
でなきゃ、さっさと電車のって帰る。
そんな旦那の答えにアヌビスらしからぬ、しかしとても彼女らしい笑みを浮かべた。
もしかしたら彼女は、今朝からこの言葉が聞きたかっただけなのかもしれない。
妻はすっかり犬ではなくなって立ち上がると、未だベンチに座る旦那に手を差し伸べた。
「歩こ、か」
「最寄りの駅までな。お前が普通に戻ったんなら……」
「わきゃん、わんわん!」
「そんなに歩きたいのかよ」
「こうして旦那と歩いていると、幸せになれる様な気がする」
彼女のシッポが、嬉しそうにリズムを刻んでいた。
そんな彼女に、これ以上の反対意見は無意味である。
二人は歩き始めた。
旦那は思った。
考えても見れば、こんなふうにデートというものを、二人はした事が無い。妻はした事があると主張するが、あれは彼女の主催する遠足のようなものであって、彼女曰く"自由度のある"分刻みの行動予定表付きの豪華なしおりが毎回付いて来る、そんな行事だった。
思い起こせばプロポーズの言葉ですら、彼女が用意したものであった。結婚する気があるなら、この呪文を唱えなさい、と言われた。彼は言われたままにして、彼等は夫婦となった。その呪文を唱えるかどうかは彼の選択であったし、結果としてそれは幸福な事だ。
だが彼は、言葉ですら、彼女に贈った事が無いような気がしてならない。
彼女が愛しているという言葉を欲するから、自分は愛していると言った。
それは事実を言い表すに、相違無いのではあるが。
だから彼は、今こう言ったのだ。
「愛してるよ」
何の芸も無いその一言を。
彼女が求めるからでなく、自分が言いたいから。ああでも、さっき言ったか。でも今また言いたいから、彼はまた言ったのだ。
「なんだ、それは……」
ぶっきらぼうに言葉を浴びせかけられ、彼女に一瞬浮かんだ怪訝な顔が、彼には面白かった。これはまさしく彼女の言葉ではなく、彼の言葉なのだ。
その自ら以外の言葉に、次第に彼女の頬を紅く染めていく。
「そんな告白を受けるのは、今日の予定には無いぞ」
「そもそも予定外の散歩だ。いいだろう?」
そう言う旦那に、すると妻はその腕に抱きついて囁くように言った。
「ああ、とてもいい」
少々の冒険談と筋肉痛を残して、この長い散歩は、夕日が落ちた頃に家に着いて終わった。
あの散歩から帰って来た彼女は、何処か憑き物がとれたようで、さっぱりした様子だった。
そんな彼女が、ポンと手を打って、妙に合点が言った様子で夫にこう宣った。
「つまり、どちらかが種無しだって事か。旦那、お前がそうだな、うんと頷け……良し、つまり旦那が種無しなのだ。私は悪く無い」
それで良いのか我が妻よ。
本当の所、それは結局は彼女の、自分の身体に関する周期計算か何かの些細なミスが原因であった。
彼女の統制が回復するまでの数日間、できるものができたのだから、そういう事になる。
授かるものを授かって、嬉しい反面、自らの頼る能力の無能っぷりを自覚させられた彼女は、暫し壁を友とした。
「ほら、そんなところで壁と会話してないで、こっち来て体、暖めてろ……な」
「うん……(ぐすん)」
そんな落ち込む彼女も可愛かった。
……と、口が裂けなくても言いたい旦那は、数分も経たぬ間に口を滑らせた。
マミーの呪いが飛んで来た。
10/12/06 06:54更新 / 雑食ハイエナ