偶像の休日
ガンダルヴァのラーガは数多くの同種の中でも名の知れた存在であった。
ガンダルヴァと呼ばれる魔物は全ての者が楽師としての才能を生まれ持ち、地方の祭りや祝い事などに呼ばれてはその実力を遺憾なく発揮し、人魔問わず数多くを魅了してきた種族である。
その中でもラーガの演奏は群を抜いて素晴らしく、またある特徴を持っていた。
彼女の作品はどちらかといえば、他の仲間がやっているような情熱的で激しい曲調ではなく、癒しや穏やかさを主体としていたのだ。しかし、どの魔物より愛に近いガンダルヴァのその演奏は、直接的に働きかけるよりもむしろ、切なく堪えきれないような愛情を聴衆の心に引き起こした。
一度聞けば二度と忘れることが叶わぬラーガの音色は、行商人の噂によって広められ、それが所以で彼女の人気は故郷だけでは留まらず、噂を聞きつけた世界各地の王族や貴族から召喚されては、例外なく最高の評価を受けていた。
ラーガは今、西洋のとある小国での公演を終えたばかりだった。無論彼女が大取を飾ったのだが、彼女に向けての拍手はただの一つも起らなかった。
演奏を聴いた観客たちは、皆そんなことなどお構い無しにただ愛する者とのひとときを求め、そそくさと立ち去ってしまったのだ。常識的に考えれば失礼極まりないのだが、ラーガはその様子を見るのが拍手よりも嬉しかった。
ラーガは挨拶も適当にすませ、演奏会の会場を後にした。太陽はとうに地平線にその姿を沈めた後であり、空には昼の王の後釜を継ぐように月が煌き、侍女ともいえる星々がその周りを飾っている。
この見飽きることのない情景の中に翼を広げて飛び込むのも決して嫌いではないのだが、ラーガは今日は歩きたい気分だった。たまには内からではなく、下からの眺めも楽しみたかったのだ。
天を仰ぎながら夜道を進んでいくと、彼女の腹の虫が空腹を訴えかけた。その音でふと、ラーガは公演の準備に妨げられて昼から何も食べていないことを思い出した。既に時は夕飯時を過ぎている、虫の悲鳴も無理からぬことであった。
ラーガは夜空を楽しむのも程ほどにして近場の飲食店を探し始めた。繁華街を抜けているせいか生憎それらしきものは見当たらなかったが、幸いにも屋台の明かりが彼女の目に飛び込んだ。こんな場所にあるのも珍しいとも考えつつ、これ幸いと彼女はその椅子に腰を落ち着けた。
屋台には先客がいた。髪は夜よりも深い闇色で、横顔でしか確認できないがその眼も同じ色に染まっている。顔立ちは東洋人のそれで、服装はここの地域では見られない独特のものだった。
仕事柄多くの国を飛び回ったラーガは一目で彼がどこの生まれなのかを見抜くことができた。
「やあ、ジパングの人かい？」
先客の男はラーガの声を聞いて彼女のほうを振り向いた。やや陰鬱な表情をしており、よく見てみるといかにもな優男であった。
「あの国の人が国外に出るなんて珍しいねえ、しかもこんな遠出だなんて」
ラーガは男の返答を待たずにまくし立てた。男の陰鬱な表情に僅かに困惑の色が浮かび上がった。
「いつ頃ここへ着いたんだい？」
「何の質問です。ここはよそ者がうろつくような場所ではないとでも？」
男の言葉にラーガは少し反省した。馴れ馴れしく話しすぎたようだ、しかも彼自身はそこまで話好きでもないらしい。
「いやぁ、そんなつもりじゃないんだがねぇ。そもそも私だってここの者じゃないさ」
男はラーガから手元の杯に視線を移し、やはり陰鬱な声色で独り言のように答える。
「四ヶ月です」
その返答にラーガは少しばかり驚愕した。
「へえ、じゃあこっちに移ってきたのか。少しは暮らしになれた？」
「いいえ、ただの旅行です」
ラーガは今度は飲んでいた酒を噴出しそうになった。
「そりゃあまた随分な大旅行だねぇ。食い扶持はどうしてるんだ？」
「ご心配なく」
男は素っ気無く返した。
「ふーん」
ラーガは男の構うなという意思が汲み取れぬほど愚かではない。しかし、それで納得して放置を決め込むほどあっさりとした性格でもなかった。それに彼女は魔物ガンダルヴァ、それも独身の魔物である。
「なああんた、あとどれくらいここにいるんだ？」
ラーガは質問を切り替えた。あわよくば男を自分の側に置こうとしたのである。
さらなる問いに男は迷惑そうにラーガを睨みつけた。それが精一杯の抵抗であったが、もちろん彼女には見て見ぬフリをされた。
俺のことは放っておけ。そんなことを言える度胸を持ち合わせてはおらず、咄嗟に嘘がつけるほど頭の回る者でもない男は、潔く正直にその問いに答えた。
「･･･特に決めてません」
それを聞いてラーガの目が輝いた。
「じゃあ少しアタシに付き合ってくれないか？」
「は･･･？」
男はまた根掘り葉掘りの質問攻めに遭うのだと思っていた。しかし、ラーガの言葉があまりに予想外すぎて、自然に素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。
「アタシは楽師をしていてね、いろんな国に呼ばれては祭事なんかで一曲演奏する。でもちょっと休業しようかと考えててね。別にどうかしたわけじゃない、どんな仕事にも休みは必要だろう？それでねえ、せっかく来たんだからここを観光でもしようかと思うんだ。でもアタシはちっともこの土地がなんなのかを知りゃしない。そこでだ、とりあえずアタシよりは長居してるアンタに案内を頼もうってわけなんだが―」
男の不意を突くようにラーガはまくし立てた。先ほどまで見せなかったその饒舌ぶりに男は圧倒されつつ、彼女の話を頭の中で要約する。
「つまり観光案内をしろと･･･？」
「まあそういうことだ、･･･ダメかねぇ？」
旅行者に現地のガイドを頼むなど全く妙な話なのはラーガも理解していた。少々強引過ぎたかと後悔するが、それはすぐに彼女の心から消え失せた。
頼みごとをされれば断れないのが、この男の特徴の一つだったのだ。
「僕の知ってる場所でよければ･･･」
「本当？そりゃあよかった！･･･おっと、お互い名前も知らなかったね。アタシはラーガってんだよ、ガンダルヴァのラーガ！」
「･･･左京、敬次郎」
「その名前、やっぱりジパングの人か。ああそうだ、アンタ恋人とかはいるのかい？」
「･･･････いいえ」
「ふーん、そうかい。まあいいや、それじゃあ明日この屋台で待ち合わせな！」
そう言うとラーガはまた天を仰ぎつつ夜の町に消えていった。
左京はラーガに自分の知りうる限りの案内をした。そもそも、とりいって観光名所などないこの国では、味のいい店やどこにでもあるような娯楽施設などを巡るほかに遊ぶ方法はあまり存在しない。それでもラーガは左京が導くその全てを全力で楽しんだ。地方特有の見たことも無い料理や、ひっそりと伝えられ続ける演劇などに、ラーガは心を奪われ続けた。その間、ラーガは自分のの楽器を肌身離さず持ち歩いていたが、まるで楽師であることを忘れそうなほどに彼女の楽器には指一本触れなかった。
左京にそのことを思い出させたのは町を行き交う見知らぬ者達だった。先の公演の観客がラーガを見つけ、素晴らしい、あのときは伝えられなかったが今思い出しても感動すると、往来の中で彼女を絶賛したのである。それからのことは思い出すだけでも疲れそうな勢いだった。ラーガに向けられた賛辞を聞きつけた人々は、あれがあの名高いラーガかと左京を含めた彼女の周りに群がり、次にその騒ぎを何事かと思った者が駆けつけ更にことを大きくする。騒ぎはそうやって連鎖反応的に大きくなり、遂に耐え切れなくなったラーガが左京を鷲掴みにして飛び去ることでようやく終結した。
ラーガは左京を掴んだまま彼女が宿泊してるホテルに窓から入り込んだ。左京を離し、自分はベッドに座りながら左京に向けて頭を下げた。左京はソファに座り、当惑した表情でラーガを見つめていた。
「本当に悪かった、アタシがわがまま言ったせいで･･･」
左京はラーガを非難するよりも前に、以前ラーガが行ったように彼女を質問責めにしたい衝動に駆られた。左京自身はラーガの名を知らないものの、今の事件で彼女がどのような立場にいるのかは容易に想像がついた。
「凄い有名人だったんですね」
「不本意ながらね」
ラーガはそう答えながら溜め息をついてベッドに寝転がった。それから暫く二人の間を沈黙が支配した。二人にはその時間が異様に長く感じられた。
そして、不意にラーガが起き上がった。
「アタシらガンダルヴァの代名詞、愛の旋律って知ってるかい？。これを聴いた奴は人でも魔物でも自分の好きな奴に無性に会いたくなる。今までアタシが聞かせてきた奴らも演奏が終わるとみんな我先にと愛する者のところへすっ飛んでいった。それはそれでアタシの腕が確かだって証明になるから嬉しいっちゃ嬉しいんだけどね。たださ･･･その気持ちがどんなものか、アタシはちっとも分からなくて。音楽が好きで、大好きで、ずっとそればかりに感けてたもんだから･･･分からなくて。」
変だよね、魔物のくせにと、ラーガは無理矢理笑顔を作りながら加えた。
「アンタに案内を頼んだのも半分はデート感覚だったんだ。何日が一緒にいて、それでこの曲を弾いて二人きりで聴いたら、もしかしたらそんな気持ちも分かるかもしれない･･･って」
ラーガはベッドから降りて左京の側に寄り添った。
「アンタ、せっかくの旅行だってのに、いつでもどこでも初めて会ったときの辛気臭い顔を変えなかった。薄々感付いてはいたんだ、でも言い出せなくて。･･･傷心旅行って奴だろ？･･･邪魔して、本当にすまなかった」
「違います」
左京はラーガと同じく俯いたまま、しかしはっきりとそう答えた。
「傷心旅行なんて大層なものじゃない。僕はただこの国に逃げてきただけです」
「に、逃げてきたって･･･何からさ？」
ラーガは目を丸くして驚いた。彼女は左京が何か面倒な事件に巻き込まれ、自分のみを守るためにジパングからはるばるこの小国に渡ったのかと思ったが、彼の言葉の意味する所は、そうではなかった。
「･･･僕はジパングで烏天狗に恋をしました。彼女は一言で言うなら強い人でした。日ごろから村のリーダー格として皆をまとめて、有事にはその統率力と的確な判断であらゆる事件を解決していました。彼女の考えに間違いがあったことなど一切ありません。僕も村人の一員として彼女の側にいました。彼女に頼まれたことは全て完璧に行いました。彼女もまた僕の能力を超えた仕事を頼んだりはしなかった。彼女は僕を含めて村人全員を完璧に把握していた。僕が仕事を終えて彼女に報告する度に彼女はそれを喜んでくれた。満面の笑顔で、本当に嬉しそうに。僕の人生で、それが最大の幸せだった。でもある日、僕はいきなり彼女に連れ去られた。山奥の彼女の家で、僕は突然彼女に告白された。
貴方が好きだ。ずっとこの気持ちを抑えていたが、もう限界だ。私には貴方が必要だ。私の伴侶になってくれ。と」
ラーガはますます当惑した。それで何故こんな縁遠い地まで旅立たねばならないのだろうか。
「あの時ほど彼女がか弱く見えたことはない。僕にはどうしてもそれが信じられなかった。あの彼女が僕に依存するなんて有り得ない。彼女はそんな弱い心など持っていないはずなのに。あの人は僕なんか足元にも及ばないぐらい強いはずなのに･･･。僕は矛盾に耐えられなくなった。だから、逃げ出したんだ。そして･･･」
その先を左京は続けることが出来なかった。ラーガが突然左京の頭を抱え込み、その唇を奪ったからだった。ラーガは数秒、舌を入れるでもなくただ左京のそれを食み続けた。
「な、何を･･･！？」
左京が隙を突いて抜け出すとラーガはそれを追おうともせずに真っ直ぐに左京を見つめた。
「一曲、聴いてくれないか？勝手にやっててもいいんだが、観客もいないんじゃあまりに寂しいし」
ラーガは左京にそう提案した。左京の返事を聞く前にラーガはソファに座り直し演奏の構えをとった。
左京と出会ってから触れることの無かった楽器をラーガが至極丁寧に弾き始めると、その翼腕からは信じられないような繊細な音楽が奏でられた。
左京には特に音楽を聞く趣味はない。しかし、それでも今この場で聞いているこの曲だけはいつまでも聞いていたいと、彼の耳にその旋律が入った途端にそう強く願うほどだった。音楽だけではない、心なしか辺りにはその曲調とは違う何か情熱を感じさせるような香りが漂っているようだった。左京は一瞬でこの音と香りの虜となった。彼の深い闇色の眼も最早機能せず、感覚はラーガから発せられる二つの幻想を捕らえることに全てを集中させた。
そしてふと、左京にとある変化が起こった。抑え難いとある感情が彼の心の隅から隅までを満たしてしまった。その感情はラーガへの限りない愛であった。左京は愛の旋律を奏でるガンダルヴァという状況に忠実に従い、目の前のラーガを狂おしいほどに欲していた。やがて限界が訪れて、左京はラーガを力任せにソファに押し倒した。
それを見るなりラーガは演奏をやめた。音楽が止まり辺りには既に発せられた香りのみが残された。静寂の中、それは目の前にあるラーガの身体と共に左京の感覚を著しく刺激し、思わずその衣服を剥ぎ取ろうとした。ラーガは抵抗しなかったが、しかし左京はすぐに我に返り、自分の浅ましさを恥じて顔を伏せた。
左京のその様子を見たラーガは微笑んでいた。
「アンタが本当にそのカラステングとやらを好きなら、この曲を聴いてアタシを押し倒すわけがない。今すぐにジパングに帰って土下座してでもカラステングに結婚を申し込むだろうよ。アンタのカラステングへの想いは恋でも愛でもなんでもない、ただの憧れだ」
ラーガはそう左京を諭すと、左京の下から抜け出してその側に立った。そしておもむろに服を脱ぎ始める。一枚一枚と邪魔者が取り除かれ露になっていく褐色の裸体から左京は目を逸らすことが出来ずにいた。ラーガは一糸纏わぬ姿になると左京を優しく抱き締めながらベッドへ歩み寄り、そのまま二人同時に倒れこんだ。
「･･･あいつらの気持ちが分かりそうな気がするよ。なあ敬次郎、どうだ･･･？敬次郎はアタシを見てどう感じてる？」
「ラーガさん、僕･･･今･･･ラーガさんが･･･」
「カラステングと、同じようにか？」
左京は首を横に振った。
「じゃあ、一緒に勉強しようか。恋愛ってのをさ」
公演が終わり、ラーガはいつもどおりさっさと会場を後にしようとすると、観客の一人に捕まった。
「いや〜やはり素晴らしい。世界中を探しても貴方のような楽師は二人と降りますまい。」
「だったら拍手の一つでもくれたらどうなんだい？」
「え？いや、あははは･･･。貴方の曲を聴きますとどうしても妻の顔が頭に浮かんできましてな。会いたくてたまらなくなるんすよ、不思議ですねぇ。ああもうこんな話をしてる時間も惜しい！愛しき我がレイア、今会いに行くぞ！」
そう言うと観客は一人で叫びながら走り去っていった。
「じゃあアタシなんか捕まえてんじゃないよ、こっちも最近は同じことになるってのに」
ラーガは文句をたれながら会場の裏口を出た。彼女の目的の人物はすぐそこにいる。夜よりも深い闇色の髪と眼をもった男を見つけると、ラーガは全速力で駆け出した。
ガンダルヴァと呼ばれる魔物は全ての者が楽師としての才能を生まれ持ち、地方の祭りや祝い事などに呼ばれてはその実力を遺憾なく発揮し、人魔問わず数多くを魅了してきた種族である。
その中でもラーガの演奏は群を抜いて素晴らしく、またある特徴を持っていた。
彼女の作品はどちらかといえば、他の仲間がやっているような情熱的で激しい曲調ではなく、癒しや穏やかさを主体としていたのだ。しかし、どの魔物より愛に近いガンダルヴァのその演奏は、直接的に働きかけるよりもむしろ、切なく堪えきれないような愛情を聴衆の心に引き起こした。
一度聞けば二度と忘れることが叶わぬラーガの音色は、行商人の噂によって広められ、それが所以で彼女の人気は故郷だけでは留まらず、噂を聞きつけた世界各地の王族や貴族から召喚されては、例外なく最高の評価を受けていた。
ラーガは今、西洋のとある小国での公演を終えたばかりだった。無論彼女が大取を飾ったのだが、彼女に向けての拍手はただの一つも起らなかった。
演奏を聴いた観客たちは、皆そんなことなどお構い無しにただ愛する者とのひとときを求め、そそくさと立ち去ってしまったのだ。常識的に考えれば失礼極まりないのだが、ラーガはその様子を見るのが拍手よりも嬉しかった。
ラーガは挨拶も適当にすませ、演奏会の会場を後にした。太陽はとうに地平線にその姿を沈めた後であり、空には昼の王の後釜を継ぐように月が煌き、侍女ともいえる星々がその周りを飾っている。
この見飽きることのない情景の中に翼を広げて飛び込むのも決して嫌いではないのだが、ラーガは今日は歩きたい気分だった。たまには内からではなく、下からの眺めも楽しみたかったのだ。
天を仰ぎながら夜道を進んでいくと、彼女の腹の虫が空腹を訴えかけた。その音でふと、ラーガは公演の準備に妨げられて昼から何も食べていないことを思い出した。既に時は夕飯時を過ぎている、虫の悲鳴も無理からぬことであった。
ラーガは夜空を楽しむのも程ほどにして近場の飲食店を探し始めた。繁華街を抜けているせいか生憎それらしきものは見当たらなかったが、幸いにも屋台の明かりが彼女の目に飛び込んだ。こんな場所にあるのも珍しいとも考えつつ、これ幸いと彼女はその椅子に腰を落ち着けた。
屋台には先客がいた。髪は夜よりも深い闇色で、横顔でしか確認できないがその眼も同じ色に染まっている。顔立ちは東洋人のそれで、服装はここの地域では見られない独特のものだった。
仕事柄多くの国を飛び回ったラーガは一目で彼がどこの生まれなのかを見抜くことができた。
「やあ、ジパングの人かい？」
先客の男はラーガの声を聞いて彼女のほうを振り向いた。やや陰鬱な表情をしており、よく見てみるといかにもな優男であった。
「あの国の人が国外に出るなんて珍しいねえ、しかもこんな遠出だなんて」
ラーガは男の返答を待たずにまくし立てた。男の陰鬱な表情に僅かに困惑の色が浮かび上がった。
「いつ頃ここへ着いたんだい？」
「何の質問です。ここはよそ者がうろつくような場所ではないとでも？」
男の言葉にラーガは少し反省した。馴れ馴れしく話しすぎたようだ、しかも彼自身はそこまで話好きでもないらしい。
「いやぁ、そんなつもりじゃないんだがねぇ。そもそも私だってここの者じゃないさ」
男はラーガから手元の杯に視線を移し、やはり陰鬱な声色で独り言のように答える。
「四ヶ月です」
その返答にラーガは少しばかり驚愕した。
「へえ、じゃあこっちに移ってきたのか。少しは暮らしになれた？」
「いいえ、ただの旅行です」
ラーガは今度は飲んでいた酒を噴出しそうになった。
「そりゃあまた随分な大旅行だねぇ。食い扶持はどうしてるんだ？」
「ご心配なく」
男は素っ気無く返した。
「ふーん」
ラーガは男の構うなという意思が汲み取れぬほど愚かではない。しかし、それで納得して放置を決め込むほどあっさりとした性格でもなかった。それに彼女は魔物ガンダルヴァ、それも独身の魔物である。
「なああんた、あとどれくらいここにいるんだ？」
ラーガは質問を切り替えた。あわよくば男を自分の側に置こうとしたのである。
さらなる問いに男は迷惑そうにラーガを睨みつけた。それが精一杯の抵抗であったが、もちろん彼女には見て見ぬフリをされた。
俺のことは放っておけ。そんなことを言える度胸を持ち合わせてはおらず、咄嗟に嘘がつけるほど頭の回る者でもない男は、潔く正直にその問いに答えた。
「･･･特に決めてません」
それを聞いてラーガの目が輝いた。
「じゃあ少しアタシに付き合ってくれないか？」
「は･･･？」
男はまた根掘り葉掘りの質問攻めに遭うのだと思っていた。しかし、ラーガの言葉があまりに予想外すぎて、自然に素っ頓狂な声が漏れ出てしまった。
「アタシは楽師をしていてね、いろんな国に呼ばれては祭事なんかで一曲演奏する。でもちょっと休業しようかと考えててね。別にどうかしたわけじゃない、どんな仕事にも休みは必要だろう？それでねえ、せっかく来たんだからここを観光でもしようかと思うんだ。でもアタシはちっともこの土地がなんなのかを知りゃしない。そこでだ、とりあえずアタシよりは長居してるアンタに案内を頼もうってわけなんだが―」
男の不意を突くようにラーガはまくし立てた。先ほどまで見せなかったその饒舌ぶりに男は圧倒されつつ、彼女の話を頭の中で要約する。
「つまり観光案内をしろと･･･？」
「まあそういうことだ、･･･ダメかねぇ？」
旅行者に現地のガイドを頼むなど全く妙な話なのはラーガも理解していた。少々強引過ぎたかと後悔するが、それはすぐに彼女の心から消え失せた。
頼みごとをされれば断れないのが、この男の特徴の一つだったのだ。
「僕の知ってる場所でよければ･･･」
「本当？そりゃあよかった！･･･おっと、お互い名前も知らなかったね。アタシはラーガってんだよ、ガンダルヴァのラーガ！」
「･･･左京、敬次郎」
「その名前、やっぱりジパングの人か。ああそうだ、アンタ恋人とかはいるのかい？」
「･･･････いいえ」
「ふーん、そうかい。まあいいや、それじゃあ明日この屋台で待ち合わせな！」
そう言うとラーガはまた天を仰ぎつつ夜の町に消えていった。
左京はラーガに自分の知りうる限りの案内をした。そもそも、とりいって観光名所などないこの国では、味のいい店やどこにでもあるような娯楽施設などを巡るほかに遊ぶ方法はあまり存在しない。それでもラーガは左京が導くその全てを全力で楽しんだ。地方特有の見たことも無い料理や、ひっそりと伝えられ続ける演劇などに、ラーガは心を奪われ続けた。その間、ラーガは自分のの楽器を肌身離さず持ち歩いていたが、まるで楽師であることを忘れそうなほどに彼女の楽器には指一本触れなかった。
左京にそのことを思い出させたのは町を行き交う見知らぬ者達だった。先の公演の観客がラーガを見つけ、素晴らしい、あのときは伝えられなかったが今思い出しても感動すると、往来の中で彼女を絶賛したのである。それからのことは思い出すだけでも疲れそうな勢いだった。ラーガに向けられた賛辞を聞きつけた人々は、あれがあの名高いラーガかと左京を含めた彼女の周りに群がり、次にその騒ぎを何事かと思った者が駆けつけ更にことを大きくする。騒ぎはそうやって連鎖反応的に大きくなり、遂に耐え切れなくなったラーガが左京を鷲掴みにして飛び去ることでようやく終結した。
ラーガは左京を掴んだまま彼女が宿泊してるホテルに窓から入り込んだ。左京を離し、自分はベッドに座りながら左京に向けて頭を下げた。左京はソファに座り、当惑した表情でラーガを見つめていた。
「本当に悪かった、アタシがわがまま言ったせいで･･･」
左京はラーガを非難するよりも前に、以前ラーガが行ったように彼女を質問責めにしたい衝動に駆られた。左京自身はラーガの名を知らないものの、今の事件で彼女がどのような立場にいるのかは容易に想像がついた。
「凄い有名人だったんですね」
「不本意ながらね」
ラーガはそう答えながら溜め息をついてベッドに寝転がった。それから暫く二人の間を沈黙が支配した。二人にはその時間が異様に長く感じられた。
そして、不意にラーガが起き上がった。
「アタシらガンダルヴァの代名詞、愛の旋律って知ってるかい？。これを聴いた奴は人でも魔物でも自分の好きな奴に無性に会いたくなる。今までアタシが聞かせてきた奴らも演奏が終わるとみんな我先にと愛する者のところへすっ飛んでいった。それはそれでアタシの腕が確かだって証明になるから嬉しいっちゃ嬉しいんだけどね。たださ･･･その気持ちがどんなものか、アタシはちっとも分からなくて。音楽が好きで、大好きで、ずっとそればかりに感けてたもんだから･･･分からなくて。」
変だよね、魔物のくせにと、ラーガは無理矢理笑顔を作りながら加えた。
「アンタに案内を頼んだのも半分はデート感覚だったんだ。何日が一緒にいて、それでこの曲を弾いて二人きりで聴いたら、もしかしたらそんな気持ちも分かるかもしれない･･･って」
ラーガはベッドから降りて左京の側に寄り添った。
「アンタ、せっかくの旅行だってのに、いつでもどこでも初めて会ったときの辛気臭い顔を変えなかった。薄々感付いてはいたんだ、でも言い出せなくて。･･･傷心旅行って奴だろ？･･･邪魔して、本当にすまなかった」
「違います」
左京はラーガと同じく俯いたまま、しかしはっきりとそう答えた。
「傷心旅行なんて大層なものじゃない。僕はただこの国に逃げてきただけです」
「に、逃げてきたって･･･何からさ？」
ラーガは目を丸くして驚いた。彼女は左京が何か面倒な事件に巻き込まれ、自分のみを守るためにジパングからはるばるこの小国に渡ったのかと思ったが、彼の言葉の意味する所は、そうではなかった。
「･･･僕はジパングで烏天狗に恋をしました。彼女は一言で言うなら強い人でした。日ごろから村のリーダー格として皆をまとめて、有事にはその統率力と的確な判断であらゆる事件を解決していました。彼女の考えに間違いがあったことなど一切ありません。僕も村人の一員として彼女の側にいました。彼女に頼まれたことは全て完璧に行いました。彼女もまた僕の能力を超えた仕事を頼んだりはしなかった。彼女は僕を含めて村人全員を完璧に把握していた。僕が仕事を終えて彼女に報告する度に彼女はそれを喜んでくれた。満面の笑顔で、本当に嬉しそうに。僕の人生で、それが最大の幸せだった。でもある日、僕はいきなり彼女に連れ去られた。山奥の彼女の家で、僕は突然彼女に告白された。
貴方が好きだ。ずっとこの気持ちを抑えていたが、もう限界だ。私には貴方が必要だ。私の伴侶になってくれ。と」
ラーガはますます当惑した。それで何故こんな縁遠い地まで旅立たねばならないのだろうか。
「あの時ほど彼女がか弱く見えたことはない。僕にはどうしてもそれが信じられなかった。あの彼女が僕に依存するなんて有り得ない。彼女はそんな弱い心など持っていないはずなのに。あの人は僕なんか足元にも及ばないぐらい強いはずなのに･･･。僕は矛盾に耐えられなくなった。だから、逃げ出したんだ。そして･･･」
その先を左京は続けることが出来なかった。ラーガが突然左京の頭を抱え込み、その唇を奪ったからだった。ラーガは数秒、舌を入れるでもなくただ左京のそれを食み続けた。
「な、何を･･･！？」
左京が隙を突いて抜け出すとラーガはそれを追おうともせずに真っ直ぐに左京を見つめた。
「一曲、聴いてくれないか？勝手にやっててもいいんだが、観客もいないんじゃあまりに寂しいし」
ラーガは左京にそう提案した。左京の返事を聞く前にラーガはソファに座り直し演奏の構えをとった。
左京と出会ってから触れることの無かった楽器をラーガが至極丁寧に弾き始めると、その翼腕からは信じられないような繊細な音楽が奏でられた。
左京には特に音楽を聞く趣味はない。しかし、それでも今この場で聞いているこの曲だけはいつまでも聞いていたいと、彼の耳にその旋律が入った途端にそう強く願うほどだった。音楽だけではない、心なしか辺りにはその曲調とは違う何か情熱を感じさせるような香りが漂っているようだった。左京は一瞬でこの音と香りの虜となった。彼の深い闇色の眼も最早機能せず、感覚はラーガから発せられる二つの幻想を捕らえることに全てを集中させた。
そしてふと、左京にとある変化が起こった。抑え難いとある感情が彼の心の隅から隅までを満たしてしまった。その感情はラーガへの限りない愛であった。左京は愛の旋律を奏でるガンダルヴァという状況に忠実に従い、目の前のラーガを狂おしいほどに欲していた。やがて限界が訪れて、左京はラーガを力任せにソファに押し倒した。
それを見るなりラーガは演奏をやめた。音楽が止まり辺りには既に発せられた香りのみが残された。静寂の中、それは目の前にあるラーガの身体と共に左京の感覚を著しく刺激し、思わずその衣服を剥ぎ取ろうとした。ラーガは抵抗しなかったが、しかし左京はすぐに我に返り、自分の浅ましさを恥じて顔を伏せた。
左京のその様子を見たラーガは微笑んでいた。
「アンタが本当にそのカラステングとやらを好きなら、この曲を聴いてアタシを押し倒すわけがない。今すぐにジパングに帰って土下座してでもカラステングに結婚を申し込むだろうよ。アンタのカラステングへの想いは恋でも愛でもなんでもない、ただの憧れだ」
ラーガはそう左京を諭すと、左京の下から抜け出してその側に立った。そしておもむろに服を脱ぎ始める。一枚一枚と邪魔者が取り除かれ露になっていく褐色の裸体から左京は目を逸らすことが出来ずにいた。ラーガは一糸纏わぬ姿になると左京を優しく抱き締めながらベッドへ歩み寄り、そのまま二人同時に倒れこんだ。
「･･･あいつらの気持ちが分かりそうな気がするよ。なあ敬次郎、どうだ･･･？敬次郎はアタシを見てどう感じてる？」
「ラーガさん、僕･･･今･･･ラーガさんが･･･」
「カラステングと、同じようにか？」
左京は首を横に振った。
「じゃあ、一緒に勉強しようか。恋愛ってのをさ」
公演が終わり、ラーガはいつもどおりさっさと会場を後にしようとすると、観客の一人に捕まった。
「いや〜やはり素晴らしい。世界中を探しても貴方のような楽師は二人と降りますまい。」
「だったら拍手の一つでもくれたらどうなんだい？」
「え？いや、あははは･･･。貴方の曲を聴きますとどうしても妻の顔が頭に浮かんできましてな。会いたくてたまらなくなるんすよ、不思議ですねぇ。ああもうこんな話をしてる時間も惜しい！愛しき我がレイア、今会いに行くぞ！」
そう言うと観客は一人で叫びながら走り去っていった。
「じゃあアタシなんか捕まえてんじゃないよ、こっちも最近は同じことになるってのに」
ラーガは文句をたれながら会場の裏口を出た。彼女の目的の人物はすぐそこにいる。夜よりも深い闇色の髪と眼をもった男を見つけると、ラーガは全速力で駆け出した。
15/02/08 16:12更新 / fvo