白いキャンパス
『記憶は忘れられる。人は生まれ変われる』
『でも、本当に必要なのは、あなたの自身の心の声を聴くこと』
『あなたの本当の願いは何かしら?」
白い髪の毛と赤い瞳を持つ魔王の娘はそう告げた。
私は、その問い本当の意味に気づくことはなかった。
ずっと、自分の気持ちなんて、わからなかった。
女の子は、スカートを握りしめてたたずんでいた。
思えば、誰もが場違いだと思っただろう。
公園のベンチでは男の子たちがゲームで盛り上がり。
女子たちがドラマや動画のアイドルに盛り上がっているときに、その女の子はやってきた。
こんな大人たちが言うところの「垢ぬけない公園」に、高そうなブランド品の服を着てやってきたのだ。
ご丁寧に大人っぽいバッグまで身に着けて。
さらさらとして長い薄茶色の髪の毛を一部後ろ手回している変わった髪型(お嬢様結び、と言う言い方があると後で知った)にまとめている。
笑ったら可愛いだろうに、まつ毛が長くおとなしそうなその瞳はきっとしており、薄い唇は一の字に結んだまま。
興味津々だけど汚したら大変そうだと女の子たちはひそひそと話し。
男たちは気になるけど近寄りがたくチラチラとみては目でお前が行けと目で合図しあっていた。
いつの間にかじっと見ていた僕は隣の子に小突かれて女の子に近寄り。
そのまま近づいた。
僕を小突いた子がもうそこまででいいと言うのも聞かず、少しだけ僕より目線が上の女の子に目を合わせる。
思いのほかぼんやりとした目つきだった。
「公園も意外と楽しいよ」
「……服、汚れちゃうから……」
ツンとした表情。
いつの間にか僕たちを見ていたらしいみんなが「やっぱりな」とため息をつく。
僕は咳をすると、にっこりと笑う。
「大丈夫、僕が弁償するよ!僕はシュウ、君の名前は?」
「……しらき、えみ」
やっと彼女も笑った。
それは、僕が世界で一番綺麗な笑顔だったと思った。
まあ、もちろん僕が弁償できるはずもなく。
あとで親に絞られた後、両親そろって恵美の家に謝りに行ったのだが。
恵美の両親は今度ら遊びやすい服を用意すると笑っていたので、お小遣いは減らされずにすんだ。
これが僕と白木恵美の出会いだった。
恵美は都会から来たらしい。
此処もさほど田舎ではないらしいが、いつか都会へ行きたいと僕に語っていた。
縁が出来た僕たちは、よくお互いの家に行って遊んだ。
恵美の家にはいろんなものがあったけど、僕が気に入ったのは彼女の両親が書いた絵だった。
「これいいね。誰が書いたの?」
「こっちはお母さん。湖の絵はお父さんが……」
「そっか。なら」
僕が言ったことに、彼女は驚いたように目を見開くとショウ君が言うなら、と呟いた。
それから、僕と恵美はいつも二人で絵を描いていた。
何時からか、2人でコンビを書いた絵はコンクールで入賞することも珍しくはなかった。
誘ったのは僕。
負けず嫌いだった恵美は、後から始めたにもかかわらず一生懸命で。
成長して彼女が大人びてくるころには、才能は隠しようがなくなってきた。
僕も、周囲の大人も彼女単独で書くことを薦めていたがそれでも僕と一緒に描くことを決めてくれた。
「私は、シュウくんがいないとだめだから……」
「大げさだよ」
嬉しかった。
それだけでなく、美人で頭も良くて、才能ある恵美が僕の友達であることに優越感も感じていたのだと思う。
友人の羨ましそうな声に、気づかないふりをする僕も心の中では得意げだった。
僕たちはいつでもコンビだった。
やっと身長が同じくらいになったころから、恵美は僕のことをシュウと呼び捨てにするようになった。
なんだかやっと同じ列に並んだような気がして、ちょっと嬉しかった。
***
でも、中学に入るころからクラスは別々になり会うのは部活の時だけだった。
無口で厳格な美術教師は怖かったけど、二人で絵を描けるのならそれも大丈夫だ。
美術部に入ってしばらくたったころ、彼女が知らない男と会っているとか噂が立ったが、僕は気にしなかった。
「シュウは題材決まった?」
「いや、まだ」
「しっかりしてね、貴方が遅れると私にも完成させられないんだから」
恵美はそうため息をつく。
なんだか僕よりもずっと年上なんじゃないかと思う。
「……ねぇ、シュウ」
「もし私が都会へ行きたいって言ったら、どうする?」
「都会で遊びたいの?」
「誤魔化さないで」
彼女のぼんやりとした目付きを引き締め、ツンとした態度をとる。
恵美はもっと条件のいいところで絵の練習したいとたまにこぼすことがあった。
「なら、僕も勉強しないとな」
「……そう」
彼女は、そうつぶやくと早く進めましょうと言った。
次の合作も頑張らなければ。
中学二年のコンテストの時。
僕と彼女の合作が、恵美単独の名前で金賞を取っていた。
無表情で表彰を受ける彼女に拍手が送られる。
教師たちの困惑したざわめきを聞きながら僕は呆然と会場から去る。
その日は何も考えられなかった。
次の日、ショックも冷めやらぬまま気づけば学校に。
放課後、ふらふらと気づかぬうちにたどりついた美術室で恵美と出会った。
彼女の態度と何ら変わらなかった。
「ごめんね、でも私の名前で出したほうがいいって言うから。賞金は山分けするね」
「そんなものはいいよ。でも、どうして知らせてくれなかったんだ?僕は別に……」
彼女は薄ら笑いを浮かべた。
それじゃあわかりやすく説明するね、と前置きする。
マネージャーから言われたらしい。マネージャーとは、みんなが言っていた恵美とよく会っていた男のことか。
「『美少女の画家』と、『学生二人組』。どちらがインパクトある?」
「そう、前者。ビジュアルが大切なの。絵の中身じゃなくて、みんなが求めているのはこうした話題性って奴」
「それは、君の本心なのか」
まだわからないの?と言いたげにため息をつく。
顔を上げた彼女は、いままで浮かべたどんな表情よりも冷たい笑みだった。
「最初からあなたのことは好きじゃなかった。子供のままの貴方を見ると、ね」
そう言って彼女は僕に背を向けた。
後で彼女の行動が裏切りだと友人から告げられていたが、僕には正常な思考が出来なくて。
彼女の両親からも謝罪を受けたが、もうそんなことはどうでもよかった。
部屋で1人になった時、僕は静かに泣いた。
その後、僕は美術部をやめた。無口で厳格だった教師が手続きをすべてやると言っていたので任せることにした。
中三の春。桜が舞う頃、彼女は外国へ留学した。
そのころには、向けられていたほんの少しの嘲笑、多くの同情や哀れみはなくなっていた。
みんなからの腫物扱いに居心地の悪い思いをしなくてもいいのは幸いである。
僕と言う枷が亡くなったからか、彼女は留学先の学校でも順調に若き画家としての道を歩んでいるようだった。
一躍有名人となった恵美は風の噂によれば、ある天才芸術家が弟子入りしたらしい。
一方の僕のキャンパスは真っ白なまま。
若き天才画家の名前を耳にしない日はなかったが、ある日を境にとんと名前を聞かなくなってしまった。
おりしもその頃は、魔物娘と言う存在がニュースを騒がしていたのだが。
マスコミが注目しなくなっただけでなく、消息がつかめなくなったのだ。
彼女が所属していた工房も、いつの間にか行方知れず。
僕はその時になって、行方知れずとなった彼女を探し始めた。
友人たちはいい顔をしなかったが、何とか頼み込んで協力してもらった。
もしかしたら僕は、彼女が自分のことを言及していることに期待していたのかもしれない。
だが、有名になったあとの彼女の記事には僕のことをうかがわせる記事はなかった。
彼、彼女らの協力を得ても、手掛かり一つ得ることはできず。
それでも探し続けたのは、大人しいが負けず嫌いだった彼女が姿をくらますことなど信じられなかったからだ。
なにより、きっといつか会えると信じていたから。
美術部をやめた僕には時間はいくらでもあった。
だけど、なぜ彼女を探すのか。
もし会えたとして何を話すつもりだったのか、自分でもわからなかった。
やがて彼女の両親からももう娘のことは忘れて、自分の時間を大事にしなさいと告げられた。
娘を失い憔悴しきっていたのに、僕のことを気遣ってくれたことに、胸が痛む。
僕が喪失感を抱えても、時間は無情に過ぎていく。
雨が多く湿気がきつくなっていた。
傘を差しながら帰り道を歩く。
空き地となった草むらを見た時、歩いているとき、傘をさしてたたずむ女の子の後が偶然目に入る。
お嬢様結びをした薄茶色のその髪の毛は、見覚えがあった。
灰色だった視界に急に色がついたようで。
「恵美!」
「お兄ちゃん、誰……?」
切れ長の瞳、ぼんやりとした目付き。
ツンとしたときの口元。
幼い頃の恵美そっくりだった。
「ご、ごめん……人間違いで……君、両親は?」
「でも、エミ……そうだね、今日からエミって名前にしようかな」
どこか他人事のようにつぶやく。
恵美の面影をもつ少女は。
ぼんやりと、僕をながめるだけだった。
とりあえず彼女をアパートまで連れ帰った。
冷静に考えればわかる。
彼女は魔物娘だ。
コウモリのような羽、羊のような角、ハートのような尻尾がついていている人間がいるだろうか?
どんなに似ていようが、人類である恵美であるはずがないのだ。
なにより、絵画に全く興味を示さない彼女が恵美とはとても思えなかった。
……いや、そういうふうに思い込もうとしていたのだろう。
もし彼女が恵美なら。
また僕の元から去ってしまいそうだったから。
僕はそれだけ、エミに救われていたのだろう。
彼女は、1人暮らしをするようになった僕のアパートに来るようになった。
話を聞けば、恵美の家にも行ったりしているようだ。
白木家の父母から可愛がられており、止まることもしばしばあるらしい。
両親も娘を失って寂しかったのかもしれない。
魔物娘の学校に通う以外は、僕にいつもついてきた。
「お兄ちゃん、あのね!今日学校でね、クッキー作ったんだよ」
僕に懐く彼女は、記憶の失ったままだったけど。
彼女の存在が、僕に力をくれたのだ。
あの日以来、絵を描くことが出来なかった僕だが、少しずつではあるがキャンパスに筆を走らせることができるようになっていた。
「も〜お兄ちゃんまた絵を描いているの?こんなに汚してえ」
管理人さんの好意で借りている物置で絵を描いていた僕は、文字通り泥まみれの子供のように汚れている。
汚れ防止のために身につけたエプロンは真新しい絵の具の染みで一杯。
エプロンの替えもなく、顔も手のひらも絵の具が飛び散ってまるで七色の虹のように染まっていた。
なぜかエミは僕が絵を描いているときや「恵美」のことに関連するととても不機嫌になるのだ。
彼女には悪いけど、その不機嫌になった表情は恵美の面影を感じることも少なくなかったのだ。
「お兄ちゃん、まだ……あの人のこと、好きなの?」
「好きっていうか……心配なだけだよ。幼馴染だからね」
すると、彼女の尻尾が手に絡まってきた。
「お兄ちゃんを裏切ったあの人のことなんか……忘れてしまえばいいんだよ」
エミのその言葉をぼくは絵に熱中して聞こえないふりをする。
こんなごまかしでも、彼女には通じないとはわかっていた。
それでも、彼女は僕を責めたりせず後ろに抱き着いたままだった。
エミは、アリスと言う魔物娘だった。
だからいつか完璧なアリスになりたいと、不思議の国へ行くことを願っていた。
それだけではない。
「きっといつか記憶を取り戻したいの……お兄ちゃんに隠し事はしたくないから」
「その時は僕も手伝うよ。エミがそうしたいならね」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「……代わりに、私も手伝うよ。あの、恵美って人のことも」
「気が向いたらでいいさ」
そうぷいと横を向いて言った時の顔は、とても恵美に似ていた。
僕はそんなことを思いながら、ぽんと頭に手を載せる。
***
冬の寒い日。
彼女が突然いなくなった。
恵美の両親から電話で話を聞いたことによれば、恵美の家で金賞を取った時の絵を調べた後、急にいなくなったとのことである。
探しても見つからず、時間がだけが過ぎていった。
おまけに突然の雨。
強くなる一方で雨宿りする場所も見から無いまま途方に暮れた時。
初めて彼女と出会った公園で、立ち尽くすエミを見つけた。
ぐしょぐしょにぬれた彼女のうつろな目からはまるで涙を流しているように見える。
かすれる声で言った。
ぽたぽたと長い髪から水滴がおちる。
「やっぱり……みつかっちゃったね」
「早く戻ろう、エミ。いくら魔物だからってこのままじゃ風邪を引くよ」
唸るような雨音なのにはっきりと聞こえた底冷えするような声。
少女の高い綺麗な声だった。なのに負の感情ががこもったようなそれは、僕の体を益々冷やしていく。
「……シュウは、私がいないほうがいいでしょう?」
「何を言っているかわからないよ」
僕が、絞り出せた言葉は消え入るような声で、しかもありふれたものだった。
シュウと呼び捨てにされたことに違和感を感じながら彼女の肩に手を置く。
エミは僕の手を拒絶するように首を振った。長い髪の毛から水滴が散らばり、僕と彼女の身体をぬらす。
「……さないで」
だが、僕の言葉ははっきりと届いていたようだ。
手を払いのけられる。
僕は、彼女の逆鱗に触れていたのだ。
「誤魔化さないで!」
雨音をかき消すほどの、大きな叫び声。
初めて見るエミの激高に、言葉を失う。
いや、言葉が出せなくなったのは違う理由だ。それは、彼女の怒りを見たからではなく。
彼女は、僕が探していた人。いや、魔物娘……。
「恵美……。」
「…やっと気づいたんだ。いや、気づかないふりをしていた?」
今度は怒りから口元をゆがませてそう答える。
彼女は、あざけるような、そんな表情でそう言った。
その通りだ。
いや、気がつかなかった訳じゃない。エミが恵美なのではと思った事は何度もあった。
けれど、彼女はあまりにも違いすぎる。そう思っていた。
何故魔物娘になったのか、記憶はどうしたのか。何故日本に戻ってきたのか。
__そして、何故。僕を裏切ったくらい入れ込んでいた、絵を嫌いになっていたのか。
疑問が頭をよぎるが、頭が真っ白だ。
たくさんの何故で頭がいっぱいのままそれでもよろよろと彼女に手をさしのべる。
いつの間にか、彼女は嘲笑の形に口元をゆがめたまま。
力なくへたり込んでいたからだった。
とにかく彼女をへたりこんだ彼女に手を差し伸べるが、その手を払いのけさえしなかった。
「何が何だかわからないわよね。だから、お話をしてあげる。長い、長い昔話。貴方にとっての空白の期間ーーそして」
「愚かな1人の少女の物語を」
彼女が、嘲笑していたのは僕じゃなくて……。恵美、自身だったんだ。
彼女は乾いた笑いをしながら、話し始めた。
彼女は僕のいないところで、海外留学やもっといいところへ転校するようたびたび進められていたらしい。
時にはもっと強い口調で「才能を腐らせるな」と言われたこともあったようだ。
「子供の貴方に、助けは求められなかった」
強い口調で「子供」と言う言葉を彼女は強調して話した。
「それに、正直ここから抜け出したかったし」
都会に対するあこがれもあったのだろう。ここには絵の題材も少ないし、何より遊ぶ場所も少なかったから。
彼女は断り切れず、留学を決意したようだ。
そしてあの日。僕に決別の言葉を述べたのだろう。
「あの日私も泣いたけど、それからの数日間はとても楽しかった」
海外で才能溢れる人々との華やかな生活は、彼女の才能に見合ったものだったかもしれない。
だが。
光の中の影。徐々に見えてくる暗黒面は彼女を追い詰めていったようだ。
特定の生徒に対するいじめ…上級生のしごき…理不尽な嫉妬、潰し合い。
閉鎖環境のなか、連絡も取れない中、彼女を指導していた教師の信頼のみが彼女を支えていた。
だが、その教師も彼女の才能のみを見ており、彼女を助けようとしなかったのだろう。
実力主義の中で、弱い人間は踏みつぶされる。
「__もう、私には。何も、残ってない」
いつからか彼女の心は砕かれてしまった。
裏切ってまで求めて、そして最後に彼女は全てを失ったのだ。
故郷に戻ったところで、彼女が受けるのはいったい何だろうか。
一番の友人だと思っていた人物が、こんな人間に優しくしてくれるのだろうか。
「……その日は、雨が降っていたの。何も思いつかなくって、絵が描けなくなって歩き回ってて__こうしてずぶ濡れになって」
そして、出会ったのだという。
この世界にやってきた「魔物娘」その、代表の一角であるリリムという魔物に。
その姿は、同性の彼女でも一瞬何もかも忘れさせるものだったようだ。
『あなたの本当の願いは何かしら?』
そして願ったらしい。
「消えたい」
と。
「消えたいの……私の全部を。お願い……この思いも、私自身も……消える、こと、しか」
「全てを振り切ってきたのに。勝てなかった」
悔しい、悔しい。
そうつぶやきながら彼女はぎりぎりと歯ぎしりする。
地面をかきむしったせいか、指が少し赤くなっているように見えた。
「けなされて。壊されて。晒されて……努力しても、努力しても。ねぇなんで?才能があるから?貴方を切り捨てたから?
身の程も知らず海外に来て調子にのっていたから?」
「僕は恨んだりなんかしてない」
「そうだよね。私は言われただけだったのに。言うことを聞いていたのに。我慢していたのに、どうしてよ……」
彼女は訪ねていると言うよりも自問自答しているようだった。
震えながら、手で頭を抱える。
雨に濡れた角が、まるで号泣している彼女を現しているようだった。
「こんな記憶……ずっとなくしていたかった」
「こんな醜い、裏切り物の、人間の私を晒すなら」
「「恵美」はいないままで良かったのに!」
彼女は叫んだ。
そして、満足でしょう?と聞いた。
「あいつらも……友達も、立夏も、お父さんもお母さんも、都合のいい時だけ私を利用してッ!」
「あんな絵なんか捨ててくれれば良かった!落ちぶれて子供みたいになった私を見て憐れんで!」
「生意気な娘が落ちぶれて満足?子供みたいに甘える私を見てさぞかし溜飲がさがったでしょう?」
「罵りなさいよ!裏切り者だって!笑えばいいじゃない!いい気味だって」
「こんな形で、再開できたって、どうすればいいか、わかんないよ」
地面を叩きながら泣叫ぶ恵美を抱きしめる。
凍り付いていたはずの思考が動き出しているのがわかった。
「そうさ、君のことを本当は裏切り者だって思っていた。でも」
「本当はずっと君のそばにいたかった。たとえ並び立てなくても、近くにいれるだけでよかったんだ」
抱きしめたの彼女がびくりと震える。
「その勇気が僕になかった……僕が大人だったら、もっと早く君の苦しみに気づけたのかな?」
「貴方が大人でも、結果は変わらないよ。拒絶したのは、話そうとしなかったのは私なのにね」
「それでもだよ」
恵美は柔らかなようやく笑みを浮かべる。
雨と涙の上にはねた泥だらけど、とてもきれいな笑みだった。
あの日以来ずっと探し求めていた、恵美の笑顔だった。
それは、僕が世界で一番綺麗におもう笑顔。
「私は、シュウがいないとだめだったから……だから、絶対に放さないで」
「放さないよ」
「勝手に離れたのは私なのにね……でも、ありがとう」
「私やエミの傍にいてくれて」
「ありがとう、お兄ちゃん、恵美を赦しくれて」
その後のことは、簡単に話す。
僕と恵美は、アリスに生まれ変わらせたリリムという魔物の所を訪ねた。
どうしてもお礼を述べたいと恵美が言っていたからだ。
僕も恵美を助けてくれた彼女にお礼を言いたかったからだ。
リリムは首を振って、留学時代の記憶を消すかかどうか尋ねてきた。
その前に、僕は聞いた。
「なぜ彼女はアリスに?」
『それは』
リリム様に目くばせをすると、恵美は落ち着いた表情で答えた。
「私が、多分。穢れない身体になりたいと思ったから、かな」
「馬鹿だよね。本当の自分を知って欲しかったのに、格好つけて」
「誰かを言い訳に生きないよね。やっぱり自分の為じゃなきゃね」
「恵美……」
『記憶はどうする?消すの?それとも_____』
彼女は少し考えた末、決意に満ちた目でリリムを見た。
「私の答えは……」
その後、彼女をサキュバスの学校が引き取ってもいいと言ってきたが、恵美の両親はそのまま家で預かることになった。
2人は娘の苦しみを知れなかったことを悔いている、と言っていた。
だから今までどうり家族として接したいのだとか。
邪魔になることを懸念していたが、恵美もそれ以上に両親がまだ自分を愛していることが嬉しかったのかもしれない。
公園で僕が絵を描いていると、彼女がパタパタと飛んできた。
その顔に浮かんでいるのは屈託のない笑顔を浮かべている。
「絵、描いているんだね」
「うん」
その時、僕は立ち上がると彼女に筆を渡していた。
キョトンとした顔で、僕を見つめる。
「嫌じゃなかったらでいいんだけど、書いてみない?」
「それじゃあ、ちょっとだけ」
その小さな手でおずおずと筆を手に取る。
きっといつか、彼女はまた絵の道へ歩みだすかもしれない。
そしてそれは名誉や富のためではなく。
今度こそ彼女の。
僕たちの為だけに描く絵になっているのだろうと。
根拠もなくそう思ったのだ。
白いキャンパスが、再び未来を描き出すように。
18/01/28 23:42更新 / カイント