連載小説
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Side:諌・合わせのタイミング
週の真ん中、水曜日。
各地の卸売市場が休みとなることの多いこの日、食品業界は比較的落ち着いている。
中堅クラスの食品商社、澤井フーズの事務所もご多分に洩れず静かで平和な時間が流れている。

「…くそっ、やらかした。」
総務部のブースにある自分のデスクで溝呂木諌は頭を抱えていた。
少し前に書庫で作業を済ませた帰り、不注意で営業職の上司に大声を上げてしまった。
部署違いとはいえ、上司に対して失礼な行為をしてしまった後悔…そればかりではない。

『…こっちが悪くて…ごめんなさい。』
『…ごめんなさい。』
『ごめんなさい。』
『ごめんなさい。』
失礼を働いたと気に病んでいる相手の名は湊凪、営業部量販課の課長補佐であり――

「ああ…今告白してもフラれる自信しかねえよ。」
諌の想い人である。
大きくため息をつき、机に置いていた眼鏡を掛け直した。
先程の失態で、好きな女性(ひと)から嫌われたのではないか…先程からずっとその事ばかり頭の中で逡巡している。

――――――――――――――――――――――――――

「このままじゃだめだ、ちょっと休んで頭の中をを切り替えよう。」
先程の件からずっと調子が狂いっぱなしの諌、普段ならありえないような些細なミスを頻発してイライラが募るばかり、挙句上司に呼び出されて心配される始末であった。
大きなため息をつきながら首をぐきぐきと回して足早に廊下を歩き、食堂へ向かった。
百円玉と十円玉ふたつずつを自動販売機に放り込み、エナジードリンクを購入。
黒と緑のデザインの缶の中身を、一度に半分ほど飲み下す。
強めの炭酸とカフェインの刺激、次いで果糖ブドウ糖液糖の甘味とクエン酸の酸味、最後にもうどうにでもなれというやけくそな思考が喉を抜け、胃袋に流れていった。

「お、イサミンじゃんおつ〜。」
「お疲れ様です、レイカさん。」
軽く手を挙げ、指をひらひらさせながら入ってきたのは、諌と同じ管理課に所属するパイロゥの火野レイカ、歳は諌のひとつ下で凪のひとつ上。
役職こそ無いものの、高卒入社で社歴が長く経験値が高いため、諌や凪などの同世代の後輩社員からは姉貴分として慕われている。

「さっき派手にやらかしてから調子悪いんですよ…湊さんに合わせる顔が無い。」
大きな溜め息をついた諌、ぬるくなった残りのエナジードリンクを無理矢理喉に押し込む。
普段はアクティブで一本気、相手の役職や種族に関係なく積極的に意見をする一方、変な所で責任感が強すぎるきらいがあり、無意味に落ち込む事がある。

そんな歳上の後輩の様子を黙って眺めながら、ホットココアの缶を開けた。

「イサミン、 ナギちゃんの事好きでしょ。」
ぶふっげほげほっ!
藪から棒に何言ってるんですか!」
図星を突かれて狼狽しながらも必死で取り繕い誤魔化そうとしている諌、その様子をにやにやと眺めるレイカ。

レイカに心当たりはあった。
以前、凪の主導で新商品の調味料のプレゼンした際、台風の影響で海が大時化で手配していたはずのアジが入荷しないという事があった。
それを聞き付けた諌、終業後に高速で1時間以上走って隣県の港に行き、文字通り飲まず食わず一睡もせず夜通し釣って手配してきた。
アジのゼイゴと腹鰭の棘で手はずたずた、空腹と渇きと疲れと眠気でふらふら、満身創痍な状態で70匹以上のアジが入ったクーラーボックスを凪に引き渡したとき、諌は勝ち誇ったような満面の笑みを浮かべていた。

「実際お似合いだと思うよ、ナギちゃんは優しいし可愛いし地味にスタイル良いし、イサミンほどじゃないけど頭いいし。」
「どうなんでしょうね、物腰柔らかくて気配りできて落ち着いてる湊さん。
こんな落ち着きなくいつもやかましくて、強引に事を進めようとする荒くれ者なんぞ相応しくないですよ。」
苦い笑顔で自虐に走る諌、できる事なら想いを伝えて恋人となりたい――でも、その資格が自分にはあるのだろうか、自問自答と否定があたかも初心者のこさえるミルクレープの如く雑に折り重なってゆく。


…そして、その様子を恐々と覗き込む柘榴石のように紅い眼、その存在に気付いていたのはレイカだけであった。


「ま、反応があったら動く事さね、相手がいない魔物ってのは捕食者の本能みたいなのを持ってるもんだよ…ってもういないよ。
自分が餌になってるの気付いてないねぇ…さっさとナギちゃんに喰われちゃえっての。」
レイカは伝えそびれた言葉を溜め息混じりに始末した。
冬の日の入りは足早にやってくる、夜の帳の端が東の方からちらりと見え始めていた。

――――――――――――――――――――――――――

夜、街の中心部近くの寂れた漁港でひとり糸を垂らしいている諌。
狙いはメバル、冬になると産卵を控えた大物が岸近くに寄ってくる。
諌がやっているのはベイトフィネスという専用の竿とリールを用いた、ルアー釣りの中でも難易度が高めの釣り方。
あれこれカスタムやチューンを施した竿やリールと、何度もメーカーからプロの誘いを受けるほどの腕前を武器に幾度となく数多くの大物、そして大会の勝利を手中に収めている。

午後の出来事を忘れようと車を飛ばしたのだが、結局脳内の支配権を握っているのはその事ばかり。

『相手がいなけりゃか…湊さんなら社内外にいてもおかしくないだろうな。
それこそ同じ量販の千樹あたりと仲良いし…くそったれ。』
凪の直属の部下の千樹瞬、部署こそ違えど諌にとっては可愛い後輩、会社や労働組合の飲み会になるといつもつるんで、二次会・三次会であれやこれやと好き勝手やる仲である。
自分の中で余計なことを考え、一方的に不必要な嫉妬心を募らせる諌、その積み重なった嫉妬心は集中力を奪い、判断を鈍らせる。
僅かにたるんでいた糸が不意にふっと張り、もぞりと竿先に違和感が走る。

「よし食っ…くそっ!ちくしょう!」
メバル用としては少し長めの竿が真ん中からぐっと曲がり込んだ…が、数秒後にはすっと抜けてしまった。
警戒心の強いメバル、ルアーを吸い込んだ瞬間に合わせを入れてやらないと、違和感を覚えてたちどころに吐き出してしまう。
リールのハンドルを急いで回して糸を巻き取ると、魚を模したプラスチック製のルアーの腹部に付いた針の先端、メバルの鱗が付いていた。

「…にしてもあいつら、ハイビームくそ眩しいな…」
港の近くに停められているアンバランスに車高を落とした軽ワゴン、保安基準に通るのか怪しい下品なエンジン音と安っぽいハイビームとフォグランプの光をぶちまけていた。
大きなため息をつき、シルバーのSUVのリアゲートを開けて前後のシートのヘッドレストの間に据え付けられたロッドホルダーに竿を取り付ける。

「文句つけてやろう、いざとなったら勢いで押し切って怯ませてトンズラだ。」
大物、怪魚、モンスター…そう呼ばれる魚たちと年に何度も渡り合う諌、まだインキュバス化していない人間でありながら相当な臂力を持ち合わせている。
それに自分の身を守る術は心得ている。

『うわ最悪、誰かに絡んでるじゃん。
湊さんと同じドッペルゲ…いや、湊さんが絡まれてる!』
人というのは極端に頭に血が上ると、逆に冷静になることがあるらしい。
大きく深呼吸をしてから黒いブッシュハットを目深に被り直し、夜の闇に紛れて一気に距離を詰めにかかった。

――――――――――――――――――――――――――

「どうして私を守ろうとしたんですか、車のライトの事だけでも良かったのに?」
LED照明に押されてかなり数が減っているナトリウムランプが放つまろやかな橙色の光の下、不届き者の撃退に成功した勇者の尋問が始まった。
不届き者とは交戦せずに済んだばかりか、悪行の一部始終を額に据え付けられたアクションカメラで全て捉えていた。
ところが、格好付けてブッシュハットの鍔を思い切り捲ったのは明らかに失敗だった。
不届きものから救ったはずのお姫様が尋問官へと早変わり、という当然ながらお粗末な末路を歩んだ。

普段なら押し黙っていればやり過ごせる状況だが、ここまで腹を括っている相手では誤魔化しはきかない。
分不相応な大見得を切ってしまった、いくら好きな女性を守ろうと咄嗟に放った嘘でも、もう少し考えようもあったし、もっと上手い嘘もあった筈である。
よりにもよって恋人だ、など…最悪のはったりをかましてしまった事は今更後悔しても後の祭り。

「まあ、あいつら程度なら2対1でも余裕でやりあえますし…」
やっとこさ絞り出した最後の時間稼ぎも悪足掻きにすぎなかった、もう自白するしかない。

「湊さんの事が好きだからです。
湊凪さん、貴女の事がずっと好きでした…恋人としてお付き合いさせて下さい!」

―ああ終わった、ぶん殴られても仕方ない
―二度と仕事以外じゃ口も効いて貰えないさ
―更にはセクハラで処分、始末書は不可避だろうな
―殴られるなら拳より平手にしてくれ、眼鏡を壊したくない
―賽は投げられた、もうどうにでもなれ

永遠のように長く感じられる数秒の間隙、それなりの覚悟と諦めでもって受け入れ態勢を整えた――かま、結果というものはそれを案外あっさりと掻い潜るものである。

釣り用の防寒ジャケットの襟元を掴まれた諌に襲いかかってきたのは衝撃でも痛みでもない





唇にふるりと柔らかな感触、鼻を優しくくすぐる文旦か蜜柑のようなほんのり甘い匂い。




殴られた時、少しでも痛くないと錯覚するよう本能的に目の焦点を散らしたことが災いし、何が起こったかを飲み込む際、深刻なタイムラグが発生した。

「はい!
不束者ですが、よろしくお願いします♪」
状況を理解する前に、凪から結論――予想より遥かに優しく、激烈な結論――を告げられた。

「…お…おぁ…あ…しゃおらあああああああ!」
暫くは鳩が豆鉄砲を喰らったように固まっていた諌だったが、次第に顔が綻び、ついには咆哮を上げ何度も飛び跳ねるようになった。
それ以上の歓びを表現できる術が見当たらない。

「これから姉のやってるバーに行く予定だったんです。
恋の悩みを聞いてもらおうと思ってたんですけど、喜びの報告ができ――」

まずい、さっきルアーの入ったショルダーバッグとフローティングベスト、助手席に放り込んだままだ。
付き合い始めて数分の愛しい恋人を魚臭いシートに座らせる訳にはいかない。
助手席に鎮座させていた先行者をトランクへ左遷し、グローブボックスから取り出したウェットティッシュでいそいそとシートを拭き上げよう、防水素材のシートはそれだけでも充分小綺麗になる。

「車出します、助手席片付けるので待っててください!」

返事をするまでおよそ250ミリ秒、20世紀終盤の未だオフコンが幅を利かせていた頃のパソコンよりは回転の速い頭で何をすべきか事を固めていた。



そんな事を考えている一瞬よりかは幾分長い間のうちに、空から白いものが降ってきた。

「「ああ、雪だ」」

同じ言葉を口に出す、二人のタイムラグは10ミリ秒未満。
しかし、状況の捉え方は真逆のベクトルを示していた。

嬉しそうに目を大きく見開く凪の顔に心躍るが、悲しいかな豪雪地帯の生まれと育ちの本能故に顔をしかめて項垂れさせる。

くすっと笑われてしまった、まあ…たまにはそういうのも悪くない。
24/05/15 23:24更新 / 山本大輔
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■作者メッセージ
ご一読ありがとうございます。

ここでひとつ余談を。
登場人物の名前についてです。
登場人物の名前は私の趣味の特撮の登場人物から取っています。
苗字と名前をそれぞれ別シリーズから引っ張ってくるようにしています。
ただし、ひとりだけ最初に決めちゃってその命名規則から外れているキャラもいます。

さて、これで前後編は終わりました。
あとは αとして500-1,000文字予定の小話を3つ繋げた軽いアフターストーリーで話を締めようと思います。
もう少々お付き合いいただけると幸いです。

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