陽光の知らぬ間に
天駆ヤマトがこの辺境の寒村に引っ越してきてから、すでに3ヶ月の時間が経過していた。この村に住む子供の数は彼を入れて15人ほどしかいない、そもそも村の人口さえ50を切っているのだ。そんな狭い子供のコミュニティの中でも排他的なことは一切なく、ヤマトはその全員に友人として迎えられていた。
「ああもう、わかんねえよ、つーかわかるわけねーだろ！」
にも関わらず、現在ヤマトは友人達と遊ぶことなく自分の部屋の机にかじりついて、目の前のノートに握った鉛筆を右往左往とさせていた。ノートの左に開かれた教科書にはいくつかの問いかけが綴られていたが、ノートにはその解の一つさえ記されていない。
「なんで分かんないのよ、授業で飽きるほどやったのに」
そしてヤマトの隣に立ち、呆れ返った様子で教科書を眺める彼女こそ、彼を机へと呪縛している張本人、この地域に古くから住みつく妖怪のひとつ、烏天狗のカエデである。性格は生真面目そのもの。あらゆる規律や規則に忠実に従い、勉強熱心で成績は優秀、さらにその術の腕は大人の妖怪達に比べても全く見劣りしないなど、まさに絵に描いたような「優等生」である。
「ほらもう１回読み直して、暗記だけするんじゃなくて意味も理解して･･･」
そして出来の悪い者を見ているのは我慢がならないというのも、カエデの大きな特徴であった。勉強嫌いの悪戯好きたるヤマトは、そんなカエデの関心を一手に引き受けるのに最適の資質を備えていたのだ。
「にしてもあっついなー･･･喉が渇いちゃったよ」
ヤマトが鉛筆を置き、チラチラと横目でカエデを見ながら呟いた。これ以上ないというほどに人を疑う彼女の表情が彼の目に映る。飲み物を取りに行くフリをして逃げ出す。あるいはカエデが取りに行っている間に逃げる。ヤマトの浅はかな企みを、カエデが見抜けぬはずもない。かといって、夏も本番を迎えながら冷房もついていないような部屋にヤマトを閉じ込めているのも事実である。
「･･･まったく」
カエデは自分の表情を伺う目をしかと睨みつけ、一応は釘を差してからヤマトの部屋を出て麦茶を取りに行く。もちろん、そんな釘などいともたやすく抜いてしまうのがヤマトである。カエデが階段を降り、また戻り始めるのを確認すると、窓を開けて一番近い木の枝に飛び移る、そこから幹を伝ってスルスルと地面へ着地。ヤマトはものの数秒で自分を戒めていた勉強道具にしばしの別れを告げることに成功した。ヤマトは靴を取りに玄関へ戻る。カエデは今頃もぬけの殻となった部屋で、窓の外を必死で探しているに違いない、すくなくとも玄関に戻るのは安全のはずだ。その目論見通りに事は進み、ヤマトは悠々と友達の家へ向けて走り出した。
「もう、やっぱり！」
持ってきた麦茶を乱暴に机に置きながら、カエデは開けっ放しの窓から飛び立った。自慢の黒い翼を大きく羽ばたき、一気に高度をあげてヤマトを探す。こんなときにヤマトが向かう先は何時だって同じだ。公園か、一番近い友達の家。でも今日は真っ直ぐ家に帰って、遊ぶ約束なんかしていない。ということは、ヤマトが公園に向かう理由はない。そう判断したカエデは友達の家への一番の近道を徹底的に探し始めた。たとえヤマトの足が世界一速くても、空を飛ぶ烏天狗から走って逃げ切れるはずもない。カエデはすぐさまヤマトを見つけ、その場所をめがけて急降下する。
「ヤマト！！」
「げっ」
ヤマトが驚き振り向いたことで動きが止まる。カエデはそのチャンスを逃すことなくあっという間にヤマトの両肩を鉤爪でしっかりと掴んで再び空に舞い上がった。もう逃げられはしない、ヤマトの逃走劇はものの三分であっけなく終幕を迎え、それから二度とカエデの目を盗むことは叶わなかった。
数日後、試験が終了しようやくヤマトがカエデから解放される日が訪れた。ヤマトは村に程近い山の中で友人達と釣りに興じるところだった。エサは先ほど競って捕まえた虫が数匹。その中からヤマトは一際大きなバッタを取り出し自慢げに見せびらかす。ミミズやイモムシなどを手に持った者はヤマトに思わず羨望の眼差しを向けていた。
「どうだ見ろ。エサがこれだけでかけりゃ、とんでもない大物がかかるに決まってる！」
ヤマトは釣り針にバッタを刺して意気揚々と釣り糸を垂らし、友人達もそれに続く。それから数分後、ミミズをエサにした友人が最も早く1匹目を釣り上げた。かかったのは十数センチ程の小魚だった。ヤマトは自分が最初に釣れなかったことに少し悔しがりながらも、自ら捕まえたバッタの大きさを信じ浮きを眺め続ける。あんな魚なんか笑っちゃうぐらいのが釣れるはずだ。更に数分後、イモムシをエサにした友人が同じぐらいの魚を釣り上げた。ヤマトの心に焦りが生まれる。釣りを始めてはや数十分、ヤマト以外は捕まえたエサが無くなるまでの釣果をあげたというのに、ヤマトの浮きは微動だにしていなかった。そしてヒグラシが日没を伝えるのを合図に友人達は一人また一人と帰路につき、遂に川のほとりにはヤマトだけが残された。
「あ、ヤマト！こんな時間まで何やってるの！」
そんなヤマトを、村へのおつかいを済ませ時間通りに山に帰ってきたカエデが見つけた。
「見りゃわかるだろ、釣りだ釣り！」
「日が暮れるまで山にいちゃダメだって言われてるじゃない、今日はもうやめなさいよ」
「うっせー、お前だって山にいるじゃねえか」
「烏天狗はこの山に住んでるの！私も夜は外に出たりしないんだから、ヤマトも同じでしょ」
口喧嘩でヤマトがカエデを言い負かしたことなど一度も無い。ヤマトが少しでも規則や言いつけを破れば、いつだってカエデは素早く駆けつけて（あるいは飛んできて）ヤマトを激しく叱るのだ。烏天狗は不思議な力を使えるらしいが、それは千里眼や地獄耳のことに違いないと、ヤマトは常日頃から思っていた。ともあれ、カエデに見つかった以上釣りを続けられはしない。ずっと浮きを眺め続ける根気を一気に砕かれたヤマトは、何の成果も得られぬままに帰らざるを得なかった。
カエデは不機嫌そうに立ち去るヤマトの背中を見て、頭の中にいつもの疑問を浮かべていた。勉強も宿題も全然しないで、今日みたいに釣りをしたり虫取りをしたり、ヤマトはいつも遊んでばかり。悪戯を仕掛けるなんて日常茶飯事で、その度に怒られているのに、なんでやめようとしないんだろう。カエデは誰にどれほど叱られようと一切聞く耳を持たないヤマトが不思議で仕方なかった。大人の言うことを聞くなんて微塵も思ってないんだろうか。そんな事を考えながらふと下を見ると、カエデはなにやら紙切れが落ちているのを見つけた。
「なんだろ･･･？」
ヤマトが落としていったものだろうか。カエデはそれを拾い、広げてみて驚いた。紙に描かれているのは方角を示すような記号と無数の点、さらにその点同士を繋ぐ何本もの線、そしていくつかの点の側にある名前らしき文字だった。カエデは初め地図の類かと思ったが、書かれた名前を見て再び驚愕する。
「デネブ、ベガ、アルタイル･･･星の名前だ。紙に星の地図が書いてある！」
カエデはハッとして辺りを見回す。ヤマトがいない。落としたことに気付かないまま帰ってしまったのだ。カエデは紙切れを懐にしまいあわてて飛び立ち、木々の合間を縫ってヤマトを探し出す。まだ山を出てはいないはずだ、でも日が暮れてしまったらもう見つけることは出来ない。
「ヤマトーーッ！」
叫ぶと同時に、カエデの目が大声に驚くヤマトを捕らえた。カエデはヤマトの目の前に華麗に着地する。
「よかった、間に合った･･･」
「なんだよ。も、もう釣りなんかしてないぞ！」
「あ、違うの！これ落ちてたけど、ヤマトのじゃないかなって」
カエデは拾った紙切れをヤマトに見せた。
「うおっ、あっぶねー！これなくしたら父ちゃんがどんなに怒るか･･･」
カエデはまたも驚いた。あのヤマトが怒られるのを恐れているなんて初めてだ、彼の父親とはどんなに恐ろしい人物なのだろうか。しかしそんなことよりも、カエデが気になったのはヤマトが落とした紙切れの内容だった。
「それ、なんなの？星の名前がいっぱい書かれてるけど･･･」
「え？ああ、星図っていってさ、どこにどんな星があるのか全部分かるんだってさ！オレの父ちゃんがくれたんだ。いつもこれで星を探して、あれはこういう星だって話をしてくれて」
「ふーん、ヤマトお父さんって星に詳しいの？」
「うん、なんか天文学者･･･？とかいうのらしいぞ」
「て、天文学者！？ヤマトのお父さんって学者さんなの！？」
「そうだ、結構偉いんだぞ。どれくらい偉いかって言ったら･･･えーと、なんか雑誌に載ったぞって言ってたな。よくわかんねーや」
「･･･それなのにヤマトはあんなに算数が苦手なの･･･？」
「うるせーな！星と算数と何の関係があんだよ！ああもう、オレは帰るからな」
そう言うとヤマトは踵を帰し、やはり不機嫌な様子で山を降りていった。それを見届けたカエデはなんとなく空を見上げる。今にも沈みそうな太陽によって、紅色に染まっていた。
「カエデ、早く寝なさい。明日も早いんだから」
「はい、お母さん」
玄関の外で空を見上げていたカエデを母が呼んだ。カエデは家に入り、寝間着に着替えて布団に入り込む。いつもならば自然に眠気が湧き出し、そのまま眠りに落ちていくのだが、今日は毛色が違った。頭の中から、あの星図のことが離れない。カエデは布団から出て窓を開け、また空を眺め始めた。夜空をこんなにも見つめるのは、カエデは初めてだった。あの星は名前はなんだろう、どんな星なんだろう、･･･ヤマトはいつもお父さんからどんなことを聞いているのだろう。もっと星を見たい。そういえば、夜の空なんて飛んだことがない。いつも早く寝てしまうし、飛びたいといっても、きっとお母さんは許してくれない。お父さんは･･･多分ちょっとだけならいいよって言ってくれるけど、お母さんに見つかったら二人とも怒られるんだろう。
「･･･でも飛びたい、飛んでみたい」
頭の中の言葉が思わずカエデの口をついて出る。気がつけば、窓の枠に足の鉤爪を引っ掛けているところだった。カエデは自分の鼓動がこれまでに無いほど強くなっていくのを感じた。今なら飛んで行けるかもしれない。でも、バレるかもしれない。バレたらヤマトのようにひどく怒られるのだろう。でも･･･バレないかもしれない。カエデはごくりと唾を飲み込み、窓から身を引いて寝室を出た。足音の鳴りやすい自分の鉤爪を初めて恨みながら、カエデは忍び足で両親の寝室に聞き耳を立てる。なんの音もしなかった、静かそのものだった。二人とも寝静まったに違いない。カエデは再び忍び足で寝室に戻り、意を決してまだ見ぬ夜空へ想いを馳せつつ、自慢の黒い翼を力いっぱい広げた。
「何だよ･･･今日に限って静かにしようだなんて･･･思いっきり突かれるの好きなのに」
「かわいい子には旅をさせよ、ってね」
「？ 意味がわから･･･ッ！こら･･･あっ･･･そんな、んっ♥、お･･･くに･･･ッ♥」
「星･･･星だ！すごい！星がこんなに！」
夜空を飛びつつ、カエデは湧き上がる興奮のまま天に叫ぶ。宝石をちりばめたような空を、カエデは縦横無尽、自由自在に往来した。夏の夜の風を切り、きらめく星々にその身を投じる。星を掴まん勢いで。しかし、どれだけ速く、どれだけ高く飛んでも、星に届くことは叶わない。カエデは自分がとてつもなくちっぽけな存在に思え、そして、それがたまらなく心地よかった。どれがベガ、どれがアルタイルかなんて、もうどうでもよかった。この数え切れない光の一つ一つに名前を付けようなんてこと自体が愚かしく感じた。一際高く飛び、カエデは地上を見下ろす。いつもは太陽の光で輝く池も、今はただ静かに闇を抱いている。しかし、カエデはその闇の中にぼんやりと光る点を見つけた。そしてその光は瞬き、動いているようだった。もしかして、自分は星を越えてしまったのではと、カエデは一瞬錯覚した。そんなことはありえない、それに、光る強さも星に比べてずっと弱い。だが幻などではない、確かに見える。カエデはその光の正体を確かめるべく、好奇心のまま池へ向けて急降下し、池のほとりに降り立った。
「うわあ！なんだなんだ！？」
カエデが着地すると同時に悲鳴が辺りに響き渡った。カエデは声の主と同じぐらい驚いた。まさか人がいるなんて。どうしよう、こんな夜中に出歩いてると知れたら、絶対に怒られてしまう。･･･どうしようもないか、言い訳は何も思いつかない。私は怒られて、それで全て終わり。カエデは覚悟を決め、声の主が自分を見つけるのを待った。しかし、声の主はカエデが恐れるような者では断じてなかった。
「あれ･･･？お前カエデじゃん！こんなとこでなにしてんだよ」
ましてカエデを怒るなど天地がひっくり返ろうとありはしない。天駆ヤマト、村の新参者にして、村一番の悪ガキである。
「ヤ、ヤマト･･･？」
「なんだ、お前もホタル捕まえにきたのか？」
「えっ･･･ホタルって、光る虫だよね？」
「見りゃわかんだろ･･･他に光る虫がいるかよ」
カエデは池を見て、自分の目を疑った。星よりもずっと弱いあの光る点が、池の上をゆらゆらと漂っている。まるで好奇心から地上に降りてきた星が、辺りを見て回っているかのようだった。
「ホタルって、本当に光るんだ･･･」
「まさか、見たことねーのか？」
「うん。光ることは図鑑で知ってるけど、本物は見たこと無いんだ」
「ああ、お前夜は外に出ないって･･･」
そのとき、ヤマトは目の前に立っている者が誰なのかを改めて理解した。
「出てるじゃねーかよ！」
ヤマトの言葉を聞いて、カエデはきょとんとして彼を見る。それからすぐに頬を緩ませ、ヤマトにしか聞こえないような声で
「･･･抜け出してきちゃった」
と呟いた。ヤマトは信じられないといった様子でカエデの顔を見つめる。あの頑固者のカエデが、あれだけ言われたのに夜の山をうろつく自分を咎めもせず、それどころかカエデ自身が夜中に出歩くとは、当然ながら思いもしなかった。
「お前ほんとにカエデか？オレを捕まえるために誰かが化けて―」
ヤマトがそこまで言いかけたとき、近くの茂みからガサリという音がした。二人はびくりと震えて茂みを見やる。次に足音、どうやらこちらへ近づいてくるようだ。続いて、恐ろしげなうなり声が聞えてくる。間違いない、腹を空かせた獣が近くにいる。
「く、熊か？狼か？」
「どっちでもいいわよ、動かないで！」
カエデは跳躍しヤマトの肩に飛び乗ると同時に、翼を広げて全力で羽ばたかせた。一瞬のうちに、カエデとヤマトは空へと舞い上がる。次の瞬間に茂みから飛び出た狼が、高度を上げる二人を恨めしそうに見上げていた。
「た、助かった･･･。ありがとう、カエデ」
「私もすっごくびっくりした･･･じゃあ降ろすね」
「あっ、ちょっと待った！」
ヤマトは降りようとするカエデを止めて、ポケットから一枚の紙を取り出した。それはカエデに眠れぬ夜を作った全ての元凶、ヤマトが父から貰った星図だった。
「あっ、それ･･･」
「せっかくだから持ってきたんだけど、村だと家が邪魔だし、山に入っても木が一杯で空なんか見えなくてさ･･･。でも今なら邪魔がなんにもないまま見れるだろ？だから頼む、もうちょっとだけ飛んでてくれねーか･･･！？」
そのヤマトの申し出はカエデにとってこの上なく素敵なものに思えた。見たくてたまらない。さっきは星の名前などどうでもよくなっていたが、いざ現物をこの星空のしたで取り出されれば、やはり見比べてみたくなる。しかし、ヤマトを掴んだこの状態では、それを覗き見ることは出来そうにない。
「いいけど、その･･･」
「あー、やっぱり疲れるよな。無理言ってごめん」
「いや、えっと、そうじゃなくて･･･私も見たい･･･」
「じゃあ･･･あの木に降りよう！ここら辺で一番高いだろ」
「･･･うん！」
カエデはヤマトが指差した木に向けて飛び、その天辺にヤマトを下ろし、自分は近くの枝に止まった。ヤマトは星図を広げ、夜空とそれをせわしなく見比べている。カエデはヤマトの隣からそっと覗き込み、大体の位置を頭に入れてから天を仰いだ。あれはデネブ、あれは･･･アンタレスだろうか。一際明るい星はすぐに見つけられたが、それ以外となると意外と苦戦した。星座にいたってはどれがどれだかさっぱり分からない。
「なんか、よく分かんないね。でもこの三角は･･･ほら、あれじゃない？」
「ほんとだ、あの三つだけすっげー明るい」
二人は最も明るい三つの星を繋げた三角形を、しばらく眺めていた。真上に上った月が木の上の二人を照らし出し、夏の夜の涼しい風が木々の香りを運んでいた。そしてすっかり忘れていた眠気が徐々に蘇り、楽しい時間に終わりが近いことを知らせている。
「わっ」
「あぶない！」
カエデが大きなあくびをして危うく木から落ちそうになるのを、ヤマトが間一髪で捕まえた。そのあとすぐに、木から落ちるなどカエデにとっては大した問題ではないことに気付き、二人で笑う。
「眠くなってきちゃった、もう真夜中だよね･･･」
「オレも。そろそろ帰ろうかな」
ヤマトは星図をしまい、以前カエデから逃げ出したときのように幹を伝って木を滑り降りる。この木がどれだけ高かろうとヤマトにとっては庭先の木と対して変わりはしなかった。カエデはヤマトが無事に地上に降り、村へと走り去るのを確認すると、自分もまた夜空へと飛び立った。家に向かうと、丁度目の前に天の川が見えた。ああ、楽しかった。本当に楽しかった。カエデは天の川に向かって微笑むと、家に向かって加速する。あっという間に到着し、寝室の窓をくぐりぬけて布団に入る。すると、もう足先すら動けないほど疲れたことに気がつき、そしてまもなく深い眠りに誘われた。
次の日、退屈な授業を終えたヤマトは一直線に家に向かっていた。今日こそあの川で一番でかい魚を釣り上げてやると息巻き、部屋に鞄を放り投げて釣竿だけを握って家を飛び出すと、玄関先に王立ちになっていたカエデにぶつかりそうになる。
「うわっ、なんだよカエデ！」
カエデはじっとヤマトを見つめると、期待に満ちた眼差しを宿し、満面の笑顔を浮かべながら口を開いた。
「･･･昨夜、楽しかったね」
「え？ああ、まーな」
ヤマトは少し後ずさる、今になって自分を咎めに来たのだろうか。カエデも共にいたのは確かだが、それでも夜の山に入ったのは事実、何を言われるか分からない。カエデはそんなヤマトなど気にもせず、彼に駆け寄ってそのの耳元で囁く。
「だからさ･･･また行こう？」
「は？」
それだけ言うとカエデは飛び立ち、呆気にとられた様子のヤマトを尻目に二人で共に冒険した山の方へ消えていった。自宅へ飛びながら、カエデは自分が飛ぶこの空が再び星空になることを想像する。今度はヤマトも一緒がいい、二人一緒に思う存分飛び回ろう。そんなことを考えると、カエデはまた胸の高鳴りを感じた。だが部屋を抜け出すとき感じたものとは何かが違うようだ。真夜中の冒険の陰に隠れたこの気持ちをカエデが理解するのは、もう少し後の話である。
「ああもう、わかんねえよ、つーかわかるわけねーだろ！」
にも関わらず、現在ヤマトは友人達と遊ぶことなく自分の部屋の机にかじりついて、目の前のノートに握った鉛筆を右往左往とさせていた。ノートの左に開かれた教科書にはいくつかの問いかけが綴られていたが、ノートにはその解の一つさえ記されていない。
「なんで分かんないのよ、授業で飽きるほどやったのに」
そしてヤマトの隣に立ち、呆れ返った様子で教科書を眺める彼女こそ、彼を机へと呪縛している張本人、この地域に古くから住みつく妖怪のひとつ、烏天狗のカエデである。性格は生真面目そのもの。あらゆる規律や規則に忠実に従い、勉強熱心で成績は優秀、さらにその術の腕は大人の妖怪達に比べても全く見劣りしないなど、まさに絵に描いたような「優等生」である。
「ほらもう１回読み直して、暗記だけするんじゃなくて意味も理解して･･･」
そして出来の悪い者を見ているのは我慢がならないというのも、カエデの大きな特徴であった。勉強嫌いの悪戯好きたるヤマトは、そんなカエデの関心を一手に引き受けるのに最適の資質を備えていたのだ。
「にしてもあっついなー･･･喉が渇いちゃったよ」
ヤマトが鉛筆を置き、チラチラと横目でカエデを見ながら呟いた。これ以上ないというほどに人を疑う彼女の表情が彼の目に映る。飲み物を取りに行くフリをして逃げ出す。あるいはカエデが取りに行っている間に逃げる。ヤマトの浅はかな企みを、カエデが見抜けぬはずもない。かといって、夏も本番を迎えながら冷房もついていないような部屋にヤマトを閉じ込めているのも事実である。
「･･･まったく」
カエデは自分の表情を伺う目をしかと睨みつけ、一応は釘を差してからヤマトの部屋を出て麦茶を取りに行く。もちろん、そんな釘などいともたやすく抜いてしまうのがヤマトである。カエデが階段を降り、また戻り始めるのを確認すると、窓を開けて一番近い木の枝に飛び移る、そこから幹を伝ってスルスルと地面へ着地。ヤマトはものの数秒で自分を戒めていた勉強道具にしばしの別れを告げることに成功した。ヤマトは靴を取りに玄関へ戻る。カエデは今頃もぬけの殻となった部屋で、窓の外を必死で探しているに違いない、すくなくとも玄関に戻るのは安全のはずだ。その目論見通りに事は進み、ヤマトは悠々と友達の家へ向けて走り出した。
「もう、やっぱり！」
持ってきた麦茶を乱暴に机に置きながら、カエデは開けっ放しの窓から飛び立った。自慢の黒い翼を大きく羽ばたき、一気に高度をあげてヤマトを探す。こんなときにヤマトが向かう先は何時だって同じだ。公園か、一番近い友達の家。でも今日は真っ直ぐ家に帰って、遊ぶ約束なんかしていない。ということは、ヤマトが公園に向かう理由はない。そう判断したカエデは友達の家への一番の近道を徹底的に探し始めた。たとえヤマトの足が世界一速くても、空を飛ぶ烏天狗から走って逃げ切れるはずもない。カエデはすぐさまヤマトを見つけ、その場所をめがけて急降下する。
「ヤマト！！」
「げっ」
ヤマトが驚き振り向いたことで動きが止まる。カエデはそのチャンスを逃すことなくあっという間にヤマトの両肩を鉤爪でしっかりと掴んで再び空に舞い上がった。もう逃げられはしない、ヤマトの逃走劇はものの三分であっけなく終幕を迎え、それから二度とカエデの目を盗むことは叶わなかった。
数日後、試験が終了しようやくヤマトがカエデから解放される日が訪れた。ヤマトは村に程近い山の中で友人達と釣りに興じるところだった。エサは先ほど競って捕まえた虫が数匹。その中からヤマトは一際大きなバッタを取り出し自慢げに見せびらかす。ミミズやイモムシなどを手に持った者はヤマトに思わず羨望の眼差しを向けていた。
「どうだ見ろ。エサがこれだけでかけりゃ、とんでもない大物がかかるに決まってる！」
ヤマトは釣り針にバッタを刺して意気揚々と釣り糸を垂らし、友人達もそれに続く。それから数分後、ミミズをエサにした友人が最も早く1匹目を釣り上げた。かかったのは十数センチ程の小魚だった。ヤマトは自分が最初に釣れなかったことに少し悔しがりながらも、自ら捕まえたバッタの大きさを信じ浮きを眺め続ける。あんな魚なんか笑っちゃうぐらいのが釣れるはずだ。更に数分後、イモムシをエサにした友人が同じぐらいの魚を釣り上げた。ヤマトの心に焦りが生まれる。釣りを始めてはや数十分、ヤマト以外は捕まえたエサが無くなるまでの釣果をあげたというのに、ヤマトの浮きは微動だにしていなかった。そしてヒグラシが日没を伝えるのを合図に友人達は一人また一人と帰路につき、遂に川のほとりにはヤマトだけが残された。
「あ、ヤマト！こんな時間まで何やってるの！」
そんなヤマトを、村へのおつかいを済ませ時間通りに山に帰ってきたカエデが見つけた。
「見りゃわかるだろ、釣りだ釣り！」
「日が暮れるまで山にいちゃダメだって言われてるじゃない、今日はもうやめなさいよ」
「うっせー、お前だって山にいるじゃねえか」
「烏天狗はこの山に住んでるの！私も夜は外に出たりしないんだから、ヤマトも同じでしょ」
口喧嘩でヤマトがカエデを言い負かしたことなど一度も無い。ヤマトが少しでも規則や言いつけを破れば、いつだってカエデは素早く駆けつけて（あるいは飛んできて）ヤマトを激しく叱るのだ。烏天狗は不思議な力を使えるらしいが、それは千里眼や地獄耳のことに違いないと、ヤマトは常日頃から思っていた。ともあれ、カエデに見つかった以上釣りを続けられはしない。ずっと浮きを眺め続ける根気を一気に砕かれたヤマトは、何の成果も得られぬままに帰らざるを得なかった。
カエデは不機嫌そうに立ち去るヤマトの背中を見て、頭の中にいつもの疑問を浮かべていた。勉強も宿題も全然しないで、今日みたいに釣りをしたり虫取りをしたり、ヤマトはいつも遊んでばかり。悪戯を仕掛けるなんて日常茶飯事で、その度に怒られているのに、なんでやめようとしないんだろう。カエデは誰にどれほど叱られようと一切聞く耳を持たないヤマトが不思議で仕方なかった。大人の言うことを聞くなんて微塵も思ってないんだろうか。そんな事を考えながらふと下を見ると、カエデはなにやら紙切れが落ちているのを見つけた。
「なんだろ･･･？」
ヤマトが落としていったものだろうか。カエデはそれを拾い、広げてみて驚いた。紙に描かれているのは方角を示すような記号と無数の点、さらにその点同士を繋ぐ何本もの線、そしていくつかの点の側にある名前らしき文字だった。カエデは初め地図の類かと思ったが、書かれた名前を見て再び驚愕する。
「デネブ、ベガ、アルタイル･･･星の名前だ。紙に星の地図が書いてある！」
カエデはハッとして辺りを見回す。ヤマトがいない。落としたことに気付かないまま帰ってしまったのだ。カエデは紙切れを懐にしまいあわてて飛び立ち、木々の合間を縫ってヤマトを探し出す。まだ山を出てはいないはずだ、でも日が暮れてしまったらもう見つけることは出来ない。
「ヤマトーーッ！」
叫ぶと同時に、カエデの目が大声に驚くヤマトを捕らえた。カエデはヤマトの目の前に華麗に着地する。
「よかった、間に合った･･･」
「なんだよ。も、もう釣りなんかしてないぞ！」
「あ、違うの！これ落ちてたけど、ヤマトのじゃないかなって」
カエデは拾った紙切れをヤマトに見せた。
「うおっ、あっぶねー！これなくしたら父ちゃんがどんなに怒るか･･･」
カエデはまたも驚いた。あのヤマトが怒られるのを恐れているなんて初めてだ、彼の父親とはどんなに恐ろしい人物なのだろうか。しかしそんなことよりも、カエデが気になったのはヤマトが落とした紙切れの内容だった。
「それ、なんなの？星の名前がいっぱい書かれてるけど･･･」
「え？ああ、星図っていってさ、どこにどんな星があるのか全部分かるんだってさ！オレの父ちゃんがくれたんだ。いつもこれで星を探して、あれはこういう星だって話をしてくれて」
「ふーん、ヤマトお父さんって星に詳しいの？」
「うん、なんか天文学者･･･？とかいうのらしいぞ」
「て、天文学者！？ヤマトのお父さんって学者さんなの！？」
「そうだ、結構偉いんだぞ。どれくらい偉いかって言ったら･･･えーと、なんか雑誌に載ったぞって言ってたな。よくわかんねーや」
「･･･それなのにヤマトはあんなに算数が苦手なの･･･？」
「うるせーな！星と算数と何の関係があんだよ！ああもう、オレは帰るからな」
そう言うとヤマトは踵を帰し、やはり不機嫌な様子で山を降りていった。それを見届けたカエデはなんとなく空を見上げる。今にも沈みそうな太陽によって、紅色に染まっていた。
「カエデ、早く寝なさい。明日も早いんだから」
「はい、お母さん」
玄関の外で空を見上げていたカエデを母が呼んだ。カエデは家に入り、寝間着に着替えて布団に入り込む。いつもならば自然に眠気が湧き出し、そのまま眠りに落ちていくのだが、今日は毛色が違った。頭の中から、あの星図のことが離れない。カエデは布団から出て窓を開け、また空を眺め始めた。夜空をこんなにも見つめるのは、カエデは初めてだった。あの星は名前はなんだろう、どんな星なんだろう、･･･ヤマトはいつもお父さんからどんなことを聞いているのだろう。もっと星を見たい。そういえば、夜の空なんて飛んだことがない。いつも早く寝てしまうし、飛びたいといっても、きっとお母さんは許してくれない。お父さんは･･･多分ちょっとだけならいいよって言ってくれるけど、お母さんに見つかったら二人とも怒られるんだろう。
「･･･でも飛びたい、飛んでみたい」
頭の中の言葉が思わずカエデの口をついて出る。気がつけば、窓の枠に足の鉤爪を引っ掛けているところだった。カエデは自分の鼓動がこれまでに無いほど強くなっていくのを感じた。今なら飛んで行けるかもしれない。でも、バレるかもしれない。バレたらヤマトのようにひどく怒られるのだろう。でも･･･バレないかもしれない。カエデはごくりと唾を飲み込み、窓から身を引いて寝室を出た。足音の鳴りやすい自分の鉤爪を初めて恨みながら、カエデは忍び足で両親の寝室に聞き耳を立てる。なんの音もしなかった、静かそのものだった。二人とも寝静まったに違いない。カエデは再び忍び足で寝室に戻り、意を決してまだ見ぬ夜空へ想いを馳せつつ、自慢の黒い翼を力いっぱい広げた。
「何だよ･･･今日に限って静かにしようだなんて･･･思いっきり突かれるの好きなのに」
「かわいい子には旅をさせよ、ってね」
「？ 意味がわから･･･ッ！こら･･･あっ･･･そんな、んっ♥、お･･･くに･･･ッ♥」
「星･･･星だ！すごい！星がこんなに！」
夜空を飛びつつ、カエデは湧き上がる興奮のまま天に叫ぶ。宝石をちりばめたような空を、カエデは縦横無尽、自由自在に往来した。夏の夜の風を切り、きらめく星々にその身を投じる。星を掴まん勢いで。しかし、どれだけ速く、どれだけ高く飛んでも、星に届くことは叶わない。カエデは自分がとてつもなくちっぽけな存在に思え、そして、それがたまらなく心地よかった。どれがベガ、どれがアルタイルかなんて、もうどうでもよかった。この数え切れない光の一つ一つに名前を付けようなんてこと自体が愚かしく感じた。一際高く飛び、カエデは地上を見下ろす。いつもは太陽の光で輝く池も、今はただ静かに闇を抱いている。しかし、カエデはその闇の中にぼんやりと光る点を見つけた。そしてその光は瞬き、動いているようだった。もしかして、自分は星を越えてしまったのではと、カエデは一瞬錯覚した。そんなことはありえない、それに、光る強さも星に比べてずっと弱い。だが幻などではない、確かに見える。カエデはその光の正体を確かめるべく、好奇心のまま池へ向けて急降下し、池のほとりに降り立った。
「うわあ！なんだなんだ！？」
カエデが着地すると同時に悲鳴が辺りに響き渡った。カエデは声の主と同じぐらい驚いた。まさか人がいるなんて。どうしよう、こんな夜中に出歩いてると知れたら、絶対に怒られてしまう。･･･どうしようもないか、言い訳は何も思いつかない。私は怒られて、それで全て終わり。カエデは覚悟を決め、声の主が自分を見つけるのを待った。しかし、声の主はカエデが恐れるような者では断じてなかった。
「あれ･･･？お前カエデじゃん！こんなとこでなにしてんだよ」
ましてカエデを怒るなど天地がひっくり返ろうとありはしない。天駆ヤマト、村の新参者にして、村一番の悪ガキである。
「ヤ、ヤマト･･･？」
「なんだ、お前もホタル捕まえにきたのか？」
「えっ･･･ホタルって、光る虫だよね？」
「見りゃわかんだろ･･･他に光る虫がいるかよ」
カエデは池を見て、自分の目を疑った。星よりもずっと弱いあの光る点が、池の上をゆらゆらと漂っている。まるで好奇心から地上に降りてきた星が、辺りを見て回っているかのようだった。
「ホタルって、本当に光るんだ･･･」
「まさか、見たことねーのか？」
「うん。光ることは図鑑で知ってるけど、本物は見たこと無いんだ」
「ああ、お前夜は外に出ないって･･･」
そのとき、ヤマトは目の前に立っている者が誰なのかを改めて理解した。
「出てるじゃねーかよ！」
ヤマトの言葉を聞いて、カエデはきょとんとして彼を見る。それからすぐに頬を緩ませ、ヤマトにしか聞こえないような声で
「･･･抜け出してきちゃった」
と呟いた。ヤマトは信じられないといった様子でカエデの顔を見つめる。あの頑固者のカエデが、あれだけ言われたのに夜の山をうろつく自分を咎めもせず、それどころかカエデ自身が夜中に出歩くとは、当然ながら思いもしなかった。
「お前ほんとにカエデか？オレを捕まえるために誰かが化けて―」
ヤマトがそこまで言いかけたとき、近くの茂みからガサリという音がした。二人はびくりと震えて茂みを見やる。次に足音、どうやらこちらへ近づいてくるようだ。続いて、恐ろしげなうなり声が聞えてくる。間違いない、腹を空かせた獣が近くにいる。
「く、熊か？狼か？」
「どっちでもいいわよ、動かないで！」
カエデは跳躍しヤマトの肩に飛び乗ると同時に、翼を広げて全力で羽ばたかせた。一瞬のうちに、カエデとヤマトは空へと舞い上がる。次の瞬間に茂みから飛び出た狼が、高度を上げる二人を恨めしそうに見上げていた。
「た、助かった･･･。ありがとう、カエデ」
「私もすっごくびっくりした･･･じゃあ降ろすね」
「あっ、ちょっと待った！」
ヤマトは降りようとするカエデを止めて、ポケットから一枚の紙を取り出した。それはカエデに眠れぬ夜を作った全ての元凶、ヤマトが父から貰った星図だった。
「あっ、それ･･･」
「せっかくだから持ってきたんだけど、村だと家が邪魔だし、山に入っても木が一杯で空なんか見えなくてさ･･･。でも今なら邪魔がなんにもないまま見れるだろ？だから頼む、もうちょっとだけ飛んでてくれねーか･･･！？」
そのヤマトの申し出はカエデにとってこの上なく素敵なものに思えた。見たくてたまらない。さっきは星の名前などどうでもよくなっていたが、いざ現物をこの星空のしたで取り出されれば、やはり見比べてみたくなる。しかし、ヤマトを掴んだこの状態では、それを覗き見ることは出来そうにない。
「いいけど、その･･･」
「あー、やっぱり疲れるよな。無理言ってごめん」
「いや、えっと、そうじゃなくて･･･私も見たい･･･」
「じゃあ･･･あの木に降りよう！ここら辺で一番高いだろ」
「･･･うん！」
カエデはヤマトが指差した木に向けて飛び、その天辺にヤマトを下ろし、自分は近くの枝に止まった。ヤマトは星図を広げ、夜空とそれをせわしなく見比べている。カエデはヤマトの隣からそっと覗き込み、大体の位置を頭に入れてから天を仰いだ。あれはデネブ、あれは･･･アンタレスだろうか。一際明るい星はすぐに見つけられたが、それ以外となると意外と苦戦した。星座にいたってはどれがどれだかさっぱり分からない。
「なんか、よく分かんないね。でもこの三角は･･･ほら、あれじゃない？」
「ほんとだ、あの三つだけすっげー明るい」
二人は最も明るい三つの星を繋げた三角形を、しばらく眺めていた。真上に上った月が木の上の二人を照らし出し、夏の夜の涼しい風が木々の香りを運んでいた。そしてすっかり忘れていた眠気が徐々に蘇り、楽しい時間に終わりが近いことを知らせている。
「わっ」
「あぶない！」
カエデが大きなあくびをして危うく木から落ちそうになるのを、ヤマトが間一髪で捕まえた。そのあとすぐに、木から落ちるなどカエデにとっては大した問題ではないことに気付き、二人で笑う。
「眠くなってきちゃった、もう真夜中だよね･･･」
「オレも。そろそろ帰ろうかな」
ヤマトは星図をしまい、以前カエデから逃げ出したときのように幹を伝って木を滑り降りる。この木がどれだけ高かろうとヤマトにとっては庭先の木と対して変わりはしなかった。カエデはヤマトが無事に地上に降り、村へと走り去るのを確認すると、自分もまた夜空へと飛び立った。家に向かうと、丁度目の前に天の川が見えた。ああ、楽しかった。本当に楽しかった。カエデは天の川に向かって微笑むと、家に向かって加速する。あっという間に到着し、寝室の窓をくぐりぬけて布団に入る。すると、もう足先すら動けないほど疲れたことに気がつき、そしてまもなく深い眠りに誘われた。
次の日、退屈な授業を終えたヤマトは一直線に家に向かっていた。今日こそあの川で一番でかい魚を釣り上げてやると息巻き、部屋に鞄を放り投げて釣竿だけを握って家を飛び出すと、玄関先に王立ちになっていたカエデにぶつかりそうになる。
「うわっ、なんだよカエデ！」
カエデはじっとヤマトを見つめると、期待に満ちた眼差しを宿し、満面の笑顔を浮かべながら口を開いた。
「･･･昨夜、楽しかったね」
「え？ああ、まーな」
ヤマトは少し後ずさる、今になって自分を咎めに来たのだろうか。カエデも共にいたのは確かだが、それでも夜の山に入ったのは事実、何を言われるか分からない。カエデはそんなヤマトなど気にもせず、彼に駆け寄ってそのの耳元で囁く。
「だからさ･･･また行こう？」
「は？」
それだけ言うとカエデは飛び立ち、呆気にとられた様子のヤマトを尻目に二人で共に冒険した山の方へ消えていった。自宅へ飛びながら、カエデは自分が飛ぶこの空が再び星空になることを想像する。今度はヤマトも一緒がいい、二人一緒に思う存分飛び回ろう。そんなことを考えると、カエデはまた胸の高鳴りを感じた。だが部屋を抜け出すとき感じたものとは何かが違うようだ。真夜中の冒険の陰に隠れたこの気持ちをカエデが理解するのは、もう少し後の話である。
16/06/19 11:48更新 / fvo