ようこそ絶望(エロなし、ややシリアス)
昼食時、電子レンジの小気味良いブザーが響く。
丼型の密閉容器に入った二色丼を両手で持ち、陣取ったテーブルの上に置いた。
「お、愛妻弁当か?」
工場で製造管理をしているハイオークが絡んできた。
まだ彼女ですよ、と笑いながら尋問をのらりくらりとかわし、カブと青菜の漬物の入った小さな密閉容器の蓋を開けた。
今日の二色丼は凪が母親に教わったというレシピ、特に鶏そぼろの味付けが大好きで何度も再現を試みた事がある。
ほんのりと香るニンニクの風味と三温糖の丸みを帯びた甘さ、時折通りすがる焦がし味噌の香り…凪に土下座をして教えを乞い、目の前で監督してもらってもなお、未だ再現は叶わない。
上機嫌で二色丼を口に押し込み、時折り漬物で落ち着かせる。
「次のニュースです。
今月1日から、瑞穂市にある…」
食堂のテレビから流れる県内ニュース、ふと目をやった諌の動きが止まった。
まさか再びその姿を見るとは思わなかった存在、もう見なくてよくなったと思っていた存在、忌々しい記憶が否が応でも逆流しフラッシュバックする。
さっさと消えろ人殺しの息子、化け物の味方に伝える事はない、何で負け犬がいつまでもここにいるの、死ねよ偽善者の負け犬、死ね、死ね、死ね…
手が震える。
目の焦点が合わない。
呼吸がどんどん浅くなる。
口にしたものが喉を降りない。
心音が早鐘のように響く。
胃の中のものが逆流している。
まずい、意識が遠のく…。
座っていることすら………視界はそこで途切れた。
諌の乗ったストレッチャーを救急隊員が運び出す。
「溝呂木くん!」
「先輩!」
「イサミン!」
「溝呂木!」
「主任!」
皆の必死の呼びかけにも応じることができない。
目を見開き、喉元を両手で押さえながら首を仰け反らせる…一目で呼吸困難と分かる状態。
「諌さん!
しっかりしてください、諌さん!」
大急ぎで駆け寄る凪、諌の目には苦悶と恐怖が喉に無理矢理詰め込まれた
ストレッチャーが救急車の中に収まり、ばたんと重たいリアゲートが閉じられた。
重苦しいエンジン音とサイレンを残し、救急車は、諌は離れていった。
――――――――――――――――――――――――――
午後、重苦しい気持ちのままオンライン商談を終えた凪。
少しでも気を紛らわそうと、ミルクとこれでもかと砂糖を入れたコーヒーを淹れて席に戻った。
「戻りました…お騒がせしました。」
事務所のドアを開け、ばつの悪そうな笑顔を浮かべた諌が戻ってきた。
「テレビのニュースを見てたら昔のトラウマ思い出しちゃって…。
食事中に過呼吸起こして、食べてるもの詰まらせたという事でした。」
やはは、と苦笑しながら如月支社長、弓村櫻子に病院から渡された診断書を手渡した。
「やあみんな、しばらくだったね。」
ほぼ同じくして入ってきた初老の男性、澤井フーズの四代目社長の澤井薫である。
父である先代社長が掲げた魔物の積極採用路線を引き継ぎ、地場の中小食品メーカーだった澤井フーズを瑞穂県内有数のメーカーに拡大させた立役者である。
「お越しになられてすぐで申し訳ありませんが、少しよろしいでしょうか?」
櫻子と薫が応接室でふたりきりになった。
机の上に先程渡された諌の診断書が並べられる。
「今日、溝呂木くんは救急搬送されました、ちょうど今渡された診断書です。
あれだけの状態になっておきながら数時間でけろっと戻るなんて、普通はあり得ません。」
無言で薫に圧力を掛ける様、普段は温厚でもその気迫、流石は龍である。
「…そうか。」
暫く場を支配した重苦しい空気、やっと薫が口を開いた。
「彼の過去について少し聞いてている。
だが、まだその事は口にできない。」
薫が口にできる唯一の回答であった。
――――――――――――――――――――――――――
その夜、やり残した仕事を片付けて帰りが遅くなった諌。
先に帰宅した凪が鍋の中にカレーの入ったレトルトパックを放り込んだ。
「ご飯が炊けるまでまだちょっと時間が掛かっ…!」
家に戻って早々に諌が真後ろから凪に抱き付き、後ろ髪に顔を埋めてきた。
「すいません凪さん、もう少しこのままでいさせてください。」
いつもなら兄のように頼れる存在の諌、こうやってしがみ付いてくることはほとんど無かった。
まるで弟のように甘えてくる諌に、戸惑いと愛おしさがない混ぜになっていた。
「諌さん…昔、辛い事があったんですか?」
「もう少し時間を下さい、必ず話します。」
凪をぎゅっと抱き締め、そう一言言って押し黙ってしまった。
その日の夕食はレトルトカレーに惣菜のエビフライ、目玉焼き、コールスローサラダであった。
その日の諌は寝る時もベッドの中で、まるで怯えるように弱々しく凪に抱き付いて眠っていた。
――――――――――――――――――――――――――
「諌義兄さん、國院大だっけ?」
土曜日の夕方、いつものようにクオーツにたむろする湊家の姉妹たち。
ブラッディ・マリーを傾けながら、スマートフォンで地元紙の電子版のページをスクロールする。
國院塾大学、国内トップの私立大学であり諌の母校でもある。
瑞穂県の県都、瑞穂市にある同大の生命工学センターに初の女性センター長が就任した、と県内ニュースや地元紙で大々的に報じられていた。
「石堀新所長は諌義兄さんと同い年か…あんま感じの良い人じゃなかったな。」
製薬会社の研究員である日和、瑞穂市の生命工学センターに通う事も珍しくない。
新所長の石堀と共同研究をした事もあるが、とかく対応が冷たく攻撃的であった。
あからさまな学歴マウンティングと反魔感情が混ざった悪意をあからさまにぶつけられた。
「最近、反魔物の過激派も出てきてるからねぇ…前いた店のオーナーも魔物に対するヘイトクライムで捕まったし。」
大きな溜め息をつく戒斗。
戒斗と敦子がバーテンダーとして以前勤めていた如月市内のバー。
反魔物主義者のオーナーが魔物向けの服を扱う店で消火器を持って暴れ、消火剤を撒き散らす事件を起こし逮捕されていた。
「それがアニキのトラウマと何か関係があるかと言われたら…だけど。」
――――――――――――――――――――――――――
深夜、如月市の國院大生命工学センターのセンター長室。
冷たい光を放つ有機ELディスプレイに映し出されるのは澤井フーズのサイト、先輩の声のページに笑顔でインタビューに答える諌の姿。
「負け犬の分際でまだ生きてたんだ。
好き放題できるようになったし、潰しにいきますか♪」
エナジードリンクの空き缶がディスプレイに当たり、派手な音が深夜の空に混ざり込んだ。
丼型の密閉容器に入った二色丼を両手で持ち、陣取ったテーブルの上に置いた。
「お、愛妻弁当か?」
工場で製造管理をしているハイオークが絡んできた。
まだ彼女ですよ、と笑いながら尋問をのらりくらりとかわし、カブと青菜の漬物の入った小さな密閉容器の蓋を開けた。
今日の二色丼は凪が母親に教わったというレシピ、特に鶏そぼろの味付けが大好きで何度も再現を試みた事がある。
ほんのりと香るニンニクの風味と三温糖の丸みを帯びた甘さ、時折通りすがる焦がし味噌の香り…凪に土下座をして教えを乞い、目の前で監督してもらってもなお、未だ再現は叶わない。
上機嫌で二色丼を口に押し込み、時折り漬物で落ち着かせる。
「次のニュースです。
今月1日から、瑞穂市にある…」
食堂のテレビから流れる県内ニュース、ふと目をやった諌の動きが止まった。
まさか再びその姿を見るとは思わなかった存在、もう見なくてよくなったと思っていた存在、忌々しい記憶が否が応でも逆流しフラッシュバックする。
さっさと消えろ人殺しの息子、化け物の味方に伝える事はない、何で負け犬がいつまでもここにいるの、死ねよ偽善者の負け犬、死ね、死ね、死ね…
手が震える。
目の焦点が合わない。
呼吸がどんどん浅くなる。
口にしたものが喉を降りない。
心音が早鐘のように響く。
胃の中のものが逆流している。
まずい、意識が遠のく…。
座っていることすら………視界はそこで途切れた。
諌の乗ったストレッチャーを救急隊員が運び出す。
「溝呂木くん!」
「先輩!」
「イサミン!」
「溝呂木!」
「主任!」
皆の必死の呼びかけにも応じることができない。
目を見開き、喉元を両手で押さえながら首を仰け反らせる…一目で呼吸困難と分かる状態。
「諌さん!
しっかりしてください、諌さん!」
大急ぎで駆け寄る凪、諌の目には苦悶と恐怖が喉に無理矢理詰め込まれた
ストレッチャーが救急車の中に収まり、ばたんと重たいリアゲートが閉じられた。
重苦しいエンジン音とサイレンを残し、救急車は、諌は離れていった。
――――――――――――――――――――――――――
午後、重苦しい気持ちのままオンライン商談を終えた凪。
少しでも気を紛らわそうと、ミルクとこれでもかと砂糖を入れたコーヒーを淹れて席に戻った。
「戻りました…お騒がせしました。」
事務所のドアを開け、ばつの悪そうな笑顔を浮かべた諌が戻ってきた。
「テレビのニュースを見てたら昔のトラウマ思い出しちゃって…。
食事中に過呼吸起こして、食べてるもの詰まらせたという事でした。」
やはは、と苦笑しながら如月支社長、弓村櫻子に病院から渡された診断書を手渡した。
「やあみんな、しばらくだったね。」
ほぼ同じくして入ってきた初老の男性、澤井フーズの四代目社長の澤井薫である。
父である先代社長が掲げた魔物の積極採用路線を引き継ぎ、地場の中小食品メーカーだった澤井フーズを瑞穂県内有数のメーカーに拡大させた立役者である。
「お越しになられてすぐで申し訳ありませんが、少しよろしいでしょうか?」
櫻子と薫が応接室でふたりきりになった。
机の上に先程渡された諌の診断書が並べられる。
「今日、溝呂木くんは救急搬送されました、ちょうど今渡された診断書です。
あれだけの状態になっておきながら数時間でけろっと戻るなんて、普通はあり得ません。」
無言で薫に圧力を掛ける様、普段は温厚でもその気迫、流石は龍である。
「…そうか。」
暫く場を支配した重苦しい空気、やっと薫が口を開いた。
「彼の過去について少し聞いてている。
だが、まだその事は口にできない。」
薫が口にできる唯一の回答であった。
――――――――――――――――――――――――――
その夜、やり残した仕事を片付けて帰りが遅くなった諌。
先に帰宅した凪が鍋の中にカレーの入ったレトルトパックを放り込んだ。
「ご飯が炊けるまでまだちょっと時間が掛かっ…!」
家に戻って早々に諌が真後ろから凪に抱き付き、後ろ髪に顔を埋めてきた。
「すいません凪さん、もう少しこのままでいさせてください。」
いつもなら兄のように頼れる存在の諌、こうやってしがみ付いてくることはほとんど無かった。
まるで弟のように甘えてくる諌に、戸惑いと愛おしさがない混ぜになっていた。
「諌さん…昔、辛い事があったんですか?」
「もう少し時間を下さい、必ず話します。」
凪をぎゅっと抱き締め、そう一言言って押し黙ってしまった。
その日の夕食はレトルトカレーに惣菜のエビフライ、目玉焼き、コールスローサラダであった。
その日の諌は寝る時もベッドの中で、まるで怯えるように弱々しく凪に抱き付いて眠っていた。
――――――――――――――――――――――――――
「諌義兄さん、國院大だっけ?」
土曜日の夕方、いつものようにクオーツにたむろする湊家の姉妹たち。
ブラッディ・マリーを傾けながら、スマートフォンで地元紙の電子版のページをスクロールする。
國院塾大学、国内トップの私立大学であり諌の母校でもある。
瑞穂県の県都、瑞穂市にある同大の生命工学センターに初の女性センター長が就任した、と県内ニュースや地元紙で大々的に報じられていた。
「石堀新所長は諌義兄さんと同い年か…あんま感じの良い人じゃなかったな。」
製薬会社の研究員である日和、瑞穂市の生命工学センターに通う事も珍しくない。
新所長の石堀と共同研究をした事もあるが、とかく対応が冷たく攻撃的であった。
あからさまな学歴マウンティングと反魔感情が混ざった悪意をあからさまにぶつけられた。
「最近、反魔物の過激派も出てきてるからねぇ…前いた店のオーナーも魔物に対するヘイトクライムで捕まったし。」
大きな溜め息をつく戒斗。
戒斗と敦子がバーテンダーとして以前勤めていた如月市内のバー。
反魔物主義者のオーナーが魔物向けの服を扱う店で消火器を持って暴れ、消火剤を撒き散らす事件を起こし逮捕されていた。
「それがアニキのトラウマと何か関係があるかと言われたら…だけど。」
――――――――――――――――――――――――――
深夜、如月市の國院大生命工学センターのセンター長室。
冷たい光を放つ有機ELディスプレイに映し出されるのは澤井フーズのサイト、先輩の声のページに笑顔でインタビューに答える諌の姿。
「負け犬の分際でまだ生きてたんだ。
好き放題できるようになったし、潰しにいきますか♪」
エナジードリンクの空き缶がディスプレイに当たり、派手な音が深夜の空に混ざり込んだ。
25/12/09 18:30更新 / 山本大輔
戻る
次へ