One day ―― the age of 10
朝。今日も彼女は隣家の玄関を叩く。
彼と並んで学校に行くために。
「はいはーい」
陽気な声と共に扉が開き、その家の母、クチナが出て来る。
年齢は既に(ピー)歳のはずだが、その振る舞いは今日も少女のよう。
「おはようございます」
「おはよう、エジェレちゃん♪」
エジェレが頭を下げて挨拶をすれば、クチナはその下がった頭を撫でた。
ツヤのある黒髪を、クチナの指はまったくひっかかることなく滑る。
「ん、今日もナイス毛並み♪」
「ありがとうございます」
「にしてもエジェレちゃんは早起きねー、レイスも見習わないとダメよー?」
クチナが後ろを振り返り、家の中に向かって言う。
すると、奥からレイスが目を擦りつつ現れた。
「……俺だって、最近は早く起きてるだろ」
10歳になった今でも、彼にこれといった特徴はない。
勉強や家の手伝いもそこそこに遊び回る、どこにでもいる平凡な少年だ。
ただまあ、どこに行くにもたいていエジェレが着いてくるが。
「おはよう、レイス」
「んー」
「今日もいい天気だな付き合ってくれ」
がばっ。
ひょいっ。
スカッ。
「じゃ、行ってくる」
抱き着こうとしてレイスに飛び掛かったエジェレ。
だが、彼は慣れた様子でそれをかわし、何もなかったかのように歩きだした。
「ちょっとレイス、少しは反応してあげなさい。エジェレちゃんがかわいそうじゃないの。……私もつまんないし(ボソッ」
そんな息子の背中に向かってクチナが言うが、レイスは無視。
さらに何か言おうとする彼女を止めたのは、エジェレだった。
「いいんです」
「でも……」
「父様が言っていました。今くらいの年齢は、異性を意識し始める頃だと。だから、レイスが私を避けるのは、きっと私を意識しているからなんです」
きっぱりと言い切るエジェレの目には、疑いの色など一片もない。
そんなエジェレの様子に、クチナは目をぱちくり。
しかし、すぐに楽しそうな、それでいてどこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
遠ざかる息子の背中を見ながら、その成長を実感するように呟く。
「あの子も男の子だし……恥ずかしいのね、結局」
「レイスも男である以上、いずれは性の目覚めが来るのです。私はその時に……その……えっと……つまり、ですね……」
エジェレはうっすらと頬を染め、もじもじと俯いた。
「そうね、あの子のこと頼むわね」
ポンポンと彼女の頭をたたくクチナの表情は笑顔。
ただし、それはさっきの母としての笑みではなく、口は実に悪そうな三日月。
新世界の神さえ裸足で逃げ出しそうな、悪魔の笑みだった。
「は、はいっ! では、私も行ってきます!」
「はーい、いってらっしゃい」
しかしエジェレが顔を上げた瞬間、そこにあったのはいつもの楽しそうな笑顔だった。
……女って怖いね?
※※
「午前の授業はここまで。じゃ、昼休みにしなさーい」
ダッ!
ラミアの教師が授業終了を宣言した瞬間、レイスは教室を飛び出す。
いつものことなので、もはや誰も気にしない。
廊下を駆け抜け、階段を跳ねるように上がり、屋上へのドアに手を伸ばし――
がしっ。
ドアへ伸ばしたのとは逆の手が、モフモフした何かに掴まれる。
はあ、とため息をついてレイスが後ろを振り返れば。
「レイス、捜したぞ。君と私が別のクラスだなんて、学校は地獄のようだな。今日は君の好きなハンバーグがメインだ。今日こそ『あ〜ん』をしようじゃないか」
二人分の弁当を手にしたエジェレがいた。
「あ〜〜〜〜〜〜〜ん」
「いや、ムリ」
「あ〜〜〜〜〜〜〜ん、だ。ほら」
「やめろ」
レイスは目の前に突き出されるハンバーグを無視し、自分の分の弁当を口へ運ぶ。
1回生。10歳あるいは11歳。思春期の入口にあたるその年齢。
誰と誰が付き合ってるだの、誰が誰とキスしただの、そういったことが最もネタになる時期。
誰でも、異性との付き合いには慎重になる。
……というのは、所詮どこかの渇いた世界の話。
ここがどこかって?
昼休みの、少年棟(1〜3回生)の、屋上です。ただし、図鑑世界のッ!!
周囲に目をやれば、『あ〜ん』どころか口移しをしているカップルまでいる。
耳を澄ませば、青年棟(4〜7回生)から『食事』の声が聞こえてくるだろう。
「あ〜〜〜〜〜〜〜……」
「さっさと食えよ」
「むう……」
結局、今日もレイスが『あ〜ん』に応じることはないのだった。
※※
「あ、エジェレちゃん。レイスどこ行ったか知らない?」
夕方、お使いから帰ってきたエジェレを迎えたのは、隣の家の前でキョロキョロするクチナだった。
「いえ、わかりませんが……どうかしたんですか?」
「まだ帰って来てないのよ。もうすぐ夕飯なのにねぇ」
クチナは頬に手をあて、困ったわ〜、と嘆息一つ。
「……わかりました。私が捜してきましょう」
「あらそう?」
「任せて下さい、クチナさん」
「やだもう、お義母さんでいいのよ♪」
「そ、それは……その、まだ……と、言うか……で、ではっ!」
目をあちこちに泳がせつつ、エジェレは一度家へ入っていく。
クチナの耳には、中でのやり取りが聞こえるようだった。
(母様、レイスがまだ帰らないそうです)
(門限の鐘はもう鳴ったというのに……レイス君は何をしているのやら)
(捜してきます)
(門限は守るために……え?)
(行ってきます)
(ちょっ、エジェレ、待っ)
クチナの想像そのままのタイミングで、エジェレが玄関から姿を現す。
その後ろを追うようにシベルが出て来るが、もう止まらない止められない。
「ちょっと待て、エジェ……」
「では、行ってきます」
「よろしくね♪」
クチナはパタパタと手を振る。
エジェレは一度頷くと、ウルフ種の身体能力を全開にして駆け出していった。
公園。
もう日も沈もうかという時間、レイスはそこにいた。
何か理由があるわけでもないが、何となく家に帰りたくなかった。
今も、何をするでもなく、ただベンチに座ってぼんやりしている。
視線の先には、誰かが作ったのだろう、大きな砂山があった。
「……?」
何だかわからないが、彼にはそれが妙に気になった。
公園と、砂山。
昔。何か、あったような。そんな気がした。
「やっと見つけたぞ、レイス」
「!?」
背後からの突然の呼びかけに、彼は飛び上がる。
慌てて後ろを見れば、そこにはエジェレが立っていた。
「やべ……」
彼女に背を向けて走り出そうとするが。
「逃がすか!」
魔物、それも身体能力の高いウルフ種の彼女から逃げられるはずもなく、後ろから押さえ込まれる。
俯せに倒れながら、レイスには正面にさっきの砂山が見えた。
(……?)
一層強く、彼は何かひっかかるものを感じた。
「ぐえっ」
しかし、それが何なのかを考える前に、重力に従って地面に叩きつけられる。
「さあ、門限は過ぎているのだ、帰るぞ」
「なんでお前は俺の行く先々に来るかなぁ……」
背中に馬乗りに乗られたまま、レイスはカクンと頭を落とす。
「君の匂いならば、私はどこまでも嗅ぎつけられる。それに、君の管理は妻(読:わたし)の役目だからな。さ、帰ろう」
「………」
背中から下りたエジェレが手を差し延べるが、レイスは無言。
地面に倒れたまま、立ち上がるそぶりを見せない。
そんな彼に、エジェレは大きく息を吐いて。
「……ならば、仕方ない。力ずくだ」
ぐいっ。
「イデデデ! 耳を引っ張んなバカ!」
無理矢理に引き起こされ、引きずられていくレイス。
そんな中でも、彼はまだ砂山のことが気にかかっていた。
公園、砂山、そしてエジェレ。
彼がその意味を思い出すのは、まだ先のお話――。
彼と並んで学校に行くために。
「はいはーい」
陽気な声と共に扉が開き、その家の母、クチナが出て来る。
年齢は既に(ピー)歳のはずだが、その振る舞いは今日も少女のよう。
「おはようございます」
「おはよう、エジェレちゃん♪」
エジェレが頭を下げて挨拶をすれば、クチナはその下がった頭を撫でた。
ツヤのある黒髪を、クチナの指はまったくひっかかることなく滑る。
「ん、今日もナイス毛並み♪」
「ありがとうございます」
「にしてもエジェレちゃんは早起きねー、レイスも見習わないとダメよー?」
クチナが後ろを振り返り、家の中に向かって言う。
すると、奥からレイスが目を擦りつつ現れた。
「……俺だって、最近は早く起きてるだろ」
10歳になった今でも、彼にこれといった特徴はない。
勉強や家の手伝いもそこそこに遊び回る、どこにでもいる平凡な少年だ。
ただまあ、どこに行くにもたいていエジェレが着いてくるが。
「おはよう、レイス」
「んー」
「今日もいい天気だな付き合ってくれ」
がばっ。
ひょいっ。
スカッ。
「じゃ、行ってくる」
抱き着こうとしてレイスに飛び掛かったエジェレ。
だが、彼は慣れた様子でそれをかわし、何もなかったかのように歩きだした。
「ちょっとレイス、少しは反応してあげなさい。エジェレちゃんがかわいそうじゃないの。……私もつまんないし(ボソッ」
そんな息子の背中に向かってクチナが言うが、レイスは無視。
さらに何か言おうとする彼女を止めたのは、エジェレだった。
「いいんです」
「でも……」
「父様が言っていました。今くらいの年齢は、異性を意識し始める頃だと。だから、レイスが私を避けるのは、きっと私を意識しているからなんです」
きっぱりと言い切るエジェレの目には、疑いの色など一片もない。
そんなエジェレの様子に、クチナは目をぱちくり。
しかし、すぐに楽しそうな、それでいてどこか寂しそうな笑顔を浮かべた。
遠ざかる息子の背中を見ながら、その成長を実感するように呟く。
「あの子も男の子だし……恥ずかしいのね、結局」
「レイスも男である以上、いずれは性の目覚めが来るのです。私はその時に……その……えっと……つまり、ですね……」
エジェレはうっすらと頬を染め、もじもじと俯いた。
「そうね、あの子のこと頼むわね」
ポンポンと彼女の頭をたたくクチナの表情は笑顔。
ただし、それはさっきの母としての笑みではなく、口は実に悪そうな三日月。
新世界の神さえ裸足で逃げ出しそうな、悪魔の笑みだった。
「は、はいっ! では、私も行ってきます!」
「はーい、いってらっしゃい」
しかしエジェレが顔を上げた瞬間、そこにあったのはいつもの楽しそうな笑顔だった。
……女って怖いね?
※※
「午前の授業はここまで。じゃ、昼休みにしなさーい」
ダッ!
ラミアの教師が授業終了を宣言した瞬間、レイスは教室を飛び出す。
いつものことなので、もはや誰も気にしない。
廊下を駆け抜け、階段を跳ねるように上がり、屋上へのドアに手を伸ばし――
がしっ。
ドアへ伸ばしたのとは逆の手が、モフモフした何かに掴まれる。
はあ、とため息をついてレイスが後ろを振り返れば。
「レイス、捜したぞ。君と私が別のクラスだなんて、学校は地獄のようだな。今日は君の好きなハンバーグがメインだ。今日こそ『あ〜ん』をしようじゃないか」
二人分の弁当を手にしたエジェレがいた。
「あ〜〜〜〜〜〜〜ん」
「いや、ムリ」
「あ〜〜〜〜〜〜〜ん、だ。ほら」
「やめろ」
レイスは目の前に突き出されるハンバーグを無視し、自分の分の弁当を口へ運ぶ。
1回生。10歳あるいは11歳。思春期の入口にあたるその年齢。
誰と誰が付き合ってるだの、誰が誰とキスしただの、そういったことが最もネタになる時期。
誰でも、異性との付き合いには慎重になる。
……というのは、所詮どこかの渇いた世界の話。
ここがどこかって?
昼休みの、少年棟(1〜3回生)の、屋上です。ただし、図鑑世界のッ!!
周囲に目をやれば、『あ〜ん』どころか口移しをしているカップルまでいる。
耳を澄ませば、青年棟(4〜7回生)から『食事』の声が聞こえてくるだろう。
「あ〜〜〜〜〜〜〜……」
「さっさと食えよ」
「むう……」
結局、今日もレイスが『あ〜ん』に応じることはないのだった。
※※
「あ、エジェレちゃん。レイスどこ行ったか知らない?」
夕方、お使いから帰ってきたエジェレを迎えたのは、隣の家の前でキョロキョロするクチナだった。
「いえ、わかりませんが……どうかしたんですか?」
「まだ帰って来てないのよ。もうすぐ夕飯なのにねぇ」
クチナは頬に手をあて、困ったわ〜、と嘆息一つ。
「……わかりました。私が捜してきましょう」
「あらそう?」
「任せて下さい、クチナさん」
「やだもう、お義母さんでいいのよ♪」
「そ、それは……その、まだ……と、言うか……で、ではっ!」
目をあちこちに泳がせつつ、エジェレは一度家へ入っていく。
クチナの耳には、中でのやり取りが聞こえるようだった。
(母様、レイスがまだ帰らないそうです)
(門限の鐘はもう鳴ったというのに……レイス君は何をしているのやら)
(捜してきます)
(門限は守るために……え?)
(行ってきます)
(ちょっ、エジェレ、待っ)
クチナの想像そのままのタイミングで、エジェレが玄関から姿を現す。
その後ろを追うようにシベルが出て来るが、もう止まらない止められない。
「ちょっと待て、エジェ……」
「では、行ってきます」
「よろしくね♪」
クチナはパタパタと手を振る。
エジェレは一度頷くと、ウルフ種の身体能力を全開にして駆け出していった。
公園。
もう日も沈もうかという時間、レイスはそこにいた。
何か理由があるわけでもないが、何となく家に帰りたくなかった。
今も、何をするでもなく、ただベンチに座ってぼんやりしている。
視線の先には、誰かが作ったのだろう、大きな砂山があった。
「……?」
何だかわからないが、彼にはそれが妙に気になった。
公園と、砂山。
昔。何か、あったような。そんな気がした。
「やっと見つけたぞ、レイス」
「!?」
背後からの突然の呼びかけに、彼は飛び上がる。
慌てて後ろを見れば、そこにはエジェレが立っていた。
「やべ……」
彼女に背を向けて走り出そうとするが。
「逃がすか!」
魔物、それも身体能力の高いウルフ種の彼女から逃げられるはずもなく、後ろから押さえ込まれる。
俯せに倒れながら、レイスには正面にさっきの砂山が見えた。
(……?)
一層強く、彼は何かひっかかるものを感じた。
「ぐえっ」
しかし、それが何なのかを考える前に、重力に従って地面に叩きつけられる。
「さあ、門限は過ぎているのだ、帰るぞ」
「なんでお前は俺の行く先々に来るかなぁ……」
背中に馬乗りに乗られたまま、レイスはカクンと頭を落とす。
「君の匂いならば、私はどこまでも嗅ぎつけられる。それに、君の管理は妻(読:わたし)の役目だからな。さ、帰ろう」
「………」
背中から下りたエジェレが手を差し延べるが、レイスは無言。
地面に倒れたまま、立ち上がるそぶりを見せない。
そんな彼に、エジェレは大きく息を吐いて。
「……ならば、仕方ない。力ずくだ」
ぐいっ。
「イデデデ! 耳を引っ張んなバカ!」
無理矢理に引き起こされ、引きずられていくレイス。
そんな中でも、彼はまだ砂山のことが気にかかっていた。
公園、砂山、そしてエジェレ。
彼がその意味を思い出すのは、まだ先のお話――。
10/11/01 00:47更新 / かめやん
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