ママドールはすぐそばにいる。
僕は、だらだらと夕暮れの道を歩いていた。思うことは、一つ。
ああ、“今日も価値がない一日“だったなと。
未来に何の希望も抱けず、ただただ時間を浪費する日々。
目の前の苦痛を避ける努力をするでもなく、ただじっと待つだけ。
目の前にあるアパートのドアはそんな僕の取るに足らない世界を表しているかのようだ。
「……今日は何を見ようか」
取り立てて趣味がない割には、スマホゲームの石に似てウェブは必須のアイテムだった。
スマホなどいつでも見ているのに動画を見てからでないと眠れないのだ。
もっともだらだらと眺めているせいでいで寝るのが遅くなり、日中は寝不足に悩まされるという本末転倒なことが起きていた。
「飯…いいや、カップラーメンで」
僕がそういいながらドアを開けた時だった。
「おかえりなさぁい」
誰かが、僕を迎えてくれた。
少し呆けたかと思うと、僕は泥棒かと思い慌ててキョロキョロとあたりをうかがうも、だれもいない。
首を傾げた時、声の主はそこにいた。
僕は、声の主の方に目を向けるまで視線をずっと下に向けなければいけなかった。
「今日からあなたのママになるティナよ、めいいっぱい甘えていいね?」
玄関に座ってにしゃべっていたのは、かわいい女の子だ。
ビロードのように美しくさらさらと輝く銀髪、サファイアでできたような眼。
見たこともないような美しい生地でできた、ゴスロリのようなドレス。
陶磁器のように傷一つない、完璧で美しい陶磁器のような肌。
まるで、人間ではなく作り物のような……そう、人形みたいに。
にん……ぎょう、みたいに。
「に、人形がしゃべった!?」
「そうよぉ、ドールであなたのママ、ママドールよぉ」
僕は腰を抜かしてへたり込むが、すぐにドアを閉める。
あまり叫んでいると近所迷惑になるし、動く人形と一緒にいたらどんな噂が立つかわからない。
いったいなんなのだ、この女は。
というかなんで人形がしゃべっているんだ。
「もぉ、おおきな声だしちゃあ近所迷惑よぉ」
「誰のせいだよ」
人形……自称ティナをじろりとにらむ。すると、にっこりと笑って花が咲くような笑顔をこちらに向けてくる。
おもわずつられてこちらも笑ってしまいそうになるが、なんとか頭を冷静にしようと努力する。
そもそもこの人形は何、どこから入ってきた?
人形がしゃべるという異常事態に忘れていたが、さっきから聞き捨てならないことを言っていた。
「キミ、どっから来た?てかそもそもママってなんだよ、バーか何か」
「ママをキミ呼ばわりだなんて準ったら反抗期かしら?」
反抗期もきてなさそうな幼い外見の彼女になぜそんなことをいられなきゃならんのか。
こちらの理不尽な思いを無視してまあいいわ、と彼女は言うと浮かび上がって僕の目線に合わせる。
「私はティナ。リビングドールという魔物娘よ」
そして彼女は昔話をするように語った。
魔物娘のこと。リビングドールと言う種族のこと。
そして、ティナのこと。
「つまり、人形だけど生き物だと。なんだよそれ、わけわかん」
「まあ初めて聞くけど混乱するわよね」
彼女の説明は突拍子もなさ過ぎてわかるんだけど理解できなかった。
別の世界だの、人間に似ているけど魔物だとといわれてもそう簡単に理解できるはずがない。
人形がしゃべっている状況ですらいっぱいいっぱいなのだ。
しかし大事なことはそこではない。
「というか一番大事なこと話してないだろ」
「私のスリーサイズ?」
「ちげぇよ!なんで…ティナが僕のママなんだよ」
僕がそういうと彼女は信じられないという風に驚き、そして大げさに悲しそうに身振りをする。
「それを話すには聞くも涙、言うも涙の物語が……」
「いや、簡潔に話してくれよ」
「そうねえ、難しいけどズバリ」
彼女はさっきの悲しそうなしぐさをどこへやら、ビシッと胸を張る。
同時にドレスのフリルが揺れ、胸は揺れない。
「私が準のママになりたいと思ったからよ!」
「あ、そう。勝手になればいいんじゃない?」
僕はさっさと靴を脱ぐと早々に布団へと向かおうとした。
こういう手合いは反応してはいけないのだ。
ただでさえ疲れているのにこれ以上相手にしていたら気力がなくなってしまいそうだ。
布団でもかぶってスマホのゲームを進めようと思った。
「あら準もう寝るの?ならママが添い寝してあげる」
「いや出てけよ」
僕がため息をつきながら振り向くと、彼女は何やらぶつぶつと言って指をくるくると回す。
魔法か何かか、とでも言おうとしてくらっと立ち眩みがする。
そのまま体がふわりと浮かんで、いつの間にか体は布団に収まり、瞼がとろんと落ちそうになる。
(な、なにが起きてるんだ……?)
まさか、本当に魔法を使ったのか。
そう問い詰めようとするが、強烈な眠気で言葉もつむげない。
「添い寝はできないけど、今はお休みなさい。その間に、ご飯作ってあげるわぁ」
それまで良い子で寝ててね、わたしの坊や。
そう言って笑うティナの顔は。
悔しいほどに優しい笑顔だった。
****
目を覚ますと、いい匂いが鼻をくすぐる。
ぼんやりとした頭で、自分が返ってきた後、すぐ寝てしまったことを思い出した。
そして、食欲をくすぐる匂いにお腹が鳴るのに時間はかからなかった。
こんなに、お腹がすいたなんていつぐらいだろうか?
そういえば食事もとらずに寝てしまっていたな。いつもは面倒でも何か食べてから寝るのだが。
……なんとなく、感傷に浸ってしまった。
「準、起きたのね?」
はしゃいだ声でティナがやってきた。
いつの間にか、フリルのついたエプロンを身に着けて、頭には三角巾までつけている。
どこで用意したんだその服。
「これは自分で作ったのよぉ」
心が読めるのか、魔法が使えるくらいだしそれくらいできるかもしれない。
人形がしゃべる光景は今でも現実には思えないけど、夢でないことは確かだ。
「かわいい寝顔を眺めてたかったけど、ちょうどいいわぁ」
「……」
かわいい人形にそういわれるのはとても恥ずかしいが口には出さない。
出せば最後、何を言われるかわからない。
僕がむすっと黙っている間に、彼女は皿を持ってきた。
「オニオングラタンスープ……」
「そう、スーパ・ロワニョン・グラティネ…じゃなくてオニオンスープ。最初はスープとかでお腹をならしていくのが大事なのよぉ」
オニオングラタンスープは好物だ。
ファミレスであれば必ず頼む一品だった。とはいっても専門の洋食レストランで頼むほどではなく、
ファミレスやインスタントがあればそちらのほうを食べていたけれど。
だが、そんな思い出を過去にするくらいに、目の前のオニオングラタンスープはおいしそうだった。
チーズは金色に輝き。スープは健康的な小麦色を思わせる色合いで、パンはどこまでも柔らかそうだ。
ごくりとつばを飲み込む。
食べてもいいのかと聞こうとして、彼女はスプーンを僕の口に入れようとしていた。
「はいあーん」
「……自分で食べれるから」
僕が彼女の手からスプーンをとると、ティナはぶーとむくれる。
彼女のそんな様子に僕は苦笑すると、スープに手を付ける。
そんな僕をティナはじーっと眺めた。……ちょっと照れ臭いな。
チーズの乗ったパンをスプーンで切り取り、口の中に入れる。
その瞬間、パンの豊かな味わいが。
スープの濃い味付けが。
チーズの柔らかく酸味のある味わいが。
気が付けば暑さも忘れて
「とても、おいしかった」
人(魔物…いや、人形なのだけれど)と食事するのが楽しいと思ったのは。
僕がティナにそうお礼を言うと、ティナはにっこりと笑って言った。
「明日も楽しみにしててね」
ところで、人形なのにどうやって表情を変えているんだろうか?
結局ティナは家に住み着いてしまった。
ティナはこの家の……いや、僕のどこが気に入っているのだろう?
疑問は尽きないが、 帰れば、おかえりと出迎えてくれる人がいる。
なんと良い生活だろう。
ただ休息をとるだけだった部屋が暖かくなった。
ティナはどんな時でも美しく、優しく僕を迎え入れてくれる。
「準は良い子ねえ」
いつも彼女はそんなことを言う。
けれど、僕はティナの言葉とは反対にどんどん傲慢になっていった。
食事、家事は彼女の分担。
僕はそれに乗っかるだけ。
最初は手伝おうとしていたけど、彼女がやるというのでいつの間にか任せきりになっていた。
これじゃ、まるで家政婦じゃないか。
そんな風に我に返った僕は、途端に恥ずかしくなった。
なったのに、あろうことかその恥ずかしさを怒りへと変わっていった。
僕をこんな風に堕落させたのはティナのせいだ、と。
ぼくの勝手な思いを知らない彼女はニコニコとしている。
「あらぁ、準、どうしたのぉ?」
「僕は子供じゃないんだ、そんなことしてもらわなくてもできるよ」
「準は私の子供よぉ」
「そんなの頼んでないだろ!ほら、洗濯くらい自分でできるって」
僕はティナから洗濯ものをひったくると、ティナはまるで「しょうがない子ね」と言いたげに笑った。
いままで洗濯は自分でやっていたんだ、これくらいわけがないと洗濯機のボタンを押すと、ヘッドホンを付けた。
スマホを開き、進めているゲームのイベントを進めようと思った。
「あらー、しわくちゃねえ」
「……」
できなかった。
ゲームがうまくいっていたからか、夢中になっていた。洗濯機がアラームに気づかず服はしわくちゃになってしまっていた。
もちろん、同じ間違いは何度もするものではない。
でも僕はその失敗を受け入れることはできなかった。
ティナは気にしたふうでもなく、洗濯物を干す準備をしている。
素直にごめん、と謝れば済むのに。
僕が黙ったまま見ていることに気づいたティナがこちらを見てにっこりと笑う。
「……ぼーっとしていただけだよ」
「そうね、準は次なら間違えないわぁ」
自分が思っていたことを言われてしまった。
鏡を見たわけでもないのに僕の顔が苦虫にをかみつぶしたようになったのを感じる。
ティナは僕がどうすればいらだってしまうのかももう学習済みなのだ。
僕が家を飛び出し、深夜まで町でぶらぶらと過ごした。
ティナは僕と違って規則正しく生活しており、早く寝ていつも早く起きるのだ。
深夜に帰れば、ティナは寝ているだろう。
さて、何をして時間をつぶそうか。
つまらない無駄な時間を過ごし、疲労だけを持ち帰って家へ戻る。
まあ、そんな日もあるかと思いながらドアを開けた。
「ただいまー……」
ドアを開けても、誰も答えない。
お帰りのない帰宅はこんなに味気ないものだったのか。
なんとなくティナの部屋にはいる。
だれも、いなかった。
こんな時間に買い物に行くはずがない。
どうしていないのか。
愛想をつかして帰ってしまったのか。
血の気が引き、急に眠気が覚めるが、どうしようもない。
心臓がバクバクいう音を聞きながら、うずくまる。
当然と言えば当然だ。
こんな自分を愛する人などいない。
ティナだってそうだっただけだ。
「はははは…はは」
最後に交わした会話も思い出せない。
僕にとっても、ティナはその程度の存在だったのか。
心にむなしさを抱えながら横になった。
「起きたのねぇ」
「ティナ、出て行ったんじゃないのか」
「出て行ったわよぉ、買い物に行ったときに」
「何を買い物に行くんだよ……」
僕はその言葉に泣き笑いのような表情を浮かべる。
我ながら、勝手なものだ。
「毛糸よぉ」
「はぁ?」
彼女は僕の傍によると何かを巻いてくれた。
マフラーだ。
ふかふかと暖かい。
「わざわざ、編んだのかよ」
「準が風邪を引いたら大変だからねぇ」
「なんで、そこまで…」
なぜ彼女はそこまでしてくれるのだろうか。
いや、そんなことは分かっていた。
「私がそうありたいと思ったからよぉ」
「……ごめん、勝手に一人で怒って、出て行ったりして」
「ううん、へいきよぉ。だって準は戻ってきてくれたもの」
「そりゃ自分の家だしな」
僕が苦笑すると、ティナは困ったような顔になる。
「私も、べたべたして貴方を困らせているかもしれないわぁ」
でも、と彼女は言った。
「でもそれが、ティナ……いや」
「ママのいいところだよ。……そんなところが、好きだよ」
え、と彼女がびっくりした顔で見る。
心なしか、白い肌が赤く染まったように見える。
「ねぇ、準。今、なんて」
「ママ」
「もう一度言って」
「ママ」
彼女はまるで水浴びした犬のようにぶるぶる震えた。
僕は苦笑して肩をすくめる。
恥ずかしいけどもう一度。
「……ママ。何回言わせるんだよ」
「じゅーん!」
彼女は嬉しそうに笑いながら、僕の頭に飛びついた。
ぎゅっとしがみつきながら撫でてくれた。
「やっとママって呼んでくれた!呼んでくれた!」
そんなふうに微笑む彼女の目じりは、涙が光っているように見えた。
僕の視線に恥ずかしそうに身をよじる。
「ついでにチューして」
「お休みママ」
あんつれないと駄々をこねるママを置いてリビングから出る。
あの状態になると面倒になることはこれまでの生活でわかっていることだ。
僕がママと呼ぶようになってから一週間がたった。
話し合った結果、家事は分担してやることと決めた。
少しずつ練習した結果、ちょっとは手先が器用になった僕は、クリスマスにエプロンを作ってママにプレゼントした。
「ママ、世界で一番幸せ!」
「大げさだよ」
他に僕がママにできることは何だろう?そう尋ねても、ママは「準が愛してくれるだけで十分」といつも答えるのだった。
ママは無欲だね、と僕が苦笑すると彼女は「愛情に関しては自分ほど貪欲な人間はいない」と答えるのだ。
僕の人生は、とある人形の魔物娘のおかげで実りのあるものになった。
魔物娘は、人間とのHが活力になるのだそうだ。
いずれは、親子でHすることになるのかもしれない。
けれど、親子であることはずっと変わらない。
彼女が僕の「ママ」になろうとしたその日から。
だから、僕は変わりつつも僕のままであろうと思う。
僕のためにも。
世界一大好きなママのためにも。
ああ、“今日も価値がない一日“だったなと。
未来に何の希望も抱けず、ただただ時間を浪費する日々。
目の前の苦痛を避ける努力をするでもなく、ただじっと待つだけ。
目の前にあるアパートのドアはそんな僕の取るに足らない世界を表しているかのようだ。
「……今日は何を見ようか」
取り立てて趣味がない割には、スマホゲームの石に似てウェブは必須のアイテムだった。
スマホなどいつでも見ているのに動画を見てからでないと眠れないのだ。
もっともだらだらと眺めているせいでいで寝るのが遅くなり、日中は寝不足に悩まされるという本末転倒なことが起きていた。
「飯…いいや、カップラーメンで」
僕がそういいながらドアを開けた時だった。
「おかえりなさぁい」
誰かが、僕を迎えてくれた。
少し呆けたかと思うと、僕は泥棒かと思い慌ててキョロキョロとあたりをうかがうも、だれもいない。
首を傾げた時、声の主はそこにいた。
僕は、声の主の方に目を向けるまで視線をずっと下に向けなければいけなかった。
「今日からあなたのママになるティナよ、めいいっぱい甘えていいね?」
玄関に座ってにしゃべっていたのは、かわいい女の子だ。
ビロードのように美しくさらさらと輝く銀髪、サファイアでできたような眼。
見たこともないような美しい生地でできた、ゴスロリのようなドレス。
陶磁器のように傷一つない、完璧で美しい陶磁器のような肌。
まるで、人間ではなく作り物のような……そう、人形みたいに。
にん……ぎょう、みたいに。
「に、人形がしゃべった!?」
「そうよぉ、ドールであなたのママ、ママドールよぉ」
僕は腰を抜かしてへたり込むが、すぐにドアを閉める。
あまり叫んでいると近所迷惑になるし、動く人形と一緒にいたらどんな噂が立つかわからない。
いったいなんなのだ、この女は。
というかなんで人形がしゃべっているんだ。
「もぉ、おおきな声だしちゃあ近所迷惑よぉ」
「誰のせいだよ」
人形……自称ティナをじろりとにらむ。すると、にっこりと笑って花が咲くような笑顔をこちらに向けてくる。
おもわずつられてこちらも笑ってしまいそうになるが、なんとか頭を冷静にしようと努力する。
そもそもこの人形は何、どこから入ってきた?
人形がしゃべるという異常事態に忘れていたが、さっきから聞き捨てならないことを言っていた。
「キミ、どっから来た?てかそもそもママってなんだよ、バーか何か」
「ママをキミ呼ばわりだなんて準ったら反抗期かしら?」
反抗期もきてなさそうな幼い外見の彼女になぜそんなことをいられなきゃならんのか。
こちらの理不尽な思いを無視してまあいいわ、と彼女は言うと浮かび上がって僕の目線に合わせる。
「私はティナ。リビングドールという魔物娘よ」
そして彼女は昔話をするように語った。
魔物娘のこと。リビングドールと言う種族のこと。
そして、ティナのこと。
「つまり、人形だけど生き物だと。なんだよそれ、わけわかん」
「まあ初めて聞くけど混乱するわよね」
彼女の説明は突拍子もなさ過ぎてわかるんだけど理解できなかった。
別の世界だの、人間に似ているけど魔物だとといわれてもそう簡単に理解できるはずがない。
人形がしゃべっている状況ですらいっぱいいっぱいなのだ。
しかし大事なことはそこではない。
「というか一番大事なこと話してないだろ」
「私のスリーサイズ?」
「ちげぇよ!なんで…ティナが僕のママなんだよ」
僕がそういうと彼女は信じられないという風に驚き、そして大げさに悲しそうに身振りをする。
「それを話すには聞くも涙、言うも涙の物語が……」
「いや、簡潔に話してくれよ」
「そうねえ、難しいけどズバリ」
彼女はさっきの悲しそうなしぐさをどこへやら、ビシッと胸を張る。
同時にドレスのフリルが揺れ、胸は揺れない。
「私が準のママになりたいと思ったからよ!」
「あ、そう。勝手になればいいんじゃない?」
僕はさっさと靴を脱ぐと早々に布団へと向かおうとした。
こういう手合いは反応してはいけないのだ。
ただでさえ疲れているのにこれ以上相手にしていたら気力がなくなってしまいそうだ。
布団でもかぶってスマホのゲームを進めようと思った。
「あら準もう寝るの?ならママが添い寝してあげる」
「いや出てけよ」
僕がため息をつきながら振り向くと、彼女は何やらぶつぶつと言って指をくるくると回す。
魔法か何かか、とでも言おうとしてくらっと立ち眩みがする。
そのまま体がふわりと浮かんで、いつの間にか体は布団に収まり、瞼がとろんと落ちそうになる。
(な、なにが起きてるんだ……?)
まさか、本当に魔法を使ったのか。
そう問い詰めようとするが、強烈な眠気で言葉もつむげない。
「添い寝はできないけど、今はお休みなさい。その間に、ご飯作ってあげるわぁ」
それまで良い子で寝ててね、わたしの坊や。
そう言って笑うティナの顔は。
悔しいほどに優しい笑顔だった。
****
目を覚ますと、いい匂いが鼻をくすぐる。
ぼんやりとした頭で、自分が返ってきた後、すぐ寝てしまったことを思い出した。
そして、食欲をくすぐる匂いにお腹が鳴るのに時間はかからなかった。
こんなに、お腹がすいたなんていつぐらいだろうか?
そういえば食事もとらずに寝てしまっていたな。いつもは面倒でも何か食べてから寝るのだが。
……なんとなく、感傷に浸ってしまった。
「準、起きたのね?」
はしゃいだ声でティナがやってきた。
いつの間にか、フリルのついたエプロンを身に着けて、頭には三角巾までつけている。
どこで用意したんだその服。
「これは自分で作ったのよぉ」
心が読めるのか、魔法が使えるくらいだしそれくらいできるかもしれない。
人形がしゃべる光景は今でも現実には思えないけど、夢でないことは確かだ。
「かわいい寝顔を眺めてたかったけど、ちょうどいいわぁ」
「……」
かわいい人形にそういわれるのはとても恥ずかしいが口には出さない。
出せば最後、何を言われるかわからない。
僕がむすっと黙っている間に、彼女は皿を持ってきた。
「オニオングラタンスープ……」
「そう、スーパ・ロワニョン・グラティネ…じゃなくてオニオンスープ。最初はスープとかでお腹をならしていくのが大事なのよぉ」
オニオングラタンスープは好物だ。
ファミレスであれば必ず頼む一品だった。とはいっても専門の洋食レストランで頼むほどではなく、
ファミレスやインスタントがあればそちらのほうを食べていたけれど。
だが、そんな思い出を過去にするくらいに、目の前のオニオングラタンスープはおいしそうだった。
チーズは金色に輝き。スープは健康的な小麦色を思わせる色合いで、パンはどこまでも柔らかそうだ。
ごくりとつばを飲み込む。
食べてもいいのかと聞こうとして、彼女はスプーンを僕の口に入れようとしていた。
「はいあーん」
「……自分で食べれるから」
僕が彼女の手からスプーンをとると、ティナはぶーとむくれる。
彼女のそんな様子に僕は苦笑すると、スープに手を付ける。
そんな僕をティナはじーっと眺めた。……ちょっと照れ臭いな。
チーズの乗ったパンをスプーンで切り取り、口の中に入れる。
その瞬間、パンの豊かな味わいが。
スープの濃い味付けが。
チーズの柔らかく酸味のある味わいが。
気が付けば暑さも忘れて
「とても、おいしかった」
人(魔物…いや、人形なのだけれど)と食事するのが楽しいと思ったのは。
僕がティナにそうお礼を言うと、ティナはにっこりと笑って言った。
「明日も楽しみにしててね」
ところで、人形なのにどうやって表情を変えているんだろうか?
結局ティナは家に住み着いてしまった。
ティナはこの家の……いや、僕のどこが気に入っているのだろう?
疑問は尽きないが、 帰れば、おかえりと出迎えてくれる人がいる。
なんと良い生活だろう。
ただ休息をとるだけだった部屋が暖かくなった。
ティナはどんな時でも美しく、優しく僕を迎え入れてくれる。
「準は良い子ねえ」
いつも彼女はそんなことを言う。
けれど、僕はティナの言葉とは反対にどんどん傲慢になっていった。
食事、家事は彼女の分担。
僕はそれに乗っかるだけ。
最初は手伝おうとしていたけど、彼女がやるというのでいつの間にか任せきりになっていた。
これじゃ、まるで家政婦じゃないか。
そんな風に我に返った僕は、途端に恥ずかしくなった。
なったのに、あろうことかその恥ずかしさを怒りへと変わっていった。
僕をこんな風に堕落させたのはティナのせいだ、と。
ぼくの勝手な思いを知らない彼女はニコニコとしている。
「あらぁ、準、どうしたのぉ?」
「僕は子供じゃないんだ、そんなことしてもらわなくてもできるよ」
「準は私の子供よぉ」
「そんなの頼んでないだろ!ほら、洗濯くらい自分でできるって」
僕はティナから洗濯ものをひったくると、ティナはまるで「しょうがない子ね」と言いたげに笑った。
いままで洗濯は自分でやっていたんだ、これくらいわけがないと洗濯機のボタンを押すと、ヘッドホンを付けた。
スマホを開き、進めているゲームのイベントを進めようと思った。
「あらー、しわくちゃねえ」
「……」
できなかった。
ゲームがうまくいっていたからか、夢中になっていた。洗濯機がアラームに気づかず服はしわくちゃになってしまっていた。
もちろん、同じ間違いは何度もするものではない。
でも僕はその失敗を受け入れることはできなかった。
ティナは気にしたふうでもなく、洗濯物を干す準備をしている。
素直にごめん、と謝れば済むのに。
僕が黙ったまま見ていることに気づいたティナがこちらを見てにっこりと笑う。
「……ぼーっとしていただけだよ」
「そうね、準は次なら間違えないわぁ」
自分が思っていたことを言われてしまった。
鏡を見たわけでもないのに僕の顔が苦虫にをかみつぶしたようになったのを感じる。
ティナは僕がどうすればいらだってしまうのかももう学習済みなのだ。
僕が家を飛び出し、深夜まで町でぶらぶらと過ごした。
ティナは僕と違って規則正しく生活しており、早く寝ていつも早く起きるのだ。
深夜に帰れば、ティナは寝ているだろう。
さて、何をして時間をつぶそうか。
つまらない無駄な時間を過ごし、疲労だけを持ち帰って家へ戻る。
まあ、そんな日もあるかと思いながらドアを開けた。
「ただいまー……」
ドアを開けても、誰も答えない。
お帰りのない帰宅はこんなに味気ないものだったのか。
なんとなくティナの部屋にはいる。
だれも、いなかった。
こんな時間に買い物に行くはずがない。
どうしていないのか。
愛想をつかして帰ってしまったのか。
血の気が引き、急に眠気が覚めるが、どうしようもない。
心臓がバクバクいう音を聞きながら、うずくまる。
当然と言えば当然だ。
こんな自分を愛する人などいない。
ティナだってそうだっただけだ。
「はははは…はは」
最後に交わした会話も思い出せない。
僕にとっても、ティナはその程度の存在だったのか。
心にむなしさを抱えながら横になった。
「起きたのねぇ」
「ティナ、出て行ったんじゃないのか」
「出て行ったわよぉ、買い物に行ったときに」
「何を買い物に行くんだよ……」
僕はその言葉に泣き笑いのような表情を浮かべる。
我ながら、勝手なものだ。
「毛糸よぉ」
「はぁ?」
彼女は僕の傍によると何かを巻いてくれた。
マフラーだ。
ふかふかと暖かい。
「わざわざ、編んだのかよ」
「準が風邪を引いたら大変だからねぇ」
「なんで、そこまで…」
なぜ彼女はそこまでしてくれるのだろうか。
いや、そんなことは分かっていた。
「私がそうありたいと思ったからよぉ」
「……ごめん、勝手に一人で怒って、出て行ったりして」
「ううん、へいきよぉ。だって準は戻ってきてくれたもの」
「そりゃ自分の家だしな」
僕が苦笑すると、ティナは困ったような顔になる。
「私も、べたべたして貴方を困らせているかもしれないわぁ」
でも、と彼女は言った。
「でもそれが、ティナ……いや」
「ママのいいところだよ。……そんなところが、好きだよ」
え、と彼女がびっくりした顔で見る。
心なしか、白い肌が赤く染まったように見える。
「ねぇ、準。今、なんて」
「ママ」
「もう一度言って」
「ママ」
彼女はまるで水浴びした犬のようにぶるぶる震えた。
僕は苦笑して肩をすくめる。
恥ずかしいけどもう一度。
「……ママ。何回言わせるんだよ」
「じゅーん!」
彼女は嬉しそうに笑いながら、僕の頭に飛びついた。
ぎゅっとしがみつきながら撫でてくれた。
「やっとママって呼んでくれた!呼んでくれた!」
そんなふうに微笑む彼女の目じりは、涙が光っているように見えた。
僕の視線に恥ずかしそうに身をよじる。
「ついでにチューして」
「お休みママ」
あんつれないと駄々をこねるママを置いてリビングから出る。
あの状態になると面倒になることはこれまでの生活でわかっていることだ。
僕がママと呼ぶようになってから一週間がたった。
話し合った結果、家事は分担してやることと決めた。
少しずつ練習した結果、ちょっとは手先が器用になった僕は、クリスマスにエプロンを作ってママにプレゼントした。
「ママ、世界で一番幸せ!」
「大げさだよ」
他に僕がママにできることは何だろう?そう尋ねても、ママは「準が愛してくれるだけで十分」といつも答えるのだった。
ママは無欲だね、と僕が苦笑すると彼女は「愛情に関しては自分ほど貪欲な人間はいない」と答えるのだ。
僕の人生は、とある人形の魔物娘のおかげで実りのあるものになった。
魔物娘は、人間とのHが活力になるのだそうだ。
いずれは、親子でHすることになるのかもしれない。
けれど、親子であることはずっと変わらない。
彼女が僕の「ママ」になろうとしたその日から。
だから、僕は変わりつつも僕のままであろうと思う。
僕のためにも。
世界一大好きなママのためにも。
18/12/21 23:37更新 / カイント