憤怒の罪
「手伝えなくてすまんね、書類の処理に時間かかっちまってよ」
看守室へ戻ってきたロズに対して、卓上に伏していたミックは顔を上げながらそう言った。既に書類は数冊の束に纏められており処理は終わっているらしく、彼の顔色には若干の疲れが浮かび上がっている。
しかし、疲れ顔なのはミックだけではなく、眼前に聳えるこの大男ロズもまた気力の抜けたような疲れ顔をしていた。精の抜けた顔、例えるならばそうであろうか。
「……」
すやすやと眠るカティアを起こさないようそっと独房へ置いてゆき、ひとり静かに戻ってきたロズ。「これ以上はやめろ」という執行人命令を背いたカティアにそれ相応の処罰を下そうとも思っていたのだが、艶のある寝顔を見るとどうにもそうする気にもなれない。そして、その寝顔が在りし日の光景を否応なしに想起させるので尚更ロズのやる気を減衰さているようであった。
ともかく、彼はカティアに何をすることもなく穏便に隠密に戻ってきたのであった。
「あン?どうしたそんなシケた面しやがって」
「……すこし風に当たってくる」
ロズはそれだけ言い残すと、出入り口の扉を開けて外へと出て行ってしまった。連日降り止まぬ大雨と轟雷の下、傘すら持たず雨の中へ消えてゆく。これでは風に当たるというよりは雨に打たれると言ったほうが正しいのかもしれない。
そして、らしくないロズの背中を見送るミックは「何かあったな」と直感した。
彼の知るロズという男は、クソがつくほど大柄で、無愛想で、そして几帳面である。煙草の吸殻を踵で踏みつぶすだけで露骨に顔を歪ませ、靴の砂埃をテーブルの上で払うと額に青筋が浮かび上がるほどの几帳面さである。
そこまで几帳面な男が、大雨の降る外に傘も持たず出かけるということがありえるだろうか。傘は看守室にいくつかストックしているので、少なくとも傘がなかったがためにそのまま外に出たということはない。出入り口のすぐ側に置いてあるので気がつかなかったというわけでもないだろう。
「ま、大体察しはつくけどよ」
すぅー……ともう一本煙草を大きく吸い込み煙を肺に溜める。
それを一気に吐き出すと、吸殻をいつものように踵ですり潰し床に灰色の滲みを生成したところですっくと椅子から立ち上がった。
若干クラッとめまいがした後、煙草の効能により冴えた頭で独房の方へと向かい始める。
―――――
カコン、カコン、カコン……
相も変わらず薄暗く、錆びた水溜りとボロ布と小動物の死体が散乱する独房区画。先ほどまでロズが歩いていた場所を、今度はミックが慣れた足取りで進んでいる。
一時期はロズがその持ち前の几帳面さで掃除しようとも計画していたらしいが、いくら掃除せども無限に沸く蛆とネズミの数の暴力には勝てずなくなく諦めたという過去があるという。
「よぉ気分はどうだこのクソ野郎」
「ぐひっ……オマエかァ」
「お、ちったぁまともに話せるようになってんじゃねーか」
独房の隅でしゃがみ、縮こまっている人影に語りかけるミック。
その人物が声に反応しミックの方ににじり寄ると、痩せこけた容貌が露になり生理的嫌悪感を感じさせずにはいられないものだ。
その人物、グリドリーは両手で鉄格子を掴むとじろ、と湿った目つきでミックを睨み返している。
「ク、クスリを出せっ……オンナでもいいぞォ……」
「あー?誰に向かって口聞いてんだ」
「ぐぐぐげ、アレがないとオデは……オデは……アアアッ」
そう言うとグリドリーは頭を、腕を、顔面を両の手で掻き毟る。クスリが切れた禁断症状なのか、はたまたオンナを殺せない鬱憤からか、もしくはその両方からなるストレスが引き起こしているヒステリーだ。体のいたるところに刻まれている血の滲んだ爪痕がいかに力強く自らの体を痛めつけているかがわかる。
「俺はな、お前をどうやって殺そうかずっと考えてんだよ。お前はどうやって死にたいんだ、え?」
「クククク……俺はオンナを殺したいナァ」
「……ンなこと聞いてねえんだよオラッ!」
ガシャァン!!
直後、ミックの脚は宙へと振り上げられ、眼前の堅牢な鉄格子に向かって皮製のブーツが叩きつけられた。
勢いよく鉄格子を蹴るとその金属音が地下牢全域に響き渡り、錆水の水溜りの波紋が揺れ、音が反響する。金属の甲高い音ではなく、パイプ状の巨大な金属管が鳴り響いた伸びやかな低音である。
その音はひととおり響音すると、やがては石畳が吸収して再び地下牢に静寂が戻った。
分厚い皮のブーツのソールが再び床の石畳へと着地すると、ミックは悪態をつき独房内を見下ろす。
「人の話を聞けこのクソが」
「うげっ、げげっ、乱暴だな……あう?爪が」
気がつくとグリドリーの片手指の爪が剥がれていることに彼自身今発覚したらしい。先ほどミックが鉄格子を蹴飛ばした弾みに彼の爪まで一緒に蹴ってしまったのだろう。ミックもグリドリーの反応を見て今気がついたようである。
しかし、当の本人は爪が剥がれたというのにもかかわらず痛がる素振りなど微塵もなく、ただ指の先端から流れる流血を眺め恍惚としているだけであった。
時おりちゅぱ、ちゅぱ、と自らの指を舐め血を吸い取っているその光景はまるでヒルのようだ。気持ち悪いことこの上ない。
「チッ……やっぱ痛みが欠如してやがるか」
「ち、ちち、血血血……あぁ、キレイだナァ……」
「…………」
グリドリーを見下だすミックの瞳はもはや哀れんでいた。性根を歪ませ薬に溺れた人間の末路がどうなるかは理解していたつもりだったが、それでもここまで救いようのない人間を見るのは過去に一度か二度あったかどうかというものだ。
それ以上何も言うこともなくミックはグリドリーの独房を後にし、斜め向かいの独房へと足を向かわせた。
後ろの方では「オンナをくれ」「クスリが足りない」などという呻き声が聞こえたが、決して振り返ることはなかった。
―――――
そうして斜め向かいの独房へとやって来たミック。
その独房にも死刑囚は収容されており、グリドリーと同じように独房の隅で体を縮こませていた。しかしその容姿はグリドリーとは正反対であり、流れるような蒼い長髪と囚人服の上からでもわかる華奢な肢体は瑞々しき女性であるという確信をつけることができる。
その髪は地下牢での生活により若干痛んでしまっているようだが、それでもなおこの薄暗く小汚い場所においては唯一と言ってもいいほど美と清潔を象徴しているものだ。
丁度いい場所に今にも朽ち果てそうなボロ椅子が転がっていたのでミックはそれを持ち運ぶと、カティアの独房の前へ置き自ら腰掛けた。
「やあカティアちゃん。ちょっとお話しない?」
「…………」
「カティアちゃん?もしもーし」
「…………んぁ」
「うぉーい聞こえてるのかーもしもしー」
「…………んん………………ッッ!!!!お、お前は確か……ミック執行官!な、何をしに来たっ」
数秒上の空であったカティアであったが、鉄格子の向こうの男を視界に入れると慌しく意識を取り戻し独房の奥の方へとその身を追いやる。
ロズから聞いていた変態執行人ことミック・ハインリヒ。自らの欲望のままに死刑囚を犯し乱暴する卑劣で最低な男だということを思い出し、カティアは反射的にその身を守ろうと奥へ逃げたのだ。
好き勝手に女性を食い物にする悪徳な人物に対し、女性であるカティアが警戒しないわけがない。
「ちょ、それってひどくね?人の顔を見るなり逃げるなんてマナーがなってねぇぜ」
「白々しいことを……おおかた私目当てなんだろう」
「まー目当てっちゃ目当てなんだが、俺はただオハナシしたいだけよ?」
ここが独房ではなく、普通の街中であったとしたら一目散に逃げていたものを。そう思うカティアである。
「あ、もしかしてロズから俺のこと聞いたな?あんにゃろ勝手に人のこと喋りやがって」
「……言っておくが私とて無抵抗で犯されるわけではないぞ」
「ちょいちょい、だから待ってってばカティアちゃん。俺カティアちゃんのこと犯そうとなんて思ってないってば」
軽いトーンでへらへらと饒舌にまくし立て、大げさなジェスチャーで潔白を証明するミックであるが、どうしようともその身を包む怪しげな雰囲気は脱ぎ払えるものではない。
それどころか必死に身の潔白を証明しようとするものだからかえって逆効果になっていることにミックは気が付いていないようだった。いくらそれらしい事を論じたところでカティアの耳には声帯の音が入るだけで、言葉としての意味は彼女の脳内には届くことはない。
「ってか俺鍵持ってないからカティアちゃんの独房入れないし」
「嘘を言え、こういう施設には必ずマスターキーとかがあるだろ」
「前の責任者が紛失しちゃってさ、それからずっとマスターキーないのさ」
「……口では何とでも言える」
「んー随分と信頼されてないな俺」
がっくしと頭を下ろしうなだれながら落胆するも、その様子すら疑いの目で見られていることをようやく自覚し少し切なくなるミックであった。
彼はボロ椅子に腰を深めながら続ける。
「じゃあいいや、そのまんま聞いてておくれよ。カティアちゃんさぁ……ロズに何かしたでしょ」
その言葉を聞くや否やカティアはぎく、と心の中で動揺した。
それもそのはず、カティアは先ほどの行為、ロズの陰茎を舐め精液を啜ったという事実を忘れていたわけではなかったのだ。自分自身が少しおかしくなっていたことも、何をしでかしていたのかもはっきりと覚えており、それゆえになぜ自分があのように至ったのかが理解できなく一人悶々と悩んでいる最中であった。ミックに話しかけら上の空だったのもそれが原因である。
自分とロズしか知りえない情報をなぜこの男は知っているのか。へらへらと人を嘲笑うかのような風貌のこの男が何故?
カティアの頭の中は疑問の堂々巡りを繰り返している。
「なっ……な、なにもしてないぞ、うん」
「ははは!なにそれ、嘘ついてるつもり?バレバレだっつの」
「ぐっ……」
道化のように人を翻弄し、おまけに執行人としての権力もある。
彼のような男はカティアの最も苦手とするタイプの人間であり、そしてそのことは彼自身も理解しているようであった。それを把握した上で他者を嘲笑うのだからこれほどタチの悪い者もそうそういない。
「俺は少々鼻が良くてね。ニオイがわかるんさ」
「ニオ、イ……?」
「そ。それも良いニオイじゃなくて格別にくっさい嫌なニオイだけがよく臭うワケよ」
椅子の上で足を組み自慢げにそう語っている。
カティアは依然として鉄格子の向こうにいるミックに対し厳重な警戒をしているわけなのだが、それと真逆にミックは独房の入り口の鍵穴に手を差し伸べる素振りもせずその場にとどまっているだけであった。
……本当に鍵を持っていないのか?
そう勘ぐる場面も多々見受けられたが、しかしそれでも油断はしてはならないというものだ。相手はあの変態執行官ミック。いつ、何とき、襲われるか定かではない。
「におう、におうねぇ、くっせぇ精のニオイがプンプンしてやがる」
「……何も感じないのだが」
「いーや臭う。めちゃくちゃ臭う。カティアちゃんまさか、自分の体臭に気が付いていないだなんて言わないでくれよ?」
「…………?」
カティアは数回すん、すんと鼻をひくつかせ周囲の臭気を嗅ぐが特別異臭がするわけでもなく、地下牢の湿ったカビのにおいがするだけでそれ以外は何も感じない。時おり錆びた鉄の臭いや腐った生ゴミの臭いがするときもあるが、それは排気口から逆流してくる廃棄物の臭いであろう。精のニオイというものではなさそうだ。
そもそも、精のニオイというものをよくわからない、というよりも恐らく嗅いだこともないカティアがミックの語る悪臭を理解できるはずがなかった。
男と女の汗水混ざり、血潮滾る肉欲の香り。
――それをカティアが知るはずもない。
「その様子だとマジで気が付いてないのか。ハハッ!こりゃ傑作だ」
「さっきから一体何を言っている。精のニオイ?そんなもの……」
「そんなもの?よく言うよ、身体中からくっせぇ精臭撒き散らしてる女がよ。発情しきった雌臭がしやがる」
「なっ……」
その臭いがなんなのかは皆目見当が付かなかったカティアであったが、少なくとも今のミックの言葉から想像するに良きものではないということだけは悟った。
意味はわからずとも遠まわしに罵倒されているような気がして多少の苛立ちが募る。
「カティアちゃんから雌のニオイがして、ロズから雄のニオイがする。同じ場所で同じ時間にそれぞれが精のニオイを発するなんて随分と面白い偶然だなぁホント。
それとも……本当に偶然なのかな?くくくっ」
反論しようとしたが、続けざまに言われるミックの言葉を聴いた瞬間、反論は無意味であると確信するのであった。
完全に読まれている。
人を裁く役職柄この男もまた人間の観察はロズ同様に卓越しており、ただの元義賊であるカティアが心身掌握を免れる手立てなど元よりなかったのである。
「…………」
「沈黙は図星。そうだろ?」
「…………そうだ、悪いか、私がやった」
「はっは!処女のクセになかなかダイタンなことするじゃん!
そーかそーか、ロズからの命令じゃなくてカティアちゃん自身からやったのかそーかそーか」
「あっ……!!」
まんまと口車に乗せられ顔を真っ赤にして照れるカティアとその正面で腹を抱えながら大笑いするミック。笑いの振動で古びた椅子はギシギシと軋み今にも壊れてしまいそうだ。
カティアにいたっては真っ赤になった顔面を両手で覆い隠しミックに見えないようにしている。
自分から性的行為を行なったという事実がこの上なく辱めなのであろう。自らの意思ではないにしろ、自分が行なった事実には変わりはなく、過去を変えることなんてできるわけがない。
それならばロズからされたほうが幾分かマシだったのではないか……そう思うカティアなのであった。
――しかしゲラゲラと笑い転げるミックの瞳がギラリと光り、その一瞬を捉えて逃さない。
「今カティアちゃん”ロズからだったらされてもいい”と思ったな?思ったろう?なあ、おい」
「!!!」
いつの間に自分はそんなことを思うようになっていたのだろうか。
カティアは自分が信じられなかった。
今の今まで処女を守り通してきた自分が、知り合ってものの数日、それもいずれ自分を殺すことになる相手になら抱かれてもいいという思考に至った自分が信じられなかった。
一瞬でもロズに気を許してしまったことに彼女はこの上ない歪な感情を覚え、無理やりなかったことにしようとする。
いずれ私を殺す男に幻想を抱いてどうするというのだ?
そう頭の中で警鐘を鳴らし消そうとするのだが、目の前でニタニタと笑う男の意地悪い笑顔がどうにもそうさせてはくれないようだ。
「私が?ロズを?ば、ばかにするなっ……」
「いやーしかしそうかぁ、カティアちゃんガード難そうとは思ってたんだけど意外と尻軽だったのな」
「いやだから人の話を……」
この男、完全に聞いていない。
しかし悲しいかな、ミックが先ほどから言っていることは8割ほど事実であり認めざるを得ないことであった。
カティアが尻軽だというのは彼の妄想の他ならないが……カティアがロズと性行為に近いことをしていたことは紛れもない事実であるし、彼女がロズに一瞬でも気を許していたのもその通りである。
つまるところミックはその嗅覚と勘でカティアの意思行動を把握していたのだ。
魔法のそれに近い精度を誇る彼のセンスは、ひとえに長年の執行人の経験が為せるものであり、並大抵の人間が行えるものではないだろう。
「目的は何だ」
「あー?」
「わざわざ私のところまで来て、私に恥をかかせた挙句嘲笑うだけに来たわけではないだろう」
「ああ、うん。ちょっとロズの様子がおかしかったからカティアちゃんなにか知らないかなって思って来ただけだよ。決して精神崩壊するまで犯しつくしてやろうだなんて考えてもないし、焼きゴテをつけて所有物として登録しようとしてたわけでもないさ。うん、ホントに」
「…………」
よくもまあロズはこのような変態でトチ狂った男と共に仕事をしているものだ、と心底カティアは感服し、同時に戦慄した。
何よりも恐ろしいのは、彼の発するジョークが全くジョークとしての意味を成していないことであり、人を楽しませる要素など皆無であることだ。そこにあるのはただただひたすらに身悶えするほどの不快感のみである。
もしくは本人にとっては最高に面白いジョークなのかもしれない。
しかし、長く地下牢に篭りすぎた彼は一般人が嫌厭してしまう常識など深く考えることはなかった。
「まぁ実を言うとカティアちゃんに会いに来たのにはもう一つ理由があってね」
「今度は笑える冗談にしてほしいものだが」
「あらー手厳しいはっはっは……」
ケラケラ、と笑うミックであったが笑い終えるとその気配が一変する。
先ほどのように陽気で気さくな雰囲気とはガラリと変わり、おもむろに胸元から煙草をとりだすと吸い始めたのだ。
スゥー……ハァー……
一度大きく深呼吸する。辺りは煙草特有のにおいと煙に包まれ、その煙にまぎれるかのように彼の陽気さもどこかえ消えてしまった。
その気配の変わりようにカティアも気がつかないわけがなく、ついつい身構えてしまう。
「……そっちが本当のお前か」
「どっちでもいいじゃねーか、俺はカティアちゃんの担当じゃないんだし。カティアちゃん、ロズのやつ何か言ってなかったか?」
「何か、とは随分漠然としているな」
ミックの変貌のしように多少の驚きを隠せないが、過去義賊だったときに何度かこういった者を見てきたカティアはそこまで大きく動揺することはなかった。
煙に紛れ本性を隠す。心に闇を抱え、その闇を自分で自覚している者がよく行なう手段、そういうふうに記憶していた。
「何かと言われても……一字一句会話の内容など思い出せないぞ」
「気になる一言でもいいんだ、なにか身に覚えはねぇか」
「気になる一言……ううむ……」
………………………………
…………………………
………………
…………
……
「あ、そういえば……」
「そういえば、なんだ?」
「この前、私に対して”似ている”と言ったな。その時は特別気にすることはなかったが思い返してみると少し気になるものだ」
「それに対してカティアちゃんは何て?」
「”何に似ている?”と返したら”気にするな”の一点張りだったさ」
「似ている、アイツはそう言ったのか。似ている……はて……」
その言葉を聞いてミックは顔をしかめ考え込む。
彼の記憶を総動員してロズの知り合いの顔を思い出していた。ロズの知り合いにカティアちゃんに似ている人がいただろうか、もしかすると容姿ではなく性格かもしれない。そうなるとお手上げだぞ、と。
うんうん唸りながら頭をフル回転させ記憶の引き出しを探索するミック。
「あ」
「どうした、何かわかったのか」
そうして数分が経過した頃だろうか、ふと彼の脳内の煙が晴れたかのようにある一人の人物が思い当たった。独房内で怪訝そうに佇むカティアの容姿と脳内の記憶の人物とを照らし合わせ、その姿がほぼ一致すると彼は「チッ」と舌打ち納得する。
「……わかった。どうしてロズがお前を贔屓するのかすべて合点がいった」
「おお、では教えてくれ。私は何に似ていたのというのだ」
再び舌打ちをし露骨に胸糞悪そうな素振りをするとミックは言う。
「それは俺の口からは言えねぇ。俺が言っても何の意味もねぇ」
「では誰から聞けば……」
「ンなもん一人しかいねーだろ。あの大男で大馬鹿野郎から直接聞きな」
悪態をつき機嫌を悪そうにしている。
他者のカティアからでも明らかにわかる機嫌の悪さである。一体彼が思い当たった人物とは何物なのであろうか。
「チッ……あのバカが……」
ただの呟きだったがそれはカティアの耳にもしっかりと聞こえるほどの呟きであった。それほどまでにカティアに似ている人物は因縁深い人物であるということを裏付ける証拠であり、余計気にさせてしまうというものだ。
しかし彼は決してそれ以上口を割ることはなかった。
いくら口が軽くお喋りな彼であっても、他人の掘り起こしてはいけない記憶の核心に触れる部分をそう易々と話すことはできなかったのだ。
変態で、常識がいくらか欠如しているミックでさえも話してはならない事情というものは理解しているようである。
「聞きたきゃロズに聞けばいい。だが、それを聞いてどう思おうともそりゃカティアちゃんの勝手だぜ」
「…………」
「俺的には、もうすぐ死ぬんだし無駄な詮索はしないほうがいいんじゃないかと思う」
「そういわれると余計に気になってしまうものでな」
「へっ……そうかい」
煙草を3本ほど同時に吸い込み再び深呼吸をするミック。
薄暗い地下牢は煙草の煙も相まってことさらに暗みを増し、重苦しい空気を漂わせる。
外の暗雲、豪雨は窓のない地下牢からでは確認することはできないが、さらに激しい雨になっているのだろう、そんな気がした。
「カティアちゃん。お前はもうすぐ死ぬんだ。そう確定付けられてるんだ。わかるか?」
「…………ああ、己の罪は罰として受け入れなければならないから、な……」
「そうだ。そうわかってんなら……これ以上ロズに詰め寄るのはやめろ」
「わ、私は別に詰め寄ってなど……」
吸殻となった煙草を強く踏みづけ、彼は力強く言う。
その力強さは、今までカティアの感じるミックの気配とはまた別の異なる気配を孕んでいた。芯の通った、曲がりない言葉。
「死刑囚ごときが執行人様にゴチャゴチャ言ってんじゃねーよ。お前は死ぬんだ、絶対に。だったらおとなしくしてろや。
俺にできることは何もない。そしてお前にできることも何もない。死刑囚ごときのお前に何ができる。お前がロズの傷を癒したところでお前はいずれ死ぬんだ、ロズに殺されるんだよ。
それがわかってるんなら、もうこれ以上ロズに詰め寄るのはやめろ。お前も……あいつも辛くなるだけだ」
それだけ言い残し、彼は椅子から立ち上がると看守室の方へと戻っていった。
一体どういうことだったのだろうか。
カティアの頭の中ではそれだけが堂々巡りをし、歩き去る男の背中を見届けることしかできなかった。ミックが背を向ける瞬間に見せた、怒りとも悲哀とも言いがたい複雑な表情が気になって仕方がなかった。
「…………!?」
ぞくり。
ミックが去って行った後、言いようのない不信感がカティアの身を一瞬包み込んだ。
まるで全身を嘗め回されるかのような心底気持ちのわるい気配が一瞬、ほんの一瞬だけだが確かに感じた。
しかし一瞬だったために、ただの思い違いだと思い込みそれ以上詮索することなかった。
その気配がすぐそこに潜んでいるということにも気がつかずに。
―――――
ザザァ―――
雨が降り続いている。時おり見せる稲光が爆音となって辺り一片に轟いている。時刻は夕方を過ぎ、ほぼ夜になりかけている時間だ。
ずぶ濡れとなった体を払う素振りもせずに室内へと戻ってくると、ぽたぽたと雫の垂れる上着をフックにかけ、冷めたコーヒーカップを手に取った。
ロズはそのコーヒーをぐい、と一気に飲みほすと今度はポッドに入った熱々のコーヒーを注ぎそれを飲み始める。
風に当たる、もとい雨に打たれに出て行ったロズが看守室へ戻ってくるとそこにはミックの姿はなく、ただテーブルの上に置紙が一枚置かれているだけだ。
その字は煩雑に、まるでミミズが這ったような汚らしい字で書き殴られており、内容を読まずともミックが書いたものだと確信できる。
『よぉ、少しはアタマ冷やしたか?俺はこれから上層部との会議で抜けなきゃいけないから、今夜の見張り当番はロズがやってくれ。ちなみにカティアちゃんには晩飯配給しといたぜ、これくらいなら管轄外でも大丈夫だろ?―ミック―』
置紙にはそう書かれてあった。
家に帰って特別何かやるべきこともないロズは無言で承諾すると置紙を丁寧に折りたたみテーブルの隅に寄せる。
夜は長い。
外は相変わらずの暗雲なので夕暮れを拝むことは適わなかったが恐らくすでに夕刻ではないのは確かである。夜の帳が下りたばかりであろうか。
ロズはおもむろに投げ捨てられている夕刊を手に取り、コーヒー片手に目を通すのであった。
コンコン――
コンコンコン――
それから数時間が経過した頃である。日が変わるか変わらないかというくらいの、そんな時間だ。
ふいに出入り口の扉からノック音が聞こえてきた。
ノック音のテンポは若干急かしているようにも聞こえ、うつろうつろ仮眠していたロズの眠りを妨げるには十分である。
「こんな時間に誰だろうか。ミックではなさそうだが」と思い、大きなあくびを一つ上げて扉の方へと歩み寄るロズ。
そして扉を開けようとすると、逆に扉のほうからひとりでに開き一人の人物が姿を現した。
「ロズ上官殿お勤めご苦労様であります」
「……こんな時間に何のようだ」
扉を開けて出てきたのは名も知らぬただの一般兵であった。雨でずぶ濡れの軍服に身を包み敬礼をしているので一応形式どおりに敬礼で返してあげるロズ。
小柄で、そこらへんのどこにでもいそうな一般兵がこんな陰気臭い場所に何の用があろうものか。特に知り合いでもなく、見たこともない兵がこんな夜分遅くにまで来るとは何の風の吹き回しであろうか。
とにもかくにも、ロズはそれらを問いただす。
「実は真にお恥ずかしい限りでありますが、夜勤任務中に資材の運搬をしていたのでありますが、運搬先の小屋が連日続く雨風で崩れてしまいまして……」
「…………」
「資材も全て小屋の下敷きになってしまいまして……その、ええと」
「ハァ……俺にも手伝ってほしい、おおかたそんなところだろう」
「も、もうしわけありません!上からの指示でありますので我々にも拒否権というものはなく……」
折角仮眠していたところを起こされ気分を害されたところに、さらに本来行なうはずもない時間外勤務と来たものだ。ため息が出ないわけがなかった。
しかし上からの指示、つまるところ兵士達の上官といえば軍が関わっているわけで、軍からの指令ならばロズとて逆らうわけにもいかず、半強制的に労働を強いられる現実である。
「ロズ上官殿の怪力があれば百人力との噂はかねがね耳にしておりますので」
「……そんな噂が一人歩きしてるのか」
「夜勤任務で人員が不足しているので至急救援をお願いできますか」
やはり拒否権はないらしい。
こんな大雨の下で、しかも深夜に瓦礫の撤去ときたものだ。ため息のバーゲンセールである。
ロズは兵士を一旦待たせると、看守室へと戻り外作業するための作業着を準備し着替え始める。そうして合羽を羽織り防水対策も十分に済ませ、準備を完了すると再び扉へと戻り兵士と共に外の闇へと消えていくのであった。
――そして、深夜の暗闇よりも暗く邪な闇が今この瞬間に動き始める。
――地下牢の一角でそれは活動を開始した。
―――――
ぺた…………ぺた…………
雷の轟音も大雨の爆音も聞こえることのないこの地下牢。
カティアは独房内でひとり、石畳の上に寝転がりながら寝息を立てていた。なぜベッドの上で寝ないかと問われると、シラミやらダニが無尽蔵に沸く蟲床で寝れるはずもないからという至極単純な理由である。
石畳の上はごつごつで寝返りを打とうものなら石の凹凸が体中を刺激し安眠など皆無なのだが、そんなものはカティアにとっては慣れたものである。義賊時代、野営をすることも度々あったものだから必然的に慣れてしまうのも無理もない話だ。
ぺた…………ぺた…………
「んん……む……」
ふと、目が覚めるカティア。
まだ朝ではなさそうな時刻だが不意に目が覚めたのは尿意を催したからだとかそういうわけではない。石畳が冷た過ぎて寒いからというわけでもない。
何か――物音がするのだ。
ぺた…………ぺた…………
よくよく耳を澄ましてみると規則的に鳴り響くその音はすぐに足音である、ということがわかった。しかし、気になるのはその音の性質だ。
ロズやミックが来るときはブーツの底が石畳に打ち付けられ気持ちのよい乾いた音が鳴るはずである。だが、今聞こえるこの音は何だ?
湿りを気をもった気味悪い粘着性のある音だ。なめくじが床を這うようなじめじめとした湿気を感じさせるとともに、振り子時計のように正確なテンポで刻み響いている。
そして特に恐ろしいのはその音がこちらに近づいてきている、ということだった。
ぺた…………ぺた…………
「ロズ……ロズなのか?おい……何か返事はないのか」
何も返って来ることはなかった。返って来るのはこの奇妙な足音だけだ。
ロズではない、これは違う。ミックでも……なさそうだ。
ではこの足音の主は一体何物か?ロズとミック以外の新たな執行人の足音か?
否、それは違う。カティアは前もってここの執行人は二人しかいないということを聞かされており、第三者の存在などありえないのだ。それに仮に新たな執行人だったとしても、この不可解極まりない足音は執行人のブーツから奏でられる音とはまるで違っているのだ。
そう、これは――裸足の音。
ぺた……ぺた……ぺたっぺたっぺたっ……
「誰だ……誰だっ……お前は一体誰だッ……!」
近づいてくる足音の主に向けカティアは怒号を放つ。
暗闇の向こうで確かにこちらに近づいてくる人物目がけ、恐怖にも近い質問を投げかけると答えが返ってくるよりも早くその姿が露になりつつあった。
少しずつ……少しずつその姿が見えてくる。
白と黒のボーダーラインが描かれた服を着て、がりがりに痩せ細った頬を顔面に形成し、逆に毛髪は一本たりとも存在していない。両の目の動向は左右いずれも向きが一定しておらずどこを見ているのかわからない不安を感じさせる。
そう、その男の着ている服はカティアの着ている服と瓜二つであった。瓜二つどころの話ではない、全く同じなのだ。
それが何を意味するかは考えずとも理解できるだろう。むしろこの場に限っては理解したくない現実というものである。
「グ、グリドリー死刑囚!?なぜ独房外に!!」
グレゴリオ・グリドリー。
彼は今カティアの独房の目の前に立ち尽くし、その視線のふぞろいな瞳孔で舐め回すようにカティアを視姦している。口からは泡が吹き出て、薄ら笑いを浮かべている。
カティアは本能的に直感した。
こいつは――ヤバイ。
カティアは心底、戦慄した。
このような男が私の独房の斜め向かいにずっと存在していたという事実に。それをずっと知りながらものうのうと何の対策もせずに独房内で油断していた自分自身に。そしてその人物が今私の独房の目の前で私を品定めしているように見つめていることに。
これは異常だ!どう考えても、誰がどう言おうとも緊急事態だ!!
脳裏で危険信号が発せられると、その瞬間全身から冷や汗が滝のように流れ始めた。
「うげ、げへげげげ、みぃーつけたみーつけた、オンナみつけた♪」
「くそっどういうことだ!なぜお前は外にいる!?」
彼がどのような意図でここまで来ているのかなど、そんなことはどうでもいい。重要なのは彼が女性の殺害に快楽を感じる狂人である、それだけわかれば十分なのである。
「あーへはは、オデはよ、元々は鍵職人やってたんだでへえへへ」
「鍵……職人だとッ」
「いままでもォ〜いろんなオンナの家の合鍵つくってよォ……うげ、げへっ、アアアッ!!コロシタ!たくさんコロシタ!!うははっへへへ!!」
地下牢全域に響き渡るほどの大笑いを発しながら彼はその小汚い指を不必要にシャカシャカと動かし興奮しているようであった。
その光景を見るカティアは血の気が引いていくような思いである。
「オ、オデのこの工具されあれば……この鍵だってなァ〜ウヒヒウヒ」
「そんなもの……どこに隠し持っていたというのだ!投獄される時に身体検査があっただろう!」
「うへっ、肛門の中にダヨ!ぐひっ、ぐぐぐぐげげえええげああはははは!!」
「……なんだこいつは……完全に狂っている……」
グリドリーの手元には人糞の付着した悪臭漂う工具が数点握られていた。彼は自らの直腸内部に工具を隠すことにより投獄時の身体検査を難なく通り抜けることができたのだ。その執念たるや並大抵の人間が起こせるものではない。
よく見ると彼の手首と足首の枷は両方とも外れており、彼は完全に自由の身となっていた。
まず手首の関節を外し、無理やり手錠を外すと、続いて自分の肛門に指を突っ込み工具を取り出す。そしてその工具を用いて足枷を解除し、独房の鍵すらも解錠してのけたということである。
自らの意思で手首の関節を外すなどという離れ業は痛覚を喪失している彼だからこそできる芸当であり、普通の人間にはまず不可能に近いだろう。
「いまコロシテやるからまってろ……コロッ、ッコロコロ殺殺殺殺殺!!!オンナ!オンナ!」
「ひっ……」
彼は工具を用いてカティアの独房の鍵を解錠し始めた。
ガチャガチャと鳴る雑多音はさながらカティアの命のカウントダウンを告げているようで、これが解錠されたその時がカティアの最期である。
独房内で枷の着けられているカティアと、かたや枷を全て外し独房からも脱出したグリドリーとでは圧倒的にグリドリーが優位であった。解錠の妨害をしようともしたが身体を拘束されているので思うように妨害することはできない。そもそも独房外にいるグリドリーに手の出しようもないのだ。
そこでカティアは最後の手段をとる。
それは古今東西、襲われた際には大声を出せ、というものであった。孤児院で教わったことがまさかこんな形で発揮されようとは思うまい。
「ロズッ、ロズッー!!ミック執行人でもいい!助けてくれ!!!ロズー!!!」
しかし呼びかけには誰も応じてはくれなかった。
唯一応じてくれたのはグリドリーのみであり、彼の告げる言葉にカティアは絶望へと落とされることになる。
「無駄だぜぇ……ジャマなあいつらは今二人ともいねェよ……げっげっげ!
だからこのチャンスをよォ〜ずっと待ってたんだへあははえへ!」
「……!?なっ、そんなはずは……うそ…………」
それを裏付けるかのように、彼女が何度大声で叫ぼうともその叫び声は石畳に吸収されるのみで、駆けつけてくれる者など誰一人として来やしない。
ミックは会議に出席しており、ロズは崩れた倉庫の撤去作業中である。そのことを知るはずもないカティアは誰もいない看守室目がけて必死の呼びかけをするが完全に無意味であった。
誰も来ない。助けに来てくれない。
その残酷な現実に打ちひしがれる。恐怖でしかなかった。
カチャ、カチャ、カチャ……
ガキィン!!
「!!……だ、誰か!!誰でもいい!!誰かッッ!!!」
「ムダムダムダァこんな場所にダレが来るかへっへっへ」
「うっ……!」
ついに鍵を解錠してしまったグリドリーはその痩せ細った細い腕で鉄格子を開く。
普段ならばロズしか開けることのできぬその鉄格子をいとも容易く開けるその姿は、さながら死を提供しに持ってきた死神かのように思えた。もしかすると本物の死神の方がまだ生易しいのかも知れない。
「あ゛っははばばあ゛あ゛ァァ……オンナが、久しぶりのオンナだァうひひひ」
ゴパァ……と口を開き汚らしい笑みを浮かばせる。
その歯は一体どれほどの期間研かれていないのだろう、その全てが茶色く染まり、奥歯にいたっては黒ずんで溶けているものすら見受けられた。
汚いという言葉で表せたほうが幾分かマシに思えるほどだ。それは”歯の原形をかろうじて保っている口内のナニか”と表現するほうが正しいほどである。
グリドリーは独房内に入り鉄格子を再び閉じてカティアを逃げられないようにすると、一歩ずつコチラへにじり寄って来た。
白黒ボーダーの猟奇者は気色悪い息づかいで侵略し始める。
「くぅっ……こうなれば……くらえっ!」
「アウゥ!!」
彼女とて無抵抗で殺されるのはまっぴらごめん、ということだろう。
誰の救援も望めないということを悟ると、彼女は抑制された身体の最大限を使用し最後まで抵抗しようと腹をくくったのである。
四肢は枷が装着されているので思うように動かすことはできないがそれでも抵抗ぐらいならばできるはずだ、そう思い彼女は臨戦体勢をとった。
元々、義賊をやっていたために身のこなしや体術などは人並みに習得しているカティアは枷をつけられていても必要最低限の動きはできるようである。
鎖と鉄球を付けられた右足を渾身の力で振り絞り、勢いよく振り上げた!
その先にあるのはグリドリーの股間だ。オンナを殺せる興奮に欲情し、完全にいきり立つその醜い棒目がけて足を振り上げると見事足先は彼の睾丸に的中する。
それは男性ならば抱腹絶倒間違いなしの全力の金的であった。過去何度かこれで下賎な男どもを撃退した記憶のあるカティアは今回も同じように金的で撃退できる、確信していた。
――かに思えた。
「あがっ、ががあが、がァ!きンもちイイ……アアアッ!」
「なんだ、こいつは……今のは確実に……」
「痛みなんてよォ〜とっくの昔にオサラバだぜぇええへえへえへ」
舌をぐるんぐるんと回し恍惚に浸るグリドリーには一切ダメージが入っていないようであった。
確かに、直撃した。カティアは足先で触れたくもない陰嚢の感覚を触り打撃を与えたと思っていた。いや、実際に直撃したのだ。
しかし――相手が悪かった。彼、グリドリーは前記のように痛覚を喪失してしまっているらしく、如何なる攻撃でさえも彼の肉体には無意味であったのだ。
例え金的をくらおうとも、皮膚を刃物で切りつけ刺されようとも彼の肉体に痛みという神経伝達は既に存在していなかった。
「あ゛あ゛〜もうガマンできねェ……ゲヒヒ、じっくりじっくり嬲ってやろうと思ってたけどガマンできねねェ!!」
「ひぅっ……や、やめろ!!放……きゃあぁ!!」
既に壁の奥まで追いやられていたカティアに逃げ場などなくなっており、この醜悪な男になすがままにされるほかなかった。
彼がカティアの囚人服を両手で掴み、勢いよく左右に引っ張ると容易く破り捨てられてしまった。もともと生地が薄い材質でできている囚人服なので少し力を入れればこうなることは明らかである。
囚人服が破られると、カティアの豊かであり慎ましくもある美乳がその姿を現しカティア、グリドリー共にその事実を確認する。
カティアは恥ずかしさよりも圧倒的な恐ろしさに支配され、その両手で胸を隠す仕草などせず全力でグリドリーを殴りつけている。
一方のグリドリーはカティアに殴られていることなどまるで蚊が皮膚に着地したぐらいかのように思えており、それよりも目の前で揺れる美しい乳房を食い入るように見つめていた。
そして歓喜の声を上げる。
「チチだ!オンナだァ!チチ!!あ゛あ゛あ゛あ゛コロスコロス!今すぐコロス!コロシタイ!
待ってろよ……グヒッ、後でタップリ味わってやるからよおほほおおほっ!♪」
「ヒッ……だ、だれかっ助けて!!誰かァーッッ!!」
口から泡を吹き出し雄たけびを上げるグリドリー。
もはや断末魔に近い叫び声をあげるカティア。
しかしその声は誰の耳にも届くことはなく、消えてゆく。もしかしたら外にも音は漏れているのかもしれないが、大雨と落雷の音にかき消されやはり人の耳に届くことはないのだろう。
その醜悪なペニスをいきり立たせながらグリドリーの両手はカティアの首元へと伸ばされている。
荒い息づかい、泡めいた唇の隙間から垣間見える茶色い歯がこの上なく醜悪で、湿った吐息は鼻がひん曲がってしまうほど極悪な悪臭であった。
そしてその両手はついにカティアの首を鷲づかみにする。
「誰か……たすけ……ぁあぐっ!!!」
「げっげっげ……オンナ、コロス、キモチイイ……アハァァ」
「はなっ……せ……」
カティアの細い首に掴まれたさらに細い両手は、見た目こそ非力ながらも酸素と頚動脈をせき止めるには十分の握力であった。いや、見た目こそ非力なのではない。実際にはとてつもない握力でもってして絞められているのだ。
法外の薬物を多量接種している彼には日常生活を制御するリミッターも壊れており、その骨のように細い腕でさえも強靭な力を発揮することができるのである。その代償として毛髪が抜け落ちたり、痛覚が消失するなどという副作用が数を上げれば多大であるがそんなものはどうでもいい。
「こん、な………ざ……ま……」
「その顔、死ぬ顔、タマラナイィィ!」
「うぅ………………ひゅーっ…………ぜひゅー……」
10秒、20秒、30秒……
カティアは徐々に意識が朦朧とし始め、視界が暗くなり始めていることに気がついた。ここで目を閉じればきっと永遠に開かれることはなくなるのだろう。
視界の先には狂い歓喜しているグリドリーの姿が見える。
ああ、きっともう少ししたら私はこの男に犯されるのだろう。人の形をした愛玩人形のように精を吐き出され有無を言わぬ肉塊に成り下がる。
そう思うと悔しくて悔しくて仕方がなかったが、だからといってどうすることもできなかった。
もはや腕には力が入らない。足もタコのようにふにゃふにゃになり崩れ落ちると、いよいよもって意識が遠のき始めてきた。
「あ………………ぅ……」
こんな形で死ぬのなら、もっと早く処刑されたほうがまだ良かった。
獄中で赤の他人の、しかもこんな狂人の慰み者になるくらいならいっそ正式に処刑されこの世を去りたかった。
願うことなら自爆してこの男もろとも木っ端微塵に爆ぜてやりたいところであったが、そんなものは儚い幻想の夢物語である。
薄れ行く意識の中でカティアは最期に在りし日の孤児院の光景を思いだす。あのまま何の不自由もなく生活していたら、きっと今とは全く違った人生があったに違いない。しかし全てが滅ぼされたのはそうなるべきしてなった運命であり、自分が義賊という道を選んだのも運命なのである。
悲観することなく、後悔することもない。
ただ一つ、思うことがあるとすれば……もっと人並みに恋愛を経験してみたかった……
そう思い――
――彼女は目を閉じ――――
――ぽん。
ふと、グリドリーの肩に一つの手が添えられる。
首を絞め興奮が最高潮になるグリドリーの肩に背後から何物かが手を添えている。
何かがいる。
そう、肩に違和感を感じるグリドリー。
意識を失ったカティアを確認すると、彼は後ろを振り返りその相手を視界に入れる。
しかし、彼は見た。見てしまった。
人のカタチをしているそれは何だ。
ばけものか――否。
魔物か――否。
では人間か――否。 否! 否! 否!
……そこには鬼がいた。人のカタチをした羅刹がそこにいた。今まさにグリドリーを殴り飛ばさんとする怒り狂う羅刹が存在していた。
鬼という名の激昂するロズがいた。
「オイ……お前……何をしている。答えろ。ここで何をしていた。
答えろ……」
グリドリーの背後に佇む大男の低く重厚な怒号は狭い地下牢に静かに響き渡った。
しかし、その静けさとは裏腹に男の心情は激情に燃えている。
修羅でさえも一歩身じろいでしまいかねないその表情は般若の如く憤怒に滾り、一度触れてしまえば身も心も全て破壊されかねないほどの威圧感を放っていた。
「答えろ……!」
――それは、一瞬だった。
――一撃だった。
苛烈な拳がグリドリーの顎を粉砕すると、彼はそのまま人間が描くにはありえない放物線を描きながら吹き飛ばされた。その拳や烈火の如し。
グリドリーはそのまま天井へと頭を強打し、脳髄を強く揺さぶられたことにより呆気なく気絶する。
床に横たえるグリドリーをロズはその丸太のような強靭な脚で蹴り捨て、鉄格子に叩きつける。
数回痙攣した後、彼はやがてついには動かなくなった。
看守室へ戻ってきたロズに対して、卓上に伏していたミックは顔を上げながらそう言った。既に書類は数冊の束に纏められており処理は終わっているらしく、彼の顔色には若干の疲れが浮かび上がっている。
しかし、疲れ顔なのはミックだけではなく、眼前に聳えるこの大男ロズもまた気力の抜けたような疲れ顔をしていた。精の抜けた顔、例えるならばそうであろうか。
「……」
すやすやと眠るカティアを起こさないようそっと独房へ置いてゆき、ひとり静かに戻ってきたロズ。「これ以上はやめろ」という執行人命令を背いたカティアにそれ相応の処罰を下そうとも思っていたのだが、艶のある寝顔を見るとどうにもそうする気にもなれない。そして、その寝顔が在りし日の光景を否応なしに想起させるので尚更ロズのやる気を減衰さているようであった。
ともかく、彼はカティアに何をすることもなく穏便に隠密に戻ってきたのであった。
「あン?どうしたそんなシケた面しやがって」
「……すこし風に当たってくる」
ロズはそれだけ言い残すと、出入り口の扉を開けて外へと出て行ってしまった。連日降り止まぬ大雨と轟雷の下、傘すら持たず雨の中へ消えてゆく。これでは風に当たるというよりは雨に打たれると言ったほうが正しいのかもしれない。
そして、らしくないロズの背中を見送るミックは「何かあったな」と直感した。
彼の知るロズという男は、クソがつくほど大柄で、無愛想で、そして几帳面である。煙草の吸殻を踵で踏みつぶすだけで露骨に顔を歪ませ、靴の砂埃をテーブルの上で払うと額に青筋が浮かび上がるほどの几帳面さである。
そこまで几帳面な男が、大雨の降る外に傘も持たず出かけるということがありえるだろうか。傘は看守室にいくつかストックしているので、少なくとも傘がなかったがためにそのまま外に出たということはない。出入り口のすぐ側に置いてあるので気がつかなかったというわけでもないだろう。
「ま、大体察しはつくけどよ」
すぅー……ともう一本煙草を大きく吸い込み煙を肺に溜める。
それを一気に吐き出すと、吸殻をいつものように踵ですり潰し床に灰色の滲みを生成したところですっくと椅子から立ち上がった。
若干クラッとめまいがした後、煙草の効能により冴えた頭で独房の方へと向かい始める。
―――――
カコン、カコン、カコン……
相も変わらず薄暗く、錆びた水溜りとボロ布と小動物の死体が散乱する独房区画。先ほどまでロズが歩いていた場所を、今度はミックが慣れた足取りで進んでいる。
一時期はロズがその持ち前の几帳面さで掃除しようとも計画していたらしいが、いくら掃除せども無限に沸く蛆とネズミの数の暴力には勝てずなくなく諦めたという過去があるという。
「よぉ気分はどうだこのクソ野郎」
「ぐひっ……オマエかァ」
「お、ちったぁまともに話せるようになってんじゃねーか」
独房の隅でしゃがみ、縮こまっている人影に語りかけるミック。
その人物が声に反応しミックの方ににじり寄ると、痩せこけた容貌が露になり生理的嫌悪感を感じさせずにはいられないものだ。
その人物、グリドリーは両手で鉄格子を掴むとじろ、と湿った目つきでミックを睨み返している。
「ク、クスリを出せっ……オンナでもいいぞォ……」
「あー?誰に向かって口聞いてんだ」
「ぐぐぐげ、アレがないとオデは……オデは……アアアッ」
そう言うとグリドリーは頭を、腕を、顔面を両の手で掻き毟る。クスリが切れた禁断症状なのか、はたまたオンナを殺せない鬱憤からか、もしくはその両方からなるストレスが引き起こしているヒステリーだ。体のいたるところに刻まれている血の滲んだ爪痕がいかに力強く自らの体を痛めつけているかがわかる。
「俺はな、お前をどうやって殺そうかずっと考えてんだよ。お前はどうやって死にたいんだ、え?」
「クククク……俺はオンナを殺したいナァ」
「……ンなこと聞いてねえんだよオラッ!」
ガシャァン!!
直後、ミックの脚は宙へと振り上げられ、眼前の堅牢な鉄格子に向かって皮製のブーツが叩きつけられた。
勢いよく鉄格子を蹴るとその金属音が地下牢全域に響き渡り、錆水の水溜りの波紋が揺れ、音が反響する。金属の甲高い音ではなく、パイプ状の巨大な金属管が鳴り響いた伸びやかな低音である。
その音はひととおり響音すると、やがては石畳が吸収して再び地下牢に静寂が戻った。
分厚い皮のブーツのソールが再び床の石畳へと着地すると、ミックは悪態をつき独房内を見下ろす。
「人の話を聞けこのクソが」
「うげっ、げげっ、乱暴だな……あう?爪が」
気がつくとグリドリーの片手指の爪が剥がれていることに彼自身今発覚したらしい。先ほどミックが鉄格子を蹴飛ばした弾みに彼の爪まで一緒に蹴ってしまったのだろう。ミックもグリドリーの反応を見て今気がついたようである。
しかし、当の本人は爪が剥がれたというのにもかかわらず痛がる素振りなど微塵もなく、ただ指の先端から流れる流血を眺め恍惚としているだけであった。
時おりちゅぱ、ちゅぱ、と自らの指を舐め血を吸い取っているその光景はまるでヒルのようだ。気持ち悪いことこの上ない。
「チッ……やっぱ痛みが欠如してやがるか」
「ち、ちち、血血血……あぁ、キレイだナァ……」
「…………」
グリドリーを見下だすミックの瞳はもはや哀れんでいた。性根を歪ませ薬に溺れた人間の末路がどうなるかは理解していたつもりだったが、それでもここまで救いようのない人間を見るのは過去に一度か二度あったかどうかというものだ。
それ以上何も言うこともなくミックはグリドリーの独房を後にし、斜め向かいの独房へと足を向かわせた。
後ろの方では「オンナをくれ」「クスリが足りない」などという呻き声が聞こえたが、決して振り返ることはなかった。
―――――
そうして斜め向かいの独房へとやって来たミック。
その独房にも死刑囚は収容されており、グリドリーと同じように独房の隅で体を縮こませていた。しかしその容姿はグリドリーとは正反対であり、流れるような蒼い長髪と囚人服の上からでもわかる華奢な肢体は瑞々しき女性であるという確信をつけることができる。
その髪は地下牢での生活により若干痛んでしまっているようだが、それでもなおこの薄暗く小汚い場所においては唯一と言ってもいいほど美と清潔を象徴しているものだ。
丁度いい場所に今にも朽ち果てそうなボロ椅子が転がっていたのでミックはそれを持ち運ぶと、カティアの独房の前へ置き自ら腰掛けた。
「やあカティアちゃん。ちょっとお話しない?」
「…………」
「カティアちゃん?もしもーし」
「…………んぁ」
「うぉーい聞こえてるのかーもしもしー」
「…………んん………………ッッ!!!!お、お前は確か……ミック執行官!な、何をしに来たっ」
数秒上の空であったカティアであったが、鉄格子の向こうの男を視界に入れると慌しく意識を取り戻し独房の奥の方へとその身を追いやる。
ロズから聞いていた変態執行人ことミック・ハインリヒ。自らの欲望のままに死刑囚を犯し乱暴する卑劣で最低な男だということを思い出し、カティアは反射的にその身を守ろうと奥へ逃げたのだ。
好き勝手に女性を食い物にする悪徳な人物に対し、女性であるカティアが警戒しないわけがない。
「ちょ、それってひどくね?人の顔を見るなり逃げるなんてマナーがなってねぇぜ」
「白々しいことを……おおかた私目当てなんだろう」
「まー目当てっちゃ目当てなんだが、俺はただオハナシしたいだけよ?」
ここが独房ではなく、普通の街中であったとしたら一目散に逃げていたものを。そう思うカティアである。
「あ、もしかしてロズから俺のこと聞いたな?あんにゃろ勝手に人のこと喋りやがって」
「……言っておくが私とて無抵抗で犯されるわけではないぞ」
「ちょいちょい、だから待ってってばカティアちゃん。俺カティアちゃんのこと犯そうとなんて思ってないってば」
軽いトーンでへらへらと饒舌にまくし立て、大げさなジェスチャーで潔白を証明するミックであるが、どうしようともその身を包む怪しげな雰囲気は脱ぎ払えるものではない。
それどころか必死に身の潔白を証明しようとするものだからかえって逆効果になっていることにミックは気が付いていないようだった。いくらそれらしい事を論じたところでカティアの耳には声帯の音が入るだけで、言葉としての意味は彼女の脳内には届くことはない。
「ってか俺鍵持ってないからカティアちゃんの独房入れないし」
「嘘を言え、こういう施設には必ずマスターキーとかがあるだろ」
「前の責任者が紛失しちゃってさ、それからずっとマスターキーないのさ」
「……口では何とでも言える」
「んー随分と信頼されてないな俺」
がっくしと頭を下ろしうなだれながら落胆するも、その様子すら疑いの目で見られていることをようやく自覚し少し切なくなるミックであった。
彼はボロ椅子に腰を深めながら続ける。
「じゃあいいや、そのまんま聞いてておくれよ。カティアちゃんさぁ……ロズに何かしたでしょ」
その言葉を聞くや否やカティアはぎく、と心の中で動揺した。
それもそのはず、カティアは先ほどの行為、ロズの陰茎を舐め精液を啜ったという事実を忘れていたわけではなかったのだ。自分自身が少しおかしくなっていたことも、何をしでかしていたのかもはっきりと覚えており、それゆえになぜ自分があのように至ったのかが理解できなく一人悶々と悩んでいる最中であった。ミックに話しかけら上の空だったのもそれが原因である。
自分とロズしか知りえない情報をなぜこの男は知っているのか。へらへらと人を嘲笑うかのような風貌のこの男が何故?
カティアの頭の中は疑問の堂々巡りを繰り返している。
「なっ……な、なにもしてないぞ、うん」
「ははは!なにそれ、嘘ついてるつもり?バレバレだっつの」
「ぐっ……」
道化のように人を翻弄し、おまけに執行人としての権力もある。
彼のような男はカティアの最も苦手とするタイプの人間であり、そしてそのことは彼自身も理解しているようであった。それを把握した上で他者を嘲笑うのだからこれほどタチの悪い者もそうそういない。
「俺は少々鼻が良くてね。ニオイがわかるんさ」
「ニオ、イ……?」
「そ。それも良いニオイじゃなくて格別にくっさい嫌なニオイだけがよく臭うワケよ」
椅子の上で足を組み自慢げにそう語っている。
カティアは依然として鉄格子の向こうにいるミックに対し厳重な警戒をしているわけなのだが、それと真逆にミックは独房の入り口の鍵穴に手を差し伸べる素振りもせずその場にとどまっているだけであった。
……本当に鍵を持っていないのか?
そう勘ぐる場面も多々見受けられたが、しかしそれでも油断はしてはならないというものだ。相手はあの変態執行官ミック。いつ、何とき、襲われるか定かではない。
「におう、におうねぇ、くっせぇ精のニオイがプンプンしてやがる」
「……何も感じないのだが」
「いーや臭う。めちゃくちゃ臭う。カティアちゃんまさか、自分の体臭に気が付いていないだなんて言わないでくれよ?」
「…………?」
カティアは数回すん、すんと鼻をひくつかせ周囲の臭気を嗅ぐが特別異臭がするわけでもなく、地下牢の湿ったカビのにおいがするだけでそれ以外は何も感じない。時おり錆びた鉄の臭いや腐った生ゴミの臭いがするときもあるが、それは排気口から逆流してくる廃棄物の臭いであろう。精のニオイというものではなさそうだ。
そもそも、精のニオイというものをよくわからない、というよりも恐らく嗅いだこともないカティアがミックの語る悪臭を理解できるはずがなかった。
男と女の汗水混ざり、血潮滾る肉欲の香り。
――それをカティアが知るはずもない。
「その様子だとマジで気が付いてないのか。ハハッ!こりゃ傑作だ」
「さっきから一体何を言っている。精のニオイ?そんなもの……」
「そんなもの?よく言うよ、身体中からくっせぇ精臭撒き散らしてる女がよ。発情しきった雌臭がしやがる」
「なっ……」
その臭いがなんなのかは皆目見当が付かなかったカティアであったが、少なくとも今のミックの言葉から想像するに良きものではないということだけは悟った。
意味はわからずとも遠まわしに罵倒されているような気がして多少の苛立ちが募る。
「カティアちゃんから雌のニオイがして、ロズから雄のニオイがする。同じ場所で同じ時間にそれぞれが精のニオイを発するなんて随分と面白い偶然だなぁホント。
それとも……本当に偶然なのかな?くくくっ」
反論しようとしたが、続けざまに言われるミックの言葉を聴いた瞬間、反論は無意味であると確信するのであった。
完全に読まれている。
人を裁く役職柄この男もまた人間の観察はロズ同様に卓越しており、ただの元義賊であるカティアが心身掌握を免れる手立てなど元よりなかったのである。
「…………」
「沈黙は図星。そうだろ?」
「…………そうだ、悪いか、私がやった」
「はっは!処女のクセになかなかダイタンなことするじゃん!
そーかそーか、ロズからの命令じゃなくてカティアちゃん自身からやったのかそーかそーか」
「あっ……!!」
まんまと口車に乗せられ顔を真っ赤にして照れるカティアとその正面で腹を抱えながら大笑いするミック。笑いの振動で古びた椅子はギシギシと軋み今にも壊れてしまいそうだ。
カティアにいたっては真っ赤になった顔面を両手で覆い隠しミックに見えないようにしている。
自分から性的行為を行なったという事実がこの上なく辱めなのであろう。自らの意思ではないにしろ、自分が行なった事実には変わりはなく、過去を変えることなんてできるわけがない。
それならばロズからされたほうが幾分かマシだったのではないか……そう思うカティアなのであった。
――しかしゲラゲラと笑い転げるミックの瞳がギラリと光り、その一瞬を捉えて逃さない。
「今カティアちゃん”ロズからだったらされてもいい”と思ったな?思ったろう?なあ、おい」
「!!!」
いつの間に自分はそんなことを思うようになっていたのだろうか。
カティアは自分が信じられなかった。
今の今まで処女を守り通してきた自分が、知り合ってものの数日、それもいずれ自分を殺すことになる相手になら抱かれてもいいという思考に至った自分が信じられなかった。
一瞬でもロズに気を許してしまったことに彼女はこの上ない歪な感情を覚え、無理やりなかったことにしようとする。
いずれ私を殺す男に幻想を抱いてどうするというのだ?
そう頭の中で警鐘を鳴らし消そうとするのだが、目の前でニタニタと笑う男の意地悪い笑顔がどうにもそうさせてはくれないようだ。
「私が?ロズを?ば、ばかにするなっ……」
「いやーしかしそうかぁ、カティアちゃんガード難そうとは思ってたんだけど意外と尻軽だったのな」
「いやだから人の話を……」
この男、完全に聞いていない。
しかし悲しいかな、ミックが先ほどから言っていることは8割ほど事実であり認めざるを得ないことであった。
カティアが尻軽だというのは彼の妄想の他ならないが……カティアがロズと性行為に近いことをしていたことは紛れもない事実であるし、彼女がロズに一瞬でも気を許していたのもその通りである。
つまるところミックはその嗅覚と勘でカティアの意思行動を把握していたのだ。
魔法のそれに近い精度を誇る彼のセンスは、ひとえに長年の執行人の経験が為せるものであり、並大抵の人間が行えるものではないだろう。
「目的は何だ」
「あー?」
「わざわざ私のところまで来て、私に恥をかかせた挙句嘲笑うだけに来たわけではないだろう」
「ああ、うん。ちょっとロズの様子がおかしかったからカティアちゃんなにか知らないかなって思って来ただけだよ。決して精神崩壊するまで犯しつくしてやろうだなんて考えてもないし、焼きゴテをつけて所有物として登録しようとしてたわけでもないさ。うん、ホントに」
「…………」
よくもまあロズはこのような変態でトチ狂った男と共に仕事をしているものだ、と心底カティアは感服し、同時に戦慄した。
何よりも恐ろしいのは、彼の発するジョークが全くジョークとしての意味を成していないことであり、人を楽しませる要素など皆無であることだ。そこにあるのはただただひたすらに身悶えするほどの不快感のみである。
もしくは本人にとっては最高に面白いジョークなのかもしれない。
しかし、長く地下牢に篭りすぎた彼は一般人が嫌厭してしまう常識など深く考えることはなかった。
「まぁ実を言うとカティアちゃんに会いに来たのにはもう一つ理由があってね」
「今度は笑える冗談にしてほしいものだが」
「あらー手厳しいはっはっは……」
ケラケラ、と笑うミックであったが笑い終えるとその気配が一変する。
先ほどのように陽気で気さくな雰囲気とはガラリと変わり、おもむろに胸元から煙草をとりだすと吸い始めたのだ。
スゥー……ハァー……
一度大きく深呼吸する。辺りは煙草特有のにおいと煙に包まれ、その煙にまぎれるかのように彼の陽気さもどこかえ消えてしまった。
その気配の変わりようにカティアも気がつかないわけがなく、ついつい身構えてしまう。
「……そっちが本当のお前か」
「どっちでもいいじゃねーか、俺はカティアちゃんの担当じゃないんだし。カティアちゃん、ロズのやつ何か言ってなかったか?」
「何か、とは随分漠然としているな」
ミックの変貌のしように多少の驚きを隠せないが、過去義賊だったときに何度かこういった者を見てきたカティアはそこまで大きく動揺することはなかった。
煙に紛れ本性を隠す。心に闇を抱え、その闇を自分で自覚している者がよく行なう手段、そういうふうに記憶していた。
「何かと言われても……一字一句会話の内容など思い出せないぞ」
「気になる一言でもいいんだ、なにか身に覚えはねぇか」
「気になる一言……ううむ……」
………………………………
…………………………
………………
…………
……
「あ、そういえば……」
「そういえば、なんだ?」
「この前、私に対して”似ている”と言ったな。その時は特別気にすることはなかったが思い返してみると少し気になるものだ」
「それに対してカティアちゃんは何て?」
「”何に似ている?”と返したら”気にするな”の一点張りだったさ」
「似ている、アイツはそう言ったのか。似ている……はて……」
その言葉を聞いてミックは顔をしかめ考え込む。
彼の記憶を総動員してロズの知り合いの顔を思い出していた。ロズの知り合いにカティアちゃんに似ている人がいただろうか、もしかすると容姿ではなく性格かもしれない。そうなるとお手上げだぞ、と。
うんうん唸りながら頭をフル回転させ記憶の引き出しを探索するミック。
「あ」
「どうした、何かわかったのか」
そうして数分が経過した頃だろうか、ふと彼の脳内の煙が晴れたかのようにある一人の人物が思い当たった。独房内で怪訝そうに佇むカティアの容姿と脳内の記憶の人物とを照らし合わせ、その姿がほぼ一致すると彼は「チッ」と舌打ち納得する。
「……わかった。どうしてロズがお前を贔屓するのかすべて合点がいった」
「おお、では教えてくれ。私は何に似ていたのというのだ」
再び舌打ちをし露骨に胸糞悪そうな素振りをするとミックは言う。
「それは俺の口からは言えねぇ。俺が言っても何の意味もねぇ」
「では誰から聞けば……」
「ンなもん一人しかいねーだろ。あの大男で大馬鹿野郎から直接聞きな」
悪態をつき機嫌を悪そうにしている。
他者のカティアからでも明らかにわかる機嫌の悪さである。一体彼が思い当たった人物とは何物なのであろうか。
「チッ……あのバカが……」
ただの呟きだったがそれはカティアの耳にもしっかりと聞こえるほどの呟きであった。それほどまでにカティアに似ている人物は因縁深い人物であるということを裏付ける証拠であり、余計気にさせてしまうというものだ。
しかし彼は決してそれ以上口を割ることはなかった。
いくら口が軽くお喋りな彼であっても、他人の掘り起こしてはいけない記憶の核心に触れる部分をそう易々と話すことはできなかったのだ。
変態で、常識がいくらか欠如しているミックでさえも話してはならない事情というものは理解しているようである。
「聞きたきゃロズに聞けばいい。だが、それを聞いてどう思おうともそりゃカティアちゃんの勝手だぜ」
「…………」
「俺的には、もうすぐ死ぬんだし無駄な詮索はしないほうがいいんじゃないかと思う」
「そういわれると余計に気になってしまうものでな」
「へっ……そうかい」
煙草を3本ほど同時に吸い込み再び深呼吸をするミック。
薄暗い地下牢は煙草の煙も相まってことさらに暗みを増し、重苦しい空気を漂わせる。
外の暗雲、豪雨は窓のない地下牢からでは確認することはできないが、さらに激しい雨になっているのだろう、そんな気がした。
「カティアちゃん。お前はもうすぐ死ぬんだ。そう確定付けられてるんだ。わかるか?」
「…………ああ、己の罪は罰として受け入れなければならないから、な……」
「そうだ。そうわかってんなら……これ以上ロズに詰め寄るのはやめろ」
「わ、私は別に詰め寄ってなど……」
吸殻となった煙草を強く踏みづけ、彼は力強く言う。
その力強さは、今までカティアの感じるミックの気配とはまた別の異なる気配を孕んでいた。芯の通った、曲がりない言葉。
「死刑囚ごときが執行人様にゴチャゴチャ言ってんじゃねーよ。お前は死ぬんだ、絶対に。だったらおとなしくしてろや。
俺にできることは何もない。そしてお前にできることも何もない。死刑囚ごときのお前に何ができる。お前がロズの傷を癒したところでお前はいずれ死ぬんだ、ロズに殺されるんだよ。
それがわかってるんなら、もうこれ以上ロズに詰め寄るのはやめろ。お前も……あいつも辛くなるだけだ」
それだけ言い残し、彼は椅子から立ち上がると看守室の方へと戻っていった。
一体どういうことだったのだろうか。
カティアの頭の中ではそれだけが堂々巡りをし、歩き去る男の背中を見届けることしかできなかった。ミックが背を向ける瞬間に見せた、怒りとも悲哀とも言いがたい複雑な表情が気になって仕方がなかった。
「…………!?」
ぞくり。
ミックが去って行った後、言いようのない不信感がカティアの身を一瞬包み込んだ。
まるで全身を嘗め回されるかのような心底気持ちのわるい気配が一瞬、ほんの一瞬だけだが確かに感じた。
しかし一瞬だったために、ただの思い違いだと思い込みそれ以上詮索することなかった。
その気配がすぐそこに潜んでいるということにも気がつかずに。
―――――
ザザァ―――
雨が降り続いている。時おり見せる稲光が爆音となって辺り一片に轟いている。時刻は夕方を過ぎ、ほぼ夜になりかけている時間だ。
ずぶ濡れとなった体を払う素振りもせずに室内へと戻ってくると、ぽたぽたと雫の垂れる上着をフックにかけ、冷めたコーヒーカップを手に取った。
ロズはそのコーヒーをぐい、と一気に飲みほすと今度はポッドに入った熱々のコーヒーを注ぎそれを飲み始める。
風に当たる、もとい雨に打たれに出て行ったロズが看守室へ戻ってくるとそこにはミックの姿はなく、ただテーブルの上に置紙が一枚置かれているだけだ。
その字は煩雑に、まるでミミズが這ったような汚らしい字で書き殴られており、内容を読まずともミックが書いたものだと確信できる。
『よぉ、少しはアタマ冷やしたか?俺はこれから上層部との会議で抜けなきゃいけないから、今夜の見張り当番はロズがやってくれ。ちなみにカティアちゃんには晩飯配給しといたぜ、これくらいなら管轄外でも大丈夫だろ?―ミック―』
置紙にはそう書かれてあった。
家に帰って特別何かやるべきこともないロズは無言で承諾すると置紙を丁寧に折りたたみテーブルの隅に寄せる。
夜は長い。
外は相変わらずの暗雲なので夕暮れを拝むことは適わなかったが恐らくすでに夕刻ではないのは確かである。夜の帳が下りたばかりであろうか。
ロズはおもむろに投げ捨てられている夕刊を手に取り、コーヒー片手に目を通すのであった。
コンコン――
コンコンコン――
それから数時間が経過した頃である。日が変わるか変わらないかというくらいの、そんな時間だ。
ふいに出入り口の扉からノック音が聞こえてきた。
ノック音のテンポは若干急かしているようにも聞こえ、うつろうつろ仮眠していたロズの眠りを妨げるには十分である。
「こんな時間に誰だろうか。ミックではなさそうだが」と思い、大きなあくびを一つ上げて扉の方へと歩み寄るロズ。
そして扉を開けようとすると、逆に扉のほうからひとりでに開き一人の人物が姿を現した。
「ロズ上官殿お勤めご苦労様であります」
「……こんな時間に何のようだ」
扉を開けて出てきたのは名も知らぬただの一般兵であった。雨でずぶ濡れの軍服に身を包み敬礼をしているので一応形式どおりに敬礼で返してあげるロズ。
小柄で、そこらへんのどこにでもいそうな一般兵がこんな陰気臭い場所に何の用があろうものか。特に知り合いでもなく、見たこともない兵がこんな夜分遅くにまで来るとは何の風の吹き回しであろうか。
とにもかくにも、ロズはそれらを問いただす。
「実は真にお恥ずかしい限りでありますが、夜勤任務中に資材の運搬をしていたのでありますが、運搬先の小屋が連日続く雨風で崩れてしまいまして……」
「…………」
「資材も全て小屋の下敷きになってしまいまして……その、ええと」
「ハァ……俺にも手伝ってほしい、おおかたそんなところだろう」
「も、もうしわけありません!上からの指示でありますので我々にも拒否権というものはなく……」
折角仮眠していたところを起こされ気分を害されたところに、さらに本来行なうはずもない時間外勤務と来たものだ。ため息が出ないわけがなかった。
しかし上からの指示、つまるところ兵士達の上官といえば軍が関わっているわけで、軍からの指令ならばロズとて逆らうわけにもいかず、半強制的に労働を強いられる現実である。
「ロズ上官殿の怪力があれば百人力との噂はかねがね耳にしておりますので」
「……そんな噂が一人歩きしてるのか」
「夜勤任務で人員が不足しているので至急救援をお願いできますか」
やはり拒否権はないらしい。
こんな大雨の下で、しかも深夜に瓦礫の撤去ときたものだ。ため息のバーゲンセールである。
ロズは兵士を一旦待たせると、看守室へと戻り外作業するための作業着を準備し着替え始める。そうして合羽を羽織り防水対策も十分に済ませ、準備を完了すると再び扉へと戻り兵士と共に外の闇へと消えていくのであった。
――そして、深夜の暗闇よりも暗く邪な闇が今この瞬間に動き始める。
――地下牢の一角でそれは活動を開始した。
―――――
ぺた…………ぺた…………
雷の轟音も大雨の爆音も聞こえることのないこの地下牢。
カティアは独房内でひとり、石畳の上に寝転がりながら寝息を立てていた。なぜベッドの上で寝ないかと問われると、シラミやらダニが無尽蔵に沸く蟲床で寝れるはずもないからという至極単純な理由である。
石畳の上はごつごつで寝返りを打とうものなら石の凹凸が体中を刺激し安眠など皆無なのだが、そんなものはカティアにとっては慣れたものである。義賊時代、野営をすることも度々あったものだから必然的に慣れてしまうのも無理もない話だ。
ぺた…………ぺた…………
「んん……む……」
ふと、目が覚めるカティア。
まだ朝ではなさそうな時刻だが不意に目が覚めたのは尿意を催したからだとかそういうわけではない。石畳が冷た過ぎて寒いからというわけでもない。
何か――物音がするのだ。
ぺた…………ぺた…………
よくよく耳を澄ましてみると規則的に鳴り響くその音はすぐに足音である、ということがわかった。しかし、気になるのはその音の性質だ。
ロズやミックが来るときはブーツの底が石畳に打ち付けられ気持ちのよい乾いた音が鳴るはずである。だが、今聞こえるこの音は何だ?
湿りを気をもった気味悪い粘着性のある音だ。なめくじが床を這うようなじめじめとした湿気を感じさせるとともに、振り子時計のように正確なテンポで刻み響いている。
そして特に恐ろしいのはその音がこちらに近づいてきている、ということだった。
ぺた…………ぺた…………
「ロズ……ロズなのか?おい……何か返事はないのか」
何も返って来ることはなかった。返って来るのはこの奇妙な足音だけだ。
ロズではない、これは違う。ミックでも……なさそうだ。
ではこの足音の主は一体何物か?ロズとミック以外の新たな執行人の足音か?
否、それは違う。カティアは前もってここの執行人は二人しかいないということを聞かされており、第三者の存在などありえないのだ。それに仮に新たな執行人だったとしても、この不可解極まりない足音は執行人のブーツから奏でられる音とはまるで違っているのだ。
そう、これは――裸足の音。
ぺた……ぺた……ぺたっぺたっぺたっ……
「誰だ……誰だっ……お前は一体誰だッ……!」
近づいてくる足音の主に向けカティアは怒号を放つ。
暗闇の向こうで確かにこちらに近づいてくる人物目がけ、恐怖にも近い質問を投げかけると答えが返ってくるよりも早くその姿が露になりつつあった。
少しずつ……少しずつその姿が見えてくる。
白と黒のボーダーラインが描かれた服を着て、がりがりに痩せ細った頬を顔面に形成し、逆に毛髪は一本たりとも存在していない。両の目の動向は左右いずれも向きが一定しておらずどこを見ているのかわからない不安を感じさせる。
そう、その男の着ている服はカティアの着ている服と瓜二つであった。瓜二つどころの話ではない、全く同じなのだ。
それが何を意味するかは考えずとも理解できるだろう。むしろこの場に限っては理解したくない現実というものである。
「グ、グリドリー死刑囚!?なぜ独房外に!!」
グレゴリオ・グリドリー。
彼は今カティアの独房の目の前に立ち尽くし、その視線のふぞろいな瞳孔で舐め回すようにカティアを視姦している。口からは泡が吹き出て、薄ら笑いを浮かべている。
カティアは本能的に直感した。
こいつは――ヤバイ。
カティアは心底、戦慄した。
このような男が私の独房の斜め向かいにずっと存在していたという事実に。それをずっと知りながらものうのうと何の対策もせずに独房内で油断していた自分自身に。そしてその人物が今私の独房の目の前で私を品定めしているように見つめていることに。
これは異常だ!どう考えても、誰がどう言おうとも緊急事態だ!!
脳裏で危険信号が発せられると、その瞬間全身から冷や汗が滝のように流れ始めた。
「うげ、げへげげげ、みぃーつけたみーつけた、オンナみつけた♪」
「くそっどういうことだ!なぜお前は外にいる!?」
彼がどのような意図でここまで来ているのかなど、そんなことはどうでもいい。重要なのは彼が女性の殺害に快楽を感じる狂人である、それだけわかれば十分なのである。
「あーへはは、オデはよ、元々は鍵職人やってたんだでへえへへ」
「鍵……職人だとッ」
「いままでもォ〜いろんなオンナの家の合鍵つくってよォ……うげ、げへっ、アアアッ!!コロシタ!たくさんコロシタ!!うははっへへへ!!」
地下牢全域に響き渡るほどの大笑いを発しながら彼はその小汚い指を不必要にシャカシャカと動かし興奮しているようであった。
その光景を見るカティアは血の気が引いていくような思いである。
「オ、オデのこの工具されあれば……この鍵だってなァ〜ウヒヒウヒ」
「そんなもの……どこに隠し持っていたというのだ!投獄される時に身体検査があっただろう!」
「うへっ、肛門の中にダヨ!ぐひっ、ぐぐぐぐげげえええげああはははは!!」
「……なんだこいつは……完全に狂っている……」
グリドリーの手元には人糞の付着した悪臭漂う工具が数点握られていた。彼は自らの直腸内部に工具を隠すことにより投獄時の身体検査を難なく通り抜けることができたのだ。その執念たるや並大抵の人間が起こせるものではない。
よく見ると彼の手首と足首の枷は両方とも外れており、彼は完全に自由の身となっていた。
まず手首の関節を外し、無理やり手錠を外すと、続いて自分の肛門に指を突っ込み工具を取り出す。そしてその工具を用いて足枷を解除し、独房の鍵すらも解錠してのけたということである。
自らの意思で手首の関節を外すなどという離れ業は痛覚を喪失している彼だからこそできる芸当であり、普通の人間にはまず不可能に近いだろう。
「いまコロシテやるからまってろ……コロッ、ッコロコロ殺殺殺殺殺!!!オンナ!オンナ!」
「ひっ……」
彼は工具を用いてカティアの独房の鍵を解錠し始めた。
ガチャガチャと鳴る雑多音はさながらカティアの命のカウントダウンを告げているようで、これが解錠されたその時がカティアの最期である。
独房内で枷の着けられているカティアと、かたや枷を全て外し独房からも脱出したグリドリーとでは圧倒的にグリドリーが優位であった。解錠の妨害をしようともしたが身体を拘束されているので思うように妨害することはできない。そもそも独房外にいるグリドリーに手の出しようもないのだ。
そこでカティアは最後の手段をとる。
それは古今東西、襲われた際には大声を出せ、というものであった。孤児院で教わったことがまさかこんな形で発揮されようとは思うまい。
「ロズッ、ロズッー!!ミック執行人でもいい!助けてくれ!!!ロズー!!!」
しかし呼びかけには誰も応じてはくれなかった。
唯一応じてくれたのはグリドリーのみであり、彼の告げる言葉にカティアは絶望へと落とされることになる。
「無駄だぜぇ……ジャマなあいつらは今二人ともいねェよ……げっげっげ!
だからこのチャンスをよォ〜ずっと待ってたんだへあははえへ!」
「……!?なっ、そんなはずは……うそ…………」
それを裏付けるかのように、彼女が何度大声で叫ぼうともその叫び声は石畳に吸収されるのみで、駆けつけてくれる者など誰一人として来やしない。
ミックは会議に出席しており、ロズは崩れた倉庫の撤去作業中である。そのことを知るはずもないカティアは誰もいない看守室目がけて必死の呼びかけをするが完全に無意味であった。
誰も来ない。助けに来てくれない。
その残酷な現実に打ちひしがれる。恐怖でしかなかった。
カチャ、カチャ、カチャ……
ガキィン!!
「!!……だ、誰か!!誰でもいい!!誰かッッ!!!」
「ムダムダムダァこんな場所にダレが来るかへっへっへ」
「うっ……!」
ついに鍵を解錠してしまったグリドリーはその痩せ細った細い腕で鉄格子を開く。
普段ならばロズしか開けることのできぬその鉄格子をいとも容易く開けるその姿は、さながら死を提供しに持ってきた死神かのように思えた。もしかすると本物の死神の方がまだ生易しいのかも知れない。
「あ゛っははばばあ゛あ゛ァァ……オンナが、久しぶりのオンナだァうひひひ」
ゴパァ……と口を開き汚らしい笑みを浮かばせる。
その歯は一体どれほどの期間研かれていないのだろう、その全てが茶色く染まり、奥歯にいたっては黒ずんで溶けているものすら見受けられた。
汚いという言葉で表せたほうが幾分かマシに思えるほどだ。それは”歯の原形をかろうじて保っている口内のナニか”と表現するほうが正しいほどである。
グリドリーは独房内に入り鉄格子を再び閉じてカティアを逃げられないようにすると、一歩ずつコチラへにじり寄って来た。
白黒ボーダーの猟奇者は気色悪い息づかいで侵略し始める。
「くぅっ……こうなれば……くらえっ!」
「アウゥ!!」
彼女とて無抵抗で殺されるのはまっぴらごめん、ということだろう。
誰の救援も望めないということを悟ると、彼女は抑制された身体の最大限を使用し最後まで抵抗しようと腹をくくったのである。
四肢は枷が装着されているので思うように動かすことはできないがそれでも抵抗ぐらいならばできるはずだ、そう思い彼女は臨戦体勢をとった。
元々、義賊をやっていたために身のこなしや体術などは人並みに習得しているカティアは枷をつけられていても必要最低限の動きはできるようである。
鎖と鉄球を付けられた右足を渾身の力で振り絞り、勢いよく振り上げた!
その先にあるのはグリドリーの股間だ。オンナを殺せる興奮に欲情し、完全にいきり立つその醜い棒目がけて足を振り上げると見事足先は彼の睾丸に的中する。
それは男性ならば抱腹絶倒間違いなしの全力の金的であった。過去何度かこれで下賎な男どもを撃退した記憶のあるカティアは今回も同じように金的で撃退できる、確信していた。
――かに思えた。
「あがっ、ががあが、がァ!きンもちイイ……アアアッ!」
「なんだ、こいつは……今のは確実に……」
「痛みなんてよォ〜とっくの昔にオサラバだぜぇええへえへえへ」
舌をぐるんぐるんと回し恍惚に浸るグリドリーには一切ダメージが入っていないようであった。
確かに、直撃した。カティアは足先で触れたくもない陰嚢の感覚を触り打撃を与えたと思っていた。いや、実際に直撃したのだ。
しかし――相手が悪かった。彼、グリドリーは前記のように痛覚を喪失してしまっているらしく、如何なる攻撃でさえも彼の肉体には無意味であったのだ。
例え金的をくらおうとも、皮膚を刃物で切りつけ刺されようとも彼の肉体に痛みという神経伝達は既に存在していなかった。
「あ゛あ゛〜もうガマンできねェ……ゲヒヒ、じっくりじっくり嬲ってやろうと思ってたけどガマンできねねェ!!」
「ひぅっ……や、やめろ!!放……きゃあぁ!!」
既に壁の奥まで追いやられていたカティアに逃げ場などなくなっており、この醜悪な男になすがままにされるほかなかった。
彼がカティアの囚人服を両手で掴み、勢いよく左右に引っ張ると容易く破り捨てられてしまった。もともと生地が薄い材質でできている囚人服なので少し力を入れればこうなることは明らかである。
囚人服が破られると、カティアの豊かであり慎ましくもある美乳がその姿を現しカティア、グリドリー共にその事実を確認する。
カティアは恥ずかしさよりも圧倒的な恐ろしさに支配され、その両手で胸を隠す仕草などせず全力でグリドリーを殴りつけている。
一方のグリドリーはカティアに殴られていることなどまるで蚊が皮膚に着地したぐらいかのように思えており、それよりも目の前で揺れる美しい乳房を食い入るように見つめていた。
そして歓喜の声を上げる。
「チチだ!オンナだァ!チチ!!あ゛あ゛あ゛あ゛コロスコロス!今すぐコロス!コロシタイ!
待ってろよ……グヒッ、後でタップリ味わってやるからよおほほおおほっ!♪」
「ヒッ……だ、だれかっ助けて!!誰かァーッッ!!」
口から泡を吹き出し雄たけびを上げるグリドリー。
もはや断末魔に近い叫び声をあげるカティア。
しかしその声は誰の耳にも届くことはなく、消えてゆく。もしかしたら外にも音は漏れているのかもしれないが、大雨と落雷の音にかき消されやはり人の耳に届くことはないのだろう。
その醜悪なペニスをいきり立たせながらグリドリーの両手はカティアの首元へと伸ばされている。
荒い息づかい、泡めいた唇の隙間から垣間見える茶色い歯がこの上なく醜悪で、湿った吐息は鼻がひん曲がってしまうほど極悪な悪臭であった。
そしてその両手はついにカティアの首を鷲づかみにする。
「誰か……たすけ……ぁあぐっ!!!」
「げっげっげ……オンナ、コロス、キモチイイ……アハァァ」
「はなっ……せ……」
カティアの細い首に掴まれたさらに細い両手は、見た目こそ非力ながらも酸素と頚動脈をせき止めるには十分の握力であった。いや、見た目こそ非力なのではない。実際にはとてつもない握力でもってして絞められているのだ。
法外の薬物を多量接種している彼には日常生活を制御するリミッターも壊れており、その骨のように細い腕でさえも強靭な力を発揮することができるのである。その代償として毛髪が抜け落ちたり、痛覚が消失するなどという副作用が数を上げれば多大であるがそんなものはどうでもいい。
「こん、な………ざ……ま……」
「その顔、死ぬ顔、タマラナイィィ!」
「うぅ………………ひゅーっ…………ぜひゅー……」
10秒、20秒、30秒……
カティアは徐々に意識が朦朧とし始め、視界が暗くなり始めていることに気がついた。ここで目を閉じればきっと永遠に開かれることはなくなるのだろう。
視界の先には狂い歓喜しているグリドリーの姿が見える。
ああ、きっともう少ししたら私はこの男に犯されるのだろう。人の形をした愛玩人形のように精を吐き出され有無を言わぬ肉塊に成り下がる。
そう思うと悔しくて悔しくて仕方がなかったが、だからといってどうすることもできなかった。
もはや腕には力が入らない。足もタコのようにふにゃふにゃになり崩れ落ちると、いよいよもって意識が遠のき始めてきた。
「あ………………ぅ……」
こんな形で死ぬのなら、もっと早く処刑されたほうがまだ良かった。
獄中で赤の他人の、しかもこんな狂人の慰み者になるくらいならいっそ正式に処刑されこの世を去りたかった。
願うことなら自爆してこの男もろとも木っ端微塵に爆ぜてやりたいところであったが、そんなものは儚い幻想の夢物語である。
薄れ行く意識の中でカティアは最期に在りし日の孤児院の光景を思いだす。あのまま何の不自由もなく生活していたら、きっと今とは全く違った人生があったに違いない。しかし全てが滅ぼされたのはそうなるべきしてなった運命であり、自分が義賊という道を選んだのも運命なのである。
悲観することなく、後悔することもない。
ただ一つ、思うことがあるとすれば……もっと人並みに恋愛を経験してみたかった……
そう思い――
――彼女は目を閉じ――――
――ぽん。
ふと、グリドリーの肩に一つの手が添えられる。
首を絞め興奮が最高潮になるグリドリーの肩に背後から何物かが手を添えている。
何かがいる。
そう、肩に違和感を感じるグリドリー。
意識を失ったカティアを確認すると、彼は後ろを振り返りその相手を視界に入れる。
しかし、彼は見た。見てしまった。
人のカタチをしているそれは何だ。
ばけものか――否。
魔物か――否。
では人間か――否。 否! 否! 否!
……そこには鬼がいた。人のカタチをした羅刹がそこにいた。今まさにグリドリーを殴り飛ばさんとする怒り狂う羅刹が存在していた。
鬼という名の激昂するロズがいた。
「オイ……お前……何をしている。答えろ。ここで何をしていた。
答えろ……」
グリドリーの背後に佇む大男の低く重厚な怒号は狭い地下牢に静かに響き渡った。
しかし、その静けさとは裏腹に男の心情は激情に燃えている。
修羅でさえも一歩身じろいでしまいかねないその表情は般若の如く憤怒に滾り、一度触れてしまえば身も心も全て破壊されかねないほどの威圧感を放っていた。
「答えろ……!」
――それは、一瞬だった。
――一撃だった。
苛烈な拳がグリドリーの顎を粉砕すると、彼はそのまま人間が描くにはありえない放物線を描きながら吹き飛ばされた。その拳や烈火の如し。
グリドリーはそのまま天井へと頭を強打し、脳髄を強く揺さぶられたことにより呆気なく気絶する。
床に横たえるグリドリーをロズはその丸太のような強靭な脚で蹴り捨て、鉄格子に叩きつける。
数回痙攣した後、彼はやがてついには動かなくなった。
15/05/18 06:48更新 / ゆず胡椒
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