想い焦がれて幾星霜
――あれはいつのころだったか。この遊郭に初めて丁稚奉公に来た時だったのは覚えている。
遊郭の主である親父さんに案内されて、一番の女郎に会いに行ったその時だった。
俺は、初めて恋をした。
その人は豪華な和服を着ていて、それだけで相当のくらいの遊女なのだろうと伺うことができた。着物から覗く肌も白く艶やかで、まるで芸術品のようだった。
けれど、俺は彼女の髪に見惚れていた。カラスの濡れ羽のように艶やかで、軽く波打つ様が日光を浴びてキラキラと輝く様はまさしく星空を写し取ったかのようだった。
「あら? 坊。どこから来はったん?」
窓辺に腰掛けてキセルをぷかぷかさせていた彼女は慈母のように穏やかな視線を向け、口元をふっと緩ませた。それだけでまだ幼かった俺は顔を真っ赤にしてしまい、それを見た彼女は微笑ましそうにコロコロと笑った。
「あぁ、マキノ。こいつは今日からここに丁稚奉公に来たんだ。よろしくしてやってくれ」
「あら、そうなん? ウチ、マキノ言うんよ。よろしゅうね?」
その時、彼女が向けてくれた笑顔を忘れることはできない。太陽のように明るくて、けれどどこか陰があるのが不気味で――妖艶で、思わず息を呑むほどだった。
そして、あれから十年以上が経った今も、俺は彼女のことを忘れられずにいる。
ここ、ジパングにある小さな遊郭。そこが俺の働いている場所だ。最初は丁稚としてきていたが、今では親父さんから腕を見込まれて周りからは『若旦那』と呼ばれている。近頃親父さんも体を悪くしてきており、子を持たないため後継には俺が就く予定だ。
我ながら、大出世だと思う。少なくとも、厄介払いされて丁稚奉公に来た時にはこうなるなんて思わなかった。
「……さて、と」
俺は一旦筆を置いて席を立ち、遊郭内を練り歩く。
この遊郭は普通の遊郭ではない。魔物たちだけが集められた特殊な遊郭だ。
一口に魔物といっても色々種類がおり、ここにいるのは人間たちにとても友好的な奴らばかり。ここにいる奴らと十年以上付き合っているが、一度たりとも暴力を振るわれたり嫌がらせを受けたことはないのだ。
「あら、若旦那。またあちらに?」
ふと聞こえた声に立ち止り、後ろを見やる。するとそこには狸の尻尾を生やした女性が立っていた。
彼女の名はカズサ。ウチの遊郭の会計担当だ。
「ほほぅ。若旦那さんはよほどあの方に御執着と見えますなぁ」
カズサは見透かしたように言ってくるが、俺はそれを鼻で笑い、彼女の狸耳をちょいと指で引っ張ってやる。
「あたたたたっ! ご、ごめんよ、若旦那! 全く、あの人の話題になるとすぐムキになるんだから……」
「……もう一度引っ張られたいか?」
「いやいやいや! もう結構! ただ、若旦那。言っちゃ悪いが、あまり肩入れするもんじゃないよ? 遊女なんかにさ」
そんなことわかっている。だが、諦められないんだ。
あの時からずっと――俺の心にはあの人がいるのだから。
カズサはじぃっと俺の目を見据えていたが、やがて呆れたように額に手を置いて『やれやれ』と首を振った。
「まぁ、気持ちは固いみたいですね。まだ部屋にいるみたいですから、行くならどうぞ」
「あぁ……カズサ。ありがとな」
最後に礼を言い、その場を後にする。普段はこちらをばかしておちょくる彼女がキョトンとしているのは少しだけ小気味よかった。
俺は着物の袖に手を通しつつ、ある部屋へと向かう。そこは遊郭の中でも別格のものだけが入れる部屋。そこに、俺の想い人はいる。
二階へ続く階段を上り、廊下をしばらく渡ると彼女の部屋が見えた。そこからは小さな灯りが漏れており、話し声も聞こえてくる。
俺は衣服の乱れを可能な限り直してから、ふすまをトントンと叩いた。
「マキノさん。いますか?」
「おりますえ。入っておくんなんし」
声が返ってくるのとほぼ同時、俺はサッとふすまを開けた。そうして映りこんでくるのは部屋の中央に正座しているマキノさんと彼女に後ろに立つ小柄な銀髪の少女――キキーモラのファナだ。
ファナは数年前異国から来た少女だ。なんでも、船に忍び込んできたらしい。当然いく場もなかったのでここで雇うことになったのだが、その献身的な働きぶりから遊郭内外を問わず人気が高い。
「あ、若旦那様。おはようございます」
ファナは丁寧なお辞儀を返してくる。彼女の銀髪がふわりと揺れ、それはとても幻想的な様相だった。が、俺は彼女に対して穏やかな笑みを返し、その滑らかな銀髪を撫でた。
「あぁ、おはよう。いつもご苦労」
「ほんにようやってくれとるよ、ファナちゃんは。ウチの髪も喜んどる」
「そ、そんな。私はただやるべきことを……」
彼女はとても謙虚だが、誇っていいくらいの働きを見せている。どこぞの刑部狸に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいほどだ。
「で、ファナ。ちょっとお話があるから部屋を出てくれるか? 他の奴らの手伝いに回ってくれ」
「はい。若旦那様。行ってまいります」
トコトコ……と可愛らしく走り去っていく彼女に手を振ってから、同じく微笑んでいるマキノさんに視線を戻す。と、彼女はいつものように穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「で? 今日もあの話?」
「……えぇ。マキノさん。俺と結婚してくれませんか?」
言いつつ、俺は胸元から指輪を取り出してみせる。ファナから聞いたが、異国ではこうやって婚姻を誓うらしい。これまでとは違ったアプローチにマキノさんは目を剥いたが、すぐにフルフルと首を振った。
「あかんよ。だって、ウチは情婦。坊もこの意味がわかるやろ?」
そう。彼女は情婦。名も知らぬ男と体を交わらせるのが仕事。
だが、それがどうした。俺は黙って首を振る。
「構いません。俺は本当に貴方のことが好きなんです。あの日、会った時からずっと」
「あぁ……懐かしいなぁ。坊も、ずいぶん大きゅうなったもんや」
彼女は懐かしそうに言って目を細める。
当の彼女は衰えを感じさせないほど若々しい。いや、むしろ年を重ねたからこそ滲み出る魅力のようなものがある。煙草の煙をくゆらせる様すらも扇情的なのは流石としか言いようがない。
「でも、ダメよ。ウチは坊とは違うもの。生まれも、種族も、何もかも」
彼女は大きなため息とともに目を閉じた。直後、彼女の綺麗な髪が別の生き物のように蠢き、俺の手に絡みつく。その絹糸のような感触に目を細める間もなく、マキノさんは俺をジト目で見つめてきた。
「ね? 気持ち悪いやろ? ウチは、魔物。坊とは違うんよ」
「気持ち悪くないです。それに、違っていても構いません。俺はマキノさんが好きなんです。だから……お願いです! 俺と結婚してください!」
マキノさんは無言だった。が、ややあって静かに首を振る。
「……もう、言っても聞かんのやろね。なら、今日の晩、ここに来て」
「……はい。失礼しました、マキノさん」
俺は深々と頭を下げ、部屋を後にする。その時、彼女の顔がやや陰っているように見えたが――俺はすぐにその考えを頭から追い払った。
――さて、すっかり夜も更けたころ。俺は彼女の言いつけどおり部屋の前までやってきていた。灯篭の灯りで照らされる部屋は幻想的で、映し出される彼女のシルエットを見ると心臓がドキリと跳ねた。
「……マキノさん?」
「……おるよ。入っておいで」
言われるがまま、ゆっくりとふすまを開けた。直後、俺はハッと息を呑む。
眼前に立っていたのは、生まれたままの姿をした彼女だった。普段は見えないところまでもが見えており、それを見た俺は思わず目を逸らしそうになってしまう。
「恥ずかしがらんでもええやろ? 昔はよう一緒にお風呂入っとったやん」
「そ、それは子どものころで……それより、どうして裸に?」
そう問いかけると、彼女の顔がわずかに強張った。が、すぐに元の調子に戻った彼女は妖艶な笑みを浮かべつつふっと息を吐く。
「決まっとるやん。ウチの全てを……見てほしいんよ。それで、決めてほしい。ウチを、嫁にするかどうかを」
そう告げた瞬間、彼女の髪が鞭のようにしなって俺の腕に絡みついてきた。かなり強く縛られ、苦悶に顔を歪めてしまう。一方彼女は瞳の奥に決意の炎を滾らせながら、俺の方に詰め寄ってきた。
「言うたやろ? ウチは魔物……毛娼妓。男の精を貪る、醜い醜い化け物よ……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くなり、俺の唇に自分の唇を重ねてきた。プルリとした唇と、ねじ込まれる舌。こちらの舌の裏や歯茎などを器用に舌で撫でてくる。その甘い快楽に身を囚われる間もなく、彼女はスッと顔を離した。
その時の彼女の顔はゾッとするほど不気味で、妖艶で恐ろしくて――けれど同時に美しくもあった。
「坊……ごめんなぁ」
彼女はポツリと呟き、俺の服を脱がしにかかる。あっという間に全裸にされた俺を見て、彼女はふっと微笑んだ。
「ああ、ほんに大きゅうなったねぇ……特に、ここなんか。美味しそうやわぁ」
彼女は俺の股間部に目線を落とし、すっとしゃがみ込んだ。直後、股間部にぬちゃっという感触。見なくてもわかる。彼女が俺の逸物を口に咥えたのだ。
「坊の、大きいなぁ……アゴ、外れてしまいそうやわぁ……」
彼女は鈴口や裏筋に舌を這わせつつ、うっとりと目を細めていた。初めて見る淫靡な表情に戸惑いこそすれ、それすらも魅力的だった。
逸物を愛撫されるたびに甘美な快楽電流が体を巡り、俺は小さくくぐもった声を漏らす。それを聞いた彼女は少しだけ意地悪な顔になって俺の逸物を手でシゴいたり、少しだけ締め付けてきた。
「ぐ……あ、もう……」
「あかんよ。まだまだ、これから」
言いつつ、彼女はそっと身を起こした。が、股間部にはまだ熱が残っている。彼女はそれを見透かしたかのように髪を纏わりつかせてきた。
「うわ……ッ!」
思わず、声をあげてしまうほどの快楽。彼女の口も相当だったが、髪の毛で包まれるのは別格だった。
毛娼妓の髪の毛は吸精器官でもある。そのため、搾精に特化した造りになっていると聞いていたが、体感するとそれがよくわかる。
多方向から同時に絡みついてきて、しかもうねうねと蠢いている。滑らかな髪の毛に包まれる感覚は非常に心地よく、気を抜けばすぐに射精してしまいそうだった。
「ふふ、ええんよ。射して」
耳元で甘い言葉が囁かれる。それと同時、髪の毛が急激にすぼまって俺の逸物を激しく包み込んだ。
「ぐあ……ッ!」
途端、俺の逸物から射精が起こる。白濁液は髪の毛の隙間から漏れており、畳に染みを残していった。
「あぁ、いっぱい射とるね……でも、まだよ」
「え……あッ!?」
放心していると、再び逸物を髪で包みこまれた。それも先ほどよりも激しく、キツく、貪るように。彼女の髪は精液を欲しているようで、俺の逸物を終始責めたててきた。
一度イッているからか、感覚は鋭敏化されている。数分もせず射精してしまい、またしても脱力感を得る。が、そんな俺のことなど知ったことかと言わんばかりに彼女は俺を責めたててきた。
俺はチラ、と彼女の顔を見て、絶句する。そこにあるのはいつも優しい笑みを浮かべている彼女ではなく、淫らな表情を浮かべた彼女だった。
しかし彼女は俺の視線に気づくなり、やや悲しそうに目を伏せる。
「……ね? わかったやろ? ウチはこういう生きもん……男の精を貪る魔物よ。怖いやろ?」
「怖く……ない、ですっ!」
「これでも?」
「あ、ぐぁあっ!?」
尿道に髪が侵入してくる。激痛が走り、俺は手足をばたつかせたが、髪で縛られ動くことすらままならない。
マキノさんは俺の頬に手を当てつつ、じっと俺の目を見据えてきた。かと思うと、大きく口を開いて犬歯を見せつけてくる。それは人間のものよりも鋭く、人間の皮膚など軽く突き破れそうだった。
まぁ、実際その表現は間違っていないだろう。彼女は俺の首筋に歯を立て、カプッと噛みついてきた。軽い痛みと血が流れる感覚を得た直後に、彼女は俺の目を再び見据えて声を荒げる。
「怖いやろ! ウチはバケモン! 坊とは一緒になれんの!」
「怖く、ないです!」
「〜〜〜〜〜〜っ! 強情な子やな!」
またしても髪の動きが加速する。尿道に入った髪が出入りし、その度に激痛と微かな快楽が俺の体を駆け抜けた。
正直、すごく辛い。泣きたいほどに痛い。
……だけど、俺よりもっと辛そうな彼女を見ていると、不思議と我慢できた。
「怖いやろ! 怖いって言ってよ! やないと……夢、見てしまうやない」
彼女の目から、一粒の雫がこぼれる。それを見た時、俺はグッと唇を噛み締めた。
「……マキノ、さん。俺は貴方のことを怖いなんておもったことありません。大好きです」
「……どうして、そんなこと言ってくれるん? ウチは、ただの娼婦よ……魔物よ……?」
「……そう、ですね。マキノさんは娼婦で、魔物です。俺とは違う。でも……それ以前に貴方は女の子です。誰よりも優しくて、美しくて……太陽みたいな人です。だって、こんな俺にも笑いかけてくれたんですから。優しくしてくれたんですから」
俺はここに来るまで、ゴミ同然に扱われていた。家の中での地位は低く、厄介者扱いされていた。だから、丁稚として売り払われたのだ。
そんな俺に、愛を知らなかった俺に、愛を教えてくれた人。それが、マキノさんだった。
俺は彼女の手をがっしりと掴み、言ってやる。
「マキノさん。貴女が何であっても、俺は貴方を愛します。生まれとか、種族とか関係ない。俺は貴女だから、誰よりも美しい心を持った貴女だから惚れたんですから」
彼女は暫し黙り込んだ後で、へなへなとその場にへたり込んだ。同時に拘束も解かれ、俺は自由を得る。
彼女は目から涙をこぼしながら、上目づかいでこちらを見てきた。
「……ほんに、馬鹿なお人。ウチでいいん?」
「もちろん。貴女だからいいんです」
「ウチは魔物よ? 遊郭の外に出たら、坊まで白い目で見られるかもしれんよ?」
「大丈夫です。貴女がいればそれでいいですから」
「ウチは娼婦よ? もう、数えきれんくらいの男に抱かれてきたんよ?」
「構いません。例えどんな貴女でも、俺は受け入れたいんです」
「でも、ウチは……」
「あぁ、もう! くどい!」
俺は彼女の言葉を遮り、彼女の手をがっしりと掴んだ。
「マキノさん! 正直に答えてください! 俺と結婚するのが嫌なんですか!」
「違う! でも、坊にはもっといい人がおるやろ。人間の、別嬪さん。こんな汚れた魔物の娼婦やなくて……」
「だから、それが違うんです! 要はマキノさんがどうしたいか、でしょ!?」
「ッ! ……ウチかて、坊が好きよ。子どものころから一緒におったもんな。笑うと可愛くて、魔物であるウチにも優しくしてくれて……そして、今はこうやってウチに真剣に向き合ってくれ取る。女として、ここまで嬉しいことはない」
「……なら、それでいいじゃないですか。周りのことなんか気にしないでいいんですよ。要は貴女がどうしたいか、です。だから、改めて問います。マキノさん。俺と、結婚してくれませんか?」
言いつつ、脱ぎ捨てられた服の内から指輪の入った箱を取り出して彼女に突きだす。
彼女は数秒ほど間をおいてから、静かに俺が差し出した指輪を手に取り、指にはめた。そして、くしゃっと涙で濡れた顔を歪ませた。
「もう……ほんに、罪な子やな。後悔しても、知らんよ?」
「後悔はしませんよ。むしろ、幸せでいっぱいです」
「そう……なら、これを受け取ってくれん?」
彼女はそう呟き、部屋のタンスから何かを取り出す。それは小さなお守りだった。彼女はそれを俺の手に握らせ、ふふっと淡い笑みを浮かべる。
「それの中にはウチの髪の毛が入っとる。ウチらの種族の習わしよ。生涯を共にする相手に、髪の毛の一部を贈る……ね。渡すのは坊が初めてよ。だから……ちゃぁんと、責任とってもらうから、ね?」
「えぇ。わかってますとも。一生かけて、幸せにしますよ」
「他の子に色目なんか使ったらあかんよ? ウチはこう見えて嫉妬深いさかいな」
「大丈夫。俺はマキノさん一筋ですから」
言ってやり、俺はギュッとお守りを握りしめる。それを見た彼女は指輪をはめた手を愛おしげに眺めた後で――唇を重ねてきた。
先ほどまでの乱暴な舌づかいではない。優しく、淡い口づけだった。
永遠にも続くような時間が過ぎた後、彼女はスッと唇を離し、すっと目を細める。
「ねぇ、坊。痛かったやろ? やから、お詫びに……ウチの体、好きにしてええよ?」
彼女はこれまでに見たことがないくらい蕩けた笑顔で言ってくる。俺はそれに応えるべく、口づけを返した。
彼女は俺の体に手を回し、なおかつ髪で全身を縛ってくる。まるで彼女と一体化したような感覚を得ながら、俺はひたすら彼女と夜通し交わった。
遊郭の主である親父さんに案内されて、一番の女郎に会いに行ったその時だった。
俺は、初めて恋をした。
その人は豪華な和服を着ていて、それだけで相当のくらいの遊女なのだろうと伺うことができた。着物から覗く肌も白く艶やかで、まるで芸術品のようだった。
けれど、俺は彼女の髪に見惚れていた。カラスの濡れ羽のように艶やかで、軽く波打つ様が日光を浴びてキラキラと輝く様はまさしく星空を写し取ったかのようだった。
「あら? 坊。どこから来はったん?」
窓辺に腰掛けてキセルをぷかぷかさせていた彼女は慈母のように穏やかな視線を向け、口元をふっと緩ませた。それだけでまだ幼かった俺は顔を真っ赤にしてしまい、それを見た彼女は微笑ましそうにコロコロと笑った。
「あぁ、マキノ。こいつは今日からここに丁稚奉公に来たんだ。よろしくしてやってくれ」
「あら、そうなん? ウチ、マキノ言うんよ。よろしゅうね?」
その時、彼女が向けてくれた笑顔を忘れることはできない。太陽のように明るくて、けれどどこか陰があるのが不気味で――妖艶で、思わず息を呑むほどだった。
そして、あれから十年以上が経った今も、俺は彼女のことを忘れられずにいる。
ここ、ジパングにある小さな遊郭。そこが俺の働いている場所だ。最初は丁稚としてきていたが、今では親父さんから腕を見込まれて周りからは『若旦那』と呼ばれている。近頃親父さんも体を悪くしてきており、子を持たないため後継には俺が就く予定だ。
我ながら、大出世だと思う。少なくとも、厄介払いされて丁稚奉公に来た時にはこうなるなんて思わなかった。
「……さて、と」
俺は一旦筆を置いて席を立ち、遊郭内を練り歩く。
この遊郭は普通の遊郭ではない。魔物たちだけが集められた特殊な遊郭だ。
一口に魔物といっても色々種類がおり、ここにいるのは人間たちにとても友好的な奴らばかり。ここにいる奴らと十年以上付き合っているが、一度たりとも暴力を振るわれたり嫌がらせを受けたことはないのだ。
「あら、若旦那。またあちらに?」
ふと聞こえた声に立ち止り、後ろを見やる。するとそこには狸の尻尾を生やした女性が立っていた。
彼女の名はカズサ。ウチの遊郭の会計担当だ。
「ほほぅ。若旦那さんはよほどあの方に御執着と見えますなぁ」
カズサは見透かしたように言ってくるが、俺はそれを鼻で笑い、彼女の狸耳をちょいと指で引っ張ってやる。
「あたたたたっ! ご、ごめんよ、若旦那! 全く、あの人の話題になるとすぐムキになるんだから……」
「……もう一度引っ張られたいか?」
「いやいやいや! もう結構! ただ、若旦那。言っちゃ悪いが、あまり肩入れするもんじゃないよ? 遊女なんかにさ」
そんなことわかっている。だが、諦められないんだ。
あの時からずっと――俺の心にはあの人がいるのだから。
カズサはじぃっと俺の目を見据えていたが、やがて呆れたように額に手を置いて『やれやれ』と首を振った。
「まぁ、気持ちは固いみたいですね。まだ部屋にいるみたいですから、行くならどうぞ」
「あぁ……カズサ。ありがとな」
最後に礼を言い、その場を後にする。普段はこちらをばかしておちょくる彼女がキョトンとしているのは少しだけ小気味よかった。
俺は着物の袖に手を通しつつ、ある部屋へと向かう。そこは遊郭の中でも別格のものだけが入れる部屋。そこに、俺の想い人はいる。
二階へ続く階段を上り、廊下をしばらく渡ると彼女の部屋が見えた。そこからは小さな灯りが漏れており、話し声も聞こえてくる。
俺は衣服の乱れを可能な限り直してから、ふすまをトントンと叩いた。
「マキノさん。いますか?」
「おりますえ。入っておくんなんし」
声が返ってくるのとほぼ同時、俺はサッとふすまを開けた。そうして映りこんでくるのは部屋の中央に正座しているマキノさんと彼女に後ろに立つ小柄な銀髪の少女――キキーモラのファナだ。
ファナは数年前異国から来た少女だ。なんでも、船に忍び込んできたらしい。当然いく場もなかったのでここで雇うことになったのだが、その献身的な働きぶりから遊郭内外を問わず人気が高い。
「あ、若旦那様。おはようございます」
ファナは丁寧なお辞儀を返してくる。彼女の銀髪がふわりと揺れ、それはとても幻想的な様相だった。が、俺は彼女に対して穏やかな笑みを返し、その滑らかな銀髪を撫でた。
「あぁ、おはよう。いつもご苦労」
「ほんにようやってくれとるよ、ファナちゃんは。ウチの髪も喜んどる」
「そ、そんな。私はただやるべきことを……」
彼女はとても謙虚だが、誇っていいくらいの働きを見せている。どこぞの刑部狸に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいほどだ。
「で、ファナ。ちょっとお話があるから部屋を出てくれるか? 他の奴らの手伝いに回ってくれ」
「はい。若旦那様。行ってまいります」
トコトコ……と可愛らしく走り去っていく彼女に手を振ってから、同じく微笑んでいるマキノさんに視線を戻す。と、彼女はいつものように穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「で? 今日もあの話?」
「……えぇ。マキノさん。俺と結婚してくれませんか?」
言いつつ、俺は胸元から指輪を取り出してみせる。ファナから聞いたが、異国ではこうやって婚姻を誓うらしい。これまでとは違ったアプローチにマキノさんは目を剥いたが、すぐにフルフルと首を振った。
「あかんよ。だって、ウチは情婦。坊もこの意味がわかるやろ?」
そう。彼女は情婦。名も知らぬ男と体を交わらせるのが仕事。
だが、それがどうした。俺は黙って首を振る。
「構いません。俺は本当に貴方のことが好きなんです。あの日、会った時からずっと」
「あぁ……懐かしいなぁ。坊も、ずいぶん大きゅうなったもんや」
彼女は懐かしそうに言って目を細める。
当の彼女は衰えを感じさせないほど若々しい。いや、むしろ年を重ねたからこそ滲み出る魅力のようなものがある。煙草の煙をくゆらせる様すらも扇情的なのは流石としか言いようがない。
「でも、ダメよ。ウチは坊とは違うもの。生まれも、種族も、何もかも」
彼女は大きなため息とともに目を閉じた。直後、彼女の綺麗な髪が別の生き物のように蠢き、俺の手に絡みつく。その絹糸のような感触に目を細める間もなく、マキノさんは俺をジト目で見つめてきた。
「ね? 気持ち悪いやろ? ウチは、魔物。坊とは違うんよ」
「気持ち悪くないです。それに、違っていても構いません。俺はマキノさんが好きなんです。だから……お願いです! 俺と結婚してください!」
マキノさんは無言だった。が、ややあって静かに首を振る。
「……もう、言っても聞かんのやろね。なら、今日の晩、ここに来て」
「……はい。失礼しました、マキノさん」
俺は深々と頭を下げ、部屋を後にする。その時、彼女の顔がやや陰っているように見えたが――俺はすぐにその考えを頭から追い払った。
――さて、すっかり夜も更けたころ。俺は彼女の言いつけどおり部屋の前までやってきていた。灯篭の灯りで照らされる部屋は幻想的で、映し出される彼女のシルエットを見ると心臓がドキリと跳ねた。
「……マキノさん?」
「……おるよ。入っておいで」
言われるがまま、ゆっくりとふすまを開けた。直後、俺はハッと息を呑む。
眼前に立っていたのは、生まれたままの姿をした彼女だった。普段は見えないところまでもが見えており、それを見た俺は思わず目を逸らしそうになってしまう。
「恥ずかしがらんでもええやろ? 昔はよう一緒にお風呂入っとったやん」
「そ、それは子どものころで……それより、どうして裸に?」
そう問いかけると、彼女の顔がわずかに強張った。が、すぐに元の調子に戻った彼女は妖艶な笑みを浮かべつつふっと息を吐く。
「決まっとるやん。ウチの全てを……見てほしいんよ。それで、決めてほしい。ウチを、嫁にするかどうかを」
そう告げた瞬間、彼女の髪が鞭のようにしなって俺の腕に絡みついてきた。かなり強く縛られ、苦悶に顔を歪めてしまう。一方彼女は瞳の奥に決意の炎を滾らせながら、俺の方に詰め寄ってきた。
「言うたやろ? ウチは魔物……毛娼妓。男の精を貪る、醜い醜い化け物よ……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くなり、俺の唇に自分の唇を重ねてきた。プルリとした唇と、ねじ込まれる舌。こちらの舌の裏や歯茎などを器用に舌で撫でてくる。その甘い快楽に身を囚われる間もなく、彼女はスッと顔を離した。
その時の彼女の顔はゾッとするほど不気味で、妖艶で恐ろしくて――けれど同時に美しくもあった。
「坊……ごめんなぁ」
彼女はポツリと呟き、俺の服を脱がしにかかる。あっという間に全裸にされた俺を見て、彼女はふっと微笑んだ。
「ああ、ほんに大きゅうなったねぇ……特に、ここなんか。美味しそうやわぁ」
彼女は俺の股間部に目線を落とし、すっとしゃがみ込んだ。直後、股間部にぬちゃっという感触。見なくてもわかる。彼女が俺の逸物を口に咥えたのだ。
「坊の、大きいなぁ……アゴ、外れてしまいそうやわぁ……」
彼女は鈴口や裏筋に舌を這わせつつ、うっとりと目を細めていた。初めて見る淫靡な表情に戸惑いこそすれ、それすらも魅力的だった。
逸物を愛撫されるたびに甘美な快楽電流が体を巡り、俺は小さくくぐもった声を漏らす。それを聞いた彼女は少しだけ意地悪な顔になって俺の逸物を手でシゴいたり、少しだけ締め付けてきた。
「ぐ……あ、もう……」
「あかんよ。まだまだ、これから」
言いつつ、彼女はそっと身を起こした。が、股間部にはまだ熱が残っている。彼女はそれを見透かしたかのように髪を纏わりつかせてきた。
「うわ……ッ!」
思わず、声をあげてしまうほどの快楽。彼女の口も相当だったが、髪の毛で包まれるのは別格だった。
毛娼妓の髪の毛は吸精器官でもある。そのため、搾精に特化した造りになっていると聞いていたが、体感するとそれがよくわかる。
多方向から同時に絡みついてきて、しかもうねうねと蠢いている。滑らかな髪の毛に包まれる感覚は非常に心地よく、気を抜けばすぐに射精してしまいそうだった。
「ふふ、ええんよ。射して」
耳元で甘い言葉が囁かれる。それと同時、髪の毛が急激にすぼまって俺の逸物を激しく包み込んだ。
「ぐあ……ッ!」
途端、俺の逸物から射精が起こる。白濁液は髪の毛の隙間から漏れており、畳に染みを残していった。
「あぁ、いっぱい射とるね……でも、まだよ」
「え……あッ!?」
放心していると、再び逸物を髪で包みこまれた。それも先ほどよりも激しく、キツく、貪るように。彼女の髪は精液を欲しているようで、俺の逸物を終始責めたててきた。
一度イッているからか、感覚は鋭敏化されている。数分もせず射精してしまい、またしても脱力感を得る。が、そんな俺のことなど知ったことかと言わんばかりに彼女は俺を責めたててきた。
俺はチラ、と彼女の顔を見て、絶句する。そこにあるのはいつも優しい笑みを浮かべている彼女ではなく、淫らな表情を浮かべた彼女だった。
しかし彼女は俺の視線に気づくなり、やや悲しそうに目を伏せる。
「……ね? わかったやろ? ウチはこういう生きもん……男の精を貪る魔物よ。怖いやろ?」
「怖く……ない、ですっ!」
「これでも?」
「あ、ぐぁあっ!?」
尿道に髪が侵入してくる。激痛が走り、俺は手足をばたつかせたが、髪で縛られ動くことすらままならない。
マキノさんは俺の頬に手を当てつつ、じっと俺の目を見据えてきた。かと思うと、大きく口を開いて犬歯を見せつけてくる。それは人間のものよりも鋭く、人間の皮膚など軽く突き破れそうだった。
まぁ、実際その表現は間違っていないだろう。彼女は俺の首筋に歯を立て、カプッと噛みついてきた。軽い痛みと血が流れる感覚を得た直後に、彼女は俺の目を再び見据えて声を荒げる。
「怖いやろ! ウチはバケモン! 坊とは一緒になれんの!」
「怖く、ないです!」
「〜〜〜〜〜〜っ! 強情な子やな!」
またしても髪の動きが加速する。尿道に入った髪が出入りし、その度に激痛と微かな快楽が俺の体を駆け抜けた。
正直、すごく辛い。泣きたいほどに痛い。
……だけど、俺よりもっと辛そうな彼女を見ていると、不思議と我慢できた。
「怖いやろ! 怖いって言ってよ! やないと……夢、見てしまうやない」
彼女の目から、一粒の雫がこぼれる。それを見た時、俺はグッと唇を噛み締めた。
「……マキノ、さん。俺は貴方のことを怖いなんておもったことありません。大好きです」
「……どうして、そんなこと言ってくれるん? ウチは、ただの娼婦よ……魔物よ……?」
「……そう、ですね。マキノさんは娼婦で、魔物です。俺とは違う。でも……それ以前に貴方は女の子です。誰よりも優しくて、美しくて……太陽みたいな人です。だって、こんな俺にも笑いかけてくれたんですから。優しくしてくれたんですから」
俺はここに来るまで、ゴミ同然に扱われていた。家の中での地位は低く、厄介者扱いされていた。だから、丁稚として売り払われたのだ。
そんな俺に、愛を知らなかった俺に、愛を教えてくれた人。それが、マキノさんだった。
俺は彼女の手をがっしりと掴み、言ってやる。
「マキノさん。貴女が何であっても、俺は貴方を愛します。生まれとか、種族とか関係ない。俺は貴女だから、誰よりも美しい心を持った貴女だから惚れたんですから」
彼女は暫し黙り込んだ後で、へなへなとその場にへたり込んだ。同時に拘束も解かれ、俺は自由を得る。
彼女は目から涙をこぼしながら、上目づかいでこちらを見てきた。
「……ほんに、馬鹿なお人。ウチでいいん?」
「もちろん。貴女だからいいんです」
「ウチは魔物よ? 遊郭の外に出たら、坊まで白い目で見られるかもしれんよ?」
「大丈夫です。貴女がいればそれでいいですから」
「ウチは娼婦よ? もう、数えきれんくらいの男に抱かれてきたんよ?」
「構いません。例えどんな貴女でも、俺は受け入れたいんです」
「でも、ウチは……」
「あぁ、もう! くどい!」
俺は彼女の言葉を遮り、彼女の手をがっしりと掴んだ。
「マキノさん! 正直に答えてください! 俺と結婚するのが嫌なんですか!」
「違う! でも、坊にはもっといい人がおるやろ。人間の、別嬪さん。こんな汚れた魔物の娼婦やなくて……」
「だから、それが違うんです! 要はマキノさんがどうしたいか、でしょ!?」
「ッ! ……ウチかて、坊が好きよ。子どものころから一緒におったもんな。笑うと可愛くて、魔物であるウチにも優しくしてくれて……そして、今はこうやってウチに真剣に向き合ってくれ取る。女として、ここまで嬉しいことはない」
「……なら、それでいいじゃないですか。周りのことなんか気にしないでいいんですよ。要は貴女がどうしたいか、です。だから、改めて問います。マキノさん。俺と、結婚してくれませんか?」
言いつつ、脱ぎ捨てられた服の内から指輪の入った箱を取り出して彼女に突きだす。
彼女は数秒ほど間をおいてから、静かに俺が差し出した指輪を手に取り、指にはめた。そして、くしゃっと涙で濡れた顔を歪ませた。
「もう……ほんに、罪な子やな。後悔しても、知らんよ?」
「後悔はしませんよ。むしろ、幸せでいっぱいです」
「そう……なら、これを受け取ってくれん?」
彼女はそう呟き、部屋のタンスから何かを取り出す。それは小さなお守りだった。彼女はそれを俺の手に握らせ、ふふっと淡い笑みを浮かべる。
「それの中にはウチの髪の毛が入っとる。ウチらの種族の習わしよ。生涯を共にする相手に、髪の毛の一部を贈る……ね。渡すのは坊が初めてよ。だから……ちゃぁんと、責任とってもらうから、ね?」
「えぇ。わかってますとも。一生かけて、幸せにしますよ」
「他の子に色目なんか使ったらあかんよ? ウチはこう見えて嫉妬深いさかいな」
「大丈夫。俺はマキノさん一筋ですから」
言ってやり、俺はギュッとお守りを握りしめる。それを見た彼女は指輪をはめた手を愛おしげに眺めた後で――唇を重ねてきた。
先ほどまでの乱暴な舌づかいではない。優しく、淡い口づけだった。
永遠にも続くような時間が過ぎた後、彼女はスッと唇を離し、すっと目を細める。
「ねぇ、坊。痛かったやろ? やから、お詫びに……ウチの体、好きにしてええよ?」
彼女はこれまでに見たことがないくらい蕩けた笑顔で言ってくる。俺はそれに応えるべく、口づけを返した。
彼女は俺の体に手を回し、なおかつ髪で全身を縛ってくる。まるで彼女と一体化したような感覚を得ながら、俺はひたすら彼女と夜通し交わった。
16/09/22 23:52更新 / KMIF