奇跡の罪
……ヴゥーーーンン…………
初めからわかりきっていたことだった。
彼女がここに収容されたときからこの結末は決められていたものだったのだ。
たとえいくら悪意のない罪人であったとしても、たとえいくら悪事を働くような者には見えなくとも、彼女は処刑されなければならなかった。それが法であり、刑であり、裁きなのだから。
全てが決められた道筋の通りに事が進み、彼女は今、処刑された。
死んだのだ。
「……」
善悪の区別なく、己が仕事をなしたまでである。彼はそうやって自らの内に言い聞かせていた。そうでもしなければ哀惜の念に堪えられなくなりそうだったから。
依然として斧は輝きを保ち、薄暗い死刑執行室を仄暗かに照らしている。
彼はそんなことになど気が付く素振りもなく独り立ち尽くしていた。
彼女……彼女だったものを見下ろしながら、荒い呼吸を整えている。
「……死刑囚カティアの執行を、終了する」
自らの行いを正当化するかのように、誰にも聞かれることのない呟きを反響させるロズ。ルーチンワークと化した呟きはいつも通りでありながらも、どこかもの悲しさを孕んでおり、まるで彼の今の心情を体現しているかのようであった。
これでよかったんだ。
やるべきことをやったまで。
それでも彼は煮え切らなかった。体中の血管がイバラの様になってしまったのではないかと思うほど痛く苦しかった。
「…………」
ロズは何も間違ったことをしていない。
自らの業務をいつも通り、何の支障もなく遂行したまでである。
それは二つに分断された彼女の姿が証明していた。何も語りかけてくることはない、絶対的な証拠。彼女の亡骸はロズの目の前で横たえている。
……ヴゥーーーンン…………
その彼女は死んでなお、美しかった。
絹のような肌は生前の艶を保ちながら、しかし確実に冷たくなりつつある。長い髪の毛は枝毛こそ多いが、丁寧に整えれば上質なかつらになるのではないかと見まごうほどだ。もしこの場にグリドリーいたのなら狂喜乱舞していたところだろう。
薄着の囚人服の上からでもわかる肢体は胸部こそ慎ましくあるが、引き締まった肉体は極上の剥製となり得そうなものである。
「……クソが……」
彼はただ、平穏に時が過ぎ去ってくれればそれでよかったのだ。
全てに決着をつけたらきっとこの胸の苦しさは解消されるだろう、そう信じ切っていたロズ。しかし、今こうしてそれ以上の重苦に苛まれているのが苦痛でしかなかった。
何一つ解決なんてしやしなかったのだ。痛くて、辛くて、苦しくて、心が張り裂けそうな多重苦である。あらゆる痛みを経験し、精通していた彼でさえとてもじゃないが耐えられそうになかった。
まるで妹をこの手で処刑したあの日のような……いや、あの日よりも……
「…………」
免罪斧を背後の壁に立て掛けた後、ロズは振り返り彼女の頭部をまじまじと見つめていた。
彼女の顔は死ぬ瞬間のときのまま停止しており、その表情がかえってロズの心を痛めつけるのだ。
満ち足りて、何一つ後悔がないと言わんばかりの笑顔を照らし、ロズの方を向いている。まるで生きているかのように生気の宿った笑顔だ。今にも動き出してしまいそうなほどの満面さだった。
瞳は閉じられているが、涙のような水滴が付着しており頬を伝って床へと垂れている。
「……これでよかったんだ。俺もお前も、そうだろう。なぁ……おい」
「執行人命令だぞ。何か返事を言え」
「言ってくれ」
「お前は何度執行人命令を背けば気が済むんだ……聞いてんのかカティア」
「一度注されたことを何度も間違えるヤツは馬鹿ってんだ。お前は馬鹿になりたいのか……」
「いい加減に…………」
「………………」
ロズの問いかけは虚空に消えて、石畳へと吸い込まれてゆくだけだった。
静寂と哀愁の織りなすこの空間に存在する人間はただ一人ロズだけだ。先ほどまで二人存在していた人間は今、人間としての機能を停止させただの肉片へとなり果てた。
一人と一個。紛れもない事実だけが重くロズに伸し掛かる。
「……死人に話しかけるとは、俺もとうとう気がふれたか」
半ば自虐気味に失笑するロズ。
彼の瞳は光を失い泥の様に濁りきっていた。もともとがそういう瞳をしてはいたのだが、以前にも増して生気を失い漆黒に染まりつつあった。地下牢の薄暗さよりも暗く、瞳孔が開いているのかも閉じているのかもわからないほどに。
……ヴゥーーーンン…………
それから数分間、ロズは椅子に座りながらピクリとも動くことなくカティアの遺体を見つめていた。
何を考えるわけでもなく、特に意図があるわけでもなく、ただただその視線をカティアに向けている。何も考えていないからこそ――無意識という名の本能で見つめていた。
彼女の遺体は死んでなお、美しかった。本当に美しかったのだ。
この光景を有名な画家に描かせたとしたら、後世に語り継がれるような名作になるのではないかとも思えてしまうほど、悲哀であり、静粛であり、慎まやかであった。
「……俺は、何を……」
しかしロズは、ただ美しいからという理由だけで見つめているわけではなかったようである。
無意識とは本能であり、本能とは抗いようのない生物としての生理現象だ。生理現象、それはすなわち生物が生物たらしめる生存における作用であり、起きるべくして起きるものなのである。
ゆえにロズは彼女を見つめていた。見つめて、そして……
僅かながらの欲情を感じていた。
横たえるカティアの肢体は張り詰めた囚人服にぴたりと張り付き、引き締まった肢体を浮かび上がらせている。台座の下からはみ出て胸部に留まりきらなくなった乳房は生前のハリを失いつつあれど、紛れもなく弾力性を保っていた。
脇腹の辺りからわずかに頭をのぞかせる脂肪球の艶めかしさたるや。いくら性に疎い者であろうと、この女性の肢体から目をそらすことは困難であろう。
ましてロズは普通に性的趣向のある男性だ。無防備に横たえる成人女性の体が目の前にあるという事実はこの上なく興奮する出来事であり、律しなければならない場面でもある。
唯一通常と異なる点は、対象の女性が死んでいる、というところだが。
「死人、だぞ……?俺は、俺は……これではまるで……」
これではまるでグリドリーと同じではないか。そう思ったところで口に出すのだけは躊躇った。
(俺は違う。俺はあんな変態猟奇殺人者じゃない。俺は、そう、ただの死刑執行人。死刑囚を殺して裁く罪の代行者。死体なんてモンは嫌ってほど見飽きている。俺は違う。違う)
だがロズの心の訴えとは裏腹に、彼の体は無意識の生理現象による作用が起こり始めている。
股間がいきり立ち始めていたのだ。
下着の拘束を押しのけ、硬い素材で拵えられた執行用の制服すらも押しのけ、ぐぐぐ、と膨張しつつある股間。こればかりはいくら否定しようともすることのできぬ現象である。カティアの肢体を見るたびにぎちぎちと音を立てて膨らむソレはロズの否定すらも否定していた。
……ヴゥーーーンン…………
「……チッ、こんなことを考えている場合じゃない。早く処理しなければ」
このままじっと椅子に座り続けてはらちが明かない、そう思ったロズは重々しく立ち上がり最後の作業の準備に移り始めた。
彼は脇に置いてあった大きめの麻袋を引きずり出し、ばさばさと広げている。縦長の筒状で片方に口が空いている、何の変哲もない袋である。大きさはロズの足先から胸のあたりまでの長さだろうか。
その麻袋は小さめの男性か成人女性ならばすっぽりと入れてしまう大きさだ。
「……午前9:45。これより、死体の収容及び搬送を開始する」
これが死刑執行における最後の工程だ。
死刑囚を執行し、死体を麻袋に詰め込み、後ほど死体処理施設に搬送する。それが執行人に任されている仕事の顛末である。その後の処理は執行人の関する分野ではない。あくまで執行人の仕事は死刑囚の世話をし、刑を執行するだけということをより証明している。
生きている死刑囚の世話こそすれど、生きていない死体の処理は彼らの介入するところではない。恐らくそういうことなのだろう。専らそういうことは国が定めていることなのでロズやミックとて真意を語ることはできないのだが。
「……むぅ」
ロズは麻袋をがさがさと鳴らし、カティアの方へと近づいてゆく。いつも通りの慣れた仕事だ。
普段使用している麻袋は大きさがその時その時でまちまちであり、時には収納しやすくするために死体を折りたたみ、場合によっては解体しなくてはならない。その光景はまるで畜肉を加工する酪農家のようである。
幸いなことに今回は袋のサイズも大きく、カティア自体そこまで大柄ではないのでそのまま収納することができるだろう。
そうしてロズは袋口を開き、カティアを収納しようとした。
だが、ロズはその直前で足を止め、ピタリと急停止してしまう。 時が止まったかのように静止し、袋を持ったままそのままの姿勢で固まっている。
……ヴゥーーーンン…………
「……しかしさっきから何の音だ?」
耳障りな音に思わずそう呟くロズ。
先ほどからロズの耳には不可解な音が断続的に鳴り響いていたのだ。
腹の底から震えあがるかのような重低音であり、大気が震える振動音。そしてその音源は全く分からない。とても遠方から鳴っているようにも、超至近距離から鳴ってるようにも聞こえる謎の振動音のようなものは一定の周期で鳴り続けている。まるで魂の奥底まで揺す振られるような不安感を煽る音だ。
初めのうちは空耳なのだろかと思っていたが、鳴り響くたびに音が大きくなるものだからいよいよもって空耳ではないと勘づいたのだろう。
……ヴゥーーーンン…………
同時に死刑執行室の中には異常と思えるほどの異臭が漂い始めていた。
異臭、といってもロズは幾度となく嗅いだことがあるあのニオイだ。甘くすえたような腐臭、果物がずぶずぶと腐り落ち始めるあのニオイが死刑執行室を、ロズとカティアを包み込み充満している。
……しかし今回のニオイは今までのそれとは少し違っていた。
今までのニオイが例えるならば嗅覚で知覚できる範囲での異臭であり、鼻をつまめば嗅がずに済む程度のニオイであった。しかし今、死刑執行室を漂うこのニオイは明らかに様子がおかしい。
ニオイ、もとい桃色の煙は風がないのにもかかわらず空気中を漂い、一か所に滞ることなく右往左往しているのだ。まるで煙そのものに意思があるかのように、ゆっくりと部屋の中をゆらぎ漂い続けている。
……ヴゥーーーンン…………
「……何だ……一体何が起きている……」
この音はいつから鳴り始めている?
この煙は、ニオイはどこから立ち込めている?
なぜ俺は死体に欲情している?
疑問に思えば思うほどわけがわからなくなりそうだった。
煙はさらに濃度を増し、死刑執行室の視界を桃色に染め上げつつある。気が付いたころにはロズの歩幅で4、5歩先のものがぎりぎり見えるまでの濃霧と化しており、かろうじて目の前のカティアが視認できるくらいの濃度になっている。それに伴い全身を覆うニオイは穴という穴からロズの体を包み込んでいるようにも感じ取れた。
煙自身が意思を持ち、ロズにまとわり、ひとつになろうと……まるで何かを待ち望んでいるかのように染みわたっていく。
「……う、ぐ……なんだこれは……気分が……」
反響し続ける重低音はロズの脳を強く揺さぶり平衡感覚を保てなくさせている。力強い巨躯であるロズであっても脳を揺さぶられてはどうすることもできず、ついには立つこともままらぬほどになってしまった。
外傷は一切ないにもかかわらず、立膝をつくことになってしまったロズはこの上なく困惑している。
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーン!!
振動の感覚は次第に短く、そして強くなり強烈な音圧をもって死刑執行室を鳴り響かせている。
視界も定まらない桃色の濃霧のなか、ロズは何かを探すような仕草をしながら地に伏せていた。ひんやりとした石の感触が頬に伝う。ロズは手と頬を床の石畳につけ素肌で振動を感じ取りその発生源を探そうとしていたのだ。
怪音は鳴り響くわ甘い煙が発生するわでロズの頭の中は絡まったヒモの様にこんがらがっている。
ただでさえカティアを執行した直後で疲弊している時だというのに立て続けに起きる怪異。まるでロズが執行を終えたと同時に起きるように細工されたのではないかと錯覚してしまうほどだった。
「このニオイ……濃度……今までの比ではない」
深呼吸すればたちまち動機が激しくなり、より股間の怒張が増強される。それほどに甘美で退廃的なニオイだった。
必要最低限の呼吸をしながら音と煙の発生源を探索するロズ。熱情に侵されながらもどうにか集中して頬から伝わる振動をたどっている。どうやらロズの背後からその音は発生しているようであった。
ロズの背後。思い当たるものとすれば武器庫ぐらいしか思いつかず、ますます疑問に思うものである。
そう思いながら、ロズは床に這いつくばりながら振動の近い方へとにじり寄る。
……ヴゥーン!!
……ヴゥーン!!!!
「う、ぐ、ぁ……頭が割れ、そうだ……」
近づけば近づくほどにその振動は威力を増しロズの脳を強烈に震盪させ激しいめまいが彼を襲い、負けじとロズも気力を掘り絞る。
そうして幾分かほふく前進したその果てに、ついに音源をこの目で視認することができた。
だが、目の当たりにした事実に、ロズは頭を悩ませる。
というよりもまったくもって理解することができなかったのだ。意味がわからない。ストレートにその言葉が出そうになった。
”免罪斧が震えている”
先ほど、壁に立てかけてあっただけの巨斧は誰の手も借りることなく、独りでに、振動していた。
銀色の金属光沢を煌かせ、小刻みに、なれど大きな振動で大気を震わせ、不気味なまでの重低音を奏でていたのだ。
人に使われるべきただの道具が、自らの力で振動している。こう言葉に表現すれば何のことはない出来事なのだろうが、実際その場面に直面するとすぐにあり得ない出来事ということは理解できるだろう。
重低音に重ね、斧自ら発せられるプレッシャーのようなものに圧されミシミシと骨が軋む。
「ただの斧ではないと思っていたが……ぐっ」
そしてもう一つ気が付いたことがあった。
例の桃色の煙もまた斧から湧き出ていたのである。沸騰した鉄鍋の水蒸気のように、斧の刃、柄、装飾具からその煙はこんこんと沸き立ち、部屋を充満している。
今になって思い返してみると、この斧はおかしな点ばかりであったのだ。
いくらロズが怪力であったとしても、これほど巨大で床が軋むほどに重いであろう銀の塊である斧を楽々片手で持ち上げられるのは非常に困難であるはずだ。それはロズ自身僅かながらの自覚はあった。
斧によってつけられた傷口から出血はせず、逆に煙が出てくるというのも拍車をかける。
そして最もおかしいと思う点は、それらの事柄を体験しながらも斧をくまなく調べ、斧を解析しようと思い至らなかったことである。普通の人間ならばこの奇妙な巨斧を不気味がって遠ざけたり、あるいは調査しようとしていたことだろう。
しかしロズは、身体の異変に疑問を抱きつつもそれ以上何も追及することがなかった。
斧に対する不信感を感じない。これこそが最大の怪異であることにようやく発覚したのである。
なぜそうなったのか。なぜそうであったのか。考えれば考えるほどワケが分からなくなり振動される脳は更に痛みを増すことになる。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
訂正、そんなことを考えている場合ではなくなった。
ぞくり。
「ッ……?」
背後になにか、いる。
カティアしかいないはずの彼の背後に、ユラユラと蠢くなにかの姿を察するロズ。そして妙な違和感を感じ、彼は濃霧の中、背を振り返りその先に見えたものを凝視した。
そう、その違和感こそが、ロズが死刑執行し今の今まで燻ぶっていた不信感であった。不可解な現象そのものであり、その果てでもあった。
そしてロズは視た。視てしまったのだ。
濃霧の先にある不可能で不可解な怪異を。その目に焼き付けてしまった。
「カ、ティア……?」
――浮いていた。
ありえない。
そんなバカな。
こんなことがあってたまるか。
ロズはそう叫びたくなった。
目の前にある圧倒的怪異に対し恐れと驚愕の言葉を投げかけようとしたが声を発することができなかった。
声帯が萎縮し空気を振動させることすらままならなかった。
なぜなら……
ロズが見上げる視線の先には、先ほどまで床に転がっていたカティアの生首が浮いていたのだから。
「……!?!?!?」
言葉が出ないとはまさにこのことである。この状況においてはそれも無理もないだろう。
生物の大半は一部の特殊な生物を除き、脊椎部を切り落とせば絶命する。そんなことは子供でも理解できることだ。当たり前のように学び、当たり前のように常識として身に染みついている。
ではこの状況を誰が納得のいく説明をできるだろうか。
脊椎動物である人間の首が刃物で切り落とされたというのに、ひとりでに浮遊し生前の活力を取り戻しつつあるこの状況をどう理解、解釈すればいいのだろうか。
まったくもって不可解、不条理、不可能の極みである。
生首は生前のツヤを保ちながら、いや、むしろ肌を上気させながら濃霧の中で浮遊している。
切断し、出血し、血の気などとうに消え失せているというはずだというのに彼女の顔はその気配すら感じさせない。
「……嘘だろ」
そもそも間違えていた。
この光景を目の当たりにして、ロズは思い出したのだ。免罪斧で切ってしまった自分の傷口のことを。
あの時、指先から血液など一滴すらも流れなかったことを思い出し、そしてそれは今カティアの生首においてもまったく同じ状況なのではないかと。
濃霧の中、ロズは意を決してカティアの胴体部、首の断面図をその目に映す。普通ならば赤き血にまみれ、肉と骨がむき出しになっているはずだろう。ロズもまたその光景であって欲しいと望んでいた。そうでなければもはやこの状況に脳が追い付いていけそうになかったからだ。
「……これは」
しかし現実はそう甘くはない。ロズが目にしたのはいつも通りの死刑囚の死体の姿とはまるでかけ離れているものだったのだから。
そこに見えたのは、血も骨も肉もなにもないただの空洞そのものであった。首の断面と頭部の断面それぞれに、そっくりそのまま抜き取られたような虚無が存在している。
長い間注視し続けていると飲み込まれてしまいそうな、暗黒の空間がぽっかりと口を開けて広がっている。
しかもよく見ると、それぞれの空洞からも例の煙が噴き出しており、まるで首と頭の断面をそれぞれ繋いでいるかのように一本の筋となっていた。
今までの生涯の記憶を必死で思い返してみるが、人体にこのような器官があったという記憶などあるはずもないし、文献で見たこともない。正真正銘、ロズは初めてこのような事態に遭遇したのだ。過去に事例のない完全な未知体験、ということである。
「カティア、もし口を利けるなら説明してくれ。もしそうでないなら……」
ロズは何をどうしていいかわからなかった。
執行したはずの死刑囚が生首だけになって浮いている?
しかも生命力が満ち足りている?
俺は何をすべきだ?
俺はカティアを……
「俺……俺は……」
ロズの脳裏に再びカティアの生前の姿が思い浮かぶ。
その姿は長い間、懺悔と悔恨により照らし合わせていた亡き妹の姿ではなく、れっきとしたカティアそのものの姿であった。
ロズはカティアを殺したかった。死刑執行人として。
ロズはカティアを生かしたかった。無罪の咎人として。
ロズはカティアと話をしたかった。友人として。
ロズはカティアと交わりたかった。恋人として。
妹に似ているからではない。ロズ自身が選び、受け入れ、そうでありたいと願ったのだ。
自分が死ぬという状況に置かれながらも義賊としての気高さを失わない彼女に惹かれ、気が付けば注目は好意へと昇華していた。
ロズは過去の戒めに囚われることなく、自分自身の人生を歩むために共に歩む隣人の手を取り、踏み出したかったのだ。
「俺は俺のやるべきことをやったはずだ。許してくれとは言わん……だが……だが俺は」
「俺は……生きていてほしかった。我儘なのかも知れんがお前と共に人生を見つけたかった」
「なんとか言え、言ってくれよ。もう独り言はうんざりだ……カティア」
ロズは宙に浮く生首に向かってそう言った。
硬く閉じられた瞳、何一つ動かぬ眉、静止した唇。その全てを見据え、後ろめたいとこなど一切なくロズは本心のままに語ったのだ。
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーーンン…………
……ヴゥーンン………
……ヴヴヴ……
……ヴ……
…………
……
「音が……止んだ?
その言葉を言った直後、背後にある免罪斧の振動は急激に緩やかになり、やがて完全に沈黙した。
煙の噴出も止まり、完全に静止したかと思ったその瞬間……
「う、ぐっ!?」
急に静かになったものだからロズは気になってふと後ろを振り返ってみると、免罪斧はそのタイミングと同時にひときわ大きな輝きを放ち、死刑執行室を銀色の白光が覆い尽くす。
直視しようものなら目が潰れてしまいかねないほどの輝きである。ロズは反射的に手で目を覆い、その隙間から事の顛末を見定めようとした。
白光は石畳や壁の隙間すらも完全に照らし出し、まるで死刑執行室に現れた小さな太陽かのように輝いている。その輝きはどこか心地よい暖かさを纏っており、全身を輝きに包まれたロズはまるで人肌に包まれたかのような感覚に陥っていた。
そして数秒発光した後、部屋全体を照らしていた白光は徐々に収束し始める。数本の光の束になったそれらが全て混ざり合うと一本の大きな光線となり、その先端はカティアの首から足先まで全身を照らしていた。
「……これは、夢、なのか」
白光に包まれるカティアを指と指の僅かに見える隙間から覗くロズ。
もはやここまでくると驚きを通り越して、ただただ圧巻されることしかできなかった。
温かみのある白光は冷たくなった彼女の肉体に再び熱を与え、青白くなった素肌は徐々に肌色へと戻りつつある。既に上気していた顔の肌と同じように、やや赤みを帯びた実に健康的な素肌へと復元していた。生前の素肌よりもさらに瑞々しく、むしろ怪しげな艶めかしさすら感じさせる極上の肢体が出来上がりつつある。
浮いていた生首も胴体の方へとゆっくりと戻り、やがて断面と断面がそれぞれ再結合し始めているようだ。部屋中に漂っていた煙は胴体の方へと収納されているようで、部屋を覆っていた濃霧は次第に薄らいでいく。視界が徐々に晴れてきて、白光の輝きも落ちてくると先ほどまでのような静寂とした死刑執行室に戻りつつあった。
「夢ではない……蘇生…………」
無意識にぽつりとつぶやいた言葉はまさにこの状況を説明するにふさわしい単語であろう。
青白かった彼女が再び血色を取り戻し、切断されたはずの首が元に戻り、今すぐにでも目を開き言葉を発しそうな気配を放っている。それを蘇生と言わず何と言うのか。
ロズはその光景を喜びはせず、かと言って悲観することもなくただただ静観している。死刑執行人としての責任、プライドといったものが彼を構成しているのもまた事実であり、完全にカティアの蘇生を喜ぶべきではないと思っているのだろう。
そもそも蘇生しているのかどうかすらまだ確証は取れていないのも相まって、今だロズは目の前のカティアの身体と頭を警戒していた。
「カティア。おいカティア、聞こえているならなんでもいい、言葉を発してくれ。そうでないなら……俺はまたお前を……殺さなければ……」
ロズがそう言いかけたその時である。
「……aaa……ロ、z……」
「カ、ティア?今、なんて……」
空耳ではない。
しかとこの両耳で聞こえたのだ。聴き違えることのない、あの声が。
凛として透き通るような声色がロズの全細胞を稼働させる。心の臓が激しく拍動し血流がドクドクと全身を駆け巡っているのがわかる。
わずか数分前まで聞いていた肉声だというのに幾年月待ちわびたかのような懐かしさが彼の感情を覆い尽くす。
もう二度と聞けないと覚悟したあの声が……再び――
「……ろ、ず……わ、私は…………」
「カティアッ!!!」
彼は居ても立っても居られず、蘇生した彼女の素性を調査せずにその巨躯で抱きかかえた。
胴体の拘束を取り外し、未だ煙の包まれたままの結合した首元を注意しながら、強く、強く、しかし強すぎることなく彼女を抱きしめた。
もはやロズにとって彼女はかけがえのない存在であるということは明らかであった。
そして彼女もまた同じなのであろう。目覚めたばかりでわけもわからぬ様子の彼女の表情はロズに抱きしめられている、ということだけを理解するとこの上なく安堵した表情に変わっていったのだから。
安堵するにしては頬の赤らみがやたらと強い気がするのは気のせいなのだろうか。それとも……
「わた、しは一体……執行され、たはず、だよね」
「……確かに俺はお前を執行した。お前の首を切り落とした」
「やっぱりそ、うだったか」
「だがお前は今こうして生きている。理由はどうあれ、お前は生きているんだ」
徐々に呂律を取り戻すカティア。
その姿は執行される前の彼女と何ら変わったところはなかった。髪も、眼も、体も、何一つ変わることのないそのままの彼女があの世から戻ってきたのだ。奇跡と呼ぶことすらおこがましい気すらするものである。
なぜ彼女が生き返ったのか。あの斧は何だったのか。あの煙は?
疑問に思うことは山ほどあるが、今こうして彼女がロズに語り掛けている。その事実だけあれば他に何も必要なかった。
「ロズの声が、聞こえたんだ」
「……そうか」
「私を殺したくなかった、って。私を生かしたかった、って。それが聞こえた瞬間、真っ暗だった空間に光の道が見えて……」
「……そうか」
「あの斧が私に道を示してくれて……戻ってこれたんだ」
「……そう、か…………」
多くは語らず、それだけで二人は意思疎通ができていた。
頬を赤らめながら彼女はロズの肩の上でほほ笑む。
ロズはその表情を見ることなく、むしろ自分の今の顔を彼女に見せたくないかのようにそっぽを向き、若干顔を震わせていた。その仕草を見て彼女はなおさら笑みを浮かべるのだ。心の底から幸福に感じ、愛しいと思うように。
「あの斧は……免罪斧はいろいろ私に教えてくれた。私がどうなったのか、これからどうすればいいのかも」
そう言うと彼女は自らロズの腕から出て、ロズと正面を向き合う形になる。
そして目線をまっすぐロズの瞳に合わせ、変わらず微笑みを投げかけている。よく見ると若干素肌が汗で湿っているような気がするのは気のせいだろうか。それとも地下特有の湿気なのであろうか。真偽の程は不明である。
「……そんな表情は初めて見た」
「もう執行は終わったからかな、とても清々しい気分なんだ」
ロズは彼女の曇りひとつない表情を初めて目の当たりにしたものだから、つい初対面であるかのような不愛想さが出てしまう。
同時にロズは彼女に対しどこか違和感のようなものを感じ取った。見た目こそ何も変化はないのだが、なにか根本的に違うような、カティアであってカティアでないような気がしてならなかったのだ。
その違和感がなにかは、すぐに理解することになる。
いやがおうにも理解せざるを得ない状況に陥っていることにロズは気が付いていなかった。
「ロズ、私の頭を持ってくれないだろうか」
「……持つ?持って、どうするんだ」
いいからいいから、彼女はそう言ってロズの手を取ると自らの頭にロズの両手を左右に持つように添えた。あまりの咄嗟の行動についロズもそのまま彼女の頭に手を添えてしまう。カティアのきめ細かな髪の感触が手を伝わって感じられる。綿毛のような絹のような、いつまでも触っていたくなるほどの触り心地だ。
そうして軽く頭を持つと、彼女はクスリと笑みをこぼしロズに対してこう言った。
「私がどうなったのか、教えてあげようか。そのまま手を離さないでね」
そう言い終えると、彼女はロズから一歩遠ざかり、その姿をロズに見せた。そしてそのままロズの周りをグルリと一周回ってみせて自らの姿を掲示したのであった。
ロズがカティアの頭を持っているのに、彼女は頭一つ動かさず、胴体のみでロズの周りを歩いていたのだ。
もう一度説明しよう。
ロズが、カティアの頭を持っている。カティアはその状態のまま、ロズの周囲を歩き回ったのだ。ロズはその間一切手を動かしていない。
…………不可能である。頭を押さえられながら、なおかつロズは一切手を動かさないで、その状態のままロズの周囲を歩くなどどう考えても不可能なのである。もしできるとするならば首と胴体の接続を切り離さなければ物理的に不可能なのだ。
しかし彼女はそれを容易くやってのけた。
まるで呼吸するかの如く、自然にやったのだ。
「…………!!!!?!?!?」
首と、体が、別々に。
切り離されている状態で、彼女は生きていた。紛れもなく生きていたのだ。
呼吸し、物事を考えて、喋ることができる。生きている人間と何ら変わらぬ状態で彼女はロズの正面と背後にそれぞれ立っている。
正確に言えば彼女の頭部はロズの正面にあり、胴体はロズの背後に佇んでいた。
「私は一度死んだ。そして生き返ったのさ。いわゆる”アンデッド”ってやつなのかな」
「……そういう、ことか」
その答えにロズは自分でも意外と思うほど冷静に受け止めていた。
そもそも一度首を切り落とした人間が、再び蘇るなどこうでもしなければありえないことなのだから、よくよく考えてみるとこの結末が一番納得できる答えなのだろう。
若干の驚きこそあれど、酷く動揺することもなく彼女の言葉を真摯に聞き入れることにした。
結果はどうあれ、彼女は戻ってきたのだ。それだけでもう何もいらなかった。
「……ということはお前はもう」
「うん、もう人間としてのカティアは存在しない。今ここにいるのはアンデッド・カティアさ」
そう言い、彼女の胴体はロズの背後から彼を抱きしめた。
その乳房がロズの背中に当たり、ふにゅん、と形を変形させる。恐らく乳首であろう突起がロズの肩甲骨辺りに当たるとを理解すると、彼の股座が再び膨らみ始めるのが実感できる。
「胸をこうやって当ててもさ、心臓は動いていないんだ。何も感じないだろう?」
「……そうだな」
「私はアンデッド、広く言えば魔物になってしまったんだ。だから、その」
「だからどうした」
「えっ……?」
「カティアはカティアだ、何も変わらない。たとえ死んでも、生きてても、俺がお前に対する感情は何も変わらない。お前が俺のことを想っているように、俺もまたお前のことを想っている」
「は、はは、ロズ、ずるいよ、それ……」
両手に持つ彼女の頭部はだらけきった表情でそう言うと、首の断面から桃色の煙を噴出させた。
一度彼女の内部に収納されたはずの煙は三度外気へ飛び出し、ロズの周りを取り囲む。
『ロズ、もうガマンできない早くシたいシたいシたい』
『私の処女はロズにあげるんだいっぱい気持ちよくなるんだ』
『精液をたくさん注いで飲んで満たされたい』
『ロズの大きな胸板に抱かれてたくさん突かれたいはやくはやく』
『たくさん幸せになりたい』
「……まいったなこりゃ」
煙を吸い込んだロズの頭に直接彼女の本音が語り掛けてくる。
幻聴ではなく紛れもなく彼女の言葉なのだ。それも心の奥底から願っているダイレクトの本能ともいうべき欲望である。
こんなものを聴かされては普通の成人男性であるロズもたまったものではない。
「ロズはもう童貞じゃないんだっけか」
「……魔物相手は初めてだがな。それに本気で抱きたいと思った女は誰一人としていなかった」
「そうか、それなら……私が過去歴代最高の女にしてやるぞ♥」
「……これからも、だろう?」
「そういうのがずるいんだ、ロズは♥」
そう言ってロズは両腕で彼女の頭部を抱き、背中で彼女に抱かれながら倒れるように押し倒された。
今やロズの全神経は彼女へ向いており、カティアの全神経もまたロズへ注がれている。
石畳の硬さなど微塵にも気にならないほどに。
初めからわかりきっていたことだった。
彼女がここに収容されたときからこの結末は決められていたものだったのだ。
たとえいくら悪意のない罪人であったとしても、たとえいくら悪事を働くような者には見えなくとも、彼女は処刑されなければならなかった。それが法であり、刑であり、裁きなのだから。
全てが決められた道筋の通りに事が進み、彼女は今、処刑された。
死んだのだ。
「……」
善悪の区別なく、己が仕事をなしたまでである。彼はそうやって自らの内に言い聞かせていた。そうでもしなければ哀惜の念に堪えられなくなりそうだったから。
依然として斧は輝きを保ち、薄暗い死刑執行室を仄暗かに照らしている。
彼はそんなことになど気が付く素振りもなく独り立ち尽くしていた。
彼女……彼女だったものを見下ろしながら、荒い呼吸を整えている。
「……死刑囚カティアの執行を、終了する」
自らの行いを正当化するかのように、誰にも聞かれることのない呟きを反響させるロズ。ルーチンワークと化した呟きはいつも通りでありながらも、どこかもの悲しさを孕んでおり、まるで彼の今の心情を体現しているかのようであった。
これでよかったんだ。
やるべきことをやったまで。
それでも彼は煮え切らなかった。体中の血管がイバラの様になってしまったのではないかと思うほど痛く苦しかった。
「…………」
ロズは何も間違ったことをしていない。
自らの業務をいつも通り、何の支障もなく遂行したまでである。
それは二つに分断された彼女の姿が証明していた。何も語りかけてくることはない、絶対的な証拠。彼女の亡骸はロズの目の前で横たえている。
……ヴゥーーーンン…………
その彼女は死んでなお、美しかった。
絹のような肌は生前の艶を保ちながら、しかし確実に冷たくなりつつある。長い髪の毛は枝毛こそ多いが、丁寧に整えれば上質なかつらになるのではないかと見まごうほどだ。もしこの場にグリドリーいたのなら狂喜乱舞していたところだろう。
薄着の囚人服の上からでもわかる肢体は胸部こそ慎ましくあるが、引き締まった肉体は極上の剥製となり得そうなものである。
「……クソが……」
彼はただ、平穏に時が過ぎ去ってくれればそれでよかったのだ。
全てに決着をつけたらきっとこの胸の苦しさは解消されるだろう、そう信じ切っていたロズ。しかし、今こうしてそれ以上の重苦に苛まれているのが苦痛でしかなかった。
何一つ解決なんてしやしなかったのだ。痛くて、辛くて、苦しくて、心が張り裂けそうな多重苦である。あらゆる痛みを経験し、精通していた彼でさえとてもじゃないが耐えられそうになかった。
まるで妹をこの手で処刑したあの日のような……いや、あの日よりも……
「…………」
免罪斧を背後の壁に立て掛けた後、ロズは振り返り彼女の頭部をまじまじと見つめていた。
彼女の顔は死ぬ瞬間のときのまま停止しており、その表情がかえってロズの心を痛めつけるのだ。
満ち足りて、何一つ後悔がないと言わんばかりの笑顔を照らし、ロズの方を向いている。まるで生きているかのように生気の宿った笑顔だ。今にも動き出してしまいそうなほどの満面さだった。
瞳は閉じられているが、涙のような水滴が付着しており頬を伝って床へと垂れている。
「……これでよかったんだ。俺もお前も、そうだろう。なぁ……おい」
「執行人命令だぞ。何か返事を言え」
「言ってくれ」
「お前は何度執行人命令を背けば気が済むんだ……聞いてんのかカティア」
「一度注されたことを何度も間違えるヤツは馬鹿ってんだ。お前は馬鹿になりたいのか……」
「いい加減に…………」
「………………」
ロズの問いかけは虚空に消えて、石畳へと吸い込まれてゆくだけだった。
静寂と哀愁の織りなすこの空間に存在する人間はただ一人ロズだけだ。先ほどまで二人存在していた人間は今、人間としての機能を停止させただの肉片へとなり果てた。
一人と一個。紛れもない事実だけが重くロズに伸し掛かる。
「……死人に話しかけるとは、俺もとうとう気がふれたか」
半ば自虐気味に失笑するロズ。
彼の瞳は光を失い泥の様に濁りきっていた。もともとがそういう瞳をしてはいたのだが、以前にも増して生気を失い漆黒に染まりつつあった。地下牢の薄暗さよりも暗く、瞳孔が開いているのかも閉じているのかもわからないほどに。
……ヴゥーーーンン…………
それから数分間、ロズは椅子に座りながらピクリとも動くことなくカティアの遺体を見つめていた。
何を考えるわけでもなく、特に意図があるわけでもなく、ただただその視線をカティアに向けている。何も考えていないからこそ――無意識という名の本能で見つめていた。
彼女の遺体は死んでなお、美しかった。本当に美しかったのだ。
この光景を有名な画家に描かせたとしたら、後世に語り継がれるような名作になるのではないかとも思えてしまうほど、悲哀であり、静粛であり、慎まやかであった。
「……俺は、何を……」
しかしロズは、ただ美しいからという理由だけで見つめているわけではなかったようである。
無意識とは本能であり、本能とは抗いようのない生物としての生理現象だ。生理現象、それはすなわち生物が生物たらしめる生存における作用であり、起きるべくして起きるものなのである。
ゆえにロズは彼女を見つめていた。見つめて、そして……
僅かながらの欲情を感じていた。
横たえるカティアの肢体は張り詰めた囚人服にぴたりと張り付き、引き締まった肢体を浮かび上がらせている。台座の下からはみ出て胸部に留まりきらなくなった乳房は生前のハリを失いつつあれど、紛れもなく弾力性を保っていた。
脇腹の辺りからわずかに頭をのぞかせる脂肪球の艶めかしさたるや。いくら性に疎い者であろうと、この女性の肢体から目をそらすことは困難であろう。
ましてロズは普通に性的趣向のある男性だ。無防備に横たえる成人女性の体が目の前にあるという事実はこの上なく興奮する出来事であり、律しなければならない場面でもある。
唯一通常と異なる点は、対象の女性が死んでいる、というところだが。
「死人、だぞ……?俺は、俺は……これではまるで……」
これではまるでグリドリーと同じではないか。そう思ったところで口に出すのだけは躊躇った。
(俺は違う。俺はあんな変態猟奇殺人者じゃない。俺は、そう、ただの死刑執行人。死刑囚を殺して裁く罪の代行者。死体なんてモンは嫌ってほど見飽きている。俺は違う。違う)
だがロズの心の訴えとは裏腹に、彼の体は無意識の生理現象による作用が起こり始めている。
股間がいきり立ち始めていたのだ。
下着の拘束を押しのけ、硬い素材で拵えられた執行用の制服すらも押しのけ、ぐぐぐ、と膨張しつつある股間。こればかりはいくら否定しようともすることのできぬ現象である。カティアの肢体を見るたびにぎちぎちと音を立てて膨らむソレはロズの否定すらも否定していた。
……ヴゥーーーンン…………
「……チッ、こんなことを考えている場合じゃない。早く処理しなければ」
このままじっと椅子に座り続けてはらちが明かない、そう思ったロズは重々しく立ち上がり最後の作業の準備に移り始めた。
彼は脇に置いてあった大きめの麻袋を引きずり出し、ばさばさと広げている。縦長の筒状で片方に口が空いている、何の変哲もない袋である。大きさはロズの足先から胸のあたりまでの長さだろうか。
その麻袋は小さめの男性か成人女性ならばすっぽりと入れてしまう大きさだ。
「……午前9:45。これより、死体の収容及び搬送を開始する」
これが死刑執行における最後の工程だ。
死刑囚を執行し、死体を麻袋に詰め込み、後ほど死体処理施設に搬送する。それが執行人に任されている仕事の顛末である。その後の処理は執行人の関する分野ではない。あくまで執行人の仕事は死刑囚の世話をし、刑を執行するだけということをより証明している。
生きている死刑囚の世話こそすれど、生きていない死体の処理は彼らの介入するところではない。恐らくそういうことなのだろう。専らそういうことは国が定めていることなのでロズやミックとて真意を語ることはできないのだが。
「……むぅ」
ロズは麻袋をがさがさと鳴らし、カティアの方へと近づいてゆく。いつも通りの慣れた仕事だ。
普段使用している麻袋は大きさがその時その時でまちまちであり、時には収納しやすくするために死体を折りたたみ、場合によっては解体しなくてはならない。その光景はまるで畜肉を加工する酪農家のようである。
幸いなことに今回は袋のサイズも大きく、カティア自体そこまで大柄ではないのでそのまま収納することができるだろう。
そうしてロズは袋口を開き、カティアを収納しようとした。
だが、ロズはその直前で足を止め、ピタリと急停止してしまう。 時が止まったかのように静止し、袋を持ったままそのままの姿勢で固まっている。
……ヴゥーーーンン…………
「……しかしさっきから何の音だ?」
耳障りな音に思わずそう呟くロズ。
先ほどからロズの耳には不可解な音が断続的に鳴り響いていたのだ。
腹の底から震えあがるかのような重低音であり、大気が震える振動音。そしてその音源は全く分からない。とても遠方から鳴っているようにも、超至近距離から鳴ってるようにも聞こえる謎の振動音のようなものは一定の周期で鳴り続けている。まるで魂の奥底まで揺す振られるような不安感を煽る音だ。
初めのうちは空耳なのだろかと思っていたが、鳴り響くたびに音が大きくなるものだからいよいよもって空耳ではないと勘づいたのだろう。
……ヴゥーーーンン…………
同時に死刑執行室の中には異常と思えるほどの異臭が漂い始めていた。
異臭、といってもロズは幾度となく嗅いだことがあるあのニオイだ。甘くすえたような腐臭、果物がずぶずぶと腐り落ち始めるあのニオイが死刑執行室を、ロズとカティアを包み込み充満している。
……しかし今回のニオイは今までのそれとは少し違っていた。
今までのニオイが例えるならば嗅覚で知覚できる範囲での異臭であり、鼻をつまめば嗅がずに済む程度のニオイであった。しかし今、死刑執行室を漂うこのニオイは明らかに様子がおかしい。
ニオイ、もとい桃色の煙は風がないのにもかかわらず空気中を漂い、一か所に滞ることなく右往左往しているのだ。まるで煙そのものに意思があるかのように、ゆっくりと部屋の中をゆらぎ漂い続けている。
……ヴゥーーーンン…………
「……何だ……一体何が起きている……」
この音はいつから鳴り始めている?
この煙は、ニオイはどこから立ち込めている?
なぜ俺は死体に欲情している?
疑問に思えば思うほどわけがわからなくなりそうだった。
煙はさらに濃度を増し、死刑執行室の視界を桃色に染め上げつつある。気が付いたころにはロズの歩幅で4、5歩先のものがぎりぎり見えるまでの濃霧と化しており、かろうじて目の前のカティアが視認できるくらいの濃度になっている。それに伴い全身を覆うニオイは穴という穴からロズの体を包み込んでいるようにも感じ取れた。
煙自身が意思を持ち、ロズにまとわり、ひとつになろうと……まるで何かを待ち望んでいるかのように染みわたっていく。
「……う、ぐ……なんだこれは……気分が……」
反響し続ける重低音はロズの脳を強く揺さぶり平衡感覚を保てなくさせている。力強い巨躯であるロズであっても脳を揺さぶられてはどうすることもできず、ついには立つこともままらぬほどになってしまった。
外傷は一切ないにもかかわらず、立膝をつくことになってしまったロズはこの上なく困惑している。
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーン!!
振動の感覚は次第に短く、そして強くなり強烈な音圧をもって死刑執行室を鳴り響かせている。
視界も定まらない桃色の濃霧のなか、ロズは何かを探すような仕草をしながら地に伏せていた。ひんやりとした石の感触が頬に伝う。ロズは手と頬を床の石畳につけ素肌で振動を感じ取りその発生源を探そうとしていたのだ。
怪音は鳴り響くわ甘い煙が発生するわでロズの頭の中は絡まったヒモの様にこんがらがっている。
ただでさえカティアを執行した直後で疲弊している時だというのに立て続けに起きる怪異。まるでロズが執行を終えたと同時に起きるように細工されたのではないかと錯覚してしまうほどだった。
「このニオイ……濃度……今までの比ではない」
深呼吸すればたちまち動機が激しくなり、より股間の怒張が増強される。それほどに甘美で退廃的なニオイだった。
必要最低限の呼吸をしながら音と煙の発生源を探索するロズ。熱情に侵されながらもどうにか集中して頬から伝わる振動をたどっている。どうやらロズの背後からその音は発生しているようであった。
ロズの背後。思い当たるものとすれば武器庫ぐらいしか思いつかず、ますます疑問に思うものである。
そう思いながら、ロズは床に這いつくばりながら振動の近い方へとにじり寄る。
……ヴゥーン!!
……ヴゥーン!!!!
「う、ぐ、ぁ……頭が割れ、そうだ……」
近づけば近づくほどにその振動は威力を増しロズの脳を強烈に震盪させ激しいめまいが彼を襲い、負けじとロズも気力を掘り絞る。
そうして幾分かほふく前進したその果てに、ついに音源をこの目で視認することができた。
だが、目の当たりにした事実に、ロズは頭を悩ませる。
というよりもまったくもって理解することができなかったのだ。意味がわからない。ストレートにその言葉が出そうになった。
”免罪斧が震えている”
先ほど、壁に立てかけてあっただけの巨斧は誰の手も借りることなく、独りでに、振動していた。
銀色の金属光沢を煌かせ、小刻みに、なれど大きな振動で大気を震わせ、不気味なまでの重低音を奏でていたのだ。
人に使われるべきただの道具が、自らの力で振動している。こう言葉に表現すれば何のことはない出来事なのだろうが、実際その場面に直面するとすぐにあり得ない出来事ということは理解できるだろう。
重低音に重ね、斧自ら発せられるプレッシャーのようなものに圧されミシミシと骨が軋む。
「ただの斧ではないと思っていたが……ぐっ」
そしてもう一つ気が付いたことがあった。
例の桃色の煙もまた斧から湧き出ていたのである。沸騰した鉄鍋の水蒸気のように、斧の刃、柄、装飾具からその煙はこんこんと沸き立ち、部屋を充満している。
今になって思い返してみると、この斧はおかしな点ばかりであったのだ。
いくらロズが怪力であったとしても、これほど巨大で床が軋むほどに重いであろう銀の塊である斧を楽々片手で持ち上げられるのは非常に困難であるはずだ。それはロズ自身僅かながらの自覚はあった。
斧によってつけられた傷口から出血はせず、逆に煙が出てくるというのも拍車をかける。
そして最もおかしいと思う点は、それらの事柄を体験しながらも斧をくまなく調べ、斧を解析しようと思い至らなかったことである。普通の人間ならばこの奇妙な巨斧を不気味がって遠ざけたり、あるいは調査しようとしていたことだろう。
しかしロズは、身体の異変に疑問を抱きつつもそれ以上何も追及することがなかった。
斧に対する不信感を感じない。これこそが最大の怪異であることにようやく発覚したのである。
なぜそうなったのか。なぜそうであったのか。考えれば考えるほどワケが分からなくなり振動される脳は更に痛みを増すことになる。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
訂正、そんなことを考えている場合ではなくなった。
ぞくり。
「ッ……?」
背後になにか、いる。
カティアしかいないはずの彼の背後に、ユラユラと蠢くなにかの姿を察するロズ。そして妙な違和感を感じ、彼は濃霧の中、背を振り返りその先に見えたものを凝視した。
そう、その違和感こそが、ロズが死刑執行し今の今まで燻ぶっていた不信感であった。不可解な現象そのものであり、その果てでもあった。
そしてロズは視た。視てしまったのだ。
濃霧の先にある不可能で不可解な怪異を。その目に焼き付けてしまった。
「カ、ティア……?」
――浮いていた。
ありえない。
そんなバカな。
こんなことがあってたまるか。
ロズはそう叫びたくなった。
目の前にある圧倒的怪異に対し恐れと驚愕の言葉を投げかけようとしたが声を発することができなかった。
声帯が萎縮し空気を振動させることすらままならなかった。
なぜなら……
ロズが見上げる視線の先には、先ほどまで床に転がっていたカティアの生首が浮いていたのだから。
「……!?!?!?」
言葉が出ないとはまさにこのことである。この状況においてはそれも無理もないだろう。
生物の大半は一部の特殊な生物を除き、脊椎部を切り落とせば絶命する。そんなことは子供でも理解できることだ。当たり前のように学び、当たり前のように常識として身に染みついている。
ではこの状況を誰が納得のいく説明をできるだろうか。
脊椎動物である人間の首が刃物で切り落とされたというのに、ひとりでに浮遊し生前の活力を取り戻しつつあるこの状況をどう理解、解釈すればいいのだろうか。
まったくもって不可解、不条理、不可能の極みである。
生首は生前のツヤを保ちながら、いや、むしろ肌を上気させながら濃霧の中で浮遊している。
切断し、出血し、血の気などとうに消え失せているというはずだというのに彼女の顔はその気配すら感じさせない。
「……嘘だろ」
そもそも間違えていた。
この光景を目の当たりにして、ロズは思い出したのだ。免罪斧で切ってしまった自分の傷口のことを。
あの時、指先から血液など一滴すらも流れなかったことを思い出し、そしてそれは今カティアの生首においてもまったく同じ状況なのではないかと。
濃霧の中、ロズは意を決してカティアの胴体部、首の断面図をその目に映す。普通ならば赤き血にまみれ、肉と骨がむき出しになっているはずだろう。ロズもまたその光景であって欲しいと望んでいた。そうでなければもはやこの状況に脳が追い付いていけそうになかったからだ。
「……これは」
しかし現実はそう甘くはない。ロズが目にしたのはいつも通りの死刑囚の死体の姿とはまるでかけ離れているものだったのだから。
そこに見えたのは、血も骨も肉もなにもないただの空洞そのものであった。首の断面と頭部の断面それぞれに、そっくりそのまま抜き取られたような虚無が存在している。
長い間注視し続けていると飲み込まれてしまいそうな、暗黒の空間がぽっかりと口を開けて広がっている。
しかもよく見ると、それぞれの空洞からも例の煙が噴き出しており、まるで首と頭の断面をそれぞれ繋いでいるかのように一本の筋となっていた。
今までの生涯の記憶を必死で思い返してみるが、人体にこのような器官があったという記憶などあるはずもないし、文献で見たこともない。正真正銘、ロズは初めてこのような事態に遭遇したのだ。過去に事例のない完全な未知体験、ということである。
「カティア、もし口を利けるなら説明してくれ。もしそうでないなら……」
ロズは何をどうしていいかわからなかった。
執行したはずの死刑囚が生首だけになって浮いている?
しかも生命力が満ち足りている?
俺は何をすべきだ?
俺はカティアを……
「俺……俺は……」
ロズの脳裏に再びカティアの生前の姿が思い浮かぶ。
その姿は長い間、懺悔と悔恨により照らし合わせていた亡き妹の姿ではなく、れっきとしたカティアそのものの姿であった。
ロズはカティアを殺したかった。死刑執行人として。
ロズはカティアを生かしたかった。無罪の咎人として。
ロズはカティアと話をしたかった。友人として。
ロズはカティアと交わりたかった。恋人として。
妹に似ているからではない。ロズ自身が選び、受け入れ、そうでありたいと願ったのだ。
自分が死ぬという状況に置かれながらも義賊としての気高さを失わない彼女に惹かれ、気が付けば注目は好意へと昇華していた。
ロズは過去の戒めに囚われることなく、自分自身の人生を歩むために共に歩む隣人の手を取り、踏み出したかったのだ。
「俺は俺のやるべきことをやったはずだ。許してくれとは言わん……だが……だが俺は」
「俺は……生きていてほしかった。我儘なのかも知れんがお前と共に人生を見つけたかった」
「なんとか言え、言ってくれよ。もう独り言はうんざりだ……カティア」
ロズは宙に浮く生首に向かってそう言った。
硬く閉じられた瞳、何一つ動かぬ眉、静止した唇。その全てを見据え、後ろめたいとこなど一切なくロズは本心のままに語ったのだ。
……ヴゥーーーンン…………
……ヴゥーーンン…………
……ヴゥーンン………
……ヴヴヴ……
……ヴ……
…………
……
「音が……止んだ?
その言葉を言った直後、背後にある免罪斧の振動は急激に緩やかになり、やがて完全に沈黙した。
煙の噴出も止まり、完全に静止したかと思ったその瞬間……
「う、ぐっ!?」
急に静かになったものだからロズは気になってふと後ろを振り返ってみると、免罪斧はそのタイミングと同時にひときわ大きな輝きを放ち、死刑執行室を銀色の白光が覆い尽くす。
直視しようものなら目が潰れてしまいかねないほどの輝きである。ロズは反射的に手で目を覆い、その隙間から事の顛末を見定めようとした。
白光は石畳や壁の隙間すらも完全に照らし出し、まるで死刑執行室に現れた小さな太陽かのように輝いている。その輝きはどこか心地よい暖かさを纏っており、全身を輝きに包まれたロズはまるで人肌に包まれたかのような感覚に陥っていた。
そして数秒発光した後、部屋全体を照らしていた白光は徐々に収束し始める。数本の光の束になったそれらが全て混ざり合うと一本の大きな光線となり、その先端はカティアの首から足先まで全身を照らしていた。
「……これは、夢、なのか」
白光に包まれるカティアを指と指の僅かに見える隙間から覗くロズ。
もはやここまでくると驚きを通り越して、ただただ圧巻されることしかできなかった。
温かみのある白光は冷たくなった彼女の肉体に再び熱を与え、青白くなった素肌は徐々に肌色へと戻りつつある。既に上気していた顔の肌と同じように、やや赤みを帯びた実に健康的な素肌へと復元していた。生前の素肌よりもさらに瑞々しく、むしろ怪しげな艶めかしさすら感じさせる極上の肢体が出来上がりつつある。
浮いていた生首も胴体の方へとゆっくりと戻り、やがて断面と断面がそれぞれ再結合し始めているようだ。部屋中に漂っていた煙は胴体の方へと収納されているようで、部屋を覆っていた濃霧は次第に薄らいでいく。視界が徐々に晴れてきて、白光の輝きも落ちてくると先ほどまでのような静寂とした死刑執行室に戻りつつあった。
「夢ではない……蘇生…………」
無意識にぽつりとつぶやいた言葉はまさにこの状況を説明するにふさわしい単語であろう。
青白かった彼女が再び血色を取り戻し、切断されたはずの首が元に戻り、今すぐにでも目を開き言葉を発しそうな気配を放っている。それを蘇生と言わず何と言うのか。
ロズはその光景を喜びはせず、かと言って悲観することもなくただただ静観している。死刑執行人としての責任、プライドといったものが彼を構成しているのもまた事実であり、完全にカティアの蘇生を喜ぶべきではないと思っているのだろう。
そもそも蘇生しているのかどうかすらまだ確証は取れていないのも相まって、今だロズは目の前のカティアの身体と頭を警戒していた。
「カティア。おいカティア、聞こえているならなんでもいい、言葉を発してくれ。そうでないなら……俺はまたお前を……殺さなければ……」
ロズがそう言いかけたその時である。
「……aaa……ロ、z……」
「カ、ティア?今、なんて……」
空耳ではない。
しかとこの両耳で聞こえたのだ。聴き違えることのない、あの声が。
凛として透き通るような声色がロズの全細胞を稼働させる。心の臓が激しく拍動し血流がドクドクと全身を駆け巡っているのがわかる。
わずか数分前まで聞いていた肉声だというのに幾年月待ちわびたかのような懐かしさが彼の感情を覆い尽くす。
もう二度と聞けないと覚悟したあの声が……再び――
「……ろ、ず……わ、私は…………」
「カティアッ!!!」
彼は居ても立っても居られず、蘇生した彼女の素性を調査せずにその巨躯で抱きかかえた。
胴体の拘束を取り外し、未だ煙の包まれたままの結合した首元を注意しながら、強く、強く、しかし強すぎることなく彼女を抱きしめた。
もはやロズにとって彼女はかけがえのない存在であるということは明らかであった。
そして彼女もまた同じなのであろう。目覚めたばかりでわけもわからぬ様子の彼女の表情はロズに抱きしめられている、ということだけを理解するとこの上なく安堵した表情に変わっていったのだから。
安堵するにしては頬の赤らみがやたらと強い気がするのは気のせいなのだろうか。それとも……
「わた、しは一体……執行され、たはず、だよね」
「……確かに俺はお前を執行した。お前の首を切り落とした」
「やっぱりそ、うだったか」
「だがお前は今こうして生きている。理由はどうあれ、お前は生きているんだ」
徐々に呂律を取り戻すカティア。
その姿は執行される前の彼女と何ら変わったところはなかった。髪も、眼も、体も、何一つ変わることのないそのままの彼女があの世から戻ってきたのだ。奇跡と呼ぶことすらおこがましい気すらするものである。
なぜ彼女が生き返ったのか。あの斧は何だったのか。あの煙は?
疑問に思うことは山ほどあるが、今こうして彼女がロズに語り掛けている。その事実だけあれば他に何も必要なかった。
「ロズの声が、聞こえたんだ」
「……そうか」
「私を殺したくなかった、って。私を生かしたかった、って。それが聞こえた瞬間、真っ暗だった空間に光の道が見えて……」
「……そうか」
「あの斧が私に道を示してくれて……戻ってこれたんだ」
「……そう、か…………」
多くは語らず、それだけで二人は意思疎通ができていた。
頬を赤らめながら彼女はロズの肩の上でほほ笑む。
ロズはその表情を見ることなく、むしろ自分の今の顔を彼女に見せたくないかのようにそっぽを向き、若干顔を震わせていた。その仕草を見て彼女はなおさら笑みを浮かべるのだ。心の底から幸福に感じ、愛しいと思うように。
「あの斧は……免罪斧はいろいろ私に教えてくれた。私がどうなったのか、これからどうすればいいのかも」
そう言うと彼女は自らロズの腕から出て、ロズと正面を向き合う形になる。
そして目線をまっすぐロズの瞳に合わせ、変わらず微笑みを投げかけている。よく見ると若干素肌が汗で湿っているような気がするのは気のせいだろうか。それとも地下特有の湿気なのであろうか。真偽の程は不明である。
「……そんな表情は初めて見た」
「もう執行は終わったからかな、とても清々しい気分なんだ」
ロズは彼女の曇りひとつない表情を初めて目の当たりにしたものだから、つい初対面であるかのような不愛想さが出てしまう。
同時にロズは彼女に対しどこか違和感のようなものを感じ取った。見た目こそ何も変化はないのだが、なにか根本的に違うような、カティアであってカティアでないような気がしてならなかったのだ。
その違和感がなにかは、すぐに理解することになる。
いやがおうにも理解せざるを得ない状況に陥っていることにロズは気が付いていなかった。
「ロズ、私の頭を持ってくれないだろうか」
「……持つ?持って、どうするんだ」
いいからいいから、彼女はそう言ってロズの手を取ると自らの頭にロズの両手を左右に持つように添えた。あまりの咄嗟の行動についロズもそのまま彼女の頭に手を添えてしまう。カティアのきめ細かな髪の感触が手を伝わって感じられる。綿毛のような絹のような、いつまでも触っていたくなるほどの触り心地だ。
そうして軽く頭を持つと、彼女はクスリと笑みをこぼしロズに対してこう言った。
「私がどうなったのか、教えてあげようか。そのまま手を離さないでね」
そう言い終えると、彼女はロズから一歩遠ざかり、その姿をロズに見せた。そしてそのままロズの周りをグルリと一周回ってみせて自らの姿を掲示したのであった。
ロズがカティアの頭を持っているのに、彼女は頭一つ動かさず、胴体のみでロズの周りを歩いていたのだ。
もう一度説明しよう。
ロズが、カティアの頭を持っている。カティアはその状態のまま、ロズの周囲を歩き回ったのだ。ロズはその間一切手を動かしていない。
…………不可能である。頭を押さえられながら、なおかつロズは一切手を動かさないで、その状態のままロズの周囲を歩くなどどう考えても不可能なのである。もしできるとするならば首と胴体の接続を切り離さなければ物理的に不可能なのだ。
しかし彼女はそれを容易くやってのけた。
まるで呼吸するかの如く、自然にやったのだ。
「…………!!!!?!?!?」
首と、体が、別々に。
切り離されている状態で、彼女は生きていた。紛れもなく生きていたのだ。
呼吸し、物事を考えて、喋ることができる。生きている人間と何ら変わらぬ状態で彼女はロズの正面と背後にそれぞれ立っている。
正確に言えば彼女の頭部はロズの正面にあり、胴体はロズの背後に佇んでいた。
「私は一度死んだ。そして生き返ったのさ。いわゆる”アンデッド”ってやつなのかな」
「……そういう、ことか」
その答えにロズは自分でも意外と思うほど冷静に受け止めていた。
そもそも一度首を切り落とした人間が、再び蘇るなどこうでもしなければありえないことなのだから、よくよく考えてみるとこの結末が一番納得できる答えなのだろう。
若干の驚きこそあれど、酷く動揺することもなく彼女の言葉を真摯に聞き入れることにした。
結果はどうあれ、彼女は戻ってきたのだ。それだけでもう何もいらなかった。
「……ということはお前はもう」
「うん、もう人間としてのカティアは存在しない。今ここにいるのはアンデッド・カティアさ」
そう言い、彼女の胴体はロズの背後から彼を抱きしめた。
その乳房がロズの背中に当たり、ふにゅん、と形を変形させる。恐らく乳首であろう突起がロズの肩甲骨辺りに当たるとを理解すると、彼の股座が再び膨らみ始めるのが実感できる。
「胸をこうやって当ててもさ、心臓は動いていないんだ。何も感じないだろう?」
「……そうだな」
「私はアンデッド、広く言えば魔物になってしまったんだ。だから、その」
「だからどうした」
「えっ……?」
「カティアはカティアだ、何も変わらない。たとえ死んでも、生きてても、俺がお前に対する感情は何も変わらない。お前が俺のことを想っているように、俺もまたお前のことを想っている」
「は、はは、ロズ、ずるいよ、それ……」
両手に持つ彼女の頭部はだらけきった表情でそう言うと、首の断面から桃色の煙を噴出させた。
一度彼女の内部に収納されたはずの煙は三度外気へ飛び出し、ロズの周りを取り囲む。
『ロズ、もうガマンできない早くシたいシたいシたい』
『私の処女はロズにあげるんだいっぱい気持ちよくなるんだ』
『精液をたくさん注いで飲んで満たされたい』
『ロズの大きな胸板に抱かれてたくさん突かれたいはやくはやく』
『たくさん幸せになりたい』
「……まいったなこりゃ」
煙を吸い込んだロズの頭に直接彼女の本音が語り掛けてくる。
幻聴ではなく紛れもなく彼女の言葉なのだ。それも心の奥底から願っているダイレクトの本能ともいうべき欲望である。
こんなものを聴かされては普通の成人男性であるロズもたまったものではない。
「ロズはもう童貞じゃないんだっけか」
「……魔物相手は初めてだがな。それに本気で抱きたいと思った女は誰一人としていなかった」
「そうか、それなら……私が過去歴代最高の女にしてやるぞ♥」
「……これからも、だろう?」
「そういうのがずるいんだ、ロズは♥」
そう言ってロズは両腕で彼女の頭部を抱き、背中で彼女に抱かれながら倒れるように押し倒された。
今やロズの全神経は彼女へ向いており、カティアの全神経もまたロズへ注がれている。
石畳の硬さなど微塵にも気にならないほどに。
16/09/26 00:17更新 / ゆず胡椒
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