連載小説
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暗蟲模索
『勇者の定義とは何なのだろうか。人並み外れた戦闘力?主神から授かった天性の力?あるいは聖なる祝福?それを明かさぬ限り我々人間は魔物に打ち勝つことはできないだろう。我々がまずすべきことは魔物の討伐、駆逐ではなく勇者の解明なのだ。自らの戦力を認識しない事には最適な対処をすることができないのだから』
『この世には”持つ者”と呼ばれる運命論において絶対的優位を得られる者がいる。生まれながらにして魔導の素質があったり、王家の血筋を引いていたり、異常なまでに幸運な人生を歩んだり……そういう人間がごく稀に産まれることがある。勇者という運命もまたその一例であることは明確だ。この世は運命によって左右されている。努力や信念ではどうしようもならない深い溝が存在している。我々人間は運命という残酷かつ冷酷な羅針盤から逃れることはできないのだろうか』
『魔物は所謂絶対悪として人々に提唱されている。そして魔物を見たことがない人物はその教育を鵜呑みにし、悪とみなしている。私はそのような世論を賛同するつもりはないし、かと言って反対するわけでもない。もちろん中立を貫いているというわけでもない』

「どうだ、何か手掛かりは書いてあったか」

 一部分だけ復元してもらった手記を読んでいると、私の右肩の背後からぬるりと彼女が寄ってくる。右肩に顎を乗せ、流し目で手記を眺めているようであった。右側から熟れた果実のような甘い香りが鼻を刺激する。彼女という存在はそれだけで毒のようだ。

「……残念ながらこれといって。だがわかったこともある」
「答えろ」
「私はどうやら自論……というか何かしらの革新、野望があったのは確かだろう。記述の随所にそれらしい事が書かれている」
「それはもうわかっている。その内容はどうだと聞いているのだ」
「妙なことにそれだけが抜けているのだ。こんなに勿体ぶって書かないには何か理由があったのだろうか……」
「結局わからずじまいか。お、それともアレか、また我輩に精を献上したいとでも? 精の量だけ復元してやるぞ? ん?」
「か、勘弁してくれ……今日はもう出そうにない……」
「ククク、冗談。我輩とて即席された精液など飲みたくないからな。一日、二日熟成された精液の方が味も質も勝るものよ」

 じゅるりと彼女の舌が音を鳴らす。その音を聞いただけで条件反射のように勃起しそうになったが、悟られないようさりげなく隠すのであった。

「お前が魔に染まり果てるか、記憶が戻るか、どちらが早いだろうなぁククク」
「できれば後者でありたいものだが」
「せいぜい足掻くといい。さて、読書の時間はそこまでにしてとりあえず腹でもこなせ。それに今後のことも話さなければならないだろう」

 彼女はそう言うと、いつの間に準備していたかいざ知らず洞窟の奥、糸が複雑に絡まっている場所から大きな物体を手繰り寄せた。その物体が彼女の手に渡り、私はそれが何かをはっきりと認識することとなる。

「猪……?」
「肥沃な密林に生息する魔猪だ。時には人や魔物すら襲い危害を加えることもある小生意気なヤツよ」
「……小生意気さで言ったらそちらの方が余程……」
「糞のくせに言うではないか。だが訂正だ、我輩は小生意気ではなく大生意気である」

 ふんぞり返り自信ありげに言うことではないだろう。私はそう思いながら、しかし大生意気であることは認めつつ猪に視線を移す。

「我輩が生意気であるかどうかというのは後にして。とにかく食え。食って、腹を満たし、休め。活力と精力ぐらいは戻るだろう」
「何から何まで本当にすまない。私はただの侵入者だというのに」
「先ほどまではな。今は我輩の契約者であり下僕であり餌だ。蓄え、そして精をつけろ」

 彼女はそう言うと、猪の身体を引きちぎりその半分を私に放り投げた。まるで今の今まで生きていたかのような瑞々しさ……というより鮮血が噴き出している。

「保存していたものにしてはやけに鮮度が良いようだが、そういった類の魔法でも?」
「何を言う、正真正銘獲れたての魔猪だぞ」
「……驚いた。まさか地下深くにも猪が生息しているとは」
「阿呆が。地上に張り巡らしている罠から引きずり出してきたまでよ。我輩はここから出ることができないと先ほど言ったばかりではないかまったく」
「なるほ……いやしかし、だとしたらどうやって地上に罠を仕掛けたのだ?」
「我輩はここから出ることができない。だが、我輩から切り離された糸単体であれば話は別だ。程よい長さに整えた糸を切り離し地上まで自走させ罠として組み合わせる。造作もない」

 なるほどそういうことか、私はひとり頷いた。地下深くに封印されている身でありながらも、特に不自由なく過ごせているわけにはそういった理由があったようだ。
彼女は自慢げに語りながら半分になった猪に齧り付いていた。先ほどまで生きていた新鮮な猪、ということはつまり血抜きすらしていない完全なナマモノであり、臓腑や筋肉にいたる全ての部位を食している。顔面は鮮血に染まりその姿は真紅の瞳と差異がないくらいだ。

「もう食べ慣れた味ではあるがそれなりに美味だぞ。鮮度が落ちんうちに食べろ」
「ありがたい。それでは――」

 大きく口を開け、一口齧り付こうとしたその間際、私は硬直する。

「いや、ちょっと待て、これ生肉じゃないか。これでは食すことなどできやしない」

 生暖かい毛と肉と内臓の塊を目の前にして至極真っ当な疑問をこぼす。確かに獲れたて新鮮の肉ではあるものの火を通していない生肉など食えたものではない。良くて腹痛、嘔吐下痢、悪くて寄生虫、最悪死に至るというのは少し考えればわかることだ。見知らぬ土地の見知らぬ野生動物の生肉をそのまま食すという暴挙を犯すほど私は愚かではない。

「あ? 我輩の施しを受け入れられんとでも?」
「いや、そういうわけではなくて生肉のままでは食べられなくてだな……」
「生で食べてこそ食材の味をそのまま損ねることなく食せるというのに。全くこれだから人間というものは脆弱だ。畜生よりも劣るではないか」
「食えなくはないが……その代わりこの巣が糞尿吐瀉物まみれになるがそれでも良いというのなら」
「おお、ついに自らを汚物と認めたか。それ自体は面白いがその光景は聊か耐え難くもある。仕方ない、火を起こしてやるから少し待て」

 不本意ではあるものの火を起こしてもらえるようだ。彼女は複雑に絡まり合う糸を遠隔操作しながら地上から薪になりそうな枝をかき集めていた。洞窟の壁の至る所に小さな穴が開いており、その穴ひとつひとつに糸が入り地上へと行き来している。この穴をたどればいずれは地上にたどり着けるのではないかとも思ったが残念ながら私が通れそうな穴は一つとしてなかった。

「ふむ、こんなところでいいだろう」


 パチンッ――


 彼女はかき集められた木材に指を鳴らす。そうすると火種すらなかった場所からぼうぼうと炎が宿りあっという間に焚き火が出来上がった。唯一異なる点と言えばその炎の色が橙色ではなく真っ黒というとこだけだ。

「これで何も文句はあるまい。思う存分肉を焼け」
「恩に着る。若干私の知る炎とは違うような気がするが……そこはあまり気にしないでおこう」
「我輩から言わせればお前たちが使う炎は不便利極まりない。これは【我々】のみが使える“蔭(かげ)り焔(び)”という。術者が燃やしたいと思ったものだけを選択して燃やすことができるものだ」

 火の色だけが異なり、燃焼の仕方は本来の焚き火と全く変わりない。私は余った木材から手頃な大きさの枝を取り、肉を刺し火の側に立てかけておいた。私と彼女は火を間に挟むようにして向かい合わせに座っている。

「懐かしいな。最後に火を起こしてどれくらいだったか……数年、数十年、いや数百年だったかもしれん」
「覚えていないのか」
「初めの頃は数えていたがいつしかそれすらも忘れてしまった」

彼女も私を真似するかのように肉を突き刺し焼き始める。

「生が美味しいのではなかったのか」
「久しぶりに焼いた肉を食したくなった。お前のせいだぞ」
「それはすまな……すみませんでした」

 体裁だけ謝っておき、私は炎に包まれる肉を見つめていた。焚き火の向かい側では深紅の瞳が相も変わらず揺れている。一瞬視線が合うと、底知れぬ深さと赤さに吸い付かれそうになり無意識のうちに身を乗り出し焚き火の中に突っ込みそうになる私がいる。彼女をただの魔物というにはあまりにも横暴と言えるほど異質、怪異、不可思議であった。私の記憶が戻ったならば彼女の種族も判明するのだろうか、それとも――

「二五〇年」
「?」

 ぽつり、と彼女は独りでに語り始める。風の音も草木の揺れる音もせず、焚き火と彼女の呼吸だけが聞こえる。

「我輩が最後に目の当たりにした人間は二五〇年前だった。その前は七四〇年前、さらにその前は一六九〇年前……迷い人であったりお前のように何かしらの事情を抱えた人間だったのだろう」
「だったのだろう? 直接聞いたのではないのか」
「どいつもこいつも臆病者だった。我輩の姿を見るなり、発狂して自ら大穴に飛び込んでいったわ。詰まらぬ、実に詰まらぬ者どもであった」

 自慢げに鼻息を鳴らし語る彼女。しかし私には焚き火に照らされていない彼女の陰に虚無とも怒りとも違う気配を感じさせた。今の私には彼女の真意を量り知ることなどできない。そもそも私自身という存在すらわかっていないのだから。
 それでもひとつわかったことがある。それは。彼女は私の想像している以上の長い時を生きている、ということだった。途方もなく長い時間をこの狭き洞窟でたった一人生きながらえるという生き地獄。並みの精神ならばとうの昔に崩壊していてもおかしくはないだろう。一体彼女の何がここまで正常に保つように維持しているのだろうか。人ならざるものだとしても理解の範疇を超えている。今の私には理解できない。


  ◇


「そろそろ、いい具合だろうか」

 私は串を取り出し黄金色に焼けた肉を眼前に持っていく。肉だけが香ばしく焼け、串は生木のまま変わらないところを見るに彼女の魔法は本物なのだろうと実感する。外側から内側まで均一に火が通っているところを確認すると私は一口頬張りついた。

「…………!!!!」

 焚き火の向こうで深紅の瞳がニヤリと笑う。

「旨い!!こんな旨い肉は初めてだ……筋肉と脂が喧嘩することなく最高の比率で存在している。一口一口咀嚼する度に溢れ出る肉汁は決して脂っぽくなく、心地よい神秘の泉のようだ。皮はカリカリに焼け、焦げ目とコラーゲン質が融合、全く新しい食感として転生している。そしてさらに……ハッ!!」
「無意識のうちに感想を語りたくなるほどの味だろう。我輩もかつてはそうだった」

 彼女もまた焼けた肉を頬張り舌鼓を打っている。

「さて本題としよう。お前はここで手記の修復を待つ。我輩はお前から精を搾り取る。ここまでは先ほど話した通りだ」
「あ、ああ……」

 搾り取る、という単語に嘘偽りはないのは理解している。理解しているのだがやはりまだ現実として認識したくはないというのも事実である。冷静に考えてみろ。この、蠱惑と官能と危うさを秘めた少女から搾り取られるという行為、背徳的でなくしてなんといえよう。信仰深い主神信者ならば即極刑間違いなしだ。それほどまでに少女との淫行は禁忌であるのだ。それを目の前の魔物は事あるごとに迫り行おうとする。

「その間、お前は何をする。何もせずただ待ち呆けているか?我輩の下僕として責務を全うするか?」
「そう、だな。私は……」

 私は何を成そうとしていたか。それさえ思い出せればよかった。だがそれではあまりにも無鉄砲というものだ。なんらかの理由で命を狙われていたということは、仮に記憶が戻ったとしてもこのまま無事生きながらえることは難しいだろう。

「私は無知だ。自分の置かれた状況でさえ完全に理解しているとは言い難い」
「で、どうする」
「……情報を集めようかと思う」

 静かに燃えていた焚き火が少し勢いを増しパチパチを音を立てる。私の言葉を聞きながら彼女は鉤爪を揺らし肉をもう一口食べたところでこう言った。

「賢明かつ合理的、糞にしては上出来な答えではないか。だが悲しきかな此処ではお前の知り得たい情報は得られんぞ? 深淵に最も近きこの穴では」
「私はここで情報収集をしようとは一言も言っていない」

 彼女の鉤爪が更に揺れる。私の言わんとしていることを察したのか、その顔つきは私を見下している傲慢なものでありながら期待を寄せているかのようにも見えた。

「ク…クククッ!! なるほどそういうことか。それは良い、実に良い。実に面白く心躍る案ではないか。永き時をこの洞窟で過ごした我輩には思いつかんだろうよ。外から来たお前だからこそその答えが出せるというもの」

 深紅の瞳を爛々と煌めかし、焚き火の炎などものともせず食い入るように身を乗り出す彼女。その身体に黒き炎に纏わせながら、彼女は立ち上がり私へ指を指す。

「お前の意図は理解した。ならば我輩からもひとつ命令を下そう。なあについでだ、ついで」
「拒否権は」
「逆に問おう。下僕に拒否権があると思うか?」

 YESとOKしか選択肢がないのは選択肢とは言わない。そう訴えようとしたものの恐らくは無駄だと悟り口をつぐんだ。

「……了解。で、そのついでというのは一体――――」

 それから私は一夜中(実際には昼か夜かすらわからないのだが)彼女と語らった。正直なところ、彼女に付与された呪いが常に疼き魂の底から焼き焦がされそうなほど色欲に苛まれているのだが私はすんでのところで持ちこたえていた。そうさせているのは何より私の記憶を取り戻したいという確固たる信念があるためである。彼女は私の命の恩人ではあるがそれはそれ、私は彼女の下僕のまま生涯を終えるつもりなど毛頭ないのである。
 屈してはならない。心を折られてはならない。希望を忘れることなかれ。私は心にそう念じ、この目の前の奈落の怪物と答弁を繰り返していた。
18/04/16 23:53更新 / ゆず胡椒
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