悲惨期
【一人殺したら殺人者で
十人殺したら重罪人で
百人殺したらテロリストで
千人殺したら先導者で
万人殺したら革命家で
十万殺したら独裁で
百万殺したら英雄で
皆殺しでは神になる
一人殺そうが何人殺そうが殺人者には変わりない】
「貴女はその短剣『嘆きのタナトス』を手にしてしまった。
何の躊躇いもなく、まっすぐ手を伸ばしそれを掴んだ。
ならば私はなにも言うことはありません、どうぞお持ち帰り下さい……
古い、とても古い時代に作られたその短剣の製法は常軌を逸しております。
その製法というのは、まず深く愛し合っている恋人一組を用意して女性を人質に取ります。人質を返す条件として、男性にアンデッドハイイロナゲキタケという茸を食さなけらばならないと突きつけ食さなければ人質を殺すとします。当然何の知識もない男性は茸を食べるだけならと、安易に茸を口にするでしょう。
男性は断末魔を上げ想像も絶する苦痛を帯びたまま絶命するのです。
残された女性は深く愛し合っているのだからすぐに自分も死んで後を追おうとするのですがそれを許さず、女性に人魚の血を飲ませます。身動きのとれぬよう拘束し、舌を噛み切らぬよう猿轡をさせたら、女性を生きたまま骨をむき出しにさせ短剣の刃を研ぎ刃物としての鋭さをより鋭利にさせるのです。
その後、茸を食し絶命した男性をそのまま煮込み、そのスープに短剣を1年間漬け続けます。
あとは単純にその工程を百組繰り返すとこの短剣『嘆きのタナトス』が完成する……というものです。
単純に考えても最低で百年はかかりますし、人魚の血が大量に必要となります。そして、その異常な製法から今では作成及び所持は禁忌とされておりますので非常に価値のあるものです。
そのことをよく踏まえた上で、貴女はどう考えどう使用すべきか。はたまた、使用すべきかせざるべきかを判断しなければならないでしょう。
百組の人間の憤怒、痛み、悲愴、怨恨、絶望、そして毒素を孕んだ血液を吸った短剣『嘆きのタナトス』は貴方をどう導くのでしょうか……
それでは凶報をお待ちしております。
代金は後払いで結構ですから……」
※※※
薄暗い部屋の中、たった一つ人影があった。
その人物は泣く涙も枯れ果て、苦悩と絶望を生き抜いた今までの自分を褒めているようであった。瞼は赤く脹れ、恐らく寝不足によるものであろう隈が痛々しいほどに目立っている。
それと同時に、どうしようもない現実と己の不甲斐なさ、人生の理不尽さを責めているようでもあった。
「パパ、ママ……髄ヶ崎さん……ごめんね。さようなら」
消え入るような声で呟くと、彼女は脇に置いてある赤と黒が混ざり合った刃物を手にし、随分と細くなった左手に突きつける。その行動に戸惑いなど皆無であった。
何の躊躇いもなくまるで決められた一連の動作のようにスムーズな彼女の動きはある種の畏怖を感じさせる。そしてその行動を引き立てているものとして、短剣から発せられる死の臭いがそうさせている。
実際に臭気として感じるものではないが、その陰鬱な雰囲気というか死を催す短剣の造形とが合わさり、退廃的デストルドーを引き立てている気がしてならない。
焦点の合わなくなった視線、生気を感じさせない暗く沈んだ瞳、痩せこけた頬。
廃人一歩手前。今の彼女はまさしくそれだった。
なぜ彼女がここまでに至ることになったのか。
それを知るには話をさかのぼる事になる。
―――――
彼女、伊脳リョウコはごく普通の一般的な女子であった。
強いて言えば性格はやや消極的で社交的とは言えず、あまり友人の多いタイプの学生ではないが、それでもどこにでもいるようなごく普通の女子高生であった。
部活動や委員会活動にも所属することもなくバイトもしているわけでもない俗に言う帰宅部の中の帰宅部である。要は彼女は特に特出するものもなければ、非難するところもない凡庸な学生であった。強いて言えば若干他人想いがすぎる節がある程度であろうか。
そんな彼女でも、自分自身青春を謳歌していると思っていたし特に苦労することもない毎日を過ごしていたから学生生活を満喫しているようである。
今この時点では。
「リョウコちゃんー飲み物買いに行こー」
「あ、うんいいよー」
リョウコを呼ぶのは同じ学校のクラスメイトである髄ヶ崎ミキと呼ばれる少女であった。
友人の少ないリョウコにとって髄ヶ崎は唯一と言っても差し控えのない親友である。リョウコが高校に入学して右も左もわからぬ頃、初めて話しかけてきてくれたのが髄ヶ崎だった。人見知りで新しい友達を作るのに戸惑っていたリョウコにとって髄ヶ崎はかけがえのない存在と言えるであろう。
それは髄ヶ崎にっても同じことであり、二人は共に友達と思っていたのだ。
髄ヶ崎はリョウコとは逆に明るくで誰にでも人当たりがよく、悪い印象のない素直な性格の子であり、それがお互いにとって相性が合うことになったのだろう。
いつしか互いは惹かれあい、ただの友達から親友になるのはそう長い時間はかからなかった。
今日もいつも通りリョウコは親友と二人で一緒に踊り場の自販機まで飲み物を買いに行く。
その後は教室に戻り、二人で弁当を食べるというのがいつも変わらず毎日繰り返される日常であった。
そんなごくごく普通な日常もある日を境に少しずつ崩れていくことになる。
今このとき、彼女はそのようなことなど知る由もなかった。
―――――
初めて変化が起こったのはほんの些細なことである。
ある日、夜更かしをしていたせいで朝寝坊をしてしまったリョウコは急ぎ学校に行くことになった。いつもは髄ヶ崎と共に登校していたのだが、寝坊してしまったせいもあり今日は一人だ。
学校に着くと、自転車の鍵もかけるのを忘れるほど急ぎ、玄関で下駄箱を漁り自分の上履きを床に叩き落す。踵の踏まれていない清楚な上履きからも、彼女がいかに真面目な性格だということがうかがえる。
ホームルームのチャイムが鳴るまで残り2分。時計を見た彼女は急ぎに急ぎ、今回ばかりは踵のことなど考えずに思い切り上履きをスリッパのようにして履きだした。
右足から足を入れる。
「痛ッッたぁッ……!?」
するとその直後、突如として右足の底から言いようのない激痛が走った。土踏まずよりややつま先寄り、足の人差し指と中指の下辺りだ。
痛さのあまり彼女は転倒し、直ちに上履きを脱ぎ捨てると自らの足裏を恐る恐る眺める。そこにあったのは信じがたいものであった。
「嘘……なに、これ……」
画鋲。
黒板の角にでも指し忘れられているようななんてことはない普遍的な金属の塊。
それが彼女の足裏にしっかりと突き刺さっていたのだ。
紺色のハイソックスの上から、深々と彼女の皮膚を突き破りこの上ない痛みを感じさせている。
彼女はくぐもった呻き声のような苦声を発しながら画鋲を抜くと、ハイソックスを脱ぎその傷口に目を当てる。幸い出血はたいした事はなく、絆創膏の一つや二つで簡単に治まりそうなものであった。
もしやと思い、彼女はまだ履いていない左足の上履きを持ち、逆さに揺らしてみると、床に一つパチンと跳ねる画鋲が落ちた。もう片方の靴にも画鋲が入っていたのである。
彼女は軽い怒りを覚えるよりも前に、絶句した。
一体誰が、何のために、自分の上履きに画鋲を仕込ませたというのか。それを考えると画鋲の痛みは恐ろしいまでの速さで流失していくようだった。
「とりあえず、教室行かなきゃ……」
既にチャイムは鳴っており実質的に遅刻にはなっているが、今ならまだ先生がいるはず。
遅刻手続きを書くことは非常に面倒くさい事柄なのでこれくらいの時間ならまだ先生に伝えるだけで大丈夫だろうと思ったのだろう。
保健室には向かうことなく、彼女は二つの画鋲を手にしたまま跛行していった。
画鋲が上履きの中に仕組まれてあった。その事実だけでも悪戯には度を越しているといえるものである。
そして更に、その画鋲がただ上履きの中に置いてあったのではなくつま先辺りに置いてあったということが彼女の不安を掻き立てることとなる。
画鋲の存在を臭わせないよう確実に刺したい。痛みを与えてやりたいという、犯行者の悪意がありありと見えてしまったからだ。
それは一転の曇りもない悪意そのもの。
恨みでも怒りでもなんでもない、純粋な悪意が彼女を襲ったという耐え難い事実である。
「どしたの?リョウコなんか今日調子悪くない?」
「いや、なんでもないよ」
「ふーん……ならいいけどさ」
そして彼女はそのことを誰にも告げることはなかった。
もともと消極的な性格である彼女にとって、事が大ごとになるのはなるべく避けたいと思っており、自分自身平穏な生活を崩したくなかった。
恐らくこれを先生にでも告げてしまえばクラス会議、最悪全校集会にまで発展するぐらい重大なことだということはリョウコ自身でも自覚はあるが、それでも彼女は告げることはなかった。
自分がその被害者の中心人物であるということを認めたくなかったのかもしれない。
誰にも告げていないということはもちろん親友である髄ヶ崎にも告げてはいないし、同時に察せられるような素振りもしてはならない。彼女の前では痛みを隠しつつ、普段どおりに振る舞い、跛行するのも極力抑えることにした。
髄ヶ崎を巻き込むようなまねはしたくなかったのだ。
「そ、それよりも、今日も髄ヶ崎さんの弁当美味しそうだね。私のから揚げとその卵焼きと交換しない?」
「いいね、それじゃ……いっただっきまーす。……んー!うまっ!」
こんな純粋で人当たりのいい子を巻き込みたくない。
リョウコの根底にはまずこれがあった。
きっと私は何かしら他人に恨まれることをしてしまったに違いない。無意識のうちに他人が腹を立てる様なことをしてしまって私が対象になってしまったに違いない。
だとしたらきっと髄ヶ崎さんは私が被害にあっていること知ったら、それに真っ向から対抗するであろう。私をこのようにしている人たちを許しはしないだろう。
そしていずれは髄ヶ崎さんも私のような目にあってしまうのだろう。報復という名のいじめへと誘われてしまうのだろう。
それだけは絶対に避けねばならないと彼女は思っていた。
傷付くのは私だけでいい。親友を巻き込みたくない。
消極的で他人想いがゆえにこのような思想に至った自分自身を彼女は責めることはなかった。
髄ヶ崎さんを守れればそれでいいと。
他人想いというよりは自己犠牲と言っても差し控えのない思想はその後着実に彼女の肉体、精神を蝕んでいくことに今はまだ気が付いていなかった。
いや、気が付いていたとしてもどうしようもならなかった。
―――――
その後も、彼女に降りかかる災難といういじめは後を絶たなかった。いや、むしろエスカレートしていると言ってもいい。
上履きに置かれる画鋲は日に日に数を増やし、今では靴底全体に張り巡らされている。
はじめて見たときは思わずぎょっとし飛び退いてしまったが、その行動すらも今自分がいじめられていると知られてしまうきっかけになりかねないと察した。
だから彼女は極力驚くことはなくなった。いや、いじめられている自分に慣れてしまったと表現するほうがいい。
ひとつひとつ丁寧に針の部分を上に上げていることから、一切の慈悲もなくリョウコを痛めつけることしか考えていない。画鋲は何も語らず、ただそこにあるだけで沈黙の悪意をむき出しにしている。
彼女は毎日その悪意を振り払い、画鋲を取り除く作業から学校生活の一日が始まるのだ。
慣れというのは便利でもあり恐ろしくもある。
例えば舞台の発表だとかいざという時の緊急時であれば、慣れていればいるほどより落ち着いて行動できるし、工芸品などの職人技のようなものであれば長年経験した技という名の慣れがある。慣れは人が生きていく上でなくてはならないものだ。
しかし、その慣れが悪い方向へ働いてしまうこともある。慣れから発生する余裕は新たな過ちを犯すことになるし、些細なことでは反応しなくなってしまうのだ。
リョウコはそのうちの後者であり、画鋲という無言の悪意に反応を示さなくなり始めていた。
量が増えていくことに恐れを感じていたのはもはや過去の出来事なのだ。今のリョウコには画鋲に対する慣れが生じている。
こうなればもう、いくら数が増えたとしても初めの頃のような驚きは生ずることがない。
生物が身を守るために存在する恐怖という生物的本能の一部を慣れの一言で終わらせてしまうことの重大さは語るまでもないだろう。
「おっはよーリョウコ。昨日のテレビ見た〜?」
「あぁ、ごめん見てなかった」
「まじで〜?昨日のドラマ超展開ですごかったのにぃ!」
「そう、なんだ。ごめんね見てなくて」
「あ、うん……ってゆーか、リョウコやっぱり最近」
「ええと、1時限目って教科なんだっけ」
最近は大体毎日こんなやり取りばかりである。
髄ヶ崎に悟られないように行動するのが日課になってしまっていた。それでいくら二人の中が疎遠になってしまおうとも、リョウコはそれで構わなかったのだ。
髄ヶ崎を巻き込みたくない一心のみで今まで行動し貫き通してきた彼女にとって、今更全てを話してしまおうなどという考えは微塵にも浮かんでこなかった。
友人の少ないリョウコにとって親友である髄ヶ崎がいじめに合うことなど想像もしたくないことなのである。それが如何に耐え難いものであるかは当の本人である伊脳リョウコにしかわからないであろう。
自分のせいで髄ヶ崎さんはいじめられてしまう、自分のせいで酷い目に合わせてしまう。自分がいるからいけないんだ。
そう思うようにもなってきた。
1時限目、国語。
今日の授業内容は新しい単元である。教科書に載っている小説を生徒が区切りごとに読んでいくという一般的でどこにでもありそうな授業だ。
その区切りというのは文章の句点で区切られており、やたらと長い人もいれば異常に短い文章で終わってしまう人もいるものである。
作品は『山月記』。人と虎との葛藤を描いた作品である。
この手の作品は、よく登場人物の心情を述べよといった設問が多くあるが、自分のことで手一杯なリョウコはそんなことを考えていられる状況ではない。
他人を思いやる気持ちは人一倍あるリョウコでさえも、李徴の臆病な自尊心と尊大な羞恥心を理解することはできなかった。
「じゃあ今日は前の授業で言ったとおり山月記始めるぞ。146ページから伊脳、読んでくれるか」
「はい」
「難しい漢字が多いからわからないところがあったら聞くように」
そう呼ばれたリョウコはパラパラと教科書を開き始める。
何のことはないただの仕草。
なのだが、今日に限ってはクラス中の視線が全て自分に集中しているような気がしてリョウコは若干の寒気を感じた。
何かがいつもと違う。
その寒気が数秒後には現実となって降りかかることになるのだがそれはまだ彼女は知らない。
それはまるで何も知らない囚人が薄汚い笑みを帯びた執行人に見回されながら死刑執行を待つかのように、生理的嫌悪を催す悪意と似たようなものを予感させるものであった。
143、144、145そして……146。
そのページを開いた途端彼女はガタン、と大きく椅子を一度だけ鳴らし本を机に落とす。
「どうした伊脳」
先生の声など耳には入らない。
いや、耳には音として聞こえてはいるが頭の中には入ってこないのだ。
『山月記』の始まり、146ページ。
そのページは余す所なく真っ黒に塗り潰されていた。
黒く、ただひたすらに黒く底の見えない深淵を覗かせていた。
彼女はその黒き恐怖に思わず身動ぎすることも忘れ、教科書を手からすり落とす。自分の教科書が塗り潰されているという現実を受け入れるには時間が足りなすぎたのだ。
画鋲に対する耐性は十分ついてきたと思った矢先、次はこのような仕打ちが待っているとは予想もしていなかったので、突然の悪意の襲来にただひたすら驚き恐れることしかできないでいた。
そして、彼女が特に不気味に思ったのはそれだけではない。それは、この黒い落書きからは何のメッセージを感じ取ることができないからであった。
普通こういうものは何らかの形で被害者へ訴えたいことがあって行なわれることが多い。
死ね、ウザイ、キモイ、帰れ、そういった加害者からの言うならば伝言のようなものは少なからず得ることができたはずである。
しかし、今回のこれはリョウコ自身に対する文字が一文字も書かれていないのだ。怨恨すら感じさせない無機質的ないじめはこの上なく恐ろしく、それならば教科書に暴言を書かれる方がいくらか増しに思えるほどである。
画鋲の時と同じように、相手は自分に対してなぜ敵意があるのかを全く知らしめてこないのだ。気味が悪いにも程がある。
無言の敵意、理由なき暴力は連日に渡る嫌がらせの行為により疲れ果てたリョウコに追い討ちをかけるように痛めつけた。
「先生、気分が悪いのでトイレに行ってきます……」
「お、そうか。それじゃ、脾山、次読んでくれ」
椅子を立ち教室から出ようとする。
その最中、押し殺したようなせせら笑いが教室中から聞こえてきたが、誰が笑っているかを特定する余裕などない。
「見たか?あの顔、超テンパってんぜ」
「ウケルwwってかやっぱ先生にも言わないんだね」
「ビビって言えねぇんだろ、カスじゃん」
「まぁ面白いからいんじゃない?」
その囁き声は明らかにリョウコに聞かせつけるように小さいながらもしっかり聞こえていた。先生には聞こえない範囲で。
教室を出ようとしたリョウコは誰かに足をかけられつまずいてしまったが、それすらも気にかけるそぶりはしなかった。今はただ耐え忍ぶ時なのだ。
今はただ、トイレに行ってこの混乱した頭を冷やしたい、その思いしかない。
彼女に対する周囲の行動はあまりに悪質であり、許されざる行為であることには間違いない。
だが、何も知らない他人からしてみればそれはただ、一人の少女が体調を崩しトイレに駆け込んだというものにしか見えないのも事実である。
故に髄ヶ崎はリョウコの体調の回復を気にすることしかできなかった。彼女の目にはリョウコがいきなり体調悪くなり教科書を落としてつまずいたということしか見えていなかったのだから。
少しずつ、少しずつ。
リョウコの精神は崩れ始めてきていた。
―――――
「いやー授業眠かったぁ〜」
「そうだね」
「さて、弁当食べよっか……っとその前に。私トイレに行ってくるから先に食べてていいよー」
「うん……わかった」
今日は下駄箱生ゴミが敷き詰められていた。
昨日は燃やされた教科書の灰が上履きに敷き詰められていた。
もうここまれこれば、これはただの悪質ないじめではないのは確実である。
それでもなお髄ヶ崎がこのいじめに気が付いていないのは、リョウコの常軌を逸している沈黙が如何に強固であるかを物語っている。彼女はどんなに酷い目に合おうとも決して外では弱音を吐かず自らの内にしまい込み包み隠していたのだ。
だから今後もどんなことがあろうとも、髄ヶ崎に知られる心配はなかった。
髄ヶ崎にいじめを知られることは即ち、彼女のいじめへと繋がる。そう確信めいた答えがあるために、自分以外の犠牲者を出さぬようリョウコは自分自身の力で堰き止めていたのだ。
「よぉ伊脳さん、随分とまぁマズそうな弁当じゃないですか」
「ご飯に卵焼き、チキチキボーンとグラタン、それに申し訳ない程度のミックスベジタブル……」
「うっわ何それゲロ?よくそんな汚物学校に持ってこれるねwキャッハw」
「そんじゃいつもどおり汚物は消毒ターイム!まずはこのゴミ弁当を持ちま〜す」
「からの〜?」
「ゴミ箱の前に立ちます〜」
「からの〜?」
「ハイ、ボッシュート〜!よかったね伊脳さん、こんなゲロみたいな弁当食べなくて済んだじゃん」
こんなことも日常茶飯事である。
当然、リョウコの弁当は不味くもなんともないごくごく普通の弁当だ。だが、彼ら彼女らにとってはそんなことはどうでもいいらしい。
伊脳リョウコの弁当だからやる。ただそれだけ。
たったそれだけの単純な思考で奴らは何の罪もない少女を虐げるのである。
これがいじめでなくてなんと言えるであろうか。強者が弱者をいびり愉悦に浸るためだけに耐えがたい苦痛を与えることのどこに正当さを感じることができるだろうか。
高校生にしては幼稚で、それでいて悪質で陰湿ないじめそのものである。
「あ……あの、なんで……」
「え?何か言った?」
「ど、どうし、て……そんなこと、す、する……の」
今思えば彼女にはどうしてもわからないことが一つだけあった。
それはなぜ自分がいじめられているのかということ。
思い返してみても、他人と係わり合いを持つことのない性格ゆえに他人に迷惑をかけることもなければ、恨まれるようなことをした記憶もさっぱり思いつかないのだ。
全ての出来事には理由があって結果が生じるものである。
しかし、今の彼女は理由などなき理不尽な結果のみを突きつけられているようであった。
「んなもん楽しいからに決まってんじゃねーか。お前のびくびく怯える姿とかサイコーに笑えるんだぞ?なあ皆」
「そうそう、一丁前に沈黙作っちゃってさぁ。黙ってちゃ誰も助けなんて来てくれないよ?まぁ助けを呼んだところで誰も助けてなんてくれないだろうけど」
「ははは、違いねぇ」
「そ、そんなこと……で……ぇ……」
その原因は自分が蒔いた種なんてものではなく、まさしく自分自身。
原因が自分である以上、リョウコにはどうすることもできなかった。なぜいじめられているのかと言われればその原因は自分であり、その原因を排除するということは自分自身を否定しなければならないからだ。
「言っておくけど、この教室じゃお前をいじめているやつは全員だぞ。あ、髄ヶ崎さんは別だったか」
「ねぇそういえばあの子も最近ちょっと邪魔じゃな〜い?一緒にやっちゃ」
「やめてッッ!!!!!それだけはっ……絶対に……」
普段口数の少ないリョウコがここまで声を張り上げることは今まで一度たりともなかった。それだけ、髄ヶ崎はリョウコにとって大切な人であり何よりも守らなければならないものであり、そしてたった一人の親友であった。
このクラスが一丸となっていじめにかかってきている。
「カカッ、こいつホントに髄ヶ崎さんのことになるとマジになるもんな。キッモ」
いくら自分がいじめられようとも、彼女だけは、髄ヶ崎さんだけは無事でいて欲しい。
執着、依存、拘泥、耽溺、執念。そのどれとも当てはまらないリョウコの髄ヶ崎へと対する想いはもはや異常と思えるほどで、リョウコ自身もそれに自覚はあった。
気がつけば自分は髄ヶ崎のことを考えており、髄ヶ先の為ならば、髄ヶ先が安全ならばと、いつの間にか彼女のことを第一に考えるようになっている。自分の中では親友よりも大切な者、もはや体の一部とも思うときが多くなってきているようであった。
この劣悪な者共は全て自分と髄ヶ崎の敵であり、いずれ放っておけば必ずやよくないことが起きる。
そう心の中で決め付け、それでいて何もする事が出来ない自分に憤りの炎を燃やしていた。
「ごめんごめ〜ん、トイレ込んでてさぁ!」
「ぁ……おかえり髄ヶ崎さん」
「あら、リョウコが腰田くんと喋ってるなんてめずらしーね!何かあったの?」
「いやぁ、俺だって伊脳さんに用事ある時だってあるさ。ねぇ伊脳サン?」
「そ、そうだね……」
リョウコの弁当をゴミ箱へ廃棄した男、腰田はさも平然を装うと嫌味ったらしい笑みを浮かべ教室の奥へと戻っていく。彼女達二人には聞こえないが、教室の奥では押し殺したせせら笑いが聞こえてくるようだった。
悪いのは腰田だけではない。
今胃も。三臓も。窪膣も。
腎野も。肺乃宮も。肝原も。
脾山も。肛神も。腺崎も。
その他のクラスメイトも。
そしていじめられている自分すらも。
全てが悪い。
劣悪ないじめを執拗に続けるクラスメイトは当然人道の風上にも置けない下賤な奴らであるが、いくらいじめられてもなお口を頑なに開こうとしないリョウコもまた異常であった。
『凡庸』な女子高生であった伊脳リョウコという人格は既に限界を迎えていたのであろう。もはや今の彼女にはクラスメイトに対する収まりきらない憤怒と髄ヶ先に対する慈愛しか存在しなかった。
「あれ、リョウコ今日もカロリーメイト?」
「うん……ママが、体調崩してる……から」
「……そうなんだぁ。早く良くなればいいねっ」
「ありがと……」
重い足取りを引きずりながら彼女は帰宅する。
黒いローファーは律儀に綺麗に並べて玄関に整える。脱ぎ捨てると母親が口うるさいからだ。
聞こえるか聞こえないくらいの小さなか細い声でただいまと言うと、奥の方からおかえりと母親の声が聞こえてくる。
そしてリョウコは台所へ行き、空になった弁当箱を流し台へと置きいつものように決まった嘘をつくのである。
「ママ、今日も美味しかったよ」
そう言うと母親はいつものように嬉しそうな笑顔で喜ぶのだ。
じゃあ明日はあれを入れてあげる、これもいいわねと。弁当の献立を考える母親は年甲斐もなく無邪気な子供のように喜ぶのであった。
そうするとリョウコはいつものようにすぐさま二階へと上がり、自室に篭るのである。母親とろくに会話をする事もなく、部屋に塞ぎこんでしまうのである。
なぜなら、これ以上母親の喜ぶ顔を見ていられなかったから。
毎日忙しい中、献立を考えてくれている母親の姿を想像すると胸が痛くてたまらなかったから。
毎日弁当を作ってくれている母親に対して自分は何てことをしてしまっているのだろうかと思うと、不甲斐なくて胸が締めつけられる思いであった。
「ぅぅ……ふぐっ……ひくっ……」
学校では気丈を保ち決して弱音を見せないリョウコは、唯一この自分の部屋でだけ涙を流す。
髄ヶ崎に対する想い、クラスメイト共に対する怒り、そして母親に対する侘び。それら全てが混同し頭の中でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、整理がつかなくなると涙となって現れるのだ。
どうして私がいじめられなければならないの。
どうして。
どうして。
どうし――
すると彼女と突如として糸が切れたかのようにベッドに倒れこむ。
―自分が伊脳リョウコだから―
どうしようもならない現実に目を背けたくなるが、背けたところで解決する問題ではない。奴らは伊脳リョウコという人物をいたぶり、自分たちが上位の存在になれることに愉悦感を感じているのだ。容易に解決できる問題ではない。
考えども考えども奴らの薄汚い笑い声と下卑た視線が脳裏から離れる事はなく、学校ではないのにもかかわらず自分を攻め立ててくる。
リョウコはそれに耐えかね、逃げるようにベッドに倒れこんだ。
逃げたとしても離れることは出来ないのだが。
それでもリョウコは一時も早く奴らから解放されたかったのだ。
「…………」
まるで意識が途切れてしまったかのようにうつ伏せに倒れている。
荒い息遣いも時間が経過するにつれて大人しいものとなる。
更に時間が経過すると、今度は死人のように一切物音を立てずむくりとベッドから起き上がった。
生気なくふらふらと部屋中を徘徊し始める。その姿はまるで夢遊病患者そのものだ。
おぼつかない足取りで自分の机の前に立つと一番下の引き出しに手をかけて一気に中身を引きずり出し、出てきたものを漁りだす。
明らかに先ほどとは様子が違っていた。
「あった……ぅへ、へ」
ハイライトの消えた黒い瞳がさす先には、赤と黒の物体が転がり落ちている。それは女子高生の部屋には似つかわしいグロテスクなデザインで今にも金切り声を上げそうなおぞましい物であった。
よく見れば刃物らしきそれは血のように赤く、夜のように黒く、骨や臓器、血管のような彫り物が装飾されており悪趣味すぎるというものだ。
ひたすら気持ち悪さと陰険さを錬りこめたようなそれは、刃物というには生々しすぎた。
刃物なのに触った質感は生肉のような生理的嫌悪を感じさせる生物らしさ。
常に湿り気を帯びた刃先はぬらぬらと光沢し、得体の知れぬ液体を垂らし続けている。
これならばスプラッター系のB級映画を見ていた方がまだ可愛く思えるほどだ。
「しぃ……シぅ、死ぬぅ……死ィ、死死死ししシし」
右手でその刃物を掴もうとすると、柄の部分がズブズブと形を変え手の形にフィットするように変形し始めた。まるでそれそのものに意思があるかのように、自ら形を変え始めたのだ。
その刃物を掴むと、柄から伸びた肉のような部分は彼女を覆い、皮膚に付着する。するとみち……みち……と気持ちの悪い音を立てて肉の部分が右手の上へ上へと上昇していく。柄の肉の部分は彼女の皮膚と同化しているようで徐々に右手を侵食する。
血管の浮き出た手のように網目状に隆起する彼女の右腕はもはや見てられるものではなかった。
―自分が伊脳リョウコなら、伊脳リョウコを辞めればいいんだ―
心のどこかでそう思った、いや思ってしまった彼女。
こんなに辛い思いをするなら、いっそいなくなってしまった方がいいんじゃないだろうか、と。
先日、怪しげな骨董商の少女から授かったこの短剣なら私の願いを叶えてくれる。悲しみと怒りに包まれた私を静めてくれる。そう思って止まなかった。
実際この短剣を見つめていると、今まで思いつめていた考え事は全て吹き飛び、死にたくなる気持ちしか思いつかなくなる。
死んでしまえばどれだけ楽かなんてことは、彼女自身今まで幾度となく考えてきた事であった。
短剣を握ればその考えはより一層色濃くなり、自分に死ぬ勇気を与えてくれる。躊躇いを吹き飛ばしてくれる。
まさに彼女の願いを叶えるにはうってつけの珍品であった。
「死ぬぅ……死ぬぅ、シ、死ぬっ、しむっ、死ぬっ、死ぬッ死ぬぬ!死ねぇ!」
短剣を自らの胸へと突きつける。
この鋭さなら心臓に一突きであっという間に自分を殺せるだろう。
自らの胸に刃先をあてがい、震えることすらしない右手を構える。この緊迫的状況下において一切の震えもない右手を構える。
この腕を引けば自分は全てから開放される、苦しむ事はないんだ。
悪魔の囁きとも言える甘美な誘惑は彼女の脳の奥深くまで染み渡り、死という希望に胸を高まらせる。
彼女は自ら死ぬ事に希望を花咲かせ、一気にその腕を引いた。
―リョウコ!!―
―――――
「……ハッ!?」
ふと目を覚ますと、彼女は机の前で横たえていた。
例の短剣はすぐ近くに転がっている。
彼女の右手は数分前と同じく人間の素肌のままに戻っており、あの気味の悪さは消失していた。
「髄ヶ崎、さん……」
髄ヶ崎の幻聴は未だに頭の中に反響している。
彼女はそう落胆すると、辺り一面に散らかった引き出しの中身のものを丁寧に戻し始めた。
短剣は直接手で掴まないよう、ティッシュで包みながら戻す。直接手で掴もうものなら、また先ほどのような猟奇的状況に陥ってしまうのだから。
短剣を一番奥に隠すと引き出しを閉めて完全に視界から見えなくする。
右手に付着していた柄の肉は一片残さず完全に消失してしまっており、先ほどの光景はまるで夢のようであった。
いや、夢であったほうが良かったのかもしれない。
「また、だめだった……」
先日、彼女が学校帰りで手に入れたこの短剣。これを手に入れたのが彼女の転機であった。
彼女はよくエスカレートしたいじめを受け続けてからというもの、稀に死にたいと思うようになっていた。しかし、その死にたいという自殺願望はあるとき不意に思うようなもので、思春期ならば誰でも思ういわば気まぐれなものである。
彼女自身でも、本能的に自殺だけはいけないと思っていたのであろう。
だが、この短剣を手にしてからというものそれは変わった。
押さえつけていた自殺への欲望はこの期を境に押さえつけられないものとなり、ことあるごとに本能に任せて自ら命を絶ってしまおうとするのだ。
それも無意識のうちにである。
セーブの聞かなくなった自分への殺意はいつ自分を殺してしまってもおかしくない状況である。
「まだ、だめ……だよね」
彼女のその押さえきれない激情を最後までせき止めているのは髄ヶ崎の存在であった。
今自分が死ねば、対象のいなくなったいじめの矛先は髄ヶ崎へと向かうことになるであろう。
彼女にとってそれだけは、絶対にあってはならないことなのである。
たとえ自分の身がどうなってしまおうとも、髄ヶ崎がいじめられることだけはどんなことをしても阻止せねばならないことであった。
リョウコが髄ヶ崎に対する愁いのような感情は、いつしか慕いに変わっており、歪曲した想いを寄せている。
髄ヶ崎の為なら死ぬ事だって厭わないが、それで彼女がいじめられるとしたらそれは死ねないのだ。
まったくもって歪んだ想いの他ならない。
「ふぁ……明日はどういじめられるのかな……」
驚くべきことに彼女は短剣を手に入れてからというもの、毎日この行為を繰り返している。
生きるか死ぬかの重大な行為にもかかわらず、彼女は今日も明日も明後日もこの行為を繰り返すのだろう。狂気の沙汰を通り越している。
彼女は如何に自分が異常なのか気が付いていない。
毎日行なわれる本気の自殺衝動。それに慣れてしまうということが如何に戦慄すべき行動だということに。
―毎日―
そして彼女は、もう足を踏み入れてはいけないところまで来てしまっている。
毎日行なわれている生と死を賭けた自らの葛藤を"また"の一言で終らせてしまうことの異常さ。
そのおぞましさに気が付かない彼女の精神はもう死んでいるも同然であった。
十人殺したら重罪人で
百人殺したらテロリストで
千人殺したら先導者で
万人殺したら革命家で
十万殺したら独裁で
百万殺したら英雄で
皆殺しでは神になる
一人殺そうが何人殺そうが殺人者には変わりない】
「貴女はその短剣『嘆きのタナトス』を手にしてしまった。
何の躊躇いもなく、まっすぐ手を伸ばしそれを掴んだ。
ならば私はなにも言うことはありません、どうぞお持ち帰り下さい……
古い、とても古い時代に作られたその短剣の製法は常軌を逸しております。
その製法というのは、まず深く愛し合っている恋人一組を用意して女性を人質に取ります。人質を返す条件として、男性にアンデッドハイイロナゲキタケという茸を食さなけらばならないと突きつけ食さなければ人質を殺すとします。当然何の知識もない男性は茸を食べるだけならと、安易に茸を口にするでしょう。
男性は断末魔を上げ想像も絶する苦痛を帯びたまま絶命するのです。
残された女性は深く愛し合っているのだからすぐに自分も死んで後を追おうとするのですがそれを許さず、女性に人魚の血を飲ませます。身動きのとれぬよう拘束し、舌を噛み切らぬよう猿轡をさせたら、女性を生きたまま骨をむき出しにさせ短剣の刃を研ぎ刃物としての鋭さをより鋭利にさせるのです。
その後、茸を食し絶命した男性をそのまま煮込み、そのスープに短剣を1年間漬け続けます。
あとは単純にその工程を百組繰り返すとこの短剣『嘆きのタナトス』が完成する……というものです。
単純に考えても最低で百年はかかりますし、人魚の血が大量に必要となります。そして、その異常な製法から今では作成及び所持は禁忌とされておりますので非常に価値のあるものです。
そのことをよく踏まえた上で、貴女はどう考えどう使用すべきか。はたまた、使用すべきかせざるべきかを判断しなければならないでしょう。
百組の人間の憤怒、痛み、悲愴、怨恨、絶望、そして毒素を孕んだ血液を吸った短剣『嘆きのタナトス』は貴方をどう導くのでしょうか……
それでは凶報をお待ちしております。
代金は後払いで結構ですから……」
※※※
薄暗い部屋の中、たった一つ人影があった。
その人物は泣く涙も枯れ果て、苦悩と絶望を生き抜いた今までの自分を褒めているようであった。瞼は赤く脹れ、恐らく寝不足によるものであろう隈が痛々しいほどに目立っている。
それと同時に、どうしようもない現実と己の不甲斐なさ、人生の理不尽さを責めているようでもあった。
「パパ、ママ……髄ヶ崎さん……ごめんね。さようなら」
消え入るような声で呟くと、彼女は脇に置いてある赤と黒が混ざり合った刃物を手にし、随分と細くなった左手に突きつける。その行動に戸惑いなど皆無であった。
何の躊躇いもなくまるで決められた一連の動作のようにスムーズな彼女の動きはある種の畏怖を感じさせる。そしてその行動を引き立てているものとして、短剣から発せられる死の臭いがそうさせている。
実際に臭気として感じるものではないが、その陰鬱な雰囲気というか死を催す短剣の造形とが合わさり、退廃的デストルドーを引き立てている気がしてならない。
焦点の合わなくなった視線、生気を感じさせない暗く沈んだ瞳、痩せこけた頬。
廃人一歩手前。今の彼女はまさしくそれだった。
なぜ彼女がここまでに至ることになったのか。
それを知るには話をさかのぼる事になる。
―――――
彼女、伊脳リョウコはごく普通の一般的な女子であった。
強いて言えば性格はやや消極的で社交的とは言えず、あまり友人の多いタイプの学生ではないが、それでもどこにでもいるようなごく普通の女子高生であった。
部活動や委員会活動にも所属することもなくバイトもしているわけでもない俗に言う帰宅部の中の帰宅部である。要は彼女は特に特出するものもなければ、非難するところもない凡庸な学生であった。強いて言えば若干他人想いがすぎる節がある程度であろうか。
そんな彼女でも、自分自身青春を謳歌していると思っていたし特に苦労することもない毎日を過ごしていたから学生生活を満喫しているようである。
今この時点では。
「リョウコちゃんー飲み物買いに行こー」
「あ、うんいいよー」
リョウコを呼ぶのは同じ学校のクラスメイトである髄ヶ崎ミキと呼ばれる少女であった。
友人の少ないリョウコにとって髄ヶ崎は唯一と言っても差し控えのない親友である。リョウコが高校に入学して右も左もわからぬ頃、初めて話しかけてきてくれたのが髄ヶ崎だった。人見知りで新しい友達を作るのに戸惑っていたリョウコにとって髄ヶ崎はかけがえのない存在と言えるであろう。
それは髄ヶ崎にっても同じことであり、二人は共に友達と思っていたのだ。
髄ヶ崎はリョウコとは逆に明るくで誰にでも人当たりがよく、悪い印象のない素直な性格の子であり、それがお互いにとって相性が合うことになったのだろう。
いつしか互いは惹かれあい、ただの友達から親友になるのはそう長い時間はかからなかった。
今日もいつも通りリョウコは親友と二人で一緒に踊り場の自販機まで飲み物を買いに行く。
その後は教室に戻り、二人で弁当を食べるというのがいつも変わらず毎日繰り返される日常であった。
そんなごくごく普通な日常もある日を境に少しずつ崩れていくことになる。
今このとき、彼女はそのようなことなど知る由もなかった。
―――――
初めて変化が起こったのはほんの些細なことである。
ある日、夜更かしをしていたせいで朝寝坊をしてしまったリョウコは急ぎ学校に行くことになった。いつもは髄ヶ崎と共に登校していたのだが、寝坊してしまったせいもあり今日は一人だ。
学校に着くと、自転車の鍵もかけるのを忘れるほど急ぎ、玄関で下駄箱を漁り自分の上履きを床に叩き落す。踵の踏まれていない清楚な上履きからも、彼女がいかに真面目な性格だということがうかがえる。
ホームルームのチャイムが鳴るまで残り2分。時計を見た彼女は急ぎに急ぎ、今回ばかりは踵のことなど考えずに思い切り上履きをスリッパのようにして履きだした。
右足から足を入れる。
「痛ッッたぁッ……!?」
するとその直後、突如として右足の底から言いようのない激痛が走った。土踏まずよりややつま先寄り、足の人差し指と中指の下辺りだ。
痛さのあまり彼女は転倒し、直ちに上履きを脱ぎ捨てると自らの足裏を恐る恐る眺める。そこにあったのは信じがたいものであった。
「嘘……なに、これ……」
画鋲。
黒板の角にでも指し忘れられているようななんてことはない普遍的な金属の塊。
それが彼女の足裏にしっかりと突き刺さっていたのだ。
紺色のハイソックスの上から、深々と彼女の皮膚を突き破りこの上ない痛みを感じさせている。
彼女はくぐもった呻き声のような苦声を発しながら画鋲を抜くと、ハイソックスを脱ぎその傷口に目を当てる。幸い出血はたいした事はなく、絆創膏の一つや二つで簡単に治まりそうなものであった。
もしやと思い、彼女はまだ履いていない左足の上履きを持ち、逆さに揺らしてみると、床に一つパチンと跳ねる画鋲が落ちた。もう片方の靴にも画鋲が入っていたのである。
彼女は軽い怒りを覚えるよりも前に、絶句した。
一体誰が、何のために、自分の上履きに画鋲を仕込ませたというのか。それを考えると画鋲の痛みは恐ろしいまでの速さで流失していくようだった。
「とりあえず、教室行かなきゃ……」
既にチャイムは鳴っており実質的に遅刻にはなっているが、今ならまだ先生がいるはず。
遅刻手続きを書くことは非常に面倒くさい事柄なのでこれくらいの時間ならまだ先生に伝えるだけで大丈夫だろうと思ったのだろう。
保健室には向かうことなく、彼女は二つの画鋲を手にしたまま跛行していった。
画鋲が上履きの中に仕組まれてあった。その事実だけでも悪戯には度を越しているといえるものである。
そして更に、その画鋲がただ上履きの中に置いてあったのではなくつま先辺りに置いてあったということが彼女の不安を掻き立てることとなる。
画鋲の存在を臭わせないよう確実に刺したい。痛みを与えてやりたいという、犯行者の悪意がありありと見えてしまったからだ。
それは一転の曇りもない悪意そのもの。
恨みでも怒りでもなんでもない、純粋な悪意が彼女を襲ったという耐え難い事実である。
「どしたの?リョウコなんか今日調子悪くない?」
「いや、なんでもないよ」
「ふーん……ならいいけどさ」
そして彼女はそのことを誰にも告げることはなかった。
もともと消極的な性格である彼女にとって、事が大ごとになるのはなるべく避けたいと思っており、自分自身平穏な生活を崩したくなかった。
恐らくこれを先生にでも告げてしまえばクラス会議、最悪全校集会にまで発展するぐらい重大なことだということはリョウコ自身でも自覚はあるが、それでも彼女は告げることはなかった。
自分がその被害者の中心人物であるということを認めたくなかったのかもしれない。
誰にも告げていないということはもちろん親友である髄ヶ崎にも告げてはいないし、同時に察せられるような素振りもしてはならない。彼女の前では痛みを隠しつつ、普段どおりに振る舞い、跛行するのも極力抑えることにした。
髄ヶ崎を巻き込むようなまねはしたくなかったのだ。
「そ、それよりも、今日も髄ヶ崎さんの弁当美味しそうだね。私のから揚げとその卵焼きと交換しない?」
「いいね、それじゃ……いっただっきまーす。……んー!うまっ!」
こんな純粋で人当たりのいい子を巻き込みたくない。
リョウコの根底にはまずこれがあった。
きっと私は何かしら他人に恨まれることをしてしまったに違いない。無意識のうちに他人が腹を立てる様なことをしてしまって私が対象になってしまったに違いない。
だとしたらきっと髄ヶ崎さんは私が被害にあっていること知ったら、それに真っ向から対抗するであろう。私をこのようにしている人たちを許しはしないだろう。
そしていずれは髄ヶ崎さんも私のような目にあってしまうのだろう。報復という名のいじめへと誘われてしまうのだろう。
それだけは絶対に避けねばならないと彼女は思っていた。
傷付くのは私だけでいい。親友を巻き込みたくない。
消極的で他人想いがゆえにこのような思想に至った自分自身を彼女は責めることはなかった。
髄ヶ崎さんを守れればそれでいいと。
他人想いというよりは自己犠牲と言っても差し控えのない思想はその後着実に彼女の肉体、精神を蝕んでいくことに今はまだ気が付いていなかった。
いや、気が付いていたとしてもどうしようもならなかった。
―――――
その後も、彼女に降りかかる災難といういじめは後を絶たなかった。いや、むしろエスカレートしていると言ってもいい。
上履きに置かれる画鋲は日に日に数を増やし、今では靴底全体に張り巡らされている。
はじめて見たときは思わずぎょっとし飛び退いてしまったが、その行動すらも今自分がいじめられていると知られてしまうきっかけになりかねないと察した。
だから彼女は極力驚くことはなくなった。いや、いじめられている自分に慣れてしまったと表現するほうがいい。
ひとつひとつ丁寧に針の部分を上に上げていることから、一切の慈悲もなくリョウコを痛めつけることしか考えていない。画鋲は何も語らず、ただそこにあるだけで沈黙の悪意をむき出しにしている。
彼女は毎日その悪意を振り払い、画鋲を取り除く作業から学校生活の一日が始まるのだ。
慣れというのは便利でもあり恐ろしくもある。
例えば舞台の発表だとかいざという時の緊急時であれば、慣れていればいるほどより落ち着いて行動できるし、工芸品などの職人技のようなものであれば長年経験した技という名の慣れがある。慣れは人が生きていく上でなくてはならないものだ。
しかし、その慣れが悪い方向へ働いてしまうこともある。慣れから発生する余裕は新たな過ちを犯すことになるし、些細なことでは反応しなくなってしまうのだ。
リョウコはそのうちの後者であり、画鋲という無言の悪意に反応を示さなくなり始めていた。
量が増えていくことに恐れを感じていたのはもはや過去の出来事なのだ。今のリョウコには画鋲に対する慣れが生じている。
こうなればもう、いくら数が増えたとしても初めの頃のような驚きは生ずることがない。
生物が身を守るために存在する恐怖という生物的本能の一部を慣れの一言で終わらせてしまうことの重大さは語るまでもないだろう。
「おっはよーリョウコ。昨日のテレビ見た〜?」
「あぁ、ごめん見てなかった」
「まじで〜?昨日のドラマ超展開ですごかったのにぃ!」
「そう、なんだ。ごめんね見てなくて」
「あ、うん……ってゆーか、リョウコやっぱり最近」
「ええと、1時限目って教科なんだっけ」
最近は大体毎日こんなやり取りばかりである。
髄ヶ崎に悟られないように行動するのが日課になってしまっていた。それでいくら二人の中が疎遠になってしまおうとも、リョウコはそれで構わなかったのだ。
髄ヶ崎を巻き込みたくない一心のみで今まで行動し貫き通してきた彼女にとって、今更全てを話してしまおうなどという考えは微塵にも浮かんでこなかった。
友人の少ないリョウコにとって親友である髄ヶ崎がいじめに合うことなど想像もしたくないことなのである。それが如何に耐え難いものであるかは当の本人である伊脳リョウコにしかわからないであろう。
自分のせいで髄ヶ崎さんはいじめられてしまう、自分のせいで酷い目に合わせてしまう。自分がいるからいけないんだ。
そう思うようにもなってきた。
1時限目、国語。
今日の授業内容は新しい単元である。教科書に載っている小説を生徒が区切りごとに読んでいくという一般的でどこにでもありそうな授業だ。
その区切りというのは文章の句点で区切られており、やたらと長い人もいれば異常に短い文章で終わってしまう人もいるものである。
作品は『山月記』。人と虎との葛藤を描いた作品である。
この手の作品は、よく登場人物の心情を述べよといった設問が多くあるが、自分のことで手一杯なリョウコはそんなことを考えていられる状況ではない。
他人を思いやる気持ちは人一倍あるリョウコでさえも、李徴の臆病な自尊心と尊大な羞恥心を理解することはできなかった。
「じゃあ今日は前の授業で言ったとおり山月記始めるぞ。146ページから伊脳、読んでくれるか」
「はい」
「難しい漢字が多いからわからないところがあったら聞くように」
そう呼ばれたリョウコはパラパラと教科書を開き始める。
何のことはないただの仕草。
なのだが、今日に限ってはクラス中の視線が全て自分に集中しているような気がしてリョウコは若干の寒気を感じた。
何かがいつもと違う。
その寒気が数秒後には現実となって降りかかることになるのだがそれはまだ彼女は知らない。
それはまるで何も知らない囚人が薄汚い笑みを帯びた執行人に見回されながら死刑執行を待つかのように、生理的嫌悪を催す悪意と似たようなものを予感させるものであった。
143、144、145そして……146。
そのページを開いた途端彼女はガタン、と大きく椅子を一度だけ鳴らし本を机に落とす。
「どうした伊脳」
先生の声など耳には入らない。
いや、耳には音として聞こえてはいるが頭の中には入ってこないのだ。
『山月記』の始まり、146ページ。
そのページは余す所なく真っ黒に塗り潰されていた。
黒く、ただひたすらに黒く底の見えない深淵を覗かせていた。
彼女はその黒き恐怖に思わず身動ぎすることも忘れ、教科書を手からすり落とす。自分の教科書が塗り潰されているという現実を受け入れるには時間が足りなすぎたのだ。
画鋲に対する耐性は十分ついてきたと思った矢先、次はこのような仕打ちが待っているとは予想もしていなかったので、突然の悪意の襲来にただひたすら驚き恐れることしかできないでいた。
そして、彼女が特に不気味に思ったのはそれだけではない。それは、この黒い落書きからは何のメッセージを感じ取ることができないからであった。
普通こういうものは何らかの形で被害者へ訴えたいことがあって行なわれることが多い。
死ね、ウザイ、キモイ、帰れ、そういった加害者からの言うならば伝言のようなものは少なからず得ることができたはずである。
しかし、今回のこれはリョウコ自身に対する文字が一文字も書かれていないのだ。怨恨すら感じさせない無機質的ないじめはこの上なく恐ろしく、それならば教科書に暴言を書かれる方がいくらか増しに思えるほどである。
画鋲の時と同じように、相手は自分に対してなぜ敵意があるのかを全く知らしめてこないのだ。気味が悪いにも程がある。
無言の敵意、理由なき暴力は連日に渡る嫌がらせの行為により疲れ果てたリョウコに追い討ちをかけるように痛めつけた。
「先生、気分が悪いのでトイレに行ってきます……」
「お、そうか。それじゃ、脾山、次読んでくれ」
椅子を立ち教室から出ようとする。
その最中、押し殺したようなせせら笑いが教室中から聞こえてきたが、誰が笑っているかを特定する余裕などない。
「見たか?あの顔、超テンパってんぜ」
「ウケルwwってかやっぱ先生にも言わないんだね」
「ビビって言えねぇんだろ、カスじゃん」
「まぁ面白いからいんじゃない?」
その囁き声は明らかにリョウコに聞かせつけるように小さいながらもしっかり聞こえていた。先生には聞こえない範囲で。
教室を出ようとしたリョウコは誰かに足をかけられつまずいてしまったが、それすらも気にかけるそぶりはしなかった。今はただ耐え忍ぶ時なのだ。
今はただ、トイレに行ってこの混乱した頭を冷やしたい、その思いしかない。
彼女に対する周囲の行動はあまりに悪質であり、許されざる行為であることには間違いない。
だが、何も知らない他人からしてみればそれはただ、一人の少女が体調を崩しトイレに駆け込んだというものにしか見えないのも事実である。
故に髄ヶ崎はリョウコの体調の回復を気にすることしかできなかった。彼女の目にはリョウコがいきなり体調悪くなり教科書を落としてつまずいたということしか見えていなかったのだから。
少しずつ、少しずつ。
リョウコの精神は崩れ始めてきていた。
―――――
「いやー授業眠かったぁ〜」
「そうだね」
「さて、弁当食べよっか……っとその前に。私トイレに行ってくるから先に食べてていいよー」
「うん……わかった」
今日は下駄箱生ゴミが敷き詰められていた。
昨日は燃やされた教科書の灰が上履きに敷き詰められていた。
もうここまれこれば、これはただの悪質ないじめではないのは確実である。
それでもなお髄ヶ崎がこのいじめに気が付いていないのは、リョウコの常軌を逸している沈黙が如何に強固であるかを物語っている。彼女はどんなに酷い目に合おうとも決して外では弱音を吐かず自らの内にしまい込み包み隠していたのだ。
だから今後もどんなことがあろうとも、髄ヶ崎に知られる心配はなかった。
髄ヶ崎にいじめを知られることは即ち、彼女のいじめへと繋がる。そう確信めいた答えがあるために、自分以外の犠牲者を出さぬようリョウコは自分自身の力で堰き止めていたのだ。
「よぉ伊脳さん、随分とまぁマズそうな弁当じゃないですか」
「ご飯に卵焼き、チキチキボーンとグラタン、それに申し訳ない程度のミックスベジタブル……」
「うっわ何それゲロ?よくそんな汚物学校に持ってこれるねwキャッハw」
「そんじゃいつもどおり汚物は消毒ターイム!まずはこのゴミ弁当を持ちま〜す」
「からの〜?」
「ゴミ箱の前に立ちます〜」
「からの〜?」
「ハイ、ボッシュート〜!よかったね伊脳さん、こんなゲロみたいな弁当食べなくて済んだじゃん」
こんなことも日常茶飯事である。
当然、リョウコの弁当は不味くもなんともないごくごく普通の弁当だ。だが、彼ら彼女らにとってはそんなことはどうでもいいらしい。
伊脳リョウコの弁当だからやる。ただそれだけ。
たったそれだけの単純な思考で奴らは何の罪もない少女を虐げるのである。
これがいじめでなくてなんと言えるであろうか。強者が弱者をいびり愉悦に浸るためだけに耐えがたい苦痛を与えることのどこに正当さを感じることができるだろうか。
高校生にしては幼稚で、それでいて悪質で陰湿ないじめそのものである。
「あ……あの、なんで……」
「え?何か言った?」
「ど、どうし、て……そんなこと、す、する……の」
今思えば彼女にはどうしてもわからないことが一つだけあった。
それはなぜ自分がいじめられているのかということ。
思い返してみても、他人と係わり合いを持つことのない性格ゆえに他人に迷惑をかけることもなければ、恨まれるようなことをした記憶もさっぱり思いつかないのだ。
全ての出来事には理由があって結果が生じるものである。
しかし、今の彼女は理由などなき理不尽な結果のみを突きつけられているようであった。
「んなもん楽しいからに決まってんじゃねーか。お前のびくびく怯える姿とかサイコーに笑えるんだぞ?なあ皆」
「そうそう、一丁前に沈黙作っちゃってさぁ。黙ってちゃ誰も助けなんて来てくれないよ?まぁ助けを呼んだところで誰も助けてなんてくれないだろうけど」
「ははは、違いねぇ」
「そ、そんなこと……で……ぇ……」
その原因は自分が蒔いた種なんてものではなく、まさしく自分自身。
原因が自分である以上、リョウコにはどうすることもできなかった。なぜいじめられているのかと言われればその原因は自分であり、その原因を排除するということは自分自身を否定しなければならないからだ。
「言っておくけど、この教室じゃお前をいじめているやつは全員だぞ。あ、髄ヶ崎さんは別だったか」
「ねぇそういえばあの子も最近ちょっと邪魔じゃな〜い?一緒にやっちゃ」
「やめてッッ!!!!!それだけはっ……絶対に……」
普段口数の少ないリョウコがここまで声を張り上げることは今まで一度たりともなかった。それだけ、髄ヶ崎はリョウコにとって大切な人であり何よりも守らなければならないものであり、そしてたった一人の親友であった。
このクラスが一丸となっていじめにかかってきている。
「カカッ、こいつホントに髄ヶ崎さんのことになるとマジになるもんな。キッモ」
いくら自分がいじめられようとも、彼女だけは、髄ヶ崎さんだけは無事でいて欲しい。
執着、依存、拘泥、耽溺、執念。そのどれとも当てはまらないリョウコの髄ヶ崎へと対する想いはもはや異常と思えるほどで、リョウコ自身もそれに自覚はあった。
気がつけば自分は髄ヶ崎のことを考えており、髄ヶ先の為ならば、髄ヶ先が安全ならばと、いつの間にか彼女のことを第一に考えるようになっている。自分の中では親友よりも大切な者、もはや体の一部とも思うときが多くなってきているようであった。
この劣悪な者共は全て自分と髄ヶ崎の敵であり、いずれ放っておけば必ずやよくないことが起きる。
そう心の中で決め付け、それでいて何もする事が出来ない自分に憤りの炎を燃やしていた。
「ごめんごめ〜ん、トイレ込んでてさぁ!」
「ぁ……おかえり髄ヶ崎さん」
「あら、リョウコが腰田くんと喋ってるなんてめずらしーね!何かあったの?」
「いやぁ、俺だって伊脳さんに用事ある時だってあるさ。ねぇ伊脳サン?」
「そ、そうだね……」
リョウコの弁当をゴミ箱へ廃棄した男、腰田はさも平然を装うと嫌味ったらしい笑みを浮かべ教室の奥へと戻っていく。彼女達二人には聞こえないが、教室の奥では押し殺したせせら笑いが聞こえてくるようだった。
悪いのは腰田だけではない。
今胃も。三臓も。窪膣も。
腎野も。肺乃宮も。肝原も。
脾山も。肛神も。腺崎も。
その他のクラスメイトも。
そしていじめられている自分すらも。
全てが悪い。
劣悪ないじめを執拗に続けるクラスメイトは当然人道の風上にも置けない下賤な奴らであるが、いくらいじめられてもなお口を頑なに開こうとしないリョウコもまた異常であった。
『凡庸』な女子高生であった伊脳リョウコという人格は既に限界を迎えていたのであろう。もはや今の彼女にはクラスメイトに対する収まりきらない憤怒と髄ヶ先に対する慈愛しか存在しなかった。
「あれ、リョウコ今日もカロリーメイト?」
「うん……ママが、体調崩してる……から」
「……そうなんだぁ。早く良くなればいいねっ」
「ありがと……」
重い足取りを引きずりながら彼女は帰宅する。
黒いローファーは律儀に綺麗に並べて玄関に整える。脱ぎ捨てると母親が口うるさいからだ。
聞こえるか聞こえないくらいの小さなか細い声でただいまと言うと、奥の方からおかえりと母親の声が聞こえてくる。
そしてリョウコは台所へ行き、空になった弁当箱を流し台へと置きいつものように決まった嘘をつくのである。
「ママ、今日も美味しかったよ」
そう言うと母親はいつものように嬉しそうな笑顔で喜ぶのだ。
じゃあ明日はあれを入れてあげる、これもいいわねと。弁当の献立を考える母親は年甲斐もなく無邪気な子供のように喜ぶのであった。
そうするとリョウコはいつものようにすぐさま二階へと上がり、自室に篭るのである。母親とろくに会話をする事もなく、部屋に塞ぎこんでしまうのである。
なぜなら、これ以上母親の喜ぶ顔を見ていられなかったから。
毎日忙しい中、献立を考えてくれている母親の姿を想像すると胸が痛くてたまらなかったから。
毎日弁当を作ってくれている母親に対して自分は何てことをしてしまっているのだろうかと思うと、不甲斐なくて胸が締めつけられる思いであった。
「ぅぅ……ふぐっ……ひくっ……」
学校では気丈を保ち決して弱音を見せないリョウコは、唯一この自分の部屋でだけ涙を流す。
髄ヶ崎に対する想い、クラスメイト共に対する怒り、そして母親に対する侘び。それら全てが混同し頭の中でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、整理がつかなくなると涙となって現れるのだ。
どうして私がいじめられなければならないの。
どうして。
どうして。
どうし――
すると彼女と突如として糸が切れたかのようにベッドに倒れこむ。
―自分が伊脳リョウコだから―
どうしようもならない現実に目を背けたくなるが、背けたところで解決する問題ではない。奴らは伊脳リョウコという人物をいたぶり、自分たちが上位の存在になれることに愉悦感を感じているのだ。容易に解決できる問題ではない。
考えども考えども奴らの薄汚い笑い声と下卑た視線が脳裏から離れる事はなく、学校ではないのにもかかわらず自分を攻め立ててくる。
リョウコはそれに耐えかね、逃げるようにベッドに倒れこんだ。
逃げたとしても離れることは出来ないのだが。
それでもリョウコは一時も早く奴らから解放されたかったのだ。
「…………」
まるで意識が途切れてしまったかのようにうつ伏せに倒れている。
荒い息遣いも時間が経過するにつれて大人しいものとなる。
更に時間が経過すると、今度は死人のように一切物音を立てずむくりとベッドから起き上がった。
生気なくふらふらと部屋中を徘徊し始める。その姿はまるで夢遊病患者そのものだ。
おぼつかない足取りで自分の机の前に立つと一番下の引き出しに手をかけて一気に中身を引きずり出し、出てきたものを漁りだす。
明らかに先ほどとは様子が違っていた。
「あった……ぅへ、へ」
ハイライトの消えた黒い瞳がさす先には、赤と黒の物体が転がり落ちている。それは女子高生の部屋には似つかわしいグロテスクなデザインで今にも金切り声を上げそうなおぞましい物であった。
よく見れば刃物らしきそれは血のように赤く、夜のように黒く、骨や臓器、血管のような彫り物が装飾されており悪趣味すぎるというものだ。
ひたすら気持ち悪さと陰険さを錬りこめたようなそれは、刃物というには生々しすぎた。
刃物なのに触った質感は生肉のような生理的嫌悪を感じさせる生物らしさ。
常に湿り気を帯びた刃先はぬらぬらと光沢し、得体の知れぬ液体を垂らし続けている。
これならばスプラッター系のB級映画を見ていた方がまだ可愛く思えるほどだ。
「しぃ……シぅ、死ぬぅ……死ィ、死死死ししシし」
右手でその刃物を掴もうとすると、柄の部分がズブズブと形を変え手の形にフィットするように変形し始めた。まるでそれそのものに意思があるかのように、自ら形を変え始めたのだ。
その刃物を掴むと、柄から伸びた肉のような部分は彼女を覆い、皮膚に付着する。するとみち……みち……と気持ちの悪い音を立てて肉の部分が右手の上へ上へと上昇していく。柄の肉の部分は彼女の皮膚と同化しているようで徐々に右手を侵食する。
血管の浮き出た手のように網目状に隆起する彼女の右腕はもはや見てられるものではなかった。
―自分が伊脳リョウコなら、伊脳リョウコを辞めればいいんだ―
心のどこかでそう思った、いや思ってしまった彼女。
こんなに辛い思いをするなら、いっそいなくなってしまった方がいいんじゃないだろうか、と。
先日、怪しげな骨董商の少女から授かったこの短剣なら私の願いを叶えてくれる。悲しみと怒りに包まれた私を静めてくれる。そう思って止まなかった。
実際この短剣を見つめていると、今まで思いつめていた考え事は全て吹き飛び、死にたくなる気持ちしか思いつかなくなる。
死んでしまえばどれだけ楽かなんてことは、彼女自身今まで幾度となく考えてきた事であった。
短剣を握ればその考えはより一層色濃くなり、自分に死ぬ勇気を与えてくれる。躊躇いを吹き飛ばしてくれる。
まさに彼女の願いを叶えるにはうってつけの珍品であった。
「死ぬぅ……死ぬぅ、シ、死ぬっ、しむっ、死ぬっ、死ぬッ死ぬぬ!死ねぇ!」
短剣を自らの胸へと突きつける。
この鋭さなら心臓に一突きであっという間に自分を殺せるだろう。
自らの胸に刃先をあてがい、震えることすらしない右手を構える。この緊迫的状況下において一切の震えもない右手を構える。
この腕を引けば自分は全てから開放される、苦しむ事はないんだ。
悪魔の囁きとも言える甘美な誘惑は彼女の脳の奥深くまで染み渡り、死という希望に胸を高まらせる。
彼女は自ら死ぬ事に希望を花咲かせ、一気にその腕を引いた。
―リョウコ!!―
―――――
「……ハッ!?」
ふと目を覚ますと、彼女は机の前で横たえていた。
例の短剣はすぐ近くに転がっている。
彼女の右手は数分前と同じく人間の素肌のままに戻っており、あの気味の悪さは消失していた。
「髄ヶ崎、さん……」
髄ヶ崎の幻聴は未だに頭の中に反響している。
彼女はそう落胆すると、辺り一面に散らかった引き出しの中身のものを丁寧に戻し始めた。
短剣は直接手で掴まないよう、ティッシュで包みながら戻す。直接手で掴もうものなら、また先ほどのような猟奇的状況に陥ってしまうのだから。
短剣を一番奥に隠すと引き出しを閉めて完全に視界から見えなくする。
右手に付着していた柄の肉は一片残さず完全に消失してしまっており、先ほどの光景はまるで夢のようであった。
いや、夢であったほうが良かったのかもしれない。
「また、だめだった……」
先日、彼女が学校帰りで手に入れたこの短剣。これを手に入れたのが彼女の転機であった。
彼女はよくエスカレートしたいじめを受け続けてからというもの、稀に死にたいと思うようになっていた。しかし、その死にたいという自殺願望はあるとき不意に思うようなもので、思春期ならば誰でも思ういわば気まぐれなものである。
彼女自身でも、本能的に自殺だけはいけないと思っていたのであろう。
だが、この短剣を手にしてからというものそれは変わった。
押さえつけていた自殺への欲望はこの期を境に押さえつけられないものとなり、ことあるごとに本能に任せて自ら命を絶ってしまおうとするのだ。
それも無意識のうちにである。
セーブの聞かなくなった自分への殺意はいつ自分を殺してしまってもおかしくない状況である。
「まだ、だめ……だよね」
彼女のその押さえきれない激情を最後までせき止めているのは髄ヶ崎の存在であった。
今自分が死ねば、対象のいなくなったいじめの矛先は髄ヶ崎へと向かうことになるであろう。
彼女にとってそれだけは、絶対にあってはならないことなのである。
たとえ自分の身がどうなってしまおうとも、髄ヶ崎がいじめられることだけはどんなことをしても阻止せねばならないことであった。
リョウコが髄ヶ崎に対する愁いのような感情は、いつしか慕いに変わっており、歪曲した想いを寄せている。
髄ヶ崎の為なら死ぬ事だって厭わないが、それで彼女がいじめられるとしたらそれは死ねないのだ。
まったくもって歪んだ想いの他ならない。
「ふぁ……明日はどういじめられるのかな……」
驚くべきことに彼女は短剣を手に入れてからというもの、毎日この行為を繰り返している。
生きるか死ぬかの重大な行為にもかかわらず、彼女は今日も明日も明後日もこの行為を繰り返すのだろう。狂気の沙汰を通り越している。
彼女は如何に自分が異常なのか気が付いていない。
毎日行なわれる本気の自殺衝動。それに慣れてしまうということが如何に戦慄すべき行動だということに。
―毎日―
そして彼女は、もう足を踏み入れてはいけないところまで来てしまっている。
毎日行なわれている生と死を賭けた自らの葛藤を"また"の一言で終らせてしまうことの異常さ。
そのおぞましさに気が付かない彼女の精神はもう死んでいるも同然であった。
13/03/05 12:20更新 / ゆず胡椒
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