メロウの夫婦喧嘩
「あんたなんか! あんたなんか! あんたなんか……!」
大ッ嫌い!
言える訳が無かった。
嫌いである筈が無かった。大好きよ。
でも、大好きとは言えない。
何よ、この状態! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よぉ!!
「もう、実家に帰らせてもらいます!」
メロウは旦那の元から飛び出した。
「……て、喧嘩して、啖呵切っちゃったけど、私の実家ってどこよぉ」
親の居る場所? 風の便りには、親は回遊しているらしい。今何処に居るかは解らない。
しかも自分は、帽子を旦那に預けたままで。
魔力が無ければカナヅチ一歩手前のメロウ。
まともにできるのは背泳ぎくらい。
到底、海の何処かにある実家に出戻りなんて無理だし、戻っても、母親と父親のいちゃいちゃを男日照りの身で眺めるはめになる。
かつて独り身の時の住処に戻るにしても、彼との新婚生活を営んだ場所でもあるそこに帰るのは、今の彼女には辛すぎる。そもそも今の魔力では、その深度まで辿り着くのもおぼつかない。
じたばたしていたら、お腹の虫が鳴った。
もきゅもきゅ。
メロウはなんとか海流も緩やかな浅い海に辿り着くと、そこで海藻を食んでいた。
「不味くは無い。不味くは無いけど……」
愛しの人の精の味を思い出す。
そして彼の手料理の味も思い出す。
未婚の頃は海藻をそのまま食べていた人魚からすれば、人間のする調理という手段でさえ新鮮だったのに、加えて旦那はその料理が上手かった。
以前海軍で快速艇乗りをしていた時、当番制の炊事で巧い手抜きの基礎を覚えたらしい。
ちなみに、毎週金曜日はカレー。
彼女は、薬指の結婚指輪を見た。
目を惹くような貴石や細工が施されていない、シンプルな指輪。
でもそれは、海に入っても腐食しないように純度の高い金で作られていた。フォルムは地味ながら優雅で、彼女によく似合っていた。華飾が無いのは、海を自由に泳ぎ回る彼女の邪魔にならない為。
彼が彼女の事を考えて、悩んで贈ってくれた指輪。
泣けて来た。
そして、お腹の虫がもう一度鳴った。
「………ダーリンの卵焼き、食べたい」
黄金の様な卵焼きなのである。
彼女は戦略的撤退の方法を模索し始めていた。
べ、べつに、ダーリンが恋しくなった訳じゃあないんだからね!
ツンデレの練習も忘れない。
その時、ビキニの紐に何かが引っかかった。
ビキニの紐に釣り針が引っかかって釣り上げられる人魚って、お約束よねぇ。
彼女は意外と、伝統を重んじる人魚であった。
「帽子の無いメロウか。私は運が良い!」
釣り上げられてまず聞いたのは、恰幅の良い男のそんな声だった。
メロウの魔力のほとんどは、その帽子に溜められたそれに依存する。それを持たないメロウは、赤子も同然だ。そしてこの男は、赤子の手を捻るのが大好きそうな男だった。
「殺すなよ。生きてないと意味が無いからな。特に血は腐りやすい」
彼女は、人間が人魚にとって(性的な意味以外でも)捕食者である事を思い出した。
「人魚はその血を長く保存する秘術を持つと聞く。君自身がそれを行って、君の血を私らに分けてくれないかね?」
「エロい話聞かせてくれたら」
メロウはよく猥談のお礼として、自分の血を分ける。
「まぁ良いでしょう。正規の取引用にストックがあったはずなので用意させましょう、一杯聞かせてやるさ。冥土の土産は幾らあっても嵩張らないからね」
男はにんまり笑った。
「人魚一匹捕まえて、瓶一つでは割にあわんのでね。私の顧客はね、魔物と親しくしている方もいらっしゃれば、絶滅させたいと熱望してい方もおられる。しかしそんな主義主張に関わり無く、人魚の血は等しく高値で買ってくださるからね。供給が追いつかないのだよ」
メロウは相手に言ってやった。
「貴方、人魚の血を取引している割には無知ね。帽子の無いメロウは、旦那を持ったメロウなのよ。うちの旦那はめちゃくちゃ強いんだから、すぐに助けに来てくれるんだから、あんたなんかすぐにやっつけて、私をあっためてくれるわよ」
「しかし、帽子を持たずにこんな所をふらふらしている所を見ると、そんな彼とも喧嘩別れして来たんじゃあないのかね? 愛想を尽かして別れた女を助けに来る男がいますかね?」
「別れてないもん! 別れて……」
彼女の声は消え入り、俯いてしまった。
しかし、泣かなかった。
「気丈夫な人魚だ」
商人は興が醒めたように、その場から立ち去った。「泣けば真珠も、と思ったのだが……」
メロウは後悔していた。
彼と喧嘩をした事を。
朝食の卵焼きが、"オムレツか出汁巻き卵かで言い争った"事を。
彼の卵焼きは、彼の優れた料理の中でも絶品だった。
彼が贈ってくれた黄金の指輪ように、それは良い色の卵焼きだった。オムレツでも、出汁巻き卵でも。
彼女は後悔していた。
過去を後悔していなくては、今、涙が出てしまいそうだ。
泣いては駄目だ。泣いては駄目だ。彼を信じていない事になる。彼は必ず助けに来てくれる。だから、泣いては駄目だ。それは必要の無い事だ。泣く必要なんて無いんだ。
だが、堪える涙がきつく閉じた瞼からこぼれようとする。
「ダーリン、怖いよぉ、早く助けに来てよぉ、私が悪かったから」
彼女は小さく嗚咽を噛み殺した。
「艦長…」
「船長と呼べ!」
「その、船長……良いんですかァ? おかみさんの事ぉ?」
今朝、彼は妻のメロウと喧嘩をし、「実家に帰らせていただきます」と三行半を突きつけられ、とってもアンニュイな気持ちなのである。
「そんな事はお前には関係ぇねぇ!」
関係無いって……さっきから仕事が全然手についてないじゃあないですか。
「それに、だって船長ぉ」
言って彼は、船長の頭の上を指差した。
彼には不似合いの、真紅の羽根つき帽子がちょこんとのっかっていた。
メロウの帽子だ。
驚天動地の声が上がった。
メロウは甲板に座らされていた。
目の前に樽が置かれている。それが"何を詰める"樽なのかは、彼女にはおおよその察しがついていたので、彼女は細剣、そう、首の血管をちょんと切るには丁度良さそうな、それを抜き身で携えるあの男、売血商人には訊かなかった。
「よくもまぁ、海の上で人魚を殺す気になれるものね。海神ポセイドン様を恐れないの、あなた達?」
彼女は静かに、しかし強い口調で言い放った。
かつて旦那にも放言した科白だが、あんまり効果はなかったように記憶している。
それでも彼女は言った。
「あんた達、こんな事して、海で生きられると思っているの? 生きて陸に帰れないわよ?」
「私は、ね。もう何匹もの人魚を"商品"として扱っているんですよ? 今更、それに貴女が加わって何の罰が落ちるって言うんです? 私は今でも平然と立派に、海で生きていますがね」
「運が良かったのよ。今回も運が良いと良いわね」
少しでも、長く生きていたかった。
「時間稼ぎをなさっているようですが、旦那様は来られませんねぇ」
彼が迎えに来てくれるから。
「来るわよ! あんたと違って、イイ男なんだから!」
その時、商人は、メロウの薬指の黄金色に気付く。
一見して判る仕立ての良い指輪だった。金の純度も高い。美しい人魚に贈るに相応しい気品と機能性を持ち合わせた逸品であった。
商人はその指輪を贈った彼女の旦那の見識に賞讃を送ったが、それは他者への敬意というよりも、それを認め奪う自らの欲の肯定としての材料としてである。
「それが貴女の愛の証ですか。良い指輪だ。どうです? 私にそれを譲ってくだされば、貴女から抜く血の量をこの瓶一本分、やめてさしあげましょう。貴女の体にこの瓶一本分の血が残るのです。その指輪と人魚の血の相場からすれば、悪くは無いと思いますが?」
それを聞いて彼女は、その指輪が通された指を、他の指、反対側の手で固く覆う。売血商人は固く閉じたそれを抉じ開けようとするが、メロウは彼を突き飛ばし、その指輪を通された手を全身で護るように身を丸めた。
駄目だ。これは駄目だ。これだけは、全ての血が抜き去られようとも、この指輪だけは奪われては駄目だ。
例え命が奪われようとも、私は彼の妻なんだ。例え死んでも、彼が私の死体を見つけてその指にこの指輪があれば、きっと……死ぬまで貴男の妻であった事を解ってくれる。喧嘩していても、心底愛していたと、言い残す事ができる。
だから、これだけは、渡しては駄目だ。
「ひぃぃああああああああーーーーっ!」
あの細剣が、メロウの右肩を突刺していた。
「サンプルだ」
細剣の刃から滴る血を瓶に詰める。
少しぐったりしたメロウを、彼等はその上半身を樽に放り込む。
その時だった。
「てンめぇ……」
それは地の底から響く様な声であった。
「俺の最愛の女に、なにしてやがる?」
その声はしかし、天から舞い降るかのようであった。
ヒーロー(メロウ専用)登場である。
船体が大きく横に揺さぶられた。
「右舷に攻撃! いえ、衝突されました! 衝角で突かれました!」
「海賊船かッ!?」
「いいえ、あれは……あれは、ただの商船です!」
「馬鹿な!」
ただの商船に、これほど強力な衝角を付ける馬鹿があるか。
その馬鹿は、仁王立ちであった。
「迎えに来たぜ……」
瞳の中に、後悔と憤怒の色を静かに浮かべ、メロウの旦那様は静かに言い放った。
右手に菜箸、左手にはできたての出汁巻き卵の皿を持って。
………うっわぁ、台無しだぁ。
旦那様の勇姿の、要らぬオプションに内心でクレームを付けるメロウであった。
特に、あの菜箸が。
出汁巻き卵は、彼女的には良いらしい。
お腹の虫が鳴った。
「この船は、本来なら軍艦として建造されたもんを、政治情勢の変化って奴で商船に改装された、羊の皮を被った狼(ワーシープ)船って奴よ。それを譲ってもらったもんさ。ちゃちなオタクの船じゃあ、敵わねぇよ。とっとと降参しちまいな。それともマップタツにされてぇのか!」
「動かないでください!」
売血商人はメロウの首筋に、細剣の刃を宛てながら言った。
「そうですか、貴男が旦那様ですか。彼女が傷つけられたく無ければ、大人しく。貴方の物騒な船も退かせて下さい」
「よく言うぜ……てめぇ、人の女に怪我ぁさせといてなァ!」
そう吠えつつ動こうとしない彼に、売血商人は自らの有利さを確認し、薄い笑みを浮かべた。
「それにしても、よく、見つけられましたね。彼女が乗った私の船を。どうやって?」
メロウにとっての幸運は、彼女の愛する人がすぐに、妻が売血商人に勾引された事を考慮に入れて対処した事だ。そして凄腕商人で、その目利きを支えているのが優れて高い情報の扱い方であった。
正直、菜箸を持たせて仁王立ちしているのが奇怪しい、男なのである。
そんな彼が、妻の所在を知る為に色々と手を尽くし、ついには彼女を見つけ出した。ただそれをいちいち説明するのも、めんどくさいので、一言で済ました。
「愛の力だァ!」
その場の全員が白けた。
ただ一人、囚われのメロウだけは瞳を輝かせてはいたが。
潤む瞳を最愛の男に向けると、彼もまた、彼女を見つめていた。
「すぐに助けるぜ、出汁巻き卵が冷めねぇうちにな」
「……ダーリン」
甘く囁くメロウの声が、悲鳴に変わった。
売血商人が、メロウの髪を掴んで引いた。彼女を引き寄せて盾にするように旦那と対峙する。
「この女がどうなっても良いのかッ?!」
そう言われて、旦那は少し考えた。
そして言った。
「あン? それでお前達の運命が変わるのかね?」
がちゃり……。
彼女を助けに来た旦那とその部下たちが、手にした武器を一斉に鳴らし、今にも乗り移れるように身を乗り出す。
「艦長ォ! 御命令をォ!」
「おおぅよ!」
彼は身を乗り出し、奴らに一瞥くれてやる。
「お前達の運命はなァ、二択だ。
俺の女を生かして返して、俺に殴られるか。
俺の女を殺して、俺に殴られるか。
陳腐だろう? 俺ァ、オリジナリティの無い男でなァ。でも、相手に解りゃあ良いんだ。解りやすさって意味じゃあ、陳腐な方が親切で良いだろう?
それで、どっちが痛いかは言うに及ばずだが、敢えて言ってやる。前者ならば死ぬ程痛いが、後者なら、
ブッ殺す!
痛いなんて言う暇も無く痛めつけて、お前の息の根が止まっても殴り続けてやる。細胞組織が壊死して、血と肉が一緒くたになったら、てめぇの血を人魚の血だって言って、てめぇの名前で、てめぇの商品として、てめぇの顧客に売りさばいてやる! 俺の女くらいの血は、お前も持っているんだろう?」
旦那のその言葉に売血商人は鼻白ませて、人質のメロウの髪を強く引っ張り、その身を自分に密着させる。より盾として、むしろ鎧として見せた。
旦那様が吠えた。
「髪を掴むな! その肌に触れるな! その香りを嗅ぐな! そいつは、俺のもンだ!」
メロウはそんな愛する旦那様の言葉に、恍惚とした表情を浮かべていた。
彼女は、男の自分を鷲掴みにするような、揺らぎ無い自分への独占欲に痺れ、その突き立てられる爪の痛みによがる様な想いであった。
その反面、
……なんで私が物扱いよ?
しかも、あンたの物?
私を物扱いするなんて、あンたはそこの売血商人の親戚かァ?!
そんな不満がガスを伴って、ふつふつと湧き上がった。そのガスは、先の恍惚感を打ち消した。
ちなみにそのガスは、強力な可燃性であったらしい。
そもそも夫婦喧嘩の最中であったか。
…………ぐわぁしっ!
メロウの左手が、何かを掴んでいた。
「誰が、俺の女かァ!?」
そんな怒りに点火させた彼女は、手身近な"物"をむんずと掴み、ぶん投げた。
夫婦喧嘩の王道と言えば、物の投げ合いによる砲撃戦である。
しかし生憎、彼女の手短な物は"一人"しかいなかった。
………どべちゃ。
売血商人は、目標の手前に"着弾"した。
男の足元に、数瞬前に着弾した最愛の妻の投げて来たそれが転がっていた。
愛する妻の贈り物であるが、正直彼は受け取る気にはなれなかった。
そんな、頭から甲板に突っ込み、白目を剥いた売血商人など目もくれず、彼は彼女に歩み寄った。
それに対して彼女は、歩み寄る彼に投げつける物を探したが、手の届く所に手頃な物は無かった。
そして、ついには、自分自身を投げつけた。
「怖かったんだからねぇ……」
旦那に抱きとめられ、メロウは涙を浮かべた。
彼を信じるが故に、今まで流せぬ涙であった。
旦那は医者を呼んで、彼女の右肩を手当てさせた。
そして頭を抱いてその桃色の髪を撫でてやる。
その感触に安堵を強くして、メロウは更に泣きじゃくった。
「あンたの所有物なら、なんでもっと早く私を助けにこなかったのよぉ! 馬鹿ァ!」
「すまなかった。この卵焼き食って、機嫌直してくれや」
「うん………美味しい」
二人はキスをした。出汁巻き卵の、とても甘い味がした。
「艦長……いやさ船長ぉ、おかみさぁん、引き上げますゼ!」
「くそぉ……なんだったんだ」
売血商人は脳震盪で未だくらくらする頭を振った。
あの襲撃者らはメロウを奪還すると、速やかに退却した。それは目的を果たせば無用な事はしないという合理主義と、相手を"命を奪う価値無し"と、彼等流の侮蔑の表現でもあった。だが、とにかくもその時は、彼等は生き残っていた。
生きていれば再建も報復もできる。奴らに自分達を見逃した事を後悔させる事も、一泡吹かす事もできるだろう。「私の命と、奴らの主義と矜持に乾杯、だ」
ただ、まず対処しなくてはならない問題として、自分らの船の損傷が無視できない状態にある事だった。
「急いで、近くを航行中の船舶を探して、救援を……」
その時、売血商人は、セイレーンが自分たちの船のマストのてっぺんに舞い降りている事に気が付いた。彼は彼女に助けを呼んでもらおうと思ったが、様子がおかしい。
彼女は、彼等を見下すような一瞥をくれていた。
「……なんだ、あいつ」
不吉なものを感じて誰かが呟いたが、全ては手遅れだった。
彼女は詠い始めた。
この船を迷わすために。永遠に岸に届かぬように。
この船に、他の船が近づけぬように。誤って、誰かが奴らを助けられぬように。
彼等はあのメロウから奪った一瓶の血を持っていたが、それを奪い合って飲み干したとしても、無駄な事だ。あれは、寿命を延ばすだけのものであって、渇きや飢えを癒す事は無い。その血の力によって、苦しみの時間をより長く与えられるだけの事でしかない。
人魚を、海の魔物娘を、不条理に辱めた者がこの海で赦されると思うな。
「ああ、だーりん、だぁりぃン!」
メロウは旦那の太い腕の中で、まるで鳥籠の中のカナリアのように啼き続けていた。
「ああ、だぁりん……ああっ!」
時化た海のように荒れ狂ったシーツと、荒れ狂うその雨に打たれたように、互いの肌に浮かんだ濡れほぞるほどの大粒の汗が、二人の互いへの渇きを端的に表していた。
白い荒海の上で荒れ狂う二人は、無数のキスマークや噛み跡を、相手の肉体に刻み印していた。喧嘩をしていた僅かな空虚すらも恐れてて、我武者らに相手の存在感を求めていた。
男が何度も吐露していた。
「もう放さねぇよ、放さねぇ!」
その科白、もう喧嘩の度に聞いているんだけどねぇ……。
メロウは半眼で声に出さずに呟いた。
でも興ざめは無かった。
彼女自身、その想いに耐えきれず、さっきまで吐露していたのだから。
息を吸う暇も惜しく喘ぎ、と息する暇も惜しくしゃぶるように、二人は相手の肉を愛撫した。
荒い情事は人魚の豊満な乳房を揺らし、男を挑発した。男は、むしゃぶりついて我が物とした。我が物とされ、人魚は男が我が物になった事を知った。男は股間の猛りを人魚の腰に擦り上げて、自分の匂いを相手の肉に刷り込ませ、それが自分の物である事を主張する。人魚の蜜がその猛るそれに絡みつかせて、自分の香りを相手の肌に移し込んで、それが彼女のものである事を自覚させた。
自分が相手のものである事、相手が自分のものである事を、知らしめ、思い知らせ、そして知り、思う事を、二人は渇望していた。二人が互いの手の届くに寄り添っているのだと、知っておきたかったし、感じていて欲しかった。
メロウはだから、傷の痛みも忘れ男のそれを受け入れ、男は彼女のそれを彼女自身を貪ってそれに応えた。
男は貪り、人魚は貪られながらも、その自分を食むその歯と舌の奥に潜り込むように相手を貪って、男もまたその感覚を自覚する。そして互いの存在感に安堵しつつも、昂っていった。
その晩の彼は、固くて太くてすンごかった。
「………で、その時できた子が、この子ぉ(はーと)」
……台無しじゃあ。
なんとなしに腐れ縁なバフォメットが内心どう思っているかは兎も角、毎度のように彼女は陽気な笑い声を立てていた。その腕には少し前に生まれた赤ん坊が、大事そうに抱えられていた。
「これで何人目じゃ? 喧嘩の度にできた子は?」
「数えてみれば良いんじゃない?」
………あの子ら全員、喧嘩ついでにできちゃったんかい?
「喧嘩の数が、子供の数って言うじゃない」
それが冗談なのか、はたまた本気であったのか、その正解を彼女は教えず、バフォメットは目の前のエロ人魚の悪戯心の具にされた。
彼女はすました顔で、テーブルの上のティーカップに手を伸ばす。
赤ん坊を気にしながら手を伸ばす姿を見て、その日給仕当番だった魔女が駆け寄ってくる。それは彼女が、大事な来客には「日頃の雑事も忘れて優雅に紅茶を楽しんでもらいたい」と考えている故でもあったが、もう一つ理由があった。
熱い紅茶が万が一、赤ん坊の柔肌にかからぬように、と、メロウが抱きかかえていたそれを受け取ると、そして魔女はその表情を綻ばせる。
興味を示した彼女に、メロウは赤ん坊の事をあれやこれやと、「貴女もつくってみたら」と母親というよりエロ師匠的なニュアンスで嗾していたりもする。魔女はその言葉に顔を真っ赤にしていたが、赤ん坊から目線を外す事は無かった。
ああもう、あの様子では、今晩あたり夫にせがむのであろうなぁ……。
バフォメットは人員ローテーションの修正を、人事に用意させるべきかを考え始めていた。
「で? 今度の夫婦喧嘩は何度目?」
そう訊ねたのは喧嘩惚気を聞かされるバフォメットではなく、それをしに来たメロウであった。
彼女は香りを含んだ湯気をくゆらせ、相手の言葉を待った。
「夫婦喧嘩などしておらぬ!」
「じゃあ、兄妹喧嘩?」
「お前は意地悪じゃ!」
バフォメットは口の渇きを覚えて、傍らのホットオレンジを手に取った。
「なんでそう、我らを喧嘩させたがるのじゃ?」
「うーん、と。二ヶ月前かな」
「………な、なぜ、我と夫とが、戦争がごとき喧嘩をした事を知っておるのじゃ」
そりゃあ……本当に戦争みたいな喧嘩なら、誰だって気付くわ。
でもメロウがそう見抜いたのは、別の要因である。
「オメデト、男の子かしら? 女の子かしら? ああ、私たちからは魔物娘しか生まれてこないから、バフォの女の子かぁ(はーと)」
無言のうちに、バフォメットの顔が赤くなり沸騰する。
図星らしい。
「匂いかなぁ……」
何で解った? と問うて返って来たその答えに、バフォメットは自分の匂いを嗅ぎ始める。
もっともメロウが言いたかったのは、身に纏うミルク臭さのある雰囲気であったのだが。
それよりも、と、メロウはにんまりと笑って言った。
「バフォ様も私の事、言えないじゃない」
「いや……その、あの時は、な……もう、会えぬかもしれぬと、勝手に、思ってておったから、その、仲直り……再び会って、な……そう思ったら、互いに愛おしゅうて……な」
しきりに同意を求めるかのような喋り方で、彼女はもじもじし始めた。
「だって、あいつが怒る事なんて、そんな無いのじゃ、それがああまで………売り言葉に買い言葉で、何日も会わんで居たが、なんか、そのまま我らの関係が無かった様になっていく感じがして来てな……怖かったのじゃぁ……」
「喧嘩をしないよりはマシ。互いに知らぬままでいるよりは。
大事なのは、嫌いになっちゃわない事。好きだから喧嘩した事を、忘れない事」
「お前は強いの……我はその自信が無かったのじゃ」
「私も強くは無いわよ。だから仲直りしたとき激しいのよン」
………やっぱり、台無しじゃあ。
メロウはバフォメットのお腹を撫でさせてもらう。
撫でながら彼女は言った。
「互いに互いを確認し合って……そうやって私と彼は二人で居る。ただ隣に置かれたわけじゃなくて、互いの手の届く所に居たいから寄り添う。愛し合ったり、殴り合ったりする為に、ね」
それはとても桃色なのだ。だからお花畑なのだ。それがわかっているから。
メロウは言って、自分の旦那の事を思い浮かべては、まだ出会ったばかりの頃のように心を躍らせているようであった。
大ッ嫌い!
言える訳が無かった。
嫌いである筈が無かった。大好きよ。
でも、大好きとは言えない。
何よ、この状態! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よ! 何よぉ!!
「もう、実家に帰らせてもらいます!」
メロウは旦那の元から飛び出した。
「……て、喧嘩して、啖呵切っちゃったけど、私の実家ってどこよぉ」
親の居る場所? 風の便りには、親は回遊しているらしい。今何処に居るかは解らない。
しかも自分は、帽子を旦那に預けたままで。
魔力が無ければカナヅチ一歩手前のメロウ。
まともにできるのは背泳ぎくらい。
到底、海の何処かにある実家に出戻りなんて無理だし、戻っても、母親と父親のいちゃいちゃを男日照りの身で眺めるはめになる。
かつて独り身の時の住処に戻るにしても、彼との新婚生活を営んだ場所でもあるそこに帰るのは、今の彼女には辛すぎる。そもそも今の魔力では、その深度まで辿り着くのもおぼつかない。
じたばたしていたら、お腹の虫が鳴った。
もきゅもきゅ。
メロウはなんとか海流も緩やかな浅い海に辿り着くと、そこで海藻を食んでいた。
「不味くは無い。不味くは無いけど……」
愛しの人の精の味を思い出す。
そして彼の手料理の味も思い出す。
未婚の頃は海藻をそのまま食べていた人魚からすれば、人間のする調理という手段でさえ新鮮だったのに、加えて旦那はその料理が上手かった。
以前海軍で快速艇乗りをしていた時、当番制の炊事で巧い手抜きの基礎を覚えたらしい。
ちなみに、毎週金曜日はカレー。
彼女は、薬指の結婚指輪を見た。
目を惹くような貴石や細工が施されていない、シンプルな指輪。
でもそれは、海に入っても腐食しないように純度の高い金で作られていた。フォルムは地味ながら優雅で、彼女によく似合っていた。華飾が無いのは、海を自由に泳ぎ回る彼女の邪魔にならない為。
彼が彼女の事を考えて、悩んで贈ってくれた指輪。
泣けて来た。
そして、お腹の虫がもう一度鳴った。
「………ダーリンの卵焼き、食べたい」
黄金の様な卵焼きなのである。
彼女は戦略的撤退の方法を模索し始めていた。
べ、べつに、ダーリンが恋しくなった訳じゃあないんだからね!
ツンデレの練習も忘れない。
その時、ビキニの紐に何かが引っかかった。
ビキニの紐に釣り針が引っかかって釣り上げられる人魚って、お約束よねぇ。
彼女は意外と、伝統を重んじる人魚であった。
「帽子の無いメロウか。私は運が良い!」
釣り上げられてまず聞いたのは、恰幅の良い男のそんな声だった。
メロウの魔力のほとんどは、その帽子に溜められたそれに依存する。それを持たないメロウは、赤子も同然だ。そしてこの男は、赤子の手を捻るのが大好きそうな男だった。
「殺すなよ。生きてないと意味が無いからな。特に血は腐りやすい」
彼女は、人間が人魚にとって(性的な意味以外でも)捕食者である事を思い出した。
「人魚はその血を長く保存する秘術を持つと聞く。君自身がそれを行って、君の血を私らに分けてくれないかね?」
「エロい話聞かせてくれたら」
メロウはよく猥談のお礼として、自分の血を分ける。
「まぁ良いでしょう。正規の取引用にストックがあったはずなので用意させましょう、一杯聞かせてやるさ。冥土の土産は幾らあっても嵩張らないからね」
男はにんまり笑った。
「人魚一匹捕まえて、瓶一つでは割にあわんのでね。私の顧客はね、魔物と親しくしている方もいらっしゃれば、絶滅させたいと熱望してい方もおられる。しかしそんな主義主張に関わり無く、人魚の血は等しく高値で買ってくださるからね。供給が追いつかないのだよ」
メロウは相手に言ってやった。
「貴方、人魚の血を取引している割には無知ね。帽子の無いメロウは、旦那を持ったメロウなのよ。うちの旦那はめちゃくちゃ強いんだから、すぐに助けに来てくれるんだから、あんたなんかすぐにやっつけて、私をあっためてくれるわよ」
「しかし、帽子を持たずにこんな所をふらふらしている所を見ると、そんな彼とも喧嘩別れして来たんじゃあないのかね? 愛想を尽かして別れた女を助けに来る男がいますかね?」
「別れてないもん! 別れて……」
彼女の声は消え入り、俯いてしまった。
しかし、泣かなかった。
「気丈夫な人魚だ」
商人は興が醒めたように、その場から立ち去った。「泣けば真珠も、と思ったのだが……」
メロウは後悔していた。
彼と喧嘩をした事を。
朝食の卵焼きが、"オムレツか出汁巻き卵かで言い争った"事を。
彼の卵焼きは、彼の優れた料理の中でも絶品だった。
彼が贈ってくれた黄金の指輪ように、それは良い色の卵焼きだった。オムレツでも、出汁巻き卵でも。
彼女は後悔していた。
過去を後悔していなくては、今、涙が出てしまいそうだ。
泣いては駄目だ。泣いては駄目だ。彼を信じていない事になる。彼は必ず助けに来てくれる。だから、泣いては駄目だ。それは必要の無い事だ。泣く必要なんて無いんだ。
だが、堪える涙がきつく閉じた瞼からこぼれようとする。
「ダーリン、怖いよぉ、早く助けに来てよぉ、私が悪かったから」
彼女は小さく嗚咽を噛み殺した。
「艦長…」
「船長と呼べ!」
「その、船長……良いんですかァ? おかみさんの事ぉ?」
今朝、彼は妻のメロウと喧嘩をし、「実家に帰らせていただきます」と三行半を突きつけられ、とってもアンニュイな気持ちなのである。
「そんな事はお前には関係ぇねぇ!」
関係無いって……さっきから仕事が全然手についてないじゃあないですか。
「それに、だって船長ぉ」
言って彼は、船長の頭の上を指差した。
彼には不似合いの、真紅の羽根つき帽子がちょこんとのっかっていた。
メロウの帽子だ。
驚天動地の声が上がった。
メロウは甲板に座らされていた。
目の前に樽が置かれている。それが"何を詰める"樽なのかは、彼女にはおおよその察しがついていたので、彼女は細剣、そう、首の血管をちょんと切るには丁度良さそうな、それを抜き身で携えるあの男、売血商人には訊かなかった。
「よくもまぁ、海の上で人魚を殺す気になれるものね。海神ポセイドン様を恐れないの、あなた達?」
彼女は静かに、しかし強い口調で言い放った。
かつて旦那にも放言した科白だが、あんまり効果はなかったように記憶している。
それでも彼女は言った。
「あんた達、こんな事して、海で生きられると思っているの? 生きて陸に帰れないわよ?」
「私は、ね。もう何匹もの人魚を"商品"として扱っているんですよ? 今更、それに貴女が加わって何の罰が落ちるって言うんです? 私は今でも平然と立派に、海で生きていますがね」
「運が良かったのよ。今回も運が良いと良いわね」
少しでも、長く生きていたかった。
「時間稼ぎをなさっているようですが、旦那様は来られませんねぇ」
彼が迎えに来てくれるから。
「来るわよ! あんたと違って、イイ男なんだから!」
その時、商人は、メロウの薬指の黄金色に気付く。
一見して判る仕立ての良い指輪だった。金の純度も高い。美しい人魚に贈るに相応しい気品と機能性を持ち合わせた逸品であった。
商人はその指輪を贈った彼女の旦那の見識に賞讃を送ったが、それは他者への敬意というよりも、それを認め奪う自らの欲の肯定としての材料としてである。
「それが貴女の愛の証ですか。良い指輪だ。どうです? 私にそれを譲ってくだされば、貴女から抜く血の量をこの瓶一本分、やめてさしあげましょう。貴女の体にこの瓶一本分の血が残るのです。その指輪と人魚の血の相場からすれば、悪くは無いと思いますが?」
それを聞いて彼女は、その指輪が通された指を、他の指、反対側の手で固く覆う。売血商人は固く閉じたそれを抉じ開けようとするが、メロウは彼を突き飛ばし、その指輪を通された手を全身で護るように身を丸めた。
駄目だ。これは駄目だ。これだけは、全ての血が抜き去られようとも、この指輪だけは奪われては駄目だ。
例え命が奪われようとも、私は彼の妻なんだ。例え死んでも、彼が私の死体を見つけてその指にこの指輪があれば、きっと……死ぬまで貴男の妻であった事を解ってくれる。喧嘩していても、心底愛していたと、言い残す事ができる。
だから、これだけは、渡しては駄目だ。
「ひぃぃああああああああーーーーっ!」
あの細剣が、メロウの右肩を突刺していた。
「サンプルだ」
細剣の刃から滴る血を瓶に詰める。
少しぐったりしたメロウを、彼等はその上半身を樽に放り込む。
その時だった。
「てンめぇ……」
それは地の底から響く様な声であった。
「俺の最愛の女に、なにしてやがる?」
その声はしかし、天から舞い降るかのようであった。
ヒーロー(メロウ専用)登場である。
船体が大きく横に揺さぶられた。
「右舷に攻撃! いえ、衝突されました! 衝角で突かれました!」
「海賊船かッ!?」
「いいえ、あれは……あれは、ただの商船です!」
「馬鹿な!」
ただの商船に、これほど強力な衝角を付ける馬鹿があるか。
その馬鹿は、仁王立ちであった。
「迎えに来たぜ……」
瞳の中に、後悔と憤怒の色を静かに浮かべ、メロウの旦那様は静かに言い放った。
右手に菜箸、左手にはできたての出汁巻き卵の皿を持って。
………うっわぁ、台無しだぁ。
旦那様の勇姿の、要らぬオプションに内心でクレームを付けるメロウであった。
特に、あの菜箸が。
出汁巻き卵は、彼女的には良いらしい。
お腹の虫が鳴った。
「この船は、本来なら軍艦として建造されたもんを、政治情勢の変化って奴で商船に改装された、羊の皮を被った狼(ワーシープ)船って奴よ。それを譲ってもらったもんさ。ちゃちなオタクの船じゃあ、敵わねぇよ。とっとと降参しちまいな。それともマップタツにされてぇのか!」
「動かないでください!」
売血商人はメロウの首筋に、細剣の刃を宛てながら言った。
「そうですか、貴男が旦那様ですか。彼女が傷つけられたく無ければ、大人しく。貴方の物騒な船も退かせて下さい」
「よく言うぜ……てめぇ、人の女に怪我ぁさせといてなァ!」
そう吠えつつ動こうとしない彼に、売血商人は自らの有利さを確認し、薄い笑みを浮かべた。
「それにしても、よく、見つけられましたね。彼女が乗った私の船を。どうやって?」
メロウにとっての幸運は、彼女の愛する人がすぐに、妻が売血商人に勾引された事を考慮に入れて対処した事だ。そして凄腕商人で、その目利きを支えているのが優れて高い情報の扱い方であった。
正直、菜箸を持たせて仁王立ちしているのが奇怪しい、男なのである。
そんな彼が、妻の所在を知る為に色々と手を尽くし、ついには彼女を見つけ出した。ただそれをいちいち説明するのも、めんどくさいので、一言で済ました。
「愛の力だァ!」
その場の全員が白けた。
ただ一人、囚われのメロウだけは瞳を輝かせてはいたが。
潤む瞳を最愛の男に向けると、彼もまた、彼女を見つめていた。
「すぐに助けるぜ、出汁巻き卵が冷めねぇうちにな」
「……ダーリン」
甘く囁くメロウの声が、悲鳴に変わった。
売血商人が、メロウの髪を掴んで引いた。彼女を引き寄せて盾にするように旦那と対峙する。
「この女がどうなっても良いのかッ?!」
そう言われて、旦那は少し考えた。
そして言った。
「あン? それでお前達の運命が変わるのかね?」
がちゃり……。
彼女を助けに来た旦那とその部下たちが、手にした武器を一斉に鳴らし、今にも乗り移れるように身を乗り出す。
「艦長ォ! 御命令をォ!」
「おおぅよ!」
彼は身を乗り出し、奴らに一瞥くれてやる。
「お前達の運命はなァ、二択だ。
俺の女を生かして返して、俺に殴られるか。
俺の女を殺して、俺に殴られるか。
陳腐だろう? 俺ァ、オリジナリティの無い男でなァ。でも、相手に解りゃあ良いんだ。解りやすさって意味じゃあ、陳腐な方が親切で良いだろう?
それで、どっちが痛いかは言うに及ばずだが、敢えて言ってやる。前者ならば死ぬ程痛いが、後者なら、
ブッ殺す!
痛いなんて言う暇も無く痛めつけて、お前の息の根が止まっても殴り続けてやる。細胞組織が壊死して、血と肉が一緒くたになったら、てめぇの血を人魚の血だって言って、てめぇの名前で、てめぇの商品として、てめぇの顧客に売りさばいてやる! 俺の女くらいの血は、お前も持っているんだろう?」
旦那のその言葉に売血商人は鼻白ませて、人質のメロウの髪を強く引っ張り、その身を自分に密着させる。より盾として、むしろ鎧として見せた。
旦那様が吠えた。
「髪を掴むな! その肌に触れるな! その香りを嗅ぐな! そいつは、俺のもンだ!」
メロウはそんな愛する旦那様の言葉に、恍惚とした表情を浮かべていた。
彼女は、男の自分を鷲掴みにするような、揺らぎ無い自分への独占欲に痺れ、その突き立てられる爪の痛みによがる様な想いであった。
その反面、
……なんで私が物扱いよ?
しかも、あンたの物?
私を物扱いするなんて、あンたはそこの売血商人の親戚かァ?!
そんな不満がガスを伴って、ふつふつと湧き上がった。そのガスは、先の恍惚感を打ち消した。
ちなみにそのガスは、強力な可燃性であったらしい。
そもそも夫婦喧嘩の最中であったか。
…………ぐわぁしっ!
メロウの左手が、何かを掴んでいた。
「誰が、俺の女かァ!?」
そんな怒りに点火させた彼女は、手身近な"物"をむんずと掴み、ぶん投げた。
夫婦喧嘩の王道と言えば、物の投げ合いによる砲撃戦である。
しかし生憎、彼女の手短な物は"一人"しかいなかった。
………どべちゃ。
売血商人は、目標の手前に"着弾"した。
男の足元に、数瞬前に着弾した最愛の妻の投げて来たそれが転がっていた。
愛する妻の贈り物であるが、正直彼は受け取る気にはなれなかった。
そんな、頭から甲板に突っ込み、白目を剥いた売血商人など目もくれず、彼は彼女に歩み寄った。
それに対して彼女は、歩み寄る彼に投げつける物を探したが、手の届く所に手頃な物は無かった。
そして、ついには、自分自身を投げつけた。
「怖かったんだからねぇ……」
旦那に抱きとめられ、メロウは涙を浮かべた。
彼を信じるが故に、今まで流せぬ涙であった。
旦那は医者を呼んで、彼女の右肩を手当てさせた。
そして頭を抱いてその桃色の髪を撫でてやる。
その感触に安堵を強くして、メロウは更に泣きじゃくった。
「あンたの所有物なら、なんでもっと早く私を助けにこなかったのよぉ! 馬鹿ァ!」
「すまなかった。この卵焼き食って、機嫌直してくれや」
「うん………美味しい」
二人はキスをした。出汁巻き卵の、とても甘い味がした。
「艦長……いやさ船長ぉ、おかみさぁん、引き上げますゼ!」
「くそぉ……なんだったんだ」
売血商人は脳震盪で未だくらくらする頭を振った。
あの襲撃者らはメロウを奪還すると、速やかに退却した。それは目的を果たせば無用な事はしないという合理主義と、相手を"命を奪う価値無し"と、彼等流の侮蔑の表現でもあった。だが、とにかくもその時は、彼等は生き残っていた。
生きていれば再建も報復もできる。奴らに自分達を見逃した事を後悔させる事も、一泡吹かす事もできるだろう。「私の命と、奴らの主義と矜持に乾杯、だ」
ただ、まず対処しなくてはならない問題として、自分らの船の損傷が無視できない状態にある事だった。
「急いで、近くを航行中の船舶を探して、救援を……」
その時、売血商人は、セイレーンが自分たちの船のマストのてっぺんに舞い降りている事に気が付いた。彼は彼女に助けを呼んでもらおうと思ったが、様子がおかしい。
彼女は、彼等を見下すような一瞥をくれていた。
「……なんだ、あいつ」
不吉なものを感じて誰かが呟いたが、全ては手遅れだった。
彼女は詠い始めた。
この船を迷わすために。永遠に岸に届かぬように。
この船に、他の船が近づけぬように。誤って、誰かが奴らを助けられぬように。
彼等はあのメロウから奪った一瓶の血を持っていたが、それを奪い合って飲み干したとしても、無駄な事だ。あれは、寿命を延ばすだけのものであって、渇きや飢えを癒す事は無い。その血の力によって、苦しみの時間をより長く与えられるだけの事でしかない。
人魚を、海の魔物娘を、不条理に辱めた者がこの海で赦されると思うな。
「ああ、だーりん、だぁりぃン!」
メロウは旦那の太い腕の中で、まるで鳥籠の中のカナリアのように啼き続けていた。
「ああ、だぁりん……ああっ!」
時化た海のように荒れ狂ったシーツと、荒れ狂うその雨に打たれたように、互いの肌に浮かんだ濡れほぞるほどの大粒の汗が、二人の互いへの渇きを端的に表していた。
白い荒海の上で荒れ狂う二人は、無数のキスマークや噛み跡を、相手の肉体に刻み印していた。喧嘩をしていた僅かな空虚すらも恐れてて、我武者らに相手の存在感を求めていた。
男が何度も吐露していた。
「もう放さねぇよ、放さねぇ!」
その科白、もう喧嘩の度に聞いているんだけどねぇ……。
メロウは半眼で声に出さずに呟いた。
でも興ざめは無かった。
彼女自身、その想いに耐えきれず、さっきまで吐露していたのだから。
息を吸う暇も惜しく喘ぎ、と息する暇も惜しくしゃぶるように、二人は相手の肉を愛撫した。
荒い情事は人魚の豊満な乳房を揺らし、男を挑発した。男は、むしゃぶりついて我が物とした。我が物とされ、人魚は男が我が物になった事を知った。男は股間の猛りを人魚の腰に擦り上げて、自分の匂いを相手の肉に刷り込ませ、それが自分の物である事を主張する。人魚の蜜がその猛るそれに絡みつかせて、自分の香りを相手の肌に移し込んで、それが彼女のものである事を自覚させた。
自分が相手のものである事、相手が自分のものである事を、知らしめ、思い知らせ、そして知り、思う事を、二人は渇望していた。二人が互いの手の届くに寄り添っているのだと、知っておきたかったし、感じていて欲しかった。
メロウはだから、傷の痛みも忘れ男のそれを受け入れ、男は彼女のそれを彼女自身を貪ってそれに応えた。
男は貪り、人魚は貪られながらも、その自分を食むその歯と舌の奥に潜り込むように相手を貪って、男もまたその感覚を自覚する。そして互いの存在感に安堵しつつも、昂っていった。
その晩の彼は、固くて太くてすンごかった。
「………で、その時できた子が、この子ぉ(はーと)」
……台無しじゃあ。
なんとなしに腐れ縁なバフォメットが内心どう思っているかは兎も角、毎度のように彼女は陽気な笑い声を立てていた。その腕には少し前に生まれた赤ん坊が、大事そうに抱えられていた。
「これで何人目じゃ? 喧嘩の度にできた子は?」
「数えてみれば良いんじゃない?」
………あの子ら全員、喧嘩ついでにできちゃったんかい?
「喧嘩の数が、子供の数って言うじゃない」
それが冗談なのか、はたまた本気であったのか、その正解を彼女は教えず、バフォメットは目の前のエロ人魚の悪戯心の具にされた。
彼女はすました顔で、テーブルの上のティーカップに手を伸ばす。
赤ん坊を気にしながら手を伸ばす姿を見て、その日給仕当番だった魔女が駆け寄ってくる。それは彼女が、大事な来客には「日頃の雑事も忘れて優雅に紅茶を楽しんでもらいたい」と考えている故でもあったが、もう一つ理由があった。
熱い紅茶が万が一、赤ん坊の柔肌にかからぬように、と、メロウが抱きかかえていたそれを受け取ると、そして魔女はその表情を綻ばせる。
興味を示した彼女に、メロウは赤ん坊の事をあれやこれやと、「貴女もつくってみたら」と母親というよりエロ師匠的なニュアンスで嗾していたりもする。魔女はその言葉に顔を真っ赤にしていたが、赤ん坊から目線を外す事は無かった。
ああもう、あの様子では、今晩あたり夫にせがむのであろうなぁ……。
バフォメットは人員ローテーションの修正を、人事に用意させるべきかを考え始めていた。
「で? 今度の夫婦喧嘩は何度目?」
そう訊ねたのは喧嘩惚気を聞かされるバフォメットではなく、それをしに来たメロウであった。
彼女は香りを含んだ湯気をくゆらせ、相手の言葉を待った。
「夫婦喧嘩などしておらぬ!」
「じゃあ、兄妹喧嘩?」
「お前は意地悪じゃ!」
バフォメットは口の渇きを覚えて、傍らのホットオレンジを手に取った。
「なんでそう、我らを喧嘩させたがるのじゃ?」
「うーん、と。二ヶ月前かな」
「………な、なぜ、我と夫とが、戦争がごとき喧嘩をした事を知っておるのじゃ」
そりゃあ……本当に戦争みたいな喧嘩なら、誰だって気付くわ。
でもメロウがそう見抜いたのは、別の要因である。
「オメデト、男の子かしら? 女の子かしら? ああ、私たちからは魔物娘しか生まれてこないから、バフォの女の子かぁ(はーと)」
無言のうちに、バフォメットの顔が赤くなり沸騰する。
図星らしい。
「匂いかなぁ……」
何で解った? と問うて返って来たその答えに、バフォメットは自分の匂いを嗅ぎ始める。
もっともメロウが言いたかったのは、身に纏うミルク臭さのある雰囲気であったのだが。
それよりも、と、メロウはにんまりと笑って言った。
「バフォ様も私の事、言えないじゃない」
「いや……その、あの時は、な……もう、会えぬかもしれぬと、勝手に、思ってておったから、その、仲直り……再び会って、な……そう思ったら、互いに愛おしゅうて……な」
しきりに同意を求めるかのような喋り方で、彼女はもじもじし始めた。
「だって、あいつが怒る事なんて、そんな無いのじゃ、それがああまで………売り言葉に買い言葉で、何日も会わんで居たが、なんか、そのまま我らの関係が無かった様になっていく感じがして来てな……怖かったのじゃぁ……」
「喧嘩をしないよりはマシ。互いに知らぬままでいるよりは。
大事なのは、嫌いになっちゃわない事。好きだから喧嘩した事を、忘れない事」
「お前は強いの……我はその自信が無かったのじゃ」
「私も強くは無いわよ。だから仲直りしたとき激しいのよン」
………やっぱり、台無しじゃあ。
メロウはバフォメットのお腹を撫でさせてもらう。
撫でながら彼女は言った。
「互いに互いを確認し合って……そうやって私と彼は二人で居る。ただ隣に置かれたわけじゃなくて、互いの手の届く所に居たいから寄り添う。愛し合ったり、殴り合ったりする為に、ね」
それはとても桃色なのだ。だからお花畑なのだ。それがわかっているから。
メロウは言って、自分の旦那の事を思い浮かべては、まだ出会ったばかりの頃のように心を躍らせているようであった。
11/01/23 06:10更新 / 雑食ハイエナ