ある幸福な夫婦
海は澄み渡っていた。
一点の曇りも穢れも存在しないただ青いだけの世界と、それを眼下に広げることが出来る小高い崖があった。もしこの土地を売りに出せば、世界有数の大金持ちが集まり凄まじい値がつけられるだろう、それほどまでに絶景だった。
しかし、未だこの地を買うものは出ておらず値段すらつけられていない。なぜならばここは人跡未踏の地であり、訪れる者といえば迷った挙句に偶然立ち入るか、極端に人目を避けた挙句にたどり着くような者だけだった。
そして今、一人の男が崖の一番端に後者の理由で佇んでいた。見渡す限りの心が表れるような景色。男はそれをみて僅かに笑うと、自分の手足に金属製の輪を取り付け、その身を投じた。男の体は風に煽られることもなく一直線に海に向かっていき、水面に激突するとそのまま海底へと沈んでいく。男が大きく水を吸い込むと、当然ながら全身に激痛が走った。それに耐えながら男は思う、「もう少し、もう少しで全てが終わる」と。
だがそんな男の予想は大きく外れた。いくら耐えようとその先にあるはずの終わりは訪れず、苦痛だけが変わらず男の体を蝕み続けていた。
「し、死ねないッ・・・!?」
そう悟ると男は必死に浮き上がろうとする。しかし皮肉にも男が別の苦しみから逃れるために取り付けた金属の輪がそれを許さなかった。男は絶望した。人が逃げられる最後の場所にさえ、自分は行くことができず、このまま永遠に苦痛と共に生きることになるのか。
一体自分は何のために生まれ、いままで生きてきたのか。
その時、男が全ての思考を停止させる寸前に、何かが自分の体を掴むのを感じた。男は瞬時に浮上し、そのまま大空に掴み上げられた直後に彼の意識は途絶えた。
「・・・ねぇ!・・・死んじゃったの・・・?」
崖の半ばほどにあるやや広い洞窟の中で、青い羽と鉤爪をもつ少女が必死に横たわる男に向かって声をかけていた。しかしそれには応じず男は眠り続けるため、彼女の目には涙が溜まっている。
「う、ぁ・・・」
ようやく男は呻き声をあげながら覚醒した。それを見たセイレーンは大喜びで彼に抱きつく。
「良かった・・・!生きてた・・・!」
男は少女がいきなり抱きついてきたことにより完全に意識を取り戻した。そしてすぎに自分が今いる状況を彼女に尋ねる。
「ここは・・・?」
「私の家だよ、ただの洞窟だけどね。あんたが沈んでた場所からそう離れてはないよ。」
「じゃあ・・・」
自分はまだ生きているのか、と男が落胆する。少女がその様子を見て首を傾げるも今はそれどころではない。これからどうするべきなのか、男は悩んだ。もちろん、すぐにでもここを飛び出し命を絶てば幸いなのだが、その手段を考えるたびにあの激しい苦痛が思い起こさせる。また失敗したら・・・それを考えた上で行動に出る程の勇気を男は持ち合わせていなかった。結局男は堂々巡りの思考をやめて、さっさとこの場を離れようという結論に至った。
「ありがとう、助かったよ・・・じゃあ」
に偽りの例を述べながら立ち上がろうとすると、少女があわててそれを制止した。
「ダメ!身体冷え切ってるんだよ!?そんな状態でこのまま出て行ったら・・・」
そうかその手があったな、と男は気付く。まさか自分が不老不死だという訳でもあるまい、先ほどの現象はさっさと忘れて衰弱しきってしまえばいいのだ。しかし残念ながらその案も実行することは出来そうになかった。このセイレーンの少女が許しはしないだろう。
「まだ寝てたほうがいいよ、起きたらたぶん今よりは楽になるから」
男は諦めてそれに従った。このまま目覚めることがなかったら・・・などと淡い希望を抱きつつ目を閉じたが、その間も少女が懸命に看病し、その願いが叶うことはなかった。
男が再び目を開けると、すぐに少女が駆け寄ってきた。
「おはよう!気分どう?」
男は黙ったまま目を逸らした。少女は気にせず男を質問攻めにする。
「ねえ、名前なんていうの?あ、私は海道アヤメっていうんだけど」
「・・・月島昇一」
「ふーん・・・じゃあ、昇一はなんで沈んでたの?手足になんかついてたけどさ、もしかして誰かに捕まって・・・?」
「・・・」
昇一は答えない。彼女に自殺未遂などといったらどんな剣幕になるか考えたくもなかった。どうやって誤魔化すか悩んでいると、二人の腹の虫が鳴いた、それも同時に。洞窟の中なので二人には見えていないが、このとき太陽はほぼ真上に位置していたのだった。
「あ・・・その前に、なんか食べよっか」
アヤメがやや恥ずかしがりながら立ち上がるのに対し、昇一の表情には何の変化も現れない。無論、彼に食欲など微塵もない。「やめろ」と言いたげにアヤメを見るが、すでに昇一に背を向けて鼻歌混じりに台所に立っており彼の視線に気付くことはなかった。
「軽いものだけど・・・いいかな」
出されたものはサラダなどの食べやすいものだった。アヤメがおいしそうに食べるのを見て少しばかり自分も食べてみた。
これより上の味を挙げろといわれれば確かに思いつくが、それでも昇一の記憶の中ではなかなかの部類だった。何よりも、こんな穏やかな食事は本当に久しぶりだった。そう思うと胸の奥が疼いた。堪えるために目の前の物をかきこむ。
「よかった、食欲あるんだ!あ・・・もしかして足りない?」
「いいよ、まだ本調子じゃないし・・・ごちそうさま、おいしかった」
それを聞いてアヤメは笑顔になった。昇一は彼女の顔を見てなぜか暗い表情をしながら俯く。
さて、いつまでもここにいるわけにもいくまい。と決意して昇一は立ち上がり、洞窟の出口まで歩いていこうとするもまたもアヤメの制止がかかる。
「ど、どこ行くの?まだ調子悪いんでしょ」
「帰る」
「帰るって・・・帰れるの?」
「・・・」
昇一が元いた場所はここから遠く離れている、もちろんこんな体で越えられる道のりではない。尤もそれを越える意思は彼にはないし、そもそも戻りたくもなかった。かといって他に行くアテがあるわけでもない。どの事実を伝えてもアヤメを説得することが無理なのは明白だった。そして彼女の性格からして次に言うことは・・・
「やっぱり無理なんじゃない・・・。しばらくここにいたら?」
「ッ!」
予想できた言葉だった、昇一はそれを断じて受け入れたくはなかった。確かに死ぬ勇気はもう失われたかもしれない。だが今更生き長らえ、あまつさえ共同生活をするなど今の昇一には耐え難いものがあったのだ。
アヤメの言葉を無視して出口に向かい歩き出すと、素早く彼女がその前に立ち塞がった。
「行かせないよ・・・!」
「・・・どうしてそこまで俺に拘る?こんな者放っておけばいいだろう!」
「嫌だよ、みすみす放り出すなんて!助けた意味が分からないじゃない!」
「なぜ助けたんだ」
「人が死ぬのが嫌だから!当たり前でしょ!昇一にも死なないで欲しいの!」
その一言で、最悪の記憶がフラッシュバックした。
「よう、無能野郎」
「・・・言っちゃ悪いが、お前、何も出来ないんだな」
「お前が生きても死んでも、多分何も変わらんだろうよ」
昇一は昔から、全てが人より大きく劣っていた。体力も、物覚えも、計算も何もかも。そんな昇一を世の中は一切必要としなかった。
いようがいまいが何も変わらない存在。求められることはおろか疎まれることさえない、究極なまでに不必要な人間。そんな昇一に「死なないで欲しい」などと言ったのは、このアヤメが最初だった。
また胸の奥が疼いた、涙は止められなかった。昇一が何も見ていないような目で、しかしアヤメだけはしっかりと見つめて呟くように小さな声で問う。
「いい・・・のか?」
「もちろん!・・・どうしたの?そんなに泣いて」
アヤメはその時初めて昇一の笑顔を見た。
自分を守るためにいつの間にか殺してしまった感情が、再び彼の中に蘇ったのだ。
奇妙なきっかけから始まった共同生活から数週間後、月島昇一はまだ洞窟で海道アヤメと共に暮らしていた。彼の体もう十分に治ってはいるが、結局帰る場所のないことをアヤメに告げたら、当然とでもいうように二人で暮らし続けることを提案した。傍から見れば結婚以外の何者でもないが、アヤメにそれを露ほども気にせず、構わないのかと聞いてみれば「また一人暮らしも寂しいから、むしろ居て欲しい」と淡く頬を染めながら言い、彼はそれに流されてしまったのだ。
それから昇一は大きく成長することになる。日中は出掛けているアヤメの代わりに留守番をするようになった彼は、アヤメに比べれば遥かに稚拙なものの一通りの家事を身につけることができた。自分のいない間に家を任せられる人ができたことにアヤメも喜び、二人はあの出会いからは信じられないほどに打ち解けあっていった。
「いただきまーす!」
「いただきます」
元気な声と落ち着いた声が洞窟内で共鳴し二人の夕食が始まった。アヤメは今日珍しい友人に会ったことを昇一に話した。それは各地を巡り歌手をしているアヤメと同じセイレーンであり、仕事柄滅多に会えないのだという。
「昇一・・・ちょっと待っててね」
夕食が終わるとアヤメは一人洞窟の外へ出て行った。いつもは日が落ちるとさっさと寝てしまうアヤメにしては珍しい行動だった。昇一が不思議がるも、彼女の行動を待つことにした。
洞窟がある崖の上でアヤメは手に持った薬瓶を見つめていた。それは今日会った友人が、アヤメと昇一の仲がまだ進展していないことを聞いて彼女に渡した、ジパングの薬師が作る所謂"元気になる薬"だった。
「やっぱりこんなのに頼っても・・・」
なかなか決心がつけられずにアヤメは悩む。別にいまのままの関係でもいいじゃないか、決して仲が悪いわけじゃないんだから。
しかしその一方で彼女にはもっと昇一に近づきたいという気持ちがあった。昇一を思い浮かべる度にその気持ちはどんどん強くなっていく。やがてそれは一つのタガを外し、アヤメに薬瓶を開けさせた。
「ええい、どうにでもなれ!」
即座にアヤメの全身が熱を帯びる、特に下半身の疼きは耐え難いものだった。アヤメはすぐに洞窟の中にいる昇一の下へ向かった。
「おかえり、なんだったんだ?」
昇一は聞いた。しかし返事はない、それどころか様子がおかしい。息は荒く、顔が異常に上気している。とにかくただごとではないのは確かだった。
「どうした、何があった?」
「しょう・・・いち・・・」
アヤメは昇一に顔を近づけるといきなり唇を奪った。いきなりのことで昇一もなす術はなく、口内をアヤメの舌に思うがままにされていく。その時アヤメは口に含んでいた薬の残りを昇一に流し込んだ。やがてアヤメが昇一から離れると、そのまま昇一を押し倒し自分はその上に覆いかぶさった。
「ア、アヤメ・・・何を・・・!」
「何言ってるの、昇一・・・私達、もうこれぐらいしてもいいでしょ」
昇一を身体全体で押さえながらアヤメは服を脱ぎ、自分が脱ぎ終わると続いて昇一の服を脱がしにかかる。先ほどの薬のせいでろくな抵抗ができずその場に二人の裸体が現れた。
「ほら、私もうこんなになってるんだ、昇一・・・もう抑えられないよ・・・。一つになろう・・・!」
アヤメは昇一に自分の濡れた秘所を見せつける。上体を起こし笑みを浮かべ、自分の腰を昇一の下腹部に合わせると、そこにある既に滾った昇一の分身を自ら挿し込んだ。二人の体に大きな快感が走り、あたりに嬌声が響き渡る。どちらともなく腰を振り、共にずぶずぶと快楽の渦に溺れてゆく。やがて二人は絶頂し、もつれあったまま眠りに落ちた。
翌朝、昇一が目覚めるとその側にアヤメの姿はなかった。近くに投げ捨てられた自分の衣服を纏って洞窟から出ると、すでに登りきった日が眩い光を放っている。それとは別にどこかからか歌声が聞こえてくるのを昇一は感じた。それを頼りに歩いていくとだんだんハッキリと聞き取れるようになりその歌声がアヤメものだと解かった。崖の上で歌うアヤメを見つけた昇一は彼女に聞く。
「なにしてるんだ?」
アヤメは驚いて振り返った。
「あっ、昇一おはよう!その、聞こえてた?」
「ああ・・・」
「あちゃー、隠れて練習してたつもりなんだけどな」
「どうしたんだ、いきなり歌なんて」
「・・・丁度いいや、ここで聞いてってよ。私から昇一に送る歌だよ!」
そう言うとアヤメは昇一に向き直り大きく息を吸った。
次にアヤメは素晴らしい歌声で昇一への愛を歌い始めた。
昇一は文字通り息を飲んだ。かつて、これほどまでに素晴らしい歌声があっただろうか、少なくとも彼の記憶にはそんなものは存在しなかった。。優しさや力強さや爽やかさ、あらゆる要素が完全なバランスで組み込まれた彼女の声は昇一に強い衝撃を与えた。
しかし、それとは別に昇一にあってはならない感情が芽生えた。
こともあろうに、それは「嫉妬」という負の感情だった。
彼女の歌声を聞いた瞬間、忘れていた自分の無能さが浮き彫りになり、目の前に突き付けられるような、そんな感じがした。
この数週間で身に付けた生活の技術さえ、彼女の歌に比べれば何の価値も無い、無視できるような要素に思えてきた。そもそも彼女は自分が来るまで一人で暮らしていたのだ、必死で覚えたにしろ所詮は付け焼刃、彼女に並ぼう筈もない。一体自分は、今まで何を喜んでいたのだろうか。
昇一のアイデンティティが音を立てて崩れ去っていった。やはり、自分を必要とするものなど何もありはしない。「このまま潔くこの世を去るか・・・」昇一に残る僅かな誇りがそう心に決めさせた。美しい歌声を耳にしながら彼はは真っ直ぐに崖の端まで歩いていく。
だが昇一がアヤメの目の前まで来たところでその歩みは止まった。彼女の歌が終わり、満面の笑顔を昇一に向けてきたのだ。
「どうだった?」
その破壊力は昇一に残った誇りを粉々に砕くほどだった。
ああそうだ、彼女は自分への愛をずっと歌っていた。ならば俺はそれに甘えれば、全ての辻褄が合うじゃないか。
「とても、素晴らしかったよ」
微笑を浮かべて賞賛する。その笑顔には喜びも楽しさも怒りも、悲しみさえも存在しなかった。しかしアヤメはなんの不安も抱かず大喜びしてそれに応えた。
「一緒に暮らそうアヤメ、ずっと」
昇一がそう言った瞬間アヤメは一瞬硬直し、直後に涙を浮かべて抱きついた。そしてアヤメは鉤爪でしっかりと昇一を掴み、1回大きく大空に舞うと、二人の家に飛び込んでいった。
それからは今までのようにずっと幸せに暮らしていく。美味しいご飯を食べながら、二人の愛を確かめ合いながら。昇一はどんなときでも笑顔だった。いつまでも、いつまでも、朽ち果てるまで。
「ただいま」
「おかえり」
一点の曇りも穢れも存在しないただ青いだけの世界と、それを眼下に広げることが出来る小高い崖があった。もしこの土地を売りに出せば、世界有数の大金持ちが集まり凄まじい値がつけられるだろう、それほどまでに絶景だった。
しかし、未だこの地を買うものは出ておらず値段すらつけられていない。なぜならばここは人跡未踏の地であり、訪れる者といえば迷った挙句に偶然立ち入るか、極端に人目を避けた挙句にたどり着くような者だけだった。
そして今、一人の男が崖の一番端に後者の理由で佇んでいた。見渡す限りの心が表れるような景色。男はそれをみて僅かに笑うと、自分の手足に金属製の輪を取り付け、その身を投じた。男の体は風に煽られることもなく一直線に海に向かっていき、水面に激突するとそのまま海底へと沈んでいく。男が大きく水を吸い込むと、当然ながら全身に激痛が走った。それに耐えながら男は思う、「もう少し、もう少しで全てが終わる」と。
だがそんな男の予想は大きく外れた。いくら耐えようとその先にあるはずの終わりは訪れず、苦痛だけが変わらず男の体を蝕み続けていた。
「し、死ねないッ・・・!?」
そう悟ると男は必死に浮き上がろうとする。しかし皮肉にも男が別の苦しみから逃れるために取り付けた金属の輪がそれを許さなかった。男は絶望した。人が逃げられる最後の場所にさえ、自分は行くことができず、このまま永遠に苦痛と共に生きることになるのか。
一体自分は何のために生まれ、いままで生きてきたのか。
その時、男が全ての思考を停止させる寸前に、何かが自分の体を掴むのを感じた。男は瞬時に浮上し、そのまま大空に掴み上げられた直後に彼の意識は途絶えた。
「・・・ねぇ!・・・死んじゃったの・・・?」
崖の半ばほどにあるやや広い洞窟の中で、青い羽と鉤爪をもつ少女が必死に横たわる男に向かって声をかけていた。しかしそれには応じず男は眠り続けるため、彼女の目には涙が溜まっている。
「う、ぁ・・・」
ようやく男は呻き声をあげながら覚醒した。それを見たセイレーンは大喜びで彼に抱きつく。
「良かった・・・!生きてた・・・!」
男は少女がいきなり抱きついてきたことにより完全に意識を取り戻した。そしてすぎに自分が今いる状況を彼女に尋ねる。
「ここは・・・?」
「私の家だよ、ただの洞窟だけどね。あんたが沈んでた場所からそう離れてはないよ。」
「じゃあ・・・」
自分はまだ生きているのか、と男が落胆する。少女がその様子を見て首を傾げるも今はそれどころではない。これからどうするべきなのか、男は悩んだ。もちろん、すぐにでもここを飛び出し命を絶てば幸いなのだが、その手段を考えるたびにあの激しい苦痛が思い起こさせる。また失敗したら・・・それを考えた上で行動に出る程の勇気を男は持ち合わせていなかった。結局男は堂々巡りの思考をやめて、さっさとこの場を離れようという結論に至った。
「ありがとう、助かったよ・・・じゃあ」
に偽りの例を述べながら立ち上がろうとすると、少女があわててそれを制止した。
「ダメ!身体冷え切ってるんだよ!?そんな状態でこのまま出て行ったら・・・」
そうかその手があったな、と男は気付く。まさか自分が不老不死だという訳でもあるまい、先ほどの現象はさっさと忘れて衰弱しきってしまえばいいのだ。しかし残念ながらその案も実行することは出来そうになかった。このセイレーンの少女が許しはしないだろう。
「まだ寝てたほうがいいよ、起きたらたぶん今よりは楽になるから」
男は諦めてそれに従った。このまま目覚めることがなかったら・・・などと淡い希望を抱きつつ目を閉じたが、その間も少女が懸命に看病し、その願いが叶うことはなかった。
男が再び目を開けると、すぐに少女が駆け寄ってきた。
「おはよう!気分どう?」
男は黙ったまま目を逸らした。少女は気にせず男を質問攻めにする。
「ねえ、名前なんていうの?あ、私は海道アヤメっていうんだけど」
「・・・月島昇一」
「ふーん・・・じゃあ、昇一はなんで沈んでたの?手足になんかついてたけどさ、もしかして誰かに捕まって・・・?」
「・・・」
昇一は答えない。彼女に自殺未遂などといったらどんな剣幕になるか考えたくもなかった。どうやって誤魔化すか悩んでいると、二人の腹の虫が鳴いた、それも同時に。洞窟の中なので二人には見えていないが、このとき太陽はほぼ真上に位置していたのだった。
「あ・・・その前に、なんか食べよっか」
アヤメがやや恥ずかしがりながら立ち上がるのに対し、昇一の表情には何の変化も現れない。無論、彼に食欲など微塵もない。「やめろ」と言いたげにアヤメを見るが、すでに昇一に背を向けて鼻歌混じりに台所に立っており彼の視線に気付くことはなかった。
「軽いものだけど・・・いいかな」
出されたものはサラダなどの食べやすいものだった。アヤメがおいしそうに食べるのを見て少しばかり自分も食べてみた。
これより上の味を挙げろといわれれば確かに思いつくが、それでも昇一の記憶の中ではなかなかの部類だった。何よりも、こんな穏やかな食事は本当に久しぶりだった。そう思うと胸の奥が疼いた。堪えるために目の前の物をかきこむ。
「よかった、食欲あるんだ!あ・・・もしかして足りない?」
「いいよ、まだ本調子じゃないし・・・ごちそうさま、おいしかった」
それを聞いてアヤメは笑顔になった。昇一は彼女の顔を見てなぜか暗い表情をしながら俯く。
さて、いつまでもここにいるわけにもいくまい。と決意して昇一は立ち上がり、洞窟の出口まで歩いていこうとするもまたもアヤメの制止がかかる。
「ど、どこ行くの?まだ調子悪いんでしょ」
「帰る」
「帰るって・・・帰れるの?」
「・・・」
昇一が元いた場所はここから遠く離れている、もちろんこんな体で越えられる道のりではない。尤もそれを越える意思は彼にはないし、そもそも戻りたくもなかった。かといって他に行くアテがあるわけでもない。どの事実を伝えてもアヤメを説得することが無理なのは明白だった。そして彼女の性格からして次に言うことは・・・
「やっぱり無理なんじゃない・・・。しばらくここにいたら?」
「ッ!」
予想できた言葉だった、昇一はそれを断じて受け入れたくはなかった。確かに死ぬ勇気はもう失われたかもしれない。だが今更生き長らえ、あまつさえ共同生活をするなど今の昇一には耐え難いものがあったのだ。
アヤメの言葉を無視して出口に向かい歩き出すと、素早く彼女がその前に立ち塞がった。
「行かせないよ・・・!」
「・・・どうしてそこまで俺に拘る?こんな者放っておけばいいだろう!」
「嫌だよ、みすみす放り出すなんて!助けた意味が分からないじゃない!」
「なぜ助けたんだ」
「人が死ぬのが嫌だから!当たり前でしょ!昇一にも死なないで欲しいの!」
その一言で、最悪の記憶がフラッシュバックした。
「よう、無能野郎」
「・・・言っちゃ悪いが、お前、何も出来ないんだな」
「お前が生きても死んでも、多分何も変わらんだろうよ」
昇一は昔から、全てが人より大きく劣っていた。体力も、物覚えも、計算も何もかも。そんな昇一を世の中は一切必要としなかった。
いようがいまいが何も変わらない存在。求められることはおろか疎まれることさえない、究極なまでに不必要な人間。そんな昇一に「死なないで欲しい」などと言ったのは、このアヤメが最初だった。
また胸の奥が疼いた、涙は止められなかった。昇一が何も見ていないような目で、しかしアヤメだけはしっかりと見つめて呟くように小さな声で問う。
「いい・・・のか?」
「もちろん!・・・どうしたの?そんなに泣いて」
アヤメはその時初めて昇一の笑顔を見た。
自分を守るためにいつの間にか殺してしまった感情が、再び彼の中に蘇ったのだ。
奇妙なきっかけから始まった共同生活から数週間後、月島昇一はまだ洞窟で海道アヤメと共に暮らしていた。彼の体もう十分に治ってはいるが、結局帰る場所のないことをアヤメに告げたら、当然とでもいうように二人で暮らし続けることを提案した。傍から見れば結婚以外の何者でもないが、アヤメにそれを露ほども気にせず、構わないのかと聞いてみれば「また一人暮らしも寂しいから、むしろ居て欲しい」と淡く頬を染めながら言い、彼はそれに流されてしまったのだ。
それから昇一は大きく成長することになる。日中は出掛けているアヤメの代わりに留守番をするようになった彼は、アヤメに比べれば遥かに稚拙なものの一通りの家事を身につけることができた。自分のいない間に家を任せられる人ができたことにアヤメも喜び、二人はあの出会いからは信じられないほどに打ち解けあっていった。
「いただきまーす!」
「いただきます」
元気な声と落ち着いた声が洞窟内で共鳴し二人の夕食が始まった。アヤメは今日珍しい友人に会ったことを昇一に話した。それは各地を巡り歌手をしているアヤメと同じセイレーンであり、仕事柄滅多に会えないのだという。
「昇一・・・ちょっと待っててね」
夕食が終わるとアヤメは一人洞窟の外へ出て行った。いつもは日が落ちるとさっさと寝てしまうアヤメにしては珍しい行動だった。昇一が不思議がるも、彼女の行動を待つことにした。
洞窟がある崖の上でアヤメは手に持った薬瓶を見つめていた。それは今日会った友人が、アヤメと昇一の仲がまだ進展していないことを聞いて彼女に渡した、ジパングの薬師が作る所謂"元気になる薬"だった。
「やっぱりこんなのに頼っても・・・」
なかなか決心がつけられずにアヤメは悩む。別にいまのままの関係でもいいじゃないか、決して仲が悪いわけじゃないんだから。
しかしその一方で彼女にはもっと昇一に近づきたいという気持ちがあった。昇一を思い浮かべる度にその気持ちはどんどん強くなっていく。やがてそれは一つのタガを外し、アヤメに薬瓶を開けさせた。
「ええい、どうにでもなれ!」
即座にアヤメの全身が熱を帯びる、特に下半身の疼きは耐え難いものだった。アヤメはすぐに洞窟の中にいる昇一の下へ向かった。
「おかえり、なんだったんだ?」
昇一は聞いた。しかし返事はない、それどころか様子がおかしい。息は荒く、顔が異常に上気している。とにかくただごとではないのは確かだった。
「どうした、何があった?」
「しょう・・・いち・・・」
アヤメは昇一に顔を近づけるといきなり唇を奪った。いきなりのことで昇一もなす術はなく、口内をアヤメの舌に思うがままにされていく。その時アヤメは口に含んでいた薬の残りを昇一に流し込んだ。やがてアヤメが昇一から離れると、そのまま昇一を押し倒し自分はその上に覆いかぶさった。
「ア、アヤメ・・・何を・・・!」
「何言ってるの、昇一・・・私達、もうこれぐらいしてもいいでしょ」
昇一を身体全体で押さえながらアヤメは服を脱ぎ、自分が脱ぎ終わると続いて昇一の服を脱がしにかかる。先ほどの薬のせいでろくな抵抗ができずその場に二人の裸体が現れた。
「ほら、私もうこんなになってるんだ、昇一・・・もう抑えられないよ・・・。一つになろう・・・!」
アヤメは昇一に自分の濡れた秘所を見せつける。上体を起こし笑みを浮かべ、自分の腰を昇一の下腹部に合わせると、そこにある既に滾った昇一の分身を自ら挿し込んだ。二人の体に大きな快感が走り、あたりに嬌声が響き渡る。どちらともなく腰を振り、共にずぶずぶと快楽の渦に溺れてゆく。やがて二人は絶頂し、もつれあったまま眠りに落ちた。
翌朝、昇一が目覚めるとその側にアヤメの姿はなかった。近くに投げ捨てられた自分の衣服を纏って洞窟から出ると、すでに登りきった日が眩い光を放っている。それとは別にどこかからか歌声が聞こえてくるのを昇一は感じた。それを頼りに歩いていくとだんだんハッキリと聞き取れるようになりその歌声がアヤメものだと解かった。崖の上で歌うアヤメを見つけた昇一は彼女に聞く。
「なにしてるんだ?」
アヤメは驚いて振り返った。
「あっ、昇一おはよう!その、聞こえてた?」
「ああ・・・」
「あちゃー、隠れて練習してたつもりなんだけどな」
「どうしたんだ、いきなり歌なんて」
「・・・丁度いいや、ここで聞いてってよ。私から昇一に送る歌だよ!」
そう言うとアヤメは昇一に向き直り大きく息を吸った。
次にアヤメは素晴らしい歌声で昇一への愛を歌い始めた。
昇一は文字通り息を飲んだ。かつて、これほどまでに素晴らしい歌声があっただろうか、少なくとも彼の記憶にはそんなものは存在しなかった。。優しさや力強さや爽やかさ、あらゆる要素が完全なバランスで組み込まれた彼女の声は昇一に強い衝撃を与えた。
しかし、それとは別に昇一にあってはならない感情が芽生えた。
こともあろうに、それは「嫉妬」という負の感情だった。
彼女の歌声を聞いた瞬間、忘れていた自分の無能さが浮き彫りになり、目の前に突き付けられるような、そんな感じがした。
この数週間で身に付けた生活の技術さえ、彼女の歌に比べれば何の価値も無い、無視できるような要素に思えてきた。そもそも彼女は自分が来るまで一人で暮らしていたのだ、必死で覚えたにしろ所詮は付け焼刃、彼女に並ぼう筈もない。一体自分は、今まで何を喜んでいたのだろうか。
昇一のアイデンティティが音を立てて崩れ去っていった。やはり、自分を必要とするものなど何もありはしない。「このまま潔くこの世を去るか・・・」昇一に残る僅かな誇りがそう心に決めさせた。美しい歌声を耳にしながら彼はは真っ直ぐに崖の端まで歩いていく。
だが昇一がアヤメの目の前まで来たところでその歩みは止まった。彼女の歌が終わり、満面の笑顔を昇一に向けてきたのだ。
「どうだった?」
その破壊力は昇一に残った誇りを粉々に砕くほどだった。
ああそうだ、彼女は自分への愛をずっと歌っていた。ならば俺はそれに甘えれば、全ての辻褄が合うじゃないか。
「とても、素晴らしかったよ」
微笑を浮かべて賞賛する。その笑顔には喜びも楽しさも怒りも、悲しみさえも存在しなかった。しかしアヤメはなんの不安も抱かず大喜びしてそれに応えた。
「一緒に暮らそうアヤメ、ずっと」
昇一がそう言った瞬間アヤメは一瞬硬直し、直後に涙を浮かべて抱きついた。そしてアヤメは鉤爪でしっかりと昇一を掴み、1回大きく大空に舞うと、二人の家に飛び込んでいった。
それからは今までのようにずっと幸せに暮らしていく。美味しいご飯を食べながら、二人の愛を確かめ合いながら。昇一はどんなときでも笑顔だった。いつまでも、いつまでも、朽ち果てるまで。
「ただいま」
「おかえり」
13/07/07 19:45更新 / fvo