糸の美女(エロなし・バトル・ほのぼの)
「…やっぱり、買うようですかね?」
三連休の中日の昼前の大型ショッピングモール、テナントの薬店の化粧品コーナーで首を傾げる諌。
「当たり前じゃないですか!
それ火傷ですよ!?」
珍しく声を張り上げる凪。
前日、昼過ぎから夕方までテナガエビを釣りに行った諌。
アニメ配信を観ていた凪、諌が日焼け止めを忘れた事に気付かなかった。
結果、盛夏の強烈な紫外線をたっぷりと浴びた顔や首筋は食べ頃の桃のように、両腕に至っては熟れ過ぎたトマトの如く赤く腫れ上がっていた。
「すみません…刺激の少ない化粧水と乳液ってありますか?
彼氏がこうなっちゃいまして…。」
諌の惨状を観た店員、予告もなしにスプラッター動画を見せられたような顔でうっ…と悲鳴とも呻き声とも取れる声を上げた。
勧められた化粧水と乳液をカゴに入れると、ほぼ同時に凪の携帯から軽快な通知音が響く。
「嘘でしょ…ごめんなさい諌さん、妹が近くに来るみたいなんです。
ちょっと離れます、先に会計してください。」
申し訳なさそうに頭を下げながら売り場から離れていった。
――――――――――――――――――――――――――
「…随分時間経ってるな、迷ったか?」
30分が過ぎ、それでも何の返事もない。
『大丈夫ですか?
場所分かればそちらに向かいます。』
メッセージアプリに打ち込んだ、ついでに凪と妹の分の飲み物でも買っておこう…と思って歩き出した矢先、通知音。
助けて
A駐車場に来て
一瞬で諌の目付きが変わった。
凪とその妹の身に何かが起きた、大急ぎで渡り廊下を抜けてA駐車場へ躍り出た。
電話を掛けるが出ない、メッセージを送っても既読が付かない…悪い予感がした。
「凪さん!」
諌の呼び声が夏の陽炎に虚しく消える、と同時に目の前の風景が大きく変わった。
――――――――――――――――――――――――――
荘厳な装飾があしらわれた広い劇場のホールに諌は立っていた。
が、装飾や色味の取り合わせがちぐはぐで、どうしても違和感が拭えない。
「なんか…生成AIでこさえたみたいだな。」
顔をしかめながらぼやいた瞬間、目の前に黒い影が降り立った。
「ようこそ、ボクの創った舞台へ!」
僅かに癖のある濃い栗色のセミショートのボブヘアー、黒の三つ揃えスーツに同じ色の中折れ帽、チタングレーにプラチナ色の装飾が入った仮面。
「その仮面にこの空間、ファントムか!」
ファントムは問い掛けに応じる代わりに諌に何かを投げ付ける、眼鏡を狙っている事に気が付き右腕を振って弾き飛ばす。
糸は強く粘り付いて絡み付き、強く引っ張ってもびくともせず腕に食い込む。
1.5mmほどある糸、船舶の係留ロープや防弾・防刃ベスト、そして釣り糸などに使われる超高分子量ポリエチレン繊維を編んだかのようにしなやかながら張りがある。
それがアラクネ属のいずれかから出た糸、それを加工したものだと容易く想像が付いた。
「デザインも糸の扱いも正直微妙だな。
凪さんがどこにいるかを話せば、その辺レクチャーしてやるよ。」
ぐっと食い込む糸、日焼けで赤く炎症を起こした腕に強い痛みが襲い掛かる。
「大きな魚が釣れた時に必ず網を使って引き上げてるんだってね、あんまり力は無いのかな?
ラタトスクの友達から情報は聞いている。」
同じ目線、距離およそ2メートルのところに降り立ったファントム、力任せに糸を引っ張る。
「リサーチが甘いなぁ。」
両手に何回も糸を巻き付け、ぐっと握り込んだ。
「ランディングネットを使うのは竿や糸、魚の口が耐えられないから。
その心配が無ければ…ぶち抜くまでよ!」
ファントムの身体を地球の重力から引っこ抜いた。
そのまま時計回りに360度、720度、1,080度振り回す。
それ以上はファントムの握力が保たず、すっぽ抜けて吹き飛ばされた。
3メートルほど先にうまく着地して床や壁に叩きつけられはしなかったものの、目が回って立てない。
慌てて上着のポケットから別の糸を取り出し、諌に向けて無茶苦茶に振り回すが当然当たる訳がない。
諌の手慣れたフリップキャストから放たれた糸、まるでロボットアニメでロックオンした座標に放つワイヤーアンカーのように正確に飛ぶ。
普段の釣りなら20メートル先のコーヒー缶に確実にルアーを当てるキャスト精度、竿が無くて精度は劣るとはいえ、5メートル先の帽子に当てて取り上げる事など造作も無かった。
「ボクはまだ負けてない…本当の戦いはここか
「有彩、いい加減にしなさい!」
――――――――――――――――――――――――――
「本当にごめんなさい…」
昼時、ショッピングモールのテナントに入っているイタリアンレストランに3人は座っていた。
先程とは打って変わって、水やりを忘れた鉢植えのように萎れているファントムは有彩、湊家の十三女である。
眉間に深々と皺を寄せた諌と腕組みをしてかんかんにお冠の凪がテーブルの向かいに構えていた。
凪や三女の日和の母校でもある瑞穂県で一番の偏差値を誇る公立の進学校、そこの2年生である有彩は最近成績が伸び悩んでいた。
何かにつけて凪や日和と比べられ、あれやこれやと言われ、嫌気がさして塾の夏期講習をサボって凪の元へ家出してきたのであった。
「凪さん、明日の朝まで彼女を預かりましょう。
責任は取ります。」
諌の提案に凪は我が耳を疑い、諌の方を向き直った。
高校2年の夏休み、受験勉強に於いて極めて大事な時期であり、成績が伸び悩む有彩には遊ぶ暇は無い。
姉として、高校の先輩として、受験戦争を乗り越えて国立大学に進学した者としてそう考えている。
「今の彼女には心の余裕が無い…張り詰めた糸はすぐ切れる、今日はチートデイという事です。」
最難関の私立大学に一発合格し、理工学部を経て大学院へ進学した諌もまた、受験戦争を勝ち抜いた者のひとりである。
今回の件、凪は一旦諌に全て任せてみる事にした。
「とりあえず、昼飯にしましょう。
何頼みます?」
諌がテーブルに立て掛けてあったタブレット端末を取り出し、次々と料理を注文した。
――――――――――――――――――――――――――
夕方、諌と有彩が二人で問題集に向かい合っていた。
「酸と塩基の水分子をHとOHに切り分ければ考えが整理させやすくなる、もう一度解いてみな。」
さらさらとシャープペンシルの音、長い事曇っていた有彩の表情がすっと晴れた。
「要となる英・数・国の基本三科目はしっかりできてる、苦手を徹底的に潰せば呆れるほど簡単に成績が上がるさ。」
にやり、と自信たっぷりなしたり顔でサムズアップした諌。
一時は家に呼ぶ事に抵抗を示した凪も、妹の憑き物が取れたような顔にほっと胸を撫で下ろした。
「諌義兄さん、いいなぁ…凪お姉ちゃんから獲っちゃお
「冗談でもそんな事言っちゃ駄目だよ、人の痛みが分かる子になりなさい」
目をかっと見開いて有彩の肩を鷲掴みにする凪、鬼気迫る表情で詰め寄る姿にふたりは小さく悲鳴を上げる。
「知識は裏切らない、人間と違ってさ…」
妙に説得力のある諌の一言、失望、恐怖、諦観…ごちゃ混ぜになった苦い感情が、その目にごく僅かに、かつ明確に見えていた。
それもすぐ、明るい笑顔にかき消された。
腕時計の時刻を確認し、諌はやおらに立ち上がった。
今日の夕食はたっぷりの薬味をかけた冷たいおろし蕎麦、台所で付け合わせの夏野菜のかき揚げと竹輪のチーズ磯辺揚げを作り始めた。
三連休の中日の昼前の大型ショッピングモール、テナントの薬店の化粧品コーナーで首を傾げる諌。
「当たり前じゃないですか!
それ火傷ですよ!?」
珍しく声を張り上げる凪。
前日、昼過ぎから夕方までテナガエビを釣りに行った諌。
アニメ配信を観ていた凪、諌が日焼け止めを忘れた事に気付かなかった。
結果、盛夏の強烈な紫外線をたっぷりと浴びた顔や首筋は食べ頃の桃のように、両腕に至っては熟れ過ぎたトマトの如く赤く腫れ上がっていた。
「すみません…刺激の少ない化粧水と乳液ってありますか?
彼氏がこうなっちゃいまして…。」
諌の惨状を観た店員、予告もなしにスプラッター動画を見せられたような顔でうっ…と悲鳴とも呻き声とも取れる声を上げた。
勧められた化粧水と乳液をカゴに入れると、ほぼ同時に凪の携帯から軽快な通知音が響く。
「嘘でしょ…ごめんなさい諌さん、妹が近くに来るみたいなんです。
ちょっと離れます、先に会計してください。」
申し訳なさそうに頭を下げながら売り場から離れていった。
――――――――――――――――――――――――――
「…随分時間経ってるな、迷ったか?」
30分が過ぎ、それでも何の返事もない。
『大丈夫ですか?
場所分かればそちらに向かいます。』
メッセージアプリに打ち込んだ、ついでに凪と妹の分の飲み物でも買っておこう…と思って歩き出した矢先、通知音。
助けて
A駐車場に来て
一瞬で諌の目付きが変わった。
凪とその妹の身に何かが起きた、大急ぎで渡り廊下を抜けてA駐車場へ躍り出た。
電話を掛けるが出ない、メッセージを送っても既読が付かない…悪い予感がした。
「凪さん!」
諌の呼び声が夏の陽炎に虚しく消える、と同時に目の前の風景が大きく変わった。
――――――――――――――――――――――――――
荘厳な装飾があしらわれた広い劇場のホールに諌は立っていた。
が、装飾や色味の取り合わせがちぐはぐで、どうしても違和感が拭えない。
「なんか…生成AIでこさえたみたいだな。」
顔をしかめながらぼやいた瞬間、目の前に黒い影が降り立った。
「ようこそ、ボクの創った舞台へ!」
僅かに癖のある濃い栗色のセミショートのボブヘアー、黒の三つ揃えスーツに同じ色の中折れ帽、チタングレーにプラチナ色の装飾が入った仮面。
「その仮面にこの空間、ファントムか!」
ファントムは問い掛けに応じる代わりに諌に何かを投げ付ける、眼鏡を狙っている事に気が付き右腕を振って弾き飛ばす。
糸は強く粘り付いて絡み付き、強く引っ張ってもびくともせず腕に食い込む。
1.5mmほどある糸、船舶の係留ロープや防弾・防刃ベスト、そして釣り糸などに使われる超高分子量ポリエチレン繊維を編んだかのようにしなやかながら張りがある。
それがアラクネ属のいずれかから出た糸、それを加工したものだと容易く想像が付いた。
「デザインも糸の扱いも正直微妙だな。
凪さんがどこにいるかを話せば、その辺レクチャーしてやるよ。」
ぐっと食い込む糸、日焼けで赤く炎症を起こした腕に強い痛みが襲い掛かる。
「大きな魚が釣れた時に必ず網を使って引き上げてるんだってね、あんまり力は無いのかな?
ラタトスクの友達から情報は聞いている。」
同じ目線、距離およそ2メートルのところに降り立ったファントム、力任せに糸を引っ張る。
「リサーチが甘いなぁ。」
両手に何回も糸を巻き付け、ぐっと握り込んだ。
「ランディングネットを使うのは竿や糸、魚の口が耐えられないから。
その心配が無ければ…ぶち抜くまでよ!」
ファントムの身体を地球の重力から引っこ抜いた。
そのまま時計回りに360度、720度、1,080度振り回す。
それ以上はファントムの握力が保たず、すっぽ抜けて吹き飛ばされた。
3メートルほど先にうまく着地して床や壁に叩きつけられはしなかったものの、目が回って立てない。
慌てて上着のポケットから別の糸を取り出し、諌に向けて無茶苦茶に振り回すが当然当たる訳がない。
諌の手慣れたフリップキャストから放たれた糸、まるでロボットアニメでロックオンした座標に放つワイヤーアンカーのように正確に飛ぶ。
普段の釣りなら20メートル先のコーヒー缶に確実にルアーを当てるキャスト精度、竿が無くて精度は劣るとはいえ、5メートル先の帽子に当てて取り上げる事など造作も無かった。
「ボクはまだ負けてない…本当の戦いはここか
「有彩、いい加減にしなさい!」
――――――――――――――――――――――――――
「本当にごめんなさい…」
昼時、ショッピングモールのテナントに入っているイタリアンレストランに3人は座っていた。
先程とは打って変わって、水やりを忘れた鉢植えのように萎れているファントムは有彩、湊家の十三女である。
眉間に深々と皺を寄せた諌と腕組みをしてかんかんにお冠の凪がテーブルの向かいに構えていた。
凪や三女の日和の母校でもある瑞穂県で一番の偏差値を誇る公立の進学校、そこの2年生である有彩は最近成績が伸び悩んでいた。
何かにつけて凪や日和と比べられ、あれやこれやと言われ、嫌気がさして塾の夏期講習をサボって凪の元へ家出してきたのであった。
「凪さん、明日の朝まで彼女を預かりましょう。
責任は取ります。」
諌の提案に凪は我が耳を疑い、諌の方を向き直った。
高校2年の夏休み、受験勉強に於いて極めて大事な時期であり、成績が伸び悩む有彩には遊ぶ暇は無い。
姉として、高校の先輩として、受験戦争を乗り越えて国立大学に進学した者としてそう考えている。
「今の彼女には心の余裕が無い…張り詰めた糸はすぐ切れる、今日はチートデイという事です。」
最難関の私立大学に一発合格し、理工学部を経て大学院へ進学した諌もまた、受験戦争を勝ち抜いた者のひとりである。
今回の件、凪は一旦諌に全て任せてみる事にした。
「とりあえず、昼飯にしましょう。
何頼みます?」
諌がテーブルに立て掛けてあったタブレット端末を取り出し、次々と料理を注文した。
――――――――――――――――――――――――――
夕方、諌と有彩が二人で問題集に向かい合っていた。
「酸と塩基の水分子をHとOHに切り分ければ考えが整理させやすくなる、もう一度解いてみな。」
さらさらとシャープペンシルの音、長い事曇っていた有彩の表情がすっと晴れた。
「要となる英・数・国の基本三科目はしっかりできてる、苦手を徹底的に潰せば呆れるほど簡単に成績が上がるさ。」
にやり、と自信たっぷりなしたり顔でサムズアップした諌。
一時は家に呼ぶ事に抵抗を示した凪も、妹の憑き物が取れたような顔にほっと胸を撫で下ろした。
「諌義兄さん、いいなぁ…凪お姉ちゃんから獲っちゃお
「冗談でもそんな事言っちゃ駄目だよ、人の痛みが分かる子になりなさい」
目をかっと見開いて有彩の肩を鷲掴みにする凪、鬼気迫る表情で詰め寄る姿にふたりは小さく悲鳴を上げる。
「知識は裏切らない、人間と違ってさ…」
妙に説得力のある諌の一言、失望、恐怖、諦観…ごちゃ混ぜになった苦い感情が、その目にごく僅かに、かつ明確に見えていた。
それもすぐ、明るい笑顔にかき消された。
腕時計の時刻を確認し、諌はやおらに立ち上がった。
今日の夕食はたっぷりの薬味をかけた冷たいおろし蕎麦、台所で付け合わせの夏野菜のかき揚げと竹輪のチーズ磯辺揚げを作り始めた。
25/09/20 13:51更新 / 山本大輔
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