秘密 -マスカレイド-
天高く馬肥ゆる秋、秋分を過ぎたある日。
お昼時、営業部の湊凪課長補佐はデスクで大きなため息をつきながら弁当と睨めっこをしていた。
栗ご飯に秋刀魚の蒲焼き、秋茄子と万願寺のしぎ焼き、つるむらさきの辛子和え、種無しピオーネ。
つい先ほどまで事務所脇の冷蔵ストッカーに入れられており、悪くなっているところはひとつもない。
「どうしたんすかナギちゃん課長、彼氏作のお弁当のどこが不満なんですか?」
斜向かいの席でサンドイッチを頬張るデーモンの冴木七羽が声を掛けてきた。
年は凪のふたつ下で大学の後輩、上司となった凪の相談相手となることも少なくはない。
「ご飯は美味しいんだよ、でもさ…。」
凪の弁当は彼女の恋人、総務部の溝呂木諌主任お手製のものである。
料理を特技と公言しているだけある諌、商品の食べ方やアレンジレシピを幾つも考え、営業にいた頃は調理例を自らの手で拵える事は日常茶飯事であった。
実際、秋刀魚の蒲焼きには柚子を効かせたり、しぎ焼きは赤味噌と淡色味噌を合わせ、栗ご飯には少量のもち米と麦を加えて冷蔵庫に入れてもパサパサになりにくいよう配慮がなされている。
「諌さん、これ食べてないんだよね…」
「ゑ…」
ここまでの弁当を作っておきながら、肝心の諌はそれを一口たりとも口にしていない。
「毎日毎日、茹でた鶏肉や魚や葉っぱばっかり…ご飯もパンも食べないんだよ。」
んむー、と右頬を軽く膨らませて不満を漏らすが、その目は心配に満ちている。
事実、盆休みが明けたから突然諌は凪と同じ食事を摂らなくなった。
鶏胸肉に豚モモ、白身魚に加えてブロッコリーや小松菜、それを茹でたものやオートミール、プロテインばかりを口にする生活を続けている。
更には凪の次に好きと公言して憚らず、多い時は週に10回は行く釣りもすっぱり行かなくなってしまっていた。
代わりに毎日ジムに通い、家でもずっと筋トレをしている。
元々そこそこ筋肉質だった諌は太っているという印象はない体格だが、急に体格が締まってきている。
「確かにイサミン主任、雰囲気変わりましたよね。
なんかシュッとして…っつーかメガネどうしたんです?」
5本も持っている眼鏡をその日の気分によって使い分ける諌、それがここ最近は一切眼鏡を掛けずコンタクトレンズを使っている。
ちなみに、凪は青のナイロールのメタルフレームが好みである。
「ありえないとは思いますけど、イサミン主任が他の女(ひと)が好きになったなんて事…」
七羽は不用意な軽口を叩いた事を激しく後悔した。
一気に顔面蒼白となり、箸を落とし、がくがくと小刻みに震え始めた。
「そんな…諌さんが…わたし捨てられる…」
「わー!デーモンジョークですってば!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
結局七羽の行動は上司の耳に入り、午後にこっぴどく叱られたばかりか次やったら始末書とまで宣告された。
――――――――――――――――――――――――――
「なんか、凪姉ちゃんの口からそんな話出るなんて不思議な気分。」
「…どういう事?」
湊家の六女、レッドキャップの大学生の來羽(らいは)が頬杖を突きながら姉の惚気話とも取れる悩みを聞いていた。
ふたりがいるのは瑞穂市の隣町、錦山町にある煮干しラーメンの有名な店である。
「ちょっと前までこのゲームのこのキャラが推し!とか言ってたのにさ、まさか彼氏作るなんて思ってもなかったよ。」
來羽は餃子を取り上げ、表面をびっしりと粉胡椒で覆われた酢に浸してから口に放り込んだ。
「ライちゃんずいぶんな事言ってるね…奢るって話取り消そっか?」
「…ごめん、言いすぎた。
で、その諌義兄さんは今何してんの?」
諌は例の如く仕事帰りにジムへと向かっていると姉から聞かされた來羽、徐にポケットからスマートフォンを取り出した。
「7時15分か…マップで見たらここから車で30分…凪姉ちゃん、食べたら車貸して!
真衣と涼姉ちゃんが近くにいるらしいから一緒に連れてく。」
「え…どこに行くの?」
「諌義兄さんがいるそのジムへ行くに決まってるでしょ…いざ出撃、カチコミじゃ!」
一気に息巻いた來羽、大きな口を開けて味玉を一口で咥え込んだ。
――――――――――――――――――――――――――
午後8時過ぎには瑞穂市内に戻った凪、四女のオーガの涼(りょう)と七女のミノタウロスの真衣(まい)が合流し、駅の近くにあるパーソナルジムの前に集まっていた。
「いた、あれがこのジムのトレーナーの火鼠…」
既に諌は帰った後だった、自販機でミネラルウォーターを買って飲む火鼠がひとり。
何度か両手を払う涼、少し曲げた両膝に両肘を乗せる來羽、右手で軽く掴んだ左手首を回す真衣…完全に臨戦態勢に入っている。
その様、さながら喧嘩を始める直前のギャングかチンピラの集まりである。
『ちょっと三人とも、暴力沙汰はやめなさい。』
そんな三人の妹を小声で嗜めて必死に食い止める凪、この場にいる妹は揃いも揃って交戦的な種族ばかりである事に不安を隠せない。
ちらりとこちらを一瞥した火鼠、にこりと笑顔を浮かべて四人の元へと向かってきた。
「鍵は開いてますよ、お待ちしていました。」
自動ドアが開いた。
「ここのジムでトレーナーをしている鳥羽美鈴です。
溝呂木諌さんの事、ご心配をお掛けしたことはお詫びします。」
ほとんど人のいない休憩室に4人は通され、紙コップに入ったお茶を渡される。
此方は後ろで息巻く猛獣(いもうと)三人も肩透かしを喰らったように大人しくなった。
諌とはあくまでトレーナーとトレーニー、即ち商売の関係に過ぎない事や凪とという恋人の存在を伝えられている事、10月末までに体重を15kg以上落としたいとジムに押し掛けてきた事、その理由を頑なに明かさない事が美鈴の口から明かされた。
そんな中で不意に眼に飛び込む金属質な輝きが気になった凪、それをこっそりと眼で追っていた。
美鈴の左手薬指、白金の指輪がその発生源と分かると幾分か不安が落ち着いたような気がした。
「確かに溝呂木さんは熱心なトレーニーです、ひと月ちょっとで10キロ以上も体重を落としています。
でも真剣を通り越して深刻ですらある、元々肥満体型でもないのにあのペース…いずれ体を壊しかねない。
『来月いっぱいまで』とは言ってるけど、それ以上は…」
唇を噛む美鈴、数秒間凪の目を見てからその両手を強く握った。
「湊さん、来月でやめるように溝呂木さんへ言ってください。
このままだと大変なことになる…お願いします!」
凪は大きく頷いた。
その後、帰宅した凪は風呂上がりの諌に事の一部始終を話した。
諌は黙って頷き、美鈴から預かってきたジムの退会届にサインをした。
――――――――――――――――――――――――――
「イサミン、互助会のハロウィンパーティー出る?
…ああ、出るのね。」
10月下旬、諌の先輩であるパイロゥの千樹レイカが社内回覧を持ってやってきた。
諌は殆ど語らず出欠表に丸を付けて判を押した。
この頃には諌の身体は計量後の中量級プロボクサーのようになっていた。
数日前から少しずつ炭水化物を少量ながら口にするようになり、凪や仲の良い社員は少し安堵の表情を浮かべるようになった。
「月末は立て込むんで、少し遅れると思います。」
諌の口調が僅かに震えている事に気が付いた、思っていることがすぐ顔や行動、言葉に出てきがちな諌、何かを隠している事は明白だった。
「…イサミン、何隠してんの?」
隠し事に気が付いたレイカは諌を一気に問い詰める。
普段の飄々とした喋りとは全く違う低くどすの効いた声、ここまでレイカが本気で怒りを顕にするのは諌が入社以来、2回目である。
「すいません、まだ言えません。
誰かを裏切ったり傷つける意図はありません、許してください。」
「みんなを騙したら、特にナギちゃん泣かせたら殺すよ…な〜んてね。
じゃあ仕入部に回覧流してくるね〜。」
パワハラを通り越して脅迫とまで捉えかねない過激すぎる冗談、諌とレイカの仲だからこそその意図が伝わるものである。
――――――――――――――――――――――――――
10月の最終金曜日、定時過ぎから続々と会社近くのホテルの3階にあるホールに思い思いの仮装をした人が100人ほど集まっていた。
真ん中の大きなテーブルには和洋中色とりどりの豪華な食事が所狭しと並び、酒やソフトドリンクがその脇を固める隙の無い布陣が完成している。
「諌さん遅いなぁ、もう乾杯になっちゃうよ…。」
髪型をツーサイドアップにして、ソーシャルゲームの推しキャラのコスプレに身を固めた凪は心配そうにホール入り口の扉を覗き込んだ。
マッドサイエンティストの仮装をした従業員互助会長の日高一輝次長が登壇し、ビールの入ったグラスを掲げた。
『それでは皆さん、今日は存分に楽しんでください!
乾ぱ――』
その時、不意にホール入り口のドアが開き、筒状の何かが放り込まれた。
天井から凄まじい破裂音と閃光が駆け巡る。
同時に入り口の扉から何者かがどかどかと烈しい足音を立てながら突入してきた。
スニーキングスーツにバンダナにサプレッサー付きのハンドガン、ライトグレーのスーツにワインレッドのシャツに大型ライフル、赤いロングコートに二丁拳銃、そして…戦闘服にタクティカルベストに身を包み、アサルトライフルを構える諌。
『Trick or treat!遅れました!』
各々が銃を構えポーズを決め、遅刻を詫びた。
一瞬の緊張が一気に緩み、どっと笑い声が沸き起こった。
ライトグレーのスーツ姿のが後ろを振り向いて右手を揚げた、破裂音のような音響と閃光のような照明のアドリブ演出を決めたホテルの会場担当のスタッフがサムズアップをしている。
「いやぁ、ウケてよかったです。
今日この時のために鍛えてた甲斐があるってもんです。
大の大人が真剣にふざけるのって素敵じゃないですか!」
したり顔を見せる諌。
半袖の上着から露わになった両腕は言わずもがな、それ以外も着衣越しでも分かるぐらいに筋肉が存在感を放っていた。
「まさか諌さん、これのために…」
大きく頷いた。
――――――――――――――――――――――――――
遡ること3ヶ月ほど前。
休日にゲームをプレイしていた凪は主人公を操り、ウイルスによって造られた化け物やウイルス兵器を巡る陰謀・因縁との闘いを繰り広げていた。
「やっぱりかっこいいなぁ…なんとなく諌さんにも似ているし…」
部屋のドアは開け放たれていたが、ヘッドホンをしていた為ゲームのサウンドは殆ど漏れていない……が、凪の呟きは隣の部屋でジギング用のアシストフックを組んでいた諌の耳にばっちりと入っていた。
釣りと並んでサバイバルゲームが趣味の諌、キャラクターが使うものと同じライフルの電動ガンを持っている、手持ちの装備とシャツで格好も再現できる。
あとはその筋骨隆々たる体型…という事で、短期間で体を絞って筋肉を付ける為にジムに通う決断をした。
体も財布もひどく痛め付けるのは避けられないが、サプライズのためなら致し方ない。
普段は眼鏡を掛けているが、この日に備えてコンタクトレンズを用意する事にもなった。
――――――――――――――――――――――――――
「ばか!ばか!ばか!ばか!
自分を犠牲にしないでください、って一年目の時に言ったじゃないですか!
自分一人で抱え込まないでください、上司命令、恋人命令です!」
思い切り飛び掛かり笑顔と涙を浮かべながらぽかぽかと何度も叩く凪、諌は笑顔でノーガードでそれを受け止める。
「…パーティー、初めてもいいかい?」
「勿論です、日高次長!
今まで我慢した分、食いまくるし飲みまくるぞー!」
会食が始まり、諌は干瓢巻きと納豆巻きを次々に口に押し込み、ビールで一気に流し込んだ。
その後あっさりと8キロもリバウンドした諌だったが、鍛えた筋肉はそれなりにその体に居座る事になった。
お昼時、営業部の湊凪課長補佐はデスクで大きなため息をつきながら弁当と睨めっこをしていた。
栗ご飯に秋刀魚の蒲焼き、秋茄子と万願寺のしぎ焼き、つるむらさきの辛子和え、種無しピオーネ。
つい先ほどまで事務所脇の冷蔵ストッカーに入れられており、悪くなっているところはひとつもない。
「どうしたんすかナギちゃん課長、彼氏作のお弁当のどこが不満なんですか?」
斜向かいの席でサンドイッチを頬張るデーモンの冴木七羽が声を掛けてきた。
年は凪のふたつ下で大学の後輩、上司となった凪の相談相手となることも少なくはない。
「ご飯は美味しいんだよ、でもさ…。」
凪の弁当は彼女の恋人、総務部の溝呂木諌主任お手製のものである。
料理を特技と公言しているだけある諌、商品の食べ方やアレンジレシピを幾つも考え、営業にいた頃は調理例を自らの手で拵える事は日常茶飯事であった。
実際、秋刀魚の蒲焼きには柚子を効かせたり、しぎ焼きは赤味噌と淡色味噌を合わせ、栗ご飯には少量のもち米と麦を加えて冷蔵庫に入れてもパサパサになりにくいよう配慮がなされている。
「諌さん、これ食べてないんだよね…」
「ゑ…」
ここまでの弁当を作っておきながら、肝心の諌はそれを一口たりとも口にしていない。
「毎日毎日、茹でた鶏肉や魚や葉っぱばっかり…ご飯もパンも食べないんだよ。」
んむー、と右頬を軽く膨らませて不満を漏らすが、その目は心配に満ちている。
事実、盆休みが明けたから突然諌は凪と同じ食事を摂らなくなった。
鶏胸肉に豚モモ、白身魚に加えてブロッコリーや小松菜、それを茹でたものやオートミール、プロテインばかりを口にする生活を続けている。
更には凪の次に好きと公言して憚らず、多い時は週に10回は行く釣りもすっぱり行かなくなってしまっていた。
代わりに毎日ジムに通い、家でもずっと筋トレをしている。
元々そこそこ筋肉質だった諌は太っているという印象はない体格だが、急に体格が締まってきている。
「確かにイサミン主任、雰囲気変わりましたよね。
なんかシュッとして…っつーかメガネどうしたんです?」
5本も持っている眼鏡をその日の気分によって使い分ける諌、それがここ最近は一切眼鏡を掛けずコンタクトレンズを使っている。
ちなみに、凪は青のナイロールのメタルフレームが好みである。
「ありえないとは思いますけど、イサミン主任が他の女(ひと)が好きになったなんて事…」
七羽は不用意な軽口を叩いた事を激しく後悔した。
一気に顔面蒼白となり、箸を落とし、がくがくと小刻みに震え始めた。
「そんな…諌さんが…わたし捨てられる…」
「わー!デーモンジョークですってば!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
結局七羽の行動は上司の耳に入り、午後にこっぴどく叱られたばかりか次やったら始末書とまで宣告された。
――――――――――――――――――――――――――
「なんか、凪姉ちゃんの口からそんな話出るなんて不思議な気分。」
「…どういう事?」
湊家の六女、レッドキャップの大学生の來羽(らいは)が頬杖を突きながら姉の惚気話とも取れる悩みを聞いていた。
ふたりがいるのは瑞穂市の隣町、錦山町にある煮干しラーメンの有名な店である。
「ちょっと前までこのゲームのこのキャラが推し!とか言ってたのにさ、まさか彼氏作るなんて思ってもなかったよ。」
來羽は餃子を取り上げ、表面をびっしりと粉胡椒で覆われた酢に浸してから口に放り込んだ。
「ライちゃんずいぶんな事言ってるね…奢るって話取り消そっか?」
「…ごめん、言いすぎた。
で、その諌義兄さんは今何してんの?」
諌は例の如く仕事帰りにジムへと向かっていると姉から聞かされた來羽、徐にポケットからスマートフォンを取り出した。
「7時15分か…マップで見たらここから車で30分…凪姉ちゃん、食べたら車貸して!
真衣と涼姉ちゃんが近くにいるらしいから一緒に連れてく。」
「え…どこに行くの?」
「諌義兄さんがいるそのジムへ行くに決まってるでしょ…いざ出撃、カチコミじゃ!」
一気に息巻いた來羽、大きな口を開けて味玉を一口で咥え込んだ。
――――――――――――――――――――――――――
午後8時過ぎには瑞穂市内に戻った凪、四女のオーガの涼(りょう)と七女のミノタウロスの真衣(まい)が合流し、駅の近くにあるパーソナルジムの前に集まっていた。
「いた、あれがこのジムのトレーナーの火鼠…」
既に諌は帰った後だった、自販機でミネラルウォーターを買って飲む火鼠がひとり。
何度か両手を払う涼、少し曲げた両膝に両肘を乗せる來羽、右手で軽く掴んだ左手首を回す真衣…完全に臨戦態勢に入っている。
その様、さながら喧嘩を始める直前のギャングかチンピラの集まりである。
『ちょっと三人とも、暴力沙汰はやめなさい。』
そんな三人の妹を小声で嗜めて必死に食い止める凪、この場にいる妹は揃いも揃って交戦的な種族ばかりである事に不安を隠せない。
ちらりとこちらを一瞥した火鼠、にこりと笑顔を浮かべて四人の元へと向かってきた。
「鍵は開いてますよ、お待ちしていました。」
自動ドアが開いた。
「ここのジムでトレーナーをしている鳥羽美鈴です。
溝呂木諌さんの事、ご心配をお掛けしたことはお詫びします。」
ほとんど人のいない休憩室に4人は通され、紙コップに入ったお茶を渡される。
此方は後ろで息巻く猛獣(いもうと)三人も肩透かしを喰らったように大人しくなった。
諌とはあくまでトレーナーとトレーニー、即ち商売の関係に過ぎない事や凪とという恋人の存在を伝えられている事、10月末までに体重を15kg以上落としたいとジムに押し掛けてきた事、その理由を頑なに明かさない事が美鈴の口から明かされた。
そんな中で不意に眼に飛び込む金属質な輝きが気になった凪、それをこっそりと眼で追っていた。
美鈴の左手薬指、白金の指輪がその発生源と分かると幾分か不安が落ち着いたような気がした。
「確かに溝呂木さんは熱心なトレーニーです、ひと月ちょっとで10キロ以上も体重を落としています。
でも真剣を通り越して深刻ですらある、元々肥満体型でもないのにあのペース…いずれ体を壊しかねない。
『来月いっぱいまで』とは言ってるけど、それ以上は…」
唇を噛む美鈴、数秒間凪の目を見てからその両手を強く握った。
「湊さん、来月でやめるように溝呂木さんへ言ってください。
このままだと大変なことになる…お願いします!」
凪は大きく頷いた。
その後、帰宅した凪は風呂上がりの諌に事の一部始終を話した。
諌は黙って頷き、美鈴から預かってきたジムの退会届にサインをした。
――――――――――――――――――――――――――
「イサミン、互助会のハロウィンパーティー出る?
…ああ、出るのね。」
10月下旬、諌の先輩であるパイロゥの千樹レイカが社内回覧を持ってやってきた。
諌は殆ど語らず出欠表に丸を付けて判を押した。
この頃には諌の身体は計量後の中量級プロボクサーのようになっていた。
数日前から少しずつ炭水化物を少量ながら口にするようになり、凪や仲の良い社員は少し安堵の表情を浮かべるようになった。
「月末は立て込むんで、少し遅れると思います。」
諌の口調が僅かに震えている事に気が付いた、思っていることがすぐ顔や行動、言葉に出てきがちな諌、何かを隠している事は明白だった。
「…イサミン、何隠してんの?」
隠し事に気が付いたレイカは諌を一気に問い詰める。
普段の飄々とした喋りとは全く違う低くどすの効いた声、ここまでレイカが本気で怒りを顕にするのは諌が入社以来、2回目である。
「すいません、まだ言えません。
誰かを裏切ったり傷つける意図はありません、許してください。」
「みんなを騙したら、特にナギちゃん泣かせたら殺すよ…な〜んてね。
じゃあ仕入部に回覧流してくるね〜。」
パワハラを通り越して脅迫とまで捉えかねない過激すぎる冗談、諌とレイカの仲だからこそその意図が伝わるものである。
――――――――――――――――――――――――――
10月の最終金曜日、定時過ぎから続々と会社近くのホテルの3階にあるホールに思い思いの仮装をした人が100人ほど集まっていた。
真ん中の大きなテーブルには和洋中色とりどりの豪華な食事が所狭しと並び、酒やソフトドリンクがその脇を固める隙の無い布陣が完成している。
「諌さん遅いなぁ、もう乾杯になっちゃうよ…。」
髪型をツーサイドアップにして、ソーシャルゲームの推しキャラのコスプレに身を固めた凪は心配そうにホール入り口の扉を覗き込んだ。
マッドサイエンティストの仮装をした従業員互助会長の日高一輝次長が登壇し、ビールの入ったグラスを掲げた。
『それでは皆さん、今日は存分に楽しんでください!
乾ぱ――』
その時、不意にホール入り口のドアが開き、筒状の何かが放り込まれた。
天井から凄まじい破裂音と閃光が駆け巡る。
同時に入り口の扉から何者かがどかどかと烈しい足音を立てながら突入してきた。
スニーキングスーツにバンダナにサプレッサー付きのハンドガン、ライトグレーのスーツにワインレッドのシャツに大型ライフル、赤いロングコートに二丁拳銃、そして…戦闘服にタクティカルベストに身を包み、アサルトライフルを構える諌。
『Trick or treat!遅れました!』
各々が銃を構えポーズを決め、遅刻を詫びた。
一瞬の緊張が一気に緩み、どっと笑い声が沸き起こった。
ライトグレーのスーツ姿のが後ろを振り向いて右手を揚げた、破裂音のような音響と閃光のような照明のアドリブ演出を決めたホテルの会場担当のスタッフがサムズアップをしている。
「いやぁ、ウケてよかったです。
今日この時のために鍛えてた甲斐があるってもんです。
大の大人が真剣にふざけるのって素敵じゃないですか!」
したり顔を見せる諌。
半袖の上着から露わになった両腕は言わずもがな、それ以外も着衣越しでも分かるぐらいに筋肉が存在感を放っていた。
「まさか諌さん、これのために…」
大きく頷いた。
――――――――――――――――――――――――――
遡ること3ヶ月ほど前。
休日にゲームをプレイしていた凪は主人公を操り、ウイルスによって造られた化け物やウイルス兵器を巡る陰謀・因縁との闘いを繰り広げていた。
「やっぱりかっこいいなぁ…なんとなく諌さんにも似ているし…」
部屋のドアは開け放たれていたが、ヘッドホンをしていた為ゲームのサウンドは殆ど漏れていない……が、凪の呟きは隣の部屋でジギング用のアシストフックを組んでいた諌の耳にばっちりと入っていた。
釣りと並んでサバイバルゲームが趣味の諌、キャラクターが使うものと同じライフルの電動ガンを持っている、手持ちの装備とシャツで格好も再現できる。
あとはその筋骨隆々たる体型…という事で、短期間で体を絞って筋肉を付ける為にジムに通う決断をした。
体も財布もひどく痛め付けるのは避けられないが、サプライズのためなら致し方ない。
普段は眼鏡を掛けているが、この日に備えてコンタクトレンズを用意する事にもなった。
――――――――――――――――――――――――――
「ばか!ばか!ばか!ばか!
自分を犠牲にしないでください、って一年目の時に言ったじゃないですか!
自分一人で抱え込まないでください、上司命令、恋人命令です!」
思い切り飛び掛かり笑顔と涙を浮かべながらぽかぽかと何度も叩く凪、諌は笑顔でノーガードでそれを受け止める。
「…パーティー、初めてもいいかい?」
「勿論です、日高次長!
今まで我慢した分、食いまくるし飲みまくるぞー!」
会食が始まり、諌は干瓢巻きと納豆巻きを次々に口に押し込み、ビールで一気に流し込んだ。
その後あっさりと8キロもリバウンドした諌だったが、鍛えた筋肉はそれなりにその体に居座る事になった。
24/10/31 07:16更新 / 山本大輔