第八章 天を仰ぐは誰がために:天の柱F
―12―
「あれがモエニアの本気。すごいね、ジパングの伝承に聞くヤマタノオロチみたいだ」
昨夜からいまのいままで逆鱗亭にいたミクスは、カウンター席で眠気醒ましにドラゴニアの地酒をやりながら、文字通り観戦していた。
観戦客の入れ替わりが激しいここだが、スワローたちとモエニアの戦闘が始まってから席を立つ者はいない。店内に幾つも設置された水球を注視している。
隣にいるキサラギもさっきまではテーブルに顔を埋めるように寝ていたが、モエニアのブレスが轟音を響かせた途端、丸い耳を尖がらせて跳び起きた。当然ながらミクスは笑った。
「物理的破壊力のあるブレスもすごいけど、やっぱりモエニアの本領はこっちだよね。一対多の護衛を得意とするモエニアの力」
水球の向こうで、モエニアが白炎の尾を吹き抜け上階にいる呈へ向けて伸ばしている。危うく燃やされそうになっていたが、耐火の外套のレジストのおかげで間一髪理性が焼かれることは免れていた。
「ガチのドラゴンの戦いなんてそうそう見れるもんじゃないっすからねぇ。スワッちたちは堪ったもんじゃないでしょうけど」
「まぁね。ドラゴンと渡り合えるドラゴンスレイヤーの数はいまはもうかなり数が少ないし、呪いのせいでそもそも勝てないし。勇者だってドラゴンレベルのは最近だとそうはいない。闘技場でもここまではやれないしねぇ」
「っていうかあの威力のブレスを吹くとかやばくないっすか?」
キサラギのごもっともな質問に、ミクスは肩を竦める。
実際、その瞬間を目撃していた魔物夫婦や独り身ドラゴンからも「やりすぎだ」だの「加減を知らんのか」だの「ああ、これでまたドラゴンが凶暴だというイメージがついてしまう……」だの声が上がっていた。
モエニアの行動に一応の理解は示しているものの、傍から見て子供のカップルを苛めているようにしか見えないため、不満の声は大きい。
いまも自身は動かないながらも、質量を持つ尾でスワローたちを追い詰めている。壁を破壊し、床を破壊し、熱波と暴虐を解き放っている。旧魔王時代の悪竜が如く。
「まっ、天の柱が倒壊することはないと思うよ。あそこの重要な支柱や一部の壁はブレスでも溶けないし壊れないくらいの頑強さと魔法障壁が貼られてるからね。今年修繕にあたる竜工師と竜騎士団の人たちは頭抱えてるだろうけど」
塔内部の壁に魔宝石が埋め込まれているのもそのためだ。塔の耐久性を補助している。
「それにファリアにきちんと事前準備をさせている。大丈夫さ」
ファリアはその道のプロだった。時魔法のスペシャリストである。モエニアに頼んだ以上、派手なことになるとミクスはわかっていた。
「いや、スワッちたちの心配はしないんっすか?」
「しないよ。心配なんかいらないさ。もう彼らは僕の手から、いや誰の手からも離れた。あとは勝手に成長して、壁を乗り越えるだけだよ」
「そのミクスの確信っぷりはどこから来てるのか不思議でならないっすよ」
ふふん、とミクスは笑う。
「僕は信じてるからね。愛の力って奴を」
いま現在、スワローたちはモエニアから這う這うの体で逃げ惑っているが。
「おっ、話がわかりそうな奴がいるねぇ」
「おや?」
いきなり背中から声をかけてきた女性が、どんとミクスの真横に腰かける。
彼女の足は人のものではなく、硬い鱗に覆われた蛇の尾のようだった。鱗の色は緋色。その色と同じように彼女は顔を赤らめ、ご機嫌な笑みを浮かべている。
「君は確か、メッダーだったかな」
「うちのこと知ってるんだ、お姫様」
「お姫様って。ぼくは魔王様の娘じゃないよ。お孫様だよ。ミクスだ、よろしく」
軽く握手を交わす。ミクスの繊細な手とワームの無骨な手が組み合う様はとてもアンバランスだった。
「おお、メッちゃんじゃないっすか。先日はどうもっすー」
「メッちゃんやめろって。んな可愛い名前、うちには似合わねぇからよ」
そう言ってメッダーはドラゴンステーキ三人前と地酒を大量に注文する。
「外に出てくるなんて珍しいね。いつも城壁に突撃してるって聞いてるよ」
「うぐ、それは言うな。まぁ、あれだ。ダチが頑張ってるからな、どうせなら近いところで見たいだろ。それにたまには上の酒や飯も食べとかねぇとな。幾つかはしごしてきたとこだよ」
そしてジョッキグラスと地酒の入った一升瓶が出される。注ごうとするメッダーの手から、一升瓶をひったくり、ミクスは彼女の持つグラスへと瓶を傾けた。
「悪いね」
「いやいや、僕の大切な娘の友人だからね」
「僕“たち”っすよ、ミクス」
口を尖らせるキサラギに悪い悪いと謝りながら、ミクスはジョッキに地酒を注いだ。普通はこのグラスに入れる酒ではないが、豪快に一杯やりたいようである。
「さぁてどうなるかねぇ、あいつら」
注ぎ終えたタイミングでぽつりとメッダーが呟く。その視線の先には逃げまどうスワローたちを映す水球があった。
「君は信じてるんだろ? 二人が乗り越えるって」
ミクスは確信をもって尋ねる。
「まぁな。うちとの勝負で勝った呈だ。根性はある。あの歳であの気概を出せるんだ、乗り越えられねぇはずがねぇ」
笑みを深くする。あのとき、グランドワームの巣であったときのことを思い出しているのだとミクスにはわかった。
「でも、うちはお節介焼きだからよ」
くすぐったそうにメッダーは肩を上げた。そのあとは続かず、水球をただ見つめるだけだった。
ミクスはすぐに察した。乗り越えられると信じてはいる、がそれでも心配なのだと。というより、何もしてあげられない自分がもどかしいのだと。
自分たちに話しかけたのも、共通の話題が欲しかった、自分の心情を話せる相手が欲しかったせいもあるのだろう。
「まぁ、何もせずに見守ることも必要なことだと思うよ。彼らのためにもね」
「わかってんよー。ただ、せめて声だけでも届けられたらなぁって。手を出すつもりはないさ」
悲鳴が店内で響いた。
スワローが呈を庇い、腕を白炎に焼かれる光景が水球の中で広がる。巻き付かれなかったのは幸い。もし捕まっていればその時点でおしまいだっただろう。
「……」
ミクスは思案した。追い詰められつつある二人の背を見ながら。
疑うことはない。ただ。
「まっ、辛気臭いのは無しだな。とにかく応援しよう。どっちにしろうちには信じてやることしかできねぇ」
「そうっすよ、呑みましょう、メッちゃん」
「メっちゃんやめろって」
ミクスの前で、メッダーとキサラギのグラスが近づく。期待の眼差しで二人が見てくるのを、やれやれとミクスは肩を竦めた。
ミクスも二人に倣い、グラスを掲げる。
「呈ちゃんとスワローに」
直後、グラス同士が当たる甲高い音が響いた。
そして、ミクスはグラスをテーブルに置く。一口もつけずに。そして、席を立った。
「おまっ、乾杯して呑まねぇってそれ」
「やることができたからちょっと行ってくる! メッダーもここで待っときなよ。どこも行っちゃ駄目だからね!」
そうして、茫然とする二人を残し、ミクスは店外を出て黒翼をはためかせて空を飛ぶ。
もうするべきことはした。備え続けてきたものは結実しかかり、思い通りに事は進んでいる。
だが。だからこそ。
メッダーの言うお節介をたまにはしてみようかと、そうミクスは考えたのだった。
モエニアさんの攻撃にぼくたちは逃げ惑うことしかできなかった。
あの炎は近づくだけで肌が焼き付くような感覚がする。
ぼくが肩を貸すスワローの息はとても荒い。顔が上気して、理性が焼かれつつあるのだとわかる。逃げる最中にぼくを庇ったせいで腕を焼かれたのだ。
「大丈夫? スワロー?」
「……あ、ああ。多分。正直、呈をいますぐ襲いたいなーって」
「うう、ぼくも襲われたいけどいまは我慢だよっ!」
回廊をぼくたちは早歩きで進んでいる。あの場所から離脱できたのは運が良かった。耐火の外套とドラゴニウムの粉塵のおかげだ。
「でも、もうないんだよね、粉塵も陶酔煙玉も」
リュックも随分と軽くなってしまった。毛布や寝袋は燃えカスに、各種マジックアイテム、体力回復用の竜の生き血も使用済み。
それどころか何重にも着ていた服も燃やされたりしたせいで脱ぎ捨てている。いまでは肌着の上に一枚着ている程度の薄着。動きやすいことは動きやすいけど。
モエニアさんの炎の魔力かはたまた別の魔力のおかげか、こんなに高いところにいるのに寒さはほとんど感じなかったけれど。
「逃げ切れただけラッキーだって。外套のレジストのおかげで、何度か白炎の尾を無効にできたからな」
ぼくが吹き抜けの上階にいたとき、伸ばされた白炎の尾を回避できたのは外套のおかげ。
レジスト効果のせいか、白炎の尾は外套に触れた瞬間掻き消えたんだよね。とはいっても、あの尾は魔力の塊みたいなものだからすぐに戻ったけど。
「あと一着だけ予備が残ってるけど」
「いま着ても逃げにくくなるだけだな。それに俺か呈のどっちかしか使えないし。炎を一時的にでも無力化できるなら、ここぞというときに」
残っているのはスワローの予備一着のみ。マジックアイテムはインビジブルシールが一枚とキサラギさんからもらった魔宝石、あとは普通の煙玉が一つだけ。いままでマジックアイテムだけで凌いできたぼくたちにとってはかなり絶望的な状況だった。
姿を消す護符も一枚だけじゃあぼくたちどちらかだけだし、何より魔力感知ができるモエニアさんには意味がない。さっき実践したばかりだ。
唯一良かったのは、モエニアさんも尾は縦横無尽に動かしてたけど、自分はほとんど動こうとはしなかったこと。おかげで逃走自体は簡単だった。でも。
ゴォッ!!
ぼくたちの真後ろの壁が爆音とともに弾ける。大きく開いた穴から現れたのは白炎の尾だった。でもモエニアさんは傍にはいない。
そう。こうやって、尾がぼくたちを追い詰めようとどこまでも追いかけてくるのだ!
「……逃げるぞ!」
「うん!」
見つかったらするのは一つ。逃げる。でもぼくたちは逃げる度に上階から下階へ追いやられていた。外壁から上を目指すことも考えられたけど、モエニアさんは探知能力も優れているからすぐに諦めた。
だから、頂上に行くためにはどうにかしてモエニアさんを越えていけない。
でもそんな手段、あるわけない。もうマジックアイテムもほとんど底が尽きて、スワローも体力が尽きかけている。モエニアさんの魔力に侵されて、いつ理性が燃え尽きてしまうかもわからない。
ぼくは、どうしたら……。
「呈……あそこ」
白炎から逃げて逃げて、通路を曲がりちょっと進んだ先をスワローが指さす。
多分、モエニアさんのブレスの余波を受けて崩れた天井や壁。およそ道とは呼べる代物じゃないけど、スワローの言いたいことはすぐにわかった。
多分、上に向かうための他の道はモエニアさんに押さえられている。道なき道を進むしか、ぼくたちが頂上に進む手段はない。
ぼくはスワローを抱えたまま、尾を大きく伸ばして身体を上まで持ち上げる。ぼくの全長は五Mほど。充分届く。スワローもふらふらだけど、上手く床の縁に手をかけて登るのを手伝ってくれた。
「尾がいっぱいあった割に、あんまり追いかけてこないね」
ぼくは登ってきた方を見下ろし、また周囲を警戒して白炎の影がないことを確認する。
最初に見た十本もの数の尾ならぼくたちをすぐに追い詰めることができそうだったけど、ぼくたちがモエニアさんから離れてから同時に現れた尾の数は多くて二本だった。
全部の尾で来られてたら絶対に逃げられなかったのに。
「……まぁ、おれたちを舐めてるってわけじゃないだろうな。あの感じだと」
「うん。モエニアさんは本気でぼくらを」
まるで狩人に狙われた獲物の気分。どこからも視線が感じるような気がして、生きた心地がしない。もうずっと心臓が鳴りっぱなしだ。
「なるだけ側面を通って進もう。呈、周囲にモエニアは?」
「いない……けど!」
こっちに向かってくる蛇のような細長いもの。人や魔物の体温とはまるで違う真っ赤な、そして魔力そのものの塊が真横から迫って来ていた。
「走れる!?」
「頑張る……!」
壁を突き破ってくる前にぼくたちはその場から走って逃走する。
大回りしながら、道とは言えない道を通りながら、迫りくる尾をなんとか避けては切り抜けて、ぼくたちは上を目指す。
上へ行くほど、尾の追撃は少しずつ激しくなっていった。一本から二本、そしてついには三本とぼくたちの行く道を塞いでは後ろから追いかけてくる。
「ッそ! 負けるか! あっちだ呈!」
「うん! 左来てるよ!」
ギリギリでもなんとか捕まらずにいたのは、尾の動きを感知できたのと、今朝中にスワローがこのフロア周辺のマップを完全に頭に叩き込んでくれていたから。
崩落していても、ううん、崩落しているからこそ、ショートカットをしたりしてなんとか躱せていた。
「ッ! スワロー! モエニアさんが追いかけてきてる!」
だけど、それは突然だった。ぼくの魔法の効果範囲にモエニアさんの姿が現れた。
尾と変わらない熱量と膨大な魔力を放って、しかもさっきまでと違ってとても速く動いてる。
尾を二本、ぼくらの方と別の方へ伸ばしながらこっちに迷いなく迫っていた。
その速度はぼくたちと同じか少し速いくらい。
「モエニアの動きはどんな感じだ?」
「尾を伸ばそうとしてる感じ」
ぼくたちを探るように尾を伸ばしているモエニアさん。目が離せない。いつこっちに突然、白炎の尾を差し向けてくるか、一瞬も気が抜けなかった。
「だけど、考えてみたらチャンスだ」
「え?」
「後ろにいるいまのうちに少しでも上に行こう。おれも、もう少し気張る!」
「そっか、そうだね。うんっ!」
このまま走り抜ければ逃げ切れる。頂上まで行って、スワローの記憶を取り戻す。
そして一緒に鐘を鳴らす。最後まで諦めない。
そう、思っていた。
「はっ?」
ぼくの耳元でスワローがそんな気の抜けた声を漏らす。スワローは一点を見据えていた。我が目を疑うように点にさせて、呆気に取られていた。
スワローの見ている方に顔を向けて、ぼくもスワローと一緒の顔になった。
「おかえり」
これほどまで残酷な「おかえり」をぼくは聞いたことがなかった。
吹き抜けのフロア。そこに一人、ぼくたちが逃げ出したときとまるで変わらない佇まいで彼女はいた。
ぼくの腕くらいの細い尾をただ一本、ぼくたちとは別の方へと伸ばしているモエニアさん。その人だった。
なんで? どうして?
「嘘」
後ろの通路の影から現れたのは白炎。モエニアさんの形をした白炎だった。
ぼくは完全に騙されたのだ。いままで姿を見せず、あのタイミングで偽物の姿を見せたのはここにぼくたちを誘い込むため。自分はただの一歩も動かずに、自身の下へ帰らせるために尾を動かしていた。
「ぼくたちを……諦めさせるために、こんな」
まさしく狩り。獲物を追い込む罠。
尾のモエニアさんが消えると、本物のモエニアさんが再び白炎を身に纏った。囲まれる状況から脱したと思った瞬間、ぼくたちの近くの足元から白炎の火柱が床を貫いて現れた。
いつでもぼくたちを燃やせるとでも言わんばかりに。
「詰みだ、二人とも。もうマジックアイテムはないだろう?」
「くそっ」
スワローはナイフピッケルを構えるけど、その姿に力はない。モエニアさんに敵うはずない。ううん、万全な状態でぼくたち二人がかりで挑んでも、いまのモエニアさんに勝てるわけない。
ぼくたちはわざと逃げさせられ、走らされて、一筋の光明を見せられて、そして絶望を与えられたんだ。
理不尽を叩きつけられた。
「……」
ぼくの中で諦めが鎌首をもたげた。見下ろして、口を開いて、丸呑みにしようとする。
「ぁ……」
「呈っ!?」
尾から力が抜けて、ぼくは地面に伏してしまった。立ち上がれない。頂上に向かわないといけないのに、ぼくの尾は言うことを聞いてくれない。
スワローが心配そうにぼくの顔を覗き込んでくれる。
「ごめんなさい、スワロー……ぼく、ぼく……!」
もう、駄目なんだ。絶対無理だよ。あのモエニアさんから逃げるなんて、そんなの絶対不可能なんだ。
髪を搔き毟る。もういやだ、どうしてこんな。なんでこんなことするの。皆!
ぼくはただスワローと一緒に天の柱に登りたいだけなのに、こんなに邪魔をして!
ひどい、ヒドイ、酷い!
視界が滲む。前が見えない。スワローの顔がよく見えない。泣いてる? ぼく泣いているの? 止まらないよ、止めたいのに。泣いている場合なんかじゃないのに。
「呈」
スワローの声がする。優しい。けど、ぼくを諭す強さがある。
「おれは諦めない」
それは決意の言葉だった。ぼくを責めるものではなく、ただ自身の意思を示す言葉。
「お前がここまでおれを連れて来てくれたんだ。だからおれは折れない。立ち止まらない」
「まだ無駄だとわからんか。何故そうまでして足掻く」
「おれが天の柱を登ってる姿が好きだって。そう呈は言ってくれたんだ。好きな娘がそう言ってくれてるんだ。だったらよ……男だったらよ、格好つけたくなるだろうが! 最後まで足掻くに決まってるだろうが!!」
「スワロー」
胸が苦しくなる。こんなにも苦しいことの連続なのに、それらが全て霞んで見えるくらい胸が苦しい。
スワローを独り進ませてしまうことが、何よりも苦しい。
なのに、動いてくれないぼくの身体がとても憎い。ぼくは。ぼくは……!
スワローが立ち上がる。滲んだ彼の後ろ姿が、とても近いのに、とても遠い。
待ってと言いたい。行かせたくない。一緒に行きたい。ぼくは。
「……!」
モエニアさんの白炎が一層その火力を増大させる。ぼくたちを二人とも呑み込まん限りに魔力を膨れ上がらせる。こんなの、躱すことも受け止めることも耐えきることもできやしない。やっぱり全部、無駄なんだ。
『間に合ったぁ!』
とても大きな、ノイズ混じりの声が響いた。
「な、なんだ」
「これは水球からか……?」
スワローもモエニアさんも驚く。声はモエニアさんから響いていて、彼女が掌を上へと向けると水球が形を成した。それは独りでにぼくらの中心へと浮かび上がり、天井を覆うくらい大きなものになる。
そして、その水球が映し出した光景、そこには。
『無理矢理繋いだからか声が安定しないね、ノイズ混じる。んっと、よっと。ほい。これでいいかな?」
声がとてもクリアに聞こえるようになった。
「ギリッギリだったねー。もうちょっとで焼かれるところだった」
「お前はミクス・プリケット。ここは私に全てを任せると言っていたが、違えるつもりか」
「いやいや、手は出さないよ。ただちょっとね。呈ちゃんにお届けしたいものがあってさ」
飄々と笑うミクスさんが背後に振り返る。そこにはぼくの見知った顔がいた。
「よーっす! んだ、呈? 湿気た面してんな」
「メッダー、さん?」
グランドワームの巣でぼくと友達になってくれたメッダーさんがいた。ううん、彼女だけじゃない。
「久しいな、呈。いつぞや振りか。我のこと、まさか忘れてはいまいな?」
「リ、リゼラさん!」
ドラゴニア大瀑布の地下水路でぼくのことを揉みまくったクイーンスライムの竜分体、リゼラさんだ。
二人だけじゃない。道案内をしてくれたサハギンさん、飲み比べバトルのときに審判をしてくれたドラゴンさん、ドラグリンデ城で雷勇者さんと結ばれたデーモンさんことストリーマさんもいる。
彼女たちだけじゃない。ぼくがドラゴニア中を回ったときに馬車に乗せてくれたケンタウロスさんや背に乗せてくれたワイバーンさんたち、ぼくがキサラギさんの仕事で回ったときに知り合った皆がそこにいた。
ぼくを見つめていた。
この場にいるモエニアさんも含めた三人とも、茫然と水球を見上げていた。ミクスさんが何をしたいのか理解できなかった。
「ふふ、訳が分からないって顔してるね。けど事は単純さ。メッダーが声だけでも届けたいって言うから、ビビッと来てね。適当に皆を呼んだだけだよ」
「全く、無理矢理すぎるっすよ」
キサラギさんもいた。その瞳はモエニアさんと同じ。
「なぁ呈」
メッダーさんがぼくに呼びかけてくる。困ったような表情で。
「あのときのお前は諦めなかったぞ。好きな人がいるから、その人のために何でもしたいって、最後までお前はやり切ったんだぞ?」
泣いてる場合かよ、とぼくをメッダーさんが叱咤激励する。
「我にはこの事態はよくわからんが、お前が我と初めて会ったときとはまるで変わったということは断言できるぞ。我と面と向かうだけで怯えていたお前が、いまは炎を纏うドラゴンと相対しているのだ」
リゼラさん。
「ここで膝をついて諦めて、貴様は納得できるのか?」
納得……。諦めたまま終わって、それでぼくは。
「呈ちゃん。私たちはあなたたちが終えたあとに、番いの儀をするつもりよ」
ストリーマさんの隣にはあの雷勇者さんがいる。ぎゅっと抱き合っている。
「さっさと結婚しちゃいなさいな。あなたたちよりも先にするつもりはないし、長く待つつもりもないの」
ああ。ぼくは。そうか。
「むっ、呈のあとに番いの儀をするのは我らだぞ。ついに我らが王を得たのだからな」
「駄目よ! ここは絶対譲れないわ!」
「お前ら、未だ夫のいないうちに対する当てつけか? おおん!?」
三人の喧嘩を背景に、ぼくが知り合うことのできた皆が声をかけてくれる。たった一度、多くても数度、顔を見知っただけかもしれない関係。それでも、こうしてぼくに声をかけてくれるためにここに集まってくれた。
「すげーな、呈。いつの間にこんなに友達作ったんだ?」
「そうだよ、スワロー。呈ちゃんは意外と凄いんだぜ? あんなに人見知りなのにこんなにいっぱいの魔物や人に助けてもらって、駆け付けてくれてるんだ。君もそろそろ友達くらい作りなよ? 兄貴分だけじゃなくてさ」
「これが終わったら考えとくよ」
「……っ」
胸が熱くなる。温かいもので視界が滲む。
嬉しい、嬉しい、嬉しい!
「ふふ、ふはは、ふははははははははははははははっ!!」
だけどそれら全てを掻き消す、モエニアさんの哄笑。
静まり返る中、ミクスさんが再び中心に立って、モエニアさんを見据えた。
「くだらない、と思っているのかい?」
「そう思うか?」
全身が射竦められるような殺気をモエニアさんが前肢から迸らせる。ぼくを含めた皆が圧倒される中、ミクスさんだけはますます笑みを深めていた。
「っ……」
心が凍えそうになる。でもいやだ、消したくない。ぼくを奮い立たせてくれる、皆がもたらしてくれたこの炎を消したくない。
モエニアさんが悪竜の笑みをぼくに向けてきた。眼光鋭く、それだけでぼくは射殺されかねないくらい恐い。
だけど、その直後。
モエニアさんの纏う白炎が消えた。
モエニアさんの表情が、とても柔和なものへと軟化した。
「呈と知り合った者全員を呼び寄せたのだろう」
ならば、とモエニアさんが言葉を紡ぐ。
「私も呈と知り合った者の一人として言葉を贈らせてもらおう」
あのときドラグリンデ城でぼくに色々と教えてくれたモエニアさんと同じ表情で。
モエニアさんは指を指す。頂上へ。
遥か頂き、いや、もう目と鼻の先にある天の柱の頂上へ。
「お前が天を仰ぐのは誰のためだ?」
ぼくが天を仰ぐのは誰のためだって? そんなの、ぼくは。
スワローを見る。そうスワローのため、ぼくはスワローのために……。
本当にそれだけ?
「ッ!」
モエニアさんは再びぼくたちに立ち塞がる理不尽となった。手を掲げると白炎が燃え盛り、ぼくらを呑み込まんばかりの巨大な轟炎を頭上に広げる。
「さて、せめてもの手向けだ。この一撃でお前たちの理性を燃やし尽くしてやろう。互いのことしか考えられぬほどの情欲に呑まれるがいい」
ぼくは立ち上がっていた。スワローの隣に並んで、その手に指を絡めた。目の前で一層火力を増していく白炎に、髪や服が翻る。肌がとても熱い。でもぼくの中に燃えている気持ちの方がずっと熱い!
「呈?」
「ごめんね、スワロー。ぼく、全部自分のためだった!」
「はい?」
「全部自分のため! スワローが欲しいからここに来たの! おためごかしなんか言わない! 全部自分のため!」
ぶっちゃける。そうだ。ぼくはスワローが欲しかった。ぼくだけのものにしたかった。だから天の柱に来た。だからぼく以外の娘を拒絶した。
もう隠さない。自分に嘘をつかない。全てさらけ出そう。いまだからこそ。
スワローのためだからなんて、仮面を外して言う。
ぼくはスワローが欲しいから、自分のためにここまで来た。そのために頑張ったんだ。
「ははっ」
スワローが声を出して笑う。驚かなかった。きっとスワローもそうだから。
「ははははははっ! だな、だなぁ! おれもそうだ。おれも呈とさっさと結ばれたいからここに登ってる。明日とか明後日とか、増してや大規模修繕が終わるまでとかそんな長くなんてもう待てない。全部自分のためだ。そうだな、そうだよ」
一緒に笑い合う。
ぼくと同じだ、スワローも。ぼくたちは同じ、一緒だ。ずっと。これからも。
なんだか憑き物が落ちた感じがする。最後の心残りが消えた。
あー、すっきりした。いいんだ、これで。変に考える必要ないんだ。
「開き直っておかしくなったか? もうお前たちに残された手などないぞ」
「…………………………………………………………………………………………そう?」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
喧騒が一瞬で消えた。
ぼくの心は静謐を刻んでいた。
炎が燃える。蒼く澄んだ水の炎が烈火の如く燃え盛る。ぼくの心の内を中心から、毛の先、指先、尾先まで満たすように染み渡るように広がっていく。
デオノーラ様に止めてもらったときと同じ感じだ。でもいまは、あのときのぼくとは違う。蒼い炎に支配されない。ぼくが蒼い炎を支配する。
燃えろ、燃えろ、燃えろ。
ぼくの身体に収まり切らないくらいの魔力を燃え滾らせろ。
全てを呑み込み、全てを抱擁する水の魔力を蒼き炎と化してこの身を燃やせ。
嘘のぼくを全て焼き尽くし、スワローとともに生きるぼくだけを残せ。
「変わろうとしている、か。だが、理不尽は時を待たんぞ!」
蒼い炎がぼくの視界をチラついた瞬間、モエニアさんが吠える。
白炎が大きくうねりをあげて、ぼくたちへと放たれた。
「呈!」
スワローの声を耳朶に残し、ぼくはミクスさんの言葉を思い出す。
「呈ちゃん。魔力、というのを君はどこまで知っているかな?」
魔力の特訓を始める直前、ミクスさんはそう切り出した。
ぼくは普通に妖怪や魔物娘の身体に備わる不思議な力というくらいしかわからなかった。
ジパングだと妖力とか神通力とか、そんな言葉を使う。魔法を使うために必要な一応の際限のある力。夫と結ばれることで半永久的に得られることは知っている。
「いいね、不思議な力。そうとても不思議な力なんだよ、魔力は。魔力の使い方をレクチャーする前に、先に魔力の本質というものを理解しよう」
本質?
「自然界には基本的に四つの力というものがある。向こうの世界での言葉を借りるなら重力、電磁気力、弱い力、強い力だね。魔力はそれらと同質の働きをすることが可能なんだ。代用できる。けど本質はそこじゃない。魔力はそれらが宿さないものを宿すことができるんだ」
人差し指をピンッと立ててミクスさんはかたる。
「僕たち魔物の意思をね」
いし? 思うこと?
「そう。魔力の本質とは使用者の意思を宿すことにあるんだよ」
それはつまり、思えば自在に魔力を扱えるということ?
「究極的にはそうだね。魔法というのものは、使用者の意思によって魔力に指向性が与えられ、発現する事象のことだ。魔力に意思を込めれば魔法となるだろうね」
ミクスさんのその言い方はそれ以上の何かがあることを意味していた。
「でもそれじゃあ、他の力とあまり変わらない。重要なのはこの意思を他者へと伝えられるということなんだ」
それはつまり魔力を通じて、他の人に声を届けるということ?
「届けるというよりは感じさせるの方が正しいね。魔力を介して意思を共有し、僕たちは誤解なく繋がることができるようになる。分かり合える。その最たるものが魔力を交換する行為、セックスだ」
ぼくとスワローが結ばれた行為。言葉でわかりあったあと、ぼくは言葉なくわかりあった。魔物たち、妖怪たちが大好きな人と結ばれたいと思う気持ちが一つわかったような気がする。
でもそれがわかっても魔力を上手く扱える自信はなかった。キサラギさんにはずっと前、魔力を上手く扱えるんじゃないかと聞かれたことがあったけどむしろ逆だ。
ぼくは自分の魔力を上手く扱えない。
昔、行き倒れの女性を介抱していたら意図せずラミアへと変えてしまったことがある。
奥ゆかしい妖怪さんだったのに、とっても淫乱な妖怪さんに変えてしまったことだってある。
その気がなく誰かに影響を及ぼしてしまう、この自分の魔力が怖く思ったこともあった。
「不安になる必要はないよ。だからこそ本質を理解する必要があるんだ。魔力を自在にコントロールするためにね。それに、この魔力の凄いところはね、ある方の意思が必ず宿っていることだよ」
ある方? 誰だろう。
「魔王様だよ」
あ。
「人と魔物を結び付け、魔力に触れた者を幸せに導く。魔力に備わった絶対の理。そんな魔王様の意思が僕たちの魔力には宿っているんだよ」
魔王様がぼくの中にいる。どうしてだろう。とても心強かった。
「それにね、この魔力はとてもお節介なんだ。悲しみと苦しみに苛まれる者を見過ごせない。それは時として次元を越える」
次元? ……まさか。
「スワロー君がこの世界に来たのはきっと魔力の力だろう。放っておけなかったんだ、きっと。……ね? これを聞いたら俄然やる気が出るだろう?」
そうだ。スワローのためにも不安がってる暇なんてない。やれることを全部やるんだ。
「ふふ、良い顔だ。じゃあ、本質も理解したところで始めようか。君は、自身の魔力にどんな意思を込める? 君は何がしたい? 魔力とは意思を込めることのできる唯一無二の力、如何様にもなりえる絶対の力だ」
ぼくがしたいこと。この力で。
「考えるんだ、具体的に。明確なイメージを。魔力を使う自身の姿を思うんだ。君にとっての理想の自分を常にその頭と胸に抱き続けるんだ。さあ!」
そして、ぼくは。
いまのぼくがしたいこと。
なりたいもの、それは。
全ての理不尽を呑み込み喰らう者。
あらゆる壁をスワローと飛び越え、この場所で結ばれる一匹の竜に……!
「ぼくは!」
白炎がぼくたちの全てを呑み込んだ。
そして、蒼炎がさらにその全てを呑み込んだ。
「これは、まずいっ!」
モエニアにとって今日初めての悪寒。
咄嗟に白炎を幾重にも前方へと重ねた。だが、それでも削るように食むように侵すように眼前に顕れた蒼炎は自身の身体へと迫る。
モエニアはすぐさま纏う白炎を消し、翼を広げて回避に全力を傾けた。通常の白炎で身体を防御したまま後方へと飛び退き、そのまま外壁を突き破って天の柱の外へと逃げる。
「っ……く、これか、ミクス……お前の見たかったものとは」
眼前に広がる光景にモエニアは息を呑む。
巨塔天の柱。それがまるで一本の松明のように塔内部から溢れ出た蒼炎に包まれ、塔全体を呑み込まんばかりに燃え盛っていた。
溢れ出る蒼炎は空どころか太陽すら蒼く焦がし、魔力の炎を周囲に撒き散らす。
蒼き光炎はドラゴニアの空を仰ぎし者全員にその光を見せつけることだろう。
「この魔力が単なる白蛇のものだと? ふざけるな、これではまるで……」
そして燃え盛る塔の蒼炎より、影が躍り出る。
まるで踊るようにその身をくゆらせる存在に、モエニアは武者震いとも焦燥ともつかない震えとともに笑んだ。
蒼炎の化身とその夫を前に、形容しがたい昂りをモエニアは感じていた。
「あれがモエニアの本気。すごいね、ジパングの伝承に聞くヤマタノオロチみたいだ」
昨夜からいまのいままで逆鱗亭にいたミクスは、カウンター席で眠気醒ましにドラゴニアの地酒をやりながら、文字通り観戦していた。
観戦客の入れ替わりが激しいここだが、スワローたちとモエニアの戦闘が始まってから席を立つ者はいない。店内に幾つも設置された水球を注視している。
隣にいるキサラギもさっきまではテーブルに顔を埋めるように寝ていたが、モエニアのブレスが轟音を響かせた途端、丸い耳を尖がらせて跳び起きた。当然ながらミクスは笑った。
「物理的破壊力のあるブレスもすごいけど、やっぱりモエニアの本領はこっちだよね。一対多の護衛を得意とするモエニアの力」
水球の向こうで、モエニアが白炎の尾を吹き抜け上階にいる呈へ向けて伸ばしている。危うく燃やされそうになっていたが、耐火の外套のレジストのおかげで間一髪理性が焼かれることは免れていた。
「ガチのドラゴンの戦いなんてそうそう見れるもんじゃないっすからねぇ。スワッちたちは堪ったもんじゃないでしょうけど」
「まぁね。ドラゴンと渡り合えるドラゴンスレイヤーの数はいまはもうかなり数が少ないし、呪いのせいでそもそも勝てないし。勇者だってドラゴンレベルのは最近だとそうはいない。闘技場でもここまではやれないしねぇ」
「っていうかあの威力のブレスを吹くとかやばくないっすか?」
キサラギのごもっともな質問に、ミクスは肩を竦める。
実際、その瞬間を目撃していた魔物夫婦や独り身ドラゴンからも「やりすぎだ」だの「加減を知らんのか」だの「ああ、これでまたドラゴンが凶暴だというイメージがついてしまう……」だの声が上がっていた。
モエニアの行動に一応の理解は示しているものの、傍から見て子供のカップルを苛めているようにしか見えないため、不満の声は大きい。
いまも自身は動かないながらも、質量を持つ尾でスワローたちを追い詰めている。壁を破壊し、床を破壊し、熱波と暴虐を解き放っている。旧魔王時代の悪竜が如く。
「まっ、天の柱が倒壊することはないと思うよ。あそこの重要な支柱や一部の壁はブレスでも溶けないし壊れないくらいの頑強さと魔法障壁が貼られてるからね。今年修繕にあたる竜工師と竜騎士団の人たちは頭抱えてるだろうけど」
塔内部の壁に魔宝石が埋め込まれているのもそのためだ。塔の耐久性を補助している。
「それにファリアにきちんと事前準備をさせている。大丈夫さ」
ファリアはその道のプロだった。時魔法のスペシャリストである。モエニアに頼んだ以上、派手なことになるとミクスはわかっていた。
「いや、スワッちたちの心配はしないんっすか?」
「しないよ。心配なんかいらないさ。もう彼らは僕の手から、いや誰の手からも離れた。あとは勝手に成長して、壁を乗り越えるだけだよ」
「そのミクスの確信っぷりはどこから来てるのか不思議でならないっすよ」
ふふん、とミクスは笑う。
「僕は信じてるからね。愛の力って奴を」
いま現在、スワローたちはモエニアから這う這うの体で逃げ惑っているが。
「おっ、話がわかりそうな奴がいるねぇ」
「おや?」
いきなり背中から声をかけてきた女性が、どんとミクスの真横に腰かける。
彼女の足は人のものではなく、硬い鱗に覆われた蛇の尾のようだった。鱗の色は緋色。その色と同じように彼女は顔を赤らめ、ご機嫌な笑みを浮かべている。
「君は確か、メッダーだったかな」
「うちのこと知ってるんだ、お姫様」
「お姫様って。ぼくは魔王様の娘じゃないよ。お孫様だよ。ミクスだ、よろしく」
軽く握手を交わす。ミクスの繊細な手とワームの無骨な手が組み合う様はとてもアンバランスだった。
「おお、メッちゃんじゃないっすか。先日はどうもっすー」
「メッちゃんやめろって。んな可愛い名前、うちには似合わねぇからよ」
そう言ってメッダーはドラゴンステーキ三人前と地酒を大量に注文する。
「外に出てくるなんて珍しいね。いつも城壁に突撃してるって聞いてるよ」
「うぐ、それは言うな。まぁ、あれだ。ダチが頑張ってるからな、どうせなら近いところで見たいだろ。それにたまには上の酒や飯も食べとかねぇとな。幾つかはしごしてきたとこだよ」
そしてジョッキグラスと地酒の入った一升瓶が出される。注ごうとするメッダーの手から、一升瓶をひったくり、ミクスは彼女の持つグラスへと瓶を傾けた。
「悪いね」
「いやいや、僕の大切な娘の友人だからね」
「僕“たち”っすよ、ミクス」
口を尖らせるキサラギに悪い悪いと謝りながら、ミクスはジョッキに地酒を注いだ。普通はこのグラスに入れる酒ではないが、豪快に一杯やりたいようである。
「さぁてどうなるかねぇ、あいつら」
注ぎ終えたタイミングでぽつりとメッダーが呟く。その視線の先には逃げまどうスワローたちを映す水球があった。
「君は信じてるんだろ? 二人が乗り越えるって」
ミクスは確信をもって尋ねる。
「まぁな。うちとの勝負で勝った呈だ。根性はある。あの歳であの気概を出せるんだ、乗り越えられねぇはずがねぇ」
笑みを深くする。あのとき、グランドワームの巣であったときのことを思い出しているのだとミクスにはわかった。
「でも、うちはお節介焼きだからよ」
くすぐったそうにメッダーは肩を上げた。そのあとは続かず、水球をただ見つめるだけだった。
ミクスはすぐに察した。乗り越えられると信じてはいる、がそれでも心配なのだと。というより、何もしてあげられない自分がもどかしいのだと。
自分たちに話しかけたのも、共通の話題が欲しかった、自分の心情を話せる相手が欲しかったせいもあるのだろう。
「まぁ、何もせずに見守ることも必要なことだと思うよ。彼らのためにもね」
「わかってんよー。ただ、せめて声だけでも届けられたらなぁって。手を出すつもりはないさ」
悲鳴が店内で響いた。
スワローが呈を庇い、腕を白炎に焼かれる光景が水球の中で広がる。巻き付かれなかったのは幸い。もし捕まっていればその時点でおしまいだっただろう。
「……」
ミクスは思案した。追い詰められつつある二人の背を見ながら。
疑うことはない。ただ。
「まっ、辛気臭いのは無しだな。とにかく応援しよう。どっちにしろうちには信じてやることしかできねぇ」
「そうっすよ、呑みましょう、メッちゃん」
「メっちゃんやめろって」
ミクスの前で、メッダーとキサラギのグラスが近づく。期待の眼差しで二人が見てくるのを、やれやれとミクスは肩を竦めた。
ミクスも二人に倣い、グラスを掲げる。
「呈ちゃんとスワローに」
直後、グラス同士が当たる甲高い音が響いた。
そして、ミクスはグラスをテーブルに置く。一口もつけずに。そして、席を立った。
「おまっ、乾杯して呑まねぇってそれ」
「やることができたからちょっと行ってくる! メッダーもここで待っときなよ。どこも行っちゃ駄目だからね!」
そうして、茫然とする二人を残し、ミクスは店外を出て黒翼をはためかせて空を飛ぶ。
もうするべきことはした。備え続けてきたものは結実しかかり、思い通りに事は進んでいる。
だが。だからこそ。
メッダーの言うお節介をたまにはしてみようかと、そうミクスは考えたのだった。
モエニアさんの攻撃にぼくたちは逃げ惑うことしかできなかった。
あの炎は近づくだけで肌が焼き付くような感覚がする。
ぼくが肩を貸すスワローの息はとても荒い。顔が上気して、理性が焼かれつつあるのだとわかる。逃げる最中にぼくを庇ったせいで腕を焼かれたのだ。
「大丈夫? スワロー?」
「……あ、ああ。多分。正直、呈をいますぐ襲いたいなーって」
「うう、ぼくも襲われたいけどいまは我慢だよっ!」
回廊をぼくたちは早歩きで進んでいる。あの場所から離脱できたのは運が良かった。耐火の外套とドラゴニウムの粉塵のおかげだ。
「でも、もうないんだよね、粉塵も陶酔煙玉も」
リュックも随分と軽くなってしまった。毛布や寝袋は燃えカスに、各種マジックアイテム、体力回復用の竜の生き血も使用済み。
それどころか何重にも着ていた服も燃やされたりしたせいで脱ぎ捨てている。いまでは肌着の上に一枚着ている程度の薄着。動きやすいことは動きやすいけど。
モエニアさんの炎の魔力かはたまた別の魔力のおかげか、こんなに高いところにいるのに寒さはほとんど感じなかったけれど。
「逃げ切れただけラッキーだって。外套のレジストのおかげで、何度か白炎の尾を無効にできたからな」
ぼくが吹き抜けの上階にいたとき、伸ばされた白炎の尾を回避できたのは外套のおかげ。
レジスト効果のせいか、白炎の尾は外套に触れた瞬間掻き消えたんだよね。とはいっても、あの尾は魔力の塊みたいなものだからすぐに戻ったけど。
「あと一着だけ予備が残ってるけど」
「いま着ても逃げにくくなるだけだな。それに俺か呈のどっちかしか使えないし。炎を一時的にでも無力化できるなら、ここぞというときに」
残っているのはスワローの予備一着のみ。マジックアイテムはインビジブルシールが一枚とキサラギさんからもらった魔宝石、あとは普通の煙玉が一つだけ。いままでマジックアイテムだけで凌いできたぼくたちにとってはかなり絶望的な状況だった。
姿を消す護符も一枚だけじゃあぼくたちどちらかだけだし、何より魔力感知ができるモエニアさんには意味がない。さっき実践したばかりだ。
唯一良かったのは、モエニアさんも尾は縦横無尽に動かしてたけど、自分はほとんど動こうとはしなかったこと。おかげで逃走自体は簡単だった。でも。
ゴォッ!!
ぼくたちの真後ろの壁が爆音とともに弾ける。大きく開いた穴から現れたのは白炎の尾だった。でもモエニアさんは傍にはいない。
そう。こうやって、尾がぼくたちを追い詰めようとどこまでも追いかけてくるのだ!
「……逃げるぞ!」
「うん!」
見つかったらするのは一つ。逃げる。でもぼくたちは逃げる度に上階から下階へ追いやられていた。外壁から上を目指すことも考えられたけど、モエニアさんは探知能力も優れているからすぐに諦めた。
だから、頂上に行くためにはどうにかしてモエニアさんを越えていけない。
でもそんな手段、あるわけない。もうマジックアイテムもほとんど底が尽きて、スワローも体力が尽きかけている。モエニアさんの魔力に侵されて、いつ理性が燃え尽きてしまうかもわからない。
ぼくは、どうしたら……。
「呈……あそこ」
白炎から逃げて逃げて、通路を曲がりちょっと進んだ先をスワローが指さす。
多分、モエニアさんのブレスの余波を受けて崩れた天井や壁。およそ道とは呼べる代物じゃないけど、スワローの言いたいことはすぐにわかった。
多分、上に向かうための他の道はモエニアさんに押さえられている。道なき道を進むしか、ぼくたちが頂上に進む手段はない。
ぼくはスワローを抱えたまま、尾を大きく伸ばして身体を上まで持ち上げる。ぼくの全長は五Mほど。充分届く。スワローもふらふらだけど、上手く床の縁に手をかけて登るのを手伝ってくれた。
「尾がいっぱいあった割に、あんまり追いかけてこないね」
ぼくは登ってきた方を見下ろし、また周囲を警戒して白炎の影がないことを確認する。
最初に見た十本もの数の尾ならぼくたちをすぐに追い詰めることができそうだったけど、ぼくたちがモエニアさんから離れてから同時に現れた尾の数は多くて二本だった。
全部の尾で来られてたら絶対に逃げられなかったのに。
「……まぁ、おれたちを舐めてるってわけじゃないだろうな。あの感じだと」
「うん。モエニアさんは本気でぼくらを」
まるで狩人に狙われた獲物の気分。どこからも視線が感じるような気がして、生きた心地がしない。もうずっと心臓が鳴りっぱなしだ。
「なるだけ側面を通って進もう。呈、周囲にモエニアは?」
「いない……けど!」
こっちに向かってくる蛇のような細長いもの。人や魔物の体温とはまるで違う真っ赤な、そして魔力そのものの塊が真横から迫って来ていた。
「走れる!?」
「頑張る……!」
壁を突き破ってくる前にぼくたちはその場から走って逃走する。
大回りしながら、道とは言えない道を通りながら、迫りくる尾をなんとか避けては切り抜けて、ぼくたちは上を目指す。
上へ行くほど、尾の追撃は少しずつ激しくなっていった。一本から二本、そしてついには三本とぼくたちの行く道を塞いでは後ろから追いかけてくる。
「ッそ! 負けるか! あっちだ呈!」
「うん! 左来てるよ!」
ギリギリでもなんとか捕まらずにいたのは、尾の動きを感知できたのと、今朝中にスワローがこのフロア周辺のマップを完全に頭に叩き込んでくれていたから。
崩落していても、ううん、崩落しているからこそ、ショートカットをしたりしてなんとか躱せていた。
「ッ! スワロー! モエニアさんが追いかけてきてる!」
だけど、それは突然だった。ぼくの魔法の効果範囲にモエニアさんの姿が現れた。
尾と変わらない熱量と膨大な魔力を放って、しかもさっきまでと違ってとても速く動いてる。
尾を二本、ぼくらの方と別の方へ伸ばしながらこっちに迷いなく迫っていた。
その速度はぼくたちと同じか少し速いくらい。
「モエニアの動きはどんな感じだ?」
「尾を伸ばそうとしてる感じ」
ぼくたちを探るように尾を伸ばしているモエニアさん。目が離せない。いつこっちに突然、白炎の尾を差し向けてくるか、一瞬も気が抜けなかった。
「だけど、考えてみたらチャンスだ」
「え?」
「後ろにいるいまのうちに少しでも上に行こう。おれも、もう少し気張る!」
「そっか、そうだね。うんっ!」
このまま走り抜ければ逃げ切れる。頂上まで行って、スワローの記憶を取り戻す。
そして一緒に鐘を鳴らす。最後まで諦めない。
そう、思っていた。
「はっ?」
ぼくの耳元でスワローがそんな気の抜けた声を漏らす。スワローは一点を見据えていた。我が目を疑うように点にさせて、呆気に取られていた。
スワローの見ている方に顔を向けて、ぼくもスワローと一緒の顔になった。
「おかえり」
これほどまで残酷な「おかえり」をぼくは聞いたことがなかった。
吹き抜けのフロア。そこに一人、ぼくたちが逃げ出したときとまるで変わらない佇まいで彼女はいた。
ぼくの腕くらいの細い尾をただ一本、ぼくたちとは別の方へと伸ばしているモエニアさん。その人だった。
なんで? どうして?
「嘘」
後ろの通路の影から現れたのは白炎。モエニアさんの形をした白炎だった。
ぼくは完全に騙されたのだ。いままで姿を見せず、あのタイミングで偽物の姿を見せたのはここにぼくたちを誘い込むため。自分はただの一歩も動かずに、自身の下へ帰らせるために尾を動かしていた。
「ぼくたちを……諦めさせるために、こんな」
まさしく狩り。獲物を追い込む罠。
尾のモエニアさんが消えると、本物のモエニアさんが再び白炎を身に纏った。囲まれる状況から脱したと思った瞬間、ぼくたちの近くの足元から白炎の火柱が床を貫いて現れた。
いつでもぼくたちを燃やせるとでも言わんばかりに。
「詰みだ、二人とも。もうマジックアイテムはないだろう?」
「くそっ」
スワローはナイフピッケルを構えるけど、その姿に力はない。モエニアさんに敵うはずない。ううん、万全な状態でぼくたち二人がかりで挑んでも、いまのモエニアさんに勝てるわけない。
ぼくたちはわざと逃げさせられ、走らされて、一筋の光明を見せられて、そして絶望を与えられたんだ。
理不尽を叩きつけられた。
「……」
ぼくの中で諦めが鎌首をもたげた。見下ろして、口を開いて、丸呑みにしようとする。
「ぁ……」
「呈っ!?」
尾から力が抜けて、ぼくは地面に伏してしまった。立ち上がれない。頂上に向かわないといけないのに、ぼくの尾は言うことを聞いてくれない。
スワローが心配そうにぼくの顔を覗き込んでくれる。
「ごめんなさい、スワロー……ぼく、ぼく……!」
もう、駄目なんだ。絶対無理だよ。あのモエニアさんから逃げるなんて、そんなの絶対不可能なんだ。
髪を搔き毟る。もういやだ、どうしてこんな。なんでこんなことするの。皆!
ぼくはただスワローと一緒に天の柱に登りたいだけなのに、こんなに邪魔をして!
ひどい、ヒドイ、酷い!
視界が滲む。前が見えない。スワローの顔がよく見えない。泣いてる? ぼく泣いているの? 止まらないよ、止めたいのに。泣いている場合なんかじゃないのに。
「呈」
スワローの声がする。優しい。けど、ぼくを諭す強さがある。
「おれは諦めない」
それは決意の言葉だった。ぼくを責めるものではなく、ただ自身の意思を示す言葉。
「お前がここまでおれを連れて来てくれたんだ。だからおれは折れない。立ち止まらない」
「まだ無駄だとわからんか。何故そうまでして足掻く」
「おれが天の柱を登ってる姿が好きだって。そう呈は言ってくれたんだ。好きな娘がそう言ってくれてるんだ。だったらよ……男だったらよ、格好つけたくなるだろうが! 最後まで足掻くに決まってるだろうが!!」
「スワロー」
胸が苦しくなる。こんなにも苦しいことの連続なのに、それらが全て霞んで見えるくらい胸が苦しい。
スワローを独り進ませてしまうことが、何よりも苦しい。
なのに、動いてくれないぼくの身体がとても憎い。ぼくは。ぼくは……!
スワローが立ち上がる。滲んだ彼の後ろ姿が、とても近いのに、とても遠い。
待ってと言いたい。行かせたくない。一緒に行きたい。ぼくは。
「……!」
モエニアさんの白炎が一層その火力を増大させる。ぼくたちを二人とも呑み込まん限りに魔力を膨れ上がらせる。こんなの、躱すことも受け止めることも耐えきることもできやしない。やっぱり全部、無駄なんだ。
『間に合ったぁ!』
とても大きな、ノイズ混じりの声が響いた。
「な、なんだ」
「これは水球からか……?」
スワローもモエニアさんも驚く。声はモエニアさんから響いていて、彼女が掌を上へと向けると水球が形を成した。それは独りでにぼくらの中心へと浮かび上がり、天井を覆うくらい大きなものになる。
そして、その水球が映し出した光景、そこには。
『無理矢理繋いだからか声が安定しないね、ノイズ混じる。んっと、よっと。ほい。これでいいかな?」
声がとてもクリアに聞こえるようになった。
「ギリッギリだったねー。もうちょっとで焼かれるところだった」
「お前はミクス・プリケット。ここは私に全てを任せると言っていたが、違えるつもりか」
「いやいや、手は出さないよ。ただちょっとね。呈ちゃんにお届けしたいものがあってさ」
飄々と笑うミクスさんが背後に振り返る。そこにはぼくの見知った顔がいた。
「よーっす! んだ、呈? 湿気た面してんな」
「メッダー、さん?」
グランドワームの巣でぼくと友達になってくれたメッダーさんがいた。ううん、彼女だけじゃない。
「久しいな、呈。いつぞや振りか。我のこと、まさか忘れてはいまいな?」
「リ、リゼラさん!」
ドラゴニア大瀑布の地下水路でぼくのことを揉みまくったクイーンスライムの竜分体、リゼラさんだ。
二人だけじゃない。道案内をしてくれたサハギンさん、飲み比べバトルのときに審判をしてくれたドラゴンさん、ドラグリンデ城で雷勇者さんと結ばれたデーモンさんことストリーマさんもいる。
彼女たちだけじゃない。ぼくがドラゴニア中を回ったときに馬車に乗せてくれたケンタウロスさんや背に乗せてくれたワイバーンさんたち、ぼくがキサラギさんの仕事で回ったときに知り合った皆がそこにいた。
ぼくを見つめていた。
この場にいるモエニアさんも含めた三人とも、茫然と水球を見上げていた。ミクスさんが何をしたいのか理解できなかった。
「ふふ、訳が分からないって顔してるね。けど事は単純さ。メッダーが声だけでも届けたいって言うから、ビビッと来てね。適当に皆を呼んだだけだよ」
「全く、無理矢理すぎるっすよ」
キサラギさんもいた。その瞳はモエニアさんと同じ。
「なぁ呈」
メッダーさんがぼくに呼びかけてくる。困ったような表情で。
「あのときのお前は諦めなかったぞ。好きな人がいるから、その人のために何でもしたいって、最後までお前はやり切ったんだぞ?」
泣いてる場合かよ、とぼくをメッダーさんが叱咤激励する。
「我にはこの事態はよくわからんが、お前が我と初めて会ったときとはまるで変わったということは断言できるぞ。我と面と向かうだけで怯えていたお前が、いまは炎を纏うドラゴンと相対しているのだ」
リゼラさん。
「ここで膝をついて諦めて、貴様は納得できるのか?」
納得……。諦めたまま終わって、それでぼくは。
「呈ちゃん。私たちはあなたたちが終えたあとに、番いの儀をするつもりよ」
ストリーマさんの隣にはあの雷勇者さんがいる。ぎゅっと抱き合っている。
「さっさと結婚しちゃいなさいな。あなたたちよりも先にするつもりはないし、長く待つつもりもないの」
ああ。ぼくは。そうか。
「むっ、呈のあとに番いの儀をするのは我らだぞ。ついに我らが王を得たのだからな」
「駄目よ! ここは絶対譲れないわ!」
「お前ら、未だ夫のいないうちに対する当てつけか? おおん!?」
三人の喧嘩を背景に、ぼくが知り合うことのできた皆が声をかけてくれる。たった一度、多くても数度、顔を見知っただけかもしれない関係。それでも、こうしてぼくに声をかけてくれるためにここに集まってくれた。
「すげーな、呈。いつの間にこんなに友達作ったんだ?」
「そうだよ、スワロー。呈ちゃんは意外と凄いんだぜ? あんなに人見知りなのにこんなにいっぱいの魔物や人に助けてもらって、駆け付けてくれてるんだ。君もそろそろ友達くらい作りなよ? 兄貴分だけじゃなくてさ」
「これが終わったら考えとくよ」
「……っ」
胸が熱くなる。温かいもので視界が滲む。
嬉しい、嬉しい、嬉しい!
「ふふ、ふはは、ふははははははははははははははっ!!」
だけどそれら全てを掻き消す、モエニアさんの哄笑。
静まり返る中、ミクスさんが再び中心に立って、モエニアさんを見据えた。
「くだらない、と思っているのかい?」
「そう思うか?」
全身が射竦められるような殺気をモエニアさんが前肢から迸らせる。ぼくを含めた皆が圧倒される中、ミクスさんだけはますます笑みを深めていた。
「っ……」
心が凍えそうになる。でもいやだ、消したくない。ぼくを奮い立たせてくれる、皆がもたらしてくれたこの炎を消したくない。
モエニアさんが悪竜の笑みをぼくに向けてきた。眼光鋭く、それだけでぼくは射殺されかねないくらい恐い。
だけど、その直後。
モエニアさんの纏う白炎が消えた。
モエニアさんの表情が、とても柔和なものへと軟化した。
「呈と知り合った者全員を呼び寄せたのだろう」
ならば、とモエニアさんが言葉を紡ぐ。
「私も呈と知り合った者の一人として言葉を贈らせてもらおう」
あのときドラグリンデ城でぼくに色々と教えてくれたモエニアさんと同じ表情で。
モエニアさんは指を指す。頂上へ。
遥か頂き、いや、もう目と鼻の先にある天の柱の頂上へ。
「お前が天を仰ぐのは誰のためだ?」
ぼくが天を仰ぐのは誰のためだって? そんなの、ぼくは。
スワローを見る。そうスワローのため、ぼくはスワローのために……。
本当にそれだけ?
「ッ!」
モエニアさんは再びぼくたちに立ち塞がる理不尽となった。手を掲げると白炎が燃え盛り、ぼくらを呑み込まんばかりの巨大な轟炎を頭上に広げる。
「さて、せめてもの手向けだ。この一撃でお前たちの理性を燃やし尽くしてやろう。互いのことしか考えられぬほどの情欲に呑まれるがいい」
ぼくは立ち上がっていた。スワローの隣に並んで、その手に指を絡めた。目の前で一層火力を増していく白炎に、髪や服が翻る。肌がとても熱い。でもぼくの中に燃えている気持ちの方がずっと熱い!
「呈?」
「ごめんね、スワロー。ぼく、全部自分のためだった!」
「はい?」
「全部自分のため! スワローが欲しいからここに来たの! おためごかしなんか言わない! 全部自分のため!」
ぶっちゃける。そうだ。ぼくはスワローが欲しかった。ぼくだけのものにしたかった。だから天の柱に来た。だからぼく以外の娘を拒絶した。
もう隠さない。自分に嘘をつかない。全てさらけ出そう。いまだからこそ。
スワローのためだからなんて、仮面を外して言う。
ぼくはスワローが欲しいから、自分のためにここまで来た。そのために頑張ったんだ。
「ははっ」
スワローが声を出して笑う。驚かなかった。きっとスワローもそうだから。
「ははははははっ! だな、だなぁ! おれもそうだ。おれも呈とさっさと結ばれたいからここに登ってる。明日とか明後日とか、増してや大規模修繕が終わるまでとかそんな長くなんてもう待てない。全部自分のためだ。そうだな、そうだよ」
一緒に笑い合う。
ぼくと同じだ、スワローも。ぼくたちは同じ、一緒だ。ずっと。これからも。
なんだか憑き物が落ちた感じがする。最後の心残りが消えた。
あー、すっきりした。いいんだ、これで。変に考える必要ないんだ。
「開き直っておかしくなったか? もうお前たちに残された手などないぞ」
「…………………………………………………………………………………………そう?」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
喧騒が一瞬で消えた。
ぼくの心は静謐を刻んでいた。
炎が燃える。蒼く澄んだ水の炎が烈火の如く燃え盛る。ぼくの心の内を中心から、毛の先、指先、尾先まで満たすように染み渡るように広がっていく。
デオノーラ様に止めてもらったときと同じ感じだ。でもいまは、あのときのぼくとは違う。蒼い炎に支配されない。ぼくが蒼い炎を支配する。
燃えろ、燃えろ、燃えろ。
ぼくの身体に収まり切らないくらいの魔力を燃え滾らせろ。
全てを呑み込み、全てを抱擁する水の魔力を蒼き炎と化してこの身を燃やせ。
嘘のぼくを全て焼き尽くし、スワローとともに生きるぼくだけを残せ。
「変わろうとしている、か。だが、理不尽は時を待たんぞ!」
蒼い炎がぼくの視界をチラついた瞬間、モエニアさんが吠える。
白炎が大きくうねりをあげて、ぼくたちへと放たれた。
「呈!」
スワローの声を耳朶に残し、ぼくはミクスさんの言葉を思い出す。
「呈ちゃん。魔力、というのを君はどこまで知っているかな?」
魔力の特訓を始める直前、ミクスさんはそう切り出した。
ぼくは普通に妖怪や魔物娘の身体に備わる不思議な力というくらいしかわからなかった。
ジパングだと妖力とか神通力とか、そんな言葉を使う。魔法を使うために必要な一応の際限のある力。夫と結ばれることで半永久的に得られることは知っている。
「いいね、不思議な力。そうとても不思議な力なんだよ、魔力は。魔力の使い方をレクチャーする前に、先に魔力の本質というものを理解しよう」
本質?
「自然界には基本的に四つの力というものがある。向こうの世界での言葉を借りるなら重力、電磁気力、弱い力、強い力だね。魔力はそれらと同質の働きをすることが可能なんだ。代用できる。けど本質はそこじゃない。魔力はそれらが宿さないものを宿すことができるんだ」
人差し指をピンッと立ててミクスさんはかたる。
「僕たち魔物の意思をね」
いし? 思うこと?
「そう。魔力の本質とは使用者の意思を宿すことにあるんだよ」
それはつまり、思えば自在に魔力を扱えるということ?
「究極的にはそうだね。魔法というのものは、使用者の意思によって魔力に指向性が与えられ、発現する事象のことだ。魔力に意思を込めれば魔法となるだろうね」
ミクスさんのその言い方はそれ以上の何かがあることを意味していた。
「でもそれじゃあ、他の力とあまり変わらない。重要なのはこの意思を他者へと伝えられるということなんだ」
それはつまり魔力を通じて、他の人に声を届けるということ?
「届けるというよりは感じさせるの方が正しいね。魔力を介して意思を共有し、僕たちは誤解なく繋がることができるようになる。分かり合える。その最たるものが魔力を交換する行為、セックスだ」
ぼくとスワローが結ばれた行為。言葉でわかりあったあと、ぼくは言葉なくわかりあった。魔物たち、妖怪たちが大好きな人と結ばれたいと思う気持ちが一つわかったような気がする。
でもそれがわかっても魔力を上手く扱える自信はなかった。キサラギさんにはずっと前、魔力を上手く扱えるんじゃないかと聞かれたことがあったけどむしろ逆だ。
ぼくは自分の魔力を上手く扱えない。
昔、行き倒れの女性を介抱していたら意図せずラミアへと変えてしまったことがある。
奥ゆかしい妖怪さんだったのに、とっても淫乱な妖怪さんに変えてしまったことだってある。
その気がなく誰かに影響を及ぼしてしまう、この自分の魔力が怖く思ったこともあった。
「不安になる必要はないよ。だからこそ本質を理解する必要があるんだ。魔力を自在にコントロールするためにね。それに、この魔力の凄いところはね、ある方の意思が必ず宿っていることだよ」
ある方? 誰だろう。
「魔王様だよ」
あ。
「人と魔物を結び付け、魔力に触れた者を幸せに導く。魔力に備わった絶対の理。そんな魔王様の意思が僕たちの魔力には宿っているんだよ」
魔王様がぼくの中にいる。どうしてだろう。とても心強かった。
「それにね、この魔力はとてもお節介なんだ。悲しみと苦しみに苛まれる者を見過ごせない。それは時として次元を越える」
次元? ……まさか。
「スワロー君がこの世界に来たのはきっと魔力の力だろう。放っておけなかったんだ、きっと。……ね? これを聞いたら俄然やる気が出るだろう?」
そうだ。スワローのためにも不安がってる暇なんてない。やれることを全部やるんだ。
「ふふ、良い顔だ。じゃあ、本質も理解したところで始めようか。君は、自身の魔力にどんな意思を込める? 君は何がしたい? 魔力とは意思を込めることのできる唯一無二の力、如何様にもなりえる絶対の力だ」
ぼくがしたいこと。この力で。
「考えるんだ、具体的に。明確なイメージを。魔力を使う自身の姿を思うんだ。君にとっての理想の自分を常にその頭と胸に抱き続けるんだ。さあ!」
そして、ぼくは。
いまのぼくがしたいこと。
なりたいもの、それは。
全ての理不尽を呑み込み喰らう者。
あらゆる壁をスワローと飛び越え、この場所で結ばれる一匹の竜に……!
「ぼくは!」
白炎がぼくたちの全てを呑み込んだ。
そして、蒼炎がさらにその全てを呑み込んだ。
「これは、まずいっ!」
モエニアにとって今日初めての悪寒。
咄嗟に白炎を幾重にも前方へと重ねた。だが、それでも削るように食むように侵すように眼前に顕れた蒼炎は自身の身体へと迫る。
モエニアはすぐさま纏う白炎を消し、翼を広げて回避に全力を傾けた。通常の白炎で身体を防御したまま後方へと飛び退き、そのまま外壁を突き破って天の柱の外へと逃げる。
「っ……く、これか、ミクス……お前の見たかったものとは」
眼前に広がる光景にモエニアは息を呑む。
巨塔天の柱。それがまるで一本の松明のように塔内部から溢れ出た蒼炎に包まれ、塔全体を呑み込まんばかりに燃え盛っていた。
溢れ出る蒼炎は空どころか太陽すら蒼く焦がし、魔力の炎を周囲に撒き散らす。
蒼き光炎はドラゴニアの空を仰ぎし者全員にその光を見せつけることだろう。
「この魔力が単なる白蛇のものだと? ふざけるな、これではまるで……」
そして燃え盛る塔の蒼炎より、影が躍り出る。
まるで踊るようにその身をくゆらせる存在に、モエニアは武者震いとも焦燥ともつかない震えとともに笑んだ。
蒼炎の化身とその夫を前に、形容しがたい昂りをモエニアは感じていた。
17/11/10 20:28更新 / ヤンデレラ
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