Phase 1 : Take back
炭素 (たんそ・Carbon)
原子番号6、分子量12.01、昇華点3,612℃(3,915K)、14族・第2周期の非金属元素。
黒鉛(グラファイト)、ダイヤモンド、フラーレン、ガラス状炭素など様々な姿を見せる。
その中でも炭素繊維は軽さと強さを併せ持ち、耐熱性や耐薬品性に優れ、見た目も特徴的であるため、医療機器や産業機械、車両や航空機、電化製品やスポーツ用品、そして…
釣り竿に使われている。
―――――――――――――――――――――――――――
「さて…と、行きますか。」
名残惜しげにごく弱い霧雨が振る晩春、伊崎一馬がドリンクホルダーに置かれていた缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
足元のゴミ入れに押し込んでからり、と音を立てたのを確認して車を降りた。
ダークグリーンの軽バンのリアゲートを開き、ロッドを取り出した。
9フィート7インチのベイトロッドは正体非公開のベイトロッドオンリーのロッドビルダー、クロップワークスが組み上げたロッド、フランカー。
セミオーダーのロッドは見た目こそ素っ気ないが造りは一級品、しかもオーダーから納品が早く価格も比較的良心的、一馬にとってはここ数年の推しである。
リールシートに取り付けられているリールはリョウガ 1520H。
円形のアルミ削り出しボディーは些か重たいが極めて頑丈、糸を巻き取るスプールは少し大きめの36mm径で太い糸がたっぷり収まる、安くない料金を支払ってメーカーの強化ギアのチューンを受けている。
漆黒の艶消し塗装がなされたボディーは傷だらけ、一目で歴戦の一台という事が見て取れる。
しかし、ハンドルやクラッチレバー、スプールといった部品は純正とは違う見た目。
一馬は自ら立ち上げたリールのパーツショップで手掛け販売する、リールのカスタムパーツを取り付けたカスタムリールである。
川沿いを少し歩き、良さげな場所を見つけると石積みの上に仁王立ちになって、15cmほどの大型のフローティングミノーを取り付け、クラッチレバーを切った。
まるで刀で斬るような無駄のない動きでロッドを振ると、驚くほど柔らかくぐっと曲がり込み、ロッドにルアーの重みが乗った瞬間にロッドは豹変し、一気に強い反発でルアーを吹き飛ばす。
慌てて親指をスプールに乗せて糸の出る勢いを殺す。
一馬がいるのは小規模河川、危うく対岸の葦の茂みに先頭打者ホームランをやらかすところであった。
少し派手な水音を立ててフローティングミノーが着水した。
前方に取り付けられたリップという板状の突起が水を受けて潜り、ぶるぶると魚が泳ぐように身を捩らせる。
川の流心付近まで巻き取っていた時、どん、と手元に野太い衝撃。
ロッドを強く煽る、ぐっと曲がり込んだ。
小規模な水柱が何度も何度も上がり、水面に魚体が何度も何度も躍り出る。
掛かったのはシーバス、標準和名はスズキ、全国の海や汽水域に広く生息する大型の獰猛な肉食魚。
どこでも手軽にスリリングな釣りを楽しめることから釣り物として親しまれている。
「やっぱりな…ここはほとんど釣り人が入らない、だから狙ったところどんぴしゃりだ。
でも小さいなぁ…。」
一馬は少し強引にロッドを立ててから一気に振り下ろした。
張り詰めた糸が一気に弛み、針が外れた。
一馬のターゲットは俗に『ランカー』と呼ばれる80センチを超えるような大物。
このように大きくないシーバスがかかった時はあえて途中で逃がし、魚体への負担を最小限に抑えている。
「幸先は良い、この調
「ここで何してるの? 」
安堵の溜め息をついた一馬、その背中からどこまでも澄んでいてどこまでも鋭い声が突き刺す。
驚いて後ろを振り向こうとした瞬間、バランスが崩れて思い切り転倒した。
フローティングベストに仕込まれた分厚い浮力体がクッションとなり、幸い身体は無傷であった。
しかし
「あ…ガイドが…」
リールから出る糸をロッドに伝わせるガイドと呼ばれるパーツ、その中のひとつが転倒の衝撃でもげていた。
一馬が改めて後ろを振り向くと影がひとつ、顔の真ん中に爛々とした大きな眼がひとつ。
闇の中に映るその眼の美しさに一瞬、心を奪われそうになる…が、我を戻すと共に込み上げる怒り。
「突然大声出すんじゃねえよ!
お陰で竿の部品が壊れた、修理代弁償しろ!」
無愛想な面持ちのサイクロプスに詰め寄る…大柄な一馬でも見上げるほどの体躯だが、怒りに乗っ取られ頭に血が上った一馬には関係ない。
修理をする事になればパーツ代や工賃といった金銭だけでなく、修理が終わるまでロッドが使えなくなるという事が大きな精神的損失に繋がる。
信用し気に入っている相棒なら尚更である。
「修理代は出せない、出さない。」
やっと口を開いたサイクロプス、その一言に一馬の怒りは臨界点寸前まで至る。
服の首元を掴み、右拳を振り上げる。
「無償修理する、ついてきて。」
首元の手をさっと払い、踵を返すサイクロプス。
仕方なく彼女の後をついて元来た道を戻り、河畔の運動公園の駐車場に辿り着く。
隣の隣に止めてある大型のアドベンチャーバイクに跨り、エンジンを掛けるのを見て慌ててロッドを積んでエンジンを掛けた。
前を走るバイク、轢いてやろうかという黒い考えが何度も何度も逡巡する。
理性の圧倒的支配が残るうちに2台は止まる。
高速道路のインターチェンジ近くの空き地にぽつんと佇む少し広い平屋の家、鍵を開けたサイクロプスは手招きをする。
仕方なく壊れたロッドを持ったままその後をつける。
奥の部屋に入ると、耳障りな換気扇とつんと鼻をつく有機溶媒の臭い
左手を差し出したサイクロプス、スナップの至近でラインを切り、ルアーをテーブルに置き、ラインを巻き取り、リールを外し、ロッドを引き渡す。
サイクロプスはカッターを取り出し、もげたガイドを固定していた部分に刃を入れる。
エポキシ樹脂の硬い糸でがちがちに固定されていたガイドの骸が外れる。
「すぐ修理して渡す?
それとも明日の朝まで預けてカスタムする?」
久しぶりに口を開いたサイクロプス、口元に僅かな笑みが浮かぶ。
初めて見せた
「お前…一体何なんだよ。」
「お前じゃなくて由美、砂原由美。
そしてここは私の工房『クロップワークス』、このロッドは私の子供たち。」
予想外の返答、ずっと心の中で振り上げていた拳を渋々収める羽目になった。
「お代はいらない、そのフランカーにカスタムしたいところがあれば言って。
せめてもの罪滅ぼし。」
その一言を待っていたかのように、一馬はずっと温めていた要望を口にし始めた。
―――――――――――――――――――――――――――
結局、愛車の軽バンに設えていた簡易ベッドで夜を明かした一馬、日の出直後にこんこん、と窓ガラスを小突く音で目が覚めた。
「できた。」
「おお……これは……!」
戻ってきたフランカーを見た一馬は感嘆の声を漏らした。
脇に挟みやすいよう僅かに延長されたグリップ、リールシートは握り込み易い形状に入れ替えられている、傷だらけだった表面もごく薄いクリア塗装で綺麗になり、ガイドを一回り大きく頑丈なものに換装、それに伴う重量増加はガイドの数をひとつ減らす事で相殺。
「悪いな、いくらそっちの申し出だったとはいえ散々わがまま言って。
俺は伊崎一馬、イサキチューニングデザインってショップやってるんだ。
これから同業として応援するぜ。」
一馬は近くのテーブルに自らの名刺を置き、出来上がったロッドを手に取って踵を返した。
「別にいいよ、実験台になってくれた訳だし。
あと…あの川、鯉のぼりみたいな魚がいるよ。」
一馬の足が止まった、目付きが変わった。
その日から一馬の日課が、生活リズムが、やる事総てが変わった。
原子番号6、分子量12.01、昇華点3,612℃(3,915K)、14族・第2周期の非金属元素。
黒鉛(グラファイト)、ダイヤモンド、フラーレン、ガラス状炭素など様々な姿を見せる。
その中でも炭素繊維は軽さと強さを併せ持ち、耐熱性や耐薬品性に優れ、見た目も特徴的であるため、医療機器や産業機械、車両や航空機、電化製品やスポーツ用品、そして…
釣り竿に使われている。
―――――――――――――――――――――――――――
「さて…と、行きますか。」
名残惜しげにごく弱い霧雨が振る晩春、伊崎一馬がドリンクホルダーに置かれていた缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
足元のゴミ入れに押し込んでからり、と音を立てたのを確認して車を降りた。
ダークグリーンの軽バンのリアゲートを開き、ロッドを取り出した。
9フィート7インチのベイトロッドは正体非公開のベイトロッドオンリーのロッドビルダー、クロップワークスが組み上げたロッド、フランカー。
セミオーダーのロッドは見た目こそ素っ気ないが造りは一級品、しかもオーダーから納品が早く価格も比較的良心的、一馬にとってはここ数年の推しである。
リールシートに取り付けられているリールはリョウガ 1520H。
円形のアルミ削り出しボディーは些か重たいが極めて頑丈、糸を巻き取るスプールは少し大きめの36mm径で太い糸がたっぷり収まる、安くない料金を支払ってメーカーの強化ギアのチューンを受けている。
漆黒の艶消し塗装がなされたボディーは傷だらけ、一目で歴戦の一台という事が見て取れる。
しかし、ハンドルやクラッチレバー、スプールといった部品は純正とは違う見た目。
一馬は自ら立ち上げたリールのパーツショップで手掛け販売する、リールのカスタムパーツを取り付けたカスタムリールである。
川沿いを少し歩き、良さげな場所を見つけると石積みの上に仁王立ちになって、15cmほどの大型のフローティングミノーを取り付け、クラッチレバーを切った。
まるで刀で斬るような無駄のない動きでロッドを振ると、驚くほど柔らかくぐっと曲がり込み、ロッドにルアーの重みが乗った瞬間にロッドは豹変し、一気に強い反発でルアーを吹き飛ばす。
慌てて親指をスプールに乗せて糸の出る勢いを殺す。
一馬がいるのは小規模河川、危うく対岸の葦の茂みに先頭打者ホームランをやらかすところであった。
少し派手な水音を立ててフローティングミノーが着水した。
前方に取り付けられたリップという板状の突起が水を受けて潜り、ぶるぶると魚が泳ぐように身を捩らせる。
川の流心付近まで巻き取っていた時、どん、と手元に野太い衝撃。
ロッドを強く煽る、ぐっと曲がり込んだ。
小規模な水柱が何度も何度も上がり、水面に魚体が何度も何度も躍り出る。
掛かったのはシーバス、標準和名はスズキ、全国の海や汽水域に広く生息する大型の獰猛な肉食魚。
どこでも手軽にスリリングな釣りを楽しめることから釣り物として親しまれている。
「やっぱりな…ここはほとんど釣り人が入らない、だから狙ったところどんぴしゃりだ。
でも小さいなぁ…。」
一馬は少し強引にロッドを立ててから一気に振り下ろした。
張り詰めた糸が一気に弛み、針が外れた。
一馬のターゲットは俗に『ランカー』と呼ばれる80センチを超えるような大物。
このように大きくないシーバスがかかった時はあえて途中で逃がし、魚体への負担を最小限に抑えている。
「幸先は良い、この調
「ここで何してるの? 」
安堵の溜め息をついた一馬、その背中からどこまでも澄んでいてどこまでも鋭い声が突き刺す。
驚いて後ろを振り向こうとした瞬間、バランスが崩れて思い切り転倒した。
フローティングベストに仕込まれた分厚い浮力体がクッションとなり、幸い身体は無傷であった。
しかし
「あ…ガイドが…」
リールから出る糸をロッドに伝わせるガイドと呼ばれるパーツ、その中のひとつが転倒の衝撃でもげていた。
一馬が改めて後ろを振り向くと影がひとつ、顔の真ん中に爛々とした大きな眼がひとつ。
闇の中に映るその眼の美しさに一瞬、心を奪われそうになる…が、我を戻すと共に込み上げる怒り。
「突然大声出すんじゃねえよ!
お陰で竿の部品が壊れた、修理代弁償しろ!」
無愛想な面持ちのサイクロプスに詰め寄る…大柄な一馬でも見上げるほどの体躯だが、怒りに乗っ取られ頭に血が上った一馬には関係ない。
修理をする事になればパーツ代や工賃といった金銭だけでなく、修理が終わるまでロッドが使えなくなるという事が大きな精神的損失に繋がる。
信用し気に入っている相棒なら尚更である。
「修理代は出せない、出さない。」
やっと口を開いたサイクロプス、その一言に一馬の怒りは臨界点寸前まで至る。
服の首元を掴み、右拳を振り上げる。
「無償修理する、ついてきて。」
首元の手をさっと払い、踵を返すサイクロプス。
仕方なく彼女の後をついて元来た道を戻り、河畔の運動公園の駐車場に辿り着く。
隣の隣に止めてある大型のアドベンチャーバイクに跨り、エンジンを掛けるのを見て慌ててロッドを積んでエンジンを掛けた。
前を走るバイク、轢いてやろうかという黒い考えが何度も何度も逡巡する。
理性の圧倒的支配が残るうちに2台は止まる。
高速道路のインターチェンジ近くの空き地にぽつんと佇む少し広い平屋の家、鍵を開けたサイクロプスは手招きをする。
仕方なく壊れたロッドを持ったままその後をつける。
奥の部屋に入ると、耳障りな換気扇とつんと鼻をつく有機溶媒の臭い
左手を差し出したサイクロプス、スナップの至近でラインを切り、ルアーをテーブルに置き、ラインを巻き取り、リールを外し、ロッドを引き渡す。
サイクロプスはカッターを取り出し、もげたガイドを固定していた部分に刃を入れる。
エポキシ樹脂の硬い糸でがちがちに固定されていたガイドの骸が外れる。
「すぐ修理して渡す?
それとも明日の朝まで預けてカスタムする?」
久しぶりに口を開いたサイクロプス、口元に僅かな笑みが浮かぶ。
初めて見せた
「お前…一体何なんだよ。」
「お前じゃなくて由美、砂原由美。
そしてここは私の工房『クロップワークス』、このロッドは私の子供たち。」
予想外の返答、ずっと心の中で振り上げていた拳を渋々収める羽目になった。
「お代はいらない、そのフランカーにカスタムしたいところがあれば言って。
せめてもの罪滅ぼし。」
その一言を待っていたかのように、一馬はずっと温めていた要望を口にし始めた。
―――――――――――――――――――――――――――
結局、愛車の軽バンに設えていた簡易ベッドで夜を明かした一馬、日の出直後にこんこん、と窓ガラスを小突く音で目が覚めた。
「できた。」
「おお……これは……!」
戻ってきたフランカーを見た一馬は感嘆の声を漏らした。
脇に挟みやすいよう僅かに延長されたグリップ、リールシートは握り込み易い形状に入れ替えられている、傷だらけだった表面もごく薄いクリア塗装で綺麗になり、ガイドを一回り大きく頑丈なものに換装、それに伴う重量増加はガイドの数をひとつ減らす事で相殺。
「悪いな、いくらそっちの申し出だったとはいえ散々わがまま言って。
俺は伊崎一馬、イサキチューニングデザインってショップやってるんだ。
これから同業として応援するぜ。」
一馬は近くのテーブルに自らの名刺を置き、出来上がったロッドを手に取って踵を返した。
「別にいいよ、実験台になってくれた訳だし。
あと…あの川、鯉のぼりみたいな魚がいるよ。」
一馬の足が止まった、目付きが変わった。
その日から一馬の日課が、生活リズムが、やる事総てが変わった。
25/02/06 18:33更新 / 山本大輔
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