連載小説
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決別の罪
 それから時刻は流れ――
 現在、死刑執行を翌日に控えた夕刻辺り。
 明日の午前中にはカティアはすでにこの世の者ではなくなっているのだろう。それはこの地下牢に投獄された時からわかりきっていたことであり、避けることのできぬ運命である。
 罪を犯した者には相応の罰を。そこに一切の私情はなく、生あるものは死者へと変り果てる。それが死刑執行の役割でありこの部署が存在する理由である。
 たとえそれが自ら犯すつもりでなかった罪であったとしても、だ。起きてしまったことはなかったことにすることはできない。

 カティアは実際、「殺人」の罪を犯してはいない。たまたま、偶然、「殺し」をしてしまっただけなのだ。しかしそれは他者の命を奪ったという意味においては同義であり、弁論の余地はない。
 偶然によって引き起こしてしまった「殺し」の罪。
 懺悔することもできず、己の罪を認め、執行されることの不条理さ、理不尽さといったらなかった。

「こんなことを考えていられるのも残りわずか、か」

 一人語りながら独房の隅に座りこむカティア。
 翌日に自身の死刑執行を控えているのにもかかわらず、その落ち着きぶりは自分でも驚くくらいだった。
 死ぬことに対して恐れていない、と言えば嘘になる。
 死んだらどうなる?
 死後の世界というのは本当に存在しているのか?
 自分は天国に逝くのか、それとも地獄か?
 そもそも魂の概念とは何だ?
 そんなことすら考え始めるようになってきた。
 逃れられぬ死であるならば逆に受け入れるまで。死を直面した者による境地でもあるのだろう。
 生きとし生けるものならばいつは必ず平等に訪れるもの、それが「死」。
 明日死ぬのか、数十年後老衰して死ぬのかそれは誰にもわからない。しかし、カティアにいたっては紛れもなく明日、必ず死ぬ。それを決定づけたのはカティアの今までの生きざまによるものである。
 悲観しても、後悔しても全ては手遅れなのだ。

「来世というものがあるならば、私はどんな人になれるのかな……いや、人にすらなれるかどうか」

 自虐気味に自分の今後について思いをはせる。
 すでにここから逃げるだの、死刑を免れるだのという思考は彼女から完全に消失してしまっていた。悟ったのだろう、もう無理だと。
 もしかすると、カティアの手腕ならばこの地下牢から脱獄することは不可能ではなかったかもしれない。彼女とて名のある義賊だ、こういった場面に遭遇した場合のことも当然想定してり、知識技量は蓄えていたはずである。
 しかし彼女はそれを実行できなかった。いや、もっと厳密にいえば実行しなかった。といえば良いだろうか。

「つくづく馬鹿だな、私は」

 もちろん警備が厳重に張り巡らされているし、堅牢な鉄格子を突破する手立てがなかったのかもしれない。だがそれよりも彼女は――彼女はそれ以上にここに留まることを無意識のうちに選択してしまっていたのだ。
 元より家族、親友、恋人など皆無である孤高の義賊として存在していた自分。ときおり自分と会話する者がいるとすれば、仕事の依頼人であったり仲介人であったり、後は商人との勘定合わせをする時ぐらいだろうか。極限まで独りよがりに生きる自分はまるでこの世に存在していながらもこの世に痕跡を残すことのない影のようなモノであった。
 影のように生きる彼女にはたとえ脱獄したとしても戻る場所がなかったのである。普通の女性として生きていくには影である彼女には眩しすぎたのだ。
 だからなのだろうか、自分よりもさらに深い影、もはや闇ともいえるものを抱えた者に惹かれるのもまた必然だったのかもしれない。
 カティアの影よりも深く、悲しみに溢れた闇を抱えるロズに。

「ぅく……」

 ロズのことを考えると首が疼く。
 痒いような熱いような、寒いような形容しがたい感覚に襲われることが増えた。 
 独房の隅にある水たまりを覗いてみると、自分の首にはグリドリーに絞められた青アザとは別に、点線のようなタトゥーが刻まれており首をぐるりと一周囲んでいるのが見える。
 グリドリーに絞められた時についたものではなさそうだが、一体いつの間に刻まれていたのか皆目見当もつかなかった。
 黒紫色の線はまるで犬の首輪のように模様を描いているかのようにも見てとれる。

「気にはしないとは言いはしたが……冷静になってみると気になるなコレは」

 その模様からはうっすらとだが桃色の煙が立ち込めており、ロズのことを考えれば考えるほど量が増えているような気がした。
 しかし、"それだけ"であり他に何の異常もきたしていないので、かえってそれが不思議でもあり疑心を軽減させてもいたのも事実だ。
 心なしか甘い香りもしており、立ち込める煙と相まってその姿はまさに香炉のようにも見える。
 そしてカティアはその光景にどこか見覚えがあった。

「ん、あれ、コレどこかで」

 ぼんやりとした頭の中でカティアはそう思い返し、数秒の後に思い出す。

「そうだ……この煙、あの時の――」

 カティアとロズがあの銀の斧の手入れをしていたとき。
 誤って手を切ってしまったときに切り傷から噴出したあの謎の煙ととても類似していたのだ。
 あのとき嗅いだロズの体臭のような臭いも、桃色の煙もすべて一致しており、今度はカティアの首から滾々と湧き出ている。
 その煙を見つめていると否応なしにカティアがロズに襲いかかり指と肉棒を吸ったあの光景が思い出されてしまう。

「あの時なぜ私はあんなことを……ううん、忘れろ忘れろ」

 頭をぶんぶんと左右に振るが、その行為は髪の毛がフラフラと揺れ、煙が周囲に拡散されるだけの行為に終わった。
 頭の中からあの光景が消えることはなく、逆に忘れようとするほど余計に思い出してしまうのでなおさら煙が噴出され悪循環になりつつある。
 今になって考えてみるとあのとき、なぜ自分はあのような行為をしてしまったのか。否、できたのだろうか。
 処女であるのにもかかわらず初めて目の当たりにする男根に身じろぎもせず口に咥えることができようか。まして経験も技術もなにもない状態で射精に至らせ、それを啜るという娼婦のようなことがなぜ……これでは娼婦というよりも淫魔、まさしく世にはびこる魔物娘そのものではないか。
 そう思うとぶるる、と体が震えた。寒さによるものではない。むしろ体は薄っすらと上気し肌はささやかに湿っている。

 がり
 がりがり……

 首の模様を爪で引っ掻いてみる。
 当然剥がれるわけもなく、皮膚と爪がこすれあう音のみが独房の中を木霊した。依然として煙は噴出され続けておりその勢いは強くなったり弱くなった非常に不安定だ。
 その光景をカティア自身はというと、不可思議だと思いつつも錯乱することはなくただただ傍観していた。己の身に起きている出来事を理解しつつもまるで意に介していない様子だ。空中を漂う煙を目で追っている。

「美味しかったな」

 ふとそう呟いた。無意識のうちに口が勝手に開き発した。
 そして彼女自身、言葉の意味を理解していなかったのだろう。何の脈絡もなくただ「美味しかった」と呟いた彼女にはそれの対象が何を指しているのかわからなかった。
 だがその直後彼女はがばっ、と飛び跳ね自らの口を塞ぐことになる。
 同時に上気した素肌は赤みを帯びみるみる熱を持っていくのがわかる。

(なに?美味しい?アレが?冗談はよしてくれ)

 自分の発した言葉の意味を理解してこの上ない不安に駆られるカティア。
 まさか自分が、孤高の義賊として生きてきて純潔を貫いた自分が男性の精液を美味しいと思うとは誰が予想できただろうか。いや、彼女自身が理解できなかったのだ、他者に分かるはずもない。
 冗談であってくれ。そう思いたかった。

(冗談は、くぅっ……どうなってしまったんだ私は)

 無意識のうちにつぶやいたはずの言葉。
 そう、無意識がゆえに彼女は否定できなかった。
 本当に美味しかったのだから。
 塩素系のような独特なニオイは女性としての、メスとしての本能を刺激され身体が求めてしまう。一度味わったあの味をもう一度接種せしめんと脳が渇望している。
 咽頭、食道にべったりと張り付き胃まで届く時間を有する精液は非常に焦らされたものだ。さながら死刑執行を待つ自分が焦らされているのではないかと錯覚してしまうようだった。
 ゴクリ。喉が精液を求めて音を鳴らす。
 口の中が渇いてきて、水分を求め始める。飲めるものなら何でもいい……水、液体のものならなんでもいい。あわよくば精液を。
 
「……いや、もしかしたらこれでいいのかもしれない。明日死ぬからこそ今はこれで」

 いろいろと考え巡ったが、結局はそうやって吹っ切れることにしたカティア。
 この先明日も明後日も平凡な毎日が続くとしたら今のこの状態では非常に危ない状態であるのは火を見るよりも明らかだ。
 しかし彼女は明日死ぬ。必ず死刑執行される。
 そうであるなら今この不可解な状態を打破せんと試みるよりは、諦めて明日になるのを待った方が良いと思ったのだ。
 死んでしまえば元も子もないのだから。多少気になったとして、その後に続くものは何もない。
 だったらそのまま墓まで持っていけばいいだけのことだ。
 そうカティアは諦めたのであった。

「ま、私が入るような墓なんてなさそうだがな」

 自分自身で気持ちを落ち着かせるためにジョークを呟く。
 半ば諦めのようなものがつくと、湧き出ていた煙は次第に勢いを弱め、やがて完全に静止したようだ。首の模様は沈黙を貫き、今度こそ完全にただの模様になり果てた。
 再び水たまりごしに自分の姿を覗いてみても何の変化も見られない。角が生えたり目の色が変わったりはしていない。
 その姿を確認すると彼女は独房の中央辺りに戻りそのまま横になった。
 このまま明日になって処刑される。それだけだ。それでいいのだ。
 自分に言い聞かせ冷たい石の床に寝そべりながら眠るわけでもなくただただ虚空を見つめていた。





 ――一方その頃、看守室。
 ロズとミックはそれぞれ背を向きながら各々やるべきことをやっていた。
 ロズは水場に立ち、食事の準備をしているようだ。
 傷だらけで武骨な手とは対象に瑞々しいほどにハリがあるトマトをつかみトッピング。盛り付けた野菜の上に焼いた肉と共に乗せ香ばしい香りが辺りを漂う。その上からスパイスのきいた岩塩とローストされたスライスガーリックを適量振りかける。
 その横では大きな鍋にキャベツ、ジャガイモ、ニンジンそしてソーセージをブイヨンベースで煮込んだスープがふつふつと煮えている。ロズは排気口から噴き出る蒸気をものともせず蓋を手に取り上げると、あらかじめ用意しておいた煮玉子を数個ドボドボ滴下して更に数分煮込むのであった。
 特殊な料理技能などは使っていない、実に男らしい荒々しい料理だ。味付けも甘いかしょっぱいかという大胆な味付けの料理だが、どこか温かみのあるスープが出来上がってゆく。

「オイオイオイロズよぉ、一口ぐらいくれたっていいじゃねぇか」

 ロズの背後からミックはそう言った。彼は椅子に座りながら靴を磨いている。
 あのミックが”靴を磨いて”いるのである。これはただならぬことだ。
 犬の糞を踏んづけた靴をそのままテーブルに乗せるほど不衛生かつガサツな男が自分の靴を磨いている。その光景が限りなく歪に見えるのは彼の日ごろの行いが証明している。

「……何度言っても駄目だ。お前のために作っているんじゃない」

「ったくケチなヤローだ。ンなもんいつものクッソ不味いスープとしなびたベーコンで十分じゃねぇか」

「……それだと意味がない」

 ロズは囚人用の料理を作っていた。
 国から配給される囚人用の食事はヒトが食べれる最低限のレベルを保っているだけであって、とてもじゃないが毎日食べられたものではない。
 だからロズは料理を作るのだ。
 死刑囚が最期に食べる食事だけはせめて人並みのモノを食べさせてやりたい。どんなに凶悪な大犯罪人であったとしてもロズは必ず死刑執行前夜の食事だけはこうやって豪勢なものを食べさせてあげているのだ。
 豪勢といっても囚人用の食事に比べたらの話であり、料理人が丹精込めて作った料理に比べたら質は劣るだろうが。

「それこそ意味ねえっつの。明日死ぬヤツにいいもん食わしたって結局クソになって出てくるだけだろうが」

「……お前が何と言おうと俺は今まで通りやらせてもらう。俺が担当だからな」

「へいへいそうかい。んじゃ好きにしな……ってお前これ」

 そう言ってミックは椅子から立ち上がるとロズの料理を見渡す。
 その目つきはいつもどおり飄々としたものだが、その奥には鋭い光が宿っていた。

「いつもより豪勢すぎやしないか」

 ロズが死刑囚へ最期の食事を提供するときは、大抵厚切れ肉一枚とコーンスープという相場が決まっていた。
 それがどうだ、色とりどりの野菜が盛り付けられたサラダに肉汁溢れる焼きたての牛肉、そしてポトフのようなスープときたものだ。いくら死刑囚の最期の食事だとしても贅沢すぎると思わざるを得なかった。

「まさかオメェ変な気でも起こしたわけじゃねぇだろうな」

「……それはない。明日必ず執行する」

「じゃあいいんだがよ。まァそのアレだ、直前になってやっぱり執行したくねぇとかほざくなよ?」

「……」

 沈黙。
 その沈黙は了解という意味なのかはたまた別の意味なのかはロズ本人しかわからない。
 ミックは舌打ちをすると再び靴磨きをし始めた。

「あ〜しっかし落ちねぇなこの汚れ……ッチィ、このクソがっ」

 悪態をつきながら自らの靴を磨き続けるミック。
 よく見ると壁には、この薄暗い看守室にはあまりにも不似合な正装が上下揃って掛けられている。サイズからしてミックのだろう。
 祝賀会のような催し物のときに着る衣装だ。しかし残念なことに埃まみれになっていて元の清潔感はあまり感じられない。

「……明日のいつごろから始まるんだ」

「あー確か朝っぱら早くから始めるって聞いたなァ。ったくめんどくせーったらありゃしねぇ」

「……正直なところ、新大臣の着任式なんぞ俺も興味はない」

「俺もねーよ。ただ俺ァ一応ここの部署の責任者だからな、出席しなきゃならねぇ。はーめんどめんど」

 カティアは誤って大臣を殺してしまった。それゆえにこの国には大臣が一人不足している状態であり、早急に後継者を見つけなければならない事態に陥っていた。
 そうしてようやく適任者が見つかったのだろう。その後継者がどんな人物であるかなんてことは彼らには微塵も興味はない。ただ新しい大臣が着任する、着任式がある、それぐらいの関心でしかなかった。
 つまり先ほどからミックが靴を磨いているのも、埃まみれの正装を引きずり出してきたのも祝賀会に出席するためである。
 彼が突然心を入れ替えて清潔感に目覚めたというわけでは決してないことを記述しておく。

「普段から靴の手入れしていないからそうなる……」

「オメーはいちいち几帳面すぎるんだよ」

 もはや汚れなのか傷なのかわからない状態のものを磨き続けている。
 ロズは料理をしながら横目で眺めていたが、その行為は時間の無駄であると瞬時に理解していた。いくら磨いたところで傷は直りはしないのだから。
 しかしミックにそのことを伝えるのも面倒なのであえて言わずにそのまま料理を続けているのであった。
 日頃の行いを悔い改めろ。ロズの視線はそう言っている。





 ロズはひととおり料理が終わり、ミックは靴磨きを終えたようだ。
 煙草臭い看守室のなか二人は椅子に座り、思い思いの時間を過ごしている。
 するとふいにミックが口を開いてこう言った。

「明日の執行ロズ一人だけだが大丈夫か?」

「……ああ、一人でやったことなら何度かある。心配するな」

「いやそういう心配じゃねぇ。"本当に執行できるのか”って聞いてんだ。カティアちゃんを、お前の手で、殺すことをよ」

「何度も言わせるな。問題ない」

 即座に言い切ったロズ。
 迷いなど微塵にも感じさせないほど力強く、キッパリと言い張る。
 それを聞いたミックは鼻で笑い煙を吐き出すのであった。

「俺達ァ、人を殺してんだ。たとえそれが救いようのないクズだったとしても、人間を、この手で、ぶっ殺してんだ。その”重み”を理解せにゃならん」

「……少なくとも俺自身は十分理解しているつもりだが」

「ああそうさ、そうだと。俺も、そしてお前もキャリアは長い。当然理解しているさ。してるだろ?」

 スゥー、と大きく煙草を吸いこむミック。
 煙草の先端がみるみるうちに短くなり、彼の肺のなかに黒煙がこんこんと溜まってゆく。
 そうして数秒の後に吐き出し、看守室がよりいっそう灰色に包まれる。
 その動作を2,3回繰り返した後、静かに語るのであった。

「だからこそ、俺たちは命ってもんを平等に扱わなけりゃならねぇ。どんなに聡明な魂だろうと、どんなに薄汚い魂だろうとその本質は同じだ。カティアちゃんの命とグリドリーの命だって同じだ。俺たちが一番理解していなければならねぇんだ。
 人徳やら功績なんてのは二の次さ。命そのものを処理する俺らにとってはそんなものは何の意味もない」

「まー、要するに俺は”ちゃんとやれよ”って言いたいワケよ。迅速で無痛、それがお前の得意ワザだろ?」

 ミックの問いかけにロズは無言で頷く。
 迅速かつ無痛。
 それはロズが断頭という手法を取っており、その腕前を熟知しているからこそ言える言葉である。

「……俺は変わらん。今までも、これからも。死刑囚の首を断つだけだ。何も考えず、目の前の仕事をこなす。それで十分だ。それ以上何も望まないし、それ以下もいらん。このままでいい……」

「そうかい」

 そう言うミックの表情は薄笑いをしているようにも見えるが、どこか寂しさを感じさせる一面も垣間見えた。
 彼自身ロズに対して思うところは多少なりともあるのだろう。
 だが、それをどうにかすることは彼にはできない。ロズの深すぎる過去の傷をただの同僚であるミックが癒すことなどできなかったのだ。





―――――





 看守室の入り口の扉からは雨音が聞こえる。
 落雷の音もひっきりなしに聞こえてくることから、外は相変わらずの大雨のようだ。
 ミックは明日の朝が早いので、夕飯を食べ終えるとすぐに就寝してしまっていた。
 ミックのいびきが響き渡る看守室のなかで、ロズは極力物音を立てぬように行動し始める。比較的汚れの少ないの食器を数枚取り出し、先ほど作っていた料理を入れてゆく。
 黄金色のスープの中には不揃いにぶつ切りされた野菜がゴロリと入っており、これだけでも十分腹が満たされてしまいそうなほどだ。
 スープ、サラダ、肉、パンをそれぞれ食器に入れトレイに乗せると、彼はその巨躯をのそのそと動かし独房の方へと足を向かわせた。

「……おい、おい、起きているか」

「ん、ロズか。そうか……もう執行の時間が来てしまったのだな」

「何を勘違いしている。夕飯だ、食え」

「夕飯……?あ、あぁ、そうかまだそんな時間か、早とちりしすぎた。いかんせんこうも真っ暗闇だと時間の感覚が狂って困る」

 ロズはトレイを独房の中に入れると、カティアを背に向ける形になって、鉄格子に寄りかかりながらその場に佇んだ。
 その姿は監視している、とは言い難いものであった。名目上は監視としているが、実際のところただカティアの側にいるだけの状態だ。
 腕を組み表情一つ変えぬ姿で立ち尽くしているロズの背後では、カティアが目の前のごちそうに目を輝かせながら貪りついている咀嚼音が聞こえてくる。

「……最期の飯だ。ゆっくり食え」

「さい、ご?明日の朝はないのか」

「……執行した後の排泄物を少しでも減らすために朝食は抜きにしている。そういう決まりだ」

「そっか……そう、だよな」

 ズキン。
 ロズと、そしてカティア両者の胸が痛んだ。
 決して何かに刺されただとか、持病の胸痛が発作しただとかということではない。胸の奥底の一番深いところがどうにも締め付けられているような、そんな感覚である。
 ただひとつわかることといえば、ひたすらに不快である、それだけだ。

「最期の晩餐、か……ははっ、贅沢を言えばもう少しいいものを期待したかった」

「……悪かったな。俺はそこまで料理は得意じゃない」

「えっ、これロズが作ったのか?てっきり国の配給だと思っていたが……」

「国の配給はもっと質素だ。最期くらいは良いものを食いたいだろうと思ってな」

「ふぅん、ロズの手作りねぇ……はむっ」

 パンを頬張り、肉を食いちぎり、スープを啜り、サラダをかじる。
 背後から聞こえる食事音は先ほどよりも少し大きくなり、まるでロズにわざと聞かせているのではないかと錯覚するほどになっていた。
 ロズが手作りしたと聞いた瞬間のカティアの表情といったら、明日死ぬというのにもかかわらずその不安を微塵にも感じさせぬほどの笑顔であった。
 そして同時に、彼女の中には食欲とは異なる別の欲求が生まれつつある。

「うまい、うまいなぁ、ロズ」

「……俺が作ったと聞いても疑いなく食うんだな」


「こんな薄暗くて、冷たくて、汚い場所で食べる食事でも他人の心がこもった食事というものはここまで暖かいものなんだな。あまりにも久しぶりすぎて忘れていたよ」

「……」

「ありがとうロズ。最期の最期に思い出させてくれて」

「……それが明日、死刑執行される人間の言葉か」

 ロズにとってカティアという存在は、今まで行ってきた死刑執行におけるイレギュラー的な存在であることに間違いないだろう。
 死ぬことに対して達観しすぎているし、やたらなれなれしいし、まして明日自分を殺すような相手に対して感謝しているときたものだ。理解の範疇を超えていた。
 だからこそロズは、このカティアという存在に興味が沸いたというのも事実なのだ。






「なぁ、ロズ。ひとつ聞いてもいいだろうか」

「……なんだ」

 ほとんど食べ終わったのか、はたまた食べるのをやめたのか。
 背後から聞こえる咀嚼音は次第に小さいものになっていき、やがて地下牢の重苦しい沈黙だけが二人を包み込んだ。
 ロズは相変わらず腕を組みながら鉄格子に寄りかかり続けている。
 カティアの方を向いてしまうと、決意したものが零れてしまうような気がしたから。ためらいが生まれてしまうかもしれないから。
 それはあってはならないことだから。
 ロズは背後の彼女を頑なに振り向こうとはしなかった。

「私はいったい、何をしたかったのだろうか」

「……それを俺に聞くか」

「私自身わからないんだ。家族を失って、義賊になって、人々のために盗みを働いて……結局私は私自身のために生きていたのだろうか」

「……俺はお前の人生なぞ知らん。お前がお前の思うままに生きていたのならば、それはお前が選んだ道だろう」

「だがこうして私は投獄されて、死刑される。そう思うと初めからすべて間違っていたんじゃないかって……私は元々まともな人生を送れる宿命じゃなかったんじゃないか、って思ってね」

「……お前自身がわからんものに他人である俺が答えられるわけないだろう。俺はお前じゃない」

「相変わらずロズは辛辣だな。だが……まぁそういうものか。私の人生は私にしかわからないよな」

「……過去を振り返るなんてことは無意味だ。やり直すことなんてできないし、失ったものは戻ってこない。何度後悔したところであの日が戻ってくることはない。俺も、お前も」

 在りし日の思い出は時として感情に浸らせ、時としてその身を束縛する呪いのようなものにもなりうる。だからこそ、耐えきれぬほどの苦しい記憶を糧に強くならねばならないのだ。心を強く持たないと自らの呪いによって身を潰してしまうから。
 ロズは痛いほど痛感していた。
 幾度となく暴力されている妹の姿が夢に出てきたことか。
 幾度となく家族を処刑した光景を思い出したことか。
 その度に死にたくなるほどの後悔と身を焼き焦がすほどの憎悪が身を蝕み、己の体を痛めつけるのだ。
 ロズはカティアに言い聞かせる一方、自問自答もしているようだった。
 腕を組む力がよりいっそう強くなる。








 カティアの食事が終わり、互いに最期の会話を交わしている。
 彼女の余命はあと半日といったところであろうか。このまま夜が明け、翌日の午前中には死刑が執行される。
 もはやカティアは目の前に見える男の背中が親しい友人を超えて、別の感情が芽生えていることに気が付き始めていた。
 高鳴る鼓動、火照る身体、疼く首の模様。
 彼女はロズに勘づかれないようにその身を小刻みに震わせている。

「……食器はそのまま中に入れておけ。明日、全てが終わったら片づける」

「ああ……」


 恐らく、この鉄格子さえなければ彼女は今頃ロズに襲いかかっていたのかもしれない。……いや、たとえ鉄格子があってもなくても襲っていた可能性もある。
 しかし彼女はそれをしなかった。
 体を震わせながら、爪を体に食い込ませながら耐えている。
 実際彼女はロズに接近して何をしたいかと言われてもよく分かっていない。ただ、近くにいて触れ合っていたかったのだ。そうすればきっと何かが満たされるという人間的本能、直感、女性の勘らしきものが告げていた。
 そして、それを実行しないのは、彼女が元来持ち得ているプライドと決意の強さによるものである。
 彼女は明日処刑されて死ぬという運命を受け入れ、認めたのだ。これ以上余計な荒波を立てず穏便に残された時間を過ごすという決意のもと、独房の中で耐えていた。

「……明日の準備があるからそろそろ失礼する」

 ロズは組んでいた腕をほどき、足を前へと動かし始めた。
 一歩、また一歩彼女の独房から遠ざかってしまう。
 
「ぁ、待っ……」

 カティアの弱弱しい声が漏れ、ロズは振り返ることなくピタリと足を止めた。

「……どうした、まだ何か用か」

「ぁ、う…………ぃ、いや、なんでもない」

 待ってと言いたかった。
 行かないでと叫びたかった。
 このまま朝が来るまで、一緒に話をしていたかった。
 最期の夜を一人で過ごしたくなかった。

「……明日の朝、起こしに来る」

 ロズは足を止めている。
 その背中からまるでカティアを見つめているかのようにじっと立ち尽くしており、巨躯は微動だにしなかった。
 カティアはこの言いようのない感情を押し殺し、唇を思い切り噛みしめている。今ここで口を開けてしまうと自分はきっと取り返しのつかないことを言ってしまうような気がしたから。ロズの決意を無駄にしてしまうような気がしたから……
 だから彼女は全力で口をつむぐのであった。
 その気になれば鉄格子から手を伸ばし、ロズの背中を掴めそうな距離でもある。
 それでも彼女は、しようとしなかった。

「おやすみ、ロズ」

「………………じゃあな、カティア」

 そう言うとロズの姿は地下牢の奥へと消えていった。
 



―――――





 暗い、冷たい独房の中で独り佇むカティア。
 彼女は独り。独りぼっち。
 肉親も、親友も、国籍も、信頼も、なにもない影のような存在。
 今にも消え入りそうな彼女は独り震えていた。
 今度はロズを襲おうという衝動を抑えているのではなく、溢れ出る感情に身を任せていたためである。
 死への恐怖。別れの悲哀。
 後悔の人生。諦めの決断。
 そのどれでもあってどれでもない。どうして自分が震えているのか、それすらもわからなかったのだ。
 カティアはやるせない感情を発散することもできず、ただただ身を震わせるということで耐え凌いでいる。
 そうしてひとり呟いて、夜明けを待つことしかできなかった。


 




 私の短い人生の中でたった一つだけ後悔したことがある。
 ロズ、お前に出会ってしまったことだ。
 必ず別れの時が来るとわかっていても、お前と話しているのは楽しかった。家族も友人もいない孤独な私をお前は満たしてくれた。
 別れがこんなにも辛いものであるのなら初めから出会わなければよかった。
 
 お前を……愛さなければよかった……
16/07/02 08:05更新 / ゆず胡椒
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待 た せ た な。

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