―１―

　おれの身体は風に揺られていた。
　眼前に広がるのは陽に焼けて浅黒くなった壁。それは遥か上方、さらに下方にまでも際限なく広がっている。左右にもおおよそ手を伸ばしても届きようがないほどに壁が広がっている。
絶壁。
　おれは冷たい風に揺られながら絶壁に張り付いていた。
　一本のロープがおれを支えてくれている。アラクネ印の特殊な糸を幾重にも織り込まれて作られた頑丈なものだ。だけど、子供の身軽な身とはいえおれ一人を支えて、吹きすさぶ風に煽られてロープはギシギシといやな悲鳴をあげている。上方の亀裂に引っ掛けた鉤爪が外れないかも心配だ。
　この高さはさすがにもう慣れたものだけど、時折吹く強風には肝を冷やす。ましてやおれを支えるのはロープ一本。足場は百Mほど下まで落ちないとない。人間なら軽く死ねる。
　とは言え、この高さはまだ人間で言うところのすね辺り。まだまだ全然高いうちに入らない。
　おれが臨む断崖絶壁。その正体はドラゴニア領で最長の高さを誇る建造物。雲を穿ち、天を貫くほどに雄々しく聳え立つ【天の柱】である。
おれが登っているのは、壁ではあるけど、とてつもなく巨大な塔の外壁なのである。上方は暗雲が立ち込めており、その頂上を窺い知ることはできない。
　しかしその頂上には辿り着きし者の願いをなんでも叶えるという「幸福の鐘」があると言われている。まぁ、それは外の冒険者の間で言われている話であって、実際のところあるのは夫婦が愛を誓うための「番い鐘」なんだけど。
「よし、休憩終わり」
　軽くロープの引っ掛かりを確認してから、おれは眼前の壁に手を伸ばした。脚を壁の僅かな亀裂にかけ、第一関節がギリギリ乗る程度しかない亀裂の縁にかけた指で身体を持ち上げていく。特殊素材の、肌と密着した超極薄耐寒手袋はしっかりと壁の亀裂を捉えられている。動物の毛皮で作られた麻色と茶色の入り混じった、防寒防水に優れた上着のおかげで冷たい風に晒されても身体は十二分に動く。
たわんだロープは腰ベルトの右側に取り付けた円筒形状の巻き取り機に常時格納されていく。左側の巻き取り機は予備のもの。他の装備は背中に隙間もないほどきつく背負ったリュックのみ。
　おれを横から吹き殴る風の動向を読み、激しいときは無理をせず身体を壁に寄せて直撃を最小限に抑える。一気に登ってしまいたいのを我慢するのが肝要。無茶と油断は大敵だ。
　ロープを引っ掛けた場所の傍まで近づいた。その先から数十Mで塔内部へと再び侵入できる。それはそれでまた新たな問題が発生するのだけど、直接的な危険は少ない。
　さてさて、物事を完遂するときほど慎重にっと。
「――」
「……？」
　声？
　風に混じった微かな声。単なる声じゃない。風が泣くような声だ。
　助けを求める声だ。
　鉤爪の場所までついたとき、その声の方角をはっきりと認知する。
　左斜め下方。塔外壁に取り付けられた外階段。風雨に晒され、今年も崩れ落ちてしまい、往くも帰るも不可能な切り立った場所。
「おいおい……」
なんであんなところにいるんだ。
　おれと同じくらい小さな体躯の少女がいた。遠目でもそれだけははっきりとわかる。下半身はラミア種だろうか。白い蛇の身体をしていた。きっと魔物娘だ。
　表情はうかがい知れない。けれど、壁側に必死にしがみつこうとしている姿から、意図せずその状況に陥ったのは察しがつく。少女の足場もよく見れば端から崩れ落ちていっているように見えた。
「……悩むべくもないか」
　周囲にワイバーンや竜騎士団の姿はない。この状況を知っているのはおれだけ。なら。
　おれは鉤爪を支点として、振り子のように身体を左右に大きく勢いづける。同時に巻き取り機の留め具を解除し、ゆっくりとロープを伸ばしていく。おれという振り子が鉤爪と平行の位置まで来て、重心が下方へと落ちる瞬間、おれはロープのたわみを上方に振り上げ、鉤爪を無理矢理外した。
　浮遊感。一本のロープに支えられていたはずのおれの身体は、いま地面へと繋がり、引き寄せられる。
　それにおれは抗わない。壁を、塔の外壁を足場とし、少女の元へさらに疾駆する。
　身体のバランスを崩さないためにできるおれの最善は、さらに壁を蹴る回転数を速め、少女の元へと下り落ちること。
「！？」
　少女の足場が崩れた。間に合うか？　いや、間に合わせる！
　時間にしてほんの数秒。しかし、おれの身体はこの瞬間疾風となっていた。
　幼くもしかし、儚げな美しさを持つ少女の紅い瞳におれが映る。その瞬間、泣いていたはずの少女の顔は確かに安堵する笑みに変わっていた。
　ほとんど衝突にも似た速さで落ちる少女をおれは抱きとめる。が、当然、おれの方が落下速度は速いのでこれではむしろ落ちる少女をさらに突き落とした形。
「きゃっ！？」
「風魔石」
　おれの声に呼応し、胸元に入れておいたモノが熱を帯びる。その瞬間、おれの身体にまるで天上へと引っ張り上げられるかのごとく急激なブレーキがかかった。
　全身が軋む。上下に無理矢理引っ張られてそのまま引き裂かれそうなほどの強烈な負荷。
「ぐっ、ぐぐぐぐッ」
　やばい、やばいやばいやばい。これ死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ！？
　歯を食いしばり、全身に力を込めて、その負荷に耐える。頭に血が上って目から吹き出しそうなくらい頭が熱い。意識が途切れそうだ。
しかし、真っ白な石畳が眼前に迫り来たところで、天上に引き上げられる力が落下速度をついに上回った。
　全身にかかる負荷が緩和し、落下速度が急低下したところで身体をくるりと前転させる。
　ギリギリ地面に着地。土埃が舞った。
「……ぷはぁ……し、死ぬかと思った」
「あ、あなたは……」
　横向き抱っこ。いわゆるお姫様抱っこ状態の彼女に顔を向ける。
青みがかった銀髪は首元で短く切り揃えられたボブカット。肌は溶けてしまいそうなほどに白く、顔立ちは山荘に住まう病弱な少女のように儚げで、触れると壊れてしまいそうなほどに繊細な造形。弱さと儚さで作られた美麗な少女は、至るところに蛇の意匠が施された白い和装と、その上に青紫の紫陽花の模様が描かれた羽織を身に纏っていた。肩から小さなポシェットをかけている。歳はきっとおれと同じくらい。十歳前後だろう。
そして下半身は蛇。おそらくラミア。白いラミアだ。奥に蒼色が滲んで見える白鱗を生やした尾はおれの脚にしがみついている。よっぽど怖かったのだろう。おれも怖かった。
　でももう大丈夫だと。怖がる必要はもうないのだと思わせるように、おれは笑いかける。
「大丈夫？　おれの名前はすわ――」
　言いかけた瞬間、胸元でぱきりと何かに亀裂が入る音が響いた。直後。
　おれの両腕に多大な重量がかかる。風魔石の容量限界による消失。それに伴う、重力の戻りだ。そして、おれが支えるのは少女とは言え、ラミア種である彼女の身体である。
　完全に気を抜いていたうえに無茶を敢行したばかりのおれが、それを支えられるはずもなく。かといって、少女を落とすわけにも行かず、背中から倒れることとなった。
「わ、わわ大丈夫！？」
「だ、大丈夫ー」
　なんとも締まらない結末である。かっこつけようとした結果がこれかよー。
　馬乗り状態の少女が心配そうに顔を覗き込んでくるが、おれがなんともないことがわかったのか、それともかっこつけようとしていたことを察したのか、くすっと笑った。
　病弱？　薄幸？　繊細？
いやいや、いまの彼女の笑みはただひとりの快活な少女の笑みだ。
「ぼくの名前は呈(テイ)。見ての通り、白蛇の魔物娘だよ。助けてくれて、ありがとう」
「テイ……呈ね。おれの名前はスワロー。無事でよかったよ」
「スワローくん……」
　目を細めて、どこか熱っぽい表情。初めてラミアっぽく見えた。
「スワローでいいよ。呈だっけ。退いてくれると助かる」
「あ、わわ、ごめんなさい、スワローくん」
「スワローでいいよ」
　真っ白な肌を赤く染めて、慌てたように呈はおれから退いて立ち上がる。
　おれは砂埃を払いながら立ち上がり、もう一度呈の姿をよく見る。
「無事？　怪我ない？」
「うん。スワローく……スワローが抱きとめてくれたから」
「で、なんで天の柱に？」
「天の柱？」
　天の柱を知らない？　ってことはドラゴニア市民じゃなくて観光客か。
「この塔のことだよ。ドラゴニア名所＆ダンジョンこと天の柱。崩落してる場所も多いから危険なんだぞ？」
「ドラゴニアに今日初めて来たからさ。ぼく全然知らなくて……街からこの大きな塔が見えたからついつい来ちゃったんだ」
　悪戯がバレた子供のように舌を出す呈。行動力あるなぁ。見た目おれと歳変わらなく見えるけど。
「一人で来たの？」
　塔からドラゴニア城下町がある方へと歩き始めながらおれは尋ねる。呈は首を横に振った。連動するように尾の先も左右にブンブン。
「お父さんとお母さんと一緒に来たんだ。お父さんたちとは離れて一人で散策してたの。スワローはここの人？」
「そだよ。って言っても三年くらい前からだけど。呈はどこから？」
「東のジパングってところから。お父さんとお母さんがお世話になった龍の人にお誘いしてもらって来たんだ」
　ジパングって言ったら海を超えて極東の島国か。ずいぶん遠くから来たんだな。
　白蛇もジパングの固有種か。以前、龍の人がそれらしいこと言っていた覚えがある。
「ジパングの人ってのは皆無茶すんの？　無謀な冒険者ならともかく、外からやってきた魔物娘が天の柱に行くなんて滅多にないと思うぞ」
「それを言うならスワローだってずいぶん無茶してるじゃない。ぼくと同じくらいの子供なのに」
　呈が口元に手を当てて、くすくすとおかしそうに笑う。どうやら呈は見た目通りの歳らしい。魔物娘は正直歳がわかりにくくて困る。サバトの人たちとか。
「半分インキュバスだし、大丈夫大丈夫。いろいろ準備してるしな」
「それにしたって、まさか壁下りまでしてくるとは思わなかったよ。かっこよかった」
　隣りを歩く呈にギュッと手を握り締められた。呈の心臓と繋がっているかのように、その手の血の流れが強く感じられる。おれが気恥かしがってるだけか？
「とりあえず、親のところまで送っていくからさ。どこいるかわかる？」
　繋いでいない方の手でおれは街の方を指差す。指差した先には、景観を損ねない白い建物が幾重にも建ち並び、山を縦に裂くように大きな一本の坂道とそこから放射状に広がる細かな道が見える。そしてその坂道は山頂に近づくに連れ、暗く濃密な魔力の雲に覆われていっている。その山の頂にはドラゴニアの女王が住まう居城があるのだ。
「うん、多分まだ、えっと、すごく広い道があるところ。そこにいると思うよ」
「龍翼通りだな。OK。じゃあ行くか」

■作者メッセージ
初回二話更新。