星の邂逅
―足の感覚がない。
―頭もうまく働かない。
―それでも私は走るのをやめてはならない。
辺り一面見たこともないような深緑と極彩色の植物が茂る密林。私はいつの間にか自分自身も知らない場所にまで到達してしまっていたらしい。だがそんなことはどうでもよかった。
一心不乱にあてもなく走り続けていた。靴はとうの昔に脱げ、生爪が剥がれ落ちそうになっていながらも私は走る。走っているのか歩いているのかわからぬほど体は限界にきている。しかし私は走る。走る。走り続ける。
―逃げるために。
時折背後に目をやると、私を捉えようと血眼になっている追手の姿が確認できる。剣を掲げ声を荒げ、私の名を叫びながら迫ってくる。奴らに捕まったらもうおしまいだ。
耐え難き尋問、拷問にかけられ挙句の果てに殺されるのだろう。あるいは今すぐこの場で処刑されてしまうかもしれない。一切の尊重もなく慈悲も哀れみもなく、誤って踏んづけてしまった虫けらのように始末されるのだろう。前者にせよ後者にせよ奴らに捕まれば私の人生は終わりを告げることになる。
それだけは絶対に嫌だ。
こんなところで……こんなつまらない理由で死んでなるものか。私の一生を終わらせていいものか。私にはまだやらなければならないことがたくさん残されているのだ。後世の人々のために、平穏で争いのない世界の実現のために私はまだ……畜生!!
(死にたくない……死にたくない!!)
しかし私の不屈なる信念とは裏腹に、その肉体はもはや限界を通り越しており、腿の筋肉は痙攣し膝の腱は擦り切れそうになっていた。こうして走れているのが奇跡であるほどに。
いつの間にか汗もかかなくなっており軽い脱水状態に陥っている。視界もぼやけてきている。かろうじて働いている聴覚は、こちらに近寄ってくる追手の足音を鮮明に捉え、その音が徐々に近づいてきているのを私の脳に告げていた。
一歩、一歩。着実ににじり寄るその足音はさながら私の命を刈り取らんとする死神かのように思える。
(に……にげ……なけれ、ば……)
だが奇跡というものはそう長続きするようなものではない。
脚をあげ損ねた私のつま先に木の根が掛かり、体のバランスを崩してしまったのだ。
私はそのまま勢いよく倒れ込む。追手の足音が近づいてくる。武器の擦れる金属音と罵声、怒号飛び交う声が頭に突き刺さってくる。
もう、おしまいなのか―
私の人生はここまでなのか―
そう最期に悟ったところで私の視界は暗転し意識は途絶えた。ここが私の覚えている最後の記憶だった。
◇
熱い。いや、寒い……?
そのどちらでもない。生ぬるいような不快な感触が体全体にまとわりついている。
おぼろげであった私の意識はその感触のせいで確かなものとなり目を覚ました。
「ん……うう……」
一体どれほどの間意識を失っていたのだろうか。まどろむ瞳を遮二無二開き、激痛に鞭打つ身体をどうにか動かし私は上半身を起き上がらせる。
ここはいったいどこなのだろうか。
目をこすり、視界を一望しても辺りに見えるものは何もなかった。否、何もなかったのではなく何も視えなかったのだ。目を開けていようと閉じていようとその視界に映るのは完全なる闇そのものしかなかったのだから。自らの手を眼前に翳してみてもその指の数を数えることすらかなわない。もしかすると視力が正常に働いていないのかもしれない。だがそれを確かめる術もない。
完全な闇。まるで私は宇宙に放り出された星屑のようだった。
風の流れる音も聞こえない。水のせせらぎも聞こえない。小鳥のさえずりも聞こえない。
ただ唯一聞こえるのは自らの拍動のみ。未知なる領域にその身をさらし、緊張と不安に駆られる私の心臓の音だけが聞こえていた。
無風。無音、無光。ここで私はあるひとつの仮説を導き出す。
(ここはいわゆるあの世というものなのでは……?)
そうだ、私は追われていた。命を狙われていたのだった。
私は決死の逃亡の甲斐なく捕縛され処刑されてしまったのではないか。処刑されこの世を去り、そうしてなにもない無という名のあの世へ逝ってしまったと考えるのが一番合理的かつ納得のいく答えが導き出せるというものである。
(そうか。私は死んだのか)
悔しくない、と言えば嘘になる。
私にはまだやるべきことが残されていた。その実現がもうすぐというところで道半ばにして命尽きる。これ以上の無念があってなるものか。
しかしなんというかこういう結末になってしまうとは……人生というものは実にあっけないものだ。来世はもう人間はこりごりだ。虫となって大自然の一部と化し何も考えずに転生したいものである。まぁ大義を成し遂げられなかった私程度の者が自らの希望の存在に転生できるわけがないのだが。
(しかし……あの世というにはこうも殺風景なのか)
本当に何もない。何も視えない。
せめて死人にあの世の景観ぐらいは見せてくれていいものではないだろうか。死んだ者だけが体験できる特権だというのにこれでは実に味気ない。いや愚痴は良くないな。これも主たる神の配慮というなら致し方ない、ここまでにしておこう。
(ん……?)
それからしばらくの間、横になり何も考えず無と同化していた頃だろうか。ふと意識を耳にやるとなにやら物音がしていることに気が付いた。無論、私の心臓の音ではない。これは明らかに私の体内から発せられる音とは別の音である。
ぺたり……ぺたり……音からして金属類ではなさそうだ。むしろ音の質感的に軟質の物質から発せられる音に近いだろう。
(近づいてきている……)
ぺたり……ぺたり……やや湿気を纏った柔らかいものの音は一定の間隔を保ちながら徐々に大きくなっていく。何気ない音のようだが先ほどまで無音だった空間に突如として鳴り響いたというだけでとたんに怪しさを含む音に聞こえてきた。疑問はやがて不安へと変わり、私の心臓はより拍動の回数を上げにかかる。
私は音の聞こえる方角を捉え、その一点を凝視してみた。
何も見えるはずがない。だがもしかすると……不安と好奇心を頼りに私は眼を開き、これから現れるだろうナニカを見ようとしていた。
ぼうっ……ぼうっ……
近づいてくる音を聞きながらその方角を見つめていると、今度はやや低い音で空間全域に響きわたる別の音が聞こえてきた。それと同時に今まで完全な闇であった私の視界に、久方ぶりの光が見えることになる。
(光だ……光が見える)
若干の感動を覚えたものである。
光と言えど、それはまるで魔灯花の薄い光のように仄暗く、幻想的な薄紫色だったからだ。光は床や壁に打ち付けられた水晶のような鉱石から発せられているようである。一つ一つが握り拳大程度の大きさでさほど大きいというわけではないが、無数に点在する鉱石が共鳴するかのように光を生み出していた。
一か所、二か所、三か所……徐々に光る場所が増え暗闇であった私の視界が鮮明になっていく。それはすなわち、今私のいる場所の全容が明らかになりつつあるということでもある。
(密閉された空間のようだが……ううむ死後の世界というものはこんなにも閉鎖的なのだろうか……それにしては聊か……)
「ナん縺ェ繧薙□縲∫函縺イキ阪の◆縺縺?」
なんだ――――――今のは。
今、確かに聞こえた――脳髄の奥を揺さぶるかのようなおぞましき何かが聞こえた。
声だった。いや、そもそも声なのだろうか。声と呼ぶにはあまりにも異質であった。金切声と沸き立つヘドロと擦れあう臓器の滴りのような音が混ぜ合わさった、およそ生物の声帯から発せられていい音ではなかった。もしかすると異様な光景に困惑した私の脳が生み出した幻聴なのかもしれない。
わからない。未知だ。あまりにも未知である。
「縺キか阪。繧峨ヶ繝りコトヶ繝?→迢ャ繧煩ワし願ィ?縲∝密縺励¥縺ヲ莉墓ァ倥がナェい縺」
まただ―
今度ははっきりと聞こえた。これは声だ。明らかに私に語り掛けている声であるのはもはや疑いようもなかった。こんなおぞましい音が声であってほしくなかった私の希望は一瞬で打ち砕かれる。
耳がその音を認識した瞬間、私はとてつもない悪寒と恐怖に襲われた。全身の毛穴が開き、骨が軋む。喉が渇き脂汗が流れてくる。あと一歩踏み込めば錯乱してしまいかねない恐怖に私はギリギリのところで踏みとどまっていた。狂気を体現したモノが音というカタチをもって私の耳を蹂躙する。
では一体何だ?どこだ?私に語り掛けてくるお前はいったい何なのだ。ヒトか。マモノか。それ以外のモノか。
どこだ、どこにいる。早くその姿を見なければ気が触れておかしくなってしまう。
「ど、どこだ……その……姿を早く見せろ……見せてくれっ」
「元ヨり翫◎縺つもリョ縺、繧縲我よ霈ゥ縺ョ蟋ソ縲√→縺上→邯イ閹懊↓辟シ縺堺もウ膜にサ倥げる繧良い>」
「うぁ……がああああああっ!!」
その音を耳にするだけで視界が歪み、上下逆さがわからなくなる。頭を掻きむしり頭蓋を開き脳綿を掴みつぶしてしまいたくなる衝動に駆られる。
ぺたり……ぺたり……と聞こえてくるのがようやく足音と判明したころには、この声の主がもう私の目と鼻の先にいることに気が付いた。
薄暗い光で全容を伺うことはできないが……どうやら人の形らしきシルエットだけは確認できた。目と鼻の先にこの異常なる存在がいる。その認識が不安をより加速させると同時にごくわずかの安心にもなった。恐怖の正体を視認して安心したのは今にも後にもこれが最後であろう。私は鉱石の明かりを頼りにシルエットを凝視してみた。
頭が一つ、脚が二つ、腕が六つ……ん?
見間違いだろうか。もう一度数えてみよう。
頭が一つ、よし。
脚が二つ、よし。
腕が、ひい、ふう、みい、よ、いつ、む………………よし。
いや、よくない。
これは非常によろしくない。
明らかに人間ではない。腕が六本ある人間がいてたまるものか。仮に人間だとしてもこんな場所にいる人間などまず普通ではない。
そして最悪なことに、装備も何もない丸腰の私の目の前にそんなヤツがいるという事実。いくら頭が悪い者であろうとこの状況がいかに危機的状況であるかは理解できるであろう。
ぺたり……ぺたり……着実に、確実に近づいてきている。しかし私はこの危機的状況下において、恐怖こそすれど妙に落ち着いていた。一種の諦めのようなものである。
そうだ。何を恐れる必要がある。そもそもここは死後の世界だぞ。おおかたゴースト系の魔物が私の霊体に接触してきているのだろう。そうやって自分に言い聞かせ納得した。言い聞かせでもしないとまともな精神を保っていられなかったから。
「よー励犯サレオ縺ナ輔l繧九↑縲よ。我ハい縺ョ蟋ソ繧偵シカ縺ョ逵シ縺ァ縺見ヨ」
「頼む……その声を止め……てくれ……気がおかしくなり……だ……」
「ナん薙□と?縺オ繧?窶ヲ……」
目の前の者はそう一言だけ音を発すると、にじり寄る足をピタリと止めた。そうして数秒静止した後、再び音を発する。
「あ・あー。よし、これでいいか」
「なん――」
普通の言語が発せられると同時に暗がりから得体のしれないモノの正体が顕わになった。
まず始めに見えたのは肌色だった。それも血色の良い薄桃色かつ色白な、極めてヒトらしい肌色がそこに見えた。その上から脂が黒光りしているかのような材質不明の薄い素材が怪しげに光沢している。どうやら素肌に纏っているらしい。私はその姿を目の当たりにしゴクリ、とひとつ固唾を飲んだ。
「女……の子?」
無意識に言葉が出てしまう。上も下もわからぬ怪異極まる場所に突如として現れた存在は見まごうことなく少女のカタチを成していた。
体の素材と同じくらい幻想的な紫色をした髪がユラリと舞う。暗がりの中でもわかるほどの艶があり極上の絹のようだ。衣服はほぼ身につけていない。というより素肌に纏う謎の素材が衣服なのかどうかすら定かではない。胸部や局部を覆っているため恐らくは衣服だと思うのだが。
「ふむ、久しぶりにこちらの言語を話す。我輩の言葉が理解できるか?」
「あ、ああ……」
ヤツ……もとい彼女の身長だけみたら、私の胸あたりの伸長までしかないだろう。それでも小柄な体から発せられる威圧感は凄まじいものがあり、床に這いつくばっている私を彼女は見下ろしていた。
彼女の伸長は私より小さい。身長だけでみたら、である。
年頃の少女のような細く華奢な腕が両肩から一対ある。そこまではいい。何ら問題ではない。だが彼女の背後から生えている二対の腕……いや、これは鉤爪と説明すればいいのだろうか。ともすればドラゴン種の爪とも思しき巨大で荒々しいソレは、彼女のような小柄な少女の背後から生えている姿があまりにも不釣り合いだった。逆に言えその鉤爪以外はただの人間となんら変わりないと言ってもいいだろう。そのギャップが余計に彼女の異形さを強調していた。
「魔物……」
自ら言葉に出し確信した。
そう呟いた私の言葉を聴いた瞬間の彼女の顔は永遠に忘れることがないだろう。この世の何よりも恐ろしく、怖ろしく、畏しかった。魅力的で、退廃的で、倒錯的だった。嗜虐の化身が目の前にいる――
「そうとも。我輩は魔物でお前は人間。アアそうだ魔物は人間を捕食するのだろう? ハラワタを裂こうか、髄を啜ろうか、皮を剥いで装飾にでもしてやろうかな?」
ニマニマと口角を上げ彼女は私を見下ろしている。
その目はさながら捕食者だ。肉食動物が草食動物を狙い定め今にも襲いかからんとする目、そのものであった。
私は普段ならば一目散に逃げるのだろうが、先ほどのおぞましき肉声により私の体は完全にすくみ上っていた。それならばいっそこの目で最期まで観察してみせようと思いその場にとどまった。私は逃げず彼女を見つめ返す。今の私にはこれが精一杯の抵抗だった。
「クククッ冗談だ。今のこの世に人を喰らう魔物がいるものか。我輩とて例外ではない」
「そ、そうか……助かる」
「面白い。実に面白いぞお前。我輩の姿を見て発狂しなかった人間は初めてだ。これはいい、とてもいい玩具だ」
ギチギチと背中の鉤爪を蠢かせ真紅の瞳で私を捉える。まるでその視線、姿そのものに強力な呪詛が込められているかのようで私は彼女の姿、声、仕草、言動から離れることはできなくなっていた。
「よく見れば顔もそれなりに整っている男ときた。ますます気に入ったぞ」
「気に入った?いったいどういう……」
「そのままの意味だ。気に入らなければそのまま突き落としていたまでよ。いや、その前にお前自ら発狂して落ちていたかも知れないなククク」
彼女はそう言って私の背後を指さし嘲笑う。釣られるように後ろを振り向くと私は絶句し言葉を失った。
巨大……いや巨大では言い表せられないほど弩級の大穴が私の背後でぽっかりと口を開けていたのだ。底も見えぬ奈落へと続いている。口の広さからいえば広めな湖とほぼ変わらないだろう。向こう側が見えないほど巨大で、岩盤がそのまま直角に削り取られたかのような不自然で非現実的なまでの大穴が風を鳴らせることもなく無音でそこにあった。
落ちればまず命の保証はない。この世の果てまで続いているかのような深淵が私の背中から手招きしている。
再び流れる汗は今度は脂汗ではなく冷や汗だった。
「……」
突き落としていた。そう聞いて私はどうやら救われたらしいというとこまでは理解できた。
そして辺りを見渡し、視界が薄暗く全面的に岩で覆われたこの空間は地下であるということも把握し多少の安堵を実感する。私は死んでいなかったのだ、と。
どれくらいの深度なのかは全くわからないが光すら届かないことから相当深い場所なのだろう。独りでに光る鉱石、多種多様な岩石、ところどころに見える謎の糸状の物体。今の私にわかることと言えばこれくらいのことしかなかった。
「と、とりあえず私を助けてくれた……そういうことでいいのだな」
「阿呆が。お前が勝手に落ちてきたところを拾ったまでのこと。お前など今はそこら辺の小石と同義だ」
「それでも感謝する……危うく失われるはずであったこの命、どうにか取り留めたみたいだ」
「小石ごときが一丁前に礼とは片腹痛い。いやここは小石のくせに礼儀を弁えていると褒めるべきか?」
随分と言いたい放題言われているが事実私を助けてくれたことに違いはないようだ。一応相手は魔物だが礼はしておくことにした。
口振りからしてかなり知性のある、そして極めて傲慢な魔物だということもわかった。というかわからざるを得ない。敵意の有無は未だはっきりとしないがひとまず言葉が通じるだけでもいいだろう。私は彼女へ問いかける。
「……ひとつ、質問してもいいだろうか」
「随分と流暢に喋る小石だな。ここでは我輩がルールだ、己の立場をわきまえろ。まずはこちらが聞く」
「……わかった」
確かに今の私は得体の知れない謎の侵入者だ。突然見ず知らずの人間が落ちてきたとなれば仕方のない反応である。仮に私が彼女のような状況だとしても同じことをするだろう。
「名と、正体と、目的。端的に述べろ。何の目的があってこのような辺境に訪れた。いくらお前が面白き者とて返答次第では……」
彼女はそう言い、視線を大穴へと移す。つまりはそういうことなのだろう。
知性ある魔物にはそれなり礼儀を尽くさなければならない。それこそ人間を相手にするよりも慎重に言葉を選ばなければならないと思い私は自らの名を名乗ることにした。
「私の名は――」
「どうした。早く名を名乗れ」
「あれ――」
自分の名前を言おうとしてもその一言が出てこない。頭に霞がかかったように記憶を探すことができない。そんな、そんなまさか――私の名前は――
「――嘘、だろ――」
自分の名前がわからない。自分が何者なのかも、何をしていたのかも思い出せない。わからない。ワカラナイ。
私に残されていた記憶は何者かに追われ、それから必死に逃げ、転んだところ、そこまでだった。それよりも前のことは何一つ思い出すことができなかった。自分の生まれ故郷も、育ちも、職業も、成そうとしていた偉業も、なにもかも。私は今の私という存在しか記憶していなかった。
「教えてくれ……私はいったい何者なんだ」
これが記憶を失った私と、奈落の魔物である彼女との出会いであった。
◇
「それでお前はこの有様、というわけか」
私がこの場所に来た経緯を覚えている限り彼女へ語った。思い出せないが成そうとしていた偉業があったこと。理由はわからぬが何者かに追われていたこと。偶然この場所へ落下してきたこと。今となってはこうして説明したことも、どこまでが本当なのか真偽の定かではない。
「私の覚えているすべてはここまでだ。それ以上はなにも……」
「おおかた落下の衝撃で頭を強く打ったのだろう。これだから人間というものは脆い」
「……本当に脆いものだ。私が糸に絡まることなく地上からここまで落下していたら身をもって痛感していただろう。生物としての原形をとどめているだけでも幸運だ」
曰く、ここは彼女の【巣】らしい。私は地上から落下し、岩盤に激突する間際に彼女の張った糸に引っ掛かっていたとのことだ。粘性のある繊維のようなものが合わさった糸。見た目以上に強靭で、引っ張ってもちぎれないし振り解こうとしても更に絡まりつく。私はそんなものに命を救われていたのである。
「目的と正体がわからない以上敵かどうかすら不明ではないか。何か思い出せるきっかけのようなものは持っていないのか」
「一応探してはみたがこれといって……」
私はもう一度身なりを漁ってみるもののそれらしいものは何も見つからなかった。身に着けていたものと言えば折り畳み式の小さなナイフ、バラバラに砕け散ったペン2本。それだけだった。
「……」
「どうした」
「少し疑問に思ったことがある。記憶を失ったが自分自身の癖というか習慣は覚えているのだが……私はこんなにも手ぶらな男だっただろうか。何か……とても大切な何かが足りないような」
「…………ククククククッ」
突如彼女は堪えるように笑い始めた。さも嬉しそうに、まるで品定めしているかのように。
「何か、とはコレのことじゃないか?」
指をクイ、と曲げると奥の空間に広がる糸がザワザワと踊り始める。複雑に組み合わさった歯車のように不規則ながらも規則性のある動きを見せた後、ひとつの物体が彼女の手に飛んできた。
「そ、それはっ!」
その物体を一目見た瞬間私の背中に電撃が走る。
「お前がここに落ちてきた時、お前の周囲に落ちていたものだ。手記というやつだろう」
「それは私の日記……いや違う……記録…………」
「残念だがこれではお前の記憶は戻らないだろう。そら、見てみろ」
彼女は手記を放り投げ私は受け取った。急ぎ震える手で表紙を開いてみるがそこには無常なる現実しか残されていなかった。ページの殆どが擦り切れちぎれていたのである。恐らく落下の衝撃で破れてしまったのだ、とてもじゃないが読めたものではなかった。
「そんな……」
「我輩が手に取ったときその手記からは強力な保護魔法の残骸があるだけだった。逆を言えば保護魔法が付与されていなければ塵すら残らなかったともいえる」
「そうだ……私は自分以外の誰も手記を閲覧できないように魔法を付与して封をしていたのだ……思い出した。とても大切なことを描いた記憶が……」
「察するに綴られている内容までは思い出せなかったようだな。ふん、人間の脳とは実に容易く壊れる。お前の脳よりその手記の方がよほど頑丈だったではないか」
皮肉にも彼女の言う通りだった。結局私は手記に大切なナニカを記録していたという記憶だけを思い出しただけだったのだから。
成そうとしていた偉業。成功すれば人類の栄光すら垣間見える大偉業の実現を目の前にして断たれるこの憤りが悔しくてたまらない。そしてそれすら思い出せない私自身が許せない。
「では――その手記を復元できると言ったらどうする?」
「何……」
「そのままの意味だ。我輩ならそれを直すことができる。以前と同じように読み書きができる状態にな」
まさか願ってもない展開が目の前の魔物によって実現するとは思ってもみなかった。だが相手は知性ある魔物、この手の話題には必ずと言っていいほど条件があるのは重々承知である。
「条件は」
「うん?」
「条件は何だと聞いている……」
「ク……ハハハッ!! なかなかに頭が切れる。そういうのは嫌いじゃない。いやむしろ好きだ。小石から蚤(のみ)に格上げしてやる」
「害虫になっただけじゃないか……」
「無機物から有機物になっただけでも喜べ」
不敵かつ狡猾に目を細める彼女。一瞬見えた彼女の牙が暗闇の中で純白に光った気がした。ゾクリと寒気が身体を伝う。
「我輩と契約を結べ。内容は簡単、我輩はお前の手記を復元する。お前にはあることをしてもらう。たったそれだけだ」
「あること、とは」
「……我輩はわけあってこの地に封印され地上に出ることができないのだ。お前にはその封印を解いてほしい」
「その封印とやらは私でも解けるものなのか」
「無論。多少魔術の心得があり人間であれば誰でも解ける。魔物では絶対に破壊できない厄介な封印なのだ。どうだ、悪い条件ではないと思うが」
私は考える。恐らくこの契約は確実に不利な条件が隠されているだろう。相手は魔物、それも得体の知れぬ見たこともない魔物だ。あるいは私が忘れているだけでもしかするとごく普通の一般的な魔物なのかもしれない。
「仮にその契約を私が認めなかったら」
「その時はその時だ。我輩の目の前に物珍しい客人がいるまでよ。小石だか蚤だか知らんが奈落の底に突き落とすのもいいし、皮を剥いで素材にもしてみるのも一興よなぁ」
もはや私に残された選択肢など一択でしかなかった。元よりこの命は失われているはずだった。たとえ偶然とはいえ助けてくれたのは彼女の糸であるのは間違いない。ならば私はこの残された命でできることをすべきなのだ。記憶の欠片を取り戻すチャンスを無碍にしてはならない。
「……わかった、契約しよう。私の手記が復元された暁にはお前を縛る封印を解除する」
「手記が復元されたら、か。クククッ、まぁいいだろう契約成立だ。では利き手を出せ」
夜空に映る星々のように、彼女の真紅の瞳がおぼろげに赫(かがよ)う。地底の奥底という夜空とは正反対の場所で恒星は私に語り掛けた。
「我輩の姿を見て発狂しないお前は、ふむ。気分が良い。特別に褒美をやろう」
彼女を纏う雰囲気が不気味とも神秘的とも形容しがたいものになる。まるでこの世の存在ではないような気配がして、この世の言葉では表現することができないような……しいて言えば異質、それに尽きる。
一歩、一歩、近づいてくる。外見は年端もいかぬ少女そのものだが、その気質はドラゴンやバフォメット等最上位種族にも引けを取らぬほど畏怖と威厳を携えていた。そうして私の側にしゃがみこみ、体の動かすことの出来の私の体をペタペタと触り舌なめずりをし始める。
とてつもなく嫌な予感がする。私の人間としての危機本能がそう告げている。だがそう思ったところで最早どうすることもできなかった。身体を動かすことができないし、なによりいつの間にか周囲に糸のようなものが張り巡らされ、包囲されていたのだから。ある意味最も予想できる展開でもある。
私は彼女に言われるがまま、利き手の右手を差し出した。半分の自棄と半分の誠意を示すために。
「右手で良いな?」
「……覚悟はできている。私はこんなところで終わりたくはない」
「その決意、期待しているぞ」
背中の鉤爪がギシギシと嘶き、私を包み込むかのように拘束する。したがって私と彼女の体は今密着している状態だ。色白い生肌と未知なる材質で覆われた胸が重く伸しかかる。
『辟易する娼婦の爪 澱み逆巻く血潮
肉の枕に蹲り 瞼は蝶番に臥す
深く果てなく噛み千切り 欺瞞の社に神契る
四王の楔 突き刺し刻め』
『堕隷―エスク・ラヴ―』
呪文のような言葉を呟くと彼女は自らの指先を背中の鉤爪にあてて真横に引っ掻いた。ポタ――ポタ―と流れる彼女の血液。赤く、黒く、紫色の血液。
血の滴る指先を彼女はあろうことか自らの口の中へ運び、舐め回し、しゃぶり、啜っている。地下に響き渡るすすり音は薄暗い紫色の照明も相まってとてつない淫靡さが滾っていた。拘束され身動きの取れない私はただひたすら彼女の行為を見つけることしかできない。釘付けになっている、というのも否定はできないのだが。
「ちゅぶ、ねろっ、んちゅ……ククク、では口を開けろ」
「あ、がが……」
私は自らの意志とは関係なく顎を開いてしまった。彼女の真紅の瞳がそうさせたのだろうか。彼女は自らの唾液と血液の混ざった指を私の口の中に無理やり突っ込み、舌の上に置く。
口の中全体に広がる鉄の味、塩気の味、痺れるような刺激、そして若干の甘み。
じわりじわりと流れてくる鉄の風味と魔物由来の独特な甘みが絶妙な分量で合わさり私の口の中で暴虐の限りを尽くしてくる。指先から流れる血液は瞬く間に吸収され、全身を駆け巡り身体を熱くさせていた。まるで毒のようだ。
「我輩の体液は血液、唾液に至るまで全てが猛毒。これに耐えねばお前の記憶は戻らない。ククク……契約、辞めるか?」
やはり私の間違いでなかった。目の前の魔物は嗜虐の化身なのだ。私に毒を飲ませ、もがき苦しんでいる姿を玩んでいるのだ。
ふと、蟻の巣に水をかけ流し遊んでいた幼少期の記憶が一瞬フラッシュバックしたが、今考えると蟻たちもこんな気分だったのだろうか。悪いことをしたなと思ったがこんな瞬間に思い出したい記憶ではなかった。
「肉が締まって旨そうな腕だ。唾液が止まらん」
じゅるりと唾を呑み込んでもなお口から垂れ流れる唾液を滴らせながら、彼女は私の右腕を持ち眼前に持っていく。一体何をするか問おうとした次の瞬間には彼女は既に行動を行っていた。
しゃぐっ――
「ッッッ!!」
一瞬の痛みの後、しばらくして私の腕から暖かい液体が流れてゆく。彼女は鋭い牙で私の腕に思い切り食らいついていたのだった。じゅるじゅると血を啜る音が聞こえる。私自身も血液を吸引されている感覚がわかる。
同時に私の体に唾液が注入されていく感覚があった。焼け爛れてしまうほど熱く、掻きむしりたくなるほどの痒みが裂孔部から全身に広がってゆく。頬や耳たぶに熱が溜まり息が荒くなると、私の腕を咥えたままニンマリと吸引する魔物の姿が見えた。
私の血液を吸引する代わりに彼女は己の唾液、それも毒性を孕んだ魔性の液体を注入し続けている。それが何を意味するかはわからないわけがなかった。彼女は精を食らい、私は魔力を注入されている。しかも経口投与と直接注入という二つの経路でだ。
「んくっ、んくっ…………クハァ、これで契約完了だ。お前の血液は……ふむ、四十五点といったところか。可もなく不可もない味だ」
「そ、そいつはどうも」
牙の刺し痕から未だに血液がドクドクと流れ続けている。滴る血液を眺めながら体の疼きを抑えようとしていると、刺し痕周辺から紫色の模様が浮かび上がるのが見えた。まるで刺青のように右腕を彩り、完全な模様として皮膚に沈着しているようだ。私は刺青などという趣味はこれっぽっちも無いが男心をくすぐるというかなんというか、一瞬、一瞬だけだがかっこいいと思ってしまった。一見すると蜘蛛のような形状にも見える。
「それこそが契約と下僕の証。破ること許されず従うことを誓った紋章に他ならない。互いの血を交わしたことにより契約は同意とみなされたのだ。これよりお前は我輩の所有物、なかなか様になっているぞ」
「待て。下僕だと……一言も聞いてない」
「無論、言ってないが。おやおや、これすら承知の上だと思ってあえて説明しなかったのだが脳まで蚤レベルのお前にはいささか説明不足だったかな?クククッ」
悪魔だ。悪魔がここにいる。いや、魔物だったか……
その小柄で可憐な見た目とは裏腹に性根は暗黒の限りを尽くした深淵を感じさせる。一度浸かってしまえばどんなにもがこうとも決して這い上がってこれぬほど深い闇がそこにあった。
「我輩が強制的に念ずればお前は必ず実行しなければならない。そういう呪いだ」
「もう呪いって言っているじゃないか……」
「細かいことを気にするようではまだ青い青い。それに例え呪いだろうが契約だろうがお前の立場はどうあがいても変わらんことぐらい、お前自身が一番理解しているだろ」
半ば自暴自棄での契約ではあったが、彼女の言っていることは的を射ていた。ここでは私はただのちっぽけな人間ただ一人なのだ。たとえ記憶が無くなる以前、どれほど地位があろうが血統があろうが私はこの魔物前ではただ一人の人間でしかない。私は生きるためならどのような苦難をも乗り越えてみせよう。
「我輩が手記を復元する契約は本当だ、信じるがいい。ただしお前も……忘れるなよ」
「勿論わかっている」
「その紋章は猛毒の塊でもある。無理に消そうとしたり契約破棄をすれば腕が溶け落ちるぞ。お前のような下僕にはふさわしい躾だ」
まただ。またあの顔だ。ニヤニヤと笑い私を蔑んでいるかのような、見下しているかのような笑みをしている。彼女の顔や仕草を見ていると……疼いて疼いてとてもじゃないが平常心を保てなくなりそうになる。体中の血液が暴れている。一か所に集まってくる。欲望が募ってくる。これはいけない。このままでは彼女の言いなりになってしまう。
「我輩の唾液はどうだった? 美味だろう、甘美だろう、極上だろう。つまりは最高だろう」
「ああ……最低の気分だ。頭が痛いし体が熱いし…………う、ぐっ……」
動悸が激しくなる。身体が熱くなる。欲が生まれてくる。とても腹立たしく苛立ちの方が大きいのに、私の体は相反する反応をし始めていた。
「そうかそうか、疼いてくるか。今、何がしたい?お前の頭の中で何が渦巻いている。口に出してみろ。ほら、ほらほらほら」
耳元で語り掛ける彼女の吐息交じりの声は私の脳を揺さぶりかける。甘く蕩け路るような小生意気な声、狂おしいほどに嗜虐的なトーンで私の理性を引きはがしてくる。
これが……魔物。
教団が彼女らの存在を悪と断定するのも理解できる。ヒトのカタチを成していながらヒトと全く異なる彼女らは異端と呼ぶにふさわしい。
「く、ふぅ……お前は一体……私をどうしたいのだ……下僕など冗談きつい」
「我輩はお前の魔力が欲しいのだよ。下僕の呪いは効率よく魔力を回収できる過程でしかない」
「魔力、だと……」
「我輩は手記を復元する術(すべ)を持っているが、そんなことのために我輩自身の魔力を浪費させるなどそれこそドブに捨てるのと同義というものだ。契約を結んだとはいえそれだけは譲れん」
「…………」
「お前が手記を復元したいのなら、まずお前が魔力を我輩に寄越せ。お前が供給した魔力の量によってそれ相応の復元をしてやろうと言っているのだ。理解したか?」
「魔力を供給……ということは、まさか――」
これから起こるであろう出来事を想起し、胸の内が更に熱発する。
「そろそろ全身に毒が回ってきた頃合いだろう。我輩の毒は我輩自身すら蝕むほど厄介なものでなあ。真、この肉体にはうんざりしているものよ」
「う、ぐぅ……」
血管の中に熱湯を流し込まれたかのような苦痛。ドクリ、ドクリと鼓動を打つたびに熱が広がってゆくのがわかる。それに比例するかのように私の中で黒い感情が生まれ、この感情を外に出さぬよう堪えていた。
「無駄なことを。我らが種族の毒に人間が耐えるのは不可能だというのに」
四肢を糸で拘束され身動きの取れぬ私の身体を彼女は執拗に擦っている。すらりと伸びた指先にしっとりとした湿り気を潤わせ弄んでいる姿は、卓越した娼婦のそれを感じさせた。仕草の一つ一つが男の劣情を滾らせる淫靡さがあり、たとえ少女の姿をしていたとしても本物の気迫が感じられる。
「毒を耐えることも体を動かすことも全ては意味なきこと。お前は我輩に従っていればそれだけでいいのだ……はぁ、ふ」
彼女は耳元でこう呟くと私の耳を噛み、舐めてきた。耳の溝を余すところなく唾液で覆い尽くし、あろうことか耳の中まで舐め尽しそうになるほどの味わいっぷりだ。気が狂いそうになる。もしかしたらもう狂い始めているのかもしれない。
「あ、くぅ……クソッ…………」
今の私はなんと情けない姿だろうか。たとえ相手が少女の姿をした強大な魔物だとしても、だ。一方的に罵られ蔑まれ、反論もできず戦うこともできず言い様にされているだけではないか。これが記憶を失くした惨めな男の末路でいいのか。
……違うに決まっている。再三のことだが、私にはまだやるべきことが残されているのだ。それの実現のためにはこんなところで油を売っている暇ではない。
仮に私の肉体の損傷が少なく、四肢が拘束されていなければこんな少女など腕ひとつで組み伏してやったところだ。そしてこの身を蝕む疼きを小さな肢体に全力でぶちかましているだろう。生意気で横暴な少女に対して罪悪感も背徳感も抱かずに己が欲望を放出していただろう。だいたいなんだその恰好は肌の露出が多すぎるじゃないか。誘っているようにしか見えないし素肌に密着した素材が艶めかしすぎてとてもじゃないが――
「なんだその目は」
「…………ハッ!!」
私は今何を考えていた?目の前の彼女に対して下賤極まりないことを思い描いていた……?
そんなことあっていいはずがない。いくら相手が魔物と言えど年端もいかぬ少女の肉体に劣情を覚えてしまっては人としての尊厳が失われかねない。なぜ私はあのようなことを……
「う、ぐ、ぁぁ……」
だめだ、彼女の姿が視界に映るたびに腕が、全身が疼く。蜘蛛の紋章が脈動し右腕の中で暴レテイル。熱い、熱い、あつい、アツイ。
「我輩の身体を舐め回すように視て……まさか、まさかとは言わんが」
――やめろ。
「興奮しているのではないかぁ?ククク」
――やめてくれ。
「我輩のような幼子の外見に対して?」
――やめ。
「物好きな変態め」
「違う……違う!! 私は決してそのような……フゥーっ……やめ、クソっ、ちが、ああ、いったいどうしたというんだ……」
「あまり狂気に飲まれるなよ、それではお前はお前でなくなってしまう。お前のありのままを見せろ、真の欲望の中にこそ良質の精が宿るのだから」
唾液で湿った耳の側で、吐息混じりの声が聞こえる。その声は脳に直接突き刺さり、ゾクゾクと私の全身を震えさせるのだ。もはや私の全身は毒に浸された。
「変態。変態。変態変態変態変態変態変態変態。少女の姿に興奮する変態」
彼女の言葉は呪言に聴こえ、あらゆる仕草は己を誘惑せしめんとする蠱惑さに視える。
「へんたい」
禁忌たる邪な感情が私を支配しそうになる。歯を食いしばり欲望に耐えようとするが食いしばりすぎて歯茎から出血し始める始末。
「へ・ん・た・い・♥」
――プツッ
口元に流れる血液を彼女が舌ですくい舐めたところで、私の中の線は切れた。へんたいという四文字が頭の中で反響、トリップし駆け巡るとまるで私は最初からそうであったかのような気がし始めたのだ。彼女の毒がそうさせたのか、私は初めからそうであったのか真偽のほどは定かではない。
ただ一つ言えることと言えば、私は目の前の少女に対して劣情を抱いているということだった。
「んん?おや、おやおやおやぁ、なぜお前は魔羅を勃たせているのかな?我輩はまだお前の耳をちょっとばかし舐めただけじゃないか」
さも知らないふりをして首をかしげる彼女。彼女は遊んでいるのだ。新しく手に入れた玩具を壊してしまわないように、壊れるぎりぎりの限界で遊んでいるのだ。
「…………」
「無言それ即ち図星とみなす。そうか、それではお前は少女に劣情を抱き、変態と呼ばれると興奮する糞のような男ということになるぞ。いいのか?ん?ん〜?」
魔物の唾液と魔力を直接注入させられ、呪いをかけられ、至近距離で魅了され続けている。こんな状況が数分も続けばどうなるかなんてわかりきっていたことだった。糞と呼ばれようがそんなのはもうどうでもいい。私は早くこの欲情を発散したかったのだ。どのような形でもいい、溜まりに溜まったモノを放出したい。したすぎてタマラナイ。
これが魔に魅せられた者の末路だと考えると、可哀想だとか哀れなど言う者がいるかもしれない。しかし実際に体験するとただの人間にこれを耐える手段はなく、身をもって知った私なのであった。
「お前は小石でも蚤でもなく糞だな。糞男だ。糞の様に下卑で意地汚い、便所の隅にこびり付いているようなカスだ。そのような糞に我輩自ら慰めをしてやろうというのだから感謝しろ」
「無機物に戻らなかっただけマシか……」
「糞で喜ぶ人間とはまた滑稽極まりない。糞は糞らしく掃除されるといい」
彼女はそういうと私のボロボロになった衣服を引き裂き全裸にさせた。眼前に剛直したペニスが一本目に見えるような形となると、私の股を広げその間にちょこんと座りまじまじと見つめている。
「おぉ、これが本物の魔羅か。なんと芳醇な香り、いや糞のようなニオイだ。ああ、まるで汚物、吐き気を催す」
「……もしかして男性器を見るのは初めてなのか」
「当たり前だ。父上の魔羅は常に母上の胎内に挿入されていたのでな。実物を見るのは初めてだ」
「随分お盛んな親だったようだな……」
私の男性器を前後左右ぐるりと観察し、時折臭いを嗅いでは吐息を漏らしている彼女。悪態こそつけど、こうして男性器に直面すると興味津々、というか今にも咥えそうなところを見るとやはり魔物の根底は共通しているのだなと実感する。
そして私もまた彼女の小さな口がいつ先端に触れるか期待している自分がいた。
「母はよく父の魔羅を咥えていた。それはそれは美味しそうにしゃぶり啜っていてな、実に美味しそうであった。特に教わってはいないが、我輩もこの血が、体が、本能がやり方を知っている」
鳥が飛び方を知っているように、魚が泳ぎ方を知っているように、魔物もまた産まれた時から知っているのだ。精を取り入れるということは生きることに直結するため、効率よく精を搾取できる方法を種として記憶しているのだろう。
「では、馳走になる」
じゅるっ
「ッアが!!」
彼女の舌が私の亀頭に触れた瞬間、粘膜を通して言葉にならない感触が脳髄を焼き焦がした。魔力の奔流が先端から吹き荒れる。快楽の圧政だ。
舌、頬、咽頭、それら全てに超濃度の魔力が込められており、私の男性器にすべて注がれている。下手をすれば魔力許容量をオーバーして男性器が破裂してしまわないほどの魔力量だった。だがそうならないのは彼女の人知ならざる卓越した魔力コントロールのなせる技があってこそなのだろう。膨大な量の魔力をまるで呼吸するかの如く操り私の男性器にそれら全てを受け流している。
じゅる、じゅるっ
にゅぷ
「んむ、ぷぁ、どうだ。不慣れであるが我輩の口淫は気持ちよかろう」
「ア、アア、これは、きも」
これは気持ちいいなんて次元ではない。
下半身が溶けてなくなってしまいかねないほどの快楽が私を覆い尽くしていた。今までこの快楽を知らないで過ごしてきたことを後悔してしまうほど、圧倒的な破壊力。
腰が砕けるそうになるとかそんな生易しいものではない。これは腰が消失すると言った方が良い。
じゅる、じゅるる
しゃぐっ――
「ッッッ!!!!」
「クク、お前は我輩の下僕にして玩具。我輩が玩具に対してどのような扱いをしようとも我輩の勝手だろう」
甘噛みしているのか、それすらもわからなくなってきた。
彼女が私のペニスを噛んでいるという感触はわからないが、先ほどよりも気持ちいということだけがわかる。だからおそらくそういうことなのだろう。
ああ、もしかして彼女はグールなのか?グールの口淫術はものすごいと聞くし……いやでもそうすると背後の鉤爪は証明のしようがなくなってしまう。ああ、もう、きもちいい、それでだけでいいじゃないか……
「魔羅が青筋立てて暴れているぞ。よほど我輩の牙が気持ちよかったとみえる。お前、まさか被虐性欲者なのか?我輩にいくら嬲られ罵られようとそれすら快楽なのか。ククク、反吐が出る。心底気持ち悪い。不快極まりない」
「そう、いう、わけじゃ……」
「不快で不潔なものは掃除しなければなぁ。我輩の唾液と魔力でたっぷりと洗浄されるといい。ぁむ、じゅる、んむ、じゅるぅ」
「あ、ぐ、そ、そこ、うくっ、ぐぅぅ!!」
亀頭を舐め、竿をしごき、玉を揉み、ありとあらゆる快感のポイントを責める彼女。これが初めてと言っていたがどう考えても初めてのテクニックではなかった。恐るべきは魔物の本能ということか。
ペニスに直接注入された魔力は海綿に染み渡り、前立腺に滞り、精巣へ沈着する。身体の内側から細胞を書き換えられているかのような言いようのない悪寒と性感が私を包み込んでいた。とてつもない速度で精子と精漿が産生、分泌されているのがわかる。私の身体に流れる毒と魔力が働きかけているのは明白であった。
「ん、じゅる、んくっ、ちゅ……」
やや頬を染めながら意地の悪そうにペニスを舐めるその顔を見るたび、私の中でこみ上げるものがある。ものの数分と経過していないのにも関わらず陰嚢は上へと迫り上がり放出の予感を感じさせた。
「もう……これ以上は、くっ……」
「ふぁクク、いいぞ、出してしまえ。んっ、にゅぷ、少女の身体に欲情してしまったと認めることになるが」
「ぅ、あぐっ……」
咽頭の奥まで一気に咥え、直後に引きずり出し亀頭を舐め回す。娼婦顔負けの口技を毒の魔力と共に直撃され我慢できるわけがなかった。しかも彼女の尖った歯が時折ペニスを刺激しアクセントを加えるものだから尚更だ。
「で、出っ……ああっ!!」
私は無意識に彼女の喉奥までペニスを打ち付け、そして放出した。
ドクンッ、ドクンッ……止めどなく、永久かと思われる時間。自ら慰めて射精するよりもはるかに長い時間、私のペニスは脈動を続けていた。
「んっ、んくっ、こく、こくっ……ごくん」
射精というものはせいぜい10秒ほどの射出で大半の量を出し終える。しかし今私はもう1分、2分と射精し続けていた。射精時の瞬間の快感が一瞬で終わることなく放出され続けている。脳髄が擦り切れそうだ。
「ぷぁ」
体感数時間は感じられたが実際のところ約3分が経過しようとしたところでようやく射精が終わり、彼女はペニスを口から引き離した。その大半は彼女の食道に直接注がれたが、多少口内に残っている精液を堪能するかのように咀嚼している。ねちゃ、にちゃとまるで私に聞かせるようにわざとらしく音を立てて音と味を楽しんでいるようにも見えた。白く粘つく液体をピンク色の舌がかき乱している様は見るだけまた勃起しかねない毒気を孕んでいる。
「ふむ……ふむふむふむ!! これが精の味か。正直ただ生殖の為だけにあるものだと思っていたが……これはなかなか、いやとても美味だ。人間の雄のクセにここまで美味なものを生産できるとは思ってもみなかった」
「はぁ……はぁ…………うぐっ」
あまりの快感に脳がショート寸前のところまでいってしまったがどうにか気絶は免れた。一生分の精液を出してしまったかと思うぐらいだ。
魔物の魔力を直に受け、尚且つ体内に毒を差し込まれてしまったが故のことだろう。理解はしつつも想像を絶する快感に未だ現実味がない。
「糞にしてはそれなりに利用できる糞だな。契約完遂の為せいぜい努力するといい」
「それは、願っても、ない……」
私はとんでもない者と契約してしまったのではないか。快感の余韻に浸りおぼろげな思考の中で彼女を見た。暗闇の中で一際輝く真紅の瞳が私を見返している。恐ろしく傲慢で、そして儚げな赤だった。
―頭もうまく働かない。
―それでも私は走るのをやめてはならない。
辺り一面見たこともないような深緑と極彩色の植物が茂る密林。私はいつの間にか自分自身も知らない場所にまで到達してしまっていたらしい。だがそんなことはどうでもよかった。
一心不乱にあてもなく走り続けていた。靴はとうの昔に脱げ、生爪が剥がれ落ちそうになっていながらも私は走る。走っているのか歩いているのかわからぬほど体は限界にきている。しかし私は走る。走る。走り続ける。
―逃げるために。
時折背後に目をやると、私を捉えようと血眼になっている追手の姿が確認できる。剣を掲げ声を荒げ、私の名を叫びながら迫ってくる。奴らに捕まったらもうおしまいだ。
耐え難き尋問、拷問にかけられ挙句の果てに殺されるのだろう。あるいは今すぐこの場で処刑されてしまうかもしれない。一切の尊重もなく慈悲も哀れみもなく、誤って踏んづけてしまった虫けらのように始末されるのだろう。前者にせよ後者にせよ奴らに捕まれば私の人生は終わりを告げることになる。
それだけは絶対に嫌だ。
こんなところで……こんなつまらない理由で死んでなるものか。私の一生を終わらせていいものか。私にはまだやらなければならないことがたくさん残されているのだ。後世の人々のために、平穏で争いのない世界の実現のために私はまだ……畜生!!
(死にたくない……死にたくない!!)
しかし私の不屈なる信念とは裏腹に、その肉体はもはや限界を通り越しており、腿の筋肉は痙攣し膝の腱は擦り切れそうになっていた。こうして走れているのが奇跡であるほどに。
いつの間にか汗もかかなくなっており軽い脱水状態に陥っている。視界もぼやけてきている。かろうじて働いている聴覚は、こちらに近寄ってくる追手の足音を鮮明に捉え、その音が徐々に近づいてきているのを私の脳に告げていた。
一歩、一歩。着実ににじり寄るその足音はさながら私の命を刈り取らんとする死神かのように思える。
(に……にげ……なけれ、ば……)
だが奇跡というものはそう長続きするようなものではない。
脚をあげ損ねた私のつま先に木の根が掛かり、体のバランスを崩してしまったのだ。
私はそのまま勢いよく倒れ込む。追手の足音が近づいてくる。武器の擦れる金属音と罵声、怒号飛び交う声が頭に突き刺さってくる。
もう、おしまいなのか―
私の人生はここまでなのか―
そう最期に悟ったところで私の視界は暗転し意識は途絶えた。ここが私の覚えている最後の記憶だった。
◇
熱い。いや、寒い……?
そのどちらでもない。生ぬるいような不快な感触が体全体にまとわりついている。
おぼろげであった私の意識はその感触のせいで確かなものとなり目を覚ました。
「ん……うう……」
一体どれほどの間意識を失っていたのだろうか。まどろむ瞳を遮二無二開き、激痛に鞭打つ身体をどうにか動かし私は上半身を起き上がらせる。
ここはいったいどこなのだろうか。
目をこすり、視界を一望しても辺りに見えるものは何もなかった。否、何もなかったのではなく何も視えなかったのだ。目を開けていようと閉じていようとその視界に映るのは完全なる闇そのものしかなかったのだから。自らの手を眼前に翳してみてもその指の数を数えることすらかなわない。もしかすると視力が正常に働いていないのかもしれない。だがそれを確かめる術もない。
完全な闇。まるで私は宇宙に放り出された星屑のようだった。
風の流れる音も聞こえない。水のせせらぎも聞こえない。小鳥のさえずりも聞こえない。
ただ唯一聞こえるのは自らの拍動のみ。未知なる領域にその身をさらし、緊張と不安に駆られる私の心臓の音だけが聞こえていた。
無風。無音、無光。ここで私はあるひとつの仮説を導き出す。
(ここはいわゆるあの世というものなのでは……?)
そうだ、私は追われていた。命を狙われていたのだった。
私は決死の逃亡の甲斐なく捕縛され処刑されてしまったのではないか。処刑されこの世を去り、そうしてなにもない無という名のあの世へ逝ってしまったと考えるのが一番合理的かつ納得のいく答えが導き出せるというものである。
(そうか。私は死んだのか)
悔しくない、と言えば嘘になる。
私にはまだやるべきことが残されていた。その実現がもうすぐというところで道半ばにして命尽きる。これ以上の無念があってなるものか。
しかしなんというかこういう結末になってしまうとは……人生というものは実にあっけないものだ。来世はもう人間はこりごりだ。虫となって大自然の一部と化し何も考えずに転生したいものである。まぁ大義を成し遂げられなかった私程度の者が自らの希望の存在に転生できるわけがないのだが。
(しかし……あの世というにはこうも殺風景なのか)
本当に何もない。何も視えない。
せめて死人にあの世の景観ぐらいは見せてくれていいものではないだろうか。死んだ者だけが体験できる特権だというのにこれでは実に味気ない。いや愚痴は良くないな。これも主たる神の配慮というなら致し方ない、ここまでにしておこう。
(ん……?)
それからしばらくの間、横になり何も考えず無と同化していた頃だろうか。ふと意識を耳にやるとなにやら物音がしていることに気が付いた。無論、私の心臓の音ではない。これは明らかに私の体内から発せられる音とは別の音である。
ぺたり……ぺたり……音からして金属類ではなさそうだ。むしろ音の質感的に軟質の物質から発せられる音に近いだろう。
(近づいてきている……)
ぺたり……ぺたり……やや湿気を纏った柔らかいものの音は一定の間隔を保ちながら徐々に大きくなっていく。何気ない音のようだが先ほどまで無音だった空間に突如として鳴り響いたというだけでとたんに怪しさを含む音に聞こえてきた。疑問はやがて不安へと変わり、私の心臓はより拍動の回数を上げにかかる。
私は音の聞こえる方角を捉え、その一点を凝視してみた。
何も見えるはずがない。だがもしかすると……不安と好奇心を頼りに私は眼を開き、これから現れるだろうナニカを見ようとしていた。
ぼうっ……ぼうっ……
近づいてくる音を聞きながらその方角を見つめていると、今度はやや低い音で空間全域に響きわたる別の音が聞こえてきた。それと同時に今まで完全な闇であった私の視界に、久方ぶりの光が見えることになる。
(光だ……光が見える)
若干の感動を覚えたものである。
光と言えど、それはまるで魔灯花の薄い光のように仄暗く、幻想的な薄紫色だったからだ。光は床や壁に打ち付けられた水晶のような鉱石から発せられているようである。一つ一つが握り拳大程度の大きさでさほど大きいというわけではないが、無数に点在する鉱石が共鳴するかのように光を生み出していた。
一か所、二か所、三か所……徐々に光る場所が増え暗闇であった私の視界が鮮明になっていく。それはすなわち、今私のいる場所の全容が明らかになりつつあるということでもある。
(密閉された空間のようだが……ううむ死後の世界というものはこんなにも閉鎖的なのだろうか……それにしては聊か……)
「ナん縺ェ繧薙□縲∫函縺イキ阪の◆縺縺?」
なんだ――――――今のは。
今、確かに聞こえた――脳髄の奥を揺さぶるかのようなおぞましき何かが聞こえた。
声だった。いや、そもそも声なのだろうか。声と呼ぶにはあまりにも異質であった。金切声と沸き立つヘドロと擦れあう臓器の滴りのような音が混ぜ合わさった、およそ生物の声帯から発せられていい音ではなかった。もしかすると異様な光景に困惑した私の脳が生み出した幻聴なのかもしれない。
わからない。未知だ。あまりにも未知である。
「縺キか阪。繧峨ヶ繝りコトヶ繝?→迢ャ繧煩ワし願ィ?縲∝密縺励¥縺ヲ莉墓ァ倥がナェい縺」
まただ―
今度ははっきりと聞こえた。これは声だ。明らかに私に語り掛けている声であるのはもはや疑いようもなかった。こんなおぞましい音が声であってほしくなかった私の希望は一瞬で打ち砕かれる。
耳がその音を認識した瞬間、私はとてつもない悪寒と恐怖に襲われた。全身の毛穴が開き、骨が軋む。喉が渇き脂汗が流れてくる。あと一歩踏み込めば錯乱してしまいかねない恐怖に私はギリギリのところで踏みとどまっていた。狂気を体現したモノが音というカタチをもって私の耳を蹂躙する。
では一体何だ?どこだ?私に語り掛けてくるお前はいったい何なのだ。ヒトか。マモノか。それ以外のモノか。
どこだ、どこにいる。早くその姿を見なければ気が触れておかしくなってしまう。
「ど、どこだ……その……姿を早く見せろ……見せてくれっ」
「元ヨり翫◎縺つもリョ縺、繧縲我よ霈ゥ縺ョ蟋ソ縲√→縺上→邯イ閹懊↓辟シ縺堺もウ膜にサ倥げる繧良い>」
「うぁ……がああああああっ!!」
その音を耳にするだけで視界が歪み、上下逆さがわからなくなる。頭を掻きむしり頭蓋を開き脳綿を掴みつぶしてしまいたくなる衝動に駆られる。
ぺたり……ぺたり……と聞こえてくるのがようやく足音と判明したころには、この声の主がもう私の目と鼻の先にいることに気が付いた。
薄暗い光で全容を伺うことはできないが……どうやら人の形らしきシルエットだけは確認できた。目と鼻の先にこの異常なる存在がいる。その認識が不安をより加速させると同時にごくわずかの安心にもなった。恐怖の正体を視認して安心したのは今にも後にもこれが最後であろう。私は鉱石の明かりを頼りにシルエットを凝視してみた。
頭が一つ、脚が二つ、腕が六つ……ん?
見間違いだろうか。もう一度数えてみよう。
頭が一つ、よし。
脚が二つ、よし。
腕が、ひい、ふう、みい、よ、いつ、む………………よし。
いや、よくない。
これは非常によろしくない。
明らかに人間ではない。腕が六本ある人間がいてたまるものか。仮に人間だとしてもこんな場所にいる人間などまず普通ではない。
そして最悪なことに、装備も何もない丸腰の私の目の前にそんなヤツがいるという事実。いくら頭が悪い者であろうとこの状況がいかに危機的状況であるかは理解できるであろう。
ぺたり……ぺたり……着実に、確実に近づいてきている。しかし私はこの危機的状況下において、恐怖こそすれど妙に落ち着いていた。一種の諦めのようなものである。
そうだ。何を恐れる必要がある。そもそもここは死後の世界だぞ。おおかたゴースト系の魔物が私の霊体に接触してきているのだろう。そうやって自分に言い聞かせ納得した。言い聞かせでもしないとまともな精神を保っていられなかったから。
「よー励犯サレオ縺ナ輔l繧九↑縲よ。我ハい縺ョ蟋ソ繧偵シカ縺ョ逵シ縺ァ縺見ヨ」
「頼む……その声を止め……てくれ……気がおかしくなり……だ……」
「ナん薙□と?縺オ繧?窶ヲ……」
目の前の者はそう一言だけ音を発すると、にじり寄る足をピタリと止めた。そうして数秒静止した後、再び音を発する。
「あ・あー。よし、これでいいか」
「なん――」
普通の言語が発せられると同時に暗がりから得体のしれないモノの正体が顕わになった。
まず始めに見えたのは肌色だった。それも血色の良い薄桃色かつ色白な、極めてヒトらしい肌色がそこに見えた。その上から脂が黒光りしているかのような材質不明の薄い素材が怪しげに光沢している。どうやら素肌に纏っているらしい。私はその姿を目の当たりにしゴクリ、とひとつ固唾を飲んだ。
「女……の子?」
無意識に言葉が出てしまう。上も下もわからぬ怪異極まる場所に突如として現れた存在は見まごうことなく少女のカタチを成していた。
体の素材と同じくらい幻想的な紫色をした髪がユラリと舞う。暗がりの中でもわかるほどの艶があり極上の絹のようだ。衣服はほぼ身につけていない。というより素肌に纏う謎の素材が衣服なのかどうかすら定かではない。胸部や局部を覆っているため恐らくは衣服だと思うのだが。
「ふむ、久しぶりにこちらの言語を話す。我輩の言葉が理解できるか?」
「あ、ああ……」
ヤツ……もとい彼女の身長だけみたら、私の胸あたりの伸長までしかないだろう。それでも小柄な体から発せられる威圧感は凄まじいものがあり、床に這いつくばっている私を彼女は見下ろしていた。
彼女の伸長は私より小さい。身長だけでみたら、である。
年頃の少女のような細く華奢な腕が両肩から一対ある。そこまではいい。何ら問題ではない。だが彼女の背後から生えている二対の腕……いや、これは鉤爪と説明すればいいのだろうか。ともすればドラゴン種の爪とも思しき巨大で荒々しいソレは、彼女のような小柄な少女の背後から生えている姿があまりにも不釣り合いだった。逆に言えその鉤爪以外はただの人間となんら変わりないと言ってもいいだろう。そのギャップが余計に彼女の異形さを強調していた。
「魔物……」
自ら言葉に出し確信した。
そう呟いた私の言葉を聴いた瞬間の彼女の顔は永遠に忘れることがないだろう。この世の何よりも恐ろしく、怖ろしく、畏しかった。魅力的で、退廃的で、倒錯的だった。嗜虐の化身が目の前にいる――
「そうとも。我輩は魔物でお前は人間。アアそうだ魔物は人間を捕食するのだろう? ハラワタを裂こうか、髄を啜ろうか、皮を剥いで装飾にでもしてやろうかな?」
ニマニマと口角を上げ彼女は私を見下ろしている。
その目はさながら捕食者だ。肉食動物が草食動物を狙い定め今にも襲いかからんとする目、そのものであった。
私は普段ならば一目散に逃げるのだろうが、先ほどのおぞましき肉声により私の体は完全にすくみ上っていた。それならばいっそこの目で最期まで観察してみせようと思いその場にとどまった。私は逃げず彼女を見つめ返す。今の私にはこれが精一杯の抵抗だった。
「クククッ冗談だ。今のこの世に人を喰らう魔物がいるものか。我輩とて例外ではない」
「そ、そうか……助かる」
「面白い。実に面白いぞお前。我輩の姿を見て発狂しなかった人間は初めてだ。これはいい、とてもいい玩具だ」
ギチギチと背中の鉤爪を蠢かせ真紅の瞳で私を捉える。まるでその視線、姿そのものに強力な呪詛が込められているかのようで私は彼女の姿、声、仕草、言動から離れることはできなくなっていた。
「よく見れば顔もそれなりに整っている男ときた。ますます気に入ったぞ」
「気に入った?いったいどういう……」
「そのままの意味だ。気に入らなければそのまま突き落としていたまでよ。いや、その前にお前自ら発狂して落ちていたかも知れないなククク」
彼女はそう言って私の背後を指さし嘲笑う。釣られるように後ろを振り向くと私は絶句し言葉を失った。
巨大……いや巨大では言い表せられないほど弩級の大穴が私の背後でぽっかりと口を開けていたのだ。底も見えぬ奈落へと続いている。口の広さからいえば広めな湖とほぼ変わらないだろう。向こう側が見えないほど巨大で、岩盤がそのまま直角に削り取られたかのような不自然で非現実的なまでの大穴が風を鳴らせることもなく無音でそこにあった。
落ちればまず命の保証はない。この世の果てまで続いているかのような深淵が私の背中から手招きしている。
再び流れる汗は今度は脂汗ではなく冷や汗だった。
「……」
突き落としていた。そう聞いて私はどうやら救われたらしいというとこまでは理解できた。
そして辺りを見渡し、視界が薄暗く全面的に岩で覆われたこの空間は地下であるということも把握し多少の安堵を実感する。私は死んでいなかったのだ、と。
どれくらいの深度なのかは全くわからないが光すら届かないことから相当深い場所なのだろう。独りでに光る鉱石、多種多様な岩石、ところどころに見える謎の糸状の物体。今の私にわかることと言えばこれくらいのことしかなかった。
「と、とりあえず私を助けてくれた……そういうことでいいのだな」
「阿呆が。お前が勝手に落ちてきたところを拾ったまでのこと。お前など今はそこら辺の小石と同義だ」
「それでも感謝する……危うく失われるはずであったこの命、どうにか取り留めたみたいだ」
「小石ごときが一丁前に礼とは片腹痛い。いやここは小石のくせに礼儀を弁えていると褒めるべきか?」
随分と言いたい放題言われているが事実私を助けてくれたことに違いはないようだ。一応相手は魔物だが礼はしておくことにした。
口振りからしてかなり知性のある、そして極めて傲慢な魔物だということもわかった。というかわからざるを得ない。敵意の有無は未だはっきりとしないがひとまず言葉が通じるだけでもいいだろう。私は彼女へ問いかける。
「……ひとつ、質問してもいいだろうか」
「随分と流暢に喋る小石だな。ここでは我輩がルールだ、己の立場をわきまえろ。まずはこちらが聞く」
「……わかった」
確かに今の私は得体の知れない謎の侵入者だ。突然見ず知らずの人間が落ちてきたとなれば仕方のない反応である。仮に私が彼女のような状況だとしても同じことをするだろう。
「名と、正体と、目的。端的に述べろ。何の目的があってこのような辺境に訪れた。いくらお前が面白き者とて返答次第では……」
彼女はそう言い、視線を大穴へと移す。つまりはそういうことなのだろう。
知性ある魔物にはそれなり礼儀を尽くさなければならない。それこそ人間を相手にするよりも慎重に言葉を選ばなければならないと思い私は自らの名を名乗ることにした。
「私の名は――」
「どうした。早く名を名乗れ」
「あれ――」
自分の名前を言おうとしてもその一言が出てこない。頭に霞がかかったように記憶を探すことができない。そんな、そんなまさか――私の名前は――
「――嘘、だろ――」
自分の名前がわからない。自分が何者なのかも、何をしていたのかも思い出せない。わからない。ワカラナイ。
私に残されていた記憶は何者かに追われ、それから必死に逃げ、転んだところ、そこまでだった。それよりも前のことは何一つ思い出すことができなかった。自分の生まれ故郷も、育ちも、職業も、成そうとしていた偉業も、なにもかも。私は今の私という存在しか記憶していなかった。
「教えてくれ……私はいったい何者なんだ」
これが記憶を失った私と、奈落の魔物である彼女との出会いであった。
◇
「それでお前はこの有様、というわけか」
私がこの場所に来た経緯を覚えている限り彼女へ語った。思い出せないが成そうとしていた偉業があったこと。理由はわからぬが何者かに追われていたこと。偶然この場所へ落下してきたこと。今となってはこうして説明したことも、どこまでが本当なのか真偽の定かではない。
「私の覚えているすべてはここまでだ。それ以上はなにも……」
「おおかた落下の衝撃で頭を強く打ったのだろう。これだから人間というものは脆い」
「……本当に脆いものだ。私が糸に絡まることなく地上からここまで落下していたら身をもって痛感していただろう。生物としての原形をとどめているだけでも幸運だ」
曰く、ここは彼女の【巣】らしい。私は地上から落下し、岩盤に激突する間際に彼女の張った糸に引っ掛かっていたとのことだ。粘性のある繊維のようなものが合わさった糸。見た目以上に強靭で、引っ張ってもちぎれないし振り解こうとしても更に絡まりつく。私はそんなものに命を救われていたのである。
「目的と正体がわからない以上敵かどうかすら不明ではないか。何か思い出せるきっかけのようなものは持っていないのか」
「一応探してはみたがこれといって……」
私はもう一度身なりを漁ってみるもののそれらしいものは何も見つからなかった。身に着けていたものと言えば折り畳み式の小さなナイフ、バラバラに砕け散ったペン2本。それだけだった。
「……」
「どうした」
「少し疑問に思ったことがある。記憶を失ったが自分自身の癖というか習慣は覚えているのだが……私はこんなにも手ぶらな男だっただろうか。何か……とても大切な何かが足りないような」
「…………ククククククッ」
突如彼女は堪えるように笑い始めた。さも嬉しそうに、まるで品定めしているかのように。
「何か、とはコレのことじゃないか?」
指をクイ、と曲げると奥の空間に広がる糸がザワザワと踊り始める。複雑に組み合わさった歯車のように不規則ながらも規則性のある動きを見せた後、ひとつの物体が彼女の手に飛んできた。
「そ、それはっ!」
その物体を一目見た瞬間私の背中に電撃が走る。
「お前がここに落ちてきた時、お前の周囲に落ちていたものだ。手記というやつだろう」
「それは私の日記……いや違う……記録…………」
「残念だがこれではお前の記憶は戻らないだろう。そら、見てみろ」
彼女は手記を放り投げ私は受け取った。急ぎ震える手で表紙を開いてみるがそこには無常なる現実しか残されていなかった。ページの殆どが擦り切れちぎれていたのである。恐らく落下の衝撃で破れてしまったのだ、とてもじゃないが読めたものではなかった。
「そんな……」
「我輩が手に取ったときその手記からは強力な保護魔法の残骸があるだけだった。逆を言えば保護魔法が付与されていなければ塵すら残らなかったともいえる」
「そうだ……私は自分以外の誰も手記を閲覧できないように魔法を付与して封をしていたのだ……思い出した。とても大切なことを描いた記憶が……」
「察するに綴られている内容までは思い出せなかったようだな。ふん、人間の脳とは実に容易く壊れる。お前の脳よりその手記の方がよほど頑丈だったではないか」
皮肉にも彼女の言う通りだった。結局私は手記に大切なナニカを記録していたという記憶だけを思い出しただけだったのだから。
成そうとしていた偉業。成功すれば人類の栄光すら垣間見える大偉業の実現を目の前にして断たれるこの憤りが悔しくてたまらない。そしてそれすら思い出せない私自身が許せない。
「では――その手記を復元できると言ったらどうする?」
「何……」
「そのままの意味だ。我輩ならそれを直すことができる。以前と同じように読み書きができる状態にな」
まさか願ってもない展開が目の前の魔物によって実現するとは思ってもみなかった。だが相手は知性ある魔物、この手の話題には必ずと言っていいほど条件があるのは重々承知である。
「条件は」
「うん?」
「条件は何だと聞いている……」
「ク……ハハハッ!! なかなかに頭が切れる。そういうのは嫌いじゃない。いやむしろ好きだ。小石から蚤(のみ)に格上げしてやる」
「害虫になっただけじゃないか……」
「無機物から有機物になっただけでも喜べ」
不敵かつ狡猾に目を細める彼女。一瞬見えた彼女の牙が暗闇の中で純白に光った気がした。ゾクリと寒気が身体を伝う。
「我輩と契約を結べ。内容は簡単、我輩はお前の手記を復元する。お前にはあることをしてもらう。たったそれだけだ」
「あること、とは」
「……我輩はわけあってこの地に封印され地上に出ることができないのだ。お前にはその封印を解いてほしい」
「その封印とやらは私でも解けるものなのか」
「無論。多少魔術の心得があり人間であれば誰でも解ける。魔物では絶対に破壊できない厄介な封印なのだ。どうだ、悪い条件ではないと思うが」
私は考える。恐らくこの契約は確実に不利な条件が隠されているだろう。相手は魔物、それも得体の知れぬ見たこともない魔物だ。あるいは私が忘れているだけでもしかするとごく普通の一般的な魔物なのかもしれない。
「仮にその契約を私が認めなかったら」
「その時はその時だ。我輩の目の前に物珍しい客人がいるまでよ。小石だか蚤だか知らんが奈落の底に突き落とすのもいいし、皮を剥いで素材にもしてみるのも一興よなぁ」
もはや私に残された選択肢など一択でしかなかった。元よりこの命は失われているはずだった。たとえ偶然とはいえ助けてくれたのは彼女の糸であるのは間違いない。ならば私はこの残された命でできることをすべきなのだ。記憶の欠片を取り戻すチャンスを無碍にしてはならない。
「……わかった、契約しよう。私の手記が復元された暁にはお前を縛る封印を解除する」
「手記が復元されたら、か。クククッ、まぁいいだろう契約成立だ。では利き手を出せ」
夜空に映る星々のように、彼女の真紅の瞳がおぼろげに赫(かがよ)う。地底の奥底という夜空とは正反対の場所で恒星は私に語り掛けた。
「我輩の姿を見て発狂しないお前は、ふむ。気分が良い。特別に褒美をやろう」
彼女を纏う雰囲気が不気味とも神秘的とも形容しがたいものになる。まるでこの世の存在ではないような気配がして、この世の言葉では表現することができないような……しいて言えば異質、それに尽きる。
一歩、一歩、近づいてくる。外見は年端もいかぬ少女そのものだが、その気質はドラゴンやバフォメット等最上位種族にも引けを取らぬほど畏怖と威厳を携えていた。そうして私の側にしゃがみこみ、体の動かすことの出来の私の体をペタペタと触り舌なめずりをし始める。
とてつもなく嫌な予感がする。私の人間としての危機本能がそう告げている。だがそう思ったところで最早どうすることもできなかった。身体を動かすことができないし、なによりいつの間にか周囲に糸のようなものが張り巡らされ、包囲されていたのだから。ある意味最も予想できる展開でもある。
私は彼女に言われるがまま、利き手の右手を差し出した。半分の自棄と半分の誠意を示すために。
「右手で良いな?」
「……覚悟はできている。私はこんなところで終わりたくはない」
「その決意、期待しているぞ」
背中の鉤爪がギシギシと嘶き、私を包み込むかのように拘束する。したがって私と彼女の体は今密着している状態だ。色白い生肌と未知なる材質で覆われた胸が重く伸しかかる。
『辟易する娼婦の爪 澱み逆巻く血潮
肉の枕に蹲り 瞼は蝶番に臥す
深く果てなく噛み千切り 欺瞞の社に神契る
四王の楔 突き刺し刻め』
『堕隷―エスク・ラヴ―』
呪文のような言葉を呟くと彼女は自らの指先を背中の鉤爪にあてて真横に引っ掻いた。ポタ――ポタ―と流れる彼女の血液。赤く、黒く、紫色の血液。
血の滴る指先を彼女はあろうことか自らの口の中へ運び、舐め回し、しゃぶり、啜っている。地下に響き渡るすすり音は薄暗い紫色の照明も相まってとてつない淫靡さが滾っていた。拘束され身動きの取れない私はただひたすら彼女の行為を見つけることしかできない。釘付けになっている、というのも否定はできないのだが。
「ちゅぶ、ねろっ、んちゅ……ククク、では口を開けろ」
「あ、がが……」
私は自らの意志とは関係なく顎を開いてしまった。彼女の真紅の瞳がそうさせたのだろうか。彼女は自らの唾液と血液の混ざった指を私の口の中に無理やり突っ込み、舌の上に置く。
口の中全体に広がる鉄の味、塩気の味、痺れるような刺激、そして若干の甘み。
じわりじわりと流れてくる鉄の風味と魔物由来の独特な甘みが絶妙な分量で合わさり私の口の中で暴虐の限りを尽くしてくる。指先から流れる血液は瞬く間に吸収され、全身を駆け巡り身体を熱くさせていた。まるで毒のようだ。
「我輩の体液は血液、唾液に至るまで全てが猛毒。これに耐えねばお前の記憶は戻らない。ククク……契約、辞めるか?」
やはり私の間違いでなかった。目の前の魔物は嗜虐の化身なのだ。私に毒を飲ませ、もがき苦しんでいる姿を玩んでいるのだ。
ふと、蟻の巣に水をかけ流し遊んでいた幼少期の記憶が一瞬フラッシュバックしたが、今考えると蟻たちもこんな気分だったのだろうか。悪いことをしたなと思ったがこんな瞬間に思い出したい記憶ではなかった。
「肉が締まって旨そうな腕だ。唾液が止まらん」
じゅるりと唾を呑み込んでもなお口から垂れ流れる唾液を滴らせながら、彼女は私の右腕を持ち眼前に持っていく。一体何をするか問おうとした次の瞬間には彼女は既に行動を行っていた。
しゃぐっ――
「ッッッ!!」
一瞬の痛みの後、しばらくして私の腕から暖かい液体が流れてゆく。彼女は鋭い牙で私の腕に思い切り食らいついていたのだった。じゅるじゅると血を啜る音が聞こえる。私自身も血液を吸引されている感覚がわかる。
同時に私の体に唾液が注入されていく感覚があった。焼け爛れてしまうほど熱く、掻きむしりたくなるほどの痒みが裂孔部から全身に広がってゆく。頬や耳たぶに熱が溜まり息が荒くなると、私の腕を咥えたままニンマリと吸引する魔物の姿が見えた。
私の血液を吸引する代わりに彼女は己の唾液、それも毒性を孕んだ魔性の液体を注入し続けている。それが何を意味するかはわからないわけがなかった。彼女は精を食らい、私は魔力を注入されている。しかも経口投与と直接注入という二つの経路でだ。
「んくっ、んくっ…………クハァ、これで契約完了だ。お前の血液は……ふむ、四十五点といったところか。可もなく不可もない味だ」
「そ、そいつはどうも」
牙の刺し痕から未だに血液がドクドクと流れ続けている。滴る血液を眺めながら体の疼きを抑えようとしていると、刺し痕周辺から紫色の模様が浮かび上がるのが見えた。まるで刺青のように右腕を彩り、完全な模様として皮膚に沈着しているようだ。私は刺青などという趣味はこれっぽっちも無いが男心をくすぐるというかなんというか、一瞬、一瞬だけだがかっこいいと思ってしまった。一見すると蜘蛛のような形状にも見える。
「それこそが契約と下僕の証。破ること許されず従うことを誓った紋章に他ならない。互いの血を交わしたことにより契約は同意とみなされたのだ。これよりお前は我輩の所有物、なかなか様になっているぞ」
「待て。下僕だと……一言も聞いてない」
「無論、言ってないが。おやおや、これすら承知の上だと思ってあえて説明しなかったのだが脳まで蚤レベルのお前にはいささか説明不足だったかな?クククッ」
悪魔だ。悪魔がここにいる。いや、魔物だったか……
その小柄で可憐な見た目とは裏腹に性根は暗黒の限りを尽くした深淵を感じさせる。一度浸かってしまえばどんなにもがこうとも決して這い上がってこれぬほど深い闇がそこにあった。
「我輩が強制的に念ずればお前は必ず実行しなければならない。そういう呪いだ」
「もう呪いって言っているじゃないか……」
「細かいことを気にするようではまだ青い青い。それに例え呪いだろうが契約だろうがお前の立場はどうあがいても変わらんことぐらい、お前自身が一番理解しているだろ」
半ば自暴自棄での契約ではあったが、彼女の言っていることは的を射ていた。ここでは私はただのちっぽけな人間ただ一人なのだ。たとえ記憶が無くなる以前、どれほど地位があろうが血統があろうが私はこの魔物前ではただ一人の人間でしかない。私は生きるためならどのような苦難をも乗り越えてみせよう。
「我輩が手記を復元する契約は本当だ、信じるがいい。ただしお前も……忘れるなよ」
「勿論わかっている」
「その紋章は猛毒の塊でもある。無理に消そうとしたり契約破棄をすれば腕が溶け落ちるぞ。お前のような下僕にはふさわしい躾だ」
まただ。またあの顔だ。ニヤニヤと笑い私を蔑んでいるかのような、見下しているかのような笑みをしている。彼女の顔や仕草を見ていると……疼いて疼いてとてもじゃないが平常心を保てなくなりそうになる。体中の血液が暴れている。一か所に集まってくる。欲望が募ってくる。これはいけない。このままでは彼女の言いなりになってしまう。
「我輩の唾液はどうだった? 美味だろう、甘美だろう、極上だろう。つまりは最高だろう」
「ああ……最低の気分だ。頭が痛いし体が熱いし…………う、ぐっ……」
動悸が激しくなる。身体が熱くなる。欲が生まれてくる。とても腹立たしく苛立ちの方が大きいのに、私の体は相反する反応をし始めていた。
「そうかそうか、疼いてくるか。今、何がしたい?お前の頭の中で何が渦巻いている。口に出してみろ。ほら、ほらほらほら」
耳元で語り掛ける彼女の吐息交じりの声は私の脳を揺さぶりかける。甘く蕩け路るような小生意気な声、狂おしいほどに嗜虐的なトーンで私の理性を引きはがしてくる。
これが……魔物。
教団が彼女らの存在を悪と断定するのも理解できる。ヒトのカタチを成していながらヒトと全く異なる彼女らは異端と呼ぶにふさわしい。
「く、ふぅ……お前は一体……私をどうしたいのだ……下僕など冗談きつい」
「我輩はお前の魔力が欲しいのだよ。下僕の呪いは効率よく魔力を回収できる過程でしかない」
「魔力、だと……」
「我輩は手記を復元する術(すべ)を持っているが、そんなことのために我輩自身の魔力を浪費させるなどそれこそドブに捨てるのと同義というものだ。契約を結んだとはいえそれだけは譲れん」
「…………」
「お前が手記を復元したいのなら、まずお前が魔力を我輩に寄越せ。お前が供給した魔力の量によってそれ相応の復元をしてやろうと言っているのだ。理解したか?」
「魔力を供給……ということは、まさか――」
これから起こるであろう出来事を想起し、胸の内が更に熱発する。
「そろそろ全身に毒が回ってきた頃合いだろう。我輩の毒は我輩自身すら蝕むほど厄介なものでなあ。真、この肉体にはうんざりしているものよ」
「う、ぐぅ……」
血管の中に熱湯を流し込まれたかのような苦痛。ドクリ、ドクリと鼓動を打つたびに熱が広がってゆくのがわかる。それに比例するかのように私の中で黒い感情が生まれ、この感情を外に出さぬよう堪えていた。
「無駄なことを。我らが種族の毒に人間が耐えるのは不可能だというのに」
四肢を糸で拘束され身動きの取れぬ私の身体を彼女は執拗に擦っている。すらりと伸びた指先にしっとりとした湿り気を潤わせ弄んでいる姿は、卓越した娼婦のそれを感じさせた。仕草の一つ一つが男の劣情を滾らせる淫靡さがあり、たとえ少女の姿をしていたとしても本物の気迫が感じられる。
「毒を耐えることも体を動かすことも全ては意味なきこと。お前は我輩に従っていればそれだけでいいのだ……はぁ、ふ」
彼女は耳元でこう呟くと私の耳を噛み、舐めてきた。耳の溝を余すところなく唾液で覆い尽くし、あろうことか耳の中まで舐め尽しそうになるほどの味わいっぷりだ。気が狂いそうになる。もしかしたらもう狂い始めているのかもしれない。
「あ、くぅ……クソッ…………」
今の私はなんと情けない姿だろうか。たとえ相手が少女の姿をした強大な魔物だとしても、だ。一方的に罵られ蔑まれ、反論もできず戦うこともできず言い様にされているだけではないか。これが記憶を失くした惨めな男の末路でいいのか。
……違うに決まっている。再三のことだが、私にはまだやるべきことが残されているのだ。それの実現のためにはこんなところで油を売っている暇ではない。
仮に私の肉体の損傷が少なく、四肢が拘束されていなければこんな少女など腕ひとつで組み伏してやったところだ。そしてこの身を蝕む疼きを小さな肢体に全力でぶちかましているだろう。生意気で横暴な少女に対して罪悪感も背徳感も抱かずに己が欲望を放出していただろう。だいたいなんだその恰好は肌の露出が多すぎるじゃないか。誘っているようにしか見えないし素肌に密着した素材が艶めかしすぎてとてもじゃないが――
「なんだその目は」
「…………ハッ!!」
私は今何を考えていた?目の前の彼女に対して下賤極まりないことを思い描いていた……?
そんなことあっていいはずがない。いくら相手が魔物と言えど年端もいかぬ少女の肉体に劣情を覚えてしまっては人としての尊厳が失われかねない。なぜ私はあのようなことを……
「う、ぐ、ぁぁ……」
だめだ、彼女の姿が視界に映るたびに腕が、全身が疼く。蜘蛛の紋章が脈動し右腕の中で暴レテイル。熱い、熱い、あつい、アツイ。
「我輩の身体を舐め回すように視て……まさか、まさかとは言わんが」
――やめろ。
「興奮しているのではないかぁ?ククク」
――やめてくれ。
「我輩のような幼子の外見に対して?」
――やめ。
「物好きな変態め」
「違う……違う!! 私は決してそのような……フゥーっ……やめ、クソっ、ちが、ああ、いったいどうしたというんだ……」
「あまり狂気に飲まれるなよ、それではお前はお前でなくなってしまう。お前のありのままを見せろ、真の欲望の中にこそ良質の精が宿るのだから」
唾液で湿った耳の側で、吐息混じりの声が聞こえる。その声は脳に直接突き刺さり、ゾクゾクと私の全身を震えさせるのだ。もはや私の全身は毒に浸された。
「変態。変態。変態変態変態変態変態変態変態。少女の姿に興奮する変態」
彼女の言葉は呪言に聴こえ、あらゆる仕草は己を誘惑せしめんとする蠱惑さに視える。
「へんたい」
禁忌たる邪な感情が私を支配しそうになる。歯を食いしばり欲望に耐えようとするが食いしばりすぎて歯茎から出血し始める始末。
「へ・ん・た・い・♥」
――プツッ
口元に流れる血液を彼女が舌ですくい舐めたところで、私の中の線は切れた。へんたいという四文字が頭の中で反響、トリップし駆け巡るとまるで私は最初からそうであったかのような気がし始めたのだ。彼女の毒がそうさせたのか、私は初めからそうであったのか真偽のほどは定かではない。
ただ一つ言えることと言えば、私は目の前の少女に対して劣情を抱いているということだった。
「んん?おや、おやおやおやぁ、なぜお前は魔羅を勃たせているのかな?我輩はまだお前の耳をちょっとばかし舐めただけじゃないか」
さも知らないふりをして首をかしげる彼女。彼女は遊んでいるのだ。新しく手に入れた玩具を壊してしまわないように、壊れるぎりぎりの限界で遊んでいるのだ。
「…………」
「無言それ即ち図星とみなす。そうか、それではお前は少女に劣情を抱き、変態と呼ばれると興奮する糞のような男ということになるぞ。いいのか?ん?ん〜?」
魔物の唾液と魔力を直接注入させられ、呪いをかけられ、至近距離で魅了され続けている。こんな状況が数分も続けばどうなるかなんてわかりきっていたことだった。糞と呼ばれようがそんなのはもうどうでもいい。私は早くこの欲情を発散したかったのだ。どのような形でもいい、溜まりに溜まったモノを放出したい。したすぎてタマラナイ。
これが魔に魅せられた者の末路だと考えると、可哀想だとか哀れなど言う者がいるかもしれない。しかし実際に体験するとただの人間にこれを耐える手段はなく、身をもって知った私なのであった。
「お前は小石でも蚤でもなく糞だな。糞男だ。糞の様に下卑で意地汚い、便所の隅にこびり付いているようなカスだ。そのような糞に我輩自ら慰めをしてやろうというのだから感謝しろ」
「無機物に戻らなかっただけマシか……」
「糞で喜ぶ人間とはまた滑稽極まりない。糞は糞らしく掃除されるといい」
彼女はそういうと私のボロボロになった衣服を引き裂き全裸にさせた。眼前に剛直したペニスが一本目に見えるような形となると、私の股を広げその間にちょこんと座りまじまじと見つめている。
「おぉ、これが本物の魔羅か。なんと芳醇な香り、いや糞のようなニオイだ。ああ、まるで汚物、吐き気を催す」
「……もしかして男性器を見るのは初めてなのか」
「当たり前だ。父上の魔羅は常に母上の胎内に挿入されていたのでな。実物を見るのは初めてだ」
「随分お盛んな親だったようだな……」
私の男性器を前後左右ぐるりと観察し、時折臭いを嗅いでは吐息を漏らしている彼女。悪態こそつけど、こうして男性器に直面すると興味津々、というか今にも咥えそうなところを見るとやはり魔物の根底は共通しているのだなと実感する。
そして私もまた彼女の小さな口がいつ先端に触れるか期待している自分がいた。
「母はよく父の魔羅を咥えていた。それはそれは美味しそうにしゃぶり啜っていてな、実に美味しそうであった。特に教わってはいないが、我輩もこの血が、体が、本能がやり方を知っている」
鳥が飛び方を知っているように、魚が泳ぎ方を知っているように、魔物もまた産まれた時から知っているのだ。精を取り入れるということは生きることに直結するため、効率よく精を搾取できる方法を種として記憶しているのだろう。
「では、馳走になる」
じゅるっ
「ッアが!!」
彼女の舌が私の亀頭に触れた瞬間、粘膜を通して言葉にならない感触が脳髄を焼き焦がした。魔力の奔流が先端から吹き荒れる。快楽の圧政だ。
舌、頬、咽頭、それら全てに超濃度の魔力が込められており、私の男性器にすべて注がれている。下手をすれば魔力許容量をオーバーして男性器が破裂してしまわないほどの魔力量だった。だがそうならないのは彼女の人知ならざる卓越した魔力コントロールのなせる技があってこそなのだろう。膨大な量の魔力をまるで呼吸するかの如く操り私の男性器にそれら全てを受け流している。
じゅる、じゅるっ
にゅぷ
「んむ、ぷぁ、どうだ。不慣れであるが我輩の口淫は気持ちよかろう」
「ア、アア、これは、きも」
これは気持ちいいなんて次元ではない。
下半身が溶けてなくなってしまいかねないほどの快楽が私を覆い尽くしていた。今までこの快楽を知らないで過ごしてきたことを後悔してしまうほど、圧倒的な破壊力。
腰が砕けるそうになるとかそんな生易しいものではない。これは腰が消失すると言った方が良い。
じゅる、じゅるる
しゃぐっ――
「ッッッ!!!!」
「クク、お前は我輩の下僕にして玩具。我輩が玩具に対してどのような扱いをしようとも我輩の勝手だろう」
甘噛みしているのか、それすらもわからなくなってきた。
彼女が私のペニスを噛んでいるという感触はわからないが、先ほどよりも気持ちいということだけがわかる。だからおそらくそういうことなのだろう。
ああ、もしかして彼女はグールなのか?グールの口淫術はものすごいと聞くし……いやでもそうすると背後の鉤爪は証明のしようがなくなってしまう。ああ、もう、きもちいい、それでだけでいいじゃないか……
「魔羅が青筋立てて暴れているぞ。よほど我輩の牙が気持ちよかったとみえる。お前、まさか被虐性欲者なのか?我輩にいくら嬲られ罵られようとそれすら快楽なのか。ククク、反吐が出る。心底気持ち悪い。不快極まりない」
「そう、いう、わけじゃ……」
「不快で不潔なものは掃除しなければなぁ。我輩の唾液と魔力でたっぷりと洗浄されるといい。ぁむ、じゅる、んむ、じゅるぅ」
「あ、ぐ、そ、そこ、うくっ、ぐぅぅ!!」
亀頭を舐め、竿をしごき、玉を揉み、ありとあらゆる快感のポイントを責める彼女。これが初めてと言っていたがどう考えても初めてのテクニックではなかった。恐るべきは魔物の本能ということか。
ペニスに直接注入された魔力は海綿に染み渡り、前立腺に滞り、精巣へ沈着する。身体の内側から細胞を書き換えられているかのような言いようのない悪寒と性感が私を包み込んでいた。とてつもない速度で精子と精漿が産生、分泌されているのがわかる。私の身体に流れる毒と魔力が働きかけているのは明白であった。
「ん、じゅる、んくっ、ちゅ……」
やや頬を染めながら意地の悪そうにペニスを舐めるその顔を見るたび、私の中でこみ上げるものがある。ものの数分と経過していないのにも関わらず陰嚢は上へと迫り上がり放出の予感を感じさせた。
「もう……これ以上は、くっ……」
「ふぁクク、いいぞ、出してしまえ。んっ、にゅぷ、少女の身体に欲情してしまったと認めることになるが」
「ぅ、あぐっ……」
咽頭の奥まで一気に咥え、直後に引きずり出し亀頭を舐め回す。娼婦顔負けの口技を毒の魔力と共に直撃され我慢できるわけがなかった。しかも彼女の尖った歯が時折ペニスを刺激しアクセントを加えるものだから尚更だ。
「で、出っ……ああっ!!」
私は無意識に彼女の喉奥までペニスを打ち付け、そして放出した。
ドクンッ、ドクンッ……止めどなく、永久かと思われる時間。自ら慰めて射精するよりもはるかに長い時間、私のペニスは脈動を続けていた。
「んっ、んくっ、こく、こくっ……ごくん」
射精というものはせいぜい10秒ほどの射出で大半の量を出し終える。しかし今私はもう1分、2分と射精し続けていた。射精時の瞬間の快感が一瞬で終わることなく放出され続けている。脳髄が擦り切れそうだ。
「ぷぁ」
体感数時間は感じられたが実際のところ約3分が経過しようとしたところでようやく射精が終わり、彼女はペニスを口から引き離した。その大半は彼女の食道に直接注がれたが、多少口内に残っている精液を堪能するかのように咀嚼している。ねちゃ、にちゃとまるで私に聞かせるようにわざとらしく音を立てて音と味を楽しんでいるようにも見えた。白く粘つく液体をピンク色の舌がかき乱している様は見るだけまた勃起しかねない毒気を孕んでいる。
「ふむ……ふむふむふむ!! これが精の味か。正直ただ生殖の為だけにあるものだと思っていたが……これはなかなか、いやとても美味だ。人間の雄のクセにここまで美味なものを生産できるとは思ってもみなかった」
「はぁ……はぁ…………うぐっ」
あまりの快感に脳がショート寸前のところまでいってしまったがどうにか気絶は免れた。一生分の精液を出してしまったかと思うぐらいだ。
魔物の魔力を直に受け、尚且つ体内に毒を差し込まれてしまったが故のことだろう。理解はしつつも想像を絶する快感に未だ現実味がない。
「糞にしてはそれなりに利用できる糞だな。契約完遂の為せいぜい努力するといい」
「それは、願っても、ない……」
私はとんでもない者と契約してしまったのではないか。快感の余韻に浸りおぼろげな思考の中で彼女を見た。暗闇の中で一際輝く真紅の瞳が私を見返している。恐ろしく傲慢で、そして儚げな赤だった。
18/04/19 22:55更新 / ゆず胡椒
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