Phase 2 : Casting
まさかの邂逅から数週間後、『鯉のぼりみたいな魚』の正体が気になって再び川に向かった。
川面を揺蕩う小魚たち、一瞬目を離したその刹那。
凄まじい音とともに上がった水柱、それを突き破って黒鉄色の魚体が躍り上がる。
1メートルは優に超える超特大のシーバス…一馬の心臓が一気に跳ね上がるった。
イトウ、ビワコオオナマズ、アカメ、オオニベ、バラマンディ、ターポン、ナイルパーチ、ヨーロッパナマズ…そういった『怪魚』『巨大魚』と呼ばれる魚たちをあちこちで釣ってきた。
1メートル超えなどそう言った魚の中ではありふれたサイズ。
シーバスなどどこにでもいる魚である。
しかし、1メートル超えのシーバス、そのふたつのワードが重なったときに一馬の心臓をばくばくと高鳴らせるには十分過ぎるほどのものがあった。
「やっぱりここに来てたんだ。」
後ろから声を掛けられ、振り向いた先にいた由美に軽く片手を上げて挨拶をした。
あの日の後、一馬と由美は色々と意見を交わすようになった。
その流れで由美は商品の説明をするため、クロップワークスの公式サイトを作りたい事、その一方でインターネットに疎い自分ひとりで切り盛りしているからやり方が分からない事を口にしていた。
脱サラして自分の店を持つまで会社の広報担当として働いていた一馬、クロップワークスのサイト作りを買って出た。
掛かる費用は全て由美持ち、報酬の代わりにプロトのロッドを受け取る事になった。
「あとはどう釣るか、だな。」
にやり、と笑顔を見せた一馬。
選んだルアーは8センチほどのシンキングペンシル、先程川面を揺蕩いシーバスに仕留められた小魚はイナッコ、すなわちボラの稚魚を模したサイズとカラーリングをしている。
クラッチを切り、思い切りロッドを振り抜く。
初夏の陽気をつんざくメタニウムDC 70HGの耳障りな電子音、川の流心にシンキングペンシルが着水。
ゆっくりと一定のスピードで巻くと、川の流れと水の抵抗を受けて川面を揺蕩い始めた。
―――――――――――――――――――――――――――
結局、この日もいくら手を変え品を変えても全く魚の反応は無かった。
その帰り、新商品のページ作成の依頼を受けた一馬は愛車の軽バンでクロップワークスを訪れていた。
手渡されたのはベイトフィネス用のロッド2本。
片方は渓流や港の船溜まり、マングローブ帯といった狭い場所での取り回しと精度を意識した5フィート2インチのロッド、名前はウォートホッグ。
もう片方は磯や本流、湖など広い場所で遠くへ飛ばす事に特化した7フィート9インチのロッド、名前はアードヴァーグ。
ホビーメーカーで航空模型の金型職人として働く祖父母の影響で、由美はロッドの名前に航空機の名前を付けている。
ウォートホッグにはIR CT SV TW、アードヴァーグにはカルカッタコンクエストBFS XG Rightを取り付けて軽く振ってみる。
相変わらず完璧な重量バランス、今からでもガイドにラインを通して釣りに行きたくなる高揚感を振り切り、リールを大人しく片付けた。
「そういえば…そこに置いてあるブランクスは何だ?」
ずっと気になっていた。
部屋の隅に乱雑に立て掛けられたロッドの素体、ブランクスと呼ばれるカーボンの筒。
一瞬嫌そうな顔を見せ、一馬にそれを手渡した。
「前に一度作ってみた、新しい設計のブランクスを使ったもの。
作ったはいいんだけど、全体の完成度が低くて放置してた…概念実証が目的だから、名前はさしずめ『ベルクト』かな。
手に取って軽く振ってみた。
なるほど、確かに軽くてしなやか、その一方できちんと張りがある…理想的なはずなのに何か感じた違和感。
「これ、ブランクスの重心とスパインの位置が変になってる。」
ロッドの素体たるブランクスはカーボンのシートを筒状に丸めて作る、そのシートの端の辺りが重なる部分は、特に特定方向への曲がりに対する抵抗が強くなる。
そのため背骨を意味するスパインと呼ばれ、その向きに竿の曲がりが沿うように作られている。
そのスパインの向きに合わせて作った結果、ブランクスの重心が高くなって操作感が悪くなってしまった。
早い話が失敗作である。
数秒触った後、由美にブランクスを返却した。
それでも数秒間、そのブランクスから目が離せなかった。
「そういえば…あんたは普段、どういった釣りをするんだ?」
かたかたとキーボードを打つ、前々から気になっていた事を口にした。
クロップワークスのロッドのラインナップは、1g未満の極軽量ルアーを投げるアジング用から100キロを超えるような魚を抑え付けるクロマグロ用まで多岐に渡る。
どの機種でも必要十分な使用例の写真がある、その中に一つとして由美の映ったものは無かった。
ビジネスというより、ひとりの釣り人として一馬の興味を惹いていた。
「しないよ。
っていうか、釣りなんて一度もやった事ない。
生きた魚なんか触れないし。」
あまりにも予想外な回答、頭の中からコンクリートブロックで思い切り殴りつけられたような衝撃。
自らロッドを造るロッドビルダーは普通、釣りに精通した文字通り釣りバカである事が普通、それでなくても拵えたロッドを自らの手で試すのは当たり前の話である。
「前は車のチューニングパーツのメーカーに勤めてたんだ。
そこでカーボンの魅力に取り憑かれちゃって…釣り竿の方がよりカーボンと『対話』できるような気がして会社を辞めてこの仕事を始めた。
色んな人の要望とカーボン素材の個性を当てはめてったらここまで来ちゃったんだよ。」
ウォートホッグの最終プロトの愛おしそうに眺めるその目は、まるで我が子を愛でる母のような慈愛に満ちていた。
一馬はいつの間にかキーボードを打つ手が止まっていた。
初めてここに来た時、由美がロッドの事を『子供たち』と評していた理由をようやく理解した。
「……この世界の人間は……みな釣り好きばかりだと思っていた。
あんたみたいな超ド級の例外がいたとはな…。」
小さく呟き、2本のプロトロッドを受け取った。
去り際に一瞬足を止めて少し後ろを振り向く、部屋の隅に置かれた作りかけのロッドに目がいく。
部屋の隅で埃と蜘蛛の巣に塗れて影に埋もれた失敗作…一瞥した後、逃げるように部屋を後にした。
その足でいつも行く釣具屋へ向かう、いつも使っているリーダーが残り少なくなっていた事を思い出した。
一馬が使うのは状況や使うルアーに合わせてナイロンとフロロカーボン――フッ素樹脂、ナイロンより硬く比重が重い――を使い分ける。
双方共に釣り糸の素材としては極めてありふれた存在だが、凄まじいこだわりを持つ一馬は同じ素材・同じ太さでも複数銘柄を使い分ける事も珍しくない。
さらに、普通にシーバスを狙う時は長く付けても2mぐらい付けるところを平気で10m以上も付け、釣行中に何度も切っては付け替えを繰り返すため、消費量はとんでもない事になっている。
いつものようにカゴにリーダーをキロメートル単位で買い込み、レジへ持ってゆく。
その日はくじ引き抽選会を行っていた、3,000円ごとに一回引けるくじを6枚抜き取って店員に見せる。
「おっ、井崎さん2等、商品券2万円分当たりましたよ〜!」
左薬指に真新しい指輪の輝くネレイスの店員が、満面の笑顔で当たりの鐘を鳴らした。
2万円分と1,000円分の商品券が1枚ずつ、300円分の商品券が4枚、黙って財布に入れた。
「そういや今日、リールがポイント15倍なんですよ!」
いや、リールは間に合ってる…そう言い返そうとした瞬間、レジの真後ろに据えられたショーケースの中身が何となく目に留まった。
川面を揺蕩う小魚たち、一瞬目を離したその刹那。
凄まじい音とともに上がった水柱、それを突き破って黒鉄色の魚体が躍り上がる。
1メートルは優に超える超特大のシーバス…一馬の心臓が一気に跳ね上がるった。
イトウ、ビワコオオナマズ、アカメ、オオニベ、バラマンディ、ターポン、ナイルパーチ、ヨーロッパナマズ…そういった『怪魚』『巨大魚』と呼ばれる魚たちをあちこちで釣ってきた。
1メートル超えなどそう言った魚の中ではありふれたサイズ。
シーバスなどどこにでもいる魚である。
しかし、1メートル超えのシーバス、そのふたつのワードが重なったときに一馬の心臓をばくばくと高鳴らせるには十分過ぎるほどのものがあった。
「やっぱりここに来てたんだ。」
後ろから声を掛けられ、振り向いた先にいた由美に軽く片手を上げて挨拶をした。
あの日の後、一馬と由美は色々と意見を交わすようになった。
その流れで由美は商品の説明をするため、クロップワークスの公式サイトを作りたい事、その一方でインターネットに疎い自分ひとりで切り盛りしているからやり方が分からない事を口にしていた。
脱サラして自分の店を持つまで会社の広報担当として働いていた一馬、クロップワークスのサイト作りを買って出た。
掛かる費用は全て由美持ち、報酬の代わりにプロトのロッドを受け取る事になった。
「あとはどう釣るか、だな。」
にやり、と笑顔を見せた一馬。
選んだルアーは8センチほどのシンキングペンシル、先程川面を揺蕩いシーバスに仕留められた小魚はイナッコ、すなわちボラの稚魚を模したサイズとカラーリングをしている。
クラッチを切り、思い切りロッドを振り抜く。
初夏の陽気をつんざくメタニウムDC 70HGの耳障りな電子音、川の流心にシンキングペンシルが着水。
ゆっくりと一定のスピードで巻くと、川の流れと水の抵抗を受けて川面を揺蕩い始めた。
―――――――――――――――――――――――――――
結局、この日もいくら手を変え品を変えても全く魚の反応は無かった。
その帰り、新商品のページ作成の依頼を受けた一馬は愛車の軽バンでクロップワークスを訪れていた。
手渡されたのはベイトフィネス用のロッド2本。
片方は渓流や港の船溜まり、マングローブ帯といった狭い場所での取り回しと精度を意識した5フィート2インチのロッド、名前はウォートホッグ。
もう片方は磯や本流、湖など広い場所で遠くへ飛ばす事に特化した7フィート9インチのロッド、名前はアードヴァーグ。
ホビーメーカーで航空模型の金型職人として働く祖父母の影響で、由美はロッドの名前に航空機の名前を付けている。
ウォートホッグにはIR CT SV TW、アードヴァーグにはカルカッタコンクエストBFS XG Rightを取り付けて軽く振ってみる。
相変わらず完璧な重量バランス、今からでもガイドにラインを通して釣りに行きたくなる高揚感を振り切り、リールを大人しく片付けた。
「そういえば…そこに置いてあるブランクスは何だ?」
ずっと気になっていた。
部屋の隅に乱雑に立て掛けられたロッドの素体、ブランクスと呼ばれるカーボンの筒。
一瞬嫌そうな顔を見せ、一馬にそれを手渡した。
「前に一度作ってみた、新しい設計のブランクスを使ったもの。
作ったはいいんだけど、全体の完成度が低くて放置してた…概念実証が目的だから、名前はさしずめ『ベルクト』かな。
手に取って軽く振ってみた。
なるほど、確かに軽くてしなやか、その一方できちんと張りがある…理想的なはずなのに何か感じた違和感。
「これ、ブランクスの重心とスパインの位置が変になってる。」
ロッドの素体たるブランクスはカーボンのシートを筒状に丸めて作る、そのシートの端の辺りが重なる部分は、特に特定方向への曲がりに対する抵抗が強くなる。
そのため背骨を意味するスパインと呼ばれ、その向きに竿の曲がりが沿うように作られている。
そのスパインの向きに合わせて作った結果、ブランクスの重心が高くなって操作感が悪くなってしまった。
早い話が失敗作である。
数秒触った後、由美にブランクスを返却した。
それでも数秒間、そのブランクスから目が離せなかった。
「そういえば…あんたは普段、どういった釣りをするんだ?」
かたかたとキーボードを打つ、前々から気になっていた事を口にした。
クロップワークスのロッドのラインナップは、1g未満の極軽量ルアーを投げるアジング用から100キロを超えるような魚を抑え付けるクロマグロ用まで多岐に渡る。
どの機種でも必要十分な使用例の写真がある、その中に一つとして由美の映ったものは無かった。
ビジネスというより、ひとりの釣り人として一馬の興味を惹いていた。
「しないよ。
っていうか、釣りなんて一度もやった事ない。
生きた魚なんか触れないし。」
あまりにも予想外な回答、頭の中からコンクリートブロックで思い切り殴りつけられたような衝撃。
自らロッドを造るロッドビルダーは普通、釣りに精通した文字通り釣りバカである事が普通、それでなくても拵えたロッドを自らの手で試すのは当たり前の話である。
「前は車のチューニングパーツのメーカーに勤めてたんだ。
そこでカーボンの魅力に取り憑かれちゃって…釣り竿の方がよりカーボンと『対話』できるような気がして会社を辞めてこの仕事を始めた。
色んな人の要望とカーボン素材の個性を当てはめてったらここまで来ちゃったんだよ。」
ウォートホッグの最終プロトの愛おしそうに眺めるその目は、まるで我が子を愛でる母のような慈愛に満ちていた。
一馬はいつの間にかキーボードを打つ手が止まっていた。
初めてここに来た時、由美がロッドの事を『子供たち』と評していた理由をようやく理解した。
「……この世界の人間は……みな釣り好きばかりだと思っていた。
あんたみたいな超ド級の例外がいたとはな…。」
小さく呟き、2本のプロトロッドを受け取った。
去り際に一瞬足を止めて少し後ろを振り向く、部屋の隅に置かれた作りかけのロッドに目がいく。
部屋の隅で埃と蜘蛛の巣に塗れて影に埋もれた失敗作…一瞥した後、逃げるように部屋を後にした。
その足でいつも行く釣具屋へ向かう、いつも使っているリーダーが残り少なくなっていた事を思い出した。
一馬が使うのは状況や使うルアーに合わせてナイロンとフロロカーボン――フッ素樹脂、ナイロンより硬く比重が重い――を使い分ける。
双方共に釣り糸の素材としては極めてありふれた存在だが、凄まじいこだわりを持つ一馬は同じ素材・同じ太さでも複数銘柄を使い分ける事も珍しくない。
さらに、普通にシーバスを狙う時は長く付けても2mぐらい付けるところを平気で10m以上も付け、釣行中に何度も切っては付け替えを繰り返すため、消費量はとんでもない事になっている。
いつものようにカゴにリーダーをキロメートル単位で買い込み、レジへ持ってゆく。
その日はくじ引き抽選会を行っていた、3,000円ごとに一回引けるくじを6枚抜き取って店員に見せる。
「おっ、井崎さん2等、商品券2万円分当たりましたよ〜!」
左薬指に真新しい指輪の輝くネレイスの店員が、満面の笑顔で当たりの鐘を鳴らした。
2万円分と1,000円分の商品券が1枚ずつ、300円分の商品券が4枚、黙って財布に入れた。
「そういや今日、リールがポイント15倍なんですよ!」
いや、リールは間に合ってる…そう言い返そうとした瞬間、レジの真後ろに据えられたショーケースの中身が何となく目に留まった。
25/02/19 06:38更新 / 山本大輔
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