過去の罪
「……ん、ここ、は……」
ここは死後の世界だろうか。
真っ暗で何も視界に写らない。そして驚くほど静寂に包まれており外気はひんやりとしている。あの気持ち悪いグリドリーの気配すらしない。
カティアは寝そべりながらそう思っていた。
長い長い意識の喪失の後、次に意識を取り戻すと彼女は完全な暗黒に包まれていた。それは彼女の視点からしてみれば、の話であるが。
「あれ、何か顔に」
未だに痛む絞めつけられた首を押さえつつ、彼女はがばっ、と上半身を起き上がらせると一枚の上着が膝の辺りに落ちるのが見えた。それは大人用のコートにしてはサイズが二周りぐらいも大きなものだ。若干湿っていることから水に濡れているのだろう。
コートにより顔面を覆い隠されていたことを把握すると、カティアの視界の色が戻る。もっとも、視界が晴れたとてここは地下牢、光差し込まぬ影の空間だ。コートの中の暗闇と地下牢の薄暗い空間を比べたとしても大差はない。
「……目が覚めたか」
「ロ、ロズッ!ロズなのか!」
背中の方から聞き馴染みのある声がするものだから、つい勢いよく振り向いてしまう。その弾みで痛んだ首はねじれ更に痛みを増すことになるが今のカティアには些細な問題であった。
聞き馴染みのある声がする。それだけでこの上ない安堵が押し寄せてきたのだ。
いくら助けを呼んでも来てくれなかった人物が今ここにいる。私を助けてくれたであろう人物がここにいる。そんな単純なことですら、命の危機に瀕した状況では心の底から救われた気分になれたのであった。
「助けに来るのが遅い」だの「もっと監視をちゃんとしてくれ」だの愚痴を言いたいことは山ほどあったが、目の前の勇ましい男の背中を見ると彼女の愚痴は瞬時にして消え去ってしまった。
「お前が私を……助けてくれたのか」
「…………勘違いするな。俺は規則を破った者に制裁を加えたまでだ」
「そうか、そう……だよな」
ズキン。
なぜかロズの言葉に胸が痛む。
ロズは自らの職務を全うしただけだ。無断で独房外に出て他の死刑囚と接触し狂行に走った者を処罰しただけだ。
そう、何もおかしくはない。ごくごく当たり前のことだ。
だというのに――
なぜかそれが心の中のわだかまりとなってもやもやと燻っている。私が欲しかった答えはそれじゃない、と。
首を押さえながらロズを見返すカティア。
「……すまなかった」
「執行人が死刑囚に謝るだなんてそんな」
「……執行人の管理不行き届きでこうなったことは事実だ」
「だとしても、肛門に工具を隠し持ってるだなんて予想できるわけないだろう?」
そう言い二人はグリドリーを視線に入れる。
鉄格子の下で白目を剥きながら横たえているこの男は口をあんぐりと開けたままの状態でピクリとも動かない。
だというのにもかかわらず、未だにその手はカティアの首を絞めていた形を保っている。よほど絞め殺したい思念が強かったのだろう。
カティアはつい数分前の出来事を思いだしぶるっ、と身震いするのであった。
「死んだのか……?」
「まさか。こういうヤツは殴っただけじゃ死なん」
「殴っただけでこの有様とは……」
「手加減はしたつもりだ。殺してしまっては元も子もないからな」
横たえるグリドリーを見てカティアは再度安堵した。
あと数分首を絞められていたら確実に自分はあの世へ逝っていただろう。そして自分の死体はヤツの慰み者になっていたのだろう。そう考えると恐ろしくて仕方がなかった。
しかし、そのカティアを助けたのはいずれカティアを死刑執行するロズであるというのがなんたる皮肉か。
カティアは命を救われたわけではない。死ぬ時期が少し延びただけであるのだ。
「…………震えているのか」
「え――あ、ああ……これは」
気がつくと自分の腕は震えていた。
腕だけではない。足も笑い、腰は抜け、体全体の力がフッと息が切れたかのように虚脱していた。
人の狂気を間近で目の当たりにし、身をもって死ぬということを直前まで体験した恐怖は並々ならぬものではない。
それら恐怖が安堵したことにより再びフラッシュバックし、カティアの全身を襲うのである。この世のなによりも暗く冷たい感覚、生命活動の終了を告げる証。
生きとし生ける者ならば誰しもが恐れおののく感覚。それが「死」というものだ。
「はは、無様なものだ」
「…………」
「罪を受け入れる?死をもって償う?この口がよく言えたものだ……」
ぶるぶると震える手を見つめ、カティアは呟く。
それは今まで包み隠してきた本音が出た瞬間であった。
圧倒的な恐怖を前に虚勢を張ることができなくなったのか。それとも、何らかの影響で本音が出やすくなっているのか。それは誰にもわからない。
震えるカティアを察したロズは再度上着を手に取ると、彼女にかけようとする――が上着は跳ね除けられてしまった。
「……寒いんじゃないのか」
「ロズ、もういい。やめてくれ」
「…………」
「もうこれ以上、私に気をかけないでくれ。そうでないと私もロズのことを……」
「…………ミックから何か言われたのか」
こくり、と縦に頷いた。その弾みに首の骨がぎしぎしと軋む。
「遠まわしにロズには関わるな、と言われたよ」
「……そうか」
「私に似ている人のこともわかっている様子だった」
「……そうか…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
二人の間には長い静寂が続いた。
ピチョン――ピチョン――給水管から水がしたたる音。
ヂュイッ――下水ネズミの鳴き声。
ギシ、ギシ――朽ちたベッド、そしてカティアの首が軋む音。
静寂の中に割り入ってくる音たちは互いに自己主張しながら地下牢で歪なハーモニーを奏でる。聞いてて美しくも何ともないメロディだが意外にも不快な気持ちになることはなかった。
そして、ハーモニーを砕くかのようにロズはふいに語り始めた。
「……少し昔話をしよう」
なぜ自分がこの話をただの死刑囚であるカティアに話そうと思ったのかはわからない。
ただ、どうしても話したい、話さなければならないと心がそう訴えていたのだ。
―――――
「俺には家族がいない。いや、正確に言えばいなくなった」
「いなくなった?まさか事故で……」
「いや、俺が殺した。父も、母も、妹も。全員俺が殺した。殺さなければならなかった」
「なっ……ロズ、お前……」
「…………何とでも言え」
「俺が仕事を始めたばかりのことだ。俺は独り立ちし、家から離れたところで一人暮らしを始めた。
死刑執行人という国の役人の中でもそこそこ階級の上のである役職に就くことができた俺は親にとっても自慢の息子だったんだろう。実家に帰るたびに近所の人からは尊敬の眼差しで見られていた」
「そんなに死刑執行人というのはなるのが難しいものなのか」
「まぁ……俺とミックがほぼ同時期に就いてそれ以降は誰一人として就くことはなかった。こう言えばわかるだろう」
「それってもしかして職場関係が良くないから誰も立候補しないだけではないのか?」
「……否定はしない」
「話を戻そう。俺が仕事を始めて2、3年経った頃だろうか。たまたま実家に帰ると見知らぬ人物数名が親と話しているのを目の当たりにした。そいつらは一目で怪しい気配がしていたのだが、親と親しげに話しているので俺はそこまで気にかけることはしなかった。妹も怪しいと思っているようだったが俺と同じくそこまで敵対視していなかったのだろう」
「そして事件は起きた。あの日はそう……今日みたいに大雨の日だ。親父の誕生日だったその日は親父の好きな酒を買って実家に顔を出したんだ。すると家の奥から変な物音がしてな……その音は人が暴れる音、そして甲高い叫び声だった。
俺は急ぎ家の中に入り目の当たりにしたのは……」
「目の当たりにしたのは……?」
「…………妹が犯されていた」
「……!?」
「数人の男に輪姦されている妹がそこにいた。親は二人そろって正座してその光景を笑顔で見つめているだけなもんだからおぞましさを感じたものだ。俺にはわけがわからなかった、意味がわからなかった。
気がつけば俺はその男どもを全員殴り殺していたが何の罪悪感もない」
「ッッ……」
「親は『儀式の邪魔をするな、これでは幹部になれないではないか』ととてつもない剣幕で怒鳴り込んでいたんで……そこで俺は理解した、ああそういうことかと。
その後、親は捕縛されることになる。親は前々から邪教にどっぷり浸かっていたらしく、俺や妹の知らぬ間に信徒になっていたとのことだった。俺は相手の原形を留めないぐらい殴打してしまったわけだが相手が相手だ。邪教の幹部ということもあって過剰正当防衛という注意だけにとどまった。だが俺にはそんなことはどうでもよかった」
「妹は厳重に保護され、修道院で治療を受けることになった。数人の男に無理やり犯されてしまった原因で精神が壊れてしまったんだ。
目に見える人間全てを恐れ、俺の顔すらも忘れる始末。もはや妹のかたちをした別人みたいで……完全に人が変わってしまった。
日々シスターや神父に暴行を加え狂行を繰り返すものだから、俺も謝礼金を払いに行く毎日だった」
「……辛くはなかったのか」
「これで妹の状態が少しでも良くなればと思っていたからな……あの頃は無知だった、良くも悪くも……」
「そして最後の事件が起こる。
いつものように修道院に謝礼金を払いに行ったところ……修道院が燃えていた。
そこで俺は非難しているシスターから詳しい事情を聞いたところ絶句したさ。
なんせ火を放ったのは妹だときたものだ。
図書館で一人勉強していたとの事らしいが気がつけば本に火を付け発狂しながらそこらじゅうに放火して回ったとのことだった。発狂する妹は修道院の者たちにより押さえつけられながら『邪神様邪神様』と狂っていたよ」
「…………」
「俺はそこで目の前が真っ暗になった」
「…………」
「どうした、何か反応くらいしてくれよ」
「いや、うん……放火には私も嫌な思い出があるから……」
「……そうだったな」
「後になって知ったことだが、妹が図書館で開いた教本の挿絵には邪教のシンボルマークが描かれていたらしい。恐らくそれだけだ、それだけの理由で妹のトラウマが蘇り発狂したのだろう。偶然にもそのページを開いてしまったがために、な……」
「邪教に痺れを切らしていた本国はこの一件から邪教に関する者は全て死罪という判決を下した。俺は全力で抗議したが、邪教に不信感を抱いている人間はとてつもない数であり俺一人の力ではどうにすることができないのは明らかであった。
親はもう仕方がないとして……妹は。妹は無関係であるはずなのだ。邪教の構成員でもない、むしろ邪教の被害者の最たる例だというのにも関わらず死罪判決を受けたのが納得いかなかった。だが、不服でたまらなかったが俺にはどうすることもできなかった……」
「と、いうことはまさか……」
「ああ俺が殺したよ。親も、妹も。俺が処刑した」
「親も妹もみんな狂ってしまっていた。
だけどな、執行直前……断頭台に頭を置く妹の姿を俺は一度たりとも忘れたことはない。あんなにも狂い崩壊していた妹が、最期の最期になって俺の名前を呼び命乞いをしていたのだから。
妹の死を恐怖する表情が今も脳裏の奥に焼きついてこびりついている。
首をはねた後のドロリとした瞳孔の無言の視線が。ああ、今でも鮮明に思い出せる」
「……思えばそれ以降からだろうか……俺が執行をする際に何の感情も持たなくなっていたのは」
「黙々と首をはね続けていたのか?それではまるで……ただの機械ではないか」
「ああ……そうだな、俺はもう機械なのかもしれない。ただ人の首を切断するだけのからくり人形だ。はっ、笑えよ」
「ロズはなるべくしてそうなってしまったのだ。笑えやしない」
「…………ふん」
「そこからはずっと……代わり映えのない毎日が続いていたんだが、ある時妙な死刑囚が投獄されてな。
そいつは今までの死刑囚とは全く違っていた。その目は死を恐れるどころか達観していて……見たこともないヤツなんだ。しかもそれが若い女ときたものだ」
「ほうほう……ん?」
「今までの極悪人やら大犯罪人のようなクズみたいなやつらとは異なり、一見すると犯罪を犯すような人物には見えなかった。しかもその容姿が死んだ妹そっくりで生き写しかと思ったくらいだ。そのせいでなおさら興味を惹いたんだろう」
「あれ、それって……」
「二度と思い出したくないと思う反面、その死刑囚を見るたびに否が応でも思い出されるあの光景。その死刑囚に合うと死んだ妹がそっくりそのまま生き返ったみたいで俺は心なしか救われた気がしていた。今思うと相当危ない思想であることはわかっている。
だが執行人はいずれ死刑囚を殺さなければならない。いくら興味を持って親しくなったとしてもその交友は必ず終わりが来るものだ。絶対に」
「…………」
「死をも恐れぬ珍しい死刑囚で、死んだ妹にそっくりで、不慮の事故で死罪を突きつけられたこの女を……俺は正直なところ殺したくない」
「ロズ……」
「しかし殺さなければならない。その板ばさみに苛まれ俺は今苦慮しているのだろうか、俺自身にもよくわからん」
「もしも、だ」
「ん……」
「もし……私がその死刑囚だとしたら……私はロズに殺されたいと思うだろう。
元よりこれ以上落ちることのない孤独な人生の最期に唯一親しくなれた人間だ。だったらロズの職務を全うさせて私もロズも悔いの残らないように別れられればそれでいいんじゃないだろうか。
私だったらそう思う」
「……!!……そうか、いやそうあるべきなのだろう。その死刑囚ならばきっとそう言うだろうと思っていたところだ」
「ふふっ、ならいい。それでいいんだ。後悔などありはしない」
「俺は少々その死刑囚を見くびっていたようだ。どうやらそいつは見た目こそ妹そっくりだが、精神は相当気高いらしい」
「ロズはロズの思うようにいつも通りの職務をすれば良いと思うぞ。それがその死刑囚も最も望んでいることだと思うから……」
「そう……だといいな」
「…………」
「しかしそうか……やはり似ていたのは肉親だったのだな……」
―――――
「昔話というよりは殆ど俺の愚痴みたいになってしまったな」
「まぁロズの過去が少し知れて納得したよ」
独房内で二人は座りながら呟いていた。
二人は互いに背を向き合い、ロズの大柄の背中に寄りかかるようにして座るカティア。石畳のようにごつごつとして無骨な背中だが、はっきりとした温かみがあり逞しい背中にどこか心が和やかになるものだ。
「……明後日だ」
「なにがだ?」
背中越しにロズの低い声が聞こえたものだから、肌伝いに低音が響き渡りカティアの腹の底まで震える。
少しの間言うのを躊躇っていたようだが、彼は意を決して語った。
いずれはこうなる運命を彼の口から語られた。
「二日後の午前、お前の死刑執行が決まった」
「……そうか」
その一言だけ返し、二人の間には再び長い長い沈黙が続いた。
互いに背面を向いているので相手がどんな表情をしているのかがわからない。ロズも、カティアも、今の自分の表情を相手に見られたくなかったものだから振り向こうともすることはなかった。
だが、ロズは感じていた。
背中越しに伝わるカティアの鼓動がみるみるうちに早くなり、そしてカティア自身の体も震えていることに。はっきりとその背中で感じ取れた。
表情を見ずともカティアがどのような顔をしているかなど容易に想像できてしまう。
「ロズ、私のような死刑囚風情があつかましいとは思うがひとついいだろうか」
自分自身気が付いているのかどうかわからないが、ひどく小さく震えた声で彼女は言う。
「手を……握ってくれないか」
座り込むロズの太腿にちょん、と小さな手が当たった。
小さく、繊細で、白い手で。
冷たく、震え、壊れそうな手。
ロズは何も言わずにその手を握る。無骨で傷だらけの大きな手で強く、強く――
「ロズの手は大きくて温かいな……」
「お前の手は小さくて冷たい、今にも折れてしまいそうだ」
「ロズは私を殺すか?」
「俺はお前を殺す。それが仕事だからだ」
「私の人生はつまらなかったな、ほとんどが孤独だった」
「俺の人生は絶望だ、あの日から時は進んでいない」
「私をどうやって殺す?」
「もちろん斧で首を真っ二つだ」
「死ぬ前に恋愛をしてみたかった」
「安心しろ、俺だってまだしたことない」
「でも童貞じゃないんだろう」
「若気の至りというものだ」
「この年で処女はどう思う」
「すこし生き遅れてるな」
「大事に処女を抱えたまま死ぬとしよう」
「それじゃあ俺がその処女貰ってやろう」
「…………えっ!?」
「冗談だ。真に受けるな」
「そっ、そう、だよなうん。誰がお前のようなやつに私の処女をあげるもの……か。ミック執行官にも言われたしな、これ以上接触するなって……」
「これ以上の接触は……」
「いやしかし…………」
「うん…………」
「…………ダメ、我慢が……」
「…………///」
「あ、ろ、ロズ、ちょっとこっち向いてく、くれないか」
「あん?お前最近執行人と死刑囚の関係忘れてるんじゃないだろうな。俺に対して要望が多過ぎる」
「ロズが向かないなら私がっ」
「だから人の話を――」
「んぐ!?」
ロズが首を少しカティア側へ傾けたその瞬間。
ロズの唇に当たるのは唇と同じ感触をした柔らかいもの。薄桃色でロズのがさがさとした唇とは真逆の、ぷるぷると水分が潤う瑞々しい唇が当たり合わさっていた。
その眼前に写るは、頬から耳まで真っ赤に染まったカティアの赤面。目をぎゅっと瞑り先ほどの恐怖による震えとはまた別の震えで全身を振動させロズに不意のキスをしていた。
一瞬、ロズはなにが起きたか理解できなく硬直する。
が、数秒の後にこの出来事を把握するとロズは離れることなくむしろ抱きかかえるようにカティアを放すことはしなかった。
「ロズ……許してくれ……私は執行人命令をまた背いて」
「いいから喋るな」
「ん…………」
始めは唇と唇が合わさる程度の軽いものだったのが、次第に互いの舌を交差し艶かしい水音を立てるものへと変わってゆく。
舌を絡ませ、唾液を送り、送り返され、唇を啜る。
その一連の動作がなんとも官能的で、薄暗い地下牢の一角だというのにさながらここだけは遊廓を髣髴とさせるような甘い臭いと淫靡な雰囲気が漂っていた。
しかし――
「……ここまでだ」
「あっ……」
ロズはその雰囲気に流されることなく自ら唇を放す。
物欲しそうに焦がれるカティアの欲情的な表情は未だ性交を知らぬ少女のようであり、また肉欲に飢える大人のオンナのそれでもありとてつもない破壊力を秘めていた。
それでもロズは踏み止まるのであった。
「……これ以上はお前の要望に応えることはできない」
「そうだよな、うん……わかりきっていたことなんだ。すまなかった……」
明らかにしょげているカティアを前にロズは胃に穴が開くほどの心労で堪えていた。
今ここで己の思うがままに行動してしまっては執行人としての面子が丸つぶれなのだ。それだけはたとえカティアに恨まれようとも守らねばならぬことだった。
それがロズの信条であり曲げられないものなのだから。
「……仕方ないな、今晩だけは語り相手ぐらいになってやろう。俺も看守室でひとりは退屈だから暇がつぶせる」
「ふ、ふん、私は話すと長いぞ、一晩なんて軽く過ぎるくらいに長いぞ」
「好きなことを話してろ……それこそ悔いのないようにな……」
「ロズ……」
やれやれといった様子で独房内に留まり続けることを決めたロズ。
これが何の変哲もないただの死刑囚相手であったとしたならばこんなことは起こりえなかっただろう。
そうさせる不思議な魅力がやはりカティアにはあったのかもしれない。そんなことを思いながらロズは独房内で横になった。
「…………ん?」
ふと、カティアの首に視線が写る。
何の変哲もないただの首。そう、ただの首だ。
その首になにか……奇妙な模様が浮かび上がっていることに気が付いた。
「おいカティア、お前首に刺青なんてしてるか」
「え、してないけど……」
今まで何度もカティアの体を観察してきたロズであったがこんな模様はあった記憶はない。
首の周りを一周するかのように一本の点線がぐるりと描かれており、さながらキリトリ線のようである。刺青にしては趣味が悪い、というよりセンスのないものだ。
少なくともグリドリーによって締められたときにできた痕ではなさそうで、元からそこにあったかのように皮膚に沈着しているようであった。
「ほら、そこの水溜りで見てみろ」
「……うっ!なんだこれ、こんなの知らないぞ……って言っても、明後日には死ぬんだしもう関係ないかコレ」
カティアの反応を見る限りやはり彼女も知らないようだ。
いったいいつの間に、どうやってできたものなのだろうか。ロズは一抹の不安を覚えるのであった。
確かに明後日にはカティアは殺されるのだから深く考えていても意味のないことなのだろう。
しかし、ロズの得意とする断頭を助長するかのように首に描かれた点線がどこか不可解かつ奇妙であった。
一瞬、点線の隙間から桃色の煙が出ているような気がした――が、もう一度凝視するとそこには何も異常はなかった。
見間違いであることに納得し再び横になるロズなのであった。
ここは死後の世界だろうか。
真っ暗で何も視界に写らない。そして驚くほど静寂に包まれており外気はひんやりとしている。あの気持ち悪いグリドリーの気配すらしない。
カティアは寝そべりながらそう思っていた。
長い長い意識の喪失の後、次に意識を取り戻すと彼女は完全な暗黒に包まれていた。それは彼女の視点からしてみれば、の話であるが。
「あれ、何か顔に」
未だに痛む絞めつけられた首を押さえつつ、彼女はがばっ、と上半身を起き上がらせると一枚の上着が膝の辺りに落ちるのが見えた。それは大人用のコートにしてはサイズが二周りぐらいも大きなものだ。若干湿っていることから水に濡れているのだろう。
コートにより顔面を覆い隠されていたことを把握すると、カティアの視界の色が戻る。もっとも、視界が晴れたとてここは地下牢、光差し込まぬ影の空間だ。コートの中の暗闇と地下牢の薄暗い空間を比べたとしても大差はない。
「……目が覚めたか」
「ロ、ロズッ!ロズなのか!」
背中の方から聞き馴染みのある声がするものだから、つい勢いよく振り向いてしまう。その弾みで痛んだ首はねじれ更に痛みを増すことになるが今のカティアには些細な問題であった。
聞き馴染みのある声がする。それだけでこの上ない安堵が押し寄せてきたのだ。
いくら助けを呼んでも来てくれなかった人物が今ここにいる。私を助けてくれたであろう人物がここにいる。そんな単純なことですら、命の危機に瀕した状況では心の底から救われた気分になれたのであった。
「助けに来るのが遅い」だの「もっと監視をちゃんとしてくれ」だの愚痴を言いたいことは山ほどあったが、目の前の勇ましい男の背中を見ると彼女の愚痴は瞬時にして消え去ってしまった。
「お前が私を……助けてくれたのか」
「…………勘違いするな。俺は規則を破った者に制裁を加えたまでだ」
「そうか、そう……だよな」
ズキン。
なぜかロズの言葉に胸が痛む。
ロズは自らの職務を全うしただけだ。無断で独房外に出て他の死刑囚と接触し狂行に走った者を処罰しただけだ。
そう、何もおかしくはない。ごくごく当たり前のことだ。
だというのに――
なぜかそれが心の中のわだかまりとなってもやもやと燻っている。私が欲しかった答えはそれじゃない、と。
首を押さえながらロズを見返すカティア。
「……すまなかった」
「執行人が死刑囚に謝るだなんてそんな」
「……執行人の管理不行き届きでこうなったことは事実だ」
「だとしても、肛門に工具を隠し持ってるだなんて予想できるわけないだろう?」
そう言い二人はグリドリーを視線に入れる。
鉄格子の下で白目を剥きながら横たえているこの男は口をあんぐりと開けたままの状態でピクリとも動かない。
だというのにもかかわらず、未だにその手はカティアの首を絞めていた形を保っている。よほど絞め殺したい思念が強かったのだろう。
カティアはつい数分前の出来事を思いだしぶるっ、と身震いするのであった。
「死んだのか……?」
「まさか。こういうヤツは殴っただけじゃ死なん」
「殴っただけでこの有様とは……」
「手加減はしたつもりだ。殺してしまっては元も子もないからな」
横たえるグリドリーを見てカティアは再度安堵した。
あと数分首を絞められていたら確実に自分はあの世へ逝っていただろう。そして自分の死体はヤツの慰み者になっていたのだろう。そう考えると恐ろしくて仕方がなかった。
しかし、そのカティアを助けたのはいずれカティアを死刑執行するロズであるというのがなんたる皮肉か。
カティアは命を救われたわけではない。死ぬ時期が少し延びただけであるのだ。
「…………震えているのか」
「え――あ、ああ……これは」
気がつくと自分の腕は震えていた。
腕だけではない。足も笑い、腰は抜け、体全体の力がフッと息が切れたかのように虚脱していた。
人の狂気を間近で目の当たりにし、身をもって死ぬということを直前まで体験した恐怖は並々ならぬものではない。
それら恐怖が安堵したことにより再びフラッシュバックし、カティアの全身を襲うのである。この世のなによりも暗く冷たい感覚、生命活動の終了を告げる証。
生きとし生ける者ならば誰しもが恐れおののく感覚。それが「死」というものだ。
「はは、無様なものだ」
「…………」
「罪を受け入れる?死をもって償う?この口がよく言えたものだ……」
ぶるぶると震える手を見つめ、カティアは呟く。
それは今まで包み隠してきた本音が出た瞬間であった。
圧倒的な恐怖を前に虚勢を張ることができなくなったのか。それとも、何らかの影響で本音が出やすくなっているのか。それは誰にもわからない。
震えるカティアを察したロズは再度上着を手に取ると、彼女にかけようとする――が上着は跳ね除けられてしまった。
「……寒いんじゃないのか」
「ロズ、もういい。やめてくれ」
「…………」
「もうこれ以上、私に気をかけないでくれ。そうでないと私もロズのことを……」
「…………ミックから何か言われたのか」
こくり、と縦に頷いた。その弾みに首の骨がぎしぎしと軋む。
「遠まわしにロズには関わるな、と言われたよ」
「……そうか」
「私に似ている人のこともわかっている様子だった」
「……そうか…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
二人の間には長い静寂が続いた。
ピチョン――ピチョン――給水管から水がしたたる音。
ヂュイッ――下水ネズミの鳴き声。
ギシ、ギシ――朽ちたベッド、そしてカティアの首が軋む音。
静寂の中に割り入ってくる音たちは互いに自己主張しながら地下牢で歪なハーモニーを奏でる。聞いてて美しくも何ともないメロディだが意外にも不快な気持ちになることはなかった。
そして、ハーモニーを砕くかのようにロズはふいに語り始めた。
「……少し昔話をしよう」
なぜ自分がこの話をただの死刑囚であるカティアに話そうと思ったのかはわからない。
ただ、どうしても話したい、話さなければならないと心がそう訴えていたのだ。
―――――
「俺には家族がいない。いや、正確に言えばいなくなった」
「いなくなった?まさか事故で……」
「いや、俺が殺した。父も、母も、妹も。全員俺が殺した。殺さなければならなかった」
「なっ……ロズ、お前……」
「…………何とでも言え」
「俺が仕事を始めたばかりのことだ。俺は独り立ちし、家から離れたところで一人暮らしを始めた。
死刑執行人という国の役人の中でもそこそこ階級の上のである役職に就くことができた俺は親にとっても自慢の息子だったんだろう。実家に帰るたびに近所の人からは尊敬の眼差しで見られていた」
「そんなに死刑執行人というのはなるのが難しいものなのか」
「まぁ……俺とミックがほぼ同時期に就いてそれ以降は誰一人として就くことはなかった。こう言えばわかるだろう」
「それってもしかして職場関係が良くないから誰も立候補しないだけではないのか?」
「……否定はしない」
「話を戻そう。俺が仕事を始めて2、3年経った頃だろうか。たまたま実家に帰ると見知らぬ人物数名が親と話しているのを目の当たりにした。そいつらは一目で怪しい気配がしていたのだが、親と親しげに話しているので俺はそこまで気にかけることはしなかった。妹も怪しいと思っているようだったが俺と同じくそこまで敵対視していなかったのだろう」
「そして事件は起きた。あの日はそう……今日みたいに大雨の日だ。親父の誕生日だったその日は親父の好きな酒を買って実家に顔を出したんだ。すると家の奥から変な物音がしてな……その音は人が暴れる音、そして甲高い叫び声だった。
俺は急ぎ家の中に入り目の当たりにしたのは……」
「目の当たりにしたのは……?」
「…………妹が犯されていた」
「……!?」
「数人の男に輪姦されている妹がそこにいた。親は二人そろって正座してその光景を笑顔で見つめているだけなもんだからおぞましさを感じたものだ。俺にはわけがわからなかった、意味がわからなかった。
気がつけば俺はその男どもを全員殴り殺していたが何の罪悪感もない」
「ッッ……」
「親は『儀式の邪魔をするな、これでは幹部になれないではないか』ととてつもない剣幕で怒鳴り込んでいたんで……そこで俺は理解した、ああそういうことかと。
その後、親は捕縛されることになる。親は前々から邪教にどっぷり浸かっていたらしく、俺や妹の知らぬ間に信徒になっていたとのことだった。俺は相手の原形を留めないぐらい殴打してしまったわけだが相手が相手だ。邪教の幹部ということもあって過剰正当防衛という注意だけにとどまった。だが俺にはそんなことはどうでもよかった」
「妹は厳重に保護され、修道院で治療を受けることになった。数人の男に無理やり犯されてしまった原因で精神が壊れてしまったんだ。
目に見える人間全てを恐れ、俺の顔すらも忘れる始末。もはや妹のかたちをした別人みたいで……完全に人が変わってしまった。
日々シスターや神父に暴行を加え狂行を繰り返すものだから、俺も謝礼金を払いに行く毎日だった」
「……辛くはなかったのか」
「これで妹の状態が少しでも良くなればと思っていたからな……あの頃は無知だった、良くも悪くも……」
「そして最後の事件が起こる。
いつものように修道院に謝礼金を払いに行ったところ……修道院が燃えていた。
そこで俺は非難しているシスターから詳しい事情を聞いたところ絶句したさ。
なんせ火を放ったのは妹だときたものだ。
図書館で一人勉強していたとの事らしいが気がつけば本に火を付け発狂しながらそこらじゅうに放火して回ったとのことだった。発狂する妹は修道院の者たちにより押さえつけられながら『邪神様邪神様』と狂っていたよ」
「…………」
「俺はそこで目の前が真っ暗になった」
「…………」
「どうした、何か反応くらいしてくれよ」
「いや、うん……放火には私も嫌な思い出があるから……」
「……そうだったな」
「後になって知ったことだが、妹が図書館で開いた教本の挿絵には邪教のシンボルマークが描かれていたらしい。恐らくそれだけだ、それだけの理由で妹のトラウマが蘇り発狂したのだろう。偶然にもそのページを開いてしまったがために、な……」
「邪教に痺れを切らしていた本国はこの一件から邪教に関する者は全て死罪という判決を下した。俺は全力で抗議したが、邪教に不信感を抱いている人間はとてつもない数であり俺一人の力ではどうにすることができないのは明らかであった。
親はもう仕方がないとして……妹は。妹は無関係であるはずなのだ。邪教の構成員でもない、むしろ邪教の被害者の最たる例だというのにも関わらず死罪判決を受けたのが納得いかなかった。だが、不服でたまらなかったが俺にはどうすることもできなかった……」
「と、いうことはまさか……」
「ああ俺が殺したよ。親も、妹も。俺が処刑した」
「親も妹もみんな狂ってしまっていた。
だけどな、執行直前……断頭台に頭を置く妹の姿を俺は一度たりとも忘れたことはない。あんなにも狂い崩壊していた妹が、最期の最期になって俺の名前を呼び命乞いをしていたのだから。
妹の死を恐怖する表情が今も脳裏の奥に焼きついてこびりついている。
首をはねた後のドロリとした瞳孔の無言の視線が。ああ、今でも鮮明に思い出せる」
「……思えばそれ以降からだろうか……俺が執行をする際に何の感情も持たなくなっていたのは」
「黙々と首をはね続けていたのか?それではまるで……ただの機械ではないか」
「ああ……そうだな、俺はもう機械なのかもしれない。ただ人の首を切断するだけのからくり人形だ。はっ、笑えよ」
「ロズはなるべくしてそうなってしまったのだ。笑えやしない」
「…………ふん」
「そこからはずっと……代わり映えのない毎日が続いていたんだが、ある時妙な死刑囚が投獄されてな。
そいつは今までの死刑囚とは全く違っていた。その目は死を恐れるどころか達観していて……見たこともないヤツなんだ。しかもそれが若い女ときたものだ」
「ほうほう……ん?」
「今までの極悪人やら大犯罪人のようなクズみたいなやつらとは異なり、一見すると犯罪を犯すような人物には見えなかった。しかもその容姿が死んだ妹そっくりで生き写しかと思ったくらいだ。そのせいでなおさら興味を惹いたんだろう」
「あれ、それって……」
「二度と思い出したくないと思う反面、その死刑囚を見るたびに否が応でも思い出されるあの光景。その死刑囚に合うと死んだ妹がそっくりそのまま生き返ったみたいで俺は心なしか救われた気がしていた。今思うと相当危ない思想であることはわかっている。
だが執行人はいずれ死刑囚を殺さなければならない。いくら興味を持って親しくなったとしてもその交友は必ず終わりが来るものだ。絶対に」
「…………」
「死をも恐れぬ珍しい死刑囚で、死んだ妹にそっくりで、不慮の事故で死罪を突きつけられたこの女を……俺は正直なところ殺したくない」
「ロズ……」
「しかし殺さなければならない。その板ばさみに苛まれ俺は今苦慮しているのだろうか、俺自身にもよくわからん」
「もしも、だ」
「ん……」
「もし……私がその死刑囚だとしたら……私はロズに殺されたいと思うだろう。
元よりこれ以上落ちることのない孤独な人生の最期に唯一親しくなれた人間だ。だったらロズの職務を全うさせて私もロズも悔いの残らないように別れられればそれでいいんじゃないだろうか。
私だったらそう思う」
「……!!……そうか、いやそうあるべきなのだろう。その死刑囚ならばきっとそう言うだろうと思っていたところだ」
「ふふっ、ならいい。それでいいんだ。後悔などありはしない」
「俺は少々その死刑囚を見くびっていたようだ。どうやらそいつは見た目こそ妹そっくりだが、精神は相当気高いらしい」
「ロズはロズの思うようにいつも通りの職務をすれば良いと思うぞ。それがその死刑囚も最も望んでいることだと思うから……」
「そう……だといいな」
「…………」
「しかしそうか……やはり似ていたのは肉親だったのだな……」
―――――
「昔話というよりは殆ど俺の愚痴みたいになってしまったな」
「まぁロズの過去が少し知れて納得したよ」
独房内で二人は座りながら呟いていた。
二人は互いに背を向き合い、ロズの大柄の背中に寄りかかるようにして座るカティア。石畳のようにごつごつとして無骨な背中だが、はっきりとした温かみがあり逞しい背中にどこか心が和やかになるものだ。
「……明後日だ」
「なにがだ?」
背中越しにロズの低い声が聞こえたものだから、肌伝いに低音が響き渡りカティアの腹の底まで震える。
少しの間言うのを躊躇っていたようだが、彼は意を決して語った。
いずれはこうなる運命を彼の口から語られた。
「二日後の午前、お前の死刑執行が決まった」
「……そうか」
その一言だけ返し、二人の間には再び長い長い沈黙が続いた。
互いに背面を向いているので相手がどんな表情をしているのかがわからない。ロズも、カティアも、今の自分の表情を相手に見られたくなかったものだから振り向こうともすることはなかった。
だが、ロズは感じていた。
背中越しに伝わるカティアの鼓動がみるみるうちに早くなり、そしてカティア自身の体も震えていることに。はっきりとその背中で感じ取れた。
表情を見ずともカティアがどのような顔をしているかなど容易に想像できてしまう。
「ロズ、私のような死刑囚風情があつかましいとは思うがひとついいだろうか」
自分自身気が付いているのかどうかわからないが、ひどく小さく震えた声で彼女は言う。
「手を……握ってくれないか」
座り込むロズの太腿にちょん、と小さな手が当たった。
小さく、繊細で、白い手で。
冷たく、震え、壊れそうな手。
ロズは何も言わずにその手を握る。無骨で傷だらけの大きな手で強く、強く――
「ロズの手は大きくて温かいな……」
「お前の手は小さくて冷たい、今にも折れてしまいそうだ」
「ロズは私を殺すか?」
「俺はお前を殺す。それが仕事だからだ」
「私の人生はつまらなかったな、ほとんどが孤独だった」
「俺の人生は絶望だ、あの日から時は進んでいない」
「私をどうやって殺す?」
「もちろん斧で首を真っ二つだ」
「死ぬ前に恋愛をしてみたかった」
「安心しろ、俺だってまだしたことない」
「でも童貞じゃないんだろう」
「若気の至りというものだ」
「この年で処女はどう思う」
「すこし生き遅れてるな」
「大事に処女を抱えたまま死ぬとしよう」
「それじゃあ俺がその処女貰ってやろう」
「…………えっ!?」
「冗談だ。真に受けるな」
「そっ、そう、だよなうん。誰がお前のようなやつに私の処女をあげるもの……か。ミック執行官にも言われたしな、これ以上接触するなって……」
「これ以上の接触は……」
「いやしかし…………」
「うん…………」
「…………ダメ、我慢が……」
「…………///」
「あ、ろ、ロズ、ちょっとこっち向いてく、くれないか」
「あん?お前最近執行人と死刑囚の関係忘れてるんじゃないだろうな。俺に対して要望が多過ぎる」
「ロズが向かないなら私がっ」
「だから人の話を――」
「んぐ!?」
ロズが首を少しカティア側へ傾けたその瞬間。
ロズの唇に当たるのは唇と同じ感触をした柔らかいもの。薄桃色でロズのがさがさとした唇とは真逆の、ぷるぷると水分が潤う瑞々しい唇が当たり合わさっていた。
その眼前に写るは、頬から耳まで真っ赤に染まったカティアの赤面。目をぎゅっと瞑り先ほどの恐怖による震えとはまた別の震えで全身を振動させロズに不意のキスをしていた。
一瞬、ロズはなにが起きたか理解できなく硬直する。
が、数秒の後にこの出来事を把握するとロズは離れることなくむしろ抱きかかえるようにカティアを放すことはしなかった。
「ロズ……許してくれ……私は執行人命令をまた背いて」
「いいから喋るな」
「ん…………」
始めは唇と唇が合わさる程度の軽いものだったのが、次第に互いの舌を交差し艶かしい水音を立てるものへと変わってゆく。
舌を絡ませ、唾液を送り、送り返され、唇を啜る。
その一連の動作がなんとも官能的で、薄暗い地下牢の一角だというのにさながらここだけは遊廓を髣髴とさせるような甘い臭いと淫靡な雰囲気が漂っていた。
しかし――
「……ここまでだ」
「あっ……」
ロズはその雰囲気に流されることなく自ら唇を放す。
物欲しそうに焦がれるカティアの欲情的な表情は未だ性交を知らぬ少女のようであり、また肉欲に飢える大人のオンナのそれでもありとてつもない破壊力を秘めていた。
それでもロズは踏み止まるのであった。
「……これ以上はお前の要望に応えることはできない」
「そうだよな、うん……わかりきっていたことなんだ。すまなかった……」
明らかにしょげているカティアを前にロズは胃に穴が開くほどの心労で堪えていた。
今ここで己の思うがままに行動してしまっては執行人としての面子が丸つぶれなのだ。それだけはたとえカティアに恨まれようとも守らねばならぬことだった。
それがロズの信条であり曲げられないものなのだから。
「……仕方ないな、今晩だけは語り相手ぐらいになってやろう。俺も看守室でひとりは退屈だから暇がつぶせる」
「ふ、ふん、私は話すと長いぞ、一晩なんて軽く過ぎるくらいに長いぞ」
「好きなことを話してろ……それこそ悔いのないようにな……」
「ロズ……」
やれやれといった様子で独房内に留まり続けることを決めたロズ。
これが何の変哲もないただの死刑囚相手であったとしたならばこんなことは起こりえなかっただろう。
そうさせる不思議な魅力がやはりカティアにはあったのかもしれない。そんなことを思いながらロズは独房内で横になった。
「…………ん?」
ふと、カティアの首に視線が写る。
何の変哲もないただの首。そう、ただの首だ。
その首になにか……奇妙な模様が浮かび上がっていることに気が付いた。
「おいカティア、お前首に刺青なんてしてるか」
「え、してないけど……」
今まで何度もカティアの体を観察してきたロズであったがこんな模様はあった記憶はない。
首の周りを一周するかのように一本の点線がぐるりと描かれており、さながらキリトリ線のようである。刺青にしては趣味が悪い、というよりセンスのないものだ。
少なくともグリドリーによって締められたときにできた痕ではなさそうで、元からそこにあったかのように皮膚に沈着しているようであった。
「ほら、そこの水溜りで見てみろ」
「……うっ!なんだこれ、こんなの知らないぞ……って言っても、明後日には死ぬんだしもう関係ないかコレ」
カティアの反応を見る限りやはり彼女も知らないようだ。
いったいいつの間に、どうやってできたものなのだろうか。ロズは一抹の不安を覚えるのであった。
確かに明後日にはカティアは殺されるのだから深く考えていても意味のないことなのだろう。
しかし、ロズの得意とする断頭を助長するかのように首に描かれた点線がどこか不可解かつ奇妙であった。
一瞬、点線の隙間から桃色の煙が出ているような気がした――が、もう一度凝視するとそこには何も異常はなかった。
見間違いであることに納得し再び横になるロズなのであった。
15/06/07 21:36更新 / ゆず胡椒
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